2018年6月30日土曜日
地元の川の魚の味はアンタの責任
近所のアユは正直ちょっとドブ臭い。というか独特の「近所ポイント臭」がする。まあワシ、川魚にちょっと苔臭いような皮が付いていないと寂しく感じるぐらいのバカ舌で、磯魚の磯臭さが苦手とか、魚に限らず羊肉は特有の匂いが云々とかおっしゃる繊細な味覚をお持ちのグルメ様とかみていると「むしろそれがその食材の美味しさの大事なところだろ?」といつも疑問に思っているぐらいだけど、その私のバカ舌でもちょっと臭いなと感じる程度には臭いので、普通の味覚を持つ人が食べたら果たして美味しいのかどうかちょっと不安である。
でも私からしてみれば大したことなくて、シーバス釣ってるときに嗅ぎ慣れた匂いなのでプルースト効果的に思い出す情景とかもあったりして悪かない気がしている。衣つけて天ぷらならそんなに気にならないし、塩焼きなら焦げ目の香ばしさとアユ本来の「スイカ臭」の方が強調されるのでこれまた美味しくいただけてしまい「この程度ならなにやったって食えるな」と油断して、濃い味で炊いたところ「スイカ臭」が消えて「近所ポイント臭」だけが強調されてしまい、ちょっと完食には意志の力が必要だった。煮魚作った日には翌日冷蔵庫で煮こごらせた煮汁をご飯にかけたりするのが定番だが煮汁捨てた。
このドブ臭さ、「ゲオスミン臭」とか呼ばれるそうで、雨が降った後の土の匂いの成分からその名が来ているらしく、少しくらいなら苔臭さとか他のエサ由来の匂いとあわせて「川魚の匂い」のはずで好ましいモノなのかもしれないけれど、これがヒドい個体は、腹の脂とかだけじゃなく筋肉にもその匂いががっちり浸透していてどうにも料理のしようがないと思っていた。はじめて強くその匂いというか味を認識したのは、東京で就職して、初めて霞ヶ浦水系でバス釣りしたときのことで、学生時代は手軽で肉量も多い蛋白源として美味しくいただくことも多かったブラックバスが、故郷じゃ皮まで美味しく食べられたのに身まで苔臭いというかカビ臭いというかどうにもならない臭さで、産地が違えば同じ魚種でもこうまで違うのかと驚いたものである。牛乳につけようがカレー粉振ろうが完食には若き日の強靱な精神力を要したと記しておく。要するに昔の東京の水道のカビ臭さの濃い魚肉といえばわかりやすいかも。今首都圏でも水道水はそのまま飲めるぐらい美味しいけど昔はカビ臭かった。
ゲオスミン臭の原因である「ゲオスミン」や「2-メチルイソボルネオール」は富栄養化したような水域の藍藻類とかが生産するらしく、それらを食べたり食べた生物をまた食べたりで蓄積されていくとのこと。未利用資源を積極的に利用しようと挑戦し続けているとある御仁が、フランス料理の「クネル」という自家製はんぺんのような料理で、都市河川産の「ハズレ」の鯉を美味しく食べているのを読んでちょっと感動した。「クネル」ってたしか開高先生もパイクの料理法として「クネル・ド・ブロシェ(パイクのクネル)」を紹介していたと思うけど、要するに小骨の多い魚とかでも、フードプロセッサー使うなりチタタプするなりしてミンチにして、ふわふわ柔かくてヒンナな練り製品に仕上げてしまうという「おフランス料理」で、下処理で切り分けた段階やあるいはミンチの段階で練り物製造でいうところの「水さらし」でなんならアルコールの力も借りて臭みやら余分な消化酵素やらを洗い流してしまえばドブ臭い魚肉から美味しいタンパク質が取り出せて、小骨も気にならなくなるという、昔の人の工夫に感心しつつ感謝を捧げたくなる料理法なのである。「クネル」を知ってしまえば泥臭い魚などおそれるに足りず。さあ釣り人みんなでクネってしまおうではないか。
とまあドブ臭さなにするモノぞというところなのだが、川魚を指して「あんなドブ臭いモノが食えるか」とバカにする釣り人は多い。かくいう私もウグイとか、すくったタモに付く生臭さからして半端なくて、長野じゃ梁作ったり人工の産卵場作って呼び込んで捕獲する漁法があったりするけど、海なし県の長野じゃ仕方ないけど、他に食う魚あれば食わんよな、と思っていたことを、先日の小遠征でアユと一緒に釣ったウグイを食べて深く反省させられて、長野県民の皆様の味覚の確かなことと地元の川を美しく保っておられることに敬意を表したところである。
ドブ臭いという印象の強いウグイでさえ、綺麗な川で釣ったら臭みなんて全然気にならない上等の獲物なのである。
「川魚はドブ臭くて」とかしたり顔でエラそうなことほざいている人間は私と同様反省すべきである。それは「自分の地元の川は川魚が美味しく食べられないぐらいに汚れてるんです」という恥ずかしい事実の告白でしかない。エラそうにいうこっちゃない。
「この川も汚れてしまってドブ臭い魚しか釣れなくなった、昔は綺麗だった」って他人事のような口の利き方を釣り人ならするべきではない。オマエは指をくわえてその汚されていく様を見てただけじゃないだろうな!
