2018年3月31日土曜日

永遠が踏まれたオルゴールを引っかけるためのかまぼこ

 不調である。釣りの方は実はそれ程気にしてなくて、今は不釣でも腕を上げつつある過程であると思えていて、ほっときゃそのうち釣れ始めるだろうぐらいにのんびり構えている。とまでは達観できてないけどまあなるようにしかならん。

 危機的に調子悪いのは読書の方で、昨年末ぐらいから特に小説が読めなくて、ちょっと読み始めてもすぐに集中力が切れてしまう。マンガとラノベも今一で長時間読めないけど何とか出た新刊ぐらいは読み進めている。読みたくて、ある程度面白いだろうことが予想できる本が端末に落としたまま何冊もたまってしまって積ん読状態。

 このまま小説が読めなくなったらどうしよう?積んであるのはもちろんこれからも面白い小説なんていっぱい書かれるはずなのに。
 なにか調子を取り戻すいい方法はないだろうか?
 一番良いのは、ページをめくるのももどかしく読み進めざるを得ないような一気読み系の読まずにいられない小説を読む。と、考えた。読まずにいられないんだから読めるだろう。

 でもそんな小説あるんならとっくに読んでるって話で、簡単に見つかるわけがない。
 ンンッ?とっくに読んでるって?だったら読んだことあるやつをもう一回再読すれば良いジャンよ。と思い至った。

 小説を読む楽しさを知ったのは、中学生ぐらいころだったように思う。以降、最近はマンガの比率が増えてて読む量減ったけど、よく読んでた頃は年間100冊ぐらいは読んでたと思う。面白いと何周も再読したりするので単純に100冊かけることの読んだ年数ではないにしても千をくだらない小説を読んできたはずで、その中でもっとも面白い小説をとなると選ぶだけでも一苦労である。

 今まで読んだ中で最高の小説をと考えると、「人間失格」「夏の闇」「ザ・ロード」「アラスカ物語」「コインロッカーベイビーズ」「新興宗教オモイデ教」「1984年」「老人と海」「水域」「勇魚」あたりがぱっと思いつく。
 このあたりからも既に傾向と対策が透けて見えて、なんというか文学でもロシア英国あたりの教養の香り漂う作品じゃなくて、SF系と無頼派というか穀潰し系というか、お行儀の良くない方が好みのようである。あと、やっぱり海が好き。
 最近の作品だと「沼地のある森を抜けて」「パンク侍、斬られて候」とかすばらしいと思った。前者はSF臭というか科学の臭いがするし後者はタイトルからして無頼派で格好いいし作者も格好いい。
 「自伝的青春小説にハズレなし」は本読み仲間のケン一の格言だけど「青春を山にかけて」「早稲田三畳青春記」とか確かに名作めじろ押しだ。 
 あと気が狂ったように一つのことに打ち込む人間の業を書いた作品というのも胸に刺さってくる。「鮎師」読むと他人事とは思えないし「世界ケンカ旅」の超絶っぷりは痛快至極。

 でもまあ、面白い最高の小説っていったら、私にとっては中島らも先生なんである。  
 よし、久しぶりにらも先生の小説を読もうと思って、やっぱり「今夜、すべてのバーで」だろうなと、何度目になる再読か分からないぐらい読み返しているけどまた読んでみた。
 面白い。最高。
 さすがに徹夜一気読みとは行かなかったけど、3日ほどで読了。
 人生最高の小説は現時点では「今夜、すべてのバーで」でゆるぎない。

 なにが面白いって、まあ読めば分かる人は分かるだろうから読んでくれなんだけど、今回改めて唸らされたのは、言葉遣いの感性のどうにもならない趣味の良さで、作中でも触れられてるけどダダイズムやシュールレアリズムの作家や詩人が好きで愛読していたというあたりがしのばれる、退廃的で醜悪なのに美しく尊さを感じさせる流れるような言葉の連なり。

 らも先生のそのへんの言葉選びの秀逸さを端的に例示するなら「永久も半ばを過ぎて」という格好いい小説の題名だけでどんぶり飯おかわりできる。
 ネットで一番格好いい小説の題名は何かという話題になったときに「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」とかの海外SF勢が席巻する中でも必ずといって良いぐらいに上がってくる。
 大槻ケンヂ先生もエッセイでこの題名について激賞していた。
 これで中身がショボければしょうもないんだけど、もちろん中身も面白い。確か若い頃のケン一が読んだあとに「オレも小説とか書けるようになれたらなと思わんこともないけど、こういうの読むと無理やと思うな。上手すぎる。」と言ってたように記憶している。
 オーケン先生に至っては、らも先生の文体を盗みたくて、小説一冊丸々書き写したそうである。後にらも先生本人に「大槻君、僕の小説お経とちゃうねんで」とたしなめられたそうである。
 まあ、そのぐらい素晴らしく、人間失格系のひねくれた人間には堪えられない妙なる響きの言葉を紡ぎ出しやがるんである。

