2018年2月24日土曜日

2月のスナドリネコ

 釣りのことばかり考えている。

 今年の妄想抱負として「釣りとネコのことだけ考えて生きる」と書いたけど、ネコのこともたまに考えているけど、主に釣りのことを考えている。
 働いてたときにも、仕事中でさえ気がつくと週末の釣りの作戦を練っていて、いかんいかん真面目に働かなきゃ、と我に返るような釣りバカぶりだったが、今年はリハビリもクソもとりあえず後回しで、タガを外して釣り優先で突っ走っているが、自分でもどうにもならないぐらいに釣りのことばかり考えてしまって。釣りのことから逃げられない。
 毎日釣りに行ける体力があれば、毎日釣りに行って多少はスッキリするのかも知れないけど、週2日なら余裕あるぐらいだけど3日になると腰だの体調だのが限界っぽいので、多くの日を次の釣りのための準備で悶々とした日々を過ごす。
 釣りに行かない日にジョギング行ったりしているが、ジョギングはそれなりにしんどいけど、釣りに行った後の、体のあちこちが固まってガチガチで精神的にも上がって下がってクッタクタの状態と比べたら、ジョギングの方が単純な体への負荷は大きいのかも知れないが釣りの方が心身共に疲弊してしまうように思う。

 シーバスならヤフーの天気予報と「海快晴」の風予報とタイドグラフを睨みながら、3日行くならどの日が一番釣れて、かつ今までの情報を補える情報が得られるか?雨の釣りはどうか、風はどのくらい吹けばいいのか風向きはどうか、釣り場移動のパターンはいつもの場所スタートで始まりのタイミングが終わったら上下見に行くか、それとも最初から別の場所で始めるか、人山状態だったらかわせる押さえポイントはどこになるか、釣れるのだろうか、釣れなかったらどうしよう。そもそも良い場所取られては入れなかったらどうしよう。下手に考える時間があるので不安が膨らんで釣りに行くまでにすでに冷静さを失うときもある。
 そんな状態で目の前で自分が釣れてないのに、人様に良いのを釣られてしまったりすると、嫉妬、憤怒、情けなさ、信じてもいない神の無慈悲への非難、これまでやってきたことへの不審、今からやらなければならないことについての迷い、これまで生きてきた自分の心の狭さを残念に思い、何があってもやるべき事をヤルだけと迷いなく進めるだけの精神的な強さがないことへの落胆、その時の結果だけをみてもしかたないのに、今目の前にある釣果についてしか見えなくなる近視眼的なものの見方の反省。
 なぜ、たかがシーバス釣りごときでこんなにも心が千々に乱れるのか、シーバス釣れなかったからといってオレが何を失うというのか?
 客観的には何も失わないのかも知れない、でも「釣りのことしか考えない」とまで宣言してタガを外して今の全力でいった情熱の結果が無に帰するというのは、主観的には耐えがたい苦痛である。

 ヘラ釣りでもほとんど一緒。まだ、ヘラ釣りは自分は初心者に毛が生えたレベルといういいわけが自分に対してできるので、デコっても気が楽な部分はある。あるんだけどデコって悔しくないような輩はヘラ釣りなどやめてしまえと心の底から思う。どんな釣りでもそうだと思うけど、自分の持っている知識や技術、道具や情報、総動員して自分なりの勝利を設定して、いかにして昨日釣れなかった魚を今日釣るか、今日釣れなかった魚を今度釣るかに血道をあげずして、何が釣りの楽しさ面白さよといいたい。
 ヘラ釣りではまだ、基本的なところで浮子と仕掛けの自分なりの最適化みたいな作業を季節毎、釣り場毎に合わせてやっている段階なので、釣り場に行けなくても前回反省点を生かして、もっと繊細な細仕掛けで食い込ませる。逆に仕掛けに張りを持たせて感度良好アタリを明確にとる。といろんな方法を想定して浮子も作ってお風呂でオモリの背負い具合をチェックしてというような作業がけっこうある。手を動かして対策を講じていくのは、頭だけで悶々と悩んでいるより、手に触れられる成果が準備段階でもすいぶん生じるので楽しくもある。
 次回「公園池」、最初は普通の段底で入って、アタリが今一取れてないようならフロロの道糸でパリッと張って浮子大きくオモリも大きくで感度良好系の仕掛けを試してみる。
 宙の釣りも、ハリの重さだけで浮子が立つような極端な小浮子の釣りを試してみたい。
 そういった工夫の5~10に一つでもモノになれば御の字である。
 たかが「釣り」、そのための労力、工夫、手間暇を惜しむつもりはない。

