2018年7月21日土曜日

オレたちはエルフじゃねェ!


 北欧神話やら欧州の伝説から、「指輪物語」のトールキンあたりをへて、日本ではドラクエとかのロールプレイングゲームなんかもへて、エルフ、オーガ、ゴブリン、オークなんていう空想上の亜人種についてはすでにキャラクターとして日本のサブカル界隈でもお馴染みである。まああれだ、人間の女騎士がオークの男どもにつかまって性的暴行を受けそうになって「くっ!殺せ」とかいっちゃうのがお約束で、そういうお色気担当の女騎士を業界では「くっころ要員」と呼んでおります。
 そういうファンタジーなマンガだのアニメだの楽しんでると、当然主人公側の人間達は清く正しく友情努力勝利な感じで描かれていたりするんだけど、ちょっと俯瞰して見てみると、人間って、長命で美しく知識に富み争いを好まないエルフではぜんぜんないことはもとより、主人公側の人間達もずいぶん美化されていて、オークの醜く好色な部分も、オーガの凶暴で残忍な人食い鬼の部分も、意地悪でおふざけが過ぎるゴブリンの部分も「それってむしろ人間の性格じゃないの?」と思わされる。すべての人の心に潜んでいそうなそういう醜い部分を抽出したり、醜い人間を誇張して風刺的に描き出したのが、これらそれぞれの亜人種なんだろうなと思う。

 我々ホモ・サピエンス(以下「ホモサピ」と略)の得意なことといえば「争い」と「策略」と「搾取」ぐらいだろうと思ってて、生物としての進化の歴史の中でも、他種の「ヒト(人類)」をペテンにはめて打ち負かすとともに、持ってた財産から文化から奴隷としての女子供まで奪い取って、唯一生き残った最強というか他種にとって最凶の「ヒト」だったんだろうなと、ややうんざりしつつ思っていた。
 ヨーロッパでホモサピと同時代を生きていたネアンデルタール人なんてのは、体の大きさとか身体能力的にはホモサピ以上で頭も良かったとか聞いてたので、ホモサピの中にネアンデルタール人のDNAの一部を引き継いでいる人が現代にもいる。と聞いても「ネアンデルタール人滅ぼす過程で酷い性的陵辱を与えた結果とかの混血なんだろうな」と嫌な気持ちで聞いていた。何しろホモサピどうしの戦争とかでも、勝ち馬に乗った側による性的虐待とかお約束といって良いぐらい人類史を見れば行われてきたわけで、ホモサピがネアンデルタール人に同じようなことをしていたのは火を見るより明らかなことだと思っていた。
 我々ホモサピのご先祖様がアフリカ大陸から出て世界中に散らばっていく時代には、さっきから出てきているネアンデルタール人の他にも北京原人やジャワ原人に代表されるホモ・エレクトス(直立原人?)とかもいて、ファンタジー世界のように一つの世界に何種類かのヒトが同時に存在していたようである。その中で、我々は当然エルフなんかじゃなくって。残酷で略奪好きの、スケベなオークと残虐なオーガをあわせたような種族である「ホモサピ」だったんだろうなと思っていた。21世紀にもなって、相変わらず争いごととか絶えない種族だし恥ずかしくも思っているけど、そうじゃなきゃ生き残れなかっただろうし仕方ないだろうとも思ってた。

 でも、「NHKスペシャル 人類誕生」の3回シリーズを観終わって、認識を改めるとともに「ホモサピそこまで邪悪な生き物じゃなかった!」と安堵を感じている。
 ネアンデルタール人が滅びたのは、気候が寒冷化した長い時代に対応した、大きな体で沢山の獲物を獲って食べるという生態が、気候が急激に変動する時代に入って森が減り獲物が減るのに適応できなくなり滅びていったというのが真相らしい。
 彼らは高い身体能力を生かして、映像では槍持ってケブカサイに突撃してたけど寒期の地球の森林に多くいた大型哺乳類を対象とした狩人で、比較的小型で多様な獲物を狙っていた我らのご先祖であるホモサピとは餌が違うので争いにはならなかったとみられているようだ。人類どうしの争いの最初のモノはホモサピ対ホモサピだろうと紹介されていた。まったくオレたちゃ争いが好きなんである。

 で、我がご先祖のホモサピ達がネアンデルタール人が滅んだ気候変動期をどうしのぎきったのかというと、番組では「同じ宗教とかをもとに多くの人が助け合い乗り切った」という見方を紹介していた。
 宗教とか社会的哲学とか、それが争いのタネにはなったり負の面もあるけど、実際に見たモノではない、まさにファンタジーと言って良いようなものを信じることができる「想像力」と、遠く離れた人ともお互いに助け合うことができる情報伝達・共有やコミュニケーション能力いわゆる「コミュ力」による絆が厳しい時代にもホモサピを生き残らせたということらしい。
 我らホモサピは争い好きで強欲でという悪い面もあるんだけど、想像力豊かでコミュ力高くて仲間と助け合って生きていけるという良い面もちゃんとあるようなのである。それを知ることができてとても嬉しい気持ちだ。
 ホモサピのどんな民族、文化にも神話とか言い伝えとかあって、それは実際に目にしたモノでなくても、人々を導く行動の指針となり得るとともに、そういう神話言い伝えの時代から想像力で補って創りあげた物語を楽しむということがホモサピには共通した資質としてあり、「コミュ力」なんてのは、就職試験でも重視されるようなホモサピには大事な能力とされている。ワシあんまりコミュ力高くないほうだけど、それでもこうやって外の世界に情報を発信する能力ぐらいは持っている。そうであればホモサピはエルフじゃないけど、オーガやオークでもないんじゃないかと思う。やっぱりホモサピはホモサピなんだろう。

 でもって、そんなホモサピがどこでネアンデルタール人と交雑したのか、どうもホモサピ人類史における「出アフリカ記」の最初の頃に既に起こった出来事らしい。アフリカで生まれたホモサピが、アフリカから中東あたりに出たすぐにネアンデルタール人と交雑したので、その後ネアンデルタール人とは接触していないはずのアジアに向かったホモサピにも当然ヨーロッパに広がっていったホモサピにもネアンデルタール人由来のDNAが認められるそうなんである。日本人でもほとんどのヒトに残っているそうで、ホモサピはネアンデルタール人から寒冷地用の白い肌とかヨーロッパの病気に抵抗する能力とかの遺伝情報をもらったんだそうな。なんというか自分にも多分ネアンデルタール人から受け継いだ資質が残っているとか、とても遠い昔から繋がれてきて今ここにある自分を意識させられる感動的な事実である。
 その出会いは、映像では親たちとはぐれたネアンデルタール人の少女を保護したホモサピの群れの男の子が大きくなった少女と恋に落ちて子供を授かるというボーイミーツガールな美しい物語になっていた。実際にどうだったかは見てきたわけじゃなくて分からないにしても、食糧として狙う獲物が違うので争いのタネはあまりなく遭遇衝突の結果とかよりは、言葉通じない中でもビビッときた的なロマンスの方があり得たように信じたい。まあこの時には、ホモサピの性的な嗜好の多様性が役立ったとは想像に難くない。出アフリカ時肌の色も黒くネアンデルタール人に比べて細く華奢だったホモサピだけど、手足短くがっしりとしつつ、色が白くてブロンドだったりしたはずのネアンデルタール人の異性にしっかり欲情できたというスケベさは欠点ってわけじゃあないように思ったりする。そういうちょっと自分と違う異性に引かれるなんてのは我々ホモサピがご先祖様から引き継いできたモノであり、ホモサピが生き残ってきた要因の一つだったりするのかも。グッヘッッヘすけべぇでナニが悪いんじゃ。

 でもって、NHKスペシャルの3回目では、アジアに広がったホモサピが、海を渡って世界に広がった方法とかについて検証してたんだけど、日本列島に渡ってくるのに北の極寒地を緻密に縫い合わせた毛皮の衣類で克服してやってきたのと、台湾と与那国の間を船で渡ってきたルートが同時進行的に一番最初だったようで、でもこの台湾ー与那国間が難関で、海の中の大河である「黒潮」を横切らなければいけないので、草舟とか竹舟では越せそうにないのである。
 当時のご先祖様達も諦めなかったから今の我々日本人がいるんだろうけど、失敗しても失敗しても検証チームの科学者達も諦めない。最新の知見で石斧が使われていたと知って、石斧使って大木切り倒して丸木舟作って、今年再挑戦だそうである。海の向こうのここではないどこかに素晴らしい世界が広がっていて、そこににたどり着きたい。そういう妄想を抱ける想像力がホモサピの根源的な力の元だと確信する。
 その妄想を具現化する力は念能力とかじゃなくて、みんなで情報共有しながら、良い道具ができたら、みんなで使いつつさらに良いのを作ろうと工夫するという力で、そうやって工夫されてできた縫い針が寒さのつけいる隙のない衣類を実現し、石斧が船を穿ち、釣り鉤が獲物をとらえる。道具をいじくる楽しさは、ご先祖様から引き継いできた根源的な喜びでありつつ、ホモサピの最も得意とすることの一つである道具の改良という技能に直結している。
 ホモサピが他の類人猿やらカラスやらタコやらと一線を画すのは、脳の外部に情報を集積して他者と共有できるということかなと思っていて、それは文字の発明とか書籍とかが典型なのかなと思っていたけど、こうやって道具の改良の始まりと共用の歴史とを見ていくと、必ずしも文字は必須ではなく、現物持っていって「こんなの作ると便利やねん」ってやっても良いし、口頭で伝える「口伝」形式でも、文字の発明の前段階で既に、ホモサピは他の動物とは別次元の情報共有をやってのけてたように感じる。文字を持たなかったけどアイヌの文化も素晴らしいなんてのは、今時「ゴールデンカムイ」読んだら分かるでしょ?

 てな感じで、NHKにはやっぱり喜んで受信料払っておく価値があると納得していたんだけど、有料配信もなかなか鋭くて、某中古釣具屋で釣りビジョンが流してあったんだけど、なんか人類学系の学者さんが太平洋の島々への人類と釣り文化の伝播とをハワイイのビショップ博物館の収蔵物とか紹介しながら説明していて、そのスタート地点も奇しくも台湾で、そこから東南アジアの島々に渡って、ニューギニア、フィジーへ展開し、マルケサス諸島を経て最終的にはイースター島、ハワイイ諸島、ニュージーランドへと伝播していったそうだ。おもわず画面の前に仁王立ちで小一時間魅入ってしまった。

 特に釣り鉤の伝播と改良について、年代や島毎の違いなんかを解説していたあたりが出色の面白さだったんだけど、私もハワイイの水族館で見たんだけど、二つの部品をフトコロの下の方で縛って釣り鉤にしている形のがあって、てっきり加工技術が拙かったので、よく知られている鹿の角を水分で柔らかくしつつ削りだして継ぎ目のない釣り鉤にするなんてのより古い作り方なんだと思ってたら、そうじゃなくて、ハワイイには他の島で多産したような白蝶貝とかみたいな大きな貝が素材として手に入りにくく、大型の哺乳類もブタぐらいで、大きな釣り鉤を削り出せる大きさの素材が手に入らないので、2つの骨から削り出した部品を組み合わせてなるべく大きな釣り鉤にしているのである。納得した。
 ちなみに、一番大きな骨は人間から手に入り、そういった貴重でいかにも霊験あらたかな素材で作った釣鉤には「マナ」と呼ばれる力が宿ると考えられていたそうで、自分が死んだら一緒に埋葬してくれと願った漁師もいたそうである。そういう特別な力の宿る道具でロウニンアジやオニカマス、カマスサワラなんていう大物を仕留めて、場合によっては神に捧げたりしていたことが明らかになってきているそうである。
 カタログスペックだけご大層な高級釣具様を次から次へと買い換えて、飽きたら中古釣り具屋へ売っぱらうなんて輩には爪の垢を煎じて飲ませたい。墓場まで持ってくぐらいに大事にして信頼して共に闘うから、その道具に特別な力が宿るという昔のハワイイの漁師の感覚に21世紀の釣り人である私も大いに共感する。ヒトと道具の関係はそのぐらい濃いものだと、ホモサピの歴史を学んで改めて深く得心するのである。
 
 人はどこから来てどこに行くのか?
 それは、アフリカから来ておよそすべての遠いところまで行くんだろう。実際に行けるかどうかは分からんにしても、ホモサピの「想像力」は既に宇宙の深層まで手を伸ばしつつあり、その真相に手を掛けかけてるんじゃなかろうか。
 人がどこから来てどこに行くにしても、頭には「想像力」を手には「道具」を心に「コミュ力」を携えて行くのだろう。

2018年7月13日金曜日

秘技!変異抜竿霞捕り!!