 もともと広告屋のコピーライター出身で、言葉一つ一つの吟味には気合いが入っているように感じる。そのあたりは開高先生とも共通点が多いようにも思う。
 例えば対義語を並記する文体とか似ているといえば似ている。
 ただ開高先生の言葉使いは、「静謐にして豪壮」とか、文豪らしく重く堅く「豪奢」な感じがする。なんというかほのかに漢詩の匂いも漂ってくる。
 対してらも先生の言葉遣いは詩を感じさせる。
 今回読んでてうまいなと唸らされた表現に「天使の翼と悪魔の羊蹄を持った女」というのがあったけど、女性の内包する矛盾した二面性を表現するのに天使と悪魔を持ってくるのは、さらに天使について翼を持ってくるのはどこの馬の骨でもできる。
 でも「悪魔の羊蹄」は書けん。
 間抜けなら「悪魔の牙」とか陳腐なことを書くだろうし、頑張って「悪魔の顎(アギト)」でも中二臭いだけだし、なんからも先生を上回るような格好いい言い回しがなかろうかと考えても「悪魔の尻尾」とおちゃらけて滑稽みを出すのが精一杯な感じである。
 悪魔といって、三つ叉槍を片手に尻尾ぶらぶらさせている今時な悪魔じゃなくて、悪魔崇拝のサバトで呼び出すような、頭と下半身が山羊の本場欧州産の本格的な悪魔を連想させるのに「ひずめ」はこれしかないという言葉だと感服する。悪魔崇拝のはびこるような時代の欧州の退廃的な文化の香りと半獣の悪魔の不気味さを表すのに、逆間接の山羊の脚を持ってくるのは、傑作SF「ハイペリオン」の中で巡礼者の一人である詩人が脚を山羊の脚に改造しているというのと相通じるものがあり、その山羊の脚でも象徴的に一言で切って落とすなら「ひづめ」となるだろう。
 と読んでて思って、今回ネタにして書こうと思って「ひずめ」と打って変換すると「蹄」は出てくるけど「羊蹄」は変換候補に出てこない。
 「羊蹄」は北海道の羊蹄山の「ようてい」か植物名の「ギシギシ」としか普通は読まないようだ。
 でも言葉の流れからいって「ひづめ」と読むのが自然で、よしんば「ようてい」と読んだとしても意味としては「ひづめ」で間違ってないと思う。でも、なんで「蹄」じゃなくて「羊蹄」としたのかというのをつらつら考えてみたら、たぶんらも先生が愛読していた詩に「悪魔の羊蹄」っていう言葉があったんだろうなと、改めてらも先生の教養に憧れを覚えるとともに、翻訳者が「蹄」じゃなくて「羊蹄」としたのは、悪魔の脚が山羊の脚なんだというのも想起しやすかろうと選んだのか、あるいはギシギシの漢名である「羊蹄」の元々の語原に羊の蹄的な意味があるのを知ってて使ったか、いずれにせよこれまたその教養というか言葉選びの巧みさに感心するのである。

 言葉ってことほど左様に面白くて味わい深くて、その言葉で積み上げた小説っていうのも、やっぱりどうしようもなく面白いと、最高に面白い小説を読んで再認識したところである。

 これからも面白い小説を読みたい。と思うと同時に、私にも「天使の翼と悪魔の羊蹄を持った女」ぐらいの格好いい一言半句が書けたならどんなに素晴らしいだろうと身悶えする。お気楽ブロガーの身には高望みに過ぎるとしても、なんとかならんもんやろかと思う。
 たくさん読んでたくさん書くしかないんだろうなと思うので、10年書いてきたし、ちょっと面白いことを書き続けて、良い言葉が降ってきたら逃さず書いちまえるようにしたい。

2018年3月23日金曜日

10周年!

 この「ナマジのブログ」とウェブサイトの「週末顛末記」が今日で何と開設10周年を迎えた。
 アッという間でちょっと前にカキカキ書き始めたようにも思うんだけど、つらつら思い起こすと10年経つ間にはいろんな事があった、楽しいことや嬉しいことも辛い事や哀しいこともあった、そして君がいて僕がいた。

 ぶっちゃけ、学生時代から大学ノートに「釣り日記」をつけていて、その流れで、週明けに釣り仲間に釣果報告をメールで送りつけるという、押し売りメールマガジン方式を経ての「週末顛末記」の開設だったので、釣果報告書くこと自体は習慣であり、10年でも20年でも何の苦もなく続けていける自信はあった。

 でも、わざわざ公開にして人様にも読んでもらえる形にしたのは、声を大にして書きたいことも種々あったからで、書きたかったことをつらつら上げていくと、まずは「釣りの楽しさ」を伝えたかったというのがあった。みんなに釣りの楽しさを知ってもらって、もっと魚をはじめとした生き物や自然に興味を持ってもらいたかった。
 このあたりは上手くいったと評価すべきか、全然ダメと評価すべきか自分では評価しようがない。「誰でも簡単爆釣テクニック」「ここに行けば釣れる丸秘ポイント」的な安パッチイ情報を乗せてこなかったので、端的に言って読者が少なくあまり多くの人に釣りの楽しさが伝わらなかったのではと反省する。なにしろ更新する週末の閲覧数から推定して50人くらいしか読者がいない。かつ、たぶん半分ぐらいは知人である。
 「釣りの楽しさ」については、やってる本人楽しくて、そんなに難しいこともやってないつもりなんだけど、果たしてどのくらいの人に伝わったのか心許ない。でもマニアックなここにしかないような情報に食いついてくれた人とかもいて、情報の独自性には自信があるので、ここで調べられなかったらどこにもない的な情報を公開して検索できるところに上げてあるということは、それなりに意味はあるのかなと感じている。

 「釣りの楽しさ」の裏面にある「釣りのしんどさ苦しさ」についてもしっかりと書いておきたかった。釣れてる情報ならいくらでもこの情報社会にはあふれている。でも、本当は今まさにシーバス10連敗中なんていうしんどい状況にあるけど、釣れなくて上手く行かなくて悲しく苦しいことも多いんである。それを伝えずにして釣れてるところばかりの場面を編集して「こんなに釣れて楽しいんですよ、道具買いましょう!」ってやるのはやり方が阿漕というかえげつない。
 やっぱり難しさもあって、苦労するけど、だからこそたどり着ける楽しさ面白さもあるんだよっていうのを、書いておきたかった。このあたりは結構書けたと自負している。食らったスカの数で魚を釣る釣り人ならではの、釣れないときの愚痴と怨嗟に満ちた釣行記はウチの売りの一つだと思っている。サイトの方でアクセス数カウンターがあったころ、一番閲覧数稼いだのはフロリダでのターポン惜敗だった。人の失敗は蜜の味という趣味の悪い読者ばかりではないと思うので、「釣りのしんどさ苦しさ」に共感を持って読んでくれた読者様がいたんだと思って励みとしている。

