2025年3月22日土曜日

旨いモノは旨い

 冬のカマスの時期になると、お客さんが来てみんなで飯を食うことが多い。魚釣れてなくて食材備蓄が少ないと、お気に入りの街中華で定食やらも旨いけど、食材があれば釣ったばかりのカマスお造りとかも含めワシの魚料理を振るまうことになる。

 アカカマスとかマアジもそうだけどオカズ魚の旨さって、刺身だろうが酢締めだろうが、干物だろうが煮ても揚げても何にしても旨いし、毎日のように食っても全く飽きないぐらい旨い。魚のなかでナニが一番旨いかという議論になって、旨いことは旨いだろうけど、滅多に食えないようなクロマグロだのアカムツ(ノドグロ)だのは、けっきょく”ご馳走魚”であって、ありがたい魚ではあるし高価でもあり不味いわけはないだろうけど、いくら食べても食べ飽きないとかの希少価値市場価値ぬきの単純明快な旨さの話でいえば、やっぱりアジだのサバだのが一番の候補に上がってきて、ワシもマアジは1票入れる候補にはなる。あと悩む魚は個人的な思い入れの強い魚たちであり一般的な感覚とはずれるかもしれない。ちなみにイサキとブダイである。わし子供の頃、誕生日のご馳走ナニが良い?と聞かれたら「イガミ(ブダイ)の煮付け」という要求をあげていた渋い魚食い少年だった。イサキの刺身の脂ののりすぎてない白身のわりに味の濃いあじわいは、夏休みに入って父方の親戚のところに遊びに行ったときに食べていたという思い出補正もかかって、ワシには特別な魚である。

ご飯、内臓ポン酢、スリ身汁
 で、飽きないオカズ魚のアカカマスとかは、生食、干物、酢締めあたりでカマス釣りに来たお客さんには好評いただけるわけだけど、それだけではつまらんので、毎年隠し球というか新料理をぶち込めるように日々料理の腕も磨いている。今期の新ネタはエソとカマスのスリ身汁で、これが我ながら旨い料理作りやがるってなもんで、エソのスリ身が最高級練り物原料と言われるのも納得の旨さなのは以前から、スカベンジャー(掃除屋)ナマジのおこぼれちょうだい作戦でヒラメ狙いの人とかが釣って不要となったモノをもらって食べて知っていたけど、新鮮な産地直送のエソのスリ身の弾力やまとまりやすさなどの”練り物性能”は過剰なほどで、エソスリ身単体だと弾力出過ぎて堅いぐらいなのである。で、それなら練り物にはなりにくいフワフワの身質のカマスと混ぜたらちょうど良いかもと、カマス鱗とって皮ごと三枚おろしをエソのスリ身と1:1とかエソ7:カマス3とかでフードプロセッサーでミンチにして”合い挽き”みたいにしてやると、ちょうど良いぐらいにプリフワな感触に仕上がって、味はもちろん文句ないわけで、スリ身汁の具としてちょっと唸るぐらいの素材なのである。まあアジの泳がせとかで食ってくる大型のエソってワニエソがほとんどなんだけど、最近はその”スリ身性能”に気がついた釣り人もだんだん増えてきているにせよ、それでも”ザ外道”扱いで捨てられていたりするのが、カマスと合い挽きのスリ身汁を味わってしまえば、全くもったいなくて超優秀な食材だと腑に落ちるのである。

 っていうスリ身汁作成の裏で、今回またこれが美味しかったのが、ワニエソの内臓のさっと塩ゆでにしてネギポン酢かけたもので、これは昔正治さんとジギング船に乗ってワシが釣ったユカタハタで教えてもらった食い方で、皮と胃袋や肝臓とかの内臓は、こうやって食べるとちょっとたまらン旨さなのである。当然鮮度が良くないと内臓など真っ先に自己消化が始まってしまうわけで、その日釣り場から直送のおっきなワニエソだったからできた料理であり、卵巣も大っきいのが入っててそれも一緒にして食べたけど、これはほとんどの釣り人も知らない味なのではないだろうか。内臓が美味しいというとサンマやイワシのようなプランクトン食性の魚のことが多いけど、大型魚食魚の内蔵はそれらとはちょっと違って、むしろ獣肉でいうホルモンみたいな旨さで、かつ鮮度が良いと臭みなどなくポン酢あたりのシンプルな味付けで、胃とか皮のプルクニャな食感や肝や卵巣のコクのある味も楽しめる最高の美味なのである。胃袋や皮は丁寧に洗ってヌルとか取って塩ゆでにして一口大に切ってポン酢、薬味はお好み、でバッチリ決まります。あんまり知られてないし、大型魚の内臓なんて捨てられがちだけど、これまた食ったら分かる系の旨い食材でございます。大型魚の内臓入った鮮度の良い状態のものが手に入るのは釣り人の特権かもしれないので、捨てているなら騙されたと思って食べてみてください。せっかく釣った魚、食べられる部分はすべて美味しく食べて楽しむぐらいでないともったいないです。でもオオクチイシナギの肝臓とかビタミンA過剰症とかの珍しい食中毒を起こすのでご注意を。逆にアカエイの肝臓は韓国とかではアカエイ刺身の”カオリ・フェ”では肝がなきゃ始まらんぐらいだそうで、いまどき貴重な安全な生レバーであり今度アカエイ釣れたら食べてみたいモノである。

