2016年11月20日日曜日

手痛い停滞

 ここのところ体調が悪く、病院に行ったらまた「しばらく休むように」との診断が出てしまった。

 復職しては休んでというのも。ここしばらくで三回目なのでげんなりする。病気とか老いとか自分の思うようにはいかないのでもどかしい。

 もうこれは、治らなくて仕事も辞めてどこか空気の良いところに静養にでも行くしかないのではないかと、暗い気持ちになって、静養に行くならどこか良いかなと、ネット動画で高知のアカメやら宮崎のオオニベやら、山陰のシーバスやら、沖縄のロウニンアジやら、関東近郊のフナ・タナゴやらを見ていたらそれも悪くないなという気がしてきた。というか、何もかも捨てて放浪の旅にでも出てしまいたいやさぐれた気分だ。

 まあ、三度目の正直でスッキリ治って復活できるように休むときはしっかり休んでおくしかないのかなという諦念。

 床について二週間ほどで、すでに運動不足からか膝が痛い。体調見ながらだが釣りには行って歩いておきたい。車の運転はおぼつかないので、近所のシーバスか電車で行けるオイカワあたりをしばらくメインにする。今年のワカサギシーズンは棒に振ったくさいが、秋のシーバスはそこそこ釣ったのでまあ良しとしよう。

 ボチボチとというよりヨボヨボし始めた感じだが、まだしばらく生きていかねばならないはずなのでめげずに行きたい。

 


2016年11月13日日曜日

ラパラフラットラップの修繕

 これまでもフラットラップについては、頼まれてもいないのに褒めちぎる文章を書いてきたが、運河の橋の下パターンで私が主力としてフラットラップを使っている理由の一つである「壊れても修繕がきく」という点についても、ここに書いておきたい。

 橋の下にルアーを放り込んでいると、ガスパイプやら橋そのものやらにぶつけてよくルアーが壊れる。ザラパピーなどパキッと割れて上と下とで泣き別れになって頭の部分だけ戻ってくることもままある。
 ソルトウォーターグレードボーマーの丈夫なポリカーボネイト製のルアーだとぶつけてもあまり壊れないので重宝する。それでもモロぶつけると接着面が開いて浸水するぐらいはある。

 一方、ラパラのようなバルサ製のルアーは、強度はそもそもが柔らかいバルサを主材にしているのでそれほど無くて、ぶつけるとリップがもげたり、フックアイが閉じたり、塗装がはげたりボディーがひび割れてしまったりする。

 でも、バルサ製のルアーの壊れ方は修復可能な場合が多い。スペアの同じルアーをある程度持ち込んでおいて、壊れたら一旦持ち帰って修繕して、次回以降に復帰というのができるのである。

 リップがもげた場合は、実はもげたままでもアクションするのでそのまま使うこともできる。でも元のバタバタとしたアクションのほうが釣れそうな気がするので、直して使っている。
 リップの加工はアクリル板とかだとめんどくさいので、ルアーケースの仕切り板やフライフックのケースなど、やや柔らかい素材の板を用意して、調理用ばさみでジョキジョキと切って整形している。
 リップのサイズは元々のサイズより小さくても十分動く。留意するのはボディーの前の方の細い部分にリップがついているので、しっかり取り付けるために、貫通しているワイヤーの通る部分を切ってリップを整形するのが望ましいと思う。
 リップは「PANDO」等のウレタン系接着剤を何回か盛ってしっかりと接着しておくと、ぶつけてもとれにくくて良好。

 後ろのフックアイがつぶれてバルサのボディーにめり込んでしまうことはままあって、その場合はアイを折ってしまわないように、先の細いスプリットリングプライヤーを使って引っ張って形を整える。引っ張っても出てこない場合はアイを無理矢理引き出すよりはボディーをちょっと削るようにしてアイを露出させる。
 その後、瞬間接着剤を染みこませて乾燥させたら、ウレタン系接着剤でコーティングしておく。
 ウレタン系接着剤は固まってもある程度の柔軟性があるので、ぶつけたときに割れにくいように感じる。

 塗装がはげたりボディーがひび割れてしまった場合も、基本的に瞬間接着剤を染みこませて乾燥後、ウレタン系接着剤でコーティング。

 実際にそうやって直しながら使っている歴戦の強者が上の写真の固体。ボロボロな見た目になっているが、釣れっぷりは新品と遜色ないと思う。



 フラットラップの飛距離やアクションが「釣れる」ということはこれまでも書いたところだが、この修繕がきくというところもなかなかに侮りがたい要素で、投げるのに躊躇が少ない結果、よく投げる、よく釣れる、という良いサイクルにはまりがちなのである。
 そういう面も含めて私にとって「釣れる」ルアーなのである。

2016年11月6日日曜日

読書って、こう、もっと楽しいモノじゃないの?

 ここ数日風邪なのか体調が悪い、のどが痛くダルくてしんどい。釣りにも行けずに家で大人しく本など読んだりネットをさまよったりしている。

 「感受性が高い若いうちに読書をしておくべきだ」との記事を読んだ。

 老いも若いも読書を楽しめば良いと思うので反対するモノではないが、若いうちの読書が人格形成やら教養のために必須のような書き方をされ、「読むべき」的な押しつけがましいことを書かれるとちょっと違うのではないかと思う。

 基本的に読書なんてのは楽しいからやるのであって、人格形成やら教養のためにももちろんなるのかもしれないが、今日のように書籍以外のデータ提供の媒体も多い中、それが必須かと聞かれればちょっと疑問に思う。本などほとんど読まない友人知人もいるが、彼らの人格に問題があるとも教養が無いとも特には感じない。

 自分自身、人格形成やら教養やらに読書ももちろん影響してるだろうとは思うが、人から直接学んだもののほうが大きいように思うし、テレビやらマンガやらからも影響は受けている。特にマンガは今更ながら自分をかたちづくるうえで大きかったように思う。

 まあ、読めと強制されて読むのは「読書感想文」のようで気が進まないというところで、読まなきゃならないなんて思いながら読んでもつまらんのではないかと思う。

 だいたい、じゃあ歳食って感受性が枯れたら読書する意味が無いのかと聞きたい。
 そうじゃないだろと、歳食ってみずみずしい感受性は枯れてもその分経験やら何やらをつんで、もののあわれ的な味わいが分かるようになっているかもしれない。そのときそのときに読んで面白いと感じる部分は違うけど、それがまた面白いんじゃないかと思う。

 というのは、開高先生が人生相談「風に訊け」で読者からの「巨匠の渾身の作がそこいらの学生ごときにそうそう理解できるわけがない、と言われたけど、読む意味が無いのでしょうか?」との問いに答えた答えぶりのパクりだが、当時もなるほどと得心したが今でもそのとおりだと思う。

 読書なんて暇つぶしの一種でとりあえず退屈しなければ御の字で、あんまり過度な期待をするなというモノである。
 それでも、沢山本を読んできた中で人生を変えるような一冊なんてのも確かに読んだ憶えがあって、確かに読書は良いものであるとも感じるところである。
 若いときに読んだ「人間失格」の主人公への共感、「オーパ!」に感じた驚嘆。たしかに若いときしかできない読書経験だっただろう。

 でも、それらと同等以上に素晴らしい読書体験には今でもたまに出会っている。例えば、「ザ・ロード」なんてのは父となっていておかしくないオッサンだからこそ深い感動を味わえたんだろうというモノだ。
 これからも爺さんになっても、「楽しいから」読書は続けるだろうと思う。

 「読書は楽しい」それが、本を読む唯一のよりどころだと私は思うのである。