2017年3月25日土曜日

ウキウキしちゃうの!だって春だもン!


 春になると頭に虫でも湧くのだろうか。なんとなく気もそぞろ。

 都心では桜も咲き始めたとかで、今週ヘラブナデビューしてしまおうかと思っていたけど、リハビリで通勤の練習のため電車乗って出かけるというのをやっていたら、思いの外疲れてしまい機会を逸した。
 朝のラッシュは避けたのだが、混んだ電車ってこんなに疲れるもんだっけ?という感じでボチボチとリハビリに励んでおります。

 電車に乗って出かけた先は、まあ釣り具屋だったりするのだが、その他にも三鷹市美術ギャラリーで開催されていた「根付-江戸と現代を結ぶ造形-」という企画展を見に行ってきた。

 根付けというのは財布とかを紐で帯に留めるために使う3~5センチぐらいの象牙や木製の細工物で、美術蘊蓄マンガ「ギャラリーフェイク」でプロフェッサー藤田が指摘していたように、現代だと携帯ストラップに通じるような日常に根付いた彫刻作品である。
 もう、そういう日常品にちょっとした「粋」を求める日本人の感性の象徴みたいなモノで、展示されていたのは当然逸品ぞろいだというのもあって、なかなかの眼福であった。
 ヤツデの葉の上に鹿の角が落ちていて、その鹿の角の裏側に蜂がとまっているなんていうのは、どうやって彫ったのかと感心するとともに、表側に蜂を彫らないところは美意識と技量の誇示と共に、帯に留める時に引っかかって壊れないようにヤツデの葉と鹿の角の間に蜂を配したんだろうな、とか想像すると、実用の中の美というのが立ち上がってくるように感じる。
 300個ぐらい展示されていたんだけど、その中で一番そそられたのが、現代の職人さんが彫った「綱渡り」という作品で、ナマズの髭をアマガエルが綱渡りしているという滑稽感たっぷりなもの。
 3センチぐらいの小さい象牙の作品なのに、ナマズの腹びれのピッと両側に開いた感じとか、アマガエルのアイラインとか特徴がキッチリおさえられていてナマズ、カエル大好きなナマジとしては、一瞬、警備の隙を突いて盗み出すにはどうすれば良いかと考えてしまうほど魅力的だった。

 そういった名工達の職人芸に触発されてというほどでもないんだけど、今週は「ヘラ浮子」をサクサクッと作ってみた。作成の様子などはサイトの方の「工夫」に「ゆるふわヘラ道」のコーナーを設けて「「ゆるふわ」に浮子を作ってみる」という題で上げているので、興味があればお暇なときにでもご笑覧いただきたい。

 浮子を作るために、ネット、書籍、映像、様々な参考資料にあたってみたけど、何というか「ヘラ浮子」の世界では、物理法則を無視したような「オカルト」な浮子が存在するような説明が散見されて胡散臭さに苦笑を禁じ得ない。まあ、想像通りという感じではある。

 私がヘラ釣り始めるというのを知って、最近へらにハマっているという釣友が電話してきてくれた時にも、「物理分かってないような人が浮子作ってたりもするから、浮子は自分で作ってみるといいよ」とお勧めされていたのだが、「物理分かっていない」のレベルがこれほどまでかとは想像していないぐらいに酷かった。
 もっとマニアックに、私などなら考慮に入れないぐらいの、浮子のボディー形状の違いによる浮子が沈むときの流体力学的な水の動かしかたの変化だとか、その辺の難しい「物理」で、なにも分かってない私のような初心者を煙に巻いて「オカルト浮子」を売ろうとしてやがるんだろうなと思っていたら、なんと「アルキメデスの原理」の否定という「ちょっと待ってくれ」なご無体をしれっとやってて驚く。

 「アルキメデスの原理」は簡単に書けば「液体中の物体は、その物体が押しのけている液体の重さと同じ大きさで上向きの浮力を受ける」となるだろうか。
 なので、浮子がオモリと餌を背負ってバランスしている状態からアタリがあって、例えばトップが1目盛り沈んだとしよう。その場合に生じる浮力、言い換えるとアタリで引っ張られた力と同等の浮力はトップ1目盛りが押しのけた水の重さと同じである。
 浮子のボディーが軽くて大きかろうと、沈んでいない分のトップがいくら残っていようと、バランスした状態からトップ1目盛り動いたのなら、そのトップ1目盛り分だけ浮力が発生する。

