2016年3月25日金曜日

PCチェアディテクティブ 古物スプーン迷宮入り篇

 本日病院行ったついでに、街に出て中古釣具屋なぞ冷やかしていた。忠さんスプーンのマスターとかニールズマスターのインビンシブルとかがあれば補充したいと、トラウトルアーコーナーを物色していて、そのブツを見つけたときに「ンノゥッフ!」って感じの変な声が出てしまった。
 ルアー図鑑うすしお味第30弾は、この変なスプーンが何者か推理していきたい。

 108円でも売れ残り、黄色の特価札を貼られて86円の見るからに安物のスプーンに、ナマジは何を大仰なことを言い始めたんだと思うかも知れないけど、次の写真をみていただければ、おわかりいただけると思うが、このスプーン、日本のルアーフィッシングの源流の一つである銀山湖で1967年に「忠さんスプーン」の常見忠さんが、初めて58センチという大イワナを釣ったスプーンと同じルアーに見えるのである。
 

  右の比較写真は地球丸「忠さんのスプーン人生」の写真と現物を並べた物である。
 こうして並べてみると、鱗の書き方や2重丸になっている目など特徴が一致する。
 しかし、このスプーン裏面にメーカー名などなにも刻印が無く、決定的な証拠が無いのだが、そもそも、忠さんの使ったスプーンの本物もメーカーやら一切不明で、前述の本によると日本橋の三越本店2階の釣り具コーナーで買ったという情報程度しか書かれていない。
 一緒に買ったタックルがまだ日本では作ってなかっただろうクローズドフェイスリールとスピニングロッドらしいのでスプーンもヨーロッパから舶来の釣り道具として輸入されたものの一つと考えるのが普通だが、本にはルアーについては「何の変哲も無い国産品」と書かれている。
 国産品も当時は日本人ではなく主に米軍関係者を対象に売っていたのだろうと思われる。
 でも名前がどこにも出てこないぐらいで本物にも刻印は無かったと考えられる。
 また、写真にはスイベルが付いており、そういったリグが違うようにもみえるが、「スナップスイベルなどはなかった。スプーンを直接、糸に結び付けて、やや上流に投げた。」と書かれていて、スイベルは後から付けたものであると考えられる。
 左はもう一冊、忠さんの書いた平凡社カラー新書「ルアーフィッシング」 のカラー写真。これをみると、真鍮ぽい色合いとかがよく似ており、実にそれっぽく見えてくる。
 (この本では1974年となっているが、「忠さんのスプーン人生」にある1967年のほうが前後の年代と整合性がとれている。)




 フックがいわゆる「茶バリ」で買ったブツと違うが、右の写真の一緒に売られていた銀色の方には茶バリが付いていてハリは交換した可能性がありなんともいえない感じだ。





 しかしながら、細かいところを見ていくとどうも全く同じというわけではなさそう。例えば、目の前方上側に線が入っているのが「ルアーフィッシング」のカラー写真では確認できるが買ったブツには無い。














 しっぽのところのラインが本物は穴にかからず上下に分かれているが、買ったブツは穴にかかって切れている。

 こういう金属を加工する場合に、模様の付け方はどうするものなのか分からないが、目玉前方の線は上にずれて引かれなかった可能性があるが、しっぽのところはどう考えても金型とかが違うのではないかと思える。
 


 ではこいつはいったい何なのか?いくつか可能性としてはあると思うけど、1つめは同じルアーの後継モデル。
 同じ物を同じメーカーが作ったが若干模様が変わってしまったというもの。サイズ違いという可能性もあるが、「スプーン人生」にサイズがだいたい4センチと書かれており、買ったブツは5センチで、サイズ違いが1センチごとにあったというのはあまりないのかなと思うので、サイズはコレと本物が違っていた可能性は低いのではなかろうかと思う。

 もう一つの可能性が、本物のコピー商品。実にありそうな話である。忠さん達が本物でデカいのをガンガン釣ってそのスプーンを欲しいと思ったけど、既に売り切れてどこで作ってたのかもよく分からない、じゃあ作っちゃおうという流れでまねして作られたもの。あるいは人気は無かったんだけどたまたままねする手本として選ばれてしまった、はたまた、1981年初版の「ルアーフィッシング」の写真とかを見てコピーした、という可能性もあるのか?