 ほぼ我流でアユ釣りを学んでいるので、技術から道具からいちいち実践で試して失敗して改良してという課程を経ねばならず、面倒くさくも楽しい日々である。
 ということで、小遠征を直前にいくつか道具をこしらえたりしたので、その辺の小ネタでいってみたい。

 まずはタモ入れ問題。解禁当時の10センチあるかないかのアユでは問題なかった金魚網だけど、アユが15センチを超え始めると、ちょっと暴れたときに飛び出しそうでこわいなと思いつつも、まあ何とかなるだろうとたかをくくっていたら、25センチぐらいのウグイ(かマルタ)を釣った時に、掬うのは問題なかったけど写真撮ろうとしてたら暴れてやっぱり飛び出してしまった。そのうち20センチオーバーのアユはやっつけねばならんのでこのままというわけにはいくまいて。
 私が考える良いタモ網の条件を再度書くと「枠が充分に大きく、網が充分に深い」なんだけど、金魚網はその単純明快な条件に合わなくなってきた。さらには、餌釣りの時には一本針で単純な仕掛けなのであまり絡まないこともありバラし防止にカエシ有りの袖針を使ったところ、目の細かい網でも貫通してしまうと外しにくくて面倒くさいという問題も発覚した。
 というわけで、タモの深さと枠の大きさを上げつつ刺さりにくいのをと考えてみた。もちろんハリが刺さりにくいぐらい細かい目に編んだ高級アユタモなら条件に合致するのかもだけど金かけねえのが課題の一つなので却下。タモ網ごときに大1枚も使えるかよケッてなもんである。
 ハリが刺さりにくく絡みにくいという一点なら、ラバーネットが一番だと思っているけど、ヘラ用に使ってるのは目が大きくてアユが抜けて使いようがない。でも1センチぐらいのアユが抜けない目合いで35センチ枠ぐらいのがマス用にあるので網はコレで行く。千円ぐらいで必要経費と割り切れる値段。
 枠をどうしようか?アユ毛鉤釣りでは腰のベルトに差しておいて抜くか、差したままタモの中にアユをぶち込むかというのが主な使い方で、タモの柄は短くて良い。でも腰に差したままで網が上を向くようにとか、リュックサックに入れて持ち運びできるようにとか考えると、柄の角度を変えられて取り外し等も可能とか意外と面倒くさい。コレまで使ってた金魚網なら枠の針金なんて曲げ放題だからどうとでもなったのにな、と思ったら「針金で良いじゃないか!」と気がついた。

 早速、東急ハンズで直径4ミリのアルミの針金400円ぐらいで買ってきて作成。バッチリですがな。オールアルミモノコック?フレームとかなんか軽くて良さそうな言葉の響きも良い。道具の問題はこれで大丈夫だろうと思う。写真は折りたたみ収納時の状態。

 でも、タモ入れ関係では技術的な課題も見えてきている。よっぽど良い型じゃなければアユは引っこ抜いてタモにぶち込むんだけど結構ポロリが多い。あんまり釣れていない時間帯なら抜かずに丁寧にタモ入れしておけば良いけど、時合いって結構短くてとにかく急ぎたくなるので抜く。
 で、その時に抜いた瞬間ポロリと落ちるのは掛かりどころが悪かったと諦められる。でも手元まで来てポロリは精神的にガックリくる。とくに流し毛鉤仕掛けの上の方の鉤に掛かっている魚を腰のタモにすぐに降ろせずにモタついてて落っことすと「ナニやってんだオマエはッ!」と自分をなじりたくもなるというモノである。
 直近2回ほどオイカワがバコバコ釣れるという楽しい状況の時に、どうやるのが一番理にかなっているか試してみた。まずタモを左手で抜いて魚を迎えに行くのは振り子のように揺れる魚が網の中にとらえにくい上に網に入っても落ち着かずに飛び出しやすく却下。結局、タモは腰に差したままで、掛かっているのが上の方の鉤だと分かったら魚を水中で泳がせておきつつ右手で持ってる竿を一瞬左手で支えて右手を竿の上の方にズラして短く竿を持ちなおしてから引き抜くというのが、魚が水中にいる間はバレにくいし、引き抜いた魚が網の中に落ち着きやすく、空いた左手で魚の上のあたりの道糸を掴んでタモに魚を誘導できるので一番失敗が少ないように思う。
 さらに、抜くときに放物線を描いた魚がそのままタモに入るぐらいの抜き方を心がけて竿で調整しつつ左手でたぐるのも併用してタモに収めるようにしていると、飛んできた魚の重さが再度かかるときやその後タモの上でバタバタしているときに落ちた魚がタモに入ってくれることが結構多い。ハリ外しの手間も必要ない最速の取り込みである。この技を「変化抜竿霞捕り(ヘンゲバッカンカスミトリ)」と名付けていついかなる時でも決められるように修行してみたい。


 次に玉浮子問題である。
 「川釣りの極意」でお薦めの中通し玉浮子を使った単純明快仕掛けは絡まないし玉浮子の安定した浮力は流れにもまれても見やすいしで実に良い塩梅なんだけど、中通しの玉ウキの良いのがあんまり売ってない。シモリ玉の5号か6号あたりでも良いっていえば良いんだけど、木製のちょっと重さのあるヤツは風にも強くて見た目も可愛らしくてコレまで玉ウキは樹脂製足つきのいわゆるセル玉ウキこそ至高と思ってたけど、木製中通し玉浮子を使ってみるとコレこそが探し求めていた玉浮子だと思えるぐらいに味わい深さもある浮子なのである。
 買ったのは九州の浮子屋さんがつくってる「ギンナンうき」というブランドのだったけど、渋谷のでっかいJ屋にも直径20ミリぐらいの大きめのしか置いてないし、通販で探しても見当たらない。
 まあ、なきゃ作るか?といういつもの流れで作ることにした。とはいえ木の丸棒買ってきて真ん中に穴開けて削って球にするのは正直めんどくせえ。たしか穴の空いた玉が東急ハンズとかで売ってたし探せば欲しいサイズもあるだろう?と通販で探してみると、あるどころか既に着色までしてあるのが各種売っている。
 民族衣装っぽい服装と合わせる首飾りとかの素材として「ウッドビーズ」という商品名のようだ。個数が50個入りとか多いのばかりで小数売りを探すのにちょっと手間取ったけど、まあパソコンの前でカチカチやってるだけなのでたいした手間でもなく、木目をいかした黄色16ミリ、オレンジ14ミリを購入。穴はそのままだと3ミリほどあって道糸止めるのが難しいので、3ミリの浮子ゴムパイプを買ってきて突っ込んでウレタン接着剤で固定。するとこの浮子ゴムの穴にちょうどヘラ浮子製作に使ってた竹串があつらえたようにはまってくれて、ゴム使ってるので道糸にも優しく実に使いやすく仕上がった。ウレタンどぶ漬け1回して頭のほうに蛍光オレンジを塗って完成。プカプカとゆるふわに流れていく玉浮子の様はまるで木の実のようで趣があってよろしい。
 写真の右真ん中へんの3個が完成品なんだけど「ナマジさん、はみ出してるゴムぐらいきちんと切って仕上げたらどうなの?」と思うかもだけど、そういう仕様なんです。ライン止め用の竹串の長さをはみ出してるゴムぐらいまで来るようにして頭の方は引っかからないように使用時押し込んでおく。そして外す必要があるときにはゴムのところを押して竹串の頭を露出させて摘まんで引っ張って抜くのである。
 シモリ玉とか固定するのに、爪楊枝方式だと抜けたりしやすくかつラインを傷つけそうで、ゴムとか毛糸とかを引っ張り込む方式は仕掛け作るときに面倒くさいので良い方法がないかとは思っていたけど、たまたま買ったウッドビーズの穴が大穴だったので詰め物的に噛ませた浮子ゴムが問題をさらりと解決してくれた。特許でも取って売り出そうかしら。まあいいや真似してもらって結構です。でもこの方式の中通し玉浮きは今後「ゆるふわ玉浮子」と呼んでいただけると考案者冥利に尽きます。すでに玉浮子以外の浮子で同じ方式の既製品ありそうだけどね。 

 てな具合で今日の夕方出発を控えて盛り上がってます。
 現地いまいち増水の引きが悪くて、昨日またちょっと降ったこともあっていつものポイント釣りになるかどうかと心配される状況のようですが、そんなもん増水時には増水時の釣り方ってあるはずで、アユ釣りにおいてそれがどういうものか知らないっちゃ知らないんだけど、イワナ・ヤマメやオイカワの釣りで学んだことを応用していけば自ずと答えにたどり着くはずである。増水したら、「渕尻」「流れの裏」「支流・小河川」ぐらいがアユでも効きそうな要素だろうか?季節も良いし良い釣りになるに決まっている。
 遠征前はだいたいそうだけど、今回も絶対釣れるという根拠のない自信が満ちあふれている。そんな甘く考えていて良いのだろうかとか思わなくもないけど、これでいいのだ!(©赤塚先生)

2018年7月7日土曜日

川デ川鵜ガ魚ヲ食ラウ、ナニゴトノ不思議ナケレド


 アユ釣りやヘラ釣りにおいて、放流した魚をカワウが食ってしまうので問題である、「駆除してしまえ」という乱暴な意見を目にするにつけ、色々思うところではあったけど、基本シーバス野郎で江戸前小物釣り師の私にとっては人様の釣り場の話であり、人んちの事情にエラそうにしゃしゃり出てあれこれ言うのもはばかられたので、あんまりネチネチとは書かないでいた。「鳥もいないと寂しいじゃないですか?」ぐらいのポヤンとした書きぶりでお茶を濁してきた。

 でも、ヘラ釣りもアユ釣りも始めてしまって、人様の釣り場の話ではなく、自分の釣り場の話として当事者意識を持って、正々堂々と腹に据えかねていたことを書かせてもらう。

 「カワウが魚食うのは昔っからそういう商売の鳥だから仕方ねえだろ!」

 もっと構造的な釣り人が犯した罪をあからさまに書くなら。

 「どこでも、いつでもホイホイ釣れる釣り場が欲しくて、適正量とか関係なしに成魚放流ジャブジャブして、トロくて逃げもしないような養殖魚で餌付けしてカワウが産めよ殖やせよするの手助けしたのは漁協も含めた釣り人側だろうが!テメエの撒いた種じゃねえかよ!」

 ということである。いやなら成魚放流止めりゃ良いジャンよ、カワウ可哀想だけど餌足りなくて数減るに決まってるでしょ。
 近年のカワウの増加はバカみたいな成魚放流の量と相関関係があるような報告があったはずである。元ネタ興味あったら検索でもして欲しい。

 そりゃ、釣るときにも釣りやすいんだろうけど、障害物少ない開けた水域に、警戒心も薄れた池育ちの魚大量にぶち込めば、天然育ちのすばしっこい魚がいる障害物の多いややこしい場所じゃなくて、そっちで餌食うわナ。オレがカワウでもそうする。実際カワウそうしている。それをカワウが多くて釣りにならないって言わなきゃならないぐらいになっても、まだなお天然自然の鳥も虫も植物も動物もいる川にアホみたいな量の成魚放流の方がおかしいとは気付かないのか?川で何を見て魚釣ってるんだ?お高い高級ロッド様の曲がり具合の美しさぐらいしか目に入ってないんじゃねえのか?