 にもかかわらず大手メーカーのサイトで、テスター様がご自身の作ったらしい浮子を説明して「トップのグラスムクも足のカーボンも沈む素材なので、アタリに対して沈む方向に力が生じます」的なことをのたまっている。アタリの時点で素材の比重で沈む方向に力がかかってるんだったら、そのまま水底まで沈むってば。バランスして浮いてる時点で沈む方向の力なんてゼロになってるでしょ。浮子からオモリからハリ餌まで含めた仕掛けが重力に引っ張られる力と生じた浮力とが足し引きゼロになってるんだって。アタリがあったからっていきなり謎のフォースを発生させないで欲しい。
 そのオカルト浮子にアタリが大きく出る理由は、物理の基本通りグラスムクが細いので同じ長さを沈めるのに力が少なくてすむのでアタリが大きく出るというのが主なモノで、派生して魚が引っ張ったときに感じる違和感が小さいのでそのまま引っ張る距離が伸びるという視点もあるだろう。
 わざわざ浮子自体の浮力の小さいものを使った効果としては、ひょっとして、その分使うオモリが軽くなって魚が横に引っ張ったりするときの抵抗が小さくなったとかもあり得るかも知れない。
 「物理が分かっていない人が浮子を作っている」の意味がよく分かった。

 逆に、メーカー側の方が丁寧に説明しているブログに粘着質にオカルト理論をひっさげてクダを巻いているのも見かけた。
 アタリの時の感度について「トップが押しのけた水の重さが生じる浮力であり感度である」「同じ太さならムク素材だろうとパイプだろうと感度は一緒」というような説明に、最初「水中ではバランスしているが、その上の空中部分は別に考えなければならない」などと意味不明な供述をしており、浮いている船の水上部分と水中部分を分けて考えるようなことはしなくていいですよ的な説明になおも「ラインが金属で変形しないならそうだけど流れもあるからラインはたるむこともあって云々」と浮子の水上部分と水中部分を分けるべきという最初の主張を勝手に引っ込めてなおもクダを巻く往生際の悪さ。
 まあ、浮子とオモリ、餌の間にラインがあることによる浮子の感度への影響はなくもない気がする。極端な例を出すと、魚が食い上げてオモリを引っ張り上げてラインがたるんだ、てな時に浮子自体が比重の軽いモノならすぐに浮き上がってアタリの出る「感度の良さ」があるのかも知れない。逆にムクトップを使った比重の重い浮子なら、オモリが同じ重さだったなら、より大きな浮子になっているはずでユックリと「感度の悪い」鈍感な反応をするはすだ。
 でも現実的にラインたるむまで食い上げたりするんだろうか?食わなくてもラインにあたる「さわり」を感じ取れるかどうかという話もあるので、まったく考慮が必要ないわけでもないけどとりあえずは無視して良いのだろうか?底釣りの浮子では足に竹まで使って全体の浮力を出しているような浮子が多いけど、実は餌の重さ分軽くなる食い上げアタリを取るためにそうなってたりするとかあったりするんだろうか?まあ細かいところはおいおい考えていくとしよう。


 ただ、細かいところはさておくとしても「感度ってなに?」ということを真面目に考え始めると、先のブログの方の説明はちょっとバッサリ切りすぎな気がする。
 「浮子のトップの動く長さ」がすなわち「感度」なのかというと、それは言い過ぎのように思う。
 「同じ太さならムク素材だろうとパイプだろうと感度は一緒」という説明について、実験で同じ太さのパイプとムクのトップの浮子を作って、バランスさせた状態から同じオモリを追加でぶら下げてみて、さあ同じ目盛りだけ動きました。やっぱり「感度」は太さだけが関係するでしょ?というのを良く目にした。
 どれだけ力をかけたときにどれだけトップが動くか、つまりトップの最終的な「動きの大きさ」だけが「感度」そのものならその通りだが、私は違うように思う。まだデビューもしていない新米ヘラ師志願兵の私が違和感を覚えるぐらいだから、実釣経験の豊富なベテランから異論が出るのもむべなるかな。

 この実験に私なら、追加で別の実験を見せて印象を反転させることができるように思う。
 同じ太さの同じ素材のトップを2本用意して、ボディーの大きさを極端に変えた浮子を作る。そしてバランスさせた上で同じ重さのオモリを追加する。
 当然バランスさせる時点でオモリの重さが全然違う。でも、追加したオモリで沈むトップの長さは太さが一緒なら全く一緒。
 じゃあこの実験に使った2つの浮子というか、オモリも含めた仕掛けの「感度」が一緒か?と聞けば、誰でも直感的に「違うでしょ」と理解するだろう。
 仕掛け全体の重さ大きさが違えば慣性力だの水の摩擦抵抗だのかかってくる「ややこしい物理的な力」が違うはずで、動き出させるのに使う力や落ち着くまでにかかる時間が違うはずである。
 一緒だというのなら大が小を兼ねてしまう。浮子などクソでかいの1本しか使わなくていい。

