2020年6月7日日曜日

箱の中の猫は野生動物と愛玩動物の重ね合わせた状態にある


 猫をどう扱うべきか、それは観測者たる個人や集団の立場や考え方、文化、慣習によって答えが異なり、また変化していくこともありうる問題で、明確な正解など存在し得ず、その時その時の飼い主始めとした当事者がより良いあるいはよりマシな扱い方を模索していくべき事項だと最初に結論づけておく。

 なぜ、ブログネタに猫を登場させるとして、ワシはお気楽に可愛い猫の写真とほのぼのとした日常の場面を紹介するようなユルい”猫ブログ”を書き連ねるのを良しとせず、やめときゃいいのに、またれいによってグチャグチャとややこしいことをネチネチと書こうとするのか?
 それはワシの敵である”社会正義の戦士”様が、さも当然のことのように猫について一見正しそうな極論を押しつけてきて、それ以外を”猫が可哀想”とかの感情論やら”命あるものに対する責任”とかご大層ないいぶりやらで、それ以外の意見を攻撃してくるので、いちいち勘にさわるのでしっかり噛みついとかねばなるまいと思うところだからである。
 もちろん、そういう輩が主張するような方法が間違っているわけでもないだろうし、状況によっては良策なのかもしれないけど、そうじゃない方法もとりうるし、それは許されるべきでアンタが許せないからといって他人にソレを押しつけるナって話である。
 曰く、「猫は本来肉食獣であり、かつぶしかけたご飯などで飼育するのは間違っているので、タンパク質を主体とした高品質なキャットフードを与えるべし」、
 曰く、「猫は室内飼いにするべきである。猫は外飼いでは事故や病気への感染のおそれがあり寿命を縮める、野良猫など生まれた子供のうち5匹に1匹しか成猫まで育たない。また、糞尿等で衛生的な迷惑を他者にかけることも望ましくない。」
 曰く、「野生化した猫が生態系に与える影響は大きく駆除が必要である。」

 状況によっては、そうした方がイイってのはあることは認める。室内飼いにしろっていうのは、都会じゃグジャッと居る人間の中には猫を虐めて喜ぶようなサディストもいて、そういう輩に遭遇する確率やら交通事故に会う確率も高いので室内飼いが妥当かなと思う。駆除については小さな島嶼の天敵がいない生態系に持ち込まれたとかの場合は必要な措置かもしれない、でもどこでもそんな極端な措置が必要か?って昔から猫とは仲良く暮らしてきただろう港町で都会とは段違いに警戒心のユルい猫たちと接して暮らしてるとおおいに疑問に感じるところである。


 まずは簡単なところから”猫はもともと肉食”云々から、その幻想をぶち殺しておこうか。
 犬にも共通する話だけど、イエネコには炭水化物を消化する能力が備わってます。”猫飯”でもちゃんと育つはず。それは人間との共存の歴史の中で人間が狩った獲物のおこぼれにあずかってたら、人間が農耕始めて人間自体の食べ物が炭水化物が”主食”になっていくにつれおこぼれも炭水化物が増えたのでそれに適応して進化してきてるんです。ずいぶん昔から犬猫は炭水化物をちゃんと栄養にできる能力を備えてるんです。
 ちょっと考えれば昔の残飯的猫飯で犬でも猫でもちゃんと育ってたのは何だったのか?ッテ話でわかるでしょって。
 どこの業界でもモノ売るために適当にホント臭い嘘をいけしゃしゃあとのたまうって話。この程度のことで騙されるなよと、騙される人間はどうなろうとしらんけど、飼われてる猫がアホな下僕のせいで酷い目に遭うのは可哀想というモノ。
 ちなみにワシが買ってきた安っすいカリカリタイプのキャットフードは原材料に鶏肉、魚肉が含まれてはいるモノの、多分多く使われている順番で原材料記載されているはずだから主原料はトウモロコシと大豆のようで基本牛飼うような飼料と原材料一緒でタンパク質も植物性タンパク質が主体っぽい。なんか健康的じゃん。
 猫が餌を選ぶ際には味やら臭いやらよりも、タンパク質と脂質の含量を重視するって報告を読んだけど、その研究報告読んで、猫様の下僕が知りたいのはそんなことじゃない、タンパク質と脂質が普通に含まれていることはあたりまえの前提として、にもかかわらず何故ネコ様はカリカリをあまりお食べになってくださらず、人間が食ってもいいようなお魚をお好みあそばれるのか、そのへんをちゃんと研究してくれよと思ったモノである。
 その研究報告のまとめ的には猫は餌を味や臭いより栄養価で選んでいるということになっていたけど、そのまとめはネコ様の下僕一同全員一致で「そんなわきゃネェだろ!」と突っ込みを入れるところだと思う。 