 道具の話も、新製品が出るまで使って古いのは中古屋に流してしまうような釣り具とのつきあい方って寂しいと思ってて、自分の手元にきた道具との一期一会を大事にして、自分の手になじませて楽しんでいくと、気分良く釣れるという精神面だけでなく、限界値やらあしらい方の分かった道具っていうのは実釣面で釣り人を助けてくれるんだよ、というのを書いておきたかった。それを釣果を示して証明したかった。
 「スピンフィッシャーで十分です」なんて書かれると、釣り具売る側は困っちゃうから、必死になって粗探ししてくるけど、ドラグの最大値がとかハンドルの強度がとか、ドラグ値10キロ以上に上げられるような特殊な上級者の釣りには必要かもしれないけど、ふつうの釣り人には全く必要ない性能で、PENNで充分と何度も書いてきたし、キハダの20キロオーバーもロウニンアジの30キロオーバーも人の背丈ぐらいはあるクロトガリザメも強化ハンドルさえつけていない純正パーツのスピンフィッシャーで釣って、少なくともリールには何の不足も感じなかった。証明終了。
 いわんや普段釣ってるシーバスごときスピンフィッシャーでも贅沢ってもんである、スピンフィッシャーの滑らかなドラグ性能が生きるのはむしろコイ掛けたときぐらいで、スピンフィッシャー以下の性能のリールでもなに不自由なく釣れると思う。
 シーバスぐらいのスピードなら、ドラグがお粗末でも、ハンドル逆転させてとかの古のテクニックでも釣れるはずである。
 シーバス釣りにおいては道具に要求される性能はわりとどうでもよくて、それ以外の情報だとかが重要で難しくて面白いと思ってるんだけど、どうなんだろう。最近釣れてないのでちょっと自信がない。

 あと書きたかったのは、最初の釣りの楽しさに関連するんだけど、釣り場と魚を守ることで、魚いなけりゃ魚釣りなんてしてもつまんねえダロって話で、コンクリートやら大量消費やらに文句つけて、説教臭くなってもクドクドと書いている。読んであんまり楽しくない記事かもしれないけど、誰かの心に届いて何かが変わる可能性があるのなら、書いておくべきだろうと思っている。

 本当は、ブログでは生物ネタとか道具ネタとか、楽しくノリノリで書けて読者も楽しんでくれるだろう記事を書いていればいいんだろうけど、楽しくなくて書いてて悩んでしんどくて難しくてというのも、何かを感じて書かなければと思ったのなら、書くことに挑戦していこうと思っている。

 10年変わらず釣りに情熱をもち、週末顛末記の名に恥じない更新状況で続けてこれたこと、ここにしかない情報をその情報がほしい人に届けることが多少なりともできたらしいこと、書くことによって知り合った釣り人と楽しい釣りができたこと、なんてことがとても誇らしくうれしい。

 多くの人が喜ぶ情報の発信なんてのはいまさらできないと思うど、今読んでくれている50人がきっと満足する、でもって自分で後で読み返してもクスッとできるような隙間産業的なネタを狙って書いていきたいと思うので、これからも引き続きよろしくお願いします。

2018年3月17日土曜日

坊主憎けりゃ今朝まで憎い

 シーバス7連敗中で昨夜もスカ食ってしまった。
 もう釣り方忘れているような気がする。どうやって釣るンだったっけ?

 とはいえシーバス釣りってハズすとこんなもんで、釣れないときには箸にも棒にもかからないっていうかハリに掛からない。
 そもそも1~3月のシーバス釣りって、寒い最中に海にルアーを洗いに行くような釣りであったはずで、南房総に産卵期のはぐれ個体が接岸するのを狙いに行っていたその昔には、魚掛けたら高確率でその寒いシーズン、最初で最後の個体になると分かっていたので死ぬほどドキドキしたし、あげたら脳内へんな汁がビュルビュルッっとほとばしって快楽に打ち震えたモノである。

 以前過去データ整理したときに、1~3月のシーバス釣り、10数年で80日ぐらい釣りに行って60日スカ食ってるのを紹介したけど、実際には3月後半の港湾部のバチ抜けの釣果が多くて、1月2月のデータで見たらもっと酷い有様だし、南房総の冬のサーフや地磯で釣った魚は、10数年毎年何回か挑戦していたけど、数えるまでもなく2匹しか釣っていない。確か73と66とサイズは良かった。ちなみにヒットルアーはコモモ125とフラットラップ10。だからこいつらは信頼できるんである。冬の海で洗ってきたルアーだもん。

 それが、ダイキリさんの連夜の出撃データと照らし合わせて、1~3月のバチパターンのハメ方がある程度分かってきて、近所ポイントで実釣を重ねてそれなりに「計算できる」と思える程度にはなってきていたので、釣れて当たり前ぐらいに傲岸不遜にも思いあがって自惚れて天狗になって調子に乗って粋がっていた。
 ある程度「計算できる」というのは間違っていないと思う。今季も1月から開幕ダッシュ成功で前半調子よかったし、多分今後何年とか長い期間で見ていけば平均的にそれなりに釣れてこの時期型の良いのも釣れるのでスズキ様もそれなりに釣れてくるだろう。
 だとしても、天気やら魚のご機嫌やらなにやらで、釣れなくても当たり前の釣りなんである。この程度のスカでへこたれてシーバス野郎がつとまるかというところ。この程度の苦戦は過去に何度も何度も経験してきたはずである。

 苦戦してスカ食っても、漫然と考えもなしに釣ってたんじゃなくて、一所懸命その時々で考えて釣れる確率を高めて釣り場に向かったとき、決してその釣りは無駄にはならず貴重な情報の蓄積になったり、精神的苦痛に耐える修行になっていたりする。はずである。
 「はじめの一歩」だったかのボクシングマンガでボクサーは過去食らったことのあるレベルのパンチまでなら耐えられるという話が出てきた。まあ実際には物理的に脳を揺らされて意識飛ばされたら耐えられるもクソもないんだろうけど心情的には良く分かる。
 10年以上やって2匹とかの苦戦に比べれば7連敗ぐらいどうってことはない。
 かつ、シーバス的には7連敗だけどコイだのマルタだのは釣れていて、魚の引きは楽しんでいて、別に本命じゃなくても楽しめる性格で良かったと思っている。ヘラ釣りも同時並行でやっていて、こちらはしぶとく釣果を出せているのもシーバススカ食っても耐えられる英気を養う一助となっている。
 南房総に車を走らせていた頃も、さすがにスカ食うのが当たり前の釣りだけではアクアラインを越える気力が湧いてこないので、良い潮のうちにシーバス狙っておいて、帰る前にシーバス探してさまよっている間に目星を付けておいた場所に入って、マアジとかマイワシとかオカズ釣りを楽しんでいた。
 一発大物を狙いに行くときには乗るかそるかの勝負であり、保険かけて小物の準備とかしていくべきじゃない、大物に集中しろという意見も読んだことがある。確かにそうだろうなと思うし、そういう厳しさがないから大物釣り師になれないんだろうとも思うけど、せっかく出かけたのに何も釣れずに帰ってくるのって寂しいジャンよ。
 というわけで、コイでもマルタでもボラでもエイでもどんとこいで、もうしばらく近所ポイントでシーバス狙ってみたい。まだ例年バチパターンが崩壊する頃にあがってくるハクが見えてないのでもうしばらくやれるのではないかと思っている。
 とりあえず、明日明後日の予定だったんだけど、やっぱり嵐が来そうな予報になってきて今日行っとかないとしばらく機会がなくなるかもしれない。