 「感度」って何に対してなのか?という視点によっても全く答えが違ってくると思う。
 乱暴に言ってしまえば、小さなアタリを大きな動きで拾えるのが「感度」だとすれば細いトップの方が大きく動くので「感度」が良いとなるし、瞬間的な素早いアタリを拾えるのが「感度」が良いとすれば太いトップの方が戻りが早いはずで「感度」が良いとなる。
 浮子のトップが大きく動くにはそれだけ魚が長い距離を引っ張っているわけで、浮子のトップ以外サイズと比重が同じだとしてもその分時間がかかるので、ユックリともたもたと「大きく動く浮子」は動く。その間に、「小さく動く浮子」は短いアタリを複数回とらえ得る、なんてことが言えるように思う。
 机上の理論で素人が馬鹿臭いことを書いていると思われるかも知れないが、どんなヘラの教科書にもヘラ浮子は、アタリ以外にも魚がオモリやラインに触れた「サワリ」や餌の状況なども含め水中を知るための指標である的なことが書いてある。
 「サワリ」の感度なんていうのが、ジワーッとアタリが出る細くて「大きく動く」トップの浮子では良くなさそうだというぐらいは想像できる。たぶん、間違ってないだろう。

 じゃあヘラ釣り師が浮子に求める「感度」ってなんなのよ?と考えると、それは状況によりけりでその時々で違う、というありきたりなしょうもない答えになってしまうのだろう。だからこそ、あまたの種類のあまたのサイズのヘラ浮子が作られているのに違いない。
 浅棚で「サワリ」を出しながら、魚の寄り具合を探りつつ「食いアタリ」を取っていくのなら、太めのパイプトップの軽めの浮子が良さそうだとか、冬場の動かない魚が食った微妙なアタリを大きく拾って、かつ魚に違和感を感じさせないようにするなら、ほっそいムクトップの付いた比重もあんまり大きくない引っ張られたらそのままズルズルと水没してしまうぐらいのダルい浮子が良いんだろうなとかぐらいは分かるとともに、どんな状況でも「ハリがかりするするようなアタリ」だけを拾えるような魔法の「オカルト浮子」は、やっぱりこの宇宙の物理法則に従うかぎり存在しないんだなと理解するところである。

 「感度」が良い。というのを「トップが大きく動く」という意味だけで考えていると、「グラスムクの細いトップの付いた浮子が一番感度が良いらしいから、それが一番良い浮子だろう」と勘違いしてしまいそうである。それでいいのならもっと極端に、徐々に沈んでいく浮子とか作れば良くなってくる。
 またナマジが何もわかっとらんくせにあほなことを書いていると思うかも知れないが、徐々に沈んでいく浮子はグレ釣りとかタナゴ釣りでは当たり前に存在する。
 なんで、わざわざ沈めるんだろうと薄ぼんやりとした疑問が頭にずっとあったが、ここ数日ヘラ浮子を作って、浮子のことを考えて頭を整理していたらとても納得がいった。沈みつつある浮子は浮いてる浮子より抵抗なく引き込めるという単純明快な利点。
 今時のヘラ浮子ではポリカーボネイトのムクトップの優位性が謳われている。そのなかで、餌がユックリなじみ込む時のアタリが拾えるから的な記述をいくつか目にしたが、まさにその状態は餌の重みで「沈みつつある浮子」なんだなあと合点がいった。最初なんでそんな短いタイミングのアタリをことさら重視するのか良くわからんかったが、正直、理屈じゃなくて経験則でそれを導き出しているであろう先人達に敬意を覚えるところだ。

 にしても、浮子なんてオモリとハリと餌背負って浮いてるだけだし単純な話のはずで、あれこれいろんな種類の浮子があるのも、どうせ作ってる方が売りたいだけやろ、と勘ぐっていた。その勘ぐりはある程度正しくもアリ間違いでもあった。
 ずぶの素人が、ここまで整理するまでたどり着くのに、いかに多くの記述にあたらなければならなかったか、いかに「オカルト」な謎理論が横行しているか、「誰か正しくわかりやすく整理してくれよ!」という感じである。まあその役割の一端をゆるふわに担うしかないのかなと思うが。

 ルアーの釣りというのは、そもそもがたまたま湖に落としたスプーンにマスが食いついたのが発端という説があるぐらいで、釣れるとかいう「現象」があって、後から餌の魚のようにキラめくからとかいう「理屈」がついてくるような「それホントにあってるの?」という疑問がつきまとう「経験則」な釣りなので、勢い「オカルト謎理論」が猛威を振るっているのだけど、餌釣りって外から見ているともっと技術的に体系立てて理論が整理されているモノだと思っていたのだが、そこは同じ穴の釣り人であり、どうしようもなく「釣り人」らしいと思わされる有様だと痛感した。