 アユ釣り始めるにあたって行けそうな距離の川の情報調べてたら、「漁業権を持つ内水面漁協としては「増殖義務」があり、放流は義務である」とかホームページに書いていたりしてガッカリしたけど、今の時代になにいってんだとしか思えない。河川の魚たちのもともと持っている増殖力を使って川の魚を増やすのが本筋で「ダムできちゃたので放流しないとアユいません」とか「都市近郊なので秋までに魚が釣りきられて自然繁殖無理です」とかいうときの、次善の策というか「ごまかし」で放流して増殖するという手法がとられるというのが本来で、どこもかしこもアホみたいに放流してカワウなんていう高次捕食者の生態やら生息数やらに影響あるぐらいに全国的に成魚放流だらけってのは度を越しているのは明白。
 べつに「増殖の義務」を果たすために、産卵場の造成やってみたり、魚釣りきられて困るんなら禁漁期や禁漁区増やして見回りやらの強化に金使っても(ホントにやるとかなり金かかりそうではあるけど)、今時それが「増殖の義務を果たしていない」なんて表だって言えるバカはさすがにいないと思うけどな。それで魚が少なくても天然モノしかいない釣り場っていうので魅力を感じる釣り人もいれば、ぶっちゃけ放流に金使わなくて良い分入漁料は安く設定できるだろうから、そういう面でも魅力となり得るんじゃないだろうか。バカみたいに金かけて成魚放流しているから「アユの入漁料は高い」というのが常識ならそれが因習でなくて何だと言いたい。

 成魚放流で追いの良い琵琶湖産鮎をガンガン入れて解禁直後から爆釣で釣り人に大人気ってのをやる川が中にはあってもまあ良いと思う。そういうのが好きな人はいるだろうし、そもそもダムで天然遡上がなくなったとか、放流でもしないとアユいなくて寂しいというのは「だったらダムつくらせてんじゃねエ」ってまでいうのはちょっと厳しい言い方かなとも思う。でも、そうやってどこでもダム作らせてどこでもアホみたいに放流して、天然遡上をメインに放流は補助的に行っているなんてのが逆に珍しいというのが、漁業権のある川の実態である。そろそろ無理が生じてまっセ、色々とね。

 高度経済成長期からのレジャーの需要増に応じて「魚が沢山釣りたい」という釣り人の切なる願いも聞いて、漁協としては沢山成魚放流してきたんだと思う。全否定するつもりもないし多くの釣り人を楽しませてくれてきたと評価もできる。でも景気もボチボチな時代に入って、鮎の友釣りとか道具がこんなにクソ高くなって技術もマニアックになった時点で口閉じられなくなって滅んだ剣歯虎のように滅びの道を歩んでいるようにしか見えない。今やってる鮎師がアユタイツ履いて川に立てなくなるぐらい足腰ヨボついて撤退したら新規参入者なんて多くないので廃れる。
 そうなったときに入漁料が減って金が無いから増殖義務果たせません。では、義務が果たせねえんなら権利なんか引っぺがされる。そうなったときに、金は使ってませんが、魚の量を把握して産卵数や稚魚数が適正に増えるように産卵場造成や、産卵期の禁漁期間延長とかで対応しています。っていえるようにしておいた方が良いよと、老婆心ながら書いておく。
 そういう外に出して恥ずかしくない、河川の管理者として漁協が機能していくなら、多分モノの分かった釣り人は来て普通に釣って楽しんでいくだろうし、川が酷い目に遭いそうなら声を上げてくれるんじゃないかと期待できる。
 いまの、成魚放流ジャブジャブの釣れれば良いだけの釣り場を疑問も持たずに支持している釣り人層は、べつに河川が真っ直ぐになって鳥も居なくても、なんか木でも生えてて自然っぽい背景が後ろにあって、魚が釣れればそれで良いじゃないかとか思いそうでおそろしい。そうであれば川が真っ直ぐにされても声もナニも上げないだろう。
 まあ普通は、ちょっとヘンだとは思ってるけど、釣り人の多さとか考えると必要悪だよね。ぐらいは思っていて欲しいんだけど鮎師の方どうだろうか?
 今後10年単位で考えると釣り人の多さは解消していくだろう。だって人口減るんだから。その時に天然遡上の釣り場が残ってないと放流できなくなってくるからアユ釣りできなくなるよ、と心配しているところ。ていうか釣り人が文句も言わないようになった川はコンクリで固められる。

 近所の川には漁業権もなく漁協もない、でもアユは天然遡上がある。もちろんこのアユは都道府県の内水面漁業調整規則に定められた禁漁期間とかは守る必要があるけど、誰でも自由に釣って良い。そして、鳥も動物も魚も食べて良い、なんて人間がおこがましく言うまでもなく、勝手に食っている。それをダメだとする理由は「オレの釣るはずの魚を食われては困る」という釣り人の妄言にしかない。
 そういうタワゴトを言ってる釣り人は、自然の中の魚を釣るのには当然の条件として、魚は泳いでいるうちは誰のモノでもなく、鳥が食うのも含めて「自然」なことで、それを見越して、鳥とかに食われないうちに釣るか、鳥が食い落としたのを釣るか、いずれにせよ鳥が魚を食わないようにするというのは、酷く反自然的であることを認識すべきである。

 ヘラ釣り始めて、自転車で行く「管理池」でカワウの食害がよくボヤかれている。でももともと砂利取った穴に水がたまった池だとしても、そこに鳥が来て虫が飛んでヘビまでいるからの楽しさってのがあって、カワウに食われて数が減る分大型に育つというのなんて、この釣り場の大きな魅力で、少なくて難しいのを何とかする面白さも含めて楽しめば良いと思っている。人工の池でも数釣れなくても面白いと思う部分はあって、カワウも絡んで複雑化した要素の中で自分がどう戦略を練っていくかってところが面白いのにと思う。カワウ目の前でヘラブナ咥えてるのを見るとムカつく気持ちは分かるけどさ、でもそういう難しくする要素も適当にあった方が面白くて、それが嫌なら魚一杯の「箱」や「公園池」に行けば良いんだし、カワウが一所懸命操業してるのぐらい見逃してやってくれよと思う。

 近所の一番近い釣り場のアユも、先日カワウに見つかってしまった。それ以前からサギとは競争して釣っていて、魚は育っていきつつ数は減っていく。そんなの当たり前だと思ってるから、カワウやサギを駆除したいなんて全く思わない。「君らにはできない人間様の技術で負けずに操業するから、一緒に今年はアユの遡上量が多いのを堪能しようぜ。」ぐらいに思って、「強敵」と書いて「とも」と読んで良いぐらいの親しさを彼ら彼女らには感じて釣っている。

 カワウが食う分ぐらいは「自然」なことで目くじら立てるべきでない。「自然」じゃないぐらいカワウが増えているとしても、それは釣り人自体が招いたことであり、責任をカワウになすりつけて、命を安易に奪うな。というのが今回私の書きたかったことである。

2018年6月30日土曜日

地元の川の魚の味はアンタの責任


 近所のアユは正直ちょっとドブ臭い。というか独特の「近所ポイント臭」がする。まあワシ、川魚にちょっと苔臭いような皮が付いていないと寂しく感じるぐらいのバカ舌で、磯魚の磯臭さが苦手とか、魚に限らず羊肉は特有の匂いが云々とかおっしゃる繊細な味覚をお持ちのグルメ様とかみていると「むしろそれがその食材の美味しさの大事なところだろ?」といつも疑問に思っているぐらいだけど、その私のバカ舌でもちょっと臭いなと感じる程度には臭いので、普通の味覚を持つ人が食べたら果たして美味しいのかどうかちょっと不安である。
 でも私からしてみれば大したことなくて、シーバス釣ってるときに嗅ぎ慣れた匂いなのでプルースト効果的に思い出す情景とかもあったりして悪かない気がしている。衣つけて天ぷらならそんなに気にならないし、塩焼きなら焦げ目の香ばしさとアユ本来の「スイカ臭」の方が強調されるのでこれまた美味しくいただけてしまい「この程度ならなにやったって食えるな」と油断して、濃い味で炊いたところ「スイカ臭」が消えて「近所ポイント臭」だけが強調されてしまい、ちょっと完食には意志の力が必要だった。煮魚作った日には翌日冷蔵庫で煮こごらせた煮汁をご飯にかけたりするのが定番だが煮汁捨てた。
 このドブ臭さ、「ゲオスミン臭」とか呼ばれるそうで、雨が降った後の土の匂いの成分からその名が来ているらしく、少しくらいなら苔臭さとか他のエサ由来の匂いとあわせて「川魚の匂い」のはずで好ましいモノなのかもしれないけれど、これがヒドい個体は、腹の脂とかだけじゃなく筋肉にもその匂いががっちり浸透していてどうにも料理のしようがないと思っていた。はじめて強くその匂いというか味を認識したのは、東京で就職して、初めて霞ヶ浦水系でバス釣りしたときのことで、学生時代は手軽で肉量も多い蛋白源として美味しくいただくことも多かったブラックバスが、故郷じゃ皮まで美味しく食べられたのに身まで苔臭いというかカビ臭いというかどうにもならない臭さで、産地が違えば同じ魚種でもこうまで違うのかと驚いたものである。牛乳につけようがカレー粉振ろうが完食には若き日の強靱な精神力を要したと記しておく。要するに昔の東京の水道のカビ臭さの濃い魚肉といえばわかりやすいかも。今首都圏でも水道水はそのまま飲めるぐらい美味しいけど昔はカビ臭かった。

 ゲオスミン臭の原因である「ゲオスミン」や「2-メチルイソボルネオール」は富栄養化したような水域の藍藻類とかが生産するらしく、それらを食べたり食べた生物をまた食べたりで蓄積されていくとのこと。未利用資源を積極的に利用しようと挑戦し続けているとある御仁が、フランス料理の「クネル」という自家製はんぺんのような料理で、都市河川産の「ハズレ」の鯉を美味しく食べているのを読んでちょっと感動した。「クネル」ってたしか開高先生もパイクの料理法として「クネル・ド・ブロシェ(パイクのクネル)」を紹介していたと思うけど、要するに小骨の多い魚とかでも、フードプロセッサー使うなりチタタプするなりしてミンチにして、ふわふわ柔かくてヒンナな練り製品に仕上げてしまうという「おフランス料理」で、下処理で切り分けた段階やあるいはミンチの段階で練り物製造でいうところの「水さらし」でなんならアルコールの力も借りて臭みやら余分な消化酵素やらを洗い流してしまえばドブ臭い魚肉から美味しいタンパク質が取り出せて、小骨も気にならなくなるという、昔の人の工夫に感心しつつ感謝を捧げたくなる料理法なのである。「クネル」を知ってしまえば泥臭い魚などおそれるに足りず。さあ釣り人みんなでクネってしまおうではないか。