 ということで、昼寝したらまた天気予報見て作戦考えてみたい。
 ライン巻き替えて、ルアーのハリ先をチェックして、やることはもう決まってる。淡々とやっておきたい。

2018年3月9日金曜日

春が来る、暖かい雨の夜に


 先週の日曜夜に釣りから帰宅したら、同居人が今夜はカエルがいっぱい出てきてたと何枚か写真を見せてくれた。写真はそのうちの一枚。

 ガマ合戦の季節だなぁとカエル好きはしみじみと思う。
 ガマ合戦とはヒキガエルが早春の暖かい雨の夜とかに一斉に冬眠場所から這い出てきて池とかに集結、数日間メスを巡って組んずほぐれつゲコゲコと鳴き声も騒がしく産卵行動を行う行動である。
 都内の街中とかでも大きな公園なんかでは噴水池めがけて集結中のガマたちが池に到着する前からメスに群がってカエルのダンゴになって足下に転がってたりして、ロマンチックに夜のデートなどしてけつかる都会的なカップルが恐れおののいていたりする。
 カップルがビビるのも当然で、どこにこんなにカエルおったんじゃ?とビックリするぐらいの数が集結する。
 もともとヒキガエルって超省エネで非競争的な生き物で、餌も腹減らなかったら食べにねぐらから出て行かないってぐらいで、公園内に沢山住んでいても時差出勤していて一度に沢山のカエルが行動していること自体がガマ合戦時除くとほぼない。
 かつ行動範囲が広くって、産卵場所自体は狭い池だったりするけど普段住んでる場所は公園内に限らず公園を出た道路の植え込みだったり人んちの庭だったりいろんな所に散らばっている。
 
 我が家の周りでガマ合戦してるだろうと私が予想している場所は、川向こうの崖を登った学校の池で、我が住宅の敷地内からガマ合戦参加しようと思うと、さすがに川の垂直護岸は越えにくいので、橋を渡って迂回して崖を登って参戦していくのだろうと思っている。夜出かけたけど朝冷え込んで動けなくなったのか橋渡ったあたりの道の真ん中でボテッと落ちているのを出勤途中に拾ったことがある。車にひかれちゃ可哀想なので崖の藪に移動させておいたけどあの年彼か彼女は参加しそびれたのか参加後帰り損なってたのか。
 月曜に雨が降っていたのでガマ合戦は月曜に始まった可能性が高いと思う。うちの住宅敷地内のガマたちが日曜に穴から出てきたのは、ガマの足で1日かかると分かった上での前夜の出立だったのだろう。早く着いたぶんには待てば良いしね。
 ガマの歩みは遅いけど結構登坂能力はあるので着実に歩いて行く。ちゃんと道順覚えていて、到着時間も予想してるとしたら、両生類って言って想像するよりもずいぶん賢い生き物のように感じる。
 そういう賢さの他に、1日前に土の中で明日の夜雨が降ることを知る能力とか、湿度とか気圧の変化なんだろうけど不思議な能力だなと思う。ちょうどその翌日火曜日が冬眠してた蛙や虫が穴から出てくる「啓蟄」にあたってて、昔の人の自然をよく見ていた感覚にも敬服する。ちなみにヒキガエルはガマ合戦の後もう一度穴に潜って寝ます。オタマジャクシ達の成長と餌の関係からこの時期生むのが最適なんだけど、大人はまだ餌も少ないし寝ていたいというのを知ると、なかなかどの生き物でも親の愛って偉大だなと感心する。

 我が家の周りに棲んでいるヒキガエルは多分標準和名でいうところのニホンヒキガエルだと思っている。鼓膜が小さくて目から離れているので見分けるんだけど正直自信がない。関東には本来アズマヒキガエルが分布しているはずで、街中の公園とかにニホンヒキガエルが多いのは昔解剖用とか実験用に出回ってたのが逃げ出して定着したのではといわれている。ということで「国内移入種」だけど鼓膜がちょっと小さいぐらいの違いがどうしたってんだ、近所にガマが住んでて毎年合戦してるっていう楽しい事実の前にはそんなこたぁどうでもいい気が強くする。

 最近、ヒキガエルネタがネットでも飛び交ってて、冬眠中に頭食われたまま生きてた北米のヒキガエルの写真にビビらされたり、ミイデラゴミムシの仲間がカエルに食われても胃袋吐き出させて生還するとか、カラスがオオヒキガエルを食うとかなかなか興味深かった。
 ミイデラゴミムシの話はそんなモン当たり前じゃん何が論文にするほどの発見なのか?といぶかしんだ。ミイデラゴミムシはケツから2液性の毒霧噴射して科学反応で高温の屁をこくヘッピリムシとして名を馳せているし、カエルが蜂とか食べて胃を刺されると胃ごと毒虫を吐き出す行動もカエル好きならご存じのはずだ。
 でも、記事を読むとなかなかに興味深く感心した。ミイデラゴミムシ食われて吐き出されるまでに数十分とかかかっても胃の中で生きてて、他の似たようなゴミムシでは同じ時間で生存していることはほぼ無いので、吐き出されること前提にカエルの胃の中で生き延びるため何らかの進化適応をしているらしいとのこと。数センチのゴミムシが化学兵器で闘い胃酸の中でも生き残る術を持っているとか、なんとも生き物は不思議で面白い。ミイデラゴミムシの仲間は黄色に黒点が目立つ毒虫色で割と珍しくもない虫なので、見つけたらその屁の匂いをかいでみるのも一興かと。高温で焼き付けるので匂いなかなかとれないそうで、かぐときは自己責任でお願いします。