 比較的単純だと高をくくっていた「浮子」ですら釣る前からこれほど悩まされるのである。これからヘラ釣りで一番面倒くさそうな「餌」について、事前のお勉強をしなければなるいまいと思うと、気が重いとともに同じぐらい楽しみでもある。つくづく面倒くせェ釣りに手を出してしまったモノだ。

2017年3月18日土曜日

「敷居が高い」の敷居の高さ

 「敷居が高い」って言葉、自分「ヘラ釣りは敷居が高い」とか使ってるけど、これってひょっとして「誤用」じゃなかったっけ?と気になってサクッとネットで調べてみたら、やっぱり「誤用」の例に出てくる筆頭の言葉の一つで、本来の意味は「不義理をしてしまい行きづらい」というもので、私が何の気なしに使っている「難易度が高い」あるいは「格式が高い」といったような意味での使用は「誤用」であるとしている説明がネット上の記事ではほとんどである。

 なので、過去の文章で「難易度が高い」的な意味で使っていた「敷居が高い」は「ハードルが高い」あたりに修正してしまおうかとも思ったんだけど、いまいち釈然としない引っかかりがあったのでもうちょっと突っ込んで調べてみた。暇だしナ。

 調べてみると、釈然としない部分の理由がある程度見えてきた。要するに「誤用」とされる使い方が、広く一般的になってきていて「人口に膾炙」してしまっているので、むしろ本来の意味がピンとこなくさえなっているから、「誤用」と断じるのに引っかかるのだと思えてくる。

 データを出してみると、2013年10月15日に小学館の「大辞泉」編集部が発表したらしい(ニュース記事には残っているが大辞泉ホームページの発表記事にみあたらないところが意味ありげ)、「間違った意味で使われる言葉ランキング」では、「敷居が高い」を「高級すぎたり、上品すぎたりして入りにくい」とする「本来と異なる意味」で使うとした調査回答が61.7%と「本来の意味」である「相手に不義理などがあって、その人の家に行きにくい」の27.8%と逆転しており、堂々第7位にランキングされている。
 ちなみにランキングは順に「ハッカー」「確信犯」「他力本願」「破天荒」「姑息」「失笑」「敷居が高い」「(話の)さわり」「なし崩し」「悪びれる」で、正直「本来と異なる意味」が明らかに変だと思ったのは「失笑」と「悪びれる」だけ、「本来の意味」も知っていたのが「確信犯」と「さわり」と「敷居が高い」ぐらい。お恥ずかしいかぎりだが、これらすべての言葉で調査回答の逆転現象が起きているので皆さん御同様のようでもありちょっとホッとしている。
 「確信犯」なんて本来の意味知ってるのは刑法学とか囓ったことある人間かミステリ小説好きぐらいのはずで、私も本来の意味は知っているけど、本来の意味で使うことはなく、もし本来の意味で使う機会があるとすれば「刑法学上の元々の意味的な「正しいことだと思い込んでする犯罪」の意味での確信犯」と長々と説明せざるを得ないと思っている。なにせ調査回答77.4%対12.7%である。本来の意味を説明もなく使ったら反対の意味に伝わって意思疎通ができない。

 言葉というのは「生き物」であって、時代と共に変化していくもので、その時代に多くの人間が使っている用法を「本来の意味と違う」という理由だけで「誤用」と断じるのはいかがなものかと思うのである。
 言葉が時代と共に変化していく端的な例を出すなら、古語では今の緑色は「青」だった、あたりだろうか。青葉とか青蛙、アオバトあたりはいずれも「ミドリやんけ」という色をしているが古語の名残なんである。

 という、時代と共に変化する言葉をとらえて、「敷居が高い」について、三省堂国語辞典では第六版で「気軽に体験できないの意味」を<あやまって>いると表示していたものを、2014年に出た第七版では、本来の意味に加えて用例として「2 近寄りにくい」「3 気軽に体験できない」を掲載しているようだ。
 依然として「本来の意味」しか載せていない辞書が多数派だろうし、識者の間でも「誤用」説のほうが強いのかもだけど、以前にも書いたようにネットの匿名の誰が書いたか分からん無責任な記事とちがって、辞書だの図鑑だのに書いた情報が間違っていたら、書いた人間の恥になるので書いてる人間の覚悟が違うから信頼性が違うと思っており、私の「誤用」をチャラにしてくれそうな説に則って新たな用例を載せてくれた先生はどこの誰じゃろかい?と調べてみたら、三省堂国語辞典編集委員の飯間浩明氏らしく、ご本人のツイートに、
 「「敷居が高い」が「気軽に体験できない」の意味で使われだしたのは1980年代以前ですが、広く知られたのは2000年以降です。当時『三省堂国語辞典』は誤用と認定。この用法への批判を助長した疑いがあります。現在の版では誤用表示はやめました。」
 「「哲学書はむずかしくて敷居が高い」のような用法は、「ハードルが高い」とも言い換えられず、他に適当な言い方もないため、一般に広まったのは当然とも言えます。意味の自然な拡張であり、これをいったん辞書で「誤用」と認定したのは早まったと反省しています。「誤用」の認定はむずかしいものです。」
 とある。潔い!なんという正直で誠実な人であろうか。自分の過ちをチャラにしてくれそうな説がないかとネットをうろつくような輩と比べるべくもない高潔さ。
 最近、ネットで簡単なことなら調べられるので辞書を引くことがなくなったけど、ネットの情報なんて繰り返しになるけど、どこの誰ともわからんヤツが書いた無責任なネタであり、良い電子辞書は買わねばならんのかなと思うところだが、三省堂国語辞典第七版は候補だなこりゃ。