我が近所ポイントの川は高度経済成長期には全国でも指折りの汚さの「死の川」となっていたらしい。
でも、いまはアユが遡上してくる。コイやマルタ、スズキはまだ食べる気にはならない程度にはドブ臭い川だけど、どこで釣ってもドブ臭くならない奇跡の天ダネであるマハゼはたくさん釣れて楽しいし、テナガエビもそろそろ産卵期で上がってきているだろう。
一年通じて遊べる良い川になってきていると思う。それは「死の川」になって、他の地域でも公害とか人死にが出るようになってはじめて「コレはやばい」とみんなが気がついて汚染物質やら排水の基準値を定め守らせ、下水道を普及させという永い年月をかけてやっと取り戻してきたところなんである。
私の現在の地元である近所の川で自慢できることは、どこに行っても「昔は綺麗だった」というボヤきしか聞こえてこないのに、いまだドブだとしても「昔よりだいぶ綺麗になってきたんですよ、アユも釣れるんです」と胸を張って言えることである。
釣り人増えるのは短期的には自分の分け前が減るだけで何の利益もない。でも長期的に見ていけば、川を見ている人が増えれば、川を好きな人が増えれば川を守っていく力になるんじゃないかと思うので、釣果情報とかも隠しとけば良いようなものだけど公開している。川で魚釣らない人間にとっては、川がコンクリで3面護岸になろうが汚染されて魚が住めなくなろうが興味のない話である。
釣り人は川に悪さをする輩を許してはいけない、川を土木屋がいじくろうとしているなら、納得いく説明が得られるまで問いただして無駄な事業など止めようとするべきだし、川を綺麗にする環境政策を推し進めるよう声を上げるべきだと思う。
それは、個々人得意な方法で、できる限り力一杯やるべきで、やらない言い訳は私が認めない。
私は、多数決が嫌いで選挙に行かないので、良い代表を選んで施策に反映させていくとかそういうのは他の人に任せて、水辺で見てきたことを情報発信し、みんなが水辺の環境を守ろうとする力の一助になろうと思う。とともに個人でできることはもちろんやっていきたい。
コレまでも近所ポイントで、工事で岬削りやがってクソ野郎とか、土手の草木切ってなにが流量確保じゃ大タワケとか書いてきたわけだけど、最近はやっぱり真っ直ぐな流れじゃ生物の多様性とか考えるとよろしくないのかもと土建屋さんも考えてくれているのか、私が「ネット蛇篭」と呼んでいる、丈夫な化繊の大きなネットに石を積み込んで護岸のそばに積み上げたのとか、見た目パッとしないけど、シーバスとかついてることも多くて、カニとかエビとかも棲んでるだろうしなかなかに良い塩梅だと感じるので、天然石積護岸なんてのが一番良いんだろうけど、見た目除けば結構良いので、石詰めてクレーンで積んでけば良いだけで簡単に河川内に流れの変化や生物が潜める隙間ができるので、予算が余ったらどんどん積んでいって欲しい。と改めて書いておく。どうせ金使って税金をバラまくといって語弊があるなら再配分するのが目的に成り下がってる公共事業なら、もう21世紀なんだし生態系だの生物多様性だのを守るための事業に金使ってもバチ当たらんし誰も困らないだろう。金さえ土建屋に回りゃ良いんだろ?そこにまで文句言うほどオレも潔癖じゃネエし見逃してやるからやってくれよ。
「ネット蛇篭」は根掛かりしやすいからヤダって?だから下手クソが釣りにならん一見さんお断り的釣り場になっていいんじゃないのよ。オレ、普段からほとんど水面と水面直下の釣りしかしないから何の問題もなく狙えるもんネ。
で、だんだん良くなってきている近所ポイントの川だけど、アユも上がってくるようになったし、そろそろもう一段階上を目指しても良いんじゃないかという気がしてきている。
いま私が近所ポイントで釣っている主な魚種は、スズキ(フッコ、セイゴ)、マルタ、コイ、マハゼ、アユ、オイカワ、ボラほかぐらいである。この中で淡水で一生を過ごすのはコイとオイカワで、コイについては繁殖行動は見かけるけど稚魚を見ていないので繁殖上手くいってないように思う。おそらく一昔前に放流されたコイが長命なのでずっといるんじゃないだろうか?オイカワはホソボソとだけど繁殖している様子。マルタはお隣のテナガ釣りに行く川には産卵群が釣りの人気対象になってるぐらい見受けられるけど近所の川には産卵群が目に付かないしめざとい首都圏の釣り師も人山になっていない。小型のも釣れてくるので産卵してないこともなさそうだけど普段は汽水域や海にいるようなので謎である。あとの魚種は全部海から上がってくる。
死の川になって、誰も川の魚なんかに興味持たなくなって護岸してしまっていて、産卵に適した場所が少ないからというのと、産卵しても沢山居るコイが食っちゃうからというので、現状では水質的には魚がすめる状態に戻っても、川の中で産卵して増えているのは少なくて、遡上勢が空いている生態的地位を使って沢山いるという構造になっているのかなと感じている。
という状況から考えて、淡水で産卵する魚の比率を上げてもっといろんな魚がいて釣って楽しめるようにというのを、そろそろ考えた方が良いんじゃなかろうかと考えている。都市部の川だし限界もあるからアユ上がってきてるぐらいならもう良いんじゃないの?という意見もあるかもだけど、私の好みとしてはやっぱりもう少し都会のドブ臭い川であっても川の中で一生を終える魚が多い方が健全で好ましいと思うというか、そうなるとタダの「水を流す溝」に水質が魚が棲める程度に保たれるようになったので、どっかから魚がやってきて一時的に棲んでいるという状態から、魚が産卵し増殖することができる「自然環境」という明らかに段階の違うものに川がなっていくと思うからである。
