2025年4月26日土曜日

生成AIは印税生活の夢を見るか

ラスコー洞窟壁画、撮影EUX氏、ウィキメディアより
 今時話題の”生成AI”ってウィキペディア先生によると「 生成的人工知能または生成AIは、文字などの入力(プロンプト)に対してテキスト、画像、または他のメディアを応答として生成する人工知能システムの一種である。ジェネレーティブAI、ジェネラティブAIともよばれる。生成的人工知能モデルは、訓練データの規則性や構造を訓練において学習することで、訓練データに含まれない新しいデータを生成することができる。」ってなモノのことを言うようで、要するに、人間の代わりに既存の表現物から学習して要望のあったお題に対してなんかでっち上げてくれるコンピューターソフトのことだと思っている。簡単な問いに答えてくれる「ChatGPT」とか、リクエストに応えてイラストとか文章とか描いてくれる各種「画像生成AI」「文章生成AI」とかが代表例だろう。

 特に後者は、著作権との関連もあって、法的、倫理的な問題が取りざたされ議論になっている。とある文学賞の新人賞作家が、生成AIの出力文章も使ったと公言して話題になったりもしてた。読む方の、読むのに限らず、観る、聴くその他鑑賞する側の立場としては、純粋に考えると生成AIだろうと巨匠の渾身だろうと、出力された作品が面白いか、面白くないかだけが問題である。開高先生が昔、自分の作品を評して「これが実体験ではなく取材だけで書かれているなら素晴らしい」というようなことをのたまう評論家に対して、そんなもん読む側からしたら関係ない、作品として面白いかどうかだけだ、と言い切ってたのを思い出す。

 ただ、生成AIの出力物は作品として純粋に面白いかどうかだけではすまされない、今までの長い歴史で整理されてきた著作権や模倣の概念に当てはまらない事象でもあり、人の仕事を機械が奪うことへの危機感、芸術とはなんぞやに迫るような根本的な問題をも提起されているように思う。特にそのへん顕著なのがイラスト界隈で、そんなもんお客さんが要望したイラストを即座にホイホイと出力できるソフトなんて使われたら、底辺イラストレーターの仕事なんて速攻で無くなりおまんまの食いあげである。ちょっと前までラーメンを箸で食えなかった生成AIイラストとかは、ある種笑いの対象でしかなかったけど、すぐにそんな不具合は修正されて、ネット記事の見出し画像とか生成AIに作らせてるのをわざと分かるように強調したようなイラストも増えたので、気づかないであろうモノも含め確実に普通に使われるようになりつつある。

 10年かそこら前に、今後AIに仕事を奪われる職業としてあがってたのは、自動運転に取って代わられる運転手はじめ単純労働者で、逆に芸術や頭脳労働の方面ではAIでは代替しえないとか言われてたのに、真逆のことが起きている。いまだ車は自動運転は実験段階で、多くの単純労働では高度な金の掛かるAIを使ったシステムに置き換わるどころか、安い労働力でありつづける人間がこき使われ続けている。元々コンピューターとかAI(人工知能)とかは人間の脳の機能の模倣というか外部化、機械化であり、人の脳が行っていたようなことを置換していくのは当然の成り行きだろう。脳生理学者がさも自分の研究対象は特別であると言いたげに「脳のシステムは複雑でAIや機械で再現・置換されることはありえない」とか間抜けなことをぬかしているけど、出始めで画素数が少なく荒い画像しか出力できなかった時代のデジカメ写真を見て「フィルム写真に追いつくことはない」とか言ってたマヌケと同じだと感じる。結局写真の場合、フィルムに焼き付ける物質的な分子数なり色素数的なものを画素数が超えれば良いだけで物理的な数の問題でしかなかったのは明白で、アホかと思っていた。同じことが脳でも言える。いくら複雑と言っても、物理的に電気やら伝達物質やら使って神経のつながり(の他にも色々あると分かってきたようだけど)で制御されているシステムであり、簡単ではないにしても模倣や再現、代替は可能なはずで、脳機能全体の代替とかは難しくとも、当座必要な機能の再現ぐらいは存外早く実現するのではと、近年のそのあたりの技術やらの進歩の早さを見ていると思うところである。で、外部化、機械化された脳機能は頭蓋骨という監獄から解き放たれ、大きさの制限がなくなり、最終的にはホモサピの脳を超え、さらなる高度化、複雑化さえなしえるようにも思う。

 で、そうやって生成AIに仕事を奪われていくイラストレーターは当然危機感を覚えるわな。で”反AI”的な宗派の人もでてくるのはまあそうなんだろうなと思う。いわく「生成AIがやってることは模倣でしかなく、イラストレーターが居なくなるとオリジナリティーのある絵が生まれなくなる」、曰く「既存の作品を学習のために取り込み、その作品の模倣的な出力を生むのは著作権の侵害である」というのが、主な主張だろうか。確かに頷ける面もある。

 ただ、生成AIがやってるのは創造ではなく模倣であるってのは、自分らにブーメラン帰ってきて突き刺さらんのかよ?って思う。すべての作品って良いぐらいに創作物って、それまで制作者が観てきたモノ聴いてきたモノ、ありとあらゆる表現ブツの影響を受けまくってるわけで、全くの独自性を持った表現なんてあり得なくて、模倣の先になんかその人独自の個性が生まれてくるぐらいのもんだと思うので、生成AIがやってることとナニが違うと思う。現時点で人間の方が創造的だとしても、これまた時間の問題で人間のイラストレーターがやってる創造的な仕事ぐらいAIがやり始めるのは明白。すべての表現物が何らかの模倣であるってのは極論に聞こえるかもだけど、じゃあイラストレーターは紙もペンもない時代に洞窟の壁に絵を描いたご先祖のような”絵の創造”からみんなやってるのかって言ったらそうじゃないでしょ?紙に描いてるか液晶タブレットで描いてるか知らんけど、そのやり方は少なくとも模倣してるでしょって話。なにしろマンガの神様の一人である藤子・F・不二雄先生が「「まんがをかく」という作業は、情報やアイデアをいろいろと取り入れ、そしてはき出すということのくりかえしといってよいでしょう。つまり、この世の中に、純粋の創作というものはありえないのです。けっきょく、まんがをかくということは、一言でいえば「再生産」ということになります。かつてあった文化遺産の再生産を、まんがという形でおこなっているのが「まんが家」なのです。」(「藤子・F・不二雄のまんが技法」より引用)って言ってるぐらいだから、独自性なんてあるような無いようなあえかなもので、それがあったら超一流って話で、少なくともそういう独自性があるイラストレーターは、もし生成AIが本当に創造性が無く新しいモノが生みだせないなら、学習元としても必要とされるしもちろんその独創性から評価されて生き残るだろうっていう矛盾。そのへん凡百のイラストレーター氏はどう思ってるんだろう。機械やらシステムやらの発達で仕事が無くなるのって電話交換手やらタイピスト(タイプライター打つ人)の例を出すまでもなく、歴史上ありふれた事例であり、新たな便利な技術が使われないで自分たちが保護されるなんてことは無いと覚悟した方がよろしいかと老婆心ながら厳しいことを書いておきたい。「アナタに描いてもらわないとダメなんだ」と顧客に言わせるだけの実力がなく、なんかそれっぽいイラストでも載せとくか、って需要で飯食ってたイラストレーターさんは生成AIのほうが安ければ使ってもらえなくなるよって話。外野の”反AI宗派”の人なんて今はそう言っててもすぐに転ぶから見ててごらん。