 「忠さんのスプーン人生」では、ABU社トビーとか舶来の釣り道具に「盲目的な崇拝ぶり」があったと書かれているが、反面「何の変哲も無い国産品」にはぜんぜん人気が無かったようにも書かれているので、後者よりは前者のような気がしている。後者のコピー商品であってもそれはそれで、日本のルアーフィッシングの歴史の一コマとして面白いのかなとは思うがどうだろうか。

 「何の変哲も無い国産品」で私が見つけなければ、埋もれてしまったであろう実に面白いブツをエグッたものだが、残念ながら私にはこれ以上の調査なり推理は難しく、こいつがいったい何なのかは特定するに至っていない。
 スプーンについてはJOSさんがかなりのマニアで、義理のお父さんがちょうど世代的にも知ってておかしくなさそうなルアーマンでもあり、このブツはJOSさんのコレクションに仲間入りさせて追跡調査をお願いしようかと考えているところである。
 意外に「あーコレね、良くでてくるんだよ」というショボいブツなのかも知れない。「なんでも鑑定団」だと、さんざん自信のあるようなことを言っていた持ち主が、ガックリきて中島先生に「大事になさってください」と慰められるパターンか。それもまた面白いかと。

 
 ※業務連絡です。JOSさん現物のまえに大きめの写真とか送りたいのでメールください。

   

2016年3月22日火曜日

GET UP!!(by JB)

 栃木の郷土料理に「しもつかれ」というものがあり、鮭の頭やら野菜を大根おろしと酒粕で煮たその見た目がGEROのようだと他県民都民に揶揄されているが、GERO焼きながら食ってるようにしかみえん「もんじゃ」食ってる東京都民に言われたくないべ、と思っていることだろう。
 人ン家の食卓を批判するときは、自分ちの食卓もよくよく思い返してからにしなさいと、汝らのうちで罪を犯したことのないものだけが石を投げなさい(by JC)ということだと思う。

でもって、写真のブツはこれまた見た目があれな感じであるが、気仙沼の郷土料理の「あざら」である。
 酒粕と魚を使った煮物ということで栃木の「しもつかれ」とも共通点があるけど魚がキチジやらメヌケの類を使うところと、メインの味付けが白菜の漬け物というところが独特。
 何でも、白菜の漬け物を漬けて冬の間食べてきて、春になる頃そろそろ酸っぱくなってきたぐらいで、捨てることになるともったいないのでまとめて消費するために、ついでに魚のアラも使ってもったいなくない料理にしちゃいますというものであったようだ。なんと素晴らしいもったいない精神。

 しかしながら、今回同居人の母上が送ってくれた「あざら」はもう贅沢にキチジあたりのアラじゃない身をガンガンに使っていて、ホロホロと崩れる白身の繊維がちょっと上等のカニでも食ってるような食感と風味でとても美味しい。
 最近はキチジやらメヌケ類やらも高級すぎて「あざら」もツナ缶で作ったりもするそうだが、元々のもったいない料理の着想はどうしたんだいヘヘイヘイという感じの豪華版。
 初めて食べたときは作りたてでまだ味が全体的になじんでいなかったのか、いまいち美味しいと思えず、正直「キチジのアラとか普通に醤油味で煮て食いたい」と失礼にも思ってしまったものだが、今回味のなじんだものを食べると、ちょっと酸味の利いた白菜漬けの味と酒粕フレーバーも実に良い塩梅で美味しいと感じる。白菜漬けを各家庭で桶で漬けるというのも少なくなっているだろう今でも気仙沼で作られ続けているのも納得である。