そのために、ナニが必要かと考えると、さっき書いたこと含めて三点あって、一つには産卵できる場所の確保がまず大事で、次に多すぎるコイの扱いを考えることと、もう一つはさらなる水質の改善だろうかなと思っている。
産卵できる場所の確保っていったって、街中流れる川の両岸をずっと水生植物繁るような環境にってのは難しいと思うけど、所々ネット蛇篭つんでそれに植物が生えるだけでも違うだろうし、オイカワやらマルタやらは川底さらって綺麗な砂礫底にしてやれば喜んで産卵するらしいので、なんか地域の中学校の生物部とかそのあたりと連携して、楽しんで増殖してやることはできるんじゃないだろうか?ボランティアで自然観察会を主催しているグループとかもあるようなので具体的な方法が思いつけば話持ってってみようかしら?いずれにせよ川全部が「故郷の川」のようにならなくても、例えば支流の一部や遊水池を利用して繁殖用の場所にしてしまうとか、やりようによっては魚が棲む場所は川の全流域だけど繁殖はいくつかの場所で行っているっていうのでも、それなりにというか普通天然自然でもそんなもんでしょという気がするのでやってできないことはないと思う。漁業権あるなら漁協に「そういうのやってよ!」と要望して地元の川ならなんなら組合員になってやりゃ良いけど、漁協もないような川ではどうやって行政や地域と連携していくかというのが難しいところだろうか?まあオイカワの産卵床ぐらいは流路変更もないから許可も要らんだろうしシャベル一本で何とかなる規模なので釣りに行ったついでに試してみても良い。オイカワポイントで産卵時期のうちに試してみるか。
で、産卵できる場所ができても、卵食いとして悪名高いコイがいると多分けっこう食われてしまう。コイ自体、生むところが少ないので岸に引っかかったゴミに産卵行動しているけど、果たしてそれが孵化しているのか全部食われているのか。実態は分からないけど、稚魚はともかく見かけない。食い切られているんじゃないかと思う。産卵できる場所が限られているので食い切られるわけで、産卵場所が多くなれば生き残る可能性が多くなるはずというのはあるけど、それにしてもどこに行ってもこの川にはコイが多く、背中が出るような3面護岸の場所にさえ平気でかなりの数が泳いでいる。次の水質のところで具体的事例を書くけど、コイを放したのにはそれなりの必要性があったはずで、それは魚も泳いでないような川では寂しいという気持ち的な面から、富栄養化した河川において、有機物やそれを食って育った水生昆虫などを食べてその発生量を抑制し、河川の過剰な有機物を一時的に貯めておく「有機物のダム」として機能させるために放流されていたという面もあったのだろう。そろそろお役御免だとしても、じゃあ都合悪くなったので「駆除」しましょう。というのはあんまりだと思う。正直多すぎると思っているし小物釣りしてるときは仕掛け切られて邪魔だと思っているけど、シーバス釣れないときにその重量感ある引きを楽しんでずいぶん気が晴れたこともあるし、なんにも釣るものなくてもコイは釣れるという保険としてもありがたい存在だし、ましてやコイ本命で同じ釣り場に情熱を持って狙いにきている釣り人もいるのに、その獲物を「駆除」とか自分勝手なことを言うべきではないと思う。そんなの鯉釣り師からしたらコイが多いなんて良い川じゃないかというだけの話である。
でもそんな鯉釣り師さん達でも、橋の下でパンもらおうと待ってるコイがいっぱいいるというのは何か違うよネと思うはずである。「駆除」まではしないけど、今後は一回放流したら平均で20歳ぐらいまで生きるとかいう長寿を誇る魚を沢山放流するのは止めにしましょう、ぐらいの程度なら何とか鯉釣り師にも納得してもらえるだろうか?そのかわり、コイも含めて水際の植物に産卵する魚の産卵場所をつくるので、コイも繁殖するし他の魚も繁殖してコイはパン撒きゃ寄ってくるような養殖ゴイじゃなくて、この川生まれで生き残って野生化したのが将来的には釣れますよ。と言えば賛同してくれるのではないだろうか。
釣った魚を食べるのでもないのに「駆除」とか、野生生物とか自然環境とかがどうなっても良いエアコン効いた部屋で快適に生きてる都会派がお気楽に言うならともかく、常に自分の釣った獲物の命をどう扱うか考えていなければ嘘なはずの釣り人が、都合が悪いから「駆除」とかやって良いとは思えない。「積極的に食べて数を減らしましょう」とかなら分かる。でも、命あるものをゴミとして捨てるってオレには受け入れがたいんだけど。
なので、コイについては10年前に放流されたモノだとしても、平均でまだ10年は川にいるわけで、すぐには解決しないンだと思う。ただ、産卵場を増やしたり水質を改善したりというのも10年かかるような話だと思うので、10年経って今沢山いるコイが寿命で徐々に抜けていくのと入れ替わりで、この川で生まれ育った、コイも含めた淡水魚が増えていけばちょうど良いのではないだろうか。川が綺麗になっていけば、釣ったコイをクネルにする技術がなくても食べられるようになって、コイ問題は新たに放流しなければ、川を良くしていく課程で自然に時間が解決してくれそうに思う。遺伝的に日本産由来じゃないとかは一回死んだ川でいまさらどうでも良いことだと思っている。コイぐらいしか生きていられなかった汚れた時代にお役目はたしてくれていたんである。綺麗になってきても生存の権利ぐらい与えてやれよと思う。