 もう一つの著作権やら模倣の倫理的問題とかはややこしい。キャラクターやら構図そのモノをパクったのなら著作権侵害を認定するのも比較的簡単だけど、そもそも”画風”を学習させてパクるってなってくると、そんなもんさっきも書いたけどどんな表現者でも影響を受けた先達はいるわけで、じゃあそれは著作権を侵害してるのかっていうとそうでもないってのが普通だろう。例えばワシ全然楽しく読めなくて序盤で挫折した「ワンピース」の尾田栄一郎先生の描く女性の胸から腰のくびれの曲線が、師匠である「ジャングルの王者ターちゃん」の徳弘正也先生のそれを引き継いでるなと思ったりするわけだけど、それを著作権侵害というかと言えば、師弟関係だからってのは抜きにしても言わんよねって話。画風自体はだいぶ違うしね。文句言ってる反AI派のイラストレーターさんだって、いろんな表現物見て模倣もしただろうし、影響も受けただろう、そうやって自分の絵柄を育てたんでしょ?同じことAIがやってるだけじゃん、ってなる。でも、そうはいっても話題になってた「ジブリ風イラスト」とかはさすがに宮崎駿先生あたりには、著作権侵害と認めさせるのは難しくとも怒る権利があるだろうと思う。そのへんの線引きは生成AI云々以前に、人間同士でさえも微妙で「ある作品の一部をパクっても、そこに愛があれば「オマージュ」である」とか言われるぐらいで、文学の世界とかでは伝統だけど、パロディーやらオマージュ、本歌取り等はなくてはならんぐらいの表現手法の一つでもある。ワシも今回の題はディック先生の”アンドロ羊”への愛を込めてオマージュさせてもらったつもりである。まさにアンドロ羊はAIが娯楽を求めうるか的な今まさに起こってるような事象を予見する傑作だと思う。ちなみに手塚治虫神の娘さんは「ライオンキングは許せても、田中圭一はゆるせません」と、手塚先生の画風でエログロナンセンスを描きまくった田中先生のマンガの推薦帯に書いておられた。っていうぐらいにあるときは許され、あるときは怒られるのが”パクリ”の実態であり、線引き難しいよって話で、制度的な話については新しく出てきた事象でもあり、学習元を特定できる形で取り込んでるのかとか技術的な難しさもある中でどうするか専門家に考えてもらうしかないけど、表現を楽しむ側の姿勢としては、それが許されるモノかどうか?きちんと考えてイヤなモノは拒否して視聴購読等しない、ってその判断のセンスが求められるのではないだろうか。あからさまのパクリで楽して銭儲けやがる輩の作品など蹴っ飛ばせだけど、健全な笑えるパロディーやら元ネタへの尊敬と愛に満ちたオマージュは制作者と共に楽しむべきだろう。ってのが間違えたくない基本路線だとワシャ思うのじゃ。

 っていうのを考えるきっかけになったのが、最近視聴した「未ル わたしのみらい」というアニメの第3話で、このアニメ、なんか人間やら動物やらに変身できるある種の神のように偏在するAI搭載のロボット”ミル”が、人を助けたりしつつ自身も学習し成長していくという基本一話独立のオムニバス形式の物語なんだけど、3話目で才能ある超絶技巧のピアニストの卵がアルバイトでその技術をAIに学習させるかたちで科学者に協力していたら、本人事故で片手の自由を失うんだけど、本人の技術を学習させていたAIに補助させる特殊な義手が科学者によって開発されて、結果演奏家として成功を収める。だけど、果たしてその表現はそのピアニストのモノなのか否か?ってな脚本で思考実験としてとても良くできた例題であり唸らされた。作中でも開発した科学者への取材で「でも機械が弾いてるんでしょ」とか、まあそういう意見もございますわなってことも言われて、でもその技術はもともと彼女のものを学習させたモノで彼女の技術なんです、っていう整理はあっても口さがない連中はネットとかでお気楽に「こんなの芸術じゃない」とか批判を書き込むのを本人目にしてしまったりしたら、そりゃ苦悩するよねって話。明確な答は無いんだろうけど、それでも今回聞き役に回ったミルは、君の表現は君のモノであり、その感動は自分にも引き継がれていく的な救いのある言葉をピアニストにかけている。パクリの問題を排除してAIの補助を受けてなしえた表現等が芸術たり得るか?たり得るでしょ?ってワシャ思うけど、それも程度問題で例えば脳の補助をするAIじゃなくて、体の機能を補助するパワードスーツとかを使って陸上競技とかで記録を出したときに、それが認められるかとかで考えると、陸上競技ならもちろん認められない。ただ、競技の枠があるからダメなだけで、陸上競技でなければ、例えば作業現場で重い荷物運べたら便利で評価できる。あとは費用対効果とかの話になってくる。でもAIに補助させた、あるいは直接作らせた作品を評価する際に、陸上競技のような明確な線引きができるルールがあるかというと、これまで無かったように思う。もちろん盗作はダメとかごく基本的なルールはあるし、読み物なら純文学かラノベかノンフィクションかとかいうゆるい線引きもある。あるけどいつも書くように、線引きなんか関係なくて面白いモノは面白いしつまらんものはつまらんぐらいしか評価する際の基準ってないように思う。そういうなかで、AIを上手く使えば良いモノができるなら使ってもらえば良いじゃん、と楽しむ側として無責任で正直な気持ちもある。あるけど、AIがまるっと作った極めてデキの良い表現物で感動させられてしまう自分っていう図式を考えると、なんか敗北感がただよったりして複雑な乙女心なのである。芸術ってそんなんで良いんだろうか?まあ、すぐに答えがでるような話ではないし、実際に技術が発達していく過程で紆余曲折あってなるようにしかならんのだろうけど、行き着く先がAI様にご提供いただく芸術作品を楽しむだけで、人類が芸術を生み出さないっていう極端なディストピアではなく、なんか良い塩梅の落としどころに落ち着いて欲しいとうすぼんやりと願うのみである。

 で、このアニメのもう一つ面白いところが企画・制作が「ヤンマー」だということで、最初そんな名前のアニメ制作会社があるんだと思ってたら、もろに”ヤンボーマーボー天気予報”の農機具製作会社ヤンマーが異分野参入でアニメ作ってるって話で、わりと驚いたし面白がっている。地上波テレビ(変換候補筆頭に”痴情派”と出て笑った)がここまで斜陽化するとヤンボーマーボーでスポンサーになってもろくに宣伝にならんとかあるんだろうか?クソみたいな番組しか作られなくなってるなら自社で作ってしまえというのであればその意気や良しである。で、一話目がもろにアニメ化もしている幸村誠先生の傑作マンガ「プラネテス」のユーリのペンダントのエピソードと同じような話で、分かっててやってるのかどうか疑問符が頭の上に浮かんだけど、3話まで見て確信的にオマージュでやってるなと思うに足りる感じである。なんならプラネテスの元ネタの筋書きをAIにぶち込んで脚本書かせてるんじゃないかぐらいの実験的なことをやっててもおかしくないぐらいに思うほど、いまのところデキが良い。ヤンマーのトラクター買う予定はないけどアニメは引き続き楽しみに視聴させてもらうことにする。

 AI様が表現者の仕事を、どの程度になるか分からんけどなんぼかは肩代わりしていくようにはなっていくのかもだけど、今のところまだ人間の作る表現物は面白く楽しめている。まあ、たとえAIに勝てなくなったとしても、表現者は表現することをやめないだろう。と、ゼゼコの一銭も稼げないブログを長らく書き続けているお気楽な表現者としては思うところである。表現することの楽しさをAI様が助けてくれることはあっても肩代わりしてくれることはないだろう。多分きっと、そうあって欲しいと願う。でも、ワシの芸風を学習させた生成AIにこのブログまかせて、マニアックなリールの記事とか書き始めたなら、それはそれで読んでみたいとも思ったり思わなかったりする。

2025年4月19日土曜日

春は新しいコスメで!

  またナマジはなんかとち狂ったことを書き始めたな、春だな~、と思われたかもしれませんが、フライやる人ならピンときたと思うけど、フライロッドのガイドやらグリップ、シートなどのブランクス以外のパーツのことをなぜかフライ業界では”コスメチック”と呼んだりしております。ルアーロッドでも言わなくもないけど横文字好きのフライマンがよく使う表現かと。まあ竿の本体はブランクスで、それ以外はたいした要素じゃなくて”飾り”であり、用が足せる範囲でお好きなようにお化粧して飾ってねということだろうか。ということでフライロッドのガイド換装の顛末記でございます。

 現在主に冬場のカマス釣りで振ってるフライロッドは「ロッキーマウンテンアウトフィッターズ」っていう米国のアウトドアツアー会社の貸し出し用竿っぽいブランドの8番9フィートで中古で安く手に入れて2021年5月から使い始めてはや4年という感じで、さすがに冬の間だけとはいえ年間5~60日は出番があるので、およそ想定していない酷使具合だったようで、針金のガイドが削れて糸溝だらけになってきた。

左が一般的なスネークガイド、右がシングルフット方式
 ルアーしかやらないような人から見ると、ステンレスの針金にクロームメッキかけただけみたいなフライのスネークガイドやらは頼りなく思えるかもだけど、以前にもFuji創業者大村氏の著書から引用させてもらったりしているけど、ハードクロームメッキ仕上げのガイドは実用充分な性能を持ってるとのことで、実際古くからの伝統で今でもフライロッドの世界ではバット部のガイドを除くと硬質クロームメッキのスネークガイドやトップも同様の針金ガイドが多い。重量的にはシングルフットにしてしまえば普通にリングのハマったSiCガイドでも軽くできるけど、フライロッドはそういうものという既成概念が強いせいか、よっぽど走る魚を相手にする場合を除いてフルSiCガイドのロッドとかはお目にかかれない。むしろ針金ガイドをスネークガイドの2カ所で留める方式から、片足にまとめて1カ所で留めるシングルフット方式にしてより軽くっていうのの方が多いぐらいである。我が家でも9番のカベラス「LST」がシングルフット方式になってる。シングル化して軽いかどうかはラッピングに使うスレッドと樹脂が半分になったぐらいで違いが分かるほどの差はないように思う、というかワシャそんな細かいこと気にしてない。

 で、その実用上充分な性能のハズの針金ガイドが削れた。前述の大村氏の著書でも、本来硬質クロームメッキしたガイドは丈夫だけど、品質確保が難しくて経費けちったりするとろくでもないものになってしまう的なことも書かれていて、まあワシの愛竿はいうても安竿で、コスメチックも安くあげているのは致し方ないだろう。イヤなら高級ロッド様を買えという話。ただ、ガイドが徐々に削れてくる不具合は進行が遅く、すぐに不具合が生じ始めるようなものではない。加えて、ガイドの換装はそれほど難しい作業でもないので、削れ始めたのをこの冬の途中で気がついて、カマスシーズン終了したら換装せねばなと、既に交換するガイドは確保してあった。Fuji社製ではないものの、そこそこ名の通った「パシフィックベイ」のなら問題ないでしょう。ということで来期のシーズン間際に作業すると慌ただしくなるので、時間のあるうちに早速という感じで換装とあいなりました。ちなみに今根魚クランクで使用中のアグリースティック「GX2 USCA662MH」の、ステンフレームに直接ハードクロームメッキをかけたような「アグリータフガイド」は、1シーズンなんとか持っていて2期目に突入。意外に頑張ってくれている。まあこれも過去の経験から遅かれ早かれかなと、交換するガイドは確保済みである。

 では、作業に取りかかりましょう。ガイドの交換で唯一失敗する要素があるとしたら、トップガイドの取り外しで、接着剤の種類によっては外せなくてガイドの金属パイプをヤスリとかで切って外す必要も出てくる。ただ、通常は接着にエポキシが使われているので、そこそこの高温でエポキシ樹脂を温めてやると、ズルッと抜けてくれることが多いので、とりあえず補強に外側に巻かれているスレッドを剥がして、沸騰するお湯で煮てみた。ものの本によるとライターとかの直火であぶれって書いてあったりするけど、直火で炙ると、高温すぎるとガイドに突っ込んである穂先の繊維が焼けてぐずぐずになったりする危険性があるので、とりあえず最初は煮ることにしている。これで外れてくれれば楽。ただ、今回外れる気配がなかったので、結局慎重に直火で炙って抜いてなんとかした。

 抜けたら、とりあえずガイドの向きの基準にしたいので新しいトップガイドを早速接着してしまう。トップガイドのパイプの直径は狭くて入らないとどうしようもないので、ちょっと余裕を見たサイズのを用意しておいてスレッドを巻いて隙間を埋めてからエポキシ接着剤で固定する。

 ガイドの向きは、ブランクを巻いて焼くときに巻いた端は重なり厚くなるので、その方向は反発力が強く、いわゆる「スパイン」と呼ばれ、スパインを背中に持ってきてガイドの向きを決めるのが定石。だったんだけど、最近のブランクスは軽さ重視で薄いシートで巻くようになってるのでスパインがハッキリしないとかも聞く。その場合は無視しても良いだろうけど、換装なら元々着いていた方向にガイドを付けておけば安パイかと。昔のスパインがハッキリしたブランクで変な方向にガイド付けると、投げるときとかに竿が気色の悪い挙動をしたものだけど今時は気にしなくて良いのかもしれない。ちなみにグリグリとブランクを曲げつつ平面に押しつけて転がしてやると、明らかに反発力が強い方向があって、それがスパインの方向。