 食べ慣れてない人間が食べてもいけるのだから、子供の頃から食べていて思い入れのある気仙沼の人にとってはまさに故郷の味、おふくろの味なんだろうなと思う。

 ごちそうさまでした。

2016年3月19日土曜日

なにも考えてなければこうはならない


 しばらく前から、宿舎の川向こうの藪になってた崖が工事中になっていた。

 学校の敷地のようで、けっこうな広さの崖とそこに生える木々は、都会の生き物たちのオアシスとなっていた。
 しかしながら、写真一番右の方はアパートのすぐ上に崖が迫っていて、アパートの上側の崖は工事でコンクリで固めている。最近のゲリラ豪雨だとか台風時の大雨とかは崖の崩壊が心配されるような状況になることも多く、事実もっと左側の崖が崩れて補修工事も発生していたところである。
 アパートの直上にそんな危険な崖があったら、それは今にも命の危険を招きそうであり、コンクリで固めるのもやむなしかなと思わざるを得ない。崖の下になっているアパートの状態を見てそのままで良いだろうとか、生物群集のほうが重要だとかは流石に考えにくい。

 その流れでいけば、危険はなるべく避けるべきということで、写真の崖の区域全体に同様のコンクリで固める処理をするんだろうなとちょっと残念におもいつつ諦めていた。身近に迫るような人への危険対策と比べれば、草木が生えて虫や鳥がいることの重要さ、景観や安らぎなど、役所言葉にすると嘘くさくなってしまうが、自然のもついわゆる「多面的機能」などと呼ばれるモノは価値が小さいと判断されてしまうだろうなと思ってもいた。

 しかし、崖の下が住居では無く道と川になっている場所の崖については、土砂が崩れないように、生えていた草木を重機で抜いた後コンクリの井桁の枠を作りつつも、その枠の中には砂利を敷き詰めて、そこに草木が生えることが出来るような工法を採用している。
 よく見ると、これまで草木が生えていた今回工事しなかった一番左のあたりも、そういう工法で処理され、草木が生えた状態の藪であることが確認できた。

 昨今、豪雨が多くなっているように感じており、崖の崩落はいつ起こってもおかしくなく、その時に人の命を守らなければならないのは当然だろう。環境保護テロリストのように、人の営みよりも無条件で自然環境などのほうが重要だなどとは流石に私は思っていない。

 でも、人の危機がそれほどじゃ無い場合、今回のケースで言えば下にあるのが住居では無く道路の場合、植物に始まり、虫や小動物、鳥たち生物群集のことを考えて、そこに配慮した工事をするというのは、私はとても重要なことだと思っている。そういったことを十分考慮した上で、学校としての教育的見地も踏まえ判断が下されたのだと思う。素晴らしいことである。感謝に堪えない。学生さんにも分かるやつにはその意義が伝わるんじゃ無いだろうか。そこにある現実がまたとない教材となるのではないだろうかと期待する。


 アパートの上分はコンクリで固めたのでその分は全体として藪が少し狭くなるかも知れないが、砂利を敷いた工法の部分にはこれから草が生え、木が生えまた藪が戻ってくるだろう。
 元の崖の藪には、夏になるとやかましいぐらいのセミなど虫が生息していて、虫を食べるヒキガエル、カエルやネズミなどを食べるだろうシマヘビなんかもいたりするなかなかたのしい藪で、藪から出てきて道を歩いているカエルもヘビも確保して藪に返してやったことがある。
 私にとってはそういう「知り合い」が住む藪が一部守られて復活しそうなことに大きな喜びを感じている。

 鳥に目を向けると、この藪があるから虫などの餌も捕まえやすいんだと思うが最寄り駅にはツバメが毎年いくつか巣をかけて子育てする様を観察することができる。
 藪の鳥たちは川を越えてこちらにもやってきて、我々の目や耳を楽しませてくれる。ウグイスなんかもそろそろ鳴き始めてもおかしくない。家にいながら谷のウグイスの美声を楽しむ贅沢よ。
 更に贅沢な感じがするのが、宿舎の前のサクラ並木にちょくちょくコゲラがやってくることである。休日朝方の散歩を日課としている同居人は何度も見ているようで「キツツキ2匹いた、白黒まだらでひっくり返って木を突っついたりして愛らしい」と報告を受けていたが、この冬私も目にすることができた。
 シジュウカラが木の枝を突いて落ちた虫を道路まで拾いに降りてきたり賑やかな群れだなと思っていたら、「ギーィィィッ」「ギーィィィッ」という感じで交互に鳴き交わすようなコゲラの鳴き声。声の方を仰ぎ見てみると真上のサクラにちょっと離れてコゲラ2匹がシジュウカラの群れに混じっていて、枝をくるくる回って餌を探したりしていた。雀ぐらいの大きさの鹿の子まだらの可愛いキツツキ。なごみます。


