2025年4月5日土曜日

コテコテのエンタメの底力

引用:島袋全優「腸よ鼻よ」1巻Kindle版
  ネタ切れの時のお約束、いつもサイトの方でひっそりとやってる「ナマジの読書日記」の出張版でございます。まあ読書と言ってもマンガとラノベで堅苦しい内容じゃないので暇つぶしにユルッとご笑覧あれ。

 一作品目は十巻で完結した島袋全優先生の「腸よ鼻よ」で、これ作者の実体験に基づいた「闘病ギャグエッセイマンガ」なんだけど、よくもこんなにも酷い病状を、こんなにも面白おかしいネタに昇華できるなと、心の底から感心するとともに腹から笑える。”あとがき”で「ギャグは盛っても病状はもらないという信念の基」に描いたと書かれているけど、”潰瘍性大腸炎”っていう大腸の酷い病気で最初のつかみの部分から大腸を失うことになるっていうのが予告されてる感じで「わーエラいこっちゃなー」って思うわけで、それがメインディッシュだと思うじゃん。でもそれが前菜だったわけよ。詳しくは読んでくれって話だけど、大腸なくなって小腸を肛門につなぐんだけど、上手くいかなくて穴開いたり癒着したり、治療してもしても、悪化して激痛、ひたすら入院・手術の繰り返し、人工肛門をお腹の横に開けたり閉じたり、あまりの激痛に痛み止めの医療用モルヒネも効かなくなってしまって、米国とかで濫用者が死にまくって悪名高いフェンタニル処方されて「フェンタニルって、合成麻薬として嗜まれてるだけじゃなくて医療利用もあるんだ!」って変な驚きかたしたぐらいだけど、術後の退院には”薬を抜く”のが一苦労とかもう、ここまで病気に苦しめられている人も世の中にはいるんだなと圧倒される病状。もちろんお薬で”せん妄”ネタもお約束。っていうしんどいって言葉ですまされないような状況でも、この人マンガ描きまくり。入院中にも画材やらネット機材やら持ち込んで描いてるし(当然医者に止められたりもしてる)、後半はデジタル作画になって解消してたけど、最初の頃紙に描いてて、尻が痛くて姿勢がままならないのでベットで描くのに、よくイラストレーターとかが使ってる下から光が来る台(トレス台)の代わりに、お医者さんがレントゲン写真を貼る縦置きの台(シャウカステンとかいう名前らしい)が欲しいとか、とにかくマンガ描くのが好きなんだろうなというのがアリアリと分かる。絵を描くことを禁じられて縛られた雪舟が、それでも描きたくて足で涙を絵の具にネズミの絵を描いた逸話を思い出させる。血と腸液でマンガを描いているといって過言ではない島袋先生は現代の雪舟と言って良いかも。最初マイナーな出版社のWEB連載で始まったようで、後にKADOKAWAから紙の本やらも出たけど、イマイチ作品のすさまじいまでの破壊力のわりには話題になってない気がするので、全力でお薦めしておきたい。もうね、ワシも持病ももってるし薬飲み飲みボチボチやってるけど、人はここまで苦しい難病でも、もちろん作品に出てこないつらさや悲しみもあるのはアホでも分かるけど、それでも情熱のおもむくままに突き進むことができるという事実。人間の力強さ、好きモノの突貫能力、もう励まされる力づけられる胸に火がともる。とにかく万人にお薦めする傑作です。全優先生、人工肛門と付き合いながら入院はもうしなくてすんでいるそうだけど、健康にはお気をつけて、これからもバリバリとマンガ描いて描いて描きまくってください。作中でも出てきたデビュー作「カエルのおっさん」も面白かったです。新作も楽しみにしてます。

