ほとんど住んでいる街から出ない。特に困らないからな。とはいえ老いた父が病気とかだと、さすがに実家に寄りつかない親不孝者のワシも一度顔見せに行っておくぐらいのことはする。
というわけで5月頃に久しぶりに電車に乗って山越えて実家に帰ったんだけど、そのときに、車窓から見える風景に2つほど強く印象に残るモノがあって色々と考えさせられるものがありモヤモヤと頭に引っかかっている。新しい建物とか、奇岩とかそういう特定のモノではなく、山の中走ってる間中ズーッと気になる状態だった。1つは太陽光発電のソーラーパネルが多いなということと、もう一つは田畑の異様なありさまで、ソーラーパネルが多いのは今に始まったことではなく、こちらに引っ越してきたときにも感じたことで、山林切開いてメガソーラーとかいう二酸化炭素排出量削減もクソもない末代までバカにされるであろう愚行はともかく、耕作放棄地を放置しておくと獣やら虫の被害を助長しかねないのでソーラーパネルでも並べておくか、というのは悪くないのかなと現時点では思っている。ソーラーパネルの洗浄剤による環境への悪影響とか技術的に解決しなければならない問題はあるだろうけど、火力発電のような化石燃料だよりや、問題先送りで今だけ間に合えば良いのか?とさっぱりその必要性が分からん原発よりは将来性があるように思う。
もう一つの田畑の異様なありさまは2種類あって、一つは完全に柵やらネットやらで囲われたもので、他方は自然に飲まれかかってるものであり、新緑の季節でもあり緑の若葉も萌え萌えと温暖湿潤な紀伊半島の気候もあいまって、ちょっとジャングルっぽくなっていた。
日本も本格的に超小子高齢化の段階に入っていて、人口の減少傾向も12年連続だそうである。そして先日公表の統計では初の全都道府県での人口減少とか。紀伊半島もご多聞に漏れず過疎ってきていて街歩いててもジーサンバーサンばっかりである。若い人がいると思ったら水産加工場で働いてる外国人労働者という感じで、外国人は増えてるけど外国人労働者もそろそろ日本より他の新興工業国の方が稼げるので確保しにくくなってるとかネットニュースの見出しになってたから、おおよそ予想どおりのことが起こっている。今後も日本の人口は減っていくのだろう。異次元の少子化対策とかいまさら無駄無駄無駄、20年前には既に手遅れだっただろうし、そもそも経済発展して社会が安定すると少子化はお約束のようで、先進国全体見回してもどこも逃れられていないようだ(米国がマシなのは国内に途上国があるかのごとき格差社会だから除く)。とはいえ、日本と韓国だけ異様に状況悪くてこの東アジアの端っこの二つの国は何をやってるんだという感じ。高緯度の国の方が自殺率が高いという法則にもこの2つの国は例外となっているとか、うすうす気付いてはいたけど両国とも”先進国”ではないのかもしれん。先進国っての自体がユートピアみたいな想像上の概念でしかなく実在しないのかもだけど。
人が減る、とくに不便な山間地とかは全体的な数値情報で見るより極端に減っている気がする。人がいなくなったらそこを放っておくほどに野生生物というか自然は甘くない。フクシマの避難地域でも人がいなくなった集落には野生動物がはびこっておいそれとは帰れなくなってしまっていると聞くが、同じようなことが人が自然に減って過疎化した山間地でも見られる。なにしろ以前にも紹介したようにチェルノブイリでは放射性物質の蓄積やら放射線による被曝よりも、人間活動がなくなったことによる利点が勝って、野生生物が闊歩する聖域が出現したぐらいで、人がいなくなると自然はすぐにそこを奪い返す。庭をお持ちの人ならちょっと放置しておいただけで、種が飛んできたり運ばれてきたりして勝手に草が生えてきて、手入れしなければすぐに藪に埋もれるというのはご存じでありご理解いただけるのではないだろうか。
でもって、紀伊半島の山間地にはすっかり野生を取り戻したジャングル状態の耕作放棄地と、必死で野生動物の侵攻から、柵でネットで砦をつくって抵抗している農地とが目につくのである。我が街は海辺の街で病院もある比較的大きな街だけど、それでもすぐ後ろに山が迫る土地であり、川で釣りしてたらイノシシやらシカはでるし、港のそばの山にはニホンザルが棲んでいて、たまに人家のあるあたりにも出没して、爆竹バンバン鳴らして追っ払ってるみたいだけど、あんなもんすぐに慣れてしまうだろうしどうにもならんだろう。たまに防災無線放送が猪だの猿だのの目撃情報を伝えてて怪我人でんことを祈るのみである。全国的にも作物荒らされるのとかはホント大変らしく、今時の農家はGPS付きの発信器サルにつけて動向把握したり、猪だの鹿だのがかかってるかスマホで確認できて見回りの手間省ける罠による防衛体制構築したり、ネットでも話題になってた”ロボオオカミ”をかかし代わりに設置したりと、生活かかってるからやられたら死活問題なんだろうけど、どうにも苦戦を強いられているようだ。