 危なそうだからとりあえず全部コンクリで固めとけ!という雑な考え方では無く、こういうふうに可能な範囲で自然環境に気配りをする、それによって守られるモノは、既に失われてしまったモノが多い今の時代間違いなく大事になってきている。
 今回の工事については、そういうことが分かった人たちがちゃんといて、キッチリと仕事をしたということなのだろう。どうせ「予算を余分にかけてまで藪にして、蚊が湧くだけで無駄」とか言っちゃうような時代錯誤な間抜け野郎もいたはずである。そこを理論整然と押し返して必要な措置を確保した実行力に敬服する。

 コンクリート屋さんも固めるだけの仕事ばかりじゃ無くてこういう仕事もできるジャンよ!

2016年3月14日月曜日

ふて寝

 先週あたりから体調グダグダで仕事もけっこう休んでいた。
 週末に入っても釣りに行くのもしんどくて難しいぐらいに調子悪いので病院へ。

 「病状悪化してますので、またしばらく休んでください。」との診断。

 年開けてけっこう調子よかったし、魚も釣れてて快調だったのにこのていたらく。
 なかなか自己管理って難しい。
 年度末クソ忙しいのに職場には迷惑かける。安定して働けない人間って戦力として計算しにくくて邪魔だろうなとか考えるとちょっとつらくなるのであまり考えないようにする。

 前回の自宅療養においては寝過ぎて体がなまりまくったので、今回は適度にしんどくない程度に近場の釣りはやっておこうかと思うが、現時点ではそこまでの余裕も無く、とりあえず寝たきりである。

 今後もこんな感じで床に伏せりがちな人生なのだろうかとか考えると、またちょっとつらくなるのであまり考えないようにする。

 調子の悪いときは、考えも悪い方に引っ張られがちなので、こういうときはあまりものなど考えずに寝とけというのが正解だろうと思う。悪いときもあれば良いときもある。

 昔から寝るのは得意で、誰とでもってわけにはいかないけど、いつでもどこでもだいたい眠れた。
 昨日も昼も寝てるのに9時過ぎには寝て今朝は8時頃まで寝てた。

 「世の中に寝るより楽はなかりけり」っていうぐらいなので、とにかく寝ておきます。

 おやすみなさい。

 

 

2016年3月12日土曜日

自分自身の若さ故の過ちというものを

 学生時代、自分は募金とか絶対しないと公言していた。曰く、
「世界のどこかに飢えている人がいるなら、小銭出しとけばどうこうなるような問題ではなく、そういう誤った世界を変えるべく努力すべきである。そこまでたいそうなことができなくても、少なくとも社会に出て自分なりに貢献して役目を果たすなどやるべきことは他にあるはずである。募金して良いことした気になって満足しているなんて愚かだし偽善というものである。」
だとかなんとか。
 
 もう何というか痛い野郎というか、何様ダてめえ!というか、「オジさんもう恥ずかしくって耐えられないからやめてあげて!」とタイムマシンで当時の自分に声をかけてあげたいぐらいだという感じだ。どこの意識高い系だと若かりし自分に突っ込みたい。私は意識が高い人は尊敬するが、小賢しく洒落臭いことを偉そうに言ってるだけの意識高い「系」の人間は嫌悪している。相田みつおが大嫌いだと言えば分かってもらえるだろうか?好きな人ゴメンナサイね。でも虫ズが走るぐらい嫌い。


 「3.11」の大震災から5年がたったわけだが、震災後「やらない善よりやる偽善」という言葉をよく目にするようになった。
 そうだよねと今は素直に思ってて、募金箱とかコンビニで小銭を入れたりしているし、海外の災害なんかでも今ではネットで思い立ったらすぐ募金というのもできるので、偽善かもしれないし単なる自己満足かもしれないがちょくちょくポチッとしている。