 オオヒキガエルを食うカラスの仲間の報告は映像付きで、周りで他のカラスがこわごわ様子見しているなか、1匹が悠々と晩餐を楽しんでいる感じだった。英国での話だったけどオオヒキガエルは外来種のはずで、欧州産ヒキガエルの食べ方は知ってても毒性の強いオオヒキガエルを安全に食べるには試行錯誤があったはずである。失敗して犠牲者が出ていてもおかしくない。なにしろ哺乳類の捕食者が少ないせいか毒蛇天国のオーストラリア大陸ではオオヒキガエルのせいで命を落とす毒蛇がいて毒蛇の方の被害が問題になっているぐらいだ。
 でもそこは鳥類どころか現生の生物全体でも上位に来るぐらいの知恵者のカラス様である。ちゃんと心得てお作法を確立して、毒の無い部分をつまんでひっくり返して、腹側から美味しいところをいただいちゃうんだそうだ。
 なぜ危険を冒してまで食べるのかといえば、多分、美食のためと好奇心に加え勇気を示すためじゃなかろうかと思う。ヒキガエルは美食家で有名だった陶芸家の魯山人も皮の処理をきちんとする必要があるけど美味しいと書きとめていて、口の肥えてるカラス様にも美味しいんだろう。仲間と情報共有するぐらいの頭の良さを持つカラス様、仲間内で毒に当たらず新しい獲物を食べる方法を見つけた個体はその勇気と知恵を讃えられててもおかしくない。それぐらいにカラス様頭が良い。

 どれも真っ黒で近所のカラス(ハシブトガラス)の個体識別はできていないけど、どうもカラスの方では近所の人間の個体識別はできているようで、私は無害認定されているのか割と近くによってじっと見つめることができる。向こうも横向いてこちらをじっと見つめている。こちらが観察しているつもりなんだけど、カラスを覗き込むときお前もまたカラスに覗かれている、ってなちょっとニーチェな感じになっている。

 カラス様の頭の良さについては、とりのなんこ先生の「とりぱん」を読むと空恐ろしくなるぐらいの知恵者ぶりに驚かされるが、先日ジョギングしてたら頭上を何十羽というカラスが飛んでて驚いた。写真今一ヒッチコックっぽさが出てなくて残念。
 大規模な渡りをするとかは聞かないのでなんで集まってるのか分からなかったけど、カラス様のことだし、きっと意味のある行動なんだろうなと部屋に戻ってからググってみると、俗に「カラスの葬式」として知られる行動らしい。
 「死者を悼む」なんていうのは、ひどく人間くさい感情のように思うけど、社会性のある動物ではわりと広くみられるようにも聞いている。ゾウが有名か?
 「カラスの葬式」については、死者を悼む感情があるわけじゃなくて、仲間の死についてその死に至った危険について情報共有しているとする説も読んだけど、そもそも「死者を悼む」なんていう感情が人間においてどうして発達してきたのかと考えたら、まさに死に至る危険についての情報共有と仲間内の結束の強化とかがあって進化してきたはずで、カラスの葬式はそういう感情の原点にあるような行動と見受けられ、そこに死を悼む感情の萌芽がないなんて、カラスじゃない人間にどうして言えるのかと問いたい。あるだろ?きっと。

 そうやって、ハシブトカラスという生き物について知っていくと、ゴミ捨て場を荒らすやっかい者で見た目も真っ黒で不吉な鳥という認識が、とても賢く人間臭い魅力に溢れる楽しい隣人という認識に置き換わる。烏の濡れ羽色の光沢ある美しさも、愛嬌のある瞳もネコぐらいはある適度に存在感のある大きさも好ましく思えてくる。
 ゴミを荒らす問題は、ゴミ置き場にネットを掛けることでほぼ解決できたとおもう。こういう現実的で具体的な方策が「駆逐してしまえ」というような現実的でもなく感情論でしかないクソな方向性よりずいぶん上出来なのは明らかだと思う。
 あとは繁殖期に巣の近くを通る人間に飛びかかるのとかの問題もあるけど、たいした実害無いしほっとけばそのうち学習して人間なんて襲わなくなるんじゃないかと思っている。彼ら賢いし巣の撤去とかは「敵認定」を受けてしまって逆効果じゃないかと思うけどどうだろう。

 生き物嫌いな都会派の人間からすれば、街なんてコンクリートで囲って清潔にチリ一つ無く管理して、余計な生き物なんていなくなれば良いと思うのかも知れない。
 でもそんなことは現実的でもなければ、生き物好きからしたら面白くもなんともない。人間だって食い物食って水飲んで排泄するなら、その時点でゴキブリだのネズミだのは寄ってくる。
 生き物嫌いでなければ、公園で緑に触れたいと思ったり庭に花を育てたいと思ったりもする。そうすると虫や鳥もやってくる。それらが沢山いればそれを狙って捕食者もやってくる。
 中には悪さをするヤツも居るだろうし、何かしらの被害も生じるかも知れない。それでも完全な駆逐なんてできやしないはずなので、その都度個々の場面で対応を考えるなりして共存を図っていくしかないと思うし、共存できると楽しい世界が開けてくると信じている。
 先日、我が家の近所にはタヌキもいると知って嬉しくなった。マンションの工事で軒下に潜り込んだ作業員の人が「こっち来ちゃダメだって出てけ!」と追い出しているので、ネコでも棲んでたのかなと思って見てたら、可哀想に首のあたり疥癬にやられて毛が抜けたタヌキがしょぼくれて出てきた。
 我が家の近所にはこれで哺乳類の捕食者が、ネコ、ハクビシンについで3種め確認である。
 ネコについてはまた改めてクドクドと書く予定だけど、タヌキやハクビシンが居たからって何がいいのか、生き物嫌いの人には全く分からないだろうけど、夜、敷地内をテッテッテッテと歩いて行く獣がいてネコかなと思って口笛吹いて挨拶したら、一瞬チラッとこちらを向いて遠ざかっていくシッポが長くて、こちらを向いた顔に白い線が入ってたときの心のときめきはどこから来るのか、自分でも理由が良く分からない。良く分からないけど多分、野生生物がご近所さんで嬉しいんだと思う。