 で、トップがとりあえず付いたら、スネークガイドを全部取っ払って、新しいのを補修糸で巻き留めていく。外すのは、ガイドの上とかの金属部分をちょっと切って、巻かれているスレッドの端をつかまえて引っ張るとクルクルと剥がれてくれる。端をつかまえるのには魚の中骨抜き用のピンセットがちょうど良く便利。

 新品のガイドは足の先をヤスリで削って尖らせておくと、補修糸が滑らかに乗って段差ができにくい。ラッピングスレッドとしては「イカリ印の補修糸」を何度も書いているけどお薦めする。何が良いかというとナイロン「極細」表記にもかかわらず、昔のグデブロッドのラッピングスレッドを知ってる人ならウヘェってなるぐらいに太い。太い分丈夫なのでギューッとしっかり巻き留められるのと、太いので巻く時間が少なくて済むというのがあって、特に後者は手巻きしてるとありがたい利点。欠点は巻きが厚ぼったくなるのでその分の重量増加と見た目がスマートさに欠けることぐらいか。まあ逆に力強い見た目になるので良しと思ってる。

 ガイドを巻き留めていく「ガイドラッピング」の具体的な方法については、過去にサイトの方で紹介しているので、そこから引っ張っておきます。

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  古いガイドが外れたら、新しいガイドを瞬間接着剤かテープでロッドに仮止めして、スレッドで固定します。

 スレッドの巻きはじめはスレッドの端をテープで固定しておくとやりやすいです。

巻きはじめ

 スレッドの巻き終わりの処理は、細くて強いPE等をワッカにしておいて巻き終えるちょっと前の段階でスレッドで巻き込み、そのワッカに巻き終えたスレッドの端を通して、巻いたスレッドの下に通してほどけないようにします。

ワッカを巻き込むワッカに入れる引っ張り出す

 黒一色だと見にくいのでスレッド巻く作業だけ色変えて再度写真に納めました。

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という感じです。

 今回、コーティングに使ったのは、定番の2液反応型のエポキシ系ではなく、ウレタンコート剤。ウレタンも昔から竿補修コーナーには2液性のものが売られていたぐらいで、竿補修には使える素材だけど、今回使ったのはルアーのコーティングなどに使う1液性のウレタンコート剤の東邦産業「ウレタンフィニッシャーEX」で、こいつを長持ちさせる方法が分かったので今後はガイドラッピングにはウレタンコート剤を使う予定。エポキシは意外と消費期限が短く、やるなら竿を何本かまとめて作業したくなるけど、ウレタンコート剤は”使う分だけ小出しにして空気中の水蒸気と反応させないようにして冷凍庫保管”でほぼ消費期限気にしなくて良いぐらい長持ちさせることが可能で、ちょっと使って残りはまた今度、ってのも大丈夫と判明した。そうなると使い勝手が良く、ぶっちゃけ、コーティング剤は固まった後も適度に柔らかく割れにくい樹脂で、補修糸なりラッピングスレッドがほつれないように固めることができれば用は足りるわけで、ガイドを竿に固定しているのはあくまでも補修糸なりスレッドだということが理解できていれば、ガイドラッピングには何が何でもエポキシ樹脂ってこだわらなくても良いんだと思っている。まあ、メーカーとか今時はUV固化レジンだし、釣り場で急ぎ補修とかなら、ナイロンラインでぎっちり固定して瞬間接着剤で固めても釣りはできる。というわけで、コーティングはまあできれば見栄え良さぐらいは気にするけど、ぶっちゃけほつれなきゃそれでいいので、大事なのはガイドを糸で巻き留めるときにしっかりテンションかけて巻いてやることだと思っている。何度か書いたことの繰り返しだけど、そこのところがキモなので意識しておきましょう。

 でもって、その仕上げのコーティング。ロッド回しにセットして、樹脂が偏らないようにユックリグルグルさせながら、割り箸削ったヘラにウレタンコート剤を乗っけるようにしてペタペタと塗っていく。

 1液性ウレタンコート剤と、2液性エポキシコート剤の違いは若干あって、エポキシは実は重ね塗りが苦手で、重ね塗りする前にはサンドペーパーで塗る面をザラつかせておかないと上に乗せたエポキシを弾いてしまったりする。それもあってエポキシの場合はワシャ重ね塗りせず、基本は一発塗りで分厚く盛って仕上げていた。その点1液性ウレタンコート剤は重ね塗りは問題ないんだけど、エポキシに比べると固化時に”痩せる”割合が大きくて、エポキシは2液の科学反応で固まっていくので、盛った厚さに近い感じで固まってくれるけど、ウレタンの場合は空気中の水蒸気と反応して固まる理屈らしいけど、なんぼか有機溶剤が飛んで乾燥してもいるらしく、盛った分よりは薄い皮膜になる。ということで、今回は被膜が一回塗りでは薄い感じだったので二回塗りで仕上げた。まあ一回塗りでもほつれないだろうとは思うけど、なんとなく見栄えも気にしたりしてるのです。固まるのは半日も回しておけばOKで、そのあと吊すなりしてしっかり被膜が固化するまで触らないようにして1週間もおけば万全かと。まあ、ワシャ冬までこの状態で寝かしておくので問題ないだろう。良い感じに仕上がったと思う。

 竿は、ラインやハリに比べれば長持ちするものの、部品取っ替えればずっと使えるリールと違って消耗品の部類だと思っている。使っていれば最終的にはブランクスの繊維が切れてきて、だんだん反発力が無くなっていって最後には普通に使ってて突然折れる。カーボンのテニスラケットとかでもほぼ同じような折れ方をするので、カーボンやグラスのブランクスは基本そういうものなんだろうと思っている。ブランクスが寿命を迎えたらその竿の寿命と諦めざるを得ないけど、意外にガイドが先に折れたり削れたりというのはあって、その場合”コスメチック”を換装するお化粧直しの技術を持っていると、お気に入りの道具を長く使うことができるし、なんなら竿を使いやすいように”魔改造”することも可能なので、身につけておいて損はない技術だとお薦めしておきたい。

 春ですし、ラインシステムも通らないクソみたいな小口径ガイドのついたクソ竿も、お化粧直しでべっぴんさんにしてあげてみるのも一興ではないでしょうか?ぜひ挑戦してみてください。竿一本、ガイド位置やら決めて組み上げるのはそれなりに難しいけど、ガイドの交換ぐらいなら簡単なので、気軽に楽しみましょう。

2025年4月12日土曜日

コチの頭はワシに食わせろ

  一年近く前に恥辱にまみれた同じポイントで雪辱を果たした。恥を雪げたのはよかったけど、予想以上に獲物が大きくルアーがっぽり飲まれて流血沙汰。復活するかなとしばらく潮だまりに活かしておいたけど虫の息だったので、締めてお持ち帰り。こういうとき樹脂製の自転車カゴはサビを気にせずにすんで良い塩梅。まあ下のスポークやらに血潮混じりの海水かかってるけど、先日グリス塗り塗り整備したばかりなので大丈夫だろう。あと釣ったのは根魚クランクの道具立てでマジェンダFだったけど、ワシの道具たちはよく働くと感心する。特にマジェンダはシーバスに元々使ってたけど根魚に底物に大活躍してくれている。最新のわけ分からんルアー持ってきてもコイツにはまず勝てんだろうと思う。傑作です。