 若い頃の自分が思っていたよりもグダグダのオッサンになって、自分が世界を変えることもなければ、病気がちで社会に貢献どころか足引っ張らないことさえ難しいと感じる実態を鑑み、自分にできるせめてものこととして募金なり何なりをするように自然となっていったという背景があったのと、募金するということに関しては、転機となった強烈に印象に残っていることがある。

 テレビで国境なき医師団的な活動をする日本人のお医者さんを追ったルポだったと思うが、最初、その地域で病気の流行によって多くの人が亡くなっていることをその医師が淡々と事務的に説明する様をカメラは撮っている。医師の口調は平坦でしゃべっている内容のものすごい数の死者とかと不釣り合いで、人が死ぬことが当たり前すぎて、この医師にとっては特段驚くべきことでもないのだろうか?医師としては優秀なのかも知れないが人間としてちょっと冷酷なのではないか?と疑問に思うぐらいだった。
 インタビュアーもそう感じたのだろうか、「日本では遠い国の見知らぬ人のために募金したりするのは単なる偽善ではないかという意見も聞くがどう思うか?」というような、暗にアンタのやってることも偽善じゃないのと臭わせるような挑発的ともとれるちょっと意地悪な質問を投げかけた。
 医師激高、目に涙を浮かべて「ここでは人手も薬も何もかもが足りてません!偽善でも何でもいいからお金を送ってくれれば、我々がそれを使ってあげますよ、募金してください!」というようなことをまくしたてた。
 人が目の前でバタバタと死んで、金も人も不十分で、そういう状況を耐えるために心を殺して動かさないようにしていなければ自分すら守れないようななかで、献身的に活動している人がいると知って、「募金ぐらいはせめてするべきだな」と反省したしだいである。
 ちゃんとしたところに募金して、そういう人たちにお金が届くようにしようというのは、偽善っていうほどでもないし小賢しくもないように思う。
 若い頃のナマジからすればなんか言われるかも知れないが、ジジイになったナマジからは特段文句は出ないような気がする。

 学生時代のナマジ君は、魚の増養殖関係の研究者になって、立派な研究成果を出して食糧問題とかの改善に貢献しようとか思っていたんだろうなと思う。まあ若い頃は夢見がちだよねというところ。
 そういう立派な大人にはなれなかったわけだが、期せずしてお気楽ブロガーという、言いたいことを好きなように発信していい立場の大人には気付けばなっている。ネットが普及するまで一般の人間が意見を公に発信するには、街頭演説とか新聞に投書とか、めんどくさい手段しか無かったわけで、そう考えると恵まれている。

 我らお気楽ブロガー達一人一人の力は微々たるモノであるが、沢山の人があちこちで書くことに意味があるんだと思うので、私も震災以降腹に据えかねている2点について、しつこくまた書いておきたい。若い頃のナマジもジジイになったナマジもそうすべきだと言ってくれるだろう。


 一つは「原発反対」である。このタイミングで原発のコストがどうなのかとか改めて特集組んでいる記事とかもけっこうあったが、福島の事故の処理に3兆円だか今現在確定しているだけで掛かると聞いた時点で、推進派の主な論点の経済性がどうとかいうのも馬鹿臭いと感じるし、CO2の排出量がとかショボい話はだったら太陽光でも風力でも代替エネルギー進めとけという話だし、経済も含めそういう「周辺事情」は結局、事故を起こしたらとんでもなく危険という根本的な問題の前にはどうでも良いとさえ思うんだが、なんで今現在原発廃止の方向になってないんだという憤り。大きな事故が起こる前の時点で、事故のリスクは少なくてどうこうとかいう主張はまだ理解できるが、これだけ大規模にやらかしておいて、その後もまだ原発が必要という心情がまず理解できない。原発運用していれば必ず事故はまた起こる。自分が生きてきた40数年でさえ臨界という核反応までいった大事故は東海村と福島の2回も起きている。20年に一回大事故起こす、しかも福島以上の大惨事もあり得るのが核利用のリスクだと想定できているのかと問いたい。今後は事故は起こらないというならこれまでも起こらなかったという単純な話だがなにが分からないのか分からない。