 ハクビシンも謎の多い生物で外来種なのか在来種なのかすら確定できてないようだ。でも、屋根裏に巣を作られて糞が臭いとか、農家で果物食べられて困るとかの被害がなければ外来種だろうと放っておいて良いんじゃないかと思う。
 「移入種・外来種だから」っていう理由を錦の御旗にする社会正義の戦士どもには心底辟易しているので、なおさら天邪鬼にハクビシンともご近所づきあいしたくなる。

 何度も書くけど、外来種だからダメってんなら米食うな。特定外来生物法の考え方並びで「明治期以降に新たに移入された種」で線引きとする、っていう線引きする側の都合で勝手に引いた線で良いのなら、オレも断然勝手に線引きさせてもらう。関東の公園のニホンヒキガエルも都会のハシブトカラスも近所のネコ、ハクビシン、タヌキも等しくご近所づきあいすべき存在で、駆除だの虐めたりだのはまかりならん。根拠はオレ様の好みに合うからだ。
 オマエらが主張している「外来種だから駆除すべき」ってのは、その程度の主張と同レベルの好みの問題でしかないことを思い知れといいたい。

 「外来種=悪」という図式が、よく指摘されているように環境破壊とかの他の要因を隠す隠れ蓑にされていたり、外来種なら殺しても許されるというような命を作為的に選別するようないびつな生命倫理観に繋がったりしていて、極めて気持ちが悪い。欧米の動物保護論者における「賢いから守る」という選別と似たような気持ち悪さを感じる。それはオマエの好みだろってやっぱり思う。オマエが思う分には好きにしろだが押しつけるな。

 外来種・移入種が生態系におよぼす問題とか、個別具体的にいちいち状況が違うぐらいで、本当に難しいことが多い。
 「外来種=悪」ですべて駆除するべきですまされない端的な事例としては、外来種も含んである程度安定してしまっている生態系なり生物群集から外来種を取り除くと、当たり前だけど生物群集なりに混乱が生じる。ソースだのエビデンスだのうるせー世の中になってるけどその程度ググれカスってぐらいで論文も出てたはず。ソースってなんねコロッケにかけるヤツか、いやコロッケじゃなくてエビでんす、ってやかましわ。
 沖縄本島でマングース駆除するとか言い始めたときも「オマエ、それ生物の教科書に載ってたウサギ保護するためにキツネ駆除したらウサギ増えすぎて病気やら餌不足やらで激減したとかの二の舞になるんやないか?」と心配になった。
 実際には、マングースの減り具合と保護すべきヤンバルクイナとかの個体数を監視しながら慎重にやってるみたいで、今のところマングースがいなかったころに戻していくという目標に近づいているようでホッとしているけど、そのぐらい慎重にやらないとまずいんだってのは間違いないと思う。

 「池の水全部抜く」で外来種を取り除いたら環境が改善されて、ほらカワセミが、とかやってるのを見て心底アホくさくなった。ため池の水定期的に抜くのはため池の管理として昔は農作業の一環としてやられてたはずで、それが放置されてヘドロ状の堆積物がたまってたのを掃除するってのはライギョとか貧酸素得意な生き物以外には良いんだろうけど、そもそも護岸された都会の池で水抜いてラージマウスバスだのブルーギルだの駆除したぐらいで環境改善されるかよ、水草とかなくても繁殖できる基質産卵性でかつ外来魚駆除屋に虐められないモツゴが単一種で優先して、魚のサイズが平均して小さくなったのでデカイ魚を狙うアオサギとかが利用しなくなって、カワセミがやってきて写真映えするから喜ばれてるだけだろと思っている。

 カワセミ綺麗だし可愛いし好きだけど、じゃあ割食ってどっか新しいえさ場探しに行かなきゃならなくなっただろうアオサギとかの立場はどうすんのって話で、全体よく見て考えてからやれよと言いたい。分かったうえで、アオサギよりカワセミのほうが客呼べるからここはカワセミ一択で、という大人な判断ならそれもあるんだろうけど、分からず善行だとやってしまうのは、少なくともバスやギルにとってはとんでもない悪さをしれっと意識もせずにヤルってのは、私の好みで言わせてもらえば手ひどく間違ってる。

 「共存」って移民の問題に象徴されるように世界規模で人も物も動く二十一世紀における重要な課題だと思う。
 「共存」っていう言葉の美しさには皆抵抗感少なく、理念としてはそうなんだろうなと思うのかも知れない。お互い良い部分を持ち寄って、違いを認め合って話し合いで衝突を回避して共に利益を享受しながら、とかなんとか理想的な関係を思い描いてしまうのかも知れない。
 現実は甘くねえぜと、自然との共存、異文化との共存、ご近所さんとの共存、実際には望んでもいないのにいきなり同時に壺にぶち込まれた毒蟲たちのように、放置しておけば食いあいして強いやつしか生き残らないか全滅するような状況が否応なく発生するのに近い。
 自然との共存?そら完全に制御できるんならしてしまいたい。台風も害虫も無くてすむなら無くしてしまいたいと思うだろう。でもなくなんないし、台風で雨が来ないと飲み水不足したり種々困る。害虫も程度問題で生物群集内での役割もあるし狭い室内はともかく自然界から駆逐することはできないしするべきでもない。
 異文化との相互理解?ワシゃ同じ日本人でも原発推進するような人間とは理解し合えンのに、北朝鮮のエラい人やら無差別テロ行ってるような過激なイスラム教徒と理解し合えるわきゃない。
 ご近所さんとの共存?実は家庭菜園に撒いた種をほじくるキジバト・ヒヨドリと我が家には敵対関係が生じている。我が家の中で「テッポで撃って食っちまえ」などという恐ろしい言葉すら囁かれている。スギの木に関して、すべて伐採でもかまわないとこの時期は思ってしまう。