っていう田畑の荒れた状況を目にするにつけ、我が国の食糧は大丈夫なのか?と心配になる。っていうかそのうち食糧危機は来るんだろうなというのは薄々感じている。正直コロナ禍のような伝染病の世界的流行は医学の進歩したこの時代に生じるとは思ってなかったけど、気候変動の影響はモロに感じるところでありちょっと世界の穀倉地で不作がきたら、ブラジルだったかがトウモロコシとかから作るバイオエタノールの利用を政策に掲げたときにやりやがったように、穀物メジャーとか投機筋とかのクソどもが買い占めに走って、食糧全体では足りるはずなのに貧乏人からわり食って餓死するような世界的な食糧危機は来かねんと思っている。一昔前なら日本は金持ちだったから買ってくりゃ良かったけど、だんだん貧乏になってるから心もとない限りである。ただそうなっても、日本にゃ減反せにゃならんぐらい米作る能力あったし、餌肥料原料やら輸出に回してる水産物をオカズに回せば餓えはせんだろとたかをくくってたけど、どうも今時の田畑の荒れっぷりを見ると不安が拭えない。せいぜい釣りの腕を磨いておいて最悪オカズぐらい釣ってこられるようにして備えておこう。幸いアジ釣りはアミコマセも買わんですんで、刺し餌も切り身餌でもいけるような技術は開発済みなので釣り餌の流通止まっても、道具は充分在庫してるし釣り続けられる技術はある。
でもって、野生生物が復活してくると、まずは田畑が狙われるんだろうけど、当然直接的な衝突も確率が上がってきて、クマに食われるなんて恐ろしいことも実際おこってるし、可愛いイルカにさえ襲われて怪我人が出るありさま。ぶっちゃけ一対一ではホモサピは弱すぎる。人は万物の霊長とか威張れるほど強くないし、野生動物は可愛いだけの無条件で守るべき存在じゃない。ってのを思い知らされる。イルカみんな可愛い可愛いって一緒に泳ぎたがるけど、潜在的にはサメと比較しても頭が良い分まだヤバいぐらいの危険性は孕んでいる。海水浴場に現れた1mかそこらのアカシュモクザメとか、殺傷能力としては同クラスのサワラ程度で特段騒ぐほどの危険性もないと思うけど、イルカはサイズからしてデカいから友好的な個体なら一緒に楽しく泳げるかもだけど、人間に追いまわされてイラついてたりして数百キロの巨体で体当たりされたら、それだけでもホモサピ撃沈状態だろう。人間も生態系の一員で、状況によっては人間をぶちのめしたり、食ったりすることができる生物っていうのは、病原生物はじめいくらでもいて、中には人間をバリバリ頭から囓って食ってしまえる生物もいるっていうことを、そういう緊張感と怖さをクマに教えてもらうというのは、自然との付き合い方では重要なことのように感じる。本州は雑食性の強いツキノワグマだから大丈夫とかいう根拠のない油断は、数年前の”人喰い”ツキノワグマで完全に誤りだと証明された。生物はその種の特徴も持つけど、それ以上に個性ももっていて、今北海道で話題になってるヒグマは”牛殺し”という往年の大山倍達総帥のようなグルメな個体ってなぐらいで、人喰うツキノワグマもいたし、人に怪我させるミナミバンドウイルカ?もいるんである。野生動物との距離感は、それが絶滅を心配しなければならないような段階においては、可愛い、カワイソウで保護的な視点で接するのも悪くないんだろうけど、人の田畑を安全を脅かすまでになった場合は、もっと緊張感のある関係性を築かねばならないのではないだろうかと思う。お互い不幸な接触を避けるように、ある程度野生動物にも人間の怖さを思い知らさねばならんだろうし、人間側も相手方の恐ろしさをよく知りビビっておく必要があるように思う。
野生生物の恐ろしさというなかに、寄生虫やら病気を運ぶという部分も含まれていることもわすれてはならないだろう。シカの個体数増加はヤマビルとマダニの生息域の拡大を招いているようで、ヤマビルも気色悪い吸血生物だけど、マダニは厄介な病気を媒介するのでなおたちが悪い。そう、人畜共通感染症の媒介なんてのも当然あるっていうのは、いわゆる新型コロナウイルスがコウモリ由来と言われているのなんかも記憶に新しいだろう。