 もう一つは「高い防潮堤反対」である。千年に一度の大津波の前には10mクラスだろうが堤防無駄だった例の方が多くて、結局地震があったらすぐ高台に逃げるとか、そもそも住居は高台に移転とかそういうソフト面で対応するしか無いというのが教訓だったと思うんだけど違うの?増税の話とか出てるけど、物理的にも金額的にもクソ高い堤防作る無駄な金がどこにあるんだという中で、なんで高い堤防作るコンクリ派が盛り返してるかな?多くの自治体で高い堤防は作らないという選択がなされている中で、我が愛する気仙沼に最も高いところで15mとかいう防潮堤の計画があって賛否両論あるようだが、ここに私は明確に反対の意思を明記しておきたい。そこに住んでいない人間が口を挟むのはどうかという意見もあるかもだが岡目八目ということもあり、またこの件については住んでいる人の反対も大きいということも紹介しておきたい。10年に1度レベルの津波を防げる以前あった2~3mの防潮堤ぐらいのレベルで十分だろうと思うのだが、ここぞとばかりに震災復興を食い物にしようとしている輩がいるとしか思えず、15mの防潮堤で海と隔絶された光景を想像するのとあわせて不愉快きわまりない。


 5年前の震災は、その前と後とで自分の中の何かが変わったぐらいのできごとだった。遠く離れた横浜でその時をむかえた自分でさえそうなのだから、実際に現地で被災した方々の中にはたぶん一生消えない爪痕を残したと想像に難くない。それでも人は生きていかなければならず、その生きていく中には喜びも苦しみも当然あるだろう。できるかぎり喜びが多く苦しみの少なからんことをと願うとともに、震災で無くなった方と震災関連死といわれる方々のご冥福をお祈りします。

2016年3月6日日曜日

20年以上前のリールだけど今でもパーツが手に入ります


 最近、周りの釣り人二人から別々にPENNスピンフィッシャーのパーツ取り寄せについて相談があり、既に市場には第5世代の「V」が出ている時代に第3世代のパーツはさすがにもう正規輸入代理店を引き継いでいるピュァフィッシングジャパンにも在庫が無いのが多いようで、ではいっちょ「Scott’s Bait and Tackle」で共同購入しましょうかということになった。

 アメリカ本国のPENNのパーツを通販で扱っているお店で、過去すべてのPENNのリールについてパーツリストがあり、まあ古いリールについてはさすがに欠品となっているパーツも多いが、80年代半ばぐらいに生まれた第3世代(インスプールの700番台のを第2世代、3桁と4桁のSSのつくモデルを第3世代と定義)のパーツぐらいはまだまだ平気でストックしていて、東洋の端っこの島国からでもネットでポチッとすると、チマチマと小袋に入れたパーツをジップロックとかにまとめて送ってくれる。アメリカの郵便のUSPSとか使って航空便で来るので海外発送には送料それなりにかかるが、金で済むのならお安い御用で実にありがたく頼りになる。

 今回私が購入を予定しているのは、4400ss、4500ss、5500ssのベールアームスプリングやドラグワッシャー等の消耗品といって良いパーツを中心にその他こまごまと。
 90年代初頭に生まれた第3世代後半の4桁スピンフィッシャー全サイズを保有している人間としては、全サイズの消耗品的パーツを持っておきたいところで、金属ボディーの7500ssとかの分はすでに十分なストックがあったのだけど、グラファイトボディーの5500ssより小さいサイズの分を買い増ししておこうという感じである。
 と聞くと、全サイズのチマチマとしたパーツをそれぞれ買うなんてめんどくさそうに感じるかもしれないが、実はそうはならないのである。

 そこがPENNの偉いところでもあるのだが、消耗品的パーツをはじめ多くのパーツが共通なのである。極端な話、5500ssから4400ssはボディーとかメインギアといったサイズを変えていることによって違うのが当たり前の部分以外はかなりの部分がパーツ共通なのである。5500ssの展開図とかをみてパーツナンバーを確認すると「10-440」というようにサイズ違いはもとより第3世代初期の3桁時代から共通のパーツを使い続けているのが見て取れる。中には「56-710」とか700番台の第2世代から引き継いでいるらしいパーツも見受けられる。