 頭のいい人はたかが「釣り」なんて暇つぶしの趣味でしかないことに、人生のリソースを割いても意味ないじゃないか。もっと有意義なことにリソースは重点配分すべき、とサジェスチョンしてくれるかも知れないけど、「リソース」ってなんね?なオレにはピクリとも引っかからない言葉だ。
 じゃあ人が行う有意義なことって何なのよ?仕事して社会に貢献することか?まあ、そういう能力のある人が社会の役に立つ仕事に邁進するのを止める気もないし確かに有意義かも知れない。でも、オレみたいな味噌っかすな社会人がする仕事がそんな有意義なモノかよ。少なくとも自分にとってはオレがやらなくても誰かがやってくれる程度の仕事だと思っている。ってのは自己卑下しすぎだろうか。
 有意義なことが金儲けなんてのだとしたら、正直言って、心の底からどうでもいいよ。

 でも、釣りしない人から見たら釣りなんて「たかが釣り」であり、いい大人が朝から晩まで場合によっては夢の中でまで考えて考えて情熱を傾ける程のモノだとは思えないだろうことも想像できる。
 でも、そんなこといい始めたら今やってる冬季オリンピックの競技なんて、スケートでクルクル回ったりスキー履いてかけっこしたり、飛んだり、ソリで滑ったり。たかが冬の遊びの延長でしかない。
 でもそのたかが冬の遊びの延長に、おのれのすべてを掛けて情熱を持って打ち込むときに、競技者が見せる物語や一瞬に出し切った技量の素晴らしさに、人は心を射貫かれるし、応援していた選手の勝利に歓喜し、負ければ悔し涙さえ流すだろう。
 そのことは、「有意義な金儲け」なんていうどうでも良いことに比べて、とても人間的で人の精神の有り様として高い状態にあるものだと私は思う。
 残念ながら冬季五輪には格闘技がみあたらないのでネットニュースの見だしだけ見て「良かったな~」とか思ってるだけだ。あんまり肩入れしてみてしまうと負けたとき悲しくなってしまうので、そういう心の上下動のための余力は釣りのために温存しておきたいので良い結果だけ見てよろこんでいる。冬の競技でもアイスホッケーが格闘技だという噂も聞くがアイスホッケーマンガ「南国アイスホッケー部」「スピナマラダ!」で勉強したところ、どうも格闘技というよりは球技に近いように思う。けど、南国アイスとかほとんど競技やってないので今一ルール分からんかったので今回も見ていない。

 芸術、スポーツ、芸事、趣味いずれも別にそれがなければ飯が食えなくなるわけじゃない。でも音楽好きなら「ノーミュージックノーライフ」と感じるように、そういう「たかが」楽しみのために人間が行うことにこそ、人間の真に人間らしい部分が垣間見え、人間の高みを目指す精神の素晴らしさが際だって現れるってものだろう。

 有意義とか効率的とか、そういう生臭いものの対岸に「たかが」といわれちゃうような、いうたらお遊びの延長線上のものがあって、遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、な人間の本質がそこにこそ顕現すると私は思う。
 花なんて食用菊でもなければ腹がふくれるわけでなし、そういう意味では「有意義」じゃないけど、まず間違いなく人間が農耕始めた頃には花も育てただろうし、それ以前の狩猟採取時代から花を愛でてたはずだと調べもせずに断言できるぐらいに、たかが美しいだけのものが人には重要だったりするんである。