で、一番難しそうなのが水質の改善。今現在、首都圏でも下水道普及率は100%に近いはずで、よく目にする主張が「下水道があるので洗濯に合成洗剤使おうが天然素材由来の石けん使おうが自然環境に排出される時は基準値以下になっているので関係ない」というものだが、2つの点でバーカバーカ!おまえの言ってるのは机上の空論!!となじっておきたい。
一つは基準値以下でも当然低けりゃ低い方が良いので、流入する下水に含まれる「処理」しなければならない物質など少なければ少ない方が良いに決まっているという単純な話。試しにググって東京都の「水再生センター放流水の平均水質(H25実績)」というのを見てみると、有機物の量の指標として代表的なBOD(生物学的酸素要求量)が流入水152、放流水7、放流水基準25となっていて有機物に関してみればずいぶんと基準より小さくしてから放流している。にもかかわらずそれでも首都圏という大規模な人間活動の行われている地域を抱える東京湾では赤潮、青潮なんていう富栄養化が原因になっているような事例が散見され、近所の川のアユはまだちょっとドブ臭い。
当たり前だけど個人個人が下水に流す有機物量や化学物質の量などを減らせれば、出口である下水処理場から放流される水質に影響しうるのである。
基準やルールは何のために作ったのか?川を海を汚さないように最低限ここまで処理してから放流しようという基準だったはずで、その基準が絶対ではない。本来の水を汚さないようにという目的から考えれば、基準よりもより低くしたほうがさらに良いということなど、パソコンの前にいたとしても、ちょっとググって考えれば分かる程度の簡単なことである。逆に今の基準でもまだ川や海が汚れていると感じるなら基準を見直しても良いかもしれない。
釣り仲間の先輩が、「シャツの襟がちょっとぐらい汚れてるのと、川と海が汚れてるのとどっちが嫌かっていったら、考えるまでもなく川と海が汚れていることだよね。だから我が家では洗濯には合成洗剤じゃなくて洗濯石けん使ってるよ」というのを聞いてから、20年以上合成洗剤は使っていない。ワシが小汚いオッサンである分、家の近所の川は綺麗になっていくのである。今時の合成洗剤はだいぶ環境にも優しくなってるのかも知れないけど、基本的に大手企業が短期の実験で出した自前データなど信じられないので洗濯石けんで汚れ落ちに不満があるでなし考えるまでもなくそうしている。
21世紀は下手すると水を奪い合う世紀になりかねないような話も目にする。水をなるべく汚さないなんていうのは生きていくための基礎的な大事なことだと思う。
もいっちょ、下水道があってもダメな理由は、首都圏始め日本の多くの下水道は雨水の排水と生活排水とが一緒になっている方式で、実は大雨とかで処理しきれなくなると「垂れ流し」をやっている、という構造的な不備があるのである。
正直言って、このネタを書くかどうかは迷ってたところで、これまではあえて書かないでいた。これからちょっと衝撃的な事実を書くけど、その事実だけ書くと「役所の欺瞞」「構造的な欠陥を許した愚かさ」「隠蔽体質」とかを糾弾するような内容と取りかねられず、実際にはさっき出した数値に現れているように、なるべく下水を綺麗にして川に放流したいと努力しているであろう下水道事業関係者の方々に忖度していたのである。
でもまあ、事実を知ってもらうというのは大事だと思うし、そのことだけをあげつらうのではなく、背景を説明した上で今後どうしていくべきか考える材料として上手に提供するのならありかなと思って丁寧に書いてみる。
まず私が実際に目にした単純な事実としては、「近所の川に処理水を放流している下水処理場は、大雨が降ると「夜」に泥濁りの「処理済み」とは到底思えない水を放出する。」
ということである。
「基準値を超える水を排水するなんて違反じゃないか?それを隠蔽するなんてけしからん!」と最初見たとき思った。でも、ちょっと調べれば分かるけど雨水と下水が一本で集められて処理されているので、増水時には処理が間に合わず溢れさせているというのは周知の事実のようで、そういえば、そういうのが由来の油脂ボールが雨後の東京湾には浮かぶとか聞いたような気がする。じゃあ、そもそもなんで別々にしなかったんだといえば、ぶっちゃけ金が掛かるし、とにかく垂れ流しで川に洗剤の泡が浮いているような事態を早急に解決する必要があるとすれば、既存の雨水を流す溝を利用して下水道整備を進めるのが金も時間もかからなかったんだろうというのは想像に難くない。それを今になって別々にしておけば良かったとか評論家みたいなことをいっても仕方がない。今も流れている川なんだしコレからどうするかという話なんである。「今、下水道があるからもうコレで良い」という状況じゃないし「誰かが酷い不正を働いてるから改めなければならない」というのでもない。