 というような自分でリールをメンテする人間にとってありがたい設計は、本来は専用設計を避けて共通パーツを使い回すことによって製造やら修理のコストを下げたいという造る側の都合だったのだと思うが、そういう優れた設計で「修理がしやすい」ことがベースにあって、未だに20年以上も前の設計のリールのパーツが手に入るというような異様な長寿命リールを生み出しているのだと思う。みんなが自分で直して使ってるリールだからパーツを売る商売が成り立つのだろう。
 似たような長寿命のリールにはベイトリールの世界ではABU社アンバサダーがある。こちらのパーツは「プロショップ藤岡」とかで結構手に入るし、強化パーツとかを造っている小規模工房も結構ある。ABUは日本じゃPENNと比べるべくもない人気リールなのでパーツ商売は日本でも十分成り立つようである。

 今時のメイドインジャパンのリールは製造中止から数年しかパーツがメーカーに無いそうである。5年しないうちにモデルチェンジで、そもそも共通パーツもくそも素人がバラして修繕するようにはなっていないリールについて、パーツを確保してまで使おうと考える人はあんまりいないだろうってことで、パーツ取っておく必要性も薄いのだろう。次のモデルがでるまで使って壊れたらおさらばよという割り切りもあるんだろうけど、あまりにもそれじゃあ寂しくないかい?と昭和の男は思うのである。

 というような状況を鑑みて、今売っている最新のメイドインジャパンのリールを買うより、20年以上前の設計の中古のPENNを買う方が、今後10年とかのパーツの手に入りやすさは、それでもむしろ古物PENNが勝ってそうな感触なのである。
 あんまり古いリールを他人様に薦めても仕方ないのかなと思っていたところだが、割と「自分でメンテするなら今でも中古のPENN買って損はないですよ」と言って良いような状況があり、第3世代のスピンフィッシャー入手しようとしている人に「今時やめた方が良いっスよ」などとはいわず、同好の士が増えるのを喜んでいるところである。

 パーツの相談があった2人のうち1人はカヤック一緒に乗ったりしているY君で、近々南の島に栄転が決まっているのだが、私と一緒にロウニンアジの釣りを始めた共通の先輩から、「デカいロウニンアジを釣ってこい」と勅命を受けスピンフィッシャー7500ssとフィッシャーマンのGIANTを受け継いだところである。実はうちの同居人も借りてGT釣りまくったという由緒あるタックルだが、また若い釣り人に受け継がれて新たな物語が紡ぎ出されていくだろうと思うと非常に喜ばしい。
 PENNとかABUとか20年を超えて使える道具たちは、たとえは親から子へと世代を超えて受け継がれていくのに値する変わらぬ価値があると感じているところである。

 フライタックルなんかは構造シンプルで、それこそ100年前の骨董的なリールとかでも今でも使えて、親子3代で使ってるなんてのもあり得るんだが、そういうのって最新鋭のハイテク満載の道具よりも格好いいと思うのは、私のような道具フェチの偏屈な男だけだろうか。
 たとえば、80年代初期のアンバサダーを父親にもらって使ってるなんていうのは、現実に日本でもあり得る話だと思うけど、80年代初期のアンバサダーを私が今少年でそれを譲り受けて使ってみたとしたら、その素晴らしい贈り物に最大限の感謝を捧げることになるだろうということが容易に想像できる。

 ぶっちゃけ20年も30年も使えてしまう道具を造ってしまったら釣り具メーカーとしては大失敗で、壊れないから道具が売れなくなってしまうというのはよく分かる。よく分かるんだけど、全部のメーカーの全部のモデルが5年もしないうちにモデルチェンジしなきゃならないのか?と大いに疑問に思うしいつもグチグチ書いているが不満にも思っている。
 ダイワが実はアメリカ市場ではトーナメントSSを長年売り続けていたように、「こいつは多少売れなくても売り続けます」というモデルも、商品としては有りなのではないだろうか。そういう商品を買い支えるだけの目利きを我々日本の釣り人も持った方が良いんじゃなかろうかと常々思うところである。

 最新のリールでも竿でも、その宣伝文句とか煽り記事に最近は心の底から「どうでもいい」と思うような不感症のオッサンのボヤきではある。