 今世間は将棋ブームらしくて、今季アニメでも将棋アニメ2本放送されている。将棋なんてまさに将棋強かったからって実生活で何か役に立つかって話で、あえて「たかが将棋」であると言わせてもらう。でも将棋のルールが飛車と角どっちをどっちに置くのかすら分からん門外漢である私でも、たかが将棋の勝負に掛けられるモノすべてを掛けていく登場人物達の熱さに圧倒されっぱなしである。2本とも趣向は違えどどちらも面白い。
 1本はガチガチの名作「3月のライオン」でいつもシーバス釣りに行く川辺の下町あたりが舞台になっていてその風景描写も美しいなか、天才将棋少年としての孤独やらいじめ問題やら硬派なネタにも真っ向勝負でマンガ・アニメとしても勝負してて敬服するんだけど、登場人物で主人公のライバル二階堂君ってのがいて、ウザいぐらい明るくて前向きな子なんだけど、実は体が弱くて長丁場の対局の途中で倒れて入院してしまう。入院開け復帰戦、しばらく離れてて勝負勘が鈍ってるんじゃないだろうか、休んで順位とか厳しくなって落ち込んでないだろうかという主人公達の心配をよそに、入院中ずっと考えていたという将棋で復帰戦を勝って鼻高々に復活する。たとえ病の床にあってでも戦略を考え練りに練り次の機会を虎視眈々と狙う。同じ病弱仲間としてめちゃくちゃ励まされた。そうでしかありえないよな、だって好きなんだもン。という感じだ。
 もう1本の「りゅうおうのおしごと」は、16歳で竜王になった主人公の所に小学生の女の子が押しかけ弟子でやってきて巻き起こる騒動って感じの、いかにも今時なラノベ原作のロリコンなオタク様狙いも透けて見える作品なんだけど、意外と言っては失礼かも知れないけど深夜アニメらしい笑いの中になかなかに熱い闘いが描かれてたりしてこれまた面白いんである。
 「たかが将棋」と作中でも何度か言及されているけど、棋士って人種は将棋の長い歴史の中でアホみたいな情熱を将棋に注いできて今に至るのである。ってのは将棋指さなくても「月下の棋士」とか「ハチワンダイバー」とか「ひらけ駒」とか読んでればある程度察しがつく。
 主人公の姉弟子が「「将棋星人」は、私たちと違う将棋のための特別な感覚器官を持っている。普通の人が将棋星人のいるところに行けば死んでしまうかもしれない。でも私は将棋星人のいるところにまで行きたいと思ってる。」的なことを言ってて、そう思うに至るぐらいに才能ある棋士にたたきのめされてきたはずなのに、あきらめずに高いところを見る目線が問答無用に格好いいじゃん。

 自分も「魚釣り星人」ではなさそうだということは薄々気付いている。
 謙遜していると誤解されると良くないので書いておくと、自分のことを釣りが下手だとはあまり思っていない。釣りの玄人だといってはばからない程度には技術も実績も持っていると自負している。
 でも玄人の中でも「魚釣り星人」達と比べてしまえば、何十年もやってきてなんでこんなに技術的に下手なんだとか、徹底的にセンスがないとか、忍耐力とかに代表される精神的な屈強さがまるでないとか、いくらでもボヤけるし絶望的な気持ちになる。

 他人と比較して自分の価値を貶めるなんて、全くもって幸せに遠いモノの考え方だろうと思う。
 魚釣りは本質的には人と競うモノじゃなく魚と競う遊びのはずである。魚と自分の関係性こそがすべてで他人が何を釣ろうが本来どうでも良いはずである。自分が釣れる魚が最高の獲物のはずである。
 でも、隣の芝生は青い。隣の客はよく柿食う客だ。
 隣が気にならなくなるには、隣なんて比較する必要もないぐらいに優位に立って見下すぐらいの高いところに行かねばならない気がする。少なくともそう思いあがることができる根拠を得るぐらいにはならねばなるまいて。
 掛けられるモノを「たかが釣り」に全部掛けたとして、はたして死ぬまでにそこまで行けるのか、これまで掛けてきた情熱やら時間やらと今の自分の立ち位置がたかだかこのあたりということからかんがみて、はなはだ心もとないけれど、それでももう逃れようもないぐらいにハリはガッチリ掛かってしまっているので、あきらめてもがき苦しむ覚悟を決めるしかないだろうと思っている。

 正直自分は全部掛けてその結果が「敗北」でも良いんじゃないかと思っているのかも知れない。敗者の美学ってのが「あしたのジョー」を読んで育ったオッサンとしては心の底にあるように思っていて、「3月のライオン」でも島田八段が一番ダントツで格好いいと思っている。対局前には胃痛に襲われ飯も食えないような繊細さを持ち二階堂君にも兄者と慕われる面倒見の良い優しい人なんだけど、応援してくれる故郷の後援会の人たちのためになにより自分の誇りのために胃薬飲みながらフラフラになりながら挑むタイトル戦。まあ実在の羽生将棋星人をモデルにしただけあって作中最強の宗谷名人相手に連敗して後がないところまで追い込まれる。ここで島田八段苦労人過去話とか挿入されて物語は盛り上がって観てる方もせめて一矢報いて欲しいと思うのだけど全敗で終わる。終わるんだけどなぜかメチャクチャに島田八段が格好いいんである。努力やら情熱やらひたすらに全力でいっても負けるときは負ける。届かないことがこの世にはある。そのことの持つ尊さ美しさが重くズシンと胸に来るのである。
 オレは「敗北を知りたい」のだろうか?充分知ってるだろ?よく分からん。よく分からんけどどんなに頑張っても届かないことがあるからなお勝利というのは価値があるんだと思うし、それに向かってあがく行為にも価値が生じ得るんじゃないかと思っている。
 敗北を良しとするヌルさは心から排除しなければならないけど、敗北の覚悟も持たなければならない高いところを目指さなければならないとも矛盾するようだけど思う。書いててなんかよく分からんようになってきたけど、やることは単純で、死にものぐるいで力一杯いくだけだろう。