ワシ、コレまで来し方思い起こすと、自然を大切に、野生生物は守りましょうということを言い続けてきたと思っている。でも、ここに来て日本から人が減ると同時に、ある局面においては、野生生物から人の生活を命を守りましょうって、天邪鬼のつとめとして言った方が良いように思うことがしばしば生じている。高度経済成長期の残り香を感じるバブリーな自然破壊の時代を生きてきたワシ、あれほど自然というのが壊れやすく、数を減らしやすいと思ってた野生生物が、種によって場所によって大きく状況違えども、人が減ったら個体数が増えたことによって困り始めているという事実に驚き、喜び、狐につままれた気分になり当惑し、どうしたものか考えあぐねているというのが正直なところである。
とりあえず、明らかに増えすぎた野生動物の個体群においては数を減らすような調整が必要だろう。そのためには欧米ではオオカミの再導入とかもやってるようだけど、どれほどそれが効果が大きくとも、畜産農家や下手をすると人の命に被害が生じることが想定できる限り、我が国ではやるべきではないと思っている。となると猟師による間引き的な捕獲が望ましくワシは思うんだけど、これが”カワイソウ”とか言い出す動物保護論者やら、あげくには有害鳥獣駆除でも住宅地では発砲は禁止されているから銃で駆除しちゃダメとか、頭の湧いた判断をしやがった司法当局とかがいて、後者はあきらかに”危険回避(≓刑法37条関係の緊急避難)”のための措置であり、通常の法令の定めより優先するのではないのか?しかもそういう暗黙の了解な運用で警察官立ち会いで安全面にも配慮しつつ、これまで猟友会が慣例的に行ってきた住宅地付近での猟銃によるクマの駆除が違法とか、人が安全に過ごせるようにルールを定めた”道具”である法令を妙なこだわりで原則主義的に絶対視して、結果差し迫った危険から逃れる術を奪っているという本末転倒ぶり。「箱罠で捕らえよ」とか言うんだろうけど関係司法当局担当者には、ヒグマが民家のドアだの窓だのぐらいぶち破って入ってくる能力があることをご存じないのか?オマエ、いつ箱罠にかかるかもわかりゃせんヒグマがうろついてる集落で生活してみろ!って言いたい。クマだって撃たれりゃカワイソウだけど、個体数増えて人里にはみ出してきた、あるいは人里のゴミとかの餌に餌付いてしまった個体は、罠で捕獲して山奥に放しても、また下りてくるだろうし、人的被害が出る前に可及的速やかにテッポで撃ってクマ鍋にでもしてヒンナヒンナしてしまうのが合理的だと思うけどどうなんだろうか?
いずれにせよ、昨今は増えすぎた野生生物はありがたく利用していこうっていう流れにはなってきていて、”ジビエ”という概念も人口に膾炙したように思う。猟師さんには頑張って欲しいけど、猟師さん達もご多聞に漏れず高齢化が進んでいて、新規参入者も増えてきてはいるようだけど、先日の猟銃使った殺人事件のようなことが起こると”猟銃の規制”をとか言い出すやつがまた出てくるのは明白で、まあ銃ってどっちかって言うと狩猟よりは戦争で発達してきた道具であり、人が効率的により容易に殺せる道具なので、その数が多ければそれだけ人が死ぬ事故事件は増えるだろうとは思う。アメリカでどんだけ銃撃事件があるか考えたら、あんまり沢山あることは好ましくないだろう。とはいえ熊でも猪でも野放しにしておけばこれまた人的被害を生じさせかねず。そこはそれ現在でも猟銃の所持には様々審査手続きがあってやっと許可がでる仕組みが設けられているので、野生動物と闘う武器としては必須のようにも感じるので、あればそれが人に向けられる事態は事故事件どちらも生じうるけど、それは昨今における狩猟の持つ役割の重要性を加味して、今までどおり運用していくしかないと思う。極論すれば猟銃で死ぬ人間と猟銃で撃たなかった野生動物が殺す人間の数(田畑や家畜をやられて首くくる人含めて)を天秤にかけて考えようねって話。
子供の頃、野生動物が増えすぎてどうするか考えなければならない、なんて未来が来るとは到底思えなかった。それほどに人々は自らの便利で快適で贅沢な生活に惑溺し、自然環境や野生生物の保護になどには関心がないように見えた。にもかかわらず、突き詰めると人口が減り始めたというしごく単純な要因で野生動物達はしたたかに産めよ殖やせよ地に満ちよと、ホモサピに対する逆襲であるかのようにふるまい始めた。問題は多く、心配も当惑もするけど、痛快でもある。