 とまあドブ臭さなにするモノぞというところなのだが、川魚を指して「あんなドブ臭いモノが食えるか」とバカにする釣り人は多い。かくいう私もウグイとか、すくったタモに付く生臭さからして半端なくて、長野じゃ梁作ったり人工の産卵場作って呼び込んで捕獲する漁法があったりするけど、海なし県の長野じゃ仕方ないけど、他に食う魚あれば食わんよな、と思っていたことを、先日の小遠征でアユと一緒に釣ったウグイを食べて深く反省させられて、長野県民の皆様の味覚の確かなことと地元の川を美しく保っておられることに敬意を表したところである。
 ドブ臭いという印象の強いウグイでさえ、綺麗な川で釣ったら臭みなんて全然気にならない上等の獲物なのである。
 「川魚はドブ臭くて」とかしたり顔でエラそうなことほざいている人間は私と同様反省すべきである。それは「自分の地元の川は川魚が美味しく食べられないぐらいに汚れてるんです」という恥ずかしい事実の告白でしかない。エラそうにいうこっちゃない。
 「この川も汚れてしまってドブ臭い魚しか釣れなくなった、昔は綺麗だった」って他人事のような口の利き方を釣り人ならするべきではない。オマエは指をくわえてその汚されていく様を見てただけじゃないだろうな!
 我が近所ポイントの川は高度経済成長期には全国でも指折りの汚さの「死の川」となっていたらしい。
 でも、いまはアユが遡上してくる。コイやマルタ、スズキはまだ食べる気にはならない程度にはドブ臭い川だけど、どこで釣ってもドブ臭くならない奇跡の天ダネであるマハゼはたくさん釣れて楽しいし、テナガエビもそろそろ産卵期で上がってきているだろう。
 一年通じて遊べる良い川になってきていると思う。それは「死の川」になって、他の地域でも公害とか人死にが出るようになってはじめて「コレはやばい」とみんなが気がついて汚染物質やら排水の基準値を定め守らせ、下水道を普及させという永い年月をかけてやっと取り戻してきたところなんである。
 私の現在の地元である近所の川で自慢できることは、どこに行っても「昔は綺麗だった」というボヤきしか聞こえてこないのに、いまだドブだとしても「昔よりだいぶ綺麗になってきたんですよ、アユも釣れるんです」と胸を張って言えることである。
 釣り人増えるのは短期的には自分の分け前が減るだけで何の利益もない。でも長期的に見ていけば、川を見ている人が増えれば、川を好きな人が増えれば川を守っていく力になるんじゃないかと思うので、釣果情報とかも隠しとけば良いようなものだけど公開している。川で魚釣らない人間にとっては、川がコンクリで3面護岸になろうが汚染されて魚が住めなくなろうが興味のない話である。

 釣り人は川に悪さをする輩を許してはいけない、川を土木屋がいじくろうとしているなら、納得いく説明が得られるまで問いただして無駄な事業など止めようとするべきだし、川を綺麗にする環境政策を推し進めるよう声を上げるべきだと思う。

 それは、個々人得意な方法で、できる限り力一杯やるべきで、やらない言い訳は私が認めない。

 私は、多数決が嫌いで選挙に行かないので、良い代表を選んで施策に反映させていくとかそういうのは他の人に任せて、水辺で見てきたことを情報発信し、みんなが水辺の環境を守ろうとする力の一助になろうと思う。とともに個人でできることはもちろんやっていきたい。

 コレまでも近所ポイントで、工事で岬削りやがってクソ野郎とか、土手の草木切ってなにが流量確保じゃ大タワケとか書いてきたわけだけど、最近はやっぱり真っ直ぐな流れじゃ生物の多様性とか考えるとよろしくないのかもと土建屋さんも考えてくれているのか、私が「ネット蛇篭」と呼んでいる、丈夫な化繊の大きなネットに石を積み込んで護岸のそばに積み上げたのとか、見た目パッとしないけど、シーバスとかついてることも多くて、カニとかエビとかも棲んでるだろうしなかなかに良い塩梅だと感じるので、天然石積護岸なんてのが一番良いんだろうけど、見た目除けば結構良いので、石詰めてクレーンで積んでけば良いだけで簡単に河川内に流れの変化や生物が潜める隙間ができるので、予算が余ったらどんどん積んでいって欲しい。と改めて書いておく。どうせ金使って税金をバラまくといって語弊があるなら再配分するのが目的に成り下がってる公共事業なら、もう21世紀なんだし生態系だの生物多様性だのを守るための事業に金使ってもバチ当たらんし誰も困らないだろう。金さえ土建屋に回りゃ良いんだろ?そこにまで文句言うほどオレも潔癖じゃネエし見逃してやるからやってくれよ。
 「ネット蛇篭」は根掛かりしやすいからヤダって?だから下手クソが釣りにならん一見さんお断り的釣り場になっていいんじゃないのよ。オレ、普段からほとんど水面と水面直下の釣りしかしないから何の問題もなく狙えるもんネ。

 で、だんだん良くなってきている近所ポイントの川だけど、アユも上がってくるようになったし、そろそろもう一段階上を目指しても良いんじゃないかという気がしてきている。
 いま私が近所ポイントで釣っている主な魚種は、スズキ(フッコ、セイゴ)、マルタ、コイ、マハゼ、アユ、オイカワ、ボラほかぐらいである。この中で淡水で一生を過ごすのはコイとオイカワで、コイについては繁殖行動は見かけるけど稚魚を見ていないので繁殖上手くいってないように思う。おそらく一昔前に放流されたコイが長命なのでずっといるんじゃないだろうか?オイカワはホソボソとだけど繁殖している様子。マルタはお隣のテナガ釣りに行く川には産卵群が釣りの人気対象になってるぐらい見受けられるけど近所の川には産卵群が目に付かないしめざとい首都圏の釣り師も人山になっていない。小型のも釣れてくるので産卵してないこともなさそうだけど普段は汽水域や海にいるようなので謎である。あとの魚種は全部海から上がってくる。
 死の川になって、誰も川の魚なんかに興味持たなくなって護岸してしまっていて、産卵に適した場所が少ないからというのと、産卵しても沢山居るコイが食っちゃうからというので、現状では水質的には魚がすめる状態に戻っても、川の中で産卵して増えているのは少なくて、遡上勢が空いている生態的地位を使って沢山いるという構造になっているのかなと感じている。

 という状況から考えて、淡水で産卵する魚の比率を上げてもっといろんな魚がいて釣って楽しめるようにというのを、そろそろ考えた方が良いんじゃなかろうかと考えている。都市部の川だし限界もあるからアユ上がってきてるぐらいならもう良いんじゃないの?という意見もあるかもだけど、私の好みとしてはやっぱりもう少し都会のドブ臭い川であっても川の中で一生を終える魚が多い方が健全で好ましいと思うというか、そうなるとタダの「水を流す溝」に水質が魚が棲める程度に保たれるようになったので、どっかから魚がやってきて一時的に棲んでいるという状態から、魚が産卵し増殖することができる「自然環境」という明らかに段階の違うものに川がなっていくと思うからである。

 そのために、ナニが必要かと考えると、さっき書いたこと含めて三点あって、一つには産卵できる場所の確保がまず大事で、次に多すぎるコイの扱いを考えることと、もう一つはさらなる水質の改善だろうかなと思っている。

 産卵できる場所の確保っていったって、街中流れる川の両岸をずっと水生植物繁るような環境にってのは難しいと思うけど、所々ネット蛇篭つんでそれに植物が生えるだけでも違うだろうし、オイカワやらマルタやらは川底さらって綺麗な砂礫底にしてやれば喜んで産卵するらしいので、なんか地域の中学校の生物部とかそのあたりと連携して、楽しんで増殖してやることはできるんじゃないだろうか?ボランティアで自然観察会を主催しているグループとかもあるようなので具体的な方法が思いつけば話持ってってみようかしら?いずれにせよ川全部が「故郷の川」のようにならなくても、例えば支流の一部や遊水池を利用して繁殖用の場所にしてしまうとか、やりようによっては魚が棲む場所は川の全流域だけど繁殖はいくつかの場所で行っているっていうのでも、それなりにというか普通天然自然でもそんなもんでしょという気がするのでやってできないことはないと思う。漁業権あるなら漁協に「そういうのやってよ!」と要望して地元の川ならなんなら組合員になってやりゃ良いけど、漁協もないような川ではどうやって行政や地域と連携していくかというのが難しいところだろうか?まあオイカワの産卵床ぐらいは流路変更もないから許可も要らんだろうしシャベル一本で何とかなる規模なので釣りに行ったついでに試してみても良い。オイカワポイントで産卵時期のうちに試してみるか。

 で、産卵できる場所ができても、卵食いとして悪名高いコイがいると多分けっこう食われてしまう。コイ自体、生むところが少ないので岸に引っかかったゴミに産卵行動しているけど、果たしてそれが孵化しているのか全部食われているのか。実態は分からないけど、稚魚はともかく見かけない。食い切られているんじゃないかと思う。産卵できる場所が限られているので食い切られるわけで、産卵場所が多くなれば生き残る可能性が多くなるはずというのはあるけど、それにしてもどこに行ってもこの川にはコイが多く、背中が出るような3面護岸の場所にさえ平気でかなりの数が泳いでいる。次の水質のところで具体的事例を書くけど、コイを放したのにはそれなりの必要性があったはずで、それは魚も泳いでないような川では寂しいという気持ち的な面から、富栄養化した河川において、有機物やそれを食って育った水生昆虫などを食べてその発生量を抑制し、河川の過剰な有機物を一時的に貯めておく「有機物のダム」として機能させるために放流されていたという面もあったのだろう。そろそろお役御免だとしても、じゃあ都合悪くなったので「駆除」しましょう。というのはあんまりだと思う。正直多すぎると思っているし小物釣りしてるときは仕掛け切られて邪魔だと思っているけど、シーバス釣れないときにその重量感ある引きを楽しんでずいぶん気が晴れたこともあるし、なんにも釣るものなくてもコイは釣れるという保険としてもありがたい存在だし、ましてやコイ本命で同じ釣り場に情熱を持って狙いにきている釣り人もいるのに、その獲物を「駆除」とか自分勝手なことを言うべきではないと思う。そんなの鯉釣り師からしたらコイが多いなんて良い川じゃないかというだけの話である。
 でもそんな鯉釣り師さん達でも、橋の下でパンもらおうと待ってるコイがいっぱいいるというのは何か違うよネと思うはずである。「駆除」まではしないけど、今後は一回放流したら平均で20歳ぐらいまで生きるとかいう長寿を誇る魚を沢山放流するのは止めにしましょう、ぐらいの程度なら何とか鯉釣り師にも納得してもらえるだろうか?そのかわり、コイも含めて水際の植物に産卵する魚の産卵場所をつくるので、コイも繁殖するし他の魚も繁殖してコイはパン撒きゃ寄ってくるような養殖ゴイじゃなくて、この川生まれで生き残って野生化したのが将来的には釣れますよ。と言えば賛同してくれるのではないだろうか。
 釣った魚を食べるのでもないのに「駆除」とか、野生生物とか自然環境とかがどうなっても良いエアコン効いた部屋で快適に生きてる都会派がお気楽に言うならともかく、常に自分の釣った獲物の命をどう扱うか考えていなければ嘘なはずの釣り人が、都合が悪いから「駆除」とかやって良いとは思えない。「積極的に食べて数を減らしましょう」とかなら分かる。でも、命あるものをゴミとして捨てるってオレには受け入れがたいんだけど。
 なので、コイについては10年前に放流されたモノだとしても、平均でまだ10年は川にいるわけで、すぐには解決しないンだと思う。ただ、産卵場を増やしたり水質を改善したりというのも10年かかるような話だと思うので、10年経って今沢山いるコイが寿命で徐々に抜けていくのと入れ替わりで、この川で生まれ育った、コイも含めた淡水魚が増えていけばちょうど良いのではないだろうか。川が綺麗になっていけば、釣ったコイをクネルにする技術がなくても食べられるようになって、コイ問題は新たに放流しなければ、川を良くしていく課程で自然に時間が解決してくれそうに思う。遺伝的に日本産由来じゃないとかは一回死んだ川でいまさらどうでも良いことだと思っている。コイぐらいしか生きていられなかった汚れた時代にお役目はたしてくれていたんである。綺麗になってきても生存の権利ぐらい与えてやれよと思う。