 「共存」により互いにより良い未来を迎えるなんて都合の良い幻想よりは、お互い相容れない者どうしが、それでも現実的な落としどころたり得る対策を考えて考えて、共倒れになることをかろうじて避けられるというのが「共存」の現実に近いンじゃなかろうか。
 なんで、悪さするカラスのためにワシらが面倒くせえし金もかかるのにゴミ捨て場にネットかけなきゃならんのや?というぐらいに、こちらが思いっきり面倒くせえ手間を掛けてやっと平穏が得られるという割に合わなさこそが「共存」の正体だと覚悟して、それでも嫌でも「共存」を考えなければならない人も生き物も物も概念でもなんでもやってくるというのが今の世界なんだと腹をくくって、自分ちの種をほじられたら怒りを込めて追い払い、カラスネットや抗アレルギー剤のような負担を強いられてでも平穏に済ませられる手法があるなら喜んで受け入れて、個々の状況を良く見極めて、自分が酷いことをしてしまっていないか、酷いことをしても仕方ないという覚悟があるか、常に問いながらよりマシな方法を模索していくべきだと思う。

 そういう諦念の先に、ガマのゆっくりとした歩みやカラスの羽の美しさを愛でる暁光みたいなご褒美もあったりなかったりするはずだ。

2018年3月3日土曜日

日曜大工のお父さんの復権を

 長年乗ってきたSUZUKIワゴンRを最近全く使ってないので車検通す費用ももったいなく思い廃車とすることにした。
 さまざまお世話になったね、ありがと。
 我が家では車は釣りぐらいにしか使っておらず、車はカヤックと双璧をなす高額の釣り具という認識であった。
 カヤック積んだりしてアクアライン超えていく釣りは、ずいぶん時間も手間もかけて開拓した釣り場が多い。車なしとなるとそれらを捨てざるを得なくなり、そう思うと断腸の思いである。
 なんだかんだいってワゴンR、永く乗ってて愛着もあったし。
 付随して、カヤックで攻める浅場の大型シーバスのためFマグ100個ぐらい備蓄してあるのがただの死蔵になってしまう。まあFマグには使い道またあるだろうけどね。
 雨後の内房の運河も手堅い釣れっぷりだったので、これからも美味しい釣果を収穫できる釣りだったはずで後ろ髪を引かれる。
 でも、体力的に不安があって帰り道の運転を安全に行える集中力に全く自信がない状態なので、しばらく車の運転は避けた方が賢明だろう。
 車がなければ、自転車と電車である。結構車なくてもやれるってところを示して行けたらなと思っている。

 自動車って、アクセル踏んでハンドル握るだけで、簡単に人をひき殺せるだけの大きな力が手にはいることにより、事故でも起こせば責任の取りようもないことになりかねず、心のどこかに不安を感じて運転していた。自分の体の延長線をこえた過剰に大きな力はとても制御しきれず恐ろしさを常に感じ、私は男子には珍しく、車の運転があまり好きではなかった。
 そういう有り体にいって「運転が下手」な人間は、人が制御できるぐらいの速度でゆっくりと行く自転車と、プロの運転手が運転する公共交通機関を利用するのが妥当なのではないかとも思う。街に住む限りはそれで不自由しないだろう。
 車と自転車で比較して自転車が好ましいのには、パンク修理だのブレーキワイヤー交換だの、基本的な整備程度は店に持っていかなくてもできるところ、自分で手を入れられるあたりにも大きな魅力というか安心感を感じるというところもある。

 今時の車なんて電子制御的な部分も多くて素人が修理するような余地はあんまりない。それじゃ私は道具としての愛着は感じにくいと思う。むしろ屋根に積んだカヤックから垂れた塩水で錆びて穴があいて防水テープでペタペタ取りあえず塞いだあたりに愛着は生じ得る。
 自転車はそのあたり、自分で整備するのが当たり前なので、愛着は湧きやすい。と、リールも自分で分解整備できなきゃつまらないと常々思っている人間の感じるところ。 

 私の父を思い出すとそうなんだけど、昭和の男は日曜大工で大概のことは片づける能力があった。
 パンク修理の方法や刃物の研ぎ方はじめ扱い方、簡単な木工仕事、横で見ながら身につけたものである。
 いま日曜大工って言わなくってDIY(ドゥーイットユアセルフの略だっけ?)って言うんだろうけど、なんか電気屋さんに頼んだら金が掛かることを自分でやるための方法とコジャレたインテリアとか作ってSNSとかでドヤる方法の2つに2分されるように感じていて、前者は必要性は理解するし自分もするけど大工というより電気屋だろうし、後者はケッという感じだと思っている。

 なんというか、日曜大工って必要に迫られて、有り合わせの道具使って、なんだかんだ間に合わせてしまうようなやっつけ感と即興性が味のうちで、デザインよく素材も吟味してとかやっちゃうとちょっと私の思う日曜大工とは乖離していくように思う。
 たとえば昨年、同居人からの、ゴーヤと朝顔でグリーンカーテン作りたいから、ネット吊して。という命令に、前の住人が室外機吊してた金具のナットを緩めてルアー作成用の太いステンレス線を巻き付けてナット締めて固定。2カ所でステンレス線でネットを吊した。ネットの下の方は柵にビニールひもで固定。って感じでありあわせの材料とかをつかって、見た目はアレだけど何とかしてしまうというのが日曜大工の腕の見せ所だろうと思う。材料レシピ通りに買ってきて作る料理じゃなくて冷蔵庫にある食材でなんか美味しそうなものをでっち上げるのに似てる気がする。
 