 アホはあんまり考えちゃいかん。

2018年2月17日土曜日

春になれば


 今年の冬はえらく寒くて今が一番寒いぐらいだと信じたいところだけど、ここ2,3日寒波も緩んでて春はそこまでやってきているのかちょっと目がかゆくなってきた。

 この寒いのにちゃんと杉は準備怠りなく今年も花粉を飛ばす気のようだ。

 こちらも一応毎年のことで分かっちゃいるので1月後半ぐらいから抗アレルギー剤を飲んで、毎朝ヨーグルトも食べている。
 加えて今年は、最近やってたNHK「人体」でクロストリジウムの仲間の腸内細菌が免疫の暴走を防ぐメッセージ物質を作っていて、野菜とかキノコとか食物繊維の多い食事をとっていると花粉症などアレルギー症状が緩和されると聞いて、腸内細菌と人間の共生関係の深さに驚くとともに、さっそく意識して食事を作っているのだけど、これがこの冬の寒波が食卓を直撃しているのは奥様ご存じのとおりで、野菜がクソ高い。
 キャベツ1玉398円ってちょっと奥様!マーッどうしましょ。

 野菜がないならキノコを食べればいいじゃない、とマリーアントワネットっぽい台詞を吐きつつ毎日キノコ食いまくっている。
 キノコの菌糸瓶栽培を開発した人は本当に偉い。特にマイタケの栽培技術開発してくれた人には感謝しかない。マイタケ大好き。
 でも葉っぱモノも食べないなとバランス悪いかなと、路地ものハウスものは軒並み高騰でこの時期の茄子がまだ割安に思える始末で、その中で安定した値段なのがモヤシとかかいわれ大根とかの水耕栽培系で、確かに温度管理した室内で生産されているだろうからこういう寒い冬でも安定生産できるんだろう。「食の安全」っていうと「無農薬路地もの」とかが良さそうな印象があって、ある一面ではそうなんだろうけど、やっぱりここでも多様性って重要で、路地ものしかなければオラこの冬こせねえダ。美味しいマイタケも街の人間の口さは入らねえダ。
 モヤシ業界が価格が安くてやっていけないとかいうニュースも流れていたけど、この冬おおいに見直した。モヤシも立派だ。なくなっちゃこまる。

 で、写真の緑だけどこれも水耕栽培系で「豆苗」なんだけど(右の球根は紫タマネギではなく同居人が育てているヒヤシンス)、この冬の野菜高騰で初めて買ってみた。中華料理屋とかで食べたこと自体はあったけど買って料理してまで食べようと思ったことなかった。でも相対的に安い価格になっているので食べてみた。
 味はまあ普通に青物野菜の味なんだけど、なるべく捨てる部分を少なくしようと下の方から切ったら種である豆の部分が混入してしまい、これが割とカシュカシュといい具合の歯ごたえで、当たり前だけど豆っぽい味がしてなかなかにいける。豆をなるべく根こそぎ食おうとして根っこが多く入るとやや歯触りが悪くなる。でもまあ豆旨いので根っこもけっこう食っちゃう。

 豆ってうるかさずにそのまま調理できるのはレンズ豆ぐらいで、割と食べるのに手間がかかるので、むしろ豆を食べる目的で買うようになりつつある。
 ついでにそれでも残った豆と根っこに水かけて窓際に放置しておいたらちゃんとひこばえ生えてきてもうすぐ収穫できそうになってきた。なかなか美味しいし楽しい野菜である。
 という感じで春を楽しみに待ちつつ、魚も釣れているしクソ寒い冬も堪能している。


 どうでも良いことだけど、「ひこばえ」が漢字では一文字で「蘖」とも書くと変換候補に出てきて、この年になって初めて知った。逆に「孫生」は出てこない。「蘖」より「孫生」のほうが意味分かりやすいしなじみあると思うのだけど、いずれにせよ林業や農業の現場から現代人の言語感覚とかが乖離していっているということだろうか。

2018年2月11日日曜日

信じられないようなものを私は見てきた(り、見てなかったり)