 あと、この地に来て「あれっ、この魚こんなに旨かったっけ?」と思ったのが、セイゴフッコも含めたスズキで、東京湾産のも臭くない個体はそれなりに美味しくて、アッサリした淡泊な白身でいろんな料理で楽しめる魚という印象だったけど、ぶっちゃけ淡泊というより薄味の印象だった。ところが紀伊半島のこの地では、飲まれて大出血とかして持って帰って食べると、ちゃんと味が濃くて美味しい白身なんである。よく、ヒラスズキの方が普通のスズキより旨いと言われるけど、この地ではヒラスズキ(ヒラフッコ、ヒラセイゴ)とスズキの味にあんまり差がない。東京湾のスズキとこっちのヒラスズキを比べたら明らかにヒラスズキが旨いとおもう。味濃いもん。でもこっちのスズキとヒラスズキにはあんまり味に差がないとワシは思ってるけど、ワシの舌たいしたことないのでちょっと自信がないところもある。でもそう感じてる。釣れてくる状況や場所に差がなく、同じような餌を食ってるので、味も一緒になるのだろうか?釣りものがなくてセイゴ持ち帰って食ったりしてたときも、塩焼きとか妙に旨くて悪くなかったし、フッコあたりの刺身もアッサリした白身というより、磯魚の味のある白身っぽい味があると感じている。場所が変われば味も変わる、不思議なもんである。

 という感じで、日々魚を料理して、時にお客さんというか釣り仲間に振る舞っていると、一緒に飯食うことも楽しいけど、料理して振る舞うことの幸せ、うれしさというものがどうもあるように感じている。元同居人の母方の祖母である”カアちゃん”はいつも掘りごたつに座っていて、どこからともなくお菓子や漬け物が出てきて「おぢゃっこ飲んでいきんさい」とお茶入れてくれて、あれもこれもと我々にたらふくおやつを食べさせてくれようとしてくれたものだし、その娘である元同居人のお母さんにも、その振る舞いDNAというか文化というかは引き継がれていて、食事の席になどとても食い切れないほどのご馳走が並び、ごちそうさまの台詞は許されず「アレこもれも食べなさ~い」という感じで、山海の美味を腹が苦しくなるまで食べさせてもらい。この人達はなぜこんなにも優しく、人に良くしてくれるのだろう?と不思議に思うぐらいだった。鬼ぐるみの殻を砕いて殻のかけらを丹念に除いて実を集めて作るクルミ餡で食べる正月の餅のコク深い甘み!母上が「私天ぷら揚げるの上手!」と自画自賛しつつ揚げてくれる、東北独特のド太く味濃くブリブリのデカマアナゴの天ぷら、ウソッッポやらコゴミの山菜天ぷらも、ばっけと呼ばれるふきのとうで作るバッケミソも書いてるとよだれが出てくるようなご馳走だった。もちろんワシがそういうご馳走にありつけたのはもちろんお二人の優しい人柄によるところは大きかったんだろうと思う。でも、歳食って人様にご馳走する側に回ると、自分の作った料理を美味しいと食べてもらえる、喜んでもらえることのうれしさって、結構大きなモノなんだなと気がつかされる。人は人と仲良くして人に喜んでもらうことをすることに、どうも大きな喜びを感じるようにできているようだと感じる。カアちゃん達は、来る客に美味しいモノを食べさせて、”美味しいね”って共に喜ぶことをご自身も楽しんでいたんだろうなと、今になって思うところである。なるべく食べなきゃ失礼にあたると食べまくってたので、食わせがいのある良いお客だったのは、今にして思うとちょっとは孝行できていたのかなとインドの乞食じゃないけど思ったりもする。

 美味しいねって、他者と共感する。っていうことの根源的な幸せを思うと、マスゴミどもの流す、しょうもない周回遅れになってるようなグルメ情報も案外大事なのかもと思ったりもする。流通量が少なく値段が高くなってるだけのモノをありがたがったり、軽薄な流行を扇動したり、しょうもない情報であるとは思うけど、そうやって”他者が美味しいとしている食べ物”を並んでみんなと一緒のモノを食べてっていうのは、情報化の時代の、他者との食体験の共有の一つの形になってるのかもしれない。そう考えると、あいかわらずバカにはしてるんだけど、まあそれもアリなんだろうなと思えてくるところではある。

 同じ釜の飯を食った、っていうのは苦楽を共にした近しい間柄を表す常套句だけど、それが常套句になるぐらいには、食事を共にするというのは意味のある重要なことで、まあいろんな形で、みんなで一緒の飯を食うっていうのが、多様性の時代である現代では存在し得るんだろうなと、書いてて気づいたのでありました。

 ワシは一人で飯食っても美味しく食べられるけど、みんなで食べる飯の旨さも、またそれは格別に美味しく楽しく食べられて良いモノだなと思うところである。

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