 なぜに、日曜大工の話なんてし始めたかというと、冬の間寒いと部屋にこもりがちで、へら釣りが始めたばっかりで浮子を中心にいろいろと作るものがあったり、ルアーいじったりというのが、冬の外に出るのもおっくうな時期の良い暇つぶしなので、自分の手でモノを作ることについてちょっと考えてみたのである。
 「モノ作り」なんていうと、なぜか凝り性な日本人は作務衣着て「匠」になりきって大層なモノを作りたがる気がするけど、そうじゃないいい加減な「日曜大工」仕事が、実はめちゃくちゃ面白くて実用的で、っていうのが今回書きたいことの趣旨である。


 ヘラブナ釣るのに浮子作りから入ったのは本当に大正解。
 ご存じのように私の作るへら浮子「ゆるふわ」シリーズは、羽浮子のように貼り合わせたり、カヤ浮子のように絞ったりというような難しい行程はいっさいない、バルサを削ってトップと足を突っ込んだだけの簡単設計である。
 これで浮子としての出来が悪ければ仕方ないけど、細かいところの詰めや耐久性とかは市販の良い浮子に負けるにしても、オモリを背負って浮いて、引かれればトップが沈むという基本性能において、全く問題なく使える性能を有している。
 道具もあるし材料もルアー作りに使っていたバルサにウレタン塗料に加えてトップを買うぐらいで、まったくありモノで間に合わせられている。
 自分の釣り場での課題や好みに合わせて、細かい調整や改良を加えて浮子を作って行くのは、浮子の持つ役割の理解が深まるとともに、釣りそのものへの理解も深まる。
 なので釣り方を試す度にドンドコほしい浮子を作りまくっているのだが、これまで40~50本ぐらいは作っただろうか、これを作らず買っていたらエラいことである。一本3000円とすれば10万円以上かかっていたはずで、これからも増えることを考えると作ってすませることができてホッとする。

 私の作る浮子もルアーも見た目はいまいちショボい。でも実用性は十分で実戦投入して成果を出せている。それはとても楽しいことで、「匠」の名品を作ろうとしがちな釣り人には、もっとゆるふわっといい加減に作ってもいいんですよ、と強くお勧めしたい。
 世の中には本物の「匠」が作った漆の塗りもきれいな高級浮子とかがいっぱいあるけど、私が私の釣りのために必要な機能を持たせて作った「ゆるふわ」な浮子は私にとってそういう高級浮子以上に愛着がもて、かつ自分用に作ってるだけあって使いやすい浮子になっており、もう高級浮子など買う気にならないぐらいである。

 日曜大工って、いろいろできるようになっておくと、道具と材料を使い回せるようになるし、技術も応用が利く。例えばさっき例に出したゴーヤのネットを吊すために使ったステンレス線はGTルアーの補修の為に道具入れにあったステンレス線を使ったところであり、ルアー作成の道具素材が浮子にも使えるのは書いたとおり。
 ルアーの壊れたところを接着剤で補修する技術なんかは、同居人の靴のヒールが欠けたときに応用したりしている。

 戦後派の私の父世代は、高度経済成長下でお金を稼ぎつつも、今ほどモノが何でもある便利な時代じゃなかったので、何でも作ったし直した。その技術をかろうじて受け継いでいる私も日曜大工の技術は釣り具作成修理の技術とも混同しながらもなんとか保てている。
 モノがバカスカ売れて、壊れれば買い直した方が早い、仕事はあるので買い直す金を稼ぐことは簡単だ。という大量消費廃棄文化の時代には日曜大工の技術なんて全く無用の長物だっただろう。
 でも、これから迎える超小子高齢化でかつ日本じゃ景気よく稼げる業種が得意の自動車製造ぐらいに限られてきて仕事が少ない、働き手が減る分は人工知能による効率化とか外国人労働力とかで経費削減しながら対応するという社会になってくると、金が稼げる仕事があんまり回ってこないような気がする。
 そうなると、まだ直して使えるモノを再利用するなんてのは、また必要性が高くなってくる技術なのではないだろうか。エコロジー(生態学的)の観点ではなくエコノミー(経済的)という観点から、そうせざるを得なくなるのはと思い、世知辛いとともにモノを大事にするという良いことにつながるのではと思う。
 ボロッちくなった家具に、サンダーかけて表面の古い塗装をはがして、改めて好きな色に塗り直してやる。一部の部品が破損して機能しなくなった道具を、3Dプリンターで部品作ろうが、木を削って部品作ろうがとにかく動くようにして使い続ける。
 なんてのが、仕事が減って稼ぎが少なくなるなか、余暇が増えたなら、楽しく生活していくための必須の技術になるのではないだろうかと思っている。
 
 そういういい加減な部分もある「日曜大工仕事」を楽しむために必要なのは、いい加減で見てくれの悪いのを許容するというか、むしろそこを愛でることができる感性が重要になってくると思う。
 例えば、最近作ったへら用の「タモの柄」。凝り性の日本人らしく作務衣着て気合いを入れて竹の火入れから始めてしまうとすれば、なかなか作ろうという気にはならないし、作ったとしても本物の匠の作ったものと比べたら、なんぼ身びいきしてみたところで見劣りしてしまいかねない。
 そこを、実用上問題なくて簡単に作れればいいや、と私のような日曜大工派は考えて、中古で安売りしていたグラスロッドの素材を使ってロッドビルディングの技術とか応用しながら作ってみた。
 割と簡単で安上がり。かつグラスの素材の持つそこはかとない昭和感はB級ぽくはあるけど、それなりに味のある逸品に仕上がったように思う。と作った本人悦に入れる程度にはお気に入りなのである。

 見た目を過度に気にし始めてしまうと、素人の日曜大工仕事で作ったモノなんて大したモノにはならないと感じてしまう。でもその程度でも例えば釣りに使えるとかの実用性は十分得られるので、見た目気にせず、ある程度いい加減さを許容しながら楽しんでいくと、日曜大工は実に楽しく心持ちを豊かにしてくれると思うのである。
 大量生産、大量消費、大量廃棄なんて、二十一世紀にまでなってやるべきことじゃないと思うので、景気よかった時期に手放していた「日曜大工」の技術をみんなもう一度取り戻してはどうか。
 見た目なんて気にせずに、手でモノを作り出すという、人間がもっとも得意とするところの根源的な楽しみをめいっぱい楽しんでほしいとお勧めしておく。