2021年3月28日日曜日

貧乏人は米を食え!-ナマジのビンボ飯-開幕


 インスタントラーメンは贅沢品である。

 貧乏人の主食として、インスタントラーメンは定番のように描かれていることが多いが、元貧乏学生の経験からいって、インスタントラーメンは貧乏人にとっては贅沢であり、貧乏人の主食たり得ない。

 貧乏人は米を食え。

 米は安い。なにしろ日本じゃ主食というぐらいで、これをベースに組み立てるのが王道というもの。米1合は約150グラム、1日2合(学生時代は朝晩だけで3合食ってた)食べる私のような比較的大飯喰らいを想定しても1月は30日で60合は9000グラム、10キロ弱である。今10キロの米は底値だと2000円くらいか。ちょっと贅沢して銘柄米食べても米代なんて5000円あれば一月足りる。


 インスタントラーメンだと一袋50円から100円、ワシ1食に1袋では足りんので2袋食べたいところを我慢して1食一袋にしたところで、月あたり4500円から9000円かかる。

 インスタントラーメンの場合、白飯と違っておかず無しという選択肢もあり得るのでそう考えると安い気がするが、毎日毎食インスタントラーメンでおかずも無しは、炭水化物しかとれないとか塩分過多とかの以前にうんざりするはずである。ワシの場合は1袋では我慢できないので実際には倍額掛かるはず。

 インスタントラーメンと同様の費用で米飯のおかずをと考えると、インスタントラーメン底値4500円とちょっと贅沢9000円から米10キロの底値2000円を引くと2500円から7000円ぐらい使える。

 おかずに使える金額が月2500円となると、1日あたりの使える金額は80円そこらになる。この場合おかずはほぼ自動的に価格の優等生「卵」をベースに考えざるを得ない。

 底値で10個100円、完全栄養食と呼ばれる卵を毎食1個づつ食って1日3個でも30円しか使わない。ご飯に生卵かけて醤油かけた卵かけご飯って簡単だけど、実は食べ続けてもあまり飽きない(当社比)。完全栄養食だから体も受け入れてくれるのかもしれない。まあ、卵は卵料理ばかりを紹介した「卵百珍」という料理本の古典があるぐらいで、いろんな料理ができるので飽きにくい食材である。卵と醤油だけでも卵かけご飯、目玉焼き、ゆで卵、スクランブルドエッグ、卵焼きなどが楽しめる。

 月に卵90個900円しかかからん。となると残る月1600円で醤油買ったり、たまには納豆食ったり豆腐食ったりはできる。醤油に月500円使っても、1100円残る。ワンパック3個100円くらいの納豆だけに絞ったら11日卵に追加できる。麻婆豆腐が豆腐1丁百円と「麻婆の素」2食入り2百円ぐらいなので奮発して200円突っ込めば1食麻婆豆腐が食える。野菜が食いたければ、半玉100円くらいのキャベツか一パック50円前後のもやしを買って、調味料として塩とかマヨネーズも追加して、卵で浮かせた1600円の中から拠出すれば、卵料理の幅も広がるし、毎日インスタントラーメンよりはバラエティー豊かに栄養的にもましな食事がとれる。

 50円のインスタントラーメンと比較しても、少なくとも健康的でまともな食事にはなるが、100円の高級インスタントラーメンとの比較だと月9000円がベースとなり、月額1万円ラインを想定した食事となる。米2000円を引いて7千円なり8千円なりが「おかず」に使えるとなると、1日あたり230~270円程度使える。朝昼は卵か納豆ぐらいの倹約おかずで行けば、200円くらいは夕食にぶち込める。200円あれば肉が食える。

 ここで肉といえば貧乏人なら迷わず鶏肉である。値段は牛、豚、鳥の順だが、これは単にデカい家畜ほど生産コストがかかるというだけで味が値段どおりの順番というわけではない。貧乏人は安くてうまい鶏を食え。外食で牛丼なんて贅沢してもたいして旨くないうえに金がかかる。牛丼は金持ちで時間が無いサラリーマンなら割とお世話になるが費用対効果は自炊と比較してしまえばそれほど良くない。

 鶏肉100グラムは、たぶんブラジル産の胸肉底値だと50円前後。胸肉ぱさついて嫌いな私のようなもも肉好きでも100g100円前後で入手可能。鶏肉だけ焼いて食うとか肉だけ食ってても良いが、鶏肉100グラム、野菜200グラムぐらいは200円で何とか買える。実際にはキャベツ1玉とか大根1本とか100円ぐらいのときもあるのでお買い得品を狙えばそれ以上に買える。タマネギあたりの日持ちのする野菜を安いときに買って回し始めると、1日200円ぐらいあれば、鶏肉ベースで「鶏肉と大根の煮物」「鶏肉じゃが」「鶏肉とキャベツ炒め」とか、いかようにも発展可能。このあたりになれば、調味料にみりんと砂糖、味噌を買って足せば、普通に貧乏くさくない健康的で文化的なおいしい食事がおなかいっぱい食える。まとめて買い始めると夕飯の残りとかを朝昼にも回せる余裕も出てくるはず。ちょっとやりくりして贅沢してルーを買ってくればカレーやシチューもできる。

 ついでに安いときの魚にも手が出せる。イワシとか安いと1匹100円ぐらいには値段が落ちる。大羽イワシ1匹+野菜メニューとか普通に充実の夕食である。釣ってくると短期的には餌代ぐらいしかかからないので安上がりに持って行ける場合もあるけど、長期的には竿買ったりするのでよっぽどの量を水揚げして竿なりリールなりに仕事をさせないと元が取れないのが実際である。ワシぐらい恒常的に釣ってるとさすがに”使う道具”は元が取れるぐらいには水揚げがあるけどね。

 さらに言うなら大豆製品が神がかっている。豆腐も安いし納豆も安いが、”油揚げ”にいたっては以前に”貧乏人の肉”と表現したように、安くて旨くて食いでがあって肉の代わりに料理にぶち込めば大体どうにかなる超便利素材。

 このあたりが、実際に貧乏学生だった頃から私が実践してきた、食費を節約してもひもじい貧しい思いをしない食生活である。

 恐ろしいことに、米、卵、鶏肉あたりは30年近い昔の私の学生時代と今現在とで底値がそれほど変わっていない。鶏肉はブラジル産とかになったので安い理由は分かるが、卵とか米とか国内農家の企業努力には頭が下がる思いである。お百姓さんありがとう。

 料理研究家の魚柄陣之助さんが著書で、一月1万円の食生活について書いておられるが、私が学生時代に実践していた上記の内容と共通するところも多く、実際に食費削ってかつひもじかったり不健康じゃないようにするとそうなるよね、という感じである。

 魚柄先生は「小麦粉がめちゃくちゃ単価安いので、小麦粉主食ならもっと安上がり」と書いているが、さすがに毎食メリケン粉練ってうどんとか作るのは面倒くさくてやってられない。お好み焼きとかならそれほど面倒でないし、キャベツと粉だけのチープなお好み焼きとか激安な割に美味しくて、たまに作る分には安くて良いが毎日食うものではないように思う。

 小麦粉が安い事実にたどり着く前に、「乾麺が安い」というのにも魚柄先生着目していて、乾麺はゆでるだけなので確かに安いし簡単で、ローテーションに入れれば食生活が潤うんじゃないかと思う。スパゲッティー、うどん、そうめん、そば、安売り時にまとめて買っておけば日持ちもするし良い案配。

 小麦に比べて米が優秀なのは、製粉してこねて発酵させて焼いて食うパンに比べて、脱穀精米して炊くだけで食える米飯としての調理の簡単さがあると思う。

 米は精米しない玄米の状態なら数年は保存可能で、脱穀精米した白米の状態でも数ヶ月は余裕で常温保存可能である。その上に水を加えて炊くだけで主食になるという簡単さ。日本では香川県をのぞくと小麦ではなく米が主食となっているのも当然なことだなと思う(実際には香川でも主食は米のはずだと信じたい)。

 米を炊いたことがない人は、なんかめんどくさい作業のように思っているかもしれないが、実は簡単である。炊飯器が無いと炊けないと思っている人もいるかもしれないが、鍋があれば炊ける。実際に私はアウトドア用のアルミの鍋が2合ちょうど炊けるサイズなのでそれで炊いている。

 作業としては、たとえば昼飯に間に合うようにご飯を炊こうとなったら、朝、米2合をカップで量って鍋に入れて水を入れる。米は研がない。「無洗米」でなくても最近の白米はあまり糠成分を残さず精米しているので研がなくても何ら問題が無いことが多い(たまに糠臭いのもあるので自己責任でおねしゃす)。炊く前に吸水させるために水につける作業は「うるかす」という言葉があるぐらいで、芯を残さず炊くには必須の作業と思われているが、今時の白米に必要なのかは若干疑問も残るが習い性でうるかしている。まあ、水入れて放置しておくだけで手間では無い。

 うるかした後、ワシャ麦シャリが好きなので押し麦を適宜追加して、米の1.2倍ぐらい水が入ってるなという感じに注水。この辺の感覚は長年飯盒炊爨(はんごうすいさんと読みます)で鍛えた感覚なので、自信が無い人は最初はざるに空けて水の量も計って、というのを読むとめんどくさいと思うが、慣れれば目分量でいけるし多少違っていても食える程度に炊けるということも学ぶ。

 強めの中火で最初は炊くと、5分ぐらいでシューシューと吹きこぼれてくるので、吹きこぼれないように弱火にしてさらに5分。ガスを切って5分蒸らして完成。5分タイマー3回の片手間作業で時間も手間もさしてかからない。炊飯器はあればあったで便利で水と米をぶち込んでタイマー設定してポチッとなでOKでさらに簡単。


 貧乏人は米を食えというのをここに書いたのは、ネットとかで月の食費が1万円以下だとか食費が少ないと、なぜかインスタントラーメンやコンビニ飯、マクドなんかの金額が出てきていつもアホかと思うからである。インスタントラーメンもましてやコンビニ飯やマクドのメニューが費用対効果に優れているわけが無い。加工するのに手間賃かかるというのを考えればインスタントラーメンでも白米にはなかなか勝てないだろうし、ましてやなんぼ安っすいバイト君の給料とはいえ人件費かかってくるコンビニ飯やらファーストフードが安上がりになるわけが無い。なったらバイト君なりが搾取されてるとか廃棄品横流しとかのいやな話が出てくるはずである。

 「1日千円使うと、それだけで一月で3万円かかってしまう。その1日千円ですら1食3百円程度しか使えなくなり月1万円は現実的では無い。」という主張さえ目にする。だーかーらー人件費かかってる外食や加工食品をベースに考えるからおかしいんだって、と貧乏学生やってたけど飢えた記憶も食費に困った経験も無い人間としては、前提条件変えて外食やら加工食品をあまり利用しない白飯中心の自炊なら結構食費月1万円ペースで飯食える。健康的でまともな食事ができる。というか白飯旨くて仕方なかった。というのをお金が無いことを理由に旨い飯が食えていないとお嘆きのむきにはお伝えしたいのである。

 別に貧乏人を馬鹿にしているわけでは無い。ワシも今現在無職無収入で老後のことも考えて貧乏生活を楽しんでいるけど、金なんて天下の回りものっていうぐらいであるときはあるし無いときは無いものだと思う。金が無いぐらいで人を馬鹿にすべきでは無いと思うが、「金が無い」と嘆くばかりで無い物ねだりをしている人間は正直馬鹿にしている。金が無ければ無いなりに面白おかしく生きていく方法を考えろよと思うのである。

 私が「お金」を世間様がいうほどありがたく感じていないし、たいして頼りにもしていないのは、最低限の仕送りでバイトしながら部活とかもしていた貧乏学生時代に、あんまりお金に困らなかったのも影響していると思う。

 貧乏学生だったけど、部活をやめるとか、もっと節約するならお金を切るべき余裕がある中でそこそこ面白おかしく生きていたし、貧乏生活しながらも捻出したお金で中古の軽自動車にも乗っていた。仕送りとバイト代の範囲内で買えるものを買って食える飯を食っていれば金が足りなくなることは無かった。

 裏技的に学食の前日の残り物を煮て卵とじにした「ミックスフライ卵とじ」という今考えると廃棄食品再利用の色々ギリギリな爆安メニューを利用していたり、釣ってきた魚をおかずの足しにしていたりもしたが、牛肉、豚肉なんて先輩におごってもらうような時をのぞくと口にしてなかったけど、毎食美味しく腹一杯食って満足していた。

 単に「金が無い」で済まされない、飯が食えなくなるぐらいの貧困というのは、働けなくなるような病気を抱えているとあり得るのかもしれないけど、それでも生活保護はじめセーフティーネットはあるはずで、この日本で餓死するとかおかしいと思うし、あってほしくない。でも餓死のニュースは実際に目にする。

 電気、ガス止められると自炊できないので白飯作戦がとれないので、そこに至る前にであるが、自炊して白飯確保していれば、結構米ってタンパク質とかも含んでるので、インスタントラーメン単食よりは白飯塩握りのほうが頼りになると思うのだが、何となくコンビニ飯で食費ショートさせて飢餓におちいっている気配がするんだけど実際どうなんだろう。

 ネットでの議論でも食費を削るというときに、まず自炊ありきじゃなくて、コンビニ飯でもファストフードでも「買ってくる」というのが自然だと考えているように見受けられる。

 たぶんそれは親が共働きとかで食事は作るより「買ってくる」ものだという家庭で育っていればそうだろうと想像できる。それが都会ではむしろ当たり前の感覚なんだろうと思う。そのことの是非はここで問うつもりは無いが現実としてそうなっている。

 そうであれば月1万円の食費ではうんざりするような貧相な食事しか得られないと想像するだろうけど、自炊するのが当たり前の人間からすれば、月1万円はちょっとがんばってやりくりすればできそうな節約だし、その時に食べる食事がそれほど貧相ではなくてまあ美味しく食事を楽しめる程度にはなりますよ、というのを実際に食費を削らなければならない貧困におちいっている人には誰かが教えてやらないといけないのではないかと思い、書いてみたところである。

 ワシの食費はだいたいいま月1万円代前半である。酒もちょっと飲むし、ジャンクな袋菓子やらせんべいやらもたまに食べたりして、結構贅沢してこの金額である。右上の方の写真見りゃおわかりいただけるように、魚を釣ってるっていうのもあるけど、食生活には何の文句もない。肉なんてたまに他人様にご馳走になるぐらいで食わなきゃ食わないで、美味い魚食ってれば何とかなる。

 ネットに接続できるぐらいの経済状態なら白飯作戦で節約すれば十分生き残れるはずである。ワーキングプアで自炊する暇も無いのに金も無いというダブルパンチはまた別の問題としてありえるというのは悲しい現実だが。

 100円と聞いて、コンビニのおにぎり1個も買えないと想像する人なら毎食100円の食事なんて死んでしまいそうと思うかもしれないけれど、100円で特売のキャベツ1玉、大根1本、もやし3袋ぐらいを想像する人なら、数食分のおかずぐらいには使える結構な量の食品が買える額だと思うはずである。なので白飯がベースにあれば毎食300円ぐらいでも結構いけるかなと思うでしょ?キャベツ1玉とか大根1本って現実には2日では食い切れないぐらいあります。別に安いからって不味いわけでもない。

 自炊するにはそのへんの残った材料を次の料理にうまく回して無駄なく、1回の食事だけで完結せず調味料も含めて長期的に切り盛りしていく、という時間軸も加えた4次元的手腕が求められるのだけど、だんだん上手になってくるとそのへんが面白くなってくるものである。

 仕事忙しいと金で人の時間を買うようにして出来合の食い物を買って食ってるけど、暇だと自炊した方が自分好みの美味しいものが食べられるので、無職だと自動的に当たり前にほぼ自炊。冬は鍋で濃い味に煮た料理とかだと作って室温で放置しておいても悪くなりにくいので、ドカっとまとめて作って白飯だけ炊いて、数日にわたって味が染みていき徐々に崩れていく大根とか、味の変化を追いながら食ったりもしてます。

 インスタントラーメン?そんな贅沢品は九州ラーメンがどうしても食べたくなったときにマルタイ棒ラーメン博多味を食べることがあるぐらいでほぼ食べない。たまに食うインスタントラーメンは美味いけどな。

 ということで、ワシと同じように貧乏を楽しむ人のための料理の実際を紹介する”ナマジのビンボ飯”というシリーズを立ち上げて、貧困に苦しむ食卓に美味しい料理をお届けして幸せになってもらおうかなと思うンだけど、なかなかこれが、この地で暮らしていると魚が釣れるし、釣れなくてもスーパーでも旨い魚が格安なので、これぞ”ビンボ飯”ってメニューを作る機会が少ないので、ずいぶん前から書きたいとは思ってたんだけど書くネタがあんまりなかったんだけど、コロナ禍のおり、仕事はなくて金も無いけど暇があるというビンボ飯の実践にはもってこいの状況ではあるので、いっちょ基本のところから始めてみるかなと書いている。


 基本とは、貧乏人は米をまず炊けということで、炊飯の方法は既に書いた。飯だけでは寂しいので、基本のオカズということで栄えある第1回に紹介するのは、貧乏人の味噌汁である。ジャン。

 材料は、水、出汁になる魚のアラ、大根、キャベツ、揚げ、味噌に加えて”食塩”が貧乏人の味噌汁における肝となる。

 作り方は、出汁となる魚のアラ(今回は愛猫のおやつに焼き干し保存していたアジの骨)を適宜切ってお茶パック入れたモノに塩適量(小さじ1くらい)を鍋に入れ水にぶち込んで、今回大根とキャベツだったけど適当な野菜を切ってぶち込む。そして貧乏人の肉である揚げもぶち込んで火にくべて味噌をぶち込んで溶かして、グツグツいったらできあがり。味噌の香り高いできたても旨いけど、煮返していって野菜がグダグダになってるのも旨いし、冷めたのを飯にかけてクールに”猫飯”を決めるのも悪くない。何が貧乏人風なのかというと高級調味料である味噌を節約して、塩ぶち込んで味が薄くないようにごまかしているところが、貧乏人の知恵である。こういうコツコツとした積み重ねが節約というものの本質だと思ったり思わなかったり。ぶっちゃけ味噌って割と少量でも風味やら味やらはつくもので、味噌だけで味の濃さまで調整しようとすると味噌の減りが早いけど、塩でしょっぱさ足してやると、味噌なんてなんかそれっぽい風味が付く量入ってれば、それで味噌汁として成立するんである。

 同じ方法は、醤油、めんつゆなの場合にも同じように使える。応用編としてはイワシの梅煮に汁が酸っぱくなるまで梅干し入れようとすると梅干し大量に使ってしまうけど、煮汁に酢をぶち込んでしまうと梅干しは風味が出る程度に入っていれば、ちゃんと(してるかどうかワシなんでも美味いバカ舌だから自信ないけど)イワシの梅煮になるんである。是非お試しあれ。

 

 今後も、ネタ料理は色々あるので、書くことも特にないような週末に、皆様の貧乏飯生活が満ち足りたモノとなる一助となれるよう、しょうもない、料理とも言えないような料理を紹介していけたらな、とおもっちょりますのでご期待あれ。

2021年3月20日土曜日

君の名は?ムロアジ属編ー色気に騙されるべからずー

 先日アジ釣ってて、サバっぽい走り方して上がってきたアジがちょっと細長い感じがして、最初は痩せたマアジかなと思ったけど、違和感感じてムロアジ系かもと背ビレ尻ビレの後ろを確認したら、やっぱり小さな鰭が確認できてこりゃムロアジかクサヤモロあたりだなと、見当を付けて翌日現物を見ながら種同定を試みた。


 とりあえずインターネットの「WEB魚図鑑」で片が付けば楽で良いなと、ムロアジ属を見てみるとムロアジとクサヤモロがやっぱり近いといえば近いんだけど、釣った個体が小さいこともあって特徴が見にくく、かつ小さいと”体色”が成魚とは違うことが多くてあてにならないのもあって、これっていう決め手に欠ける。ムロアジとクサヤムロは”稜鱗(いわゆるゼイゴ)”は測線後方直線部分の全体を覆わないとなってるところが今回釣った魚と合致しないようにも思う。
 WEB魚図鑑は手軽だし、写真が多く紹介されていて目を養うにもとても良いんだけど、同定作業においては、条件を絞っていって種を確定していく使い方ができないのに加え、ウィキペディア同様素人も参加してみんなで作ってるという性質から結構間違ってたりというのもあって、結局は以前にも紹介しているけど中坊徹次教授編著「日本産魚類検索 全種の同定」東海大学出版会のような検索図鑑が同定作業には使いやすいと思っている。ちなみにワシが愛用してるのは第1版で、新しい知見とかに基づいて改訂版が出されて、いま第3版まで出ているけど、ウミタナゴとかカマツカとか新しく種が分けられたところがどこかを把握していれば基本今でも現役で使用可能だと思ってる。っていうか第3版に反映された分類は一部になんか異論もあるようで、分類って最終確定し得ないって、生物が進化して変わり続けることからワシ思ってるのであんまり最新の知見に安易に飛びつくのもどうかとは思ってる。論文でたからって絶対じゃないよ。科学ってそういうもんだよね。

 今回、せっかくなので検索図鑑を使った同定作業がどういうものなのか、ワシのやり方だけど紹介してみたいと思う。
 小離鰭が確認できているのでムロアジ属の仲間だろうなとは思ったけど、小離鰭があってムロアジ属じゃないのもひょっとしているのかも?と自分が知らないということを知るのも大事なので、さすがにアジ科じゃないってことはないだろうから、アジ科から始めてみる。さすがに見た目もろに”アジ”でアジ科以外はないとは思いたい。
 右に一部抜粋引用させてもらったけど、検索図鑑では条件で右左の枝に分岐していって、分岐を繰り返していくと最終的にどの種(亜種)かが特定できるという仕組みになっている。アジ科最初の分岐はなんと胸ビレがないという項目でクロアジモドキという変な魚が弾かれて、次に測線に稜鱗(ゼイゴ)が無いか有るかに分かれる。無いのはブリやらカンパチやらのブリ属が代表で、有るのはマアジ始めロウニンアジまでだいたいのアジ科魚はゼイゴがあって、むしろゼイゴがあるなら”アジの仲間”と分かりやすい。魚にそれ程詳しくない人にロウニンアジの写真を見せても「でっかいアジの仲間なんですよゼイゴあるでしょ」っていうと「ほんとだアジだ!」って納得してくれるけど、ブリやらヒラマサがアジの仲間って言ってもピンとはきてくれないと思う。
 でもって、分岐して稜鱗のある方は「4Bへ」進むとなっていて、検索図鑑には全体通してのページ数の他に、「4 ズズキ目アジ科」とか科内の通し番号も振られていて、その通し番号の振られたページに進むと写真下のように「B→(Aより)」っていうぐあいに続きが始まる。
 すると、こんどの分岐は稜鱗が測線全体にあるか、測線が上にカーブする手前の後半直線部より後ろだけかで分岐する。前者はマアジが代表で、今回釣ったのは前方にはゼイゴは認められないので通し番号の「5」のページの「A」に飛ぶ。
 すると次の分岐は「脂瞼がよく発達する」か否かとなっていて、脂瞼はボラに特徴的だけど目の周りの半透明な部分で今回釣った魚にもあるので、次に進むと今度は「小離鰭」の有無という分岐にさしかかる。釣った時に”ムロアジ系だな”と判断した分かりやすい分類上”使える”特徴である。
 写真の矢印のところにチョリッとした可愛い鰭があるのが分かるだろうか?上は背景と馴染んでしまって分かりにくいかもだけど下はハッキリ写ってると思う。サケマスやエソ類の脂ビレとはちがって軟条が入ってる。
 次の分岐がやや見極め難しくて、「背鰭前方鱗域は目の中央に達しない」か「達するか越える」となっていて、要するに頭に鱗がどこまであるかなんだけど、小さい魚では鱗自体が小さくて分かりにくい。
 こういうときデジカメのマクロ接写機能はありがたい。写真判定で色が違って見える領域が目の中央までは少なくともありりそうなので「達するか越えている」の方へ進む。
 ちなみに写真で右目の先の方が凹んでるけどこのあたりがちょうど半透明になっててさっき出てきた”脂瞼”に該当すると思う。

 でもって次が今回の同定の鍵になったんだけど、「稜鱗(ゼイゴ)は測線直走部の3/4以上を覆う」か否かで、どう見ても3/4以上を覆ってて、それ以下であるムロアジ、クサヤモロはここで弾かれるのである。
 でもって、次の分岐が最後で、判定基準としては①生鮮時尾鰭が黄色みを帯びるか赤みを帯びるか、②臀鰭軟条数が25~30+1か20~24+1か、③頭頂鱗は瞳孔の前縁付近に達するか、目の前縁を越えるか。となっている。どの条件も前者ならマルアジ、後者ならアカアジとなる。①の尾鰭の色はやや黄色っぽいかなとは思うけど、こんなもんアテになるほど色付いてないってのが正直なところ。色って婚姻色とかの特徴的な色だと、まさに魚同士が自分と同種かどうか判断して”生殖”を行うかどうかを決めることもあり得るので”生殖隔離”をもって”種”とみなすという生物の分類の大原則から考えても”使える”特徴ではあるんだけど、そうじゃない色目程度だと個体差の方が大きくてあんまり役に立たんと感じている。
 となると、②か③かだけど②は数えるの面倒なのでやだなと思うけど、③の鱗が頭のどこまであるかが、さっきも書いたけどマクロ接写でなんとなく色が違って見える程度で拡大していっても「瞳孔の前縁か目の前縁超えか」っていう微妙なところは自信がない。
 仕方ない数えるか。破れ傘みたいになってて上手く広げられないので写真判定使えず、根性で老眼シバシバさせながら数えた。
 数えたら28。多少数え間違えても25以下ってことはねぇだろの良い数字。

 ということでマルアジと同定。

 同定してから、WEB魚図鑑のマルアジを改めて見てみたら、例示されている個体がイマイチ例としては適切ではなく、和名が示すとおり体高低めで体幅があるので断面図的に”丸い”からマルアジのはずなのに、写真の個体は体高が高くて丸くない。検索図鑑は今回使ったのも、昔懐かしくかつ絵的に素晴らしい北隆館のものも、絵で表現してあるというのはそうする合理性があるのである。その種の同定に使えるような特徴的な個体って意外に実物では用意しにくくって、写真だとどうしてもその種を代表するような個体のバッチリ同定につかえる特徴を捉えたものって難しいのである。
 ただ、WEB魚図鑑の良いところは沢山写真が掲載されていることで、小型個体の写真は釣った魚と見た目の印象も合致する。

 ちゅうことでマルアジでめでたしめでたしなんだけど、頭の鱗のところだけちょっと自信が無い。ちなみに頭の鱗が目の中央に達しないと同定結果はどうなるかというと、インドマルアジかモロとなって、胸ビレの長さと臀鰭の軟条数からモロははじけるけど、インドマルアジは弾けない。ただネットで検索すると一般的にアジ釣りで釣れてくるムロアジ属の魚はマルアジらしく、市場でも”青アジ”の名で流通することもあるようで南方系のインドマルアジよりは状況証拠的にもマルアジの方があり得るかな、ということで総合的に判断して9分9厘マルアジで大丈夫かなとおもっちょります。まあ生物のことで100%を求めても仕方ないかなと、今回この辺で勘弁してやろうかなというところになりましたとさ。

 これでこの地で釣ったアジ科魚類はマアジ、メアジ、マルアジ、ギンガメアジ、ロウニンアジ、カスミアジ、ブリ、カンパチと9種でつ抜けまであと一歩となっている。次は何が釣れるのかも楽しみに釣りたい。

2021年3月13日土曜日

どないなっとるんじゃ?

  説明させてください。まあいつもの病気なんですけど、説明させてください。

 長期的にボチボチと安い出物があったらと狙っているものとしてハトリーズ関連のルア-があって、これはコロナ禍で流れてしまって延期になってるけど、元職場の先輩2人と紀伊半島で故羽鳥静夫さんを偲んで”ハトリーズ合宿”をしようっていう話があって、コロナ終息したらやろうねって話なんだけど、まあお二人は正調ハトリーズっていう感じのウッドの主体にくり出すんだろうから、ワシャ”それもハトリーズに数えるんかい?”っていうようなのも含め、樹脂性の安パッチい感じの中心で行こうかなと思ってて、お気に入りのカクーンは右下写真のように既に売るほど持ってるにしても、もうチョイ買い足しておこうかなとスティッキーとかネットオークション・フリマで検索掛けて巡視している。カクーンにはサスペンドモデルもあるし、スティッキーにいたってはリップ付きのタイプ1~3まであって水面下もいけるという万全ぶり。他にも隠し球を用意してコロナ後のお楽しみに着々と備えている。実現可能か未来が読めないけど、準備自体がもうすでに楽しいのよね。

 そこまでは予定通りであり樹脂性の中古ハトリーズは安いので想定の範囲内の散財でどうということはなかった。ところがハトリーズで検索していると検索用の鍵単語として”バルサ50”をぶち込んでる(訂:ゴメン逆やバルサ50に「ハトリーズ」を検索語句としてぶち込んでる)輩が結構いやがって、最初のうちは「ザウルス潰れた時の放出在庫を中古屋で安く買ったけど持てあましてやがるヤツらが居るな」ぐらいの感想で冷静だったけど、何度も目にするうえに値段が安い。オークションの方は開始価格が安くても釣り上がっていくだろうけど、フリマは即決価格送料込みなので、中古屋に沢山転がってた頃より安いぐらいでどうにも気になってつい手が出てしまった。

 樹脂版の”セラフ”とか安いと500円かそこらでっせ。ナンボ中古で弾数多いっていっても、比較対象としてプラドコ版ダイイングフラッターとか、いま新品も売ってるはずで弾数も多いはずなので買い時かなとチラッと山ッケがでて相場見てみたけど千円ぐらいが底値で、人件費安い中米やら中国やらで作ってるルアーより国産の名作が安いのである。堅い材を芯に入れたバルサ製のビックラッシュやホッツィートッツィーで千円チョイが底値。

 これは買っとかなきゃ!となぜか思ってしまって、フリマで底値近くので色が良いのをいくつか買って、ネットオークションはまあ10も開始価格で入札しておけば3つ4つは落とせるだろうとポチッとしておいた。

 ヤバいと気がついたのは入札した日の夜。終了時間が来るたびに落札のメールが来る。高値更新されることは一度も無く初日に10個ほど落札。完全にやってしまってる。月の食費が1万5千円だかの人間が1日で使う予定もないルア-に同程度の金額を突っ込んでしまった。

 ここで手を引けば傷は浅いんだろうけど、こうなってしまうと勢いが付いて毒くわば皿までで、選びたい放題なんだから良い色(コーチドック系と黄色系)が欲しいとか、値が上がりそうなやや弾数少ない大きめの”Big”を狙おうとか歯止めがきかなくなる。結果冒頭写真の通りである。主にビックラッシュスケーター系とホッツィートッツィーを狙ってみて今も実は入札中のがあるという重症具合。

 ハトリーズ合宿参加予定者の一人であるツーテンの虎ファンさんが、中古屋でハトリーズの「インナーハンドWB」が安くたたき売られているたびに「オマエこんなところにおったんか!」と家に連れて帰っててたらエラい数になってしまったと言ってたけど、まあそこまで症状酷くないとは信じたいけど、病気的には同種の病気である。人気絶頂時に欲しくてもなかなか入手が困難だったような状況を知っている人間なら、中古市場に弾がだぶついて安売りされている様をなんかほっておけないのである。ワシ、バルサゴジュウなんて高級ルア-はあんまり使ったことないのにそれでもそうなんである。

 安売りされているのは主にビッグラッシュ、ホッツィートッツィー、スマートアレック、ポップスウィンガー、アンクルスミス系統でオリジナル系やブラウニーなんかは手が出ないようないい値段が付いてる。たぶん工場新設して売りまくろうとしてたのがそのあたりのルア-達だったんだろう。バルサ50はザウルス倒産後、版権引き継いだ”ザウルストレイン”から今でも人気のモデルは売っていて、オリジナルとか8千円ぐらいの高級品だけど売り切れてる。まあ、売り切れモデル多数ぐらいで市場の飢餓感をあおってから売るってのはルア-の売り方としては基本のような気がする。則サンも何をとち狂って大量生産して売れると思ったのか?いずれにせよ、こういうルア-の”ブランド”を会社変わっても引き継いで供給される体制っていうのはありがたいモノだというのはここのところ感じているところで、バルサ50ではワシャそれほど恩恵を感じてはないけど、”忠さんバイト”を引き継いで作ってくれている”アートフッイッシング”さんにはずいぶんお世話になって助かった。ブランドを引き継いだ会社が、そのブランドイメージを活かして新製品を世に問うのとかもなかなかに味わいがあって面白い。ザウルストレインも新商品開発してて、今時の”ジャパニーズトップウォータープラグ”って感じのごちゃついた金具のルア-は正直好みじゃないけど、クソデカい海用のビックラッシュとか何回か手が出そうになったぐらい面白いルア-だと思う。いろんな挑戦をして世に問い続ければ、いつか”元祖”に負けないような伝説的な名品が生まれるかもしれない。バルサ50好きの諸兄におかれては、是非一票入れるつもりで買ってあげて欲しいと人ごとながら思っている。まあワシャ、”バイト”と”マスター”に何票も入れるのに資金使いまくったのでバルサ50はお好きな人に任せる。こういう”ルア-ブランド”が引き継がれて名作が作り続けられていく様は、米国の歴史あるルアーの遍歴に見られるように、ルア-フィッシングの文化の一つのあり方なんだろう。日本でもそういうルア-がそれを取り巻く文化が育ってきたんだなと感慨深いモノがある。

 ってなかんじで、買ってしまったもんは仕方ない。今後値段が上がってくれれば売りさばいて老後の備えの足しにでもできるだろうけど、ザウルスが倒産したのが2003年のことらしいので、もう20年近く昔のことなのに値段が上がってないってことは中古市場に弾数が絶望的に多い。ちゅうことは値上がり期待できないけど逆に補充は簡単。ならば使うしかないだろうの三段論法。シーバスに使うペンシルは横浮き系が良いような気がカクーン使っての感触なので、横浮きで足の長い水面滑るような動きで評判だったビックラッシュスケーターはおあつらえ向きである。実物手に取るとバルサ製の方はクソ軽くてこれは動きは良いんだろうなと使うの楽しみである。流行から外れたって、シーバス用じゃなかったって、魚がそんなの気にして食ってくるわけじゃない。昔流行って今それ程でもない、他魚種狙いで実績有りっ、てなルア-は他の人が使ってないことの利点もあって、まず間違いなく”釣れるルアー”である。ただ、心棒は入ってるとはいえバルサにヒートンなので型の良いシーバスにぶっ壊されるのがやや不安。だけど、8ポンドナイロンでドラグ使ってやりとりする分には大丈夫な気がする。壊れるのはネットに入れてからネットにもフックが絡んだ状態で首振られたりしたときだろう。まあその時は魚は釣れてるんだから、殉職しても壊れたルア-は想い出の品として取っておけば良いだけである。今年はペンシルはビックラッシュスケーターで釣るのをシーバス釣りの”お楽しみ”の一つとして楽しんでみよう。

 ちゅうわけで、”ルア-図鑑うすしお味”第46弾は気がつけば取り上げるの3回目ぐらいの”バルサゴジュウ”でいってみましたとさ。

2021年3月6日土曜日

ハルキスト立ち入り禁止令

 他人様の悪口を書くとき、全力で誹謗中傷するとき、人間はなぜこんなにも気持ち良いんだろうか?義務教育程度の物理もわかっとらんような阿呆なリールを酷評する時の気持ちよさが当ブログに貢献する度合いといったら、読んでいただいてる方にはすぐに納得いただけるだろう。

 これから久しぶりに個人名を出してあらん限りの力で誹謗中傷を試みるつもりなので、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ!いざ舌戦(ゲリラ攻撃だけどな)の火ぶたは切って落とされる!!でもハルキストは読まないでね。

 まあ、相手は毎回ノーベル文学賞候補に挙げられて落っこちるぐらいの立派なお方なので、こんなネットの隅っこのお気楽ブロガーが何書いたって屁ともおもわんだろうけどそれでも書く。なぜならヤツは俺を怒らせた。

 ネットニュースで村神晴喜先生のSNS(ソーシャルネットワーキングサービス=ツイッターとかフェイスブックとかで広義にはブログもネット掲示板も含まれる)への見解が紹介されていて元はどこに掲載されていたのかも分からんけど孫引きで引用させてもらうと「SNSはいっさい見ないそうですが、その理由は?」と問われて「大体において文章があまり上等じゃないですよね。いい文章を読んでいい音楽を聴くってことは、人生にとってものすごく大事なことなんです。だから逆の言い方をすれば、まずい音楽、まずい文章っていうのは聴かない、読まないに越したことはない」とお答えあそばれている。さすがはノーベル文学賞の選に何度も落っこちた春木大先生だけのことはあるありがたい上から目線で反吐が出る。オマエ、「村上春樹」で検索かけるとワシみたいなアンチの痛いところを突く罵詈雑言が目に入るから怖くて見られへんだけの腰抜けと違うんか?

 上等な文章?なんじゃそりゃ?そんなくっだらねえことを現代日本を代表するだろう第一人者が言ってるから文学なんてモノが完全に一部のもの好きのオタクにしか興味の無い分野になり果てて、文学の新人賞である”芥川賞”がクソツマンネエこぢんまりとした私小説ばっかりになってるのもむべなるかなだ。舞城先生とかに芥川賞与えられなかった時点で文学ってのがすでに時代の感性とズレまくってて終わってるって証明だろう。「メフィスト賞」や「電撃大賞」のほうがよっぽど気がきいてるし、今時、絶滅危惧種になってる”活字”を読む層の心情に沿っている。要するにムラ紙先生の愛する文学は死に体である。そりゃノーベル文学賞を小説家でも何でもないボブ・ディランにもってかれるわけである。現代社会において優れた詩人は”詩人”として活動なんてしてなくて”作詞”してるってずっと思ってたので、あの受賞騒ぎは痛快だった。斑紙先生落っこちたのもあってザマミロと快哉を叫ばしてもらった。

 良い文章、上等な文章だけを読んで、まずい文章を読まないに越したことはない、だとよ。音楽もあげてるけど全てにおいてそういう感じで上等なモノだけを選んで人生を有意義にしていこうという”意識高い系”のお考えであらせられるとお見受けした。お賢い文系の人がよくやりがちな典型的な大失敗であると断言させてもらう。成功や正解、大事なことなんていうのは、一見失敗に見えること下らないこと馬鹿臭いこと下劣なことに往々にして混ざってて、効率的に”正しいこと”だけを拾って効率的にやろうと脇目も振らずに”上等”なことを目指すと全くつまらない結果にしか辿りつけないことが多々ある。科学技術において”結果評価”がついて回るのはある程度仕方ないと理解しているけど、我が国も景気悪くなってきて計画時点からの評価が重視されるようになってきて激しく違和感を感じている。バカの思いつきと天才の着想の違いなんて凡人には結果を見てさえ評価できないはずである。ある程度良きに計らっておかないと成功の芽を摘んでしまう。

 ネットに転がってる文章が大体において上等ではないってことには同意せざるを得ないけど、読む価値がないかっていえば全くそうは思わない。だって面白いこと書いてる人いっぱいいるし、たまにどうにも唸らされる名言を吐くヤツとかが居てそういうのはコピペ(あっちこっちに転載される)されてネット上の共通文化”ネットミーム”として共有されてたりする。お金が一番大事じゃないという論証として「お金が一番大事ならお金を使えなくなる」と切って落としたネットの賢者の聡明さには戦慄を覚えた。そういう切れ味鋭い文章がたまに落っこちてるからネットの海を漂いさまよう楽しみは止められない。でもってそういう切れ味鋭い言葉やらネットならではの生々しい表現とかの”割と上等”な文章じゃない、本当にくっだらねえ匿名者による”便所の落書き”程度の文章が読むに値しないかといえば、それはそれでそうでもないってアタイ思うのよ。くっだらねえ、バカくせえ書き込みもそれはそれでアハハと笑って一瞬憂さを忘れられるなら悪くないと思ってる。っていうか読み物なんて上等か下等かで区別したって仕方ないでしょ?面白いか面白くないか、好きか嫌いかぐらいしか考えなくて良いって。しょせん暇つぶしの道具でしかないんだからさ。文学の役目として無知蒙昧な賤民を啓発するとか大勢に感動を与えなければならないとか思ってるなら、既に読む人さえ少ない文学って道具を選んでる時点でアホやって話でしょ。ナンボ群髪先生の小説がベストセラーだからって、今日日人心に与える影響考えたらマンガアニメの方がよっぽど大きくて、今の若い人が後々まで文学を引っ張って人生に影響を与えられることなんて希有だと思うけど、鬼滅の刃の炭治郎君の影響は絶対大きいって。なにせワシらの世代もドラゴンボールやらスラムダンクやらナウシカやらからの影響は受けまくって育ってる。比較的文章読んできたはずと自負しているワシでさえ、多分人生における指標として活字媒体とマンガアニメのどちらが効いてるかって考えると、若干後者の方が大きいのかなと思わなくもない。

 ただ、自分が、読んできた”活字”にも大きく影響を受けているのは紛れもない事実で、小説なんて面白いか面白くないか好きか嫌いかだけだってあたりは、開高先生、らも先生の受け売りである。ワシの言葉じゃアホのタワゴトだと思われるだけかもしれないので、権威ある両先生の教えを引用して、ブラ噛み先生のお言葉に対抗するなら、開高先生は酒を例に出して、良い酒の味を知りたかったら普段から安っすい酒を飲み付けておけってなことを書いておられた。道理である。良いものを知るためには比較対象が必要であり、かつ自分好みの味を知らなければ、他人様の評価を鵜呑みにして踊らされるだけである。さすが文豪。ちなみに晩年愛飲してたのはフィンランディアっていうウォッカだけど、ホワイトリカーも悪くないって書いてた。梅酒用の酒ですら自分で飲んで味を知ってるってのは酒飲みとしてもたいしたものだと思う。らも先生はもっと極端で、よく紹介していた”人の行く裏に道あり菊の花”っていう狂歌?が象徴するように、他人様の評価の裏っかわにあるモノをこよなく愛しておられた。2つの選択肢があったとしたら”ややこしい方”を選べともおっしゃってた。その方が絶対に面白いからだそうだ。もちろんらも先生上等なものの良さもよくご存じのうえで、ダダイズムとかの時代の詩を暗唱してるぐらいの教養を持ちながら、ひたすらお言葉どおりの”ややこしい”生き方を貫いてラリって酔っ払って階段から落ちてその生き方に幕を閉じた。”上等”な人生を送るよりなんて面白く素晴らしい人生だっただろうと思う。文章っちゅうか言葉遣いは死ぬほど上手いけどね。

 でもって、そういう上等じゃないもの好きとして無視できないのがオーケン先生(大江健三郎大先生ではなく大槻ケンヂ先生)で、なにしろ不安神経症を患ってる時に、あまりに熱中しすぎるからとお医者様に”UFO”を禁止されて、古いポルノ映画の題名をもじって”UFO禁止令(「徳川セ○クス禁止令」ってのがあるのよ)”とか書いてたぐらいのサブカル好き。B級映画では本1冊書いてるし、格闘技も大好き(ちなみに開高先生もプロレス好きでらも先生も格闘技好きで知られていた)と上等じゃないもの大好きなんだけど、江戸川乱歩の特集が組まれたときNHKに案内役として呼ばれたくらいに上等なモノ(乱歩は世間の評価と違って上等じゃない部分も面白いと力説されてた)も分け隔てなく、好きなモノは好きなお方で、かつご自身のエッセイとかについては読者に「アハハと笑って読み捨てて忘れてもらって良い」ってなことを書いていて、高尚な文学じゃない楽しい読み物の、なんちゅうか上等じゃないモノの価値をキッチリと知っていて格好いいのである。本職はバンドマンとご自身力説しているぐらいで音楽活動忙しいみたいで、今放送中のアニメのエンディングの作詞も担当しておられる。最近新刊が出ないので作家オーケン先生を愛する読者としては寂しい限りだけど、お元気でおられるならそれだけで嬉しい。開高先生もらも先生もあんなに生き急いだら仕方ないとは思うけど”早死に系”だからね。まあオーケン先生の素晴らしい才能のほとばしりを感じてみたかったら、以前にもどっかで紹介したけど手っ取り早く「踊るダメ人間」でも聴いてみて欲しい。「この世を壊したって一番ダメな自分が残る」てな歌詞は上等じゃない人間には身につまされて突き刺さるものがある。上等な方々にはおわかりにならんだろうね、この良さは。ざまあ見ろってなもんである。つよい子のミロってなもんである。

 というわけで、お偉い人にクソ馬鹿にされたので、ご本人が否定するネットの片隅で力一杯に馬鹿にし返しておいた。野郎が間違ってノーベル文学賞とか取ってもワシャ絶対ヤツの書いた本など読んでやらねェと誓いを新たにするのであった。ノーベル文学賞はコーマック・マッカーシー先生にでもあげてほしいものだ。人類への貢献度っていうことなら宮崎駿先生にあげても良いかもしれん。文学じゃネェだろって?ノーベル賞は今更部門新設できないので無理くり既存の分野に入れるのはありがちだし、そろそろマンガアニメ分野からも一人ぐらいでるでしょ?などと予言めいたことを書いておく。