 二作品目は、賀東招二先生の「フルメタル・パニック!」全十二巻と短編集十一冊を三度目の読み直し。一度目はアニメから入って原作ライトノベル紙の本で買ってて、最後の二巻が同時発売になったときに、渋谷の再開発でなくなった、交差点の角にあるちっちゃいけど趣味の良い、内澤洵子先生の著書とかお薦めされてた書店で平積みされてるのを発売日の仕事帰りにワクワクして買ったのを憶えている。その後、紙の本は古本屋に売ってしまったけど、外伝の「アナザー」を読み始めたらまた読みたくなって全巻電子版で買い直して再読、そして今回は賀東先生が久しぶりに書き始めた新シリーズというか続編「フルメタル・パニックFamily」を読み始めたらクソ面白いんだけど、本編の内容うろ覚えで気になるところがでてきたりして二度目の全巻再読。いやはやこれまた傑作でクソ面白かったし、ヤン君死んでなかったのも確認できてスッキリ。ここからネタバレ多めでゴリゴリ書くのでこれから読む人はご注意を。

 まあ、本編だけでも十二巻と長い物語なので読むの大変だったけど、それにもましてこの物語には難所が一カ所あって、主人公ソースケは悪の組織アマルガムと戦う傭兵集団ミスリル所属のロボット操縦兵なんだけど、ミスリルの基地や組織がアマルガムの総攻撃を受けて大打撃を受けて、主人公も仲間の仇を討ち、ヒロイン(メインの)を取り返すために雌伏の時を過ごす8巻のナムサク偏が、読んでて辛いの分かってるので読むのに覚悟がいる。まあ、ネタバレするとメインヒロインじゃないこの巻のヒロインであるナミちゃんが酷い死に方をするのである。ワシそのせいで、最終的にこの物語はメインヒロインを救い出して大団円に完結するんだけど、そこに文句はないハズなんだけど、ナミちゃんがあんなに酷い目にあったのに、最後メインヒロインのカナメと結ばれて幸せに暮らしましたとさって、ソースケも賀東先生も酷いじゃないか、って思ってたけど、読み直してみたら自分が当時はナミに感情移入しすぎてたせいでそう感じただけで、実際にはソースケも意外なぐらいにトラウマになってて、カナメを助け出すのに、ナミの死を正当化してまで的なことをグジグジ悩んでいるし、カナメがおかしくなって世界を改編して”幸せな世界”にしようとしてるのを阻止するってときに、ナミと成り行きで3人で過ごしたりもしたフランス諜報部のレモンに、ナミが生き返る可能性があることを伝えるべきか逡巡したりもしていて、心に抜けない棘のように刺さりまくっている。ナニをナマジは絵空事のラノベの美少女ごときに感情移入してるんだって話だけど、物語ってそういう架空の人物やらにガッチリ感情持ってかれるぐらいにのめり込んで楽しめなければつまんねえと思うし「絵空事は絵空事として現実とは分けて考えるべきで、現実ほどの価値はない」とか言い始めたら、過去現在未来ありとあらゆる、文学や映画、アニメに劇にという物語は絵空事であり、そこに価値がないということになる。バカ言うなって話である。NHKの名作アニメ「電脳コイル」では、主人公達は大人達がさももっともらしく「実際に手で触れられるようなものだけが真実なのよ」ってなことをほざくのに反して、電脳の仮想世界で、紛れもない絆を育み成長していく。絵空事のアニメだけどよく分かってると感心した。絵空事でナニが悪い。それを信じて、あまつさえ共有できることが我々ホモサピの欠点かもしれないけど大きな強みだったんだろ?っていう話。

 で、ちょっと書いたとおり、フルメタって作品はガッチリSF入ったロボモノで、”ソ連”のとち狂った科学者が娘を贄に、時空をねじ曲げ起こりえる事象を改変してしまうような装置を作ろうとして、オカルト版チェルノブイリみたいな精神汚染を伴う事故を起こしてしまい。事故当時に世界中にぶちまけられた精神波みたいなのを新生児のときにくらった子供達が、未来だか可能性の彼方だかから、異常に進んだ科学技術”ブラックテクノロジー”とかについて「ささやかれる」ことによって、いびつな科学進歩が生じた世界が舞台で、人型ロボット兵器とかがまさにそういった謎技術に基づいているっていう設定。で、敵側の一部が、ゆがんでしまった世界を元に戻そうと、あるいはもっと個人的に亡くなった愛する家族とかが生きていた世界を実現させようと、メインヒロインのカナメの力を使って、愛する人が死ななかった、酷い戦争とかが終息する”幸せな世界”に世界を改変しようとする。でもまあ、そんな都合の良い幸せな世界が良いわきゃない。ってのが分からんようなら貴方とは分かりあえん。敵側に行っとけ。そんな作りモノの幸せな世界がクソ食らえだっていうのは、各種ディストピア系の物語でさんざん描かれてきているって話で、パッと思いつくだけでも「ハーモニー」「新世界から」「ダーリン・イン・ザ・フランキス」といくらでもある。そういう”作られた幸せな世界”を痛烈に蹴飛ばして、というか巨神兵で焼き払ったのがマンガ版の「風の谷のナウシカ」である。人類が穏やかな種族として腐海が浄化された後によみがえり暮らすための技術を納めた墓所を、ナウシカは自分の罪におののきつつも焼き払い、そして吐いた台詞が格好いい「我々は血を吐きながら、繰り返し繰り返し、その朝を越えて飛ぶ鳥だ」。与えられた平穏幸せを全否定し、自らの手で幸せを得るために血を吐くような苦難を何度も何度も乗り越えていくという決意。痺れるぜ。「ナウシカを金ローで観るのは子供、マンガ版で読むのが大人(byガハラさん)」っていうのも納得の突き抜けたナウシカの強さに宮崎駿先生の非凡を見る。

 で、今作では色々あって、敵にとらわれたカナメも病気で早くに亡くなった母も生きている、核が使われるような戦争が阻止できた”世界”を作るつもりで、事故で死んだ科学者の娘の精神とごっちゃになりつつ、世界を改変するための設備も整って、そのやさしい世界をちょっと味わうんだけど、その時に、カナメは戦争が起きなかったのでホホに傷のないソースケが受け入れられなくてっていうのが引き金になって、世界の改変は綻び始める。ソースケはソ連とアフガンの間で行ったり来たりした少年兵として育ち、その後傭兵として戦ってきたからこそ、カナメを護衛する任務に就き、困難を共に切り抜けて強い関係性を築いていたわけで、そういう戦いが磨きをかけ研ぎ上げていないソースケをカナメは許容できなかった的な感じ。なんというかその気持ちよく分かる。ワシも人生でやり直したいような失敗は沢山やってきたけど、じゃあやり直せるならやり直すかと言えば、やり直したら、そういう失敗で痛い目に遭って鍛えられたりゆがんだりもしている今の自分が、別のモノに変質してしまうわけで、今の自分がいなくなってしまう。そんなのはイヤに決まっている。失敗やら後悔するようなことやらもやってしまうのが人間の人生で、それをやり直せるからといってやり直していたら、生きることの真剣みが決定的に削がれてしまう。ソースケの殺し殺されの厳しい半生は、殺した相手も多くいてその手も血に汚れているし、ソースケを戦うことしかできないようないびつな男にしてしまってもいる。かといって、そういう困難を経験していないソースケは、カナメにはもはやソースケではなかったのだろう。そういう”やり直しができないからいい”っていうのは「超可動ガールズ」で、勇者ベルノア(のフィギュアが命を得て動き出したもの)がみんなで暮らしてるマンション内にセーブポイントを見つけてしまって、過去の出来事をやり直してみたんだけど、ただむなしいだけで、もっと大きな事態の時に、例えば自分や仲間が死んだときに、セーブポイントからやり直しできてしまうという、むなしいのに誘惑にあらがえずやってしまうだろうことが分かりきってる事実の前で苦悩して、主人公と相談してセーブポイントぶち壊してた。美少女フィギュアたちが命を得て、オタク青年の部屋にやってきてキャッキャウフフな日常を描いたちょっとエッチなギャグマンガなのに、何というか「人生やり直しできねえ一発勝負だからから、気合いも入るし、真剣に面白いんだよ!」っていう大事なところは真ん中ズバンと射貫いてハズしていない。あなどれん作品なんである。

 で、もうチョイ突っ込むと、やり直しできない方が良いっていうのの典型は「人を生き返らせてはいけない」っていう、物語の世界でもタブーとされてる設定が多い事象である。ハガレンでは母親を蘇らそうとして失敗、エルリック兄弟は体やその一部を失った、死者を生き返らせることと等価交換できるような事象はないという重み。ジョジョ4部の、仗助のスタンド「クレイジーダイヤモンド」は壊れたモノを直すことができるけど、ただし、生命が終わったものはもう戻せない、っていうのが抜群に物語に深みを与えてるし、そうあるべきだと思わされる。これはもう、洋の東西問わず古くから、人は感覚的に直感的に”死んだ人生き返らせるのはダメ絶対”って考えてきたようで、日本のいざなぎの”よもつ平坂”の話も、ギリシャ神話のオルフェウスの冥府下りの話もそっくりなぐらいで(前述の「超可動ガールズ」で紹介されている)、人は死んだら帰ってこないっていうのが大事で、だからこそ生きているうちに、って話になるのだと思う。これまた”死んだらおしまい一発勝負”だからここ実際の人生も面白いし価値があるんだと思う。物語世界で、このタブーを破って面白かったのって「ドラゴンボールで生き返らせればいい」っていうのぐらいしか思いつかず。それは鳥山明先生の天才のもつ軽やかさでしかなしえない希有な事例だろうと思っている。

 とはいえ、そういう”大事なこと”が書かれていても、面白くなければ意味ないわけで、っていうか純文学で重めの題材を扱ってても面白いものは夢中になってひきこまれるぐらいで、まず面白くなければワシャ読まんので箸にも棒にもかからん。小難しいだけで読む気にならんようなのはワシ的には価値がない。その点フルメタはクソ面白い、ナニが面白かいっていえばまずは台詞回しがイイ。話の筋としては後半は「とらわれのお姫様を救い出す」っていうありがちな構図なんだけど、その陳腐なぐらいの筋も台詞が良いから俄然面白くなってくる。主人公が自機の位置をごまかすのを兼ねてオープンチャンネルの無線を使ってあちこちに走らせたデコイ(身代わりの機械)からカナメがどっかで聞いてることを期待して長広舌をぶつんだけど、カナメも応えてやりとりしたソースケの台詞を美味しいところ抜きただしてみると「俺がいいたいのは、「君はもっとガッツのある女だと思っていた」ってことだ。」「まったく、どこのお姫様だ、君は?」「笑わせるな。俺が来たのは、おまえらを邪魔して、徹底的に困らせるためだ。」「俺の得意技は火付けと壊しだ。」「雑菌だらけのクソを塗りたくってやる。」ってな具合である。おおよそ”悪魔の城に姫を助けに来た騎士”の台詞じゃない。でも読んでて超気持ちいい。「雑菌だらけのクソを塗りたくってやる。」は機会があれば使いたい罵倒台詞の上位に来るね。

 あと、いろんな作品の影響を受けて、細かいオマージュやらなにやらがちりばめられているのも楽しめる要素で、そもそもタイトルは米国戦争映画「フルメタル・ジャケット」のパロディーだし、数え上げれば切りないけど、三回目にして始めて気がついたネタもあったりして映画「ブレードランナー」の最後の台詞の雨の中の涙のところがしれっと出てきて「オッこんなところにも」ってなって楽しめた。細かいといえば、銃器や武器の設定やら現実のものも良く調べて考証されていると思うけど、ロボットの操縦の仕方とか、架空の武器兵器に関する設定も細かく詰めてあって、本編には出てこないけど握ったスティック2本でどうやって武器を取り扱うかとかも具体的に考えてあって、そういう細部にまで丁寧に神経使ってるので、絵空事が抵抗なく受け入れられて楽しめるというのもあると思う。とにかく良くできたエンタメ作品とはこういうモノだというお手本のような作品である。一切手抜きしていない。

 で、とらわれのお姫様を救い出すっていう物語の主軸のほかにも、面白いテーマが扱われていて、今大注目を浴びるようになってきたAI(人工知能)との関係で、アーバレスト、レーバーテインと主人公機2代にわたって「アル」という名の変なAIが搭載されているんだけど、コイツが勝手にTVやラジオの放送やらネットやらで学習して賢くなっていくAIで、単なる戦闘支援用の、戦況や自機の損傷を分析する機械だったのが、だんだん冗談とかの概念も理解し始め使い始め、主人公を戸惑わせつつも、最終的に主人公と切っても切れない相棒になる。このあたりは賀東先生もろに「マイアミバイス」とかの洋物刑事コンビモノの書式を使った「コップクラフト」なんてのも書いてるぐらいで、あの時代の洋物刑事ドラマ大好きだったんだろうってのは想像に難くない。で、主人公とAIとくればもちろん「ナイトライダー」も大好きだったに違いない。ナイトライダーで刑事の相棒はパトカーに搭載されたAIである「ナイト2000」である。っていうソースケの相棒のAIアルは、2人3脚で敵側最強の機体ベリアルを打ち倒し、たのはいいけど決戦の場となった基地のある小島に核ミサイルが発射されて、ソースケとアルは取り残される。主人公機にはアルを媒体にして、搭乗する”人間”の精神力で物理現象に干渉する”ラムダドライバ”という装置が搭載されていたんだけど、大破してコックピットも操縦ができる状態になく核攻撃による死を待つだけ、という状況でアルは絶望にうちひしがれるソースケに「私は人間ですか、機械ですか?」と問い「自分で決めることだ」との答えを受けて<一人でやってみます>と、”人間の精神力”を持ってしてラムダドライバを起動させ、核攻撃から自らとソースケを守り切り「人間の証明」をやってのける。痛快至極。

 後で、米軍に拾われて拘束されていた沖縄基地から脱走するときにもソースケはアルを見捨てず共に逃げてきて、仲間にあずけられたアルは自分が乗る新しい機体があるのかを聞いて、組織も予算もなくなってそんなのないと言われてしまって、<では逃げ終わったら、車にでも積んでください。車種はトランザムを希望します>っていう、おまえも「ナイトライダー」好きなんかい!?っていうオチをつけてくれる。っていう最高のAIと、AIと人との関係性もサラッと書かれていたりするこの鋭さよ。

 

 感動できる文章は上等な文学にしかないとか、万年ノーベル文学賞候補のやっこさんみたいなこと言ってると、コッテコテのドクソエンタメの中に貫かれている、人間真理の大事なところを見落とすマヌケを犯す。こころしてすべての表現・作品に敬意を払って心のおもむくままに楽しまなければならないと思う。「腸よ鼻よ」はWEB掲載のマンガで「フルメタル・パニック」はライトノベルであり、エラそうな文学様に比べて劣るような印象をもたれるかもしれない。でも、そんなもん読む価値もないようなクソつまらんお文学様もあれば、逆に切れ味に唸らされるようなネットの賢者の一言半句もある。良い作品かどうかはカテゴリー分けなんかしたところで1ミリも分からない。いつも繰り返すように、実際に楽しんでみて自分の感性・心で評価するしかないのである。

 良い作品は読めば分かる。読まねば分からん。っていうことに尽きるので、またこれからも面白そうな作品は暇をみて楽しんでみたい。