 まああれだ、人間も健康に良い食べ物と食べたい食べ物が必ずしも一致しないぐらいで、猫の健康だけを考えたら、栄養バランスが適切に考えられた高級キャットフードでも与えるのが良いのかもだけど、じゃあアンタ健康的な粗食ばっかりで脂ぎったご馳走やらジャンクなオヤツやら食わずに幸せな食生活と言えるかね?ッテ話で、健康には気をつけつつ猫が食いたがるものも食べさせてやれば良いジャン、猫もその方が幸せだよきっと、と思うのでセッセとアジだのアユだの釣ってくるのである。
 写真はマアジ刺身にしたあとの頭と骨と皮をネコ様用に焼き上げている調理の場面でございます。マアジはまだ人様のおこぼれって感じが出てるけど、アユとか普通に塩味薄めに焼いておいてネコ様用と一緒のを下僕も食べさせていただいております。

 次に「猫は室内飼いにしろ」だけど、最初に書いたように都会では室内飼いにせざるを得ない状況もあるんだろうなと、そこは異議を申し立てするつもりもないんだけど、猫って古今東西そうだと思うけど鎖に繋いだり檻に閉じ込めたりはせず、人間の住居と外を自由に出入りする愛玩動物(元はネズミ取り)として愛でられてきた歴史的文化的な背景があるハズで、例えばワシんちのご近所で「お宅の猫が我がウチの干物を狙って困ります」とワシが文句言ったりしたら「何言ってんだこの都会モンは、猫の方が昔っから住んでるんだ文句があるならオメエが出てけ」ってご近所トラブルになりかねん話だと思う。
 中には猫の糞害とかに憤慨しているであろうびっしりペットボトル並べたお宅とかも見受けるけど、基本世界中田舎じゃ猫は放し飼いで自由に生きてて、もっというと人間と生きてるのに半分ぐらい野生動物で、そのあたりが特殊で野良犬というのがほぼいなくなった日本ではかなり特殊な性格を持った愛玩動物であり、そのことが前提条件として考慮されていないと、猫は全て室内飼いにすべきなんていうアホな話がでてくるんである。
 犬もそうだけど猫は人間との生活に利点なり魅力を感じて、人間と生きることを選んで進化してきたような生き物で、犬が犬種によっては大型であり人間に危害を加えかねないから鎖に繋がれてしまうのは今の日本じゃもうしょうがないと思うけど、猫については何というか鎖で繋がなくても柵に押し込めなくても一緒にいてくれるというある種の信頼関係に近い関係性が魅力の一つだと思うので、猫を外敵から守るために囲う必要がある場合は仕方ないとして、そうでなければ外に出る自由を楽しませてやりたいと思うのが私の意見である。半分野生のしなやかに美しく魅力的な生き物が自分に懐いて一緒に生きていける。なんて素晴らしいことなんだろうと実感している。
 でもって、室内飼い派の言うことにゃ、外に出すと早死にするってことと、外に出すと人様に迷惑掛けるって2点が良く出てくる論点で、外に出すと早死に云々はいつもワシ書いてるけど安全健康に管理されて楽しいことも知らずに長生きしたってしょうがないだろって話で、そりゃ外に出れば交通事故やらケンカで怪我やらもあるだろう、でも外の世界には危険があってもソレを補って余りある魅力もあるハズで、そうじゃなきゃ猫も外に出ていかないって話。このへんは健康に長生きすることを至上の命題にしているような家畜的人間の意見とは相容れないだろうから議論はするだけ無駄かもしれん。
 野良猫の生存率が低いとか、野生動物だとすりゃ当たり前な話で産まれた仔猫が全部育ってたら猫だらけになって、それをやっちゃったのが”多頭飼育崩壊”ってヤツなんだろう。そういう意味で避妊とか可哀想には思うけど、責任持って生まれた仔猫の面倒なり里親捜しなりをやり切れるのでなければ必要なことかなと思う。現実的な落としどころってあるよねって話。

 で、最近は野良猫を保健所連れてって殺処分っていうのは可哀想なので、避妊手術を受けさせて一代だけその地域にいて良いよっていう扱いにする”地域猫”っていう取り組みが増えてきているようだ。川崎でも見かけたけど、近所の漁港の人なつっこい猫も避妊手術済みを示す耳の先端の切り込みが入っていて、ワシも含め釣り人や近所の人が勝手に餌をやって勝手に可愛がっている。現実的な落としどころとして、殺処分よりは受け入れやすいし猫捨てたりする不心得者がいなくなるとも思えないので、実質なし崩し的に地域にみんなで可愛がってる猫がいるっていう、猫好きには悪くない状況になるのかなと期待している。
 外に出すと人様に迷惑掛けるってのは、干物やら狙われるのやゴミを荒らされるのは干す場所や網を掛ける工夫とかでなんとかなりそうに思うけど、糞尿の問題が確かにやっかいで、昨今田舎町でも道路は舗装されているし猫が用足して砂掛けるのに適した場所って少ないようで、昔なら庭で糞するような猫がいたら一回ドヤシつけたりすれば他の場所で用を足すようになったんだろうけど、最近じゃ良い砂場は限られていて、公園の砂場とか猫にとってはちょうど良い便所にしか見えないはずである。
 臭いとかもあれだけど、猫糞に汚染された砂場からは人畜共通の寄生虫症であるトキソプラズマ感染症っていう妊婦さんがかかるとヤバいやつに罹る危険性もあって、これは昔っから許されてきたから我慢しろって話では当然ない。だからといって今現時点で外にいる猫を一掃しろとかできもしないし、して欲しくもない。
 じゃあどうするか?いろんな人がいろんなところで知恵を出しているので私が知り得た事例を二つ紹介しておきたい。
 一つは、猫の島として有名な某島で猫が糞するのに適した場所がないから人の家の庭とかでしちゃうんだから、だったら猫が糞するのに適した場所を作ってしまおう、ってなって屋根付きで海砂を敷いた猫トイレを設置、近所の有志で気がついた人が掃除ということで対処しているそうな。まあこの島はネコ様が大事な観光資源でもあることから住民が積極的に対策に参加して一つの解決策を得たというところだろう。
 もういっちょは、以前住んでいた川崎のご近所の公園の砂場。さすが川崎市、人も多いんで税収はありまっせナ感じで、砂場に使わないときに掛けるカバーを設置。子供達が遊ぶ時に何故カバーがあるのか、理由を説明すれば公衆衛生の教育的にもよろしいんじゃなかろうかと。
 猫との共存に価値を見いだせない猫嫌いの人間からすれば、なぜ畜生のために人間様がこんなに手間やら税金をかけなきゃならんのか?って思うところだろうけど、”共存”ってほとんどこういうことですよと言っておきたい。
 猫を外から完全に排除するなんてことは、猫は外に出してあげたいと思う人間もいて、むしろ猫はそういうモノだと長く認識されてきていて、サザエさんちのタマも外猫だっていう文化的背景の中、そもそもそうしようという話がまとまるわけはないし、実際にヤるのも技術的にも難しく、嫌な人もそれでも”共存”せねばならない状況に追い込まれるし、そのために税金やらの負担がかかってくる。お互いに利益がありそうな美しい言葉である”共存”の実態は双方がなんとか我慢できる落としどころを探るってのが多くの場合の現実だと思う。
 猫なんて日本じゃ仏教伝来と共に糊だの膠だの使われてる経典がネズミに囓られるのを防ぐために船に乗ってやってきたってぐらいに昔からの付き合いなのに、それでも共存していくには難しい問題を含んでたりするんである。
 でも、ワシはネコ様と共存していきたいと思っているので、みんなでいい手を考えて楽しく下僕になりましょう。