 オリオン座の近くで燃える戦艦。タンホイザーゲートの近くで暗闇に輝いていたCビーム、そんな思い出も時とともにやがて消える。雨の中の涙のように。

 ってのは、映画ブレードランナーの名台詞だけど、それなりに馬齢を重ねてきた私にも「信じられない」と目を疑うようなものを見てきたりもしたのでちくっと振り返りつつ書いてみたい。っていうのは、ちょっと前にBBCの生物番組について書いたけど、あのときチラッとふれたマンタの映像に触発されて、そういえばパラオでマンタ見たよなぁとか思い出して、確かに今時の映像って美しくて感動させられるけど、まだ自分が実際に見たものには勝てないなぁとちょっと安心と優越感を覚えたところである。

 写真のマンタ(オニイトマキエイ)はパラオにロウニンアジ釣りに行ったときにボートの上から見たものである。場所移動中、珊瑚礁の水道になってるところを突っ切っているときに、ガイドがボートを減速させて、とても大きいマンタが居るよとニヤニヤ笑っているのだが、私も同行者もどこにいるんだか分からない。底は白い珊瑚の砂に所々隆起した珊瑚が転がってて透明度も高く、そんな大物が居れば見えないはずがないのだが、砂と珊瑚しか見えない。
 突然同行者が「アッ!おった」と声を上げる。どこにいるんですか?といぶかしむ私に同行者は「もう見えてるはず」とガイドとそろってニヤニヤしている。
 じっと水中を見るけど黒っぽく珊瑚の影がとがっているのが見えるだけだ。しばらく2人の楽しそうな態度にイラッとしつつ見ていて、ムムッ??なんでこの珊瑚の影はボートが進んでも同じ位置にあるんだ?と思ってよく見るとなんかその三角っぽい影の先端がゆらりとひるがえるような動きをしている。
 ひょっとしてこれエイのヒレの先端か!?と思って全体像を追っていくと、ボートに隠れて後の方とかよく見えないけど、頭の方あの特徴的な耳のような突起が2本突き出ていて間違いなくマンタだと分かる。デデデデデデカイッ!!デカすぎて真上から至近距離で見ると魚だとすぐには認識できないぐらいにデカい。4m越えるぐらいか?ボートの長さぐらいは幅がある。デカすぎて大きさの見当がつけにくい。ガイドがビック(大きい)じゃなくてヒュージ(巨大)と言っていたのも納得の巨大さであった。
 泳ぎ去っていく姿を写した写真じゃ、全くその大きさが伝わらないと思うけど、真下にいるときに撮った写真は防水コンパクトカメラの普通のレンズでは白い背景に黒っぽい三角が写ってるだけの意味不明な写真で、でもそっちの方がまだ巨大さ自体は伝わるかもと探してみたけど残念ながら見つからず。あのヒュージ感は現実に真上から見たんじゃないと、いくらきれいな映像で大きさが分かるような対象物と画面に入ってても、自分の目が見てその時の空と海の青さや熱い日差しと空気なんかとともに味わった実体を伴ったデカさは表現しきれるものではなく、その感動は、自分と同行者の胸の中にしかないんだろうなと思うのである。

 都会の人混みを目を伏せて、本に逃げ込んで、見ないように生きてきたので、街や人の美しさやらは見逃してきた人生かもしれないけど、釣り人として水辺に多く居た人生なので、水辺の美しさや不思議な出来事は多く見てきたと思う。
 テナガエビ乗っ込みポイントで、捕食者に追われたエビたちが水面上に跳ね上がる「エビボイル」は始めて見たときは目を疑った。ハサミ脚の長いオスなどハサミを重そうにぶら下げるようにして水面から飛び出す。
 シーバス釣りに行ってた砂浜で、カタクチを追い回すボイルが発生していて、ボイルの主を釣るべくルアーでモグラ叩きしていたら、楕円形の物体が水中から飛び出した。フグかなんかかな?と思っていたが、釣りのうまい同居人が釣り上げて正体が判明。ヒラメでした。ヒラメ水面から飛び出すって驚きであった。
 玄界灘、砂浜がサラシのように泡をはらんで白濁しているような荒れた初冬の海。波が高くなるとその波の中にシーバスが泳いでるのが見える。秋のオホーツク海のカラフトマスを思い出した。
 底まで見える透明度の冬の東北の港、ワームを踊らせていると石化けしていたカジカが一瞬でワームを消す手品を披露してくれた。
 もちろん、釣った魚の衝撃的な食いつく場面なんてのも、いくつも思い出せる。永く釣ってるから書き出したらきりがないくらいある。
 どれも極個人的にとても価値のある脳内映像である。死ぬときの走馬燈でどれを流すべきか選択に迷うぐらいある。