 さて、お持ち帰りにしたマゴチ、自己記録で66センチと大型、流しにギリギリの大きさで、そのままだとまな板に乗りきらないので、まずは頭を落として作業する。釣り場の魚を1匹減らしてまで持ち帰った魚であり、せっかくなので、食べられる部位は全部食べて楽しませてもらうことにする。頭が手のひらぐらいあってワニみたいな迫力がある。コチはヒラメのように5枚おろしにしていく方法もあるけど、個人的には普通に3枚におろしていけば良いように思っている。ただ、型が良いので冷蔵庫にしの字に曲げて一晩放置していたので、しの字に死後硬直しているのでストレッチしながらおろしていく。
 解体すると頭もでかいけど、胸びれ腹びれ周りの肉も美味しそうかつ量もある。加えて大型魚食魚なら内臓を食え!だとおもうけど、胃袋も肝臓もボリュームがあり、マゴチは大型に育つのは雌らしく発達しかけの卵巣もあったので、1食目は内臓を良く洗って湯がいたもののネギポン酢、と胸びれ腹びれ片方を潮汁にまわし、もう片方を塩ふって焼く。潮汁にする前に背骨やらのアラは熱湯かけてヌルを落としておき、頭は面倒なので一回兜焼き。兜焼きの時点で笑える見た目なので”睨みコチの頭”にしたけど、食べたのは下になってる鰭付き肉、鰭自体も根元は堅くて食えんかったけど先の方はパリパリしてて良い、そして、内臓は安定のネギポン酢、胃袋には消化された魚の骨と意外に小さいカニとエビが入ってた。肝臓も卵巣も胃袋も鮮度が良いと最高に旨い。ネギポンの他にも辛子醤油とかもあうと思う。そして潮汁は塩味で大根と背骨やら鰭周りにネギぶち込んで、骨からイイ出汁出まくりでゼラチンも出まくりで翌朝には煮こごってる。1食目は昼飯だったけど刺身にたどり着けなかった。でもこの時点で超旨い。
 そして、愛猫コバンさんも、久しぶりのカマス以外の魚肉に大喜びで、猫用に塩振らずに焼いた骨とかから手で身をむしって食べていただいたけど、カマスは「飽きたんだよ」って感じで残すようになってたのに、ガツガツ食ってて、わしの手に着いたゼラチン質やら脂やらのペタペタしてるのも熱心に舐めていた。
 コバンさん、ちょっとアホの子の傾向があって、デカい骨丸ごとあげると、丸ごとかみ砕こうとして、上手く食べられなくて苦戦したりする。猫なんだからザラザラの舌で骨周りの身を舐め削って食べれば良いのに、あまりそういう行動をとらない。オネーチャンのハイカグラは骨格標本かというぐらいに骨から綺麗に身を舐め取ってたけど、姉弟でも違うモノである。仕方ないのでワシが手で身をむしって提供させていただいてます。

 次の2食目の夕飯にやっと刺身に到達する。腹側の身は肋骨とか鰭とか外して柵にするのが面倒だけど、その肋や鰭周りの肉が軟らかくて美味しいようにも感じた。もちろん潮汁の背骨周りの肉も食べ応え、味共に文句なし。
 マゴチといえば代表的な、刺身が美味しい白身魚という感じだけど、その評価も妥当なうま味のある刺身。脂も潮汁にはうっすら浮かぶので多少は乗ってると思うけど、脂の乗った旨さというより、白身のうま味の美味しさという感じ。ヒラメの美味しさにも通ずるモノがあるかも。かたや横になって、かたや上から押しつぶされたように平べったくなってと形は違えど、砂底とかに棲んでる魚食魚というのは共通していて、そのあたりから筋肉の質とかに共通するモノがあるとかだろうか?なんにせよいずれ劣らぬ美味しい魚なのは確か。

 3食目の昼飯は豪華で、肋骨をハズした部位をめんつゆと酒でヅケておいて焼いたモノと、引き続き刺身、潮汁。
 マゴチの腹回りは意外と骨が多くて、肋もややこしい感じに入ってるけど、綺麗に外せなかったら、肋周りの肉ごと大まかにハズしてしまい、ハズした部位を加熱調理してしまうと、骨離れは加熱すれば良くなるので、骨外しながら食べられる。
 もちろん味も非常に良く、大量の刺身で飽きてくるぐらいなので、むしろしっかり味付けて焼いたのの方がオカズとして優秀なぐらいだった。まあ、煮ても焼いても旨いさね。
 でもって、ワシが刺身を食っているときには、愛猫も刺身を食っているわけで、中骨の部分とか、肋周りとか、背骨はさすがに噛み砕けないけど、小骨は難なくボキボキ音させてかみ砕いて食っていた。元野良のワイルドさが頼もしいぜ。ワシが美味しい魚食ってるときには、コバンにも美味しい魚を食べてて欲しい。一緒に美味しいモノを食べるというのは”共に生きる”ことを強く感じさせてくれる。美味しそうにアグアグ食べてるのを見てるとこちらも幸せな気分になる。

 4食目夕餉、皮は当初焼いてコバンさんに上げようかと思っていたんだけど、肉厚で旨そうだったのでワシが食うことにした。鱗がやや剥がれにくいので、多少残っててもカリッと焼いてしまえばサクサク食えるだろうと、グリルで強火でこんがり焼き目が付くまで焼いてみる。鱗ごと揚げて鱗の食感を楽しむ松笠揚げっていう料理法があるけど、そこまで鱗主役じゃないにしても、残ってしまった鱗も食ってしまう方針。そして、一旦兜焼きにしてあった頭は、潮汁に醤油足して野菜足してアラ汁にして解体しつつ食べる。皮は想定したとおり上手くいって、パリパリした感じに焦げ目の香ばしさと鱗のシャクシャク感も悪くなく、ちょっとやる旨さ。ネギポン酢で食べたけど、マヨ醤油に七味でパリパリ摘まんだりしたら酒のアテにちょっと堪えられんかもしれん。魚の皮の旨さは、最近皮目をバーナーで炙ったりするのが流行って知られるようになってきたと思うけど、捨てるなんてもってのほかの味わい。
 頭の方は、頬肉とか意外に肉量あるけど、基本平べったい口腔の骨が多くて、肉を食うというよりはむしろ骨に着いている皮や軟骨をしゃぶるためにあると言って良いかと。あと出汁は出まくると思う。
 せっかくなのでベロベロと舐め取って綺麗にして、エラの棘のところの骨と、下あごの骨は記念に取っておくことにした。乾燥させてどっかに飾ろう。戦利品であり、飯の記録でもある。

 5食目6食目の3日目は基本的に柵にしてあった刺身と潮汁にあれば骨際の身の漬け焼き。柵を切って潮汁温め直す程度で手間はないけど、同じのばかりだと飽きるので、醤油をいつもの”たまり醤油”から普通の醤油に変えたり、白身の魚だし、おろしネギポンも試してみた。普通の醤油は普通に旨いってだけだけど、おろしネギポンは割と”味変”できていい。潮汁は煮返しているとだんだん身がグズグズとくずれて白濁してきて、それはそれで旨い。

 最終日4日目、7食目8食目は初日に柵取りしてから酒とめんつゆで”ズケ”にしてあったのを、ユッケ風ズケ丼と、漬け茶漬けで締めた。ユッケ風漬け丼は最近ズケ作るときの鉄板になってきた。不味いわけがない。黄身だけ使うので白身は飲むのがお約束。茶漬けのほうは、最初普通に刺身みたいにつくって食べて、ご飯が減ってきたら、ズケ汁を適宜薄めて沸騰させたのちに、残った漬けの切り身を入れてからご飯にかける。ズケ汁にエキス分がしみ出してイイ出汁出てる。タンパク質が凝固して灰汁みたいに浮いてくるけど、それごといきます。うまいぞ。

 という感じで、4日間にわたって1人と1匹で楽しませてもらいましたとさ。
 まあ、殺される方の魚からすれば、雑に扱われようがなにしようが一緒かもしれんけど、釣って殺す側の立場からすると、最初の方で書いたように、釣り場の魚を1匹減らすという、結構ワシ的には大ごとをやっているので、やっちまったからにはめいっぱい楽しまねば損というか嘘だと思うので、あれこれ試して美味しくいただきましたとさ。
 「「ごちそうさま」と言っておけば何でも許されるのか?」という内澤洵子先生の疑問は鋭いと思う。だとしてもやっぱり「ごちそうさまでした」と言いつつワシは魚を食うしかないんだろうなと思う。他者の命を奪ってワシャ生きている。そういうことを直接的に自分で殺して食って知る機会って、猟師さんや食肉関連職の人でなければ、釣りぐらいしかないようにも思う。
 エラの方からナイフの刃を入れて締める時に感じる、命を奪う覚悟や残酷さ。そういうのも釣りの大事な一側面かなと思ったりしております。

2025年4月5日土曜日

コテコテのエンタメの底力

引用:島袋全優「腸よ鼻よ」1巻Kindle版
  ネタ切れの時のお約束、いつもサイトの方でひっそりとやってる「ナマジの読書日記」の出張版でございます。まあ読書と言ってもマンガとラノベで堅苦しい内容じゃないので暇つぶしにユルッとご笑覧あれ。

 一作品目は十巻で完結した島袋全優先生の「腸よ鼻よ」で、これ作者の実体験に基づいた「闘病ギャグエッセイマンガ」なんだけど、よくもこんなにも酷い病状を、こんなにも面白おかしいネタに昇華できるなと、心の底から感心するとともに腹から笑える。”あとがき”で「ギャグは盛っても病状はもらないという信念の基」に描いたと書かれているけど、”潰瘍性大腸炎”っていう大腸の酷い病気で最初のつかみの部分から大腸を失うことになるっていうのが予告されてる感じで「わーエラいこっちゃなー」って思うわけで、それがメインディッシュだと思うじゃん。でもそれが前菜だったわけよ。詳しくは読んでくれって話だけど、大腸なくなって小腸を肛門につなぐんだけど、上手くいかなくて穴開いたり癒着したり、治療してもしても、悪化して激痛、ひたすら入院・手術の繰り返し、人工肛門をお腹の横に開けたり閉じたり、あまりの激痛に痛み止めの医療用モルヒネも効かなくなってしまって、米国とかで濫用者が死にまくって悪名高いフェンタニル処方されて「フェンタニルって、合成麻薬として嗜まれてるだけじゃなくて医療利用もあるんだ!」って変な驚きかたしたぐらいだけど、術後の退院には”薬を抜く”のが一苦労とかもう、ここまで病気に苦しめられている人も世の中にはいるんだなと圧倒される病状。もちろんお薬で”せん妄”ネタもお約束。っていうしんどいって言葉ですまされないような状況でも、この人マンガ描きまくり。入院中にも画材やらネット機材やら持ち込んで描いてるし(当然医者に止められたりもしてる)、後半はデジタル作画になって解消してたけど、最初の頃紙に描いてて、尻が痛くて姿勢がままならないのでベットで描くのに、よくイラストレーターとかが使ってる下から光が来る台(トレス台)の代わりに、お医者さんがレントゲン写真を貼る縦置きの台(シャウカステンとかいう名前らしい)が欲しいとか、とにかくマンガ描くのが好きなんだろうなというのがアリアリと分かる。絵を描くことを禁じられて縛られた雪舟が、それでも描きたくて足で涙を絵の具にネズミの絵を描いた逸話を思い出させる。血と腸液でマンガを描いているといって過言ではない島袋先生は現代の雪舟と言って良いかも。最初マイナーな出版社のWEB連載で始まったようで、後にKADOKAWAから紙の本やらも出たけど、イマイチ作品のすさまじいまでの破壊力のわりには話題になってない気がするので、全力でお薦めしておきたい。もうね、ワシも持病ももってるし薬飲み飲みボチボチやってるけど、人はここまで苦しい難病でも、もちろん作品に出てこないつらさや悲しみもあるのはアホでも分かるけど、それでも情熱のおもむくままに突き進むことができるという事実。人間の力強さ、好きモノの突貫能力、もう励まされる力づけられる胸に火がともる。とにかく万人にお薦めする傑作です。全優先生、人工肛門と付き合いながら入院はもうしなくてすんでいるそうだけど、健康にはお気をつけて、これからもバリバリとマンガ描いて描いて描きまくってください。作中でも出てきたデビュー作「カエルのおっさん」も面白かったです。新作も楽しみにしてます。

 二作品目は、賀東招二先生の「フルメタル・パニック!」全十二巻と短編集十一冊を三度目の読み直し。一度目はアニメから入って原作ライトノベル紙の本で買ってて、最後の二巻が同時発売になったときに、渋谷の再開発でなくなった、交差点の角にあるちっちゃいけど趣味の良い、内澤洵子先生の著書とかお薦めされてた書店で平積みされてるのを発売日の仕事帰りにワクワクして買ったのを憶えている。その後、紙の本は古本屋に売ってしまったけど、外伝の「アナザー」を読み始めたらまた読みたくなって全巻電子版で買い直して再読、そして今回は賀東先生が久しぶりに書き始めた新シリーズというか続編「フルメタル・パニックFamily」を読み始めたらクソ面白いんだけど、本編の内容うろ覚えで気になるところがでてきたりして二度目の全巻再読。いやはやこれまた傑作でクソ面白かったし、ヤン君死んでなかったのも確認できてスッキリ。ここからネタバレ多めでゴリゴリ書くのでこれから読む人はご注意を。

 まあ、本編だけでも十二巻と長い物語なので読むの大変だったけど、それにもましてこの物語には難所が一カ所あって、主人公ソースケは悪の組織アマルガムと戦う傭兵集団ミスリル所属のロボット操縦兵なんだけど、ミスリルの基地や組織がアマルガムの総攻撃を受けて大打撃を受けて、主人公も仲間の仇を討ち、ヒロイン(メインの)を取り返すために雌伏の時を過ごす8巻のナムサク偏が、読んでて辛いの分かってるので読むのに覚悟がいる。まあ、ネタバレするとメインヒロインじゃないこの巻のヒロインであるナミちゃんが酷い死に方をするのである。ワシそのせいで、最終的にこの物語はメインヒロインを救い出して大団円に完結するんだけど、そこに文句はないハズなんだけど、ナミちゃんがあんなに酷い目にあったのに、最後メインヒロインのカナメと結ばれて幸せに暮らしましたとさって、ソースケも賀東先生も酷いじゃないか、って思ってたけど、読み直してみたら自分が当時はナミに感情移入しすぎてたせいでそう感じただけで、実際にはソースケも意外なぐらいにトラウマになってて、カナメを助け出すのに、ナミの死を正当化してまで的なことをグジグジ悩んでいるし、カナメがおかしくなって世界を改編して”幸せな世界”にしようとしてるのを阻止するってときに、ナミと成り行きで3人で過ごしたりもしたフランス諜報部のレモンに、ナミが生き返る可能性があることを伝えるべきか逡巡したりもしていて、心に抜けない棘のように刺さりまくっている。ナニをナマジは絵空事のラノベの美少女ごときに感情移入してるんだって話だけど、物語ってそういう架空の人物やらにガッチリ感情持ってかれるぐらいにのめり込んで楽しめなければつまんねえと思うし「絵空事は絵空事として現実とは分けて考えるべきで、現実ほどの価値はない」とか言い始めたら、過去現在未来ありとあらゆる、文学や映画、アニメに劇にという物語は絵空事であり、そこに価値がないということになる。バカ言うなって話である。NHKの名作アニメ「電脳コイル」では、主人公達は大人達がさももっともらしく「実際に手で触れられるようなものだけが真実なのよ」ってなことをほざくのに反して、電脳の仮想世界で、紛れもない絆を育み成長していく。絵空事のアニメだけどよく分かってると感心した。絵空事でナニが悪い。それを信じて、あまつさえ共有できることが我々ホモサピの欠点かもしれないけど大きな強みだったんだろ?っていう話。

 で、ちょっと書いたとおり、フルメタって作品はガッチリSF入ったロボモノで、”ソ連”のとち狂った科学者が娘を贄に、時空をねじ曲げ起こりえる事象を改変してしまうような装置を作ろうとして、オカルト版チェルノブイリみたいな精神汚染を伴う事故を起こしてしまい。事故当時に世界中にぶちまけられた精神波みたいなのを新生児のときにくらった子供達が、未来だか可能性の彼方だかから、異常に進んだ科学技術”ブラックテクノロジー”とかについて「ささやかれる」ことによって、いびつな科学進歩が生じた世界が舞台で、人型ロボット兵器とかがまさにそういった謎技術に基づいているっていう設定。で、敵側の一部が、ゆがんでしまった世界を元に戻そうと、あるいはもっと個人的に亡くなった愛する家族とかが生きていた世界を実現させようと、メインヒロインのカナメの力を使って、愛する人が死ななかった、酷い戦争とかが終息する”幸せな世界”に世界を改変しようとする。でもまあ、そんな都合の良い幸せな世界が良いわきゃない。ってのが分からんようなら貴方とは分かりあえん。敵側に行っとけ。そんな作りモノの幸せな世界がクソ食らえだっていうのは、各種ディストピア系の物語でさんざん描かれてきているって話で、パッと思いつくだけでも「ハーモニー」「新世界から」「ダーリン・イン・ザ・フランキス」といくらでもある。そういう”作られた幸せな世界”を痛烈に蹴飛ばして、というか巨神兵で焼き払ったのがマンガ版の「風の谷のナウシカ」である。人類が穏やかな種族として腐海が浄化された後によみがえり暮らすための技術を納めた墓所を、ナウシカは自分の罪におののきつつも焼き払い、そして吐いた台詞が格好いい「我々は血を吐きながら、繰り返し繰り返し、その朝を越えて飛ぶ鳥だ」。与えられた平穏幸せを全否定し、自らの手で幸せを得るために血を吐くような苦難を何度も何度も乗り越えていくという決意。痺れるぜ。「ナウシカを金ローで観るのは子供、マンガ版で読むのが大人(byガハラさん)」っていうのも納得の突き抜けたナウシカの強さに宮崎駿先生の非凡を見る。

 で、今作では色々あって、敵にとらわれたカナメも病気で早くに亡くなった母も生きている、核が使われるような戦争が阻止できた”世界”を作るつもりで、事故で死んだ科学者の娘の精神とごっちゃになりつつ、世界を改変するための設備も整って、そのやさしい世界をちょっと味わうんだけど、その時に、カナメは戦争が起きなかったのでホホに傷のないソースケが受け入れられなくてっていうのが引き金になって、世界の改変は綻び始める。ソースケはソ連とアフガンの間で行ったり来たりした少年兵として育ち、その後傭兵として戦ってきたからこそ、カナメを護衛する任務に就き、困難を共に切り抜けて強い関係性を築いていたわけで、そういう戦いが磨きをかけ研ぎ上げていないソースケをカナメは許容できなかった的な感じ。なんというかその気持ちよく分かる。ワシも人生でやり直したいような失敗は沢山やってきたけど、じゃあやり直せるならやり直すかと言えば、やり直したら、そういう失敗で痛い目に遭って鍛えられたりゆがんだりもしている今の自分が、別のモノに変質してしまうわけで、今の自分がいなくなってしまう。そんなのはイヤに決まっている。失敗やら後悔するようなことやらもやってしまうのが人間の人生で、それをやり直せるからといってやり直していたら、生きることの真剣みが決定的に削がれてしまう。ソースケの殺し殺されの厳しい半生は、殺した相手も多くいてその手も血に汚れているし、ソースケを戦うことしかできないようないびつな男にしてしまってもいる。かといって、そういう困難を経験していないソースケは、カナメにはもはやソースケではなかったのだろう。そういう”やり直しができないからいい”っていうのは「超可動ガールズ」で、勇者ベルノア(のフィギュアが命を得て動き出したもの)がみんなで暮らしてるマンション内にセーブポイントを見つけてしまって、過去の出来事をやり直してみたんだけど、ただむなしいだけで、もっと大きな事態の時に、例えば自分や仲間が死んだときに、セーブポイントからやり直しできてしまうという、むなしいのに誘惑にあらがえずやってしまうだろうことが分かりきってる事実の前で苦悩して、主人公と相談してセーブポイントぶち壊してた。美少女フィギュアたちが命を得て、オタク青年の部屋にやってきてキャッキャウフフな日常を描いたちょっとエッチなギャグマンガなのに、何というか「人生やり直しできねえ一発勝負だからから、気合いも入るし、真剣に面白いんだよ!」っていう大事なところは真ん中ズバンと射貫いてハズしていない。あなどれん作品なんである。

 で、もうチョイ突っ込むと、やり直しできない方が良いっていうのの典型は「人を生き返らせてはいけない」っていう、物語の世界でもタブーとされてる設定が多い事象である。ハガレンでは母親を蘇らそうとして失敗、エルリック兄弟は体やその一部を失った、死者を生き返らせることと等価交換できるような事象はないという重み。ジョジョ4部の、仗助のスタンド「クレイジーダイヤモンド」は壊れたモノを直すことができるけど、ただし、生命が終わったものはもう戻せない、っていうのが抜群に物語に深みを与えてるし、そうあるべきだと思わされる。これはもう、洋の東西問わず古くから、人は感覚的に直感的に”死んだ人生き返らせるのはダメ絶対”って考えてきたようで、日本のいざなぎの”よもつ平坂”の話も、ギリシャ神話のオルフェウスの冥府下りの話もそっくりなぐらいで(前述の「超可動ガールズ」で紹介されている)、人は死んだら帰ってこないっていうのが大事で、だからこそ生きているうちに、って話になるのだと思う。これまた”死んだらおしまい一発勝負”だからこそ実際の人生も面白いし価値があるんだと思う。物語世界で、このタブーを破って面白かったのって「ドラゴンボールで生き返らせればいい」っていうのぐらいしか思いつかず。それは鳥山明先生の天才のもつ軽やかさでしかなしえない希有な事例だろうと思っている。

 とはいえ、そういう”大事なこと”が書かれていても、面白くなければ意味ないわけで、っていうか純文学で重めの題材を扱ってても面白いものは夢中になってひきこまれるぐらいで、まず面白くなければワシャ読まんので箸にも棒にもかからん。小難しいだけで読む気にならんようなのはワシ的には価値がない。その点フルメタはクソ面白い、ナニが面白かいっていえばまずは台詞回しがイイ。話の筋としては後半は「とらわれのお姫様を救い出す」っていうありがちな構図なんだけど、その陳腐なぐらいの筋も台詞が良いから俄然面白くなってくる。主人公が自機の位置をごまかすのを兼ねてオープンチャンネルの無線を使ってあちこちに走らせたデコイ(身代わりの機械)からカナメがどっかで聞いてることを期待して長広舌をぶつんだけど、カナメも応えてやりとりしたソースケの台詞を美味しいところ抜きただしてみると「俺がいいたいのは、「君はもっとガッツのある女だと思っていた」ってことだ。」「まったく、どこのお姫様だ、君は?」「笑わせるな。俺が来たのは、おまえらを邪魔して、徹底的に困らせるためだ。」「俺の得意技は火付けと壊しだ。」「雑菌だらけのクソを塗りたくってやる。」ってな具合である。おおよそ”悪魔の城に姫を助けに来た騎士”の台詞じゃない。でも読んでて超気持ちいい。「雑菌だらけのクソを塗りたくってやる。」は機会があれば使いたい罵倒台詞の上位に来るね。

 あと、いろんな作品の影響を受けて、細かいオマージュやらなにやらがちりばめられているのも楽しめる要素で、そもそもタイトルは米国戦争映画「フルメタル・ジャケット」のパロディーだし、数え上げれば切りないけど、三回目にして始めて気がついたネタもあったりして映画「ブレードランナー」の最後の台詞の雨の中の涙のところがしれっと出てきて「オッこんなところにも」ってなって楽しめた。細かいといえば、銃器や武器の設定やら現実のものも良く調べて考証されていると思うけど、ロボットの操縦の仕方とか、架空の武器兵器に関する設定も細かく詰めてあって、本編には出てこないけど握ったスティック2本でどうやって武器を取り扱うかとかも具体的に考えてあって、そういう細部にまで丁寧に神経使ってるので、絵空事が抵抗なく受け入れられて楽しめるというのもあると思う。とにかく良くできたエンタメ作品とはこういうモノだというお手本のような作品である。一切手抜きしていない。

 で、とらわれのお姫様を救い出すっていう物語の主軸のほかにも、面白いテーマが扱われていて、今大注目を浴びるようになってきたAI(人工知能)との関係で、アーバレスト、レーバーテインと主人公機2代にわたって「アル」という名の変なAIが搭載されているんだけど、コイツが勝手にTVやラジオの放送やらネットやらで学習して賢くなっていくAIで、単なる戦闘支援用の、戦況や自機の損傷を分析する機械だったのが、だんだん冗談とかの概念も理解し始め使い始め、主人公を戸惑わせつつも、最終的に主人公と切っても切れない相棒になる。このあたりは賀東先生もろに「マイアミバイス」とかの洋物刑事コンビモノの書式を使った「コップクラフト」なんてのも書いてるぐらいで、あの時代の洋物刑事ドラマ大好きだったんだろうってのは想像に難くない。で、主人公とAIとくればもちろん「ナイトライダー」も大好きだったに違いない。ナイトライダーで刑事の相棒はパトカーに搭載されたAIである「ナイト2000」である。っていうソースケの相棒のAIアルは、2人3脚で敵側最強の機体ベリアルを打ち倒し、たのはいいけど決戦の場となった基地のある小島に核ミサイルが発射されて、ソースケとアルは取り残される。主人公機にはアルを媒体にして、搭乗する”人間”の精神力で物理現象に干渉する”ラムダドライバ”という装置が搭載されていたんだけど、大破してコックピットも操縦ができる状態になく核攻撃による死を待つだけ、という状況でアルは絶望にうちひしがれるソースケに「私は人間ですか、機械ですか?」と問い「自分で決めることだ」との答えを受けて<一人でやってみます>と、”人間の精神力”を持ってしてラムダドライバを起動させ、核攻撃から自らとソースケを守り切り「人間の証明」をやってのける。痛快至極。

 後で、米軍に拾われて拘束されていた沖縄基地から脱走するときにもソースケはアルを見捨てず共に逃げてきて、仲間にあずけられたアルは自分が乗る新しい機体があるのかを聞いて、組織も予算もなくなってそんなのないと言われてしまって、<では逃げ終わったら、車にでも積んでください。車種はトランザムを希望します>っていう、おまえも「ナイトライダー」好きなんかい!?っていうオチをつけてくれる。っていう最高のAIと、AIと人との関係性もサラッと書かれていたりするこの鋭さよ。

 

 感動できる文章は上等な文学にしかないとか、万年ノーベル文学賞候補のやっこさんみたいなこと言ってると、コッテコテのドクソエンタメの中に貫かれている、人間真理の大事なところを見落とすマヌケを犯す。こころしてすべての表現・作品に敬意を払って心のおもむくままに楽しまなければならないと思う。「腸よ鼻よ」はWEB掲載のマンガで「フルメタル・パニック」はライトノベルであり、エラそうな文学様に比べて劣るような印象をもたれるかもしれない。でも、そんなもん読む価値もないようなクソつまらんお文学様もあれば、逆に切れ味に唸らされるようなネットの賢者の一言半句もある。良い作品かどうかはカテゴリー分けなんかしたところで1ミリも分からない。いつも繰り返すように、実際に楽しんでみて自分の感性・心で評価するしかないのである。

 良い作品は読めば分かる。読まねば分からん。っていうことに尽きるので、またこれからも面白そうな作品は暇をみて楽しんでみたい。