だいぶ良くなってとりあえず「死の川」からは脱出したけど、問題はまだまだあるし、もっと良くできる要素はあるんだよというのが、今の近所の川の状況だと思っている。その状況を知った上で次どうしていきましょうか?と相談して進んでいきたいと思っているのである。
私はまずは、雨で増水したときに昼日中から濁流を放流するところから始めりゃ良いと思うのである。見たらちょっとビックリすると思う。何しろ茶濁りした濁流には「コレはシーバス寄るんと違うか?」とスケベ根性で投げたラインに、おそらく便所紙の繊維だと思われる繊維がダマになって結び目に付いてきて、しばらくするとどこにこんなに居たんだと、コイの多い川だという認識はあったけど、それにしても驚くほどのコイが集まってきて、水面に浮いているゴミ的な有機物をパクパクと頬ばっていく。この川においてコイの役割なんてもう終わったと思ってたけど「有機物のダム」として目の前で確かに機能していて、替わりの魚たちが増えるまでは居てもらわねば困るな、と認識を新たにしたぐらいである。
雨の日とはいえ、白昼堂々そんなことをしたら、まず「川に汚れを垂れ流してけしからん!」と憤ってお気楽に電話掛けてくる善意の社会正義の味方様がいるだろう。評論家は楽で良いよね口だけで、という感じである。それでも苦情が来たら対応間違えると大事になったりして嫌な監視社会だよネ。別に悪事働いてるわけじゃないけど夜にコソッとやりたくもなるというモノである。
でも、下水道事業者は懇切丁寧に、基準値より低く処理するために日頃から努力しているけど、増水時には処理できる量を超えるので危険回避のために未処理のまま放流せざるを得ずそれは慣例的にも認められ、実態上洪水等を避けるためそれ以外に方法がないという正直なお話を説明するべきだと思う。
そういう実態が広く知らしめられたうえで、じゃあこのままで良いのか、何らかの対策を講じるべきか相談して考えていくのだと思う。
判断としては首都圏のような人口密集地では限界があって、現状で妥協すべきではというのも意見としてはあると思う。でも、未処理の濁流垂れ流しとかインパクトのある絵面を目にしたら「もうちょっとなんとかならんのか?」と考えて普通だと思う。そういう状況が闇夜にコソッと隠れて生じているのである。街じゃ雨水はすぐに下水道に流れ込むので、シーバス釣りに行くぐらいのそんなたいした増水じゃない雨でも溢るみたいです。
まともに考えれば、いまさら膨大な費用と時間を掛けて雨水別ルートとかは難しいだろうと思う。それとも公共事業になるだろうから「お上」が作ると言ってしまえば作れるんだろうか。
現実的には、処理能力向上させて危険回避で垂れ流す分も含めて、年間トータルで排出する有機物やらの量の基準を再設定するとかして、必要なら人口の都市部集中などにも対応して下水処理場を増やしたり、効率的な処理技術の開発やらしていくというのがまともな方法のように思う。
そういう基準を考えるときに、例えば河川の魚が一気に放出された未処理水の有機物を一時的に蓄える能力の評価とか、河口域の干潟が生態系全体としてどのくらい処理能力があるのかとかを評価して、処理場の増強に加えて川や海に生き物が居ることが「処理場」に換算するならどのくらいの価値があり代替できるのかとか、今でもその手の報告はあるんだけど、単なる研究報告じゃなくて、実際の街を環境を考えていく上で評価していけたら、多くの人に川が流れてそこに魚とかが居ることの価値を知らしめることができるのではないだろうか。ついでにみんなが水を汚さないように気をつけてくれればなお嬉しい。
家の近所で釣ったアユはちょっとドブ臭い。でもそれは誰のせいでもない自分が便利な生活を享受しこの社会で生きているからこそであり、責任を持って持ち帰った分は美味しく食べる。もっと旨いアユが食いたいなら綺麗な川に行けば簡単なんだろうけど、もし近所の川が今よりもっと綺麗になってアユがもっと旨くなったら、その方が味覚で感じる以上の「旨い」アユになるだろう。
釣り人は自分の川を愛さなければいけない。それは過去に流れていてはいけない。今と未来に流れる川を愛さずに「昔は良かった」なんて爺臭いことばかり言ってんじゃねえゾということである。
2018年6月24日日曜日
ひょっとしてオレ今「こわい顔つきになってる」かな?
「黒水仙」「暗烏」「おろろ」「陰鉤」「黒竜」「赤お染」「夕映」「陰水仙」架空の名前も混ざっているけど、それぞれ伝統的な鮎毛鉤のあるいは毛鉤釣りの手法の名前である。
これらを各章の題名とした小説が、夢枕獏先生の「鮎師」である。
学生時代先輩に面白いから読んだ方が良いと薦められて「オレ鮎とか釣らんからイマイチ興味ないっス」とか答えたんだけど「鮎釣るかどうか関係なしにナマジぐらいの釣りキチガイなら多分身につまされて胸にくる部分があると思うぞ」とか言われて、なんのこっちゃ?と思いながらも読んでみたら、先輩の言ったとおりだった。
ヤマメとかでもたまに知られているけど、ホルモンの異常とかで産卵に参加せず本来の寿命を越えても生き残り成長し続けたらしい60センチを越えるような巨鮎を狙う、鮎で身を滅ぼしつつある初老の釣り師の狂気じみた執念と、その狂気にあてられて深みにはまっていく主人公の心の有り様が、まさにこれぞ頭のおかしくなっちゃってる釣り人の典型という感じで、当時自分はまだ主人公側のつもりで共感していたけど、病み上がりの体でクソ暑くてしんどいなか鮎に向かってひたすら情熱を燃やしている今の自分は、既に鮎しかなくなった男である「黒淵」の方により近づいてしまっているのかも知れない。