 でも自分の「目で見た」と思ったことでも、本当にそれがあったのかどうか疑わしいモノも「見て」きた。
 どうも私は、寝不足だと白昼夢をみる傾向があるようで、まったくの現実に、頭の中の妄想だかなんだか混じって見えてしまうのである。霊現象だの超常現象だのを「私は見た」程度を根拠に実在したように信じている人々を見ると、ほとんどが私の白昼夢とかに類似した脳の視覚情報処理の齟齬が原因だと、つまらないみかたかもしれないけど思っている。
 寝不足で自転車こいで朝早くから行ったダム湖でのバス釣り、いい加減釣れない時間帯が続いて眠さがおそってきた頃に、見たことも聞いたこともないような白黒シマシマの魚が湖底を泳いでいった。なんてことが代表例だけど、白昼夢連発させたのが、釣り場の行き帰りのJOSさんの運転する車の助手席。まあ眠いんだけど師匠に車運転させておいて助手席で寝まくるのも心苦しく、それでも寝ちゃうんだけど、寝ないように気合いで目を見張っていると、車窓から見えるはずのないモノが見えてしまうのである。
 「今、向かい側の車線に蒸気機関車の恰好した車走ってましたよね」、ましたよねって念押されてもそんなもんナマジのオツムの中にしか走ってないって。ヤレヤレだぜ、またこいつ寝てやがったなという感じであしらわれてしまうのだった。

 でも、そういう怪しいモノが見えてしまったらすべて見間違いならそれはそれですっきりするのだけど、見えてしまったモノが実在してしまう場合もあって、目で見たモノのうちなにが本当で何が妄想かなんてのは最後のところは分からなくなったりもする。
 釣り人なら多かれ少なかれ発症しているだろう「何でも魚に見える病」ぐらいなら可愛いものである。オオイワナだと思ってヒレの端の白いところまで見えた気がしたのに、近づいてみたら引っかかって流れに揺れてる黒ビニールだったとか、ライギョだと思ったら沈んだ木だったとか、正体見たり枯れ尾花ってぐらいで実在してもどうってことはない。でも、何かが見えてて正体が予想もしなかったモノっていうことも実際にあったりするのである。
 その日、関東近郊の渓流でイワナを釣っていた。放流量が多い川でもありなかなかの釣果を楽しみながら釣り上がっていると、とある淵で上流側から妙なモノが泳いできた。真っ黒なナマズのような50センチぐらいの生き物で目が大きくて印象的。寝不足でバイクとばしてきたので例によって白昼夢を見ているのだろうかと目を疑うが、やけに意識もはっきりしている中、謎の生き物も着実に泳ぎよってくる。正直ちょっと怖かった。謎の生き物はかなり近寄ってきて、そろそろ叫んで逃げ出そうかという手前で、顔を水面からひょこっと出して岸辺の岩にぴょんぴょんと登ったと思ったら毛繕いを始めた。
 「カワウソ?」とパッと見た目には見える。泳ぐのが得意でイタチの仲間の獣であることは間違いない。妖怪変化のたぐいでなくてホッとしてしげしげと観察すると、真っ黒な毛並みにキョロキョロとした目がなかなか可愛い。カワウソにしてはサイズが小さい。でもイタチやテンにしては色が黒いし、泳ぎが達者すぎるように思う。
 しばらく観察して写真撮ろうとしたら林に逃げていったけど、脳内検索で黒い個体がいてイタチの仲間の泳ぎの得意な獣で「ミンク」がヒットしてきた。毛皮用に養殖されていたのが逃げ出したりして北海道とかで野生化していると聞いたことある。本州でもいるのか帰ってから調べると、福島あたりでは確認されているようで、どうも正解のようである。
 ミンクとか知らなかったら「カワウソは生き残っている。私はこの目で見た。」とか言い出していておかしくない。    
 これまた目で見たことなんてあてになんないという事例である。

 とはいえ、未だ仮想現実とかもまだまだな始まったばかりの技術で、しばらくは自分の目で見て体験したことの価値や優位性は揺るがないだろうと思う。でも、仮想現実が完全に現実を再現し、さらに現実を越えて刺激的になるような技術が開発されるその日も来るんじゃなかろうかと思う。
 我々が現実を感じている脳よりも、量子コンピューターとかが情報を処理する能力が上回ればそれは可能だと思うので、案外早く実現するんじゃないだろうか。現実そのものを仮想世界で再現しなくても脳が感じているレベルの「現実」を再現すれば足りるはずで、簡単じゃないだろうけどできそうに感じる。
 今の仮想現実の技術はまだゴーグル付けて立体の映像が見えるとか視覚情報だけだけど、脳に入出力する技術が進めば、5感すべてを再現することができるようになるような話も聞く。
 たぶんその辺の技術の開発・普及の原動力になるのは「エロ」だと思う。情報機器の発展にはある意味戦争以上にスケベ心が貢献してきたといえるのではないだろうか。ビデオしかりインターネットしかりである。
 オカーちゃんが息子の部屋のドアをガラッと開けると、息子がゴーグルつけたまま腰を激しく振っているような未来がもうすぐ来るのである。間抜けな未来である。
 間抜けな未来を回避する技術として、脳が命令を出しても筋肉とかにその命令が伝わらないようにスイッチを切るような仕組みが、どうも脳に元々あるらしく、それを応用したら「ナーヴギア」のようなフルダイブ型の仮想現実機器が実現できるんじゃないかという話を読んで感心した。まさに「夢」では脳が指令を出しているのにスイッチ切れているので体が動かない、その仕組みがおかしくなると夢遊病になるらしい。なかなか脳って興味深い。

 近い将来、仮想現実が現実以上になったとしても、じゃあ山頂に登った人間が見る景色の感動が、同じ景色を見てもヘリで山頂に降ろしてもらったのならそこまで感動しないだろうってのと同じで、やっぱり自分の体と頭を使って現実で経験することの価値って残るんじゃないかと思いたい。
 このあたり考え始めると、山に登る苦労も含めて仮想現実で再現すれば同じだとか、現実ではあり得ない高さの山さえ設定可能。とか収拾つかなくなる。どこまで行っても個人の嗜好として「やっぱり本物がいい」というのは消えてなくならないようにも思うので、実際どうなるのか寿命が許す限り体験できるところまで体験してその都度感じるしかないんだろう。

 中央アジアの空の青さも、南の島の壮絶な夕焼けも、これまで実際に足を運んで体験した思い出は、脳の中で補正かけまくりでいつまでもすばらしいものであり続けるはずだということは確信している。

2018年2月3日土曜日

キブクレロ

 着るモノなんざポンチョで充分、ビバメヒコ!(byオーケン先生)ってな人には関係ないんだけど、冬の釣り人はなにを着るべきかというのは、釣り場で寒さに震えてちゃ釣果に響くのでよく考える必要がある。
 暖かく野外で活動するための服装は、極論すれば冬山登山や極地における野外活動に使える性能のモノが存在するし、なんなら宇宙空間で活動できるモノまで存在する。
 釣りの場合、水がすべて凍ると釣りにならないので宇宙服までの装備が必要とはおもえないが、冬山登山やらスキーやらの冬の競技ともまた求められる要素が違うので、考えなしで挑むと寒さに凍えることになりかねない。
 釣具屋にいって、中に着るインナーとかで水蒸気で発熱するとかいう機能性をうたったモノなんかも売っているけど、あれって登山やらの発汗する運動をともなう競技では役に立つのかも知れないけど、たとえばヘラ釣りでじっと座って釣ってる場合には汗もかきようがないのであんまり効果的とは思えない。ちなみに水分で発熱する素材は新開発のような顔をしているけど、ようするに羊毛の機能の再現である。川の水で洗って濡れた状態で積み上げてある刈り取った羊毛からモクモクと湯気が立っている映像を見たことがある。ウールのセーターってなにげに優秀だから古くから愛されているのである。

 じゃあどういう防寒着が冬の釣りに向いてるかといえば、とにかく断熱性と保温力を稼ぐ作戦で、ドンドコ重ね着である。多分。
 化繊だろうと、羽毛だろうと、羊毛だろうと、とにかく空気の層を厚くとればとるほど良いはずで、実際にヘラ釣りではそれほど動き回らないこともありみなさんダウンでモコッモコに着膨れている。
 ヘラ用スカートも5本指の手袋より指がくっついたミトンの方が表面積が小さく暖かいのと同じで、たった一枚の布なのに思ったより効果大で感心したところだ。
 ヘラブナだと着膨れても行動を制限しないので着膨れてしまうのが正解だろう。私も皆をならってダウンにフリース重ね着したりしてモッコモコで釣っている。
 着膨れるのに下着の上ぐらいに着るものは、昔からホームセンターとかで売っている夜間の交通整理や外での作業用のものと思われる化繊のとっくり首のが費用対効果に優れていて愛用している。アウトドアメーカーとかの高価な奴より断然安くて分厚くて暖かい。
 あとは、内部に熱源を持ってくるなんていうのが、運動して自らが発熱したりしない釣りの場合重要。最近は戦闘機乗りのスーツのように電気で発熱するバッテリー付きのインナーとかもあるようだけど、そこまで行かなくてもカイロ貼りまくるのはお約束。
 これがシーバス釣りとなると、ある程度移動しつつ釣っていくので着膨れするにも限度はある。そのうえ雨風防いでということになると、ちょっとバイク乗りの装備っぽくなってくるけど、まあ着膨れてカイロしこんでその上に雨風を通さないゴアのパーカーとかを着込む。下も合羽。
 動き回るし、冷え込んだりもするので重ね着するための合羽の上、さらに着膨れるためのダウンのベストなども用意して寒けりゃ追加できるようにしておくと安心である。限界近く重ね着しても袖のないベストならさらに着込める。
 手袋はヘラとか餌釣りの場合餌付けをする指は出さざるを得ず冷たい。手元にカセットガス式のヒーターをおいている人も多い。私は手袋に仕込んだ貼るカイロミニでしのいでいる。
 カイロは手首の内側、肩胛骨の間、首筋、内ももあたりを暖めると大きな動脈があるあたりなので暖められた血が巡る。
 手袋はシーバスの場合、ネオプレーンの手袋をつけたまま釣っている。ロウニンアジの釣りとかで手袋ありで投げるのが当たり前という状態に慣れると手袋はめてても気にならなくなる。ちなみにロウニンアジタックル手袋なしで扱うと私の白魚のような指では豆ができてつぶれる。
 釣り用の手袋だと指先だけ出せるようになってるけど、雨の日にそこから染みてかじかんだので接着しちまおうかと思ってる。