 で、一番難しそうなのが水質の改善。今現在、首都圏でも下水道普及率は100%に近いはずで、よく目にする主張が「下水道があるので洗濯に合成洗剤使おうが天然素材由来の石けん使おうが自然環境に排出される時は基準値以下になっているので関係ない」というものだが、2つの点でバーカバーカ!おまえの言ってるのは机上の空論!!となじっておきたい。
 一つは基準値以下でも当然低けりゃ低い方が良いので、流入する下水に含まれる「処理」しなければならない物質など少なければ少ない方が良いに決まっているという単純な話。試しにググって東京都の「水再生センター放流水の平均水質(H25実績)」というのを見てみると、有機物の量の指標として代表的なBOD(生物学的酸素要求量)が流入水152、放流水7、放流水基準25となっていて有機物に関してみればずいぶんと基準より小さくしてから放流している。にもかかわらずそれでも首都圏という大規模な人間活動の行われている地域を抱える東京湾では赤潮、青潮なんていう富栄養化が原因になっているような事例が散見され、近所の川のアユはまだちょっとドブ臭い。
 当たり前だけど個人個人が下水に流す有機物量や化学物質の量などを減らせれば、出口である下水処理場から放流される水質に影響しうるのである。
 基準やルールは何のために作ったのか?川を海を汚さないように最低限ここまで処理してから放流しようという基準だったはずで、その基準が絶対ではない。本来の水を汚さないようにという目的から考えれば、基準よりもより低くしたほうがさらに良いということなど、パソコンの前にいたとしても、ちょっとググって考えれば分かる程度の簡単なことである。逆に今の基準でもまだ川や海が汚れていると感じるなら基準を見直しても良いかもしれない。
 釣り仲間の先輩が、「シャツの襟がちょっとぐらい汚れてるのと、川と海が汚れてるのとどっちが嫌かっていったら、考えるまでもなく川と海が汚れていることだよね。だから我が家では洗濯には合成洗剤じゃなくて洗濯石けん使ってるよ」というのを聞いてから、20年以上合成洗剤は使っていない。ワシが小汚いオッサンである分、家の近所の川は綺麗になっていくのである。今時の合成洗剤はだいぶ環境にも優しくなってるのかも知れないけど、基本的に大手企業が短期の実験で出した自前データなど信じられないので洗濯石けんで汚れ落ちに不満があるでなし考えるまでもなくそうしている。
 21世紀は下手すると水を奪い合う世紀になりかねないような話も目にする。水をなるべく汚さないなんていうのは生きていくための基礎的な大事なことだと思う。

 もいっちょ、下水道があってもダメな理由は、首都圏始め日本の多くの下水道は雨水の排水と生活排水とが一緒になっている方式で、実は大雨とかで処理しきれなくなると「垂れ流し」をやっている、という構造的な不備があるのである。
 正直言って、このネタを書くかどうかは迷ってたところで、これまではあえて書かないでいた。これからちょっと衝撃的な事実を書くけど、その事実だけ書くと「役所の欺瞞」「構造的な欠陥を許した愚かさ」「隠蔽体質」とかを糾弾するような内容と取りかねられず、実際にはさっき出した数値に現れているように、なるべく下水を綺麗にして川に放流したいと努力しているであろう下水道事業関係者の方々に忖度していたのである。
 でもまあ、事実を知ってもらうというのは大事だと思うし、そのことだけをあげつらうのではなく、背景を説明した上で今後どうしていくべきか考える材料として上手に提供するのならありかなと思って丁寧に書いてみる。
 まず私が実際に目にした単純な事実としては、「近所の川に処理水を放流している下水処理場は、大雨が降ると「夜」に泥濁りの「処理済み」とは到底思えない水を放出する。」
 ということである。
 「基準値を超える水を排水するなんて違反じゃないか?それを隠蔽するなんてけしからん!」と最初見たとき思った。でも、ちょっと調べれば分かるけど雨水と下水が一本で集められて処理されているので、増水時には処理が間に合わず溢れさせているというのは周知の事実のようで、そういえば、そういうのが由来の油脂ボールが雨後の東京湾には浮かぶとか聞いたような気がする。じゃあ、そもそもなんで別々にしなかったんだといえば、ぶっちゃけ金が掛かるし、とにかく垂れ流しで川に洗剤の泡が浮いているような事態を早急に解決する必要があるとすれば、既存の雨水を流す溝を利用して下水道整備を進めるのが金も時間もかからなかったんだろうというのは想像に難くない。それを今になって別々にしておけば良かったとか評論家みたいなことをいっても仕方がない。今も流れている川なんだしコレからどうするかという話なんである。「今、下水道があるからもうコレで良い」という状況じゃないし「誰かが酷い不正を働いてるから改めなければならない」というのでもない。
 だいぶ良くなってとりあえず「死の川」からは脱出したけど、問題はまだまだあるし、もっと良くできる要素はあるんだよというのが、今の近所の川の状況だと思っている。その状況を知った上で次どうしていきましょうか?と相談して進んでいきたいと思っているのである。
 私はまずは、雨で増水したときに昼日中から濁流を放流するところから始めりゃ良いと思うのである。見たらちょっとビックリすると思う。何しろ茶濁りした濁流には「コレはシーバス寄るんと違うか?」とスケベ根性で投げたラインに、おそらく便所紙の繊維だと思われる繊維がダマになって結び目に付いてきて、しばらくするとどこにこんなに居たんだと、コイの多い川だという認識はあったけど、それにしても驚くほどのコイが集まってきて、水面に浮いているゴミ的な有機物をパクパクと頬ばっていく。この川においてコイの役割なんてもう終わったと思ってたけど「有機物のダム」として目の前で確かに機能していて、替わりの魚たちが増えるまでは居てもらわねば困るな、と認識を新たにしたぐらいである。
 雨の日とはいえ、白昼堂々そんなことをしたら、まず「川に汚れを垂れ流してけしからん!」と憤ってお気楽に電話掛けてくる善意の社会正義の味方様がいるだろう。評論家は楽で良いよね口だけで、という感じである。それでも苦情が来たら対応間違えると大事になったりして嫌な監視社会だよネ。別に悪事働いてるわけじゃないけど夜にコソッとやりたくもなるというモノである。
 でも、下水道事業者は懇切丁寧に、基準値より低く処理するために日頃から努力しているけど、増水時には処理できる量を超えるので危険回避のために未処理のまま放流せざるを得ずそれは慣例的にも認められ、実態上洪水等を避けるためそれ以外に方法がないという正直なお話を説明するべきだと思う。
 そういう実態が広く知らしめられたうえで、じゃあこのままで良いのか、何らかの対策を講じるべきか相談して考えていくのだと思う。
 判断としては首都圏のような人口密集地では限界があって、現状で妥協すべきではというのも意見としてはあると思う。でも、未処理の濁流垂れ流しとかインパクトのある絵面を目にしたら「もうちょっとなんとかならんのか?」と考えて普通だと思う。そういう状況が闇夜にコソッと隠れて生じているのである。街じゃ雨水はすぐに下水道に流れ込むので、シーバス釣りに行くぐらいのそんなたいした増水じゃない雨でも溢るみたいです。

 まともに考えれば、いまさら膨大な費用と時間を掛けて雨水別ルートとかは難しいだろうと思う。それとも公共事業になるだろうから「お上」が作ると言ってしまえば作れるんだろうか。
 現実的には、処理能力向上させて危険回避で垂れ流す分も含めて、年間トータルで排出する有機物やらの量の基準を再設定するとかして、必要なら人口の都市部集中などにも対応して下水処理場を増やしたり、効率的な処理技術の開発やらしていくというのがまともな方法のように思う。
 そういう基準を考えるときに、例えば河川の魚が一気に放出された未処理水の有機物を一時的に蓄える能力の評価とか、河口域の干潟が生態系全体としてどのくらい処理能力があるのかとかを評価して、処理場の増強に加えて川や海に生き物が居ることが「処理場」に換算するならどのくらいの価値があり代替できるのかとか、今でもその手の報告はあるんだけど、単なる研究報告じゃなくて、実際の街を環境を考えていく上で評価していけたら、多くの人に川が流れてそこに魚とかが居ることの価値を知らしめることができるのではないだろうか。ついでにみんなが水を汚さないように気をつけてくれればなお嬉しい。

 家の近所で釣ったアユはちょっとドブ臭い。でもそれは誰のせいでもない自分が便利な生活を享受しこの社会で生きているからこそであり、責任を持って持ち帰った分は美味しく食べる。もっと旨いアユが食いたいなら綺麗な川に行けば簡単なんだろうけど、もし近所の川が今よりもっと綺麗になってアユがもっと旨くなったら、その方が味覚で感じる以上の「旨い」アユになるだろう。
 釣り人は自分の川を愛さなければいけない。それは過去に流れていてはいけない。今と未来に流れる川を愛さずに「昔は良かった」なんて爺臭いことばかり言ってんじゃねえゾということである。

2018年6月24日日曜日

ひょっとしてオレ今「こわい顔つきになってる」かな?