 ツイートに「「気楽に体験できない」の意味で使われ出したのは1980年代以前」とあるけど、どんな事例があるのかなと、さらに突っ込んでみたら、哲学者の西田幾太郎が1942年のエッセイで不義理をしているわけでもない文脈で使っているとかも出てきて、もし、鬼の首でも取ったように「不義理以外の意味で「敷居が高い」を使うのは誤用である」とか指摘されても、絶対矛盾的自己同一的に正しいんですと煙に巻けば良さそうである。
 途切れもなく変化しつつある状態の言葉というものについて、正しい答えが一つあってそれ以外を「誤り」と断じてしまう危うさ自体も、「釈然としない引っかかり」を覚えた原因の一つかも知れない。

 最近だと、「接客業の使う敬語がおかしい」という論調を良く目にする。確かにちょっと変だなと思うような言葉使いもあるけど、注文を繰り返して「・・・でよろしかったでしょうか?」というのは「・・・でよろしいでしょうか?」とするべきだとかあたりになると、アンタのさっき言った注文は・・・だったのかという過去形の問いとしても成り立つわけで全然エェやないか、と思ってしまう。
 書いてて気付いたけど「全然+肯定」という言葉遣いは、自分の生きてきた時代の中で一般的になった言葉遣いだと思う。初めてそういう言葉遣いを目にしたときに、全然のあとには否定的な言葉がくるはずなのに、なんて「ナウい」言葉遣いなんだと衝撃を受けた記憶がある。「ナウい」という言葉が人口に膾炙したころにはその言葉は「ダサい」と思うようなマセガキだったので、全然+肯定表現初体験は70年代の話だったと思う。と思って全然+肯定表現もちょっと調べてみたら、昭和の初期ぐらいまでは普通に使われていて、その後、全然は否定表現に限られるようになっていったという歴史があって、また肯定表現にも使われだしているらしい。っていうぐらい言葉も変わるんである。

 行き過ぎた「言葉狩り」が害悪であるのは、方言と標準語の関係を見ても明らかなように思う。方言が誤りだなんて差別的な思想を今時主張する人間はいないだろう。多少違っていても、みんな違ってみんな良いんである。

 じゃあ、標準語やら正しい言葉を考える偉い学者先生とかは害悪なのかというと、そうじゃなくて、言葉が他者に情報を伝えるための道具であるからして、みんなに伝わるような標準的な言葉を選んだり、正しいと思われる言葉の使い方を考えたりするというのは当然必要で、NHKのアナウンサーが全国放送で一地方でしか通じないような方言を使ったり、誤りを助長し言葉の意味を不自然に拡散させてしまうような言葉遣いをしては問題なのは当たり前なので、偉い学者先生はやっぱり偉いのである。

 そういう偉い先生方はじめとした識者やそうじゃない人も含めて、いろんな説を戦わせたり、自然に変わっていく言葉に追従したりもしながら、「標準的な言葉」っていうのは落ち着くところに落ち着くもので、正解があるようなないような曖昧模糊とした線引きのできないことも多いものであり「公式見解がこうですから明日から従ってください」とかいう性格のものではないのだと思う。
 昔どっかの教育委員会だかが女性器の新しい呼称として「オパンポン」という言葉を提唱したとかいう話があって、まあ「落ち」としてはそんな「お上」が作ったお仕着せの言葉は全く定着しなかったということなんだが、そういうものなのである。世界の中心でオパンポンと叫んでも恥ずかしくないぐらいに人口に膾炙しなかった言葉である。
 
 とか書いてて、公式見解あったりしたらどうしようと、言葉という文化を扱う公的機関といえば文部科学省だろうと、またサクサクと調べてみた。
 文部科学省の下の文化庁の「国語に関する世論調査」というのが出てきて、平成20年度には「敷居が高い」についても調査されており、「本来の意味ではない方が多く選択されるという結果になった」と結果報告だけされていて、「本来の意味ではない使い方」については良いとも悪いとも正しいとも誤りとも書いていない、実にお役所的な歯に衣着せた奥歯に物の挟まったような調査報告である。でも、やっぱり「書けない」のが正しいんだろうなというのはこれまで書いてきたとおり。

 というわけで、答えがないような「どの言葉をどの意味で使うべきか」については、まず言葉の使用者として伝わりやすい表現を使いたい、というのが第一に考慮すべき点で、本来の意味と違う使われ方が一般的な言葉は、本来の意味と違っていても、他に無用な混乱を避けられるような言い換えが無いようなら分かりつつ使おうと思う。逆に本来の意味で使わなければならないのなら、「確信犯」で例示したように注釈をつけて使わざるを得ないだろう。
 もう一つ考慮するなら、「正しさなんてクソ食らえ」で勢いと感性で書くのもありだというところか。
 ローリングストーンズの「サティスファクション」の歌詞「I can't get no satisfaction」が、直訳すると「私は不満足を得ることができない」と二重否定になって結局「満足だ」という意味に文法的にはとれるんだけど、実際には「勢い」で強く「満足を得ることができない」というニュアンスが伝わるいい歌詞なんだよ、と解説されているのを目にして、面白い言葉の使い方だなと感心すると共に「I can get no satisfaction」だと思って普通にそれまで聞いていた自分の英語聞き取り能力のお粗末さを恥じたものである。
 

 まあいずれにせよ、「敷居が高い」という言葉に対して、本来の意味を知りつつも「本来の意味と異なる使い方」を許容するという「不義理」をしながら、変わりゆく言葉の実態と言葉はどうあるべきかという「難易度が高い」問題の明確な答えを見いだすに至らない私にとって、「敷居が高い」という言葉は敷居が高いと書くのは正しいのだろう。

2017年3月11日土曜日

バカには付ける薬もなく死んでも治らない

 あの震災から6年が経ったと聞くと、あっという間のような気もするし、ずいぶん長い時間が経ったようにも感じる。

 色々と思うところはあるけど、6年経って不安に思っていたことがほぼ的中しているので、また怒りにまかせて書かざるを得ない。

 書くことは同じことの繰り返しだが、原発反対と高い防潮堤反対の2つ。

 原発については、なぜ福島第一の後始末も終わってないのに、原発を再稼働する方向でことが進んでいるのか理解に苦しむ。既に国内で2基再稼働しているらしいが、原発稼働していない間も別に困ってなかったようにしか見えない。
 二酸化炭素排出量削減だの、エネルギー源の一極集中の回避だのは、目先の福一の核燃料処理だの汚染土の処分方法だのの危機的状況をどうにかしてから考えろ、それも原発抜きを前提にだ!と思う。
 なんというか、便所行ってケツも拭いとらんくせにテーブルに着こうとするな、まずはテメエのクソの始末ぐらいつけてからにしやがれ!といいたい。飯がまずくならァ。

 防潮堤もアホくさいぐらいの高さのがあちこちできはじめている。震災前には間違いなく、自然災害は防ぎきれるモノではないので、100%ハードで防ぐことを目標とせず、避難手段の確保などソフト面の充実で補っていくという方向性が、当の土木屋さん達も含めて合意が得られつつあったと認識している。
 それが、震災復興と人命重視の美名のもと、もとの木阿弥である。
 土木屋については、最近、近所の川の二段になった土手のうち水面に近い方のコンクリの土手の上にたまった土砂を増水時の流路確保のために取り除くというアホな工事を見せつけられているので、ことさらに腹が立つ。
 何メートルもある上段の土手を越えるような増水時に、下段の土手に積もった50センチあるかないかの土砂がどれだけ邪魔になるかって話で、そもそもそんな強烈な増水なら土砂ごと流れるってオジサン思うんだけどどうなのよ。
 くっだらねえ金使うためだけの工事で、草木も生えてカワセミもコゲラもいる河原の土手の生態系根こそぎかっさらうってのは、どういう了見だっての。ほんとくだんねぇ。
 シーバス釣りの帰りに夜、土手の上を通るたびに、停めてあるユンボの運転席にクソでもしてやろうかと思うのだが、大人げないので思いとどまっている。


 私が全く理解できないでいる事柄が、少なくとも専門家も携わった意思決定機関を通したうえでまかり通っている事実を見ると、理解できている人が少なからずいるはずである。
 そう思うと、実は自分がよっぽどのバカで、ボケナスで、情報収集と解析の能力に問題があり、論理的思考能力を欠く、アンポンタンのアンケラソウのトンチンカンの無知蒙昧で魯鈍な頓馬の抜け作で、哺乳類ならタールの池にハマった獲物を食おうとして自分もハマったスミロドンぐらいまでさかのぼらなければ例を見ない知能の低さで、短文形式のツイッターでわざわざ何回にも分けて長々と講釈をたれているような輩の話を鵜呑みにするような情報弱者で、水仙の花になるぐらいのうぬぼれ屋で、マルチ商法に引っかかる意識高い系のようなカモネギな世間知らずで、メスに寄生するミツクリエナガチョウチンアンコウのオスぐらい何事も他人任せで、「私は自分の目で見たモノしか信じない」とかいいながら手品を奇跡と信じ込むような盲信者で、カエルの背中に乗って川を渡るときにカエルを刺すサソリぐらい融通が利かず、趣味の蕎麦打ち程度で「蕎麦は奥が深い」とか言っちゃって脱サラしてそば屋を始めるもすぐに店をたたむ羽目になるような勘違い野郎で、胃に収まらないワカサギが口腔内に溢れているにもかかわらずさらに食おうとして口を開くたびにワカサギが逃げ出してる大イワナのように近眼視的で、大きな排気音をあげて走ると車が速く走っているだけなのにアクセル踏んでるだけのくせして偉そうな態度を取る輩ほど幼稚で、ロバに乗って風車に突撃するぐらい暗愚で、古代怪獣ツインテールの天敵ぐらい愚鈍で、私の母はデベソで私の父はマザー○ァッカーなのではないか、と心配になってくる。


 バカには皮肉が通じないときがあるので、親切に説明してやるなら、上の段落は「オレから見るとオマエらとんでもねえバカにしかみえない」という意味である。まあバカの相手をしている時点で自分がバカであることも否定できないことは知ったうえで口汚くののしったつもりである。
 おわかりいただけたかな。バカどもめ。

2017年3月5日日曜日

アニメにおける釣り具の表現

 今回は「アニメ・映画など日記」の出張版でおとどけします。この時期釣りブログなら渓流解禁ネタとかがお約束だけど、花粉症で家にこもってるので釣りネタ切れてアニメネタ。
 今期アニメはクソ面白いのが多くて楽しめているけど、ちょっと気がついたアニメの中での釣り具の表現についてなど、ひとくさり書いておきたい。

 だいたいにおいて、アニメでもマンガでも釣りをするシーンが出てくると、現実にはあり得ない構造の釣り具になっていたりして、釣り人としてはちょっと興ざめすることが多い。まあ、釣りしない人からみたらそんなもんだろうなと思うのだが、スピニングリールのラインがラインローラーのところにかかってなかったりなんてのはありがちである。

 まともな釣り具が出てくるのは「釣キチ三平」とか「つり玉」とか釣りを題材にした作品を除くと記憶にある限り「トムとジェリー」ぐらいで、トムさんが使ってたリールは投げるときにハンドルが回る両軸のダイレクトリールで、いわゆるケンタッキーリールと呼ばれるやつ。タックルボックスにはジタバグやハワイアンウィグラーぽいルアーが入っていたりして「トムさんアーボガスト使いか、渋いな」と釣り人としてほくそ笑むところ。立ち入り禁止の釣り場に忍び込んで釣りするところとかも釣りが分かってる感じだ。ちなみにライブベイトとしてはジェリーを用意している。トムとジェリーは古い作品で新作とか除くと著作権が切れているのでユーチューブで視聴できるが、古さを感じさせないアニメーションの動きの良さとか今みても感動する。釣り回は「変な魚釣り」というタイトルなので是非みてほしい。

 でもって今期視聴中のアニメなんだが、まともな釣り具が出てくる作品が2作品あった。

 開高先生が良い映画はちょっとした小物にもちゃんと気を配って作っていると書いていて、例としてタバコ吸うシーンで使うライターが、ドイツ軍ならイムコでアメリカ軍ならジッポでとあげていた。「神は細部に宿る」とか、アニメでも同じことが言えると思うのだがどうだろうか。

 「リトルウィッチアカデミア」は、ハリーポッターのような魔法学校ものなんだけど、魔法学校の先生に「金魚鉢の中の魚」の先生がいて、その先生を主人公が下水に流してしまったときに、しばらくごまかすために主人公の指導担当の先生が黒板消しに魔法をかけてルアーにして金魚鉢にぶち込むのだが、このルアーがヨーズリのデメキンの琉金バージョンみたいな感じで、制作会社のトリガーの担当者だかは「ヨーズリマニアか、ご愁傷様だな」と釣り人としてほくそ笑んだところ。他にも魚の先生が流れ着いた湖で密漁者が使う籠がいわゆる「カニ籠」で実際の物と同じ構造で主人公が「ひらけごま」の魔法を唱えるとパカッと真ん中からオープンしており、そういうの好きな人間がいるのか考証担当が調べたのか、いずれにしても細部まで詰めてあるなと感心したしところ。