 足回りは、寒がりだけど冷え性ではない私は長靴に厚手の靴下で間に合っている。冷え性の人は足先が寒いそうだけど、余裕のある大きさの長靴であれば爪先用貼るカイロとかもある。長靴って完全防水防風で寒さには結構強い。昔冬バイク乗るときにはネオプレンのウェーダーを最初から履いて出かけてたぐらいだ。夏は蒸れて水虫を召喚するけど。

 かなり重要なのが帽子とネックガード。もう、ネックガードは夏は首筋の日焼け防止に冬の防寒にと私の釣りにはなくてはならなくなっている。首にウールの厚手のネックウオーマー巻いて帽子かぶって、さらに薄手のネックガードでとっくり首と帽子を継ぎ目なく覆うようにしてやると首筋から侵入してくる冷気が遮断できて一段階上の暖かさ。

 ちょっとある日の着膨れた状態を剥いていってみたので参考に。

 肌着は汗が乾かないと冷たくなってくるので速乾性の化繊のものが良いと聞く。
 半袖着た上にヒートテック着て、その上に写真じゃ黒くて見づらいけど化繊のとっくり首を着てさらに羊毛のとっくりセーターというとっくり二連発。



 次に、左下のフリース二連発。緑のフリースは大学生の頃から着ている年代物。
 その上にそろそろくたびれかかってるけどまだ頑張ってもらうダウンを着込んで、ジャックウルフスキンのゴアッテックスパーカーを着た上に、寒いとモンベルのゴアテックスカッパを重ね着。2月は寒いので基本これだけ着ている。九枚も重ね着してて自分でも驚くが、おかげで指先とか除くとそれ程寒さを感じず釣りに集中している。


 下は、おパンツはご勘弁願って、ヒートテックの股引に、これまた年代物でバイクでこけたときの穴を繕って十数年履いているフリースの股引、普段から履いてる厚手のカーゴパンツ、モンベルのゴアテックスカッパの下。という感じ。
 靴下は化繊の厚手のを履いて、プロックスの膝下までの長靴履いている。



 帽子は、ラパラのフリース生地の耳当て付きのでとっても暖かい。耳ってウサギだと全力疾走時に体の熱を逃がすために長くなってるってぐらいで血流多くて冷えると辛いので耳当ては嬉しい。
 黒いウールのネックウォーマーを首に巻き、グレーの化繊のネックガードで帽子の耳当てからフリースの襟あたりまでを覆って首筋にすきま風が入ってこないようにしている。
 手袋は消耗品だと思っているので、釣り具量販店でネオプレン製の安いのを買ってきて使ってる。指先だけ出すことができるようになってるけど、ラインが引っかかったりして邪魔でしかない。いまのところ冬装備で唯一やや不満の残るところ。
 ホームセンターでもっと簡素で使い勝手の良いのがないか探してみたいところ。

 という感じで、マイナス何十度っていう極寒でも活動できる装備が開発されている輝かしい二十一世紀において、冬の寒さなど釣りを妨げる障害にはなりえんのである。と、寒い中わりと好釣が続いているので力強く宣言しておきたい。
 
 宣言しておきたいんだけど、マイナス5度とかの雪の中良い釣りした人あたりから、冬の北海道日本海側島牧海岸でアメマス釣ろうぜと誘われたら、アタイちょっと尻込みしちゃうワ。