主人公が仕事もほっぽり出して鬼気迫る表情で川に通うのを見て妻は「鮎釣りに行くのに、少しも楽しそうに見えない」と夫の釣り友達に不安を漏らしているが、自分の限界に迫るようなギリギリの釣りをしているときには、外から見たら確かに苦しそうにしか見えないだろう。だって実際苦しいんだから。それは釣れなくてしんどいという肉体的直接的な苦痛もあれば、釣りにおける「壁」を越えられないとかいう精神的なものから、はてはオレはナニを釣るべきかどう釣るべきかなんていう哲学的な苦しさも時にあったりなかったりする。
釣りで苦しむのなんてバカにしか見えないかもしれないし、楽しく釣ることはもちろん嫌いじゃないけど、どうしても私のような釣り人は昨日釣れなかった魚を今日釣りたいとかいう健全な向上心それ以上に、人よりも釣りたいとか、大きいのが釣りたいとか、誰もやってないような方法でオレだけいい目を見たいとか、ドロドロに邪な欲望が心にベットリと染みついていて、それがために、楽しく手堅く釣っとけば良いものを、底のない沼のようなややこしい釣りの世界に足を突っ込んでしまい抜けなくなるのである。
鮎の毛鉤を巻いたりしていると、どうしても「鮎師」のいろんな場面が頭に思い出されて、読みたくて仕方がなくなり幸い「自炊」済みで検索一発でパソコンのホルダーから引っ張り出せる我が読書体制になっているので何度目の再読かわからんけど読んでみた。
鮎毛鉤釣りしてなくても抜群に面白い「釣り小説」だったけど、鮎毛鉤釣りに手を出した今読むと、もうどうしようもなく面白くてまいる。
漠先生、各種映像とかから釣りの技術が特別上手いという釣り人じゃないと失礼ながら思っているけど、釣り人の業というモノを、釣りというモノの持つ魔性の魅力を知っていて、これほどまでに書ける作家というのは他に類を見ないと思う。井伏鱒二先生やら開高先生よりその点では上だと思う。両文豪の書く釣りはもっと健全で恬淡で釣り人独特のドロドロッちさを描くときももっと軽みがある気がする。漠先生その辺容赦なく大げさなぐらいに重く書く。でもその大げさなぐらいに表現された心情が、我々頭おかしい系の釣り人の心の、ある面を正確におためごかしやごまかしなくとらえていると思う。
読んでて思い出したけど、このお話の鍵になる釣法である「陰鉤」というのがあって、これが本当にあった技術なのか、漠先生の創作なのか分からんけど、いかにもありそうな裏技的な鮎の釣り方で「ベラ」の皮を使った毛鉤?に触れるぐらいに接近する鮎を下の捻り針で掛けるという方法なんだけど、学生時代読んで早速、多分ベラってキュウセンだろうと思われる表現があったのでキュウセンの皮を干して細く切ってボディーにしたフライを巻いた記憶がある。
4半世紀たって鮎毛鉤釣りを始めるにあたって「黒水仙」もどきの「黒韮」とか巻いてるあたり、ホントに進歩がないというか、ナニも変わっていない自分のバカさ加減を頼もしく思う。気になったら試してみる。釣りにおいてそれ以外に答えを知る方法をいまだ得ず。
でも4半世紀たって鮎毛鉤釣りを始めたあとだからこそ楽しめた部分も今回の再読ではあった。
主人公が、黒淵に仁義を切って彼が狙っている大鮎を狙うとなった時に、まず得意のチンチン釣りで並べた毛鉤が「青ライオン元孔雀」「赤お染」「暗烏」「八ッ橋荒巻」なんてのを読んで、それがどんな毛鉤か頭に浮かぶとともに、やっぱりその辺りの毛鉤が定番でありつつ必殺なんだろうなとか初心者がいっちょ前に思った。
播州釣針協同組合のウェブサイトの「播州毛鉤ギャラリー」にも、「青ライオン」「お染二字」「八ッ橋荒巻赤底」「清水」「新魁荒巻」が代表的な鮎毛鉤例として表示される。
そういうの見てると、やっぱり巻きたくなってくるジャン。巻きたくなったら巻けばいいジャン。ということで、今使っている和洋折衷のナマジ謹製鮎毛鉤でも鮎釣れるっちゃ釣れるんだけど、巻いてみた。
まずはスタンダードフライの代表選手がロイヤルコーチマンだとすれば、鮎毛鉤の代表選手は「青ライオン」だろうということで、「青ライオン」とその派生である「青ライオン元孔雀」を巻いたのが、左の写真。写真の撮影技術が拙くて色とかわかりにくい写真になっているうえにそもそも上手く色変えて巻けてないけどご容赦を。青ライオンってなんでそんな名前なんだろうなと最初命名の規則性が分からなかったけど、赤ライオンとかと比べていくとナニが「青」なのか分かってくる。赤い角の下の針のフトコロに掛けて緑のスレッドが巻いてあるんだけど、コレが青ライオンの「青」である。古い言葉では青は今の緑のことだというのはどっかに以前書いたとおり。ついでに「赤」も今より範囲が広い感じで「赤」と名前が付く毛鉤に使われている色が橙色(オレンジ)ということが結構あるので、「赤い鉤が今日はアタッてる」とかいう情報の「赤」が鳩の血のような赤なのか明るいカルフォルニアでもいだオレンジの色なのかは気をつけておかないといけないように思う。