 3つめ、「野生化した猫が生態系に与える影響は大きく駆除が必要である。」って話は、まあ有名な灯台守の飼ってた猫が絶滅させたスティーブンイワサザイの事例をみても、天敵が少なくて逃げる能力を退化させたような生き物が多い島嶼の生態系等であれば、猫の影響って、飛べない鳥ぐらいは絶滅させかねないから、まあ猫可哀想だけど仕方ないかもとは思う。猫の半分野生である部分が固有の生態系からすれば外来種が侵入したときと同じような影響をおよぼす可能性があるってことで、野生化した猫に限らず外飼いの猫にも多かれ少かれそういう要素はあるはずである。最近そういう研究報告が出てナニを今更って感じたところ。
 日本だといま”野猫”を駆除しようって話が出ているのが奄美大島と沖縄本島で、確かに沖縄本島には必要がないから能力省略して飛べなくなったヤンバルクイナとかいるので、在来種への悪影響はあるっちゃあるんだろうけど、でも正直いまさら猫についていうかね?っていう気がする。仏教伝来以来の付き合いだし猫が原因で絶滅するような固有種ならもう既に絶滅してるんじゃないのか?って正直思うけどどうなんだろう。ちょっと微妙な線上のような気がしている。
 あからさまにおかしいだろってのか、でました野生生物の保護のためならなんでもする国豪州、野生化した猫が鳥とか食ってるから猫を外に出すのは禁止して、毒餌とかバラ撒いて野猫を駆除しようっていうのがすでに始まってるような報道を目にして、キチガイだなコイツら?とあきれ果てた。
 たしかにオーストラリアの固有種って変わってるし、大型の哺乳類の捕食者って少ない印象だけど、それでもタスマニアタイガーとかタスマニアデビルとかがいたし、それらが大陸本土からいなくなったのはより強力な哺乳類の捕食者である人間とそのお供の犬だったディンゴがやってきたからであり、そもそも哺乳類の捕食者が種類少ないってだけで毒蛇、ワニ、オオトカゲ、猛禽と捕食者自体にはことかかず、今更猫ごときが多少食ったところでどうにかなるかよっていうか、オーストラリアにも猫が入ってからさんざん年月経ってるだろって話であからさまに間違ってるとしか思えない。
 なんというか生物多様性至上主義っていう宗教の信者って感じで、教義のためには人間の古くからの友人であるはずの猫さえ殺すっていう狂信ッぷりがなんともおっかねェ。
 外来種の駆除とか報道で目にする度に、そんなに生物多様性って大事かねって思う(大事だけどネ)、今さら一種二種追加で滅ぼしたところでどうってことねえんじゃないの?それより命を奪うことに何か正当性のあるような理屈つけてごまかして罪の意識もなくやってしまうような行為の方が恐ろしい過ちなんじゃないかという気がしてならない。
 生物の多様性の重要さとか無視して突っ走ってきた反動なのかもしれないけど、いきすぎた純血主義的な気色の悪い潔癖さが鼻につく昨今である。もう少し生物のあるいは生態系の柔軟性を受け入れて、良い塩梅の程度の見極めっていうのが必要なんじゃなかろうか。

 生物多様性が大事、固有種守りましょうっていうのも分かる。分かるんだけど、じゃあそのために人間やその古くからの友である猫を殺しましょうなんていうのはどう考えてもおかしいと思うヨ。
 まあワシャ人間なんて多少死んでも良いぐらいに思ったりもするけど、猫様を殺すなんて恐ろしいことはやってはならねえと思うだ。猫様を殺すと七代たたるだ。

 などとここ数年、川崎にいた頃から書こうと思っていた猫についてのよしなしことを、現時点で私はこう考えますっていう内容で、今後「やっぱワシがまちごうてたゴメン」と前言撤回するかもしれないし、異論も反論もあるかと思うし、実際にはその地域毎に異なる状況があって一律には考えられなくてその都度関係各位猫様も含めてどうしていくか落としどころを考えて、状況変わればまた考える性格の問題だと思うけど、なんか驚くような変な方向に世間が進んでいる気もするので、天邪鬼の務めとして、また猫の下僕の務めとして書いてみたところでございます。



 読んでいただいた皆様には最後に秘蔵の”猫の鈴カステラ”画像をサービスしちゃいます。

 いやン恥ずかしいッ!(byコバン)

0 件のコメント:

コメントを投稿