 「黒水仙」「暗烏」「おろろ」「陰鉤」「黒竜」「赤お染」「夕映」「陰水仙」架空の名前も混ざっているけど、それぞれ伝統的な鮎毛鉤のあるいは毛鉤釣りの手法の名前である。
 これらを各章の題名とした小説が、夢枕獏先生の「鮎師」である。
 学生時代先輩に面白いから読んだ方が良いと薦められて「オレ鮎とか釣らんからイマイチ興味ないっス」とか答えたんだけど「鮎釣るかどうか関係なしにナマジぐらいの釣りキチガイなら多分身につまされて胸にくる部分があると思うぞ」とか言われて、なんのこっちゃ?と思いながらも読んでみたら、先輩の言ったとおりだった。
 ヤマメとかでもたまに知られているけど、ホルモンの異常とかで産卵に参加せず本来の寿命を越えても生き残り成長し続けたらしい60センチを越えるような巨鮎を狙う、鮎で身を滅ぼしつつある初老の釣り師の狂気じみた執念と、その狂気にあてられて深みにはまっていく主人公の心の有り様が、まさにこれぞ頭のおかしくなっちゃってる釣り人の典型という感じで、当時自分はまだ主人公側のつもりで共感していたけど、病み上がりの体でクソ暑くてしんどいなか鮎に向かってひたすら情熱を燃やしている今の自分は、既に鮎しかなくなった男である「黒淵」の方により近づいてしまっているのかも知れない。

 主人公が仕事もほっぽり出して鬼気迫る表情で川に通うのを見て妻は「鮎釣りに行くのに、少しも楽しそうに見えない」と夫の釣り友達に不安を漏らしているが、自分の限界に迫るようなギリギリの釣りをしているときには、外から見たら確かに苦しそうにしか見えないだろう。だって実際苦しいんだから。それは釣れなくてしんどいという肉体的直接的な苦痛もあれば、釣りにおける「壁」を越えられないとかいう精神的なものから、はてはオレはナニを釣るべきかどう釣るべきかなんていう哲学的な苦しさも時にあったりなかったりする。
 釣りで苦しむのなんてバカにしか見えないかもしれないし、楽しく釣ることはもちろん嫌いじゃないけど、どうしても私のような釣り人は昨日釣れなかった魚を今日釣りたいとかいう健全な向上心それ以上に、人よりも釣りたいとか、大きいのが釣りたいとか、誰もやってないような方法でオレだけいい目を見たいとか、ドロドロに邪な欲望が心にベットリと染みついていて、それがために、楽しく手堅く釣っとけば良いものを、底のない沼のようなややこしい釣りの世界に足を突っ込んでしまい抜けなくなるのである。

 鮎の毛鉤を巻いたりしていると、どうしても「鮎師」のいろんな場面が頭に思い出されて、読みたくて仕方がなくなり幸い「自炊」済みで検索一発でパソコンのホルダーから引っ張り出せる我が読書体制になっているので何度目の再読かわからんけど読んでみた。
 鮎毛鉤釣りしてなくても抜群に面白い「釣り小説」だったけど、鮎毛鉤釣りに手を出した今読むと、もうどうしようもなく面白くてまいる。
 漠先生、各種映像とかから釣りの技術が特別上手いという釣り人じゃないと失礼ながら思っているけど、釣り人の業というモノを、釣りというモノの持つ魔性の魅力を知っていて、これほどまでに書ける作家というのは他に類を見ないと思う。井伏鱒二先生やら開高先生よりその点では上だと思う。両文豪の書く釣りはもっと健全で恬淡で釣り人独特のドロドロッちさを描くときももっと軽みがある気がする。漠先生その辺容赦なく大げさなぐらいに重く書く。でもその大げさなぐらいに表現された心情が、我々頭おかしい系の釣り人の心の、ある面を正確におためごかしやごまかしなくとらえていると思う。

 読んでて思い出したけど、このお話の鍵になる釣法である「陰鉤」というのがあって、これが本当にあった技術なのか、漠先生の創作なのか分からんけど、いかにもありそうな裏技的な鮎の釣り方で「ベラ」の皮を使った毛鉤?に触れるぐらいに接近する鮎を下の捻り針で掛けるという方法なんだけど、学生時代読んで早速、多分ベラってキュウセンだろうと思われる表現があったのでキュウセンの皮を干して細く切ってボディーにしたフライを巻いた記憶がある。
 4半世紀たって鮎毛鉤釣りを始めるにあたって「黒水仙」もどきの「黒韮」とか巻いてるあたり、ホントに進歩がないというか、ナニも変わっていない自分のバカさ加減を頼もしく思う。気になったら試してみる。釣りにおいてそれ以外に答えを知る方法をいまだ得ず。

 でも4半世紀たって鮎毛鉤釣りを始めたあとだからこそ楽しめた部分も今回の再読ではあった。
 主人公が、黒淵に仁義を切って彼が狙っている大鮎を狙うとなった時に、まず得意のチンチン釣りで並べた毛鉤が「青ライオン元孔雀」「赤お染」「暗烏」「八ッ橋荒巻」なんてのを読んで、それがどんな毛鉤か頭に浮かぶとともに、やっぱりその辺りの毛鉤が定番でありつつ必殺なんだろうなとか初心者がいっちょ前に思った。
 播州釣針協同組合のウェブサイトの「播州毛鉤ギャラリー」にも、「青ライオン」「お染二字」「八ッ橋荒巻赤底」「清水」「新魁荒巻」が代表的な鮎毛鉤例として表示される。
 そういうの見てると、やっぱり巻きたくなってくるジャン。巻きたくなったら巻けばいいジャン。ということで、今使っている和洋折衷のナマジ謹製鮎毛鉤でも鮎釣れるっちゃ釣れるんだけど、巻いてみた。


 まずはスタンダードフライの代表選手がロイヤルコーチマンだとすれば、鮎毛鉤の代表選手は「青ライオン」だろうということで、「青ライオン」とその派生である「青ライオン元孔雀」を巻いたのが、左の写真。写真の撮影技術が拙くて色とかわかりにくい写真になっているうえにそもそも上手く色変えて巻けてないけどご容赦を。青ライオンってなんでそんな名前なんだろうなと最初命名の規則性が分からなかったけど、赤ライオンとかと比べていくとナニが「青」なのか分かってくる。赤い角の下の針のフトコロに掛けて緑のスレッドが巻いてあるんだけど、コレが青ライオンの「青」である。古い言葉では青は今の緑のことだというのはどっかに以前書いたとおり。ついでに「赤」も今より範囲が広い感じで「赤」と名前が付く毛鉤に使われている色が橙色(オレンジ)ということが結構あるので、「赤い鉤が今日はアタッてる」とかいう情報の「赤」が鳩の血のような赤なのか明るいカルフォルニアでもいだオレンジの色なのかは気をつけておかないといけないように思う。
 ついでに鮎毛鉤の構成を説明しておくと、針のフトコロの所に巻いてあるのが「先巻き」、尻尾のように突き出している「角」、胴の「主巻き」、金や二の字を入れる「帯」、チモト近くの「元巻き」、ハックルにあたる「蓑毛」、そして「金玉」となり、角は「赤角」が多くたまに「黄角」、それに蓑毛、金玉が鮎毛鉤の標準装備で、その他の、「巻き」と「帯」のあたりの構成で名前が決まってくるようなのである。
 青ライオンだと、「先巻き」が緑(青と呼ぶ)、角が赤、主巻きが明るい茶色からオレンジぐらいまで職人さんによって色々で、帯に金を真ん中に入れた黒の二の字がはいって、元巻きが毛足長めで主巻きと同じ色なら基本の「青ライオン」、孔雀なら「青ライオン元孔雀」、黒なら「青ライオン元黒」という名前になる。そんなにド派手な鉤でもなく、茶系に金が入った適度に地味派手な塩梅が良いんだろうか。
 青ライオンは基本的な鮎毛鉤の構成要素がみんな入っていて巻く練習には良いんだけど、正直、帯に金入りの二の字とかめんどくさくて仕方ないというか、18番のフライフックに私の技量じゃそもそも巻けない。じゃあ写真のはどうやって巻いたんだ?というと、本来主巻きが終わったら黒い二の字用の毛を新たに巻くんだろうけど、主巻きと二の字は一つながりの毛を使って、二の字のところに来たらマジックで黒く塗ったのである。それだけ手を抜いても結構素人には手に余る。

 ということで、もっと巻きやすい毛鉤はないかといろんな種類の毛鉤をみたりしていると、荒巻という技法を使った毛鉤は帯に面倒な色換えが入らないのも多く、それでいて「底」に派手な色を持ってくると良く目立つ感じになって、かつ、いかにも鮎毛鉤っぽい仕上がりになる。
 代表的なのはこの「お染」。先巻きオレンジ、赤角、本来は主巻きはハリの地金に紫っぽい茶色を荒巻きして、帯は特になしで元巻きは荒巻きしていた毛をそのまま密巻き。今回黒いフライフックで巻いているので、荒巻きしている下に金のティンセルを巻いたので正しくは「金お染」なのかもしれない。


 もいっちょ、荒巻系で「八ッ橋赤底荒巻」も、お染と同程度の単純な構成で巻くのが楽。
 先巻きが空色で荒巻と元巻きが黒というのが八ッ橋なのかなという今のところの理解。なので、下の毛鉤は名前を付けるなら「黄角八ッ橋銀底荒巻」となるだろうか。荒巻系は、主巻きの底と荒巻の色の組み合わせ次第でいろんな印象の毛鉤が作れると思う。
 例えば、以前作った「幻影底烏荒巻」は八ッ橋の派生「先黒黒角八ッ橋幻影底荒巻」とも言えるのかも?

 他に巻きやすそうで釣れそうなのが、先巻きの代わりに金玉がついていて、黒い主巻きに帯に二の字という「熊」系統がある。黒に縞模様という単純だけど虫っぽい配色はやっぱり効くのか、赤熊、白熊、茶熊、金熊あたりは定番のようだ。
 二の字巻くの結構難しいんだけど、二の字の部分だけ二色束ねて巻くというなんちゃって二の字で結構それらしく巻けるので、練習がてらいくつか巻いてみた。上は「黄角金熊」で下の緑の二の字のは命名法通りなら「青熊」のはずなんだけど、何故か特別に「清水」と呼ばれている。このへんの名前の由来とか調べるとまた面白いかも。ちなみに金玉作る技術を持っていないので金のティンセル先巻きで許して欲しい。

 もいっちょ、「三光」系も巻く色自体は単一なので巻きやすそうだなと巻いてみた。頭の金玉と、帯のところ、先巻きのところに金玉か金巻きが入る。写真はどちらも「青三光」で、七面鳥とガチョウの羽の違いをちょっとみてみた。ガチョウの方が毛足が長い。途中に入れる金玉をビーズにしてみたら割と簡単で良い感じ。ビーズいろんな色に変えても良いかもしれない。重さも変えられる。 

 調子にのって、色目の多い「新魁荒巻」に挑戦。底巻きが金の上に逆巻きの赤糸、その上に黒と緑の毛を荒巻から元巻きへという感じで、簑毛にも薄茶に緑のを追加という手間が多い毛鉤なんだけど、技術的にはそれほど難しくはない。難しいのは短い間で色を、つまりは毛を換えて巻かなければならない二の字とかで、色たくさん使ってても針の長さいっぱい重ねて巻いて良いなら時間はかかっても難しくはないと実感した。

 これぐらい、基礎的な技法を憶えたら、フライタイイングの知識と合わせてかなりいろんな毛鉤が巻けると思い楽しくなってくる。


 気づけば、100本入りで頼もしく思っていたマルトのフックもそろそろ底が見え始めた。
 100本なんて1日5本巻いてるだけで20日で使い切るしたいした本数じゃない。
 そう思うと、マルトのフックの安さはとてもありがたいモノだと実感する。
 アユ釣ってるぶんには刺さりも強度も何の問題もなく実に実用的なフックで、すでに追加発注かけた。色変えて巻くのには軸が長い方が向いていると思うのでロングシャンクのタイプも試しにと注文した。


 今年は年頭に「釣りと猫のことだけ考える」と誓ったが、猫はボチボチとしても、釣りの方は本当にそればっかり考えている感じで、そうすれば自ずと健康面やらも上向いてくるはずと考えていたが、ここまで釣りのことばかり考えていて良いのか?体調よりも釣り優先させ気味だったりもして、釣りのことで身を滅ぼしてしまうような気がしてきてちょっと怖い。
 まあ、仕事も家族も友人も、健康も金も信頼も誇りも失って、ただの釣りしか持たない痩せた猫になったとしても、それはそれで本望かなと思わなくもない今日この頃である。
 釣りさえちゃんとできていれば、なんだってかまわないサ。オレたちゃそういう人種だろ?

2018年6月18日月曜日

鮎釣り小ネタ


 毛鉤巻いたり仕掛け作ったり、アユ関係のお勉強したりで昨日の顛末記もまだ書けてない状態だけど、鮎釣り始めて半月ほどで色々と気付いた点など小ネタを書き記しておきたい。

 まずはお詫びと訂正から、どっかで「アユが攻撃するのは水平姿勢で縄張りに侵入してくるもの全部、色も形も関係ない」と書いたけど、水平姿勢が一番重要なのは正解っぽいけど「色と形も関係ありそう」だそうです。正方形のモデルはほとんど攻撃されず、黒より白が攻撃されて、横長の斑紋は攻撃を抑制していそう、ついでに小さいモデルの方が良く攻撃されるという報告(井口1991)。多分同じ報告に基づく解説を読んだのを記憶していたはずなのに、結果の数値の読み方が解説者によって違ったのか、単なる私の記憶違いか?いずれにせよゴメンナサイ。科学とは新しい知見によって日々更新されていくべき性格のモノであり、過ちを正していく姿勢こそ科学的なモノの考え方である、などと自己正当化を図ってみる。
 これでルアーでアユ釣るなら白くて模様の無い小さめのミノーが良いと割り切れる。
 昨晩、片野他編「アユの科学と釣り」という「アユ釣り愛好家の学者・研究者による「アユ学」エッセイ」と帯に踊る本を読みかえしていて判明したんだけど、この本、鮎釣り始める前に読んでも生物ネタ的に面白かったけど、鮎釣り始めてから読むと狂おしいほど面白いので鮎釣りファンでまだ読んでない人は読むように。
 まあ、アユ釣り愛好家と言っても友釣りばっかりで、私が闘いを挑むべき体制側の啓蒙本であり本来焚書にすべき書なのかも知れないが、敵の武器を鹵獲して闘うなんてのはゲリラ戦の常道なので使える知識は使わせてもらうゼ。君らが開発した武器が君ら自身を苦しめることになるのだよ。

 ここ一月ぐらいは、鮎釣りのことばかり考えているので、その中で書き留めておきたいことなどいくつかご紹介。


 まずは、タモ網。普通タモ網とかランディングネットってごぼう抜きにできないような魚を取り込むための道具なんだけど、鮎釣りではちょっと意味合いが違うように思う。鮎釣りにおいては、近年の友釣りでは引き抜きで飛んできたアユをタモでキャッチするのが当たり前になっているのに見られるように、アユは大きな魚じゃないので普通にごぼう抜きできる。じゃあタモいらねえジャン?と思うとそうでもなくて、どちらかというと引っこ抜いた後にバタバタ暴れてポロリというのを防ぐためにこそタモが必要。鮎釣りの鉤は友釣りでも毛鉤でもかかり重視のスレ針でかつアユは取り込み後もこれでもかというぐらい暴れるのでポロリが多い。釣った後これだけ暴れる魚は他にはツムブリぐらいしか思いつかないぐらいジタバタする。ので引っこ抜いてその後ハリ外したり、友釣りならオトリ交換したりするためにタモがいるのである。
 なので、長い柄の付いたのは必要ない、必要なのは中で暴れられても絡みにくい、ハリが刺さりにくいような目の細かい網が張ってあるやつで、そうじゃないと面倒くさい。かつ引っこ抜いた魚をキャッチするためにそれなりの枠の広さが欲しい。
 アユ用のタモを買えば当然そういうタモになってるけど、でもお高い。網目の細かい高級品なんて正直買えるかよ、という値段である。
 なので、なんか良いのないかなと考えて、暫定的に金魚掬うような観賞魚用のネットの25センチ枠のを試してみたら結構塩梅良いんでやがんの。こんなもん千円しないし、我が家にボロいの転がってたので実際にはお金掛かってない。だいぶ穴があいてきて繕って使っているけど使用不能に破れても次もコレで行きたい。
 ついでにオイカワの数釣りで魚籠の入り口にやるようにラインを一本張っている。これに釣れた時ハリスを引っかけて横に引っ張ってハリのフトコロにラインがくる状態にもっていくと、アユが暴れてタモに落ちてくれる。割とこれも塩梅良い。


 次に毛鉤交換の迅速化。まあインチキとはいえ出自がフライマンなので、魚の反応やら流下する餌の変化やらにあわせて毛鉤を交換しながら釣りたいわけで、鮎毛鉤釣りの場合複数の毛鉤を並べる仕掛けを使うので、最初からいくつもの毛鉤を使えているのでフライフィッシングほど頻繁に交換したくはならないけど、でもやっぱり換えたくなる。

 枝スの方を交換すると、交換の手間自体は大したことないんだけど交換した毛鉤はハリス結んだアイをガッチリ瞬間接着剤で金玉と接着してあるので再利用ができない。
 ということで、唯一枝スではない幹糸の先に結ばれている最後の1本を交換するんだけど、これも何回もやっていると幹糸も毛鉤のハリスも短くなっていく。
 ので、幹糸側の最後にコブを作って、幹糸に8の字作ったハリス側を接続する方式にした。穂先の取り付けと基本一緒で使う時はシモリ浮きを止めている毛糸で押さえ込んで緩んで抜けないようにしている。幹糸側のコブの先にちょっとあまりを出しておくと外すときにズラシやすい。ズラして毛鉤のハリ先で8の字を引っかけて外しているけど「そんな細かい作業できねえヨ」という場合はハリスの8の字の先に短くつまめるようにハリスの切れっ端でも結んでおけば良いと思う。



 次に浮子。鮎毛鉤流し仕掛けについている浮子は横長の棒状で、多分この形なのはアタった時に立ち上がるとか適度に揺れて毛鉤を動かすのかなと思っていたけど、アタリは以外に直接的で、流しているときはバシッと食ったのが目で見えることが多いし、流しきって下流で待ってるときのアタリは浮きに出る云々より手元にくる。
 でも、やっぱり浮子は流しきって待ってるときや逆引き中はちょっとジッターバグみたいに揺れていて足下で毛鉤動いているか見るぶんにはそれ程動いていないように見えるけど、糸電話を思い出せば分かるように、張った糸って振動を良く伝えるので間違いなく浮子が振動していることには意味があるように思う。
 ということで、高活性時に派手に魚の気を引くために振動を増幅するにはどうすればよいか考えて、それまで中通し式にしていたのを、グラスの心棒入れて心棒を長めにして揺れ幅を大きくしてみようという浮子を作ってみた。
 結果、仕掛けの重さで浮子の動きが制限されてか、あまり大きく浮子が揺れなくなってしまった。というオチ。ただ、揺れは小さいけど直接的にラインに振動が伝わっているので見た目の揺れが小さいからといってダメとは限らないのでしばらく試してみたい。良くないような感触なら心棒短く切ってしまえば多分揺れは大きくなるはず。単純に揺れが大きければ良いのならジッターバグでも浮子として使えばいいけど、そうなると騒がしくて警戒されることにもなるだろうから良い塩梅を探りたい。探った結果が市販のに付いている浮子だとしても、アタイ自分でも気になったら試しておきたいのヨ。


 小ネタ最後は友釣り仕掛け。友釣りの仕掛けというと、天井糸が仕掛けの長さ調整可能なように編み込み利用してあって、水中糸は極細金属糸で接続にはやっぱり編み込んで瞬間接着剤で固めてと、とにかく面倒くさい印象だった。
 でも、この面倒くささは全部「極細金属糸が悪い」のであって、極細金属糸を使わないナイロン糸仕掛けなら割と単純であると今のところ理解した。
 仕掛けの長さ調整もナイロン仕掛けなら結ぶのが難しい金属糸と違って現場で切って繋げば良いだけで面倒くせえ仕掛け必要ない。ナイロンどうしなら水中糸と鼻管周りの仕掛けの接続も普通に結べば良い。そもそも普通に結べてそれなりの耐摩耗性とかがあるナイロン糸を水中糸に使えば天井糸なんか必要なくて水中糸を穂先に接続したら良いはず。
 逆に言うと、それだけしち面倒くさいことをヤルだけの価値が極細金属糸にはあるということである。荒瀬の中でオトリを泳がそうと思ったら、ラインが受ける水の抵抗は相当なハズで「ライン細いは七難隠す」で、水の抵抗を受ける水中糸以外は全部ナイロンとかにしなければならないぐらい釣りの仕掛けには向かないはずなのに使いたくなる利点なんだろう。
 でも、いうほど荒瀬で大鮎狙うような場面って多いのか?まあ人様の釣りはさておき、自分の釣り場は膝下水深とかのチャラ瀬と深くて1mもないような淵ぐらいで流れもきつくないので、当面ナイロン仕掛けで問題ない。なんなら鼻管周りの仕掛けに使うナイロン0.8号通しでも良いかなと思ったぐらいである。まあそんな手間でもないので0.5号を水中糸というか道糸にした。
 そうすると意外なほど単純な仕掛けで、ライン以外のパーツといったら写真の鼻管、逆さ針、逆さ針のおしりに付いた自動ハリス止めに繋ぐ掛け針ぐらいで、あとは目印3カ所も付けときゃいいかってぐらいで、鼻管がそれ用のプルージック結びのための細いPEがクソ高いのでナイロンハリスで古式ゆかしく編み付け利用した接続にしたのがちょっと面倒くさかったぐらいで、全体的にはたいして手間でもなかった。
 うちの近所の鮎たちが縄張り作ってくれて友釣りの対象となるのかまだ未知数だけど、とりあえず出番があればコレで行きたい。
 ちょっと、作ってて気になったのがガマカツのハリの「ナノスムースコート」とかいうやつで、多分ダイワのサクサスとかと同じフッ素コート系の表面処理なんだと思うけど、ワカサギ釣りの時に虫餌の付けやすさは確実に利点だと思ったけど、鮎釣りの掛け針やらフライフックやらにも採用されてるのを見ると、そんなモンの滑り良くしてどうするの?という気がしまくっている。フライフックとか売ってるの見た時点で「フライ巻くとき滑って巻きにくいンとちゃうか?」と思って帰って検索掛けたらやっぱり巻きにくいらしい。鮎釣りの掛け針も根糸で巻いて瞬間接着剤で固めてハリスに固定するんだけど、始めてやったこともあってだとはしても固定できず抜けまくりで、最終的には8の字でコブ作って止めた。
 それだけの欠点が有りながらかつ値段が高くても、利点が補ってあまりあるなら使う価値はあるんだろうけど、スレ針で滑りが良いって、スレ針の利点である刺さりやすさが行き過ぎて逆に「抜けやすい」欠点のほうが出過ぎるんじゃないかと現時点では思う。刺さりやすいのは利点だろうけど刺さりやすけりゃ抜けやすいってのは当たり前で、刺さりやすくて抜けにくくするためにカエシが付いてたはずで、そこを刺さりやすさ重視でカエシを取っ払って、その状態で良い塩梅の保持力を持たせるように表面の加工やら形状やらを設計してあったはずで、同じような形でより刺さりやすくしてしまったら抜けまっせそりゃ。逆に欠点が出てこないぐらいなら対して利点もない表面加工であるという証明で金返せという話である。良くわからんので最初は良いやつ買っとこうと、あまり考えずにガマカツさん信頼して高めの買ったけど失敗だったかも。

 とまあ、鮎釣りに没頭している。近所のアユは釣りになる場所も今のところ限られていて、他の釣り人や鳥に目を付けられたらその時点で終わりで、今年は沢山遡上してきているけどいつまで釣り場にとどまるか、釣りが成立するぐらいの個体数が保たれるかも未知数である。ということで、他の釣りはしばし放置で今はアユに全力投球で、釣れるときに釣れるだけ釣っておきたいと思っている。楽しい。

2018年6月11日月曜日

YOUはシャック!


 愛で空は墜ちてこないけど、梅雨で雨粒が落ちてくる。

 さすがに川はかなり増水するぐらい激しく降ってるので、昨日今日と釣りには行けずに大人しくせざるを得ない。
 ただアユを求める熱い心を鎖で繋ぐのは今は無駄であり、この機会に毛鉤のストックを増やしたり、新しい毛鉤の試作をしたりと意外に忙しく、没頭していたら昨夜はブログ書いてる暇もなかった。

 先日、小雨の中の鮎毛鉤釣り。雨降ったら水生昆虫の羽化はないだろうしライズもないかなと思っていたけど、意外にライズしていて、釣れた鮎をナニ食ってるんだろうと腑分けして胃内容物確認してみたら、これが5ミリ以上ある大きめのユスリカの蛹の抜け殻で「シャックかよ!」と驚いたともに、おそらく晴れてた朝の時間に静かな魚の少ない上流の水域で羽化したユスリカの抜け殻が長時間にわたって流れてくるので、その日に限らず羽化が収まるマズメ時以外でもずっとライズしているんだなと合点がいった。
 フライフィッシングの世界では、抜け殻食いのマスの存在は話題になることがあって、どっかでマスが浮上して水面の餌を咥えるのに要するエネルギーと、抜け殻から得られるエネルギーを比較して、抜け殻のタンパク質とかから得られるエネルギーの方が大きいので、個々の重量は微々たるもので腹ふくれなさそうだけど、沢山食べると充分食料として価値があるとか報告されてたと思う。
 抜け殻をフライマンは「シャック」と呼び習わし、その透明感やカシャカシャッとしているだろう食感などを再現すべく、種々フライパターンが開発されている。

 シャックは羽化した成虫のように飛んで逃げないし、蛹や幼虫のように泳いで逃げたりもしないので、大量にシャックが流れてきて偏食していると、あんまり毛鉤を活発には追ってくれないように思うので、そこそこデキの良い毛鉤が必要とされる。
 ということで、いくつか作って実戦投入しているところだけど、とりあえず簡単なのはカシャカシャッとしてて透明な繊維「ズィーロン」を束ねて捻って縒って体節っぽくして尻尾の部分である「角」とした「借苦角ズィーロン」。カモの毛の縞々を生かして角にした「借苦角鴨」、スーパーでもらえるビニール袋を加工した角を付けた「借苦角ビニール袋」は一番カシャカシャして抜け殻っぽいかなという感じ。
 今のところ、角ズィーロン版はそれなりに良い感じで釣れている。
 
 角鴨はまだ釣れていないけど、角ビニール袋はいきなりコイに持ってかれて、そういう時に限って1つしか作ってなくて、昨日増産かけていた。多分コイもよく水面で餌拾ってるのは目にしてるので食ったんだと思う。だとすれば魚の目から見て捕食行動起こす程度の毛鉤になっていて、ならばアユにも効くんじゃないかと期待している。
 スーパーにロールで置いてあって無料でもらえるビニール袋の間に腰をもたせるためズィーロン挟んで、熱した鉗子で摘まんで溶着させて角の部分を作る。縞々の凸凹ができるのでマジックで適度に汚して拭くと、体節っぽい縞々模様ができる。
 人間の目から見ると、透明感といい一番抜け殻っぽいんだけどはたしてどうだろうか。意外に見た目「リアル」なこの毛鉤より単純なズィーロン角版が優秀だったりというオチはありがちだとは思っている。

 他にも、高活性時に市販の鮎毛鉤に負けないような派手な毛鉤が欲しいなと、いくつか巻いてみた。
 いろんな色や素材を組み合わせて技巧を凝らした職人さんの作る鮎毛鉤と同じ方向性では勝負になるわけがないと痛感しているけど、ワシゃルアーマンじゃけん、派手で魚の反応が良くて単純な配色とかなんぼか脳裏に染み着いてるのがあるけんネ。
 というわけで左から2番目のシルバーヒルトンを元ネタにしたもの以外は、ルアーのカラーを参考に巻いてみた。どれがどんなカラーから鮎毛鉤に落とし込んでいるか分かるだろうか?
 左から「白黄」は目立つカラーといえば蛍光黄色ということで、蛍光は無理だったけど、角と蓑毛を白に、胴を白と黄色に染めたガチョウの羽の筋で巻いてみた。雨後の濁りとかにどうだろうか?
 2番目の元ネタであるシルバーヒルトンは、多分私が初めて巻いたフライだと思う。安いフライセット買って、さあフライも巻くぞとなってバイスもホームセンターで買ってきた小型万力という状態で、ハックルだの鳥の毛もなかなか買えない貧乏学生は、大学で飼育されていた白黒鹿の子斑の鶏に目を付けて、担当の先生にお願いして首の毛抜かしてもらって巻いたと思う。尻尾もウイングもハックルも鹿の子斑の鶏の毛でボディーが黒に銀を巻いてあるというシックな1本である。銀を黒の上から巻くんじゃなくて、今回は銀を底に巻いておいて烏の毛の筋を荒巻して底の銀がチラチラ見える感じにした。金玉は樹脂製の真珠色。黒銀はルアーでは地味な配色だけど、黒はくっきりして結構目立つし銀の反射もあって毛鉤全体として目立つ配色だと思う。すでに活躍している「幻影底烏荒巻」が割と使える感じなので、烏の濃い焦げ茶っぽい黒の鉤を他にも試してみたかったのもあって巻いてみた。
 3番目はルアーの世界では夕まずめや夜に大人気の「赤金」。角赤、胴は底に金のフラッシャブーを巻いておいて、オレンジに染めたガチョウの羽の筋を荒巻して、蓑毛はオレンジに染めたウズラ。コレはなんか理屈抜きにルアーマンの本能が釣れそうだと直感する。「底」に光り物の素材を巻いておいて上に羽毛の筋をユルく巻いて底の光り物がチラチラ見えるという「荒巻」はいかにも鮎毛鉤っぽく仕上がって釣れそうで、巻くのも難しくなく良い塩梅だ。
 最後の「火虎」が、オレンジに黄色と緑に黒ということでファィヤータイガーカラーを鮎毛鉤の色に落とし込んだつもりである。
ただ、胴はオレンジのスレッドを底に巻いた上に黄色と緑のガチョウの羽の筋を交互に綾巻きしたという、この程度の色使いですら、今回鉤18番と大きめにもかかわらず難しく、最初のオレンジのスレッドが次の黄色を巻いていると抜けてしまうということが2回あって、またイィーッ!とさせられた。
 何しろ、バイスも学生時代に買った安物で、小さい鉤にはやや使いにくい。
 最後に糸をとめる用のウィップフィニッシャーとして使っているボールペンの芯や割り箸に縫い針を挟んで固定して自作したニードルとかも学生時代から使っていて、四半世紀来の愛用品である。

 今回、ニンフフライの脚の本数とか数えて巻いていそうな几帳面なフライマンがみたら卒倒しそうな私の毛鉤巻き作業場の写真を公開したのは、高価なバイスとかがなければ「釣れる毛鉤」が巻けないってわけじゃないんだよ、高度なテクニックで美麗な毛鉤を巻かなければ魚が釣れないってわけじゃないんだよ、というのを伝えたくって、あえて恥ずかしい実状をさらしてみた。もうちょっと整理整頓しろよと自分でも思う。
 ネット上でも自作のフライとか公開している人のフライはどれも綺麗に作られている。バイスも高級品である。それをみて私のような不器用な人間はフライや毛鉤を巻くのに不安を感じる。「完璧」な毛鉤じゃないと魚が釣れないのではないか?と。
 ご安心ください。安物バイスで巻いた、この程度のいい加減な毛鉤でも魚充分釣れてます。
 フライの世界ではマッチザハッチは魚を効果的に誘う手段であると同時にそれ自体が大きな楽しみであり、水生昆虫を観察して、その見た目から質感から動きまでを再現していくというのは、それ自体が目的化していることもあり、その面白さを否定するものではないけれど、虫に近づけば近づくほど釣れるかというと、実際にはそうでもなくて、魚が虫を選ぶときの肝になっているであろう要素を押さえたり強調したりして、余分な部分を排除した単純明快な毛鉤の方が、見た目スゴいことになっている「リアルパターン」より釣れるのが世の常であると思っている。その辺りのさじ加減をどうするかあたりもフライマンは楽しんでいて、絶対の正解もないけど案外いい加減なフライや毛鉤で良く釣れるものなんである。綺麗に巻かれているのに釣れない毛鉤もあれば不細工でもなんでか釣れるフライもあるのである。
 魚が脚の本数そろってない毛鉤を食わないとかがあるのなら、それはおそらく左右非対称になったことによるバランスの崩れとかの問題で、昔のエサ釣り師は川虫の脚はもげていると魚が食わないと真剣に主張していたものだけど、そういうことだったのかもしれない。脚欠けたぐらいで魚が食わなくなるのなら昆虫は喜んで脚ぐらい自切するだろう。
 水生昆虫に直接似せていない、時に派手な目立つ色に巻かれている鮎毛鉤の世界でも、あんなに複雑な手法で巻かれた毛鉤が欠くべからざるモノかというとそうは思っていない。
 良く派手なカラーのルアーをみて素人が「あんな派手な魚は自然にはいないので不自然だ、釣れそうにない」とか言っちゃいがちだけど、不自然だからこそ目立つからこそ喰われるのは、アルビノや金魚が自然界では生き残りにくいことを考えれば当然である。
 そういう不自然で派手に目立ちかつ嫌われにくいような配色を膨大な時間の試行錯誤の中から導き出してきているであろう、それでいて時に縞々の配色に妙な本物の虫っぽさを感じたり、水生昆虫が羽化時とかにまとう気泡の煌めきなんかを再現する反射系の素材使いなんかにフライとの収斂を感じたりもする鮎毛鉤について、本当に良くできていて綺麗だと感心すると共に、様々な思いを込めて巻かれてきて親しまれてきたその歴史に敬意を感じざるを得ない。得ないんだけど、ぶっちゃけ「魚釣るだけならもっと単純でいいやね」と思ってしまう不敬な私もいるのである。
 
 本物らしさや派手さを演出する精緻な技巧も、あって邪魔になるモノではないだろうけど、自分が持ってないなら仕方ない。あるもので作れるものでも充分楽しみながら魚が釣れる。
 そういういい加減さも含めて、やっぱり釣りは自由だと思うのである。