ついでに鮎毛鉤の構成を説明しておくと、針のフトコロの所に巻いてあるのが「先巻き」、尻尾のように突き出している「角」、胴の「主巻き」、金や二の字を入れる「帯」、チモト近くの「元巻き」、ハックルにあたる「蓑毛」、そして「金玉」となり、角は「赤角」が多くたまに「黄角」、それに蓑毛、金玉が鮎毛鉤の標準装備で、その他の、「巻き」と「帯」のあたりの構成で名前が決まってくるようなのである。
青ライオンだと、「先巻き」が緑(青と呼ぶ)、角が赤、主巻きが明るい茶色からオレンジぐらいまで職人さんによって色々で、帯に金を真ん中に入れた黒の二の字がはいって、元巻きが毛足長めで主巻きと同じ色なら基本の「青ライオン」、孔雀なら「青ライオン元孔雀」、黒なら「青ライオン元黒」という名前になる。そんなにド派手な鉤でもなく、茶系に金が入った適度に地味派手な塩梅が良いんだろうか。
青ライオンは基本的な鮎毛鉤の構成要素がみんな入っていて巻く練習には良いんだけど、正直、帯に金入りの二の字とかめんどくさくて仕方ないというか、18番のフライフックに私の技量じゃそもそも巻けない。じゃあ写真のはどうやって巻いたんだ?というと、本来主巻きが終わったら黒い二の字用の毛を新たに巻くんだろうけど、主巻きと二の字は一つながりの毛を使って、二の字のところに来たらマジックで黒く塗ったのである。それだけ手を抜いても結構素人には手に余る。
ということで、もっと巻きやすい毛鉤はないかといろんな種類の毛鉤をみたりしていると、荒巻という技法を使った毛鉤は帯に面倒な色換えが入らないのも多く、それでいて「底」に派手な色を持ってくると良く目立つ感じになって、かつ、いかにも鮎毛鉤っぽい仕上がりになる。
代表的なのはこの「お染」。先巻きオレンジ、赤角、本来は主巻きはハリの地金に紫っぽい茶色を荒巻きして、帯は特になしで元巻きは荒巻きしていた毛をそのまま密巻き。今回黒いフライフックで巻いているので、荒巻きしている下に金のティンセルを巻いたので正しくは「金お染」なのかもしれない。
もいっちょ、荒巻系で「八ッ橋赤底荒巻」も、お染と同程度の単純な構成で巻くのが楽。
先巻きが空色で荒巻と元巻きが黒というのが八ッ橋なのかなという今のところの理解。なので、下の毛鉤は名前を付けるなら「黄角八ッ橋銀底荒巻」となるだろうか。荒巻系は、主巻きの底と荒巻の色の組み合わせ次第でいろんな印象の毛鉤が作れると思う。
例えば、以前作った「幻影底烏荒巻」は八ッ橋の派生「先黒黒角八ッ橋幻影底荒巻」とも言えるのかも?
他に巻きやすそうで釣れそうなのが、先巻きの代わりに金玉がついていて、黒い主巻きに帯に二の字という「熊」系統がある。黒に縞模様という単純だけど虫っぽい配色はやっぱり効くのか、赤熊、白熊、茶熊、金熊あたりは定番のようだ。
二の字巻くの結構難しいんだけど、二の字の部分だけ二色束ねて巻くというなんちゃって二の字で結構それらしく巻けるので、練習がてらいくつか巻いてみた。上は「黄角金熊」で下の緑の二の字のは命名法通りなら「青熊」のはずなんだけど、何故か特別に「清水」と呼ばれている。このへんの名前の由来とか調べるとまた面白いかも。ちなみに金玉作る技術を持っていないので金のティンセル先巻きで許して欲しい。
もいっちょ、「三光」系も巻く色自体は単一なので巻きやすそうだなと巻いてみた。頭の金玉と、帯のところ、先巻きのところに金玉か金巻きが入る。写真はどちらも「青三光」で、七面鳥とガチョウの羽の違いをちょっとみてみた。ガチョウの方が毛足が長い。途中に入れる金玉をビーズにしてみたら割と簡単で良い感じ。ビーズいろんな色に変えても良いかもしれない。重さも変えられる。
調子にのって、色目の多い「新魁荒巻」に挑戦。底巻きが金の上に逆巻きの赤糸、その上に黒と緑の毛を荒巻から元巻きへという感じで、簑毛にも薄茶に緑のを追加という手間が多い毛鉤なんだけど、技術的にはそれほど難しくはない。難しいのは短い間で色を、つまりは毛を換えて巻かなければならない二の字とかで、色たくさん使ってても針の長さいっぱい重ねて巻いて良いなら時間はかかっても難しくはないと実感した。
これぐらい、基礎的な技法を憶えたら、フライタイイングの知識と合わせてかなりいろんな毛鉤が巻けると思い楽しくなってくる。
気づけば、100本入りで頼もしく思っていたマルトのフックもそろそろ底が見え始めた。
100本なんて1日5本巻いてるだけで20日で使い切るしたいした本数じゃない。
そう思うと、マルトのフックの安さはとてもありがたいモノだと実感する。
アユ釣ってるぶんには刺さりも強度も何の問題もなく実に実用的なフックで、すでに追加発注かけた。色変えて巻くのには軸が長い方が向いていると思うのでロングシャンクのタイプも試しにと注文した。
今年は年頭に「釣りと猫のことだけ考える」と誓ったが、猫はボチボチとしても、釣りの方は本当にそればっかり考えている感じで、そうすれば自ずと健康面やらも上向いてくるはずと考えていたが、ここまで釣りのことばかり考えていて良いのか?体調よりも釣り優先させ気味だったりもして、釣りのことで身を滅ぼしてしまうような気がしてきてちょっと怖い。
まあ、仕事も家族も友人も、健康も金も信頼も誇りも失って、ただの釣りしか持たない痩せた猫になったとしても、それはそれで本望かなと思わなくもない今日この頃である。
釣りさえちゃんとできていれば、なんだってかまわないサ。オレたちゃそういう人種だろ?
