アカカマスとかマアジもそうだけどオカズ魚の旨さって、刺身だろうが酢締めだろうが、干物だろうが煮ても揚げても何にしても旨いし、毎日のように食っても全く飽きないぐらい旨い。魚のなかでナニが一番旨いかという議論になって、旨いことは旨いだろうけど、滅多に食えないようなクロマグロだのアカムツ(ノドグロ)だのは、けっきょく”ご馳走魚”であって、ありがたい魚ではあるし高価でもあり不味いわけはないだろうけど、いくら食べても食べ飽きないとかの希少価値市場価値ぬきの単純明快な旨さの話でいえば、やっぱりアジだのサバだのが一番の候補に上がってきて、ワシもマアジは1票入れる候補にはなる。あと悩む魚は個人的な思い入れの強い魚たちであり一般的な感覚とはずれるかもしれない。ちなみにイサキとブダイである。わし子供の頃、誕生日のご馳走ナニが良い?と聞かれたら「イガミ(ブダイ)の煮付け」という要求をあげていた渋い魚食い少年だった。イサキの刺身の脂ののりすぎてない白身のわりに味の濃いあじわいは、夏休みに入って父方の親戚のところに遊びに行ったときに食べていたという思い出補正もかかって、ワシには特別な魚である。
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ご飯、内臓ポン酢、スリ身汁 |
あと、この地に来て「あれっ、この魚こんなに旨かったっけ?」と思ったのが、セイゴフッコも含めたスズキで、東京湾産のも臭くない個体はそれなりに美味しくて、アッサリした淡泊な白身でいろんな料理で楽しめる魚という印象だったけど、ぶっちゃけ淡泊というより薄味の印象だった。ところが紀伊半島のこの地では、飲まれて大出血とかして持って帰って食べると、ちゃんと味が濃くて美味しい白身なんである。よく、ヒラスズキの方が普通のスズキより旨いと言われるけど、この地ではヒラスズキ(ヒラフッコ、ヒラセイゴ)とスズキの味にあんまり差がない。東京湾のスズキとこっちのヒラスズキを比べたら明らかにヒラスズキが旨いとおもう。味濃いもん。でもこっちのスズキとヒラスズキにはあんまり味に差がないとワシは思ってるけど、ワシの舌たいしたことないのでちょっと自信がないところもある。でもそう感じてる。釣れてくる状況や場所に差がなく、同じような餌を食ってるので、味も一緒になるのだろうか?釣りものがなくてセイゴ持ち帰って食ったりしてたときも、塩焼きとか妙に旨くて悪くなかったし、フッコあたりの刺身もアッサリした白身というより、磯魚の味のある白身っぽい味があると感じている。場所が変われば味も変わる、不思議なもんである。
という感じで、日々魚を料理して、時にお客さんというか釣り仲間に振る舞っていると、一緒に飯食うことも楽しいけど、料理して振る舞うことの幸せ、うれしさというものがどうもあるように感じている。元同居人の母方の祖母である”カアちゃん”はいつも掘りごたつに座っていて、どこからともなくお菓子や漬け物が出てきて「おぢゃっこ飲んでいきんさい」とお茶入れてくれて、あれもこれもと我々にたらふくおやつを食べさせてくれようとしてくれたものだし、その娘である元同居人のお母さんにも、その振る舞いDNAというか文化というかは引き継がれていて、食事の席になどとても食い切れないほどのご馳走が並び、ごちそうさまの台詞は許されず「アレこもれも食べなさ~い」という感じで、山海の美味を腹が苦しくなるまで食べさせてもらい。この人達はなぜこんなにも優しく、人に良くしてくれるのだろう?と不思議に思うぐらいだった。鬼ぐるみの殻を砕いて殻のかけらを丹念に除いて実を集めて作るクルミ餡で食べる正月の餅のコク深い甘み!母上が「私天ぷら揚げるの上手!」と自画自賛しつつ揚げてくれる、東北独特のド太く味濃くブリブリのデカマアナゴの天ぷら、ウソッッポやらコゴミの山菜天ぷらも、ばっけと呼ばれるふきのとうで作るバッケミソも書いてるとよだれが出てくるようなご馳走だった。もちろんワシがそういうご馳走にありつけたのはもちろんお二人の優しい人柄によるところは大きかったんだろうと思う。でも、歳食って人様にご馳走する側に回ると、自分の作った料理を美味しいと食べてもらえる、喜んでもらえることのうれしさって、結構大きなモノなんだなと気がつかされる。人は人と仲良くして人に喜んでもらうことをすることに、どうも大きな喜びを感じるようにできているようだと感じる。カアちゃん達は、来る客に美味しいモノを食べさせて、”美味しいね”って共に喜ぶことをご自身も楽しんでいたんだろうなと、今になって思うところである。なるべく食べなきゃ失礼にあたると食べまくってたので、食わせがいのある良いお客だったのは、今にして思うとちょっとは孝行できていたのかなとインドの乞食じゃないけど思ったりもする。美味しいねって、他者と共感する。っていうことの根源的な幸せを思うと、マスゴミどもの流す、しょうもない周回遅れになってるようなグルメ情報も案外大事なのかもと思ったりもする。流通量が少なく値段が高くなってるだけのモノをありがたがったり、軽薄な流行を扇動したり、しょうもない情報であるとは思うけど、そうやって”他者が美味しいとしている食べ物”を並んでみんなと一緒のモノを食べてっていうのは、情報化の時代の、他者との食体験の共有の一つの形になってるのかもしれない。そう考えると、あいかわらずバカにはしてるんだけど、まあそれもアリなんだろうなと思えてくるところではある。
同じ釜の飯を食った、っていうのは苦楽を共にした近しい間柄を表す常套句だけど、それが常套句になるぐらいには、食事を共にするというのは意味のある重要なことで、まあいろんな形で、みんなで一緒の飯を食うっていうのが、多様性の時代である現代では存在し得るんだろうなと、書いてて気づいたのでありました。
ワシは一人で飯食っても美味しく食べられるけど、みんなで食べる飯の旨さも、またそれは格別に美味しく楽しく食べられて良いモノだなと思うところである。
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