 もう一つは「小林さんちのメイドラゴン」。この作品は「ドラえもん型」の異世界から居候がやってくる系の作品で、海に遊びに行っての水着回でだが、小林さんが、ドラゴン形態(普段はメイドに変身している)のトールの背中で魚釣りをするのだが、この時の道具がいかにも海近くの釣具屋とかでセットで買ってきたような、安っぽい針金2重巻きのガイドが付いたパックロッドのスピニングタックルで、ちゃんとベールを起こして投げているし、ラインローラーでラインを拾って巻き取っている。何度か静止画像で確認していたらトールの背中には釣り竿セットが入っていたビニールパックも置いてあり、トールがなにげに翼で小林さんの日除けをしていたりするのとかとあわせて、実に細部まで丁寧に描かれていることが分かる。さすが「京都アニメーション」と唸らずにはいられない。絶対作画か考証か担当した人間が本物の「釣り具セット」を買って調べているはずだ。じゃないと、ビニールパックのリールと小物が入っている部分が膨らんでいる形とかまで描けるハズがない。最近はいい加減な描写ではネットのうるさ型がゴチャゴチャ言いかねないので考証は丁寧にせざるを得なくなっているという事情もあるのかも知れない。実際オタクな釣り師がこうやって静止画像チェックしているのだから。だとしても、こういっちゃ何だけど、たかだか深夜のアニメのエンタメ作品に対して、そこまで丁寧に作り込むか?と驚くぐらいに、きっちり真面目な仕事を積み重ねているからこそ、たかだか深夜のアニメのエンタメ作品が、待ち遠しくて木曜の朝早起きしてしまうぐらいに魅力的になっているのだろうと思う。素晴らしい仕事っぷりだ。

 ついでにもういっちょ、釣り描写の出てくる作品が異世界ファンタジーものの「このすばらしい世界に祝福を!2」、で1期の時も今期もエンディングで牧歌的な歌が流れるなか、主人公が魚釣りをしているのだが、これが延べ竿で竿より仕掛けが長いいわゆる「バカ」が長すぎる状態で釣っているのだが、これはこれで主人公の釣りの素人臭さがでてて牧歌的な雰囲気にもマッチしているような気もして、基本的にゆるくて楽しいこの作品には相応しいように感じる。「このすば」は予算が限られていると噂に聞くけど、メリハリ付けて手を抜けるところは抜きながらも、低予算ならではのチープな雰囲気のなかで、それでも面白いと楽しまずにおれない作品に仕上げている。金がなくたって手元にあるカードでキッチリ勝負している感じはこれまた良い仕事だと思う。

 たまたま自分が詳しい釣り具が出てきたので、そういう部分でも今期は楽しめている。

 しかし、そういう細かいところまで詰めた良い作品や突き抜けて面白い話題作も目白押しの中、今期、アニメ好きの話題をかっさらっているのは、低予算のショボいCG作画の、台詞も棒読み気味のギャラ安そうな声優が「たーのしー」「すごーい」と脳を溶かし、IQを下げにかかってきているかのような「けものフレンズ」である。一言で内容説明するなら「美少女動物園」という感じの作品。
 1話目みてあまりのショボさに2話目からみていなかったが、3話目ぐらいからオタクどもの間で話題沸騰状態だったので見直したら、ゆるくて癒やされるほのぼの感に「絶滅」とかほの暗さが影を差し、ときに狂ったような笑いのネタをぶち込んでくる芸風に次第に引き込まれ、気付けばIQを削られ「たーのしー」と視聴させられてしまっている自分がいる。
 何がそんなにウケる要因なのか正直謎である。たった10数人で作っていたという制作陣さえあまりの盛り上がりぶりに戸惑っているようで、監督が「ここ500日ぐらいずっとアニメ作ってたので世間がどうなっているのかわかりません。正直何が起こっているのかわかってません」とかつぶやいていて笑った。
 「たつき」監督はじめ制作陣は、調べてみると「てさぐれ!部活もの」を作っていたチームと知り、ちょっと納得した。低予算でアイデア勝負と出たとこ勝負はお手のものなのかも知れない。
 にしても、何があたるか、何が面白いかなんてのは、分からないモンなのである。「てさぐれ」も面白かったけど「けもフレ」ほど話題にはなっていない。
 宣伝とかにもお金をかけた期待作が大ゴケすることもあれば、低予算でバカあたりもある、ってところがなかなかに味わい深いところというか、何でも一緒だよなと思う。

 勝負は下駄を履くまでわからない、という当たり前のことにつきるのかも知れない。すごーい!