これらを各章の題名とした小説が、夢枕獏先生の「鮎師」である。
学生時代先輩に面白いから読んだ方が良いと薦められて「オレ鮎とか釣らんからイマイチ興味ないっス」とか答えたんだけど「鮎釣るかどうか関係なしにナマジぐらいの釣りキチガイなら多分身につまされて胸にくる部分があると思うぞ」とか言われて、なんのこっちゃ?と思いながらも読んでみたら、先輩の言ったとおりだった。
ヤマメとかでもたまに知られているけど、ホルモンの異常とかで産卵に参加せず本来の寿命を越えても生き残り成長し続けたらしい60センチを越えるような巨鮎を狙う、鮎で身を滅ぼしつつある初老の釣り師の狂気じみた執念と、その狂気にあてられて深みにはまっていく主人公の心の有り様が、まさにこれぞ頭のおかしくなっちゃってる釣り人の典型という感じで、当時自分はまだ主人公側のつもりで共感していたけど、病み上がりの体でクソ暑くてしんどいなか鮎に向かってひたすら情熱を燃やしている今の自分は、既に鮎しかなくなった男である「黒淵」の方により近づいてしまっているのかも知れない。
主人公が仕事もほっぽり出して鬼気迫る表情で川に通うのを見て妻は「鮎釣りに行くのに、少しも楽しそうに見えない」と夫の釣り友達に不安を漏らしているが、自分の限界に迫るようなギリギリの釣りをしているときには、外から見たら確かに苦しそうにしか見えないだろう。だって実際苦しいんだから。それは釣れなくてしんどいという肉体的直接的な苦痛もあれば、釣りにおける「壁」を越えられないとかいう精神的なものから、はてはオレはナニを釣るべきかどう釣るべきかなんていう哲学的な苦しさも時にあったりなかったりする。
釣りで苦しむのなんてバカにしか見えないかもしれないし、楽しく釣ることはもちろん嫌いじゃないけど、どうしても私のような釣り人は昨日釣れなかった魚を今日釣りたいとかいう健全な向上心それ以上に、人よりも釣りたいとか、大きいのが釣りたいとか、誰もやってないような方法でオレだけいい目を見たいとか、ドロドロに邪な欲望が心にベットリと染みついていて、それがために、楽しく手堅く釣っとけば良いものを、底のない沼のようなややこしい釣りの世界に足を突っ込んでしまい抜けなくなるのである。
鮎の毛鉤を巻いたりしていると、どうしても「鮎師」のいろんな場面が頭に思い出されて、読みたくて仕方がなくなり幸い「自炊」済みで検索一発でパソコンのホルダーから引っ張り出せる我が読書体制になっているので何度目の再読かわからんけど読んでみた。
鮎毛鉤釣りしてなくても抜群に面白い「釣り小説」だったけど、鮎毛鉤釣りに手を出した今読むと、もうどうしようもなく面白くてまいる。
漠先生、各種映像とかから釣りの技術が特別上手いという釣り人じゃないと失礼ながら思っているけど、釣り人の業というモノを、釣りというモノの持つ魔性の魅力を知っていて、これほどまでに書ける作家というのは他に類を見ないと思う。井伏鱒二先生やら開高先生よりその点では上だと思う。両文豪の書く釣りはもっと健全で恬淡で釣り人独特のドロドロッちさを描くときももっと軽みがある気がする。漠先生その辺容赦なく大げさなぐらいに重く書く。でもその大げさなぐらいに表現された心情が、我々頭おかしい系の釣り人の心の、ある面を正確におためごかしやごまかしなくとらえていると思う。
読んでて思い出したけど、このお話の鍵になる釣法である「陰鉤」というのがあって、これが本当にあった技術なのか、漠先生の創作なのか分からんけど、いかにもありそうな裏技的な鮎の釣り方で「ベラ」の皮を使った毛鉤?に触れるぐらいに接近する鮎を下の捻り針で掛けるという方法なんだけど、学生時代読んで早速、多分ベラってキュウセンだろうと思われる表現があったのでキュウセンの皮を干して細く切ってボディーにしたフライを巻いた記憶がある。
4半世紀たって鮎毛鉤釣りを始めるにあたって「黒水仙」もどきの「黒韮」とか巻いてるあたり、ホントに進歩がないというか、ナニも変わっていない自分のバカさ加減を頼もしく思う。気になったら試してみる。釣りにおいてそれ以外に答えを知る方法をいまだ得ず。
でも4半世紀たって鮎毛鉤釣りを始めたあとだからこそ楽しめた部分も今回の再読ではあった。
主人公が、黒淵に仁義を切って彼が狙っている大鮎を狙うとなった時に、まず得意のチンチン釣りで並べた毛鉤が「青ライオン元孔雀」「赤お染」「暗烏」「八ッ橋荒巻」なんてのを読んで、それがどんな毛鉤か頭に浮かぶとともに、やっぱりその辺りの毛鉤が定番でありつつ必殺なんだろうなとか初心者がいっちょ前に思った。
播州釣針協同組合のウェブサイトの「播州毛鉤ギャラリー」にも、「青ライオン」「お染二字」「八ッ橋荒巻赤底」「清水」「新魁荒巻」が代表的な鮎毛鉤例として表示される。
そういうの見てると、やっぱり巻きたくなってくるジャン。巻きたくなったら巻けばいいジャン。ということで、今使っている和洋折衷のナマジ謹製鮎毛鉤でも鮎釣れるっちゃ釣れるんだけど、巻いてみた。
まずはスタンダードフライの代表選手がロイヤルコーチマンだとすれば、鮎毛鉤の代表選手は「青ライオン」だろうということで、「青ライオン」とその派生である「青ライオン元孔雀」を巻いたのが、左の写真。写真の撮影技術が拙くて色とかわかりにくい写真になっているうえにそもそも上手く色変えて巻けてないけどご容赦を。青ライオンってなんでそんな名前なんだろうなと最初命名の規則性が分からなかったけど、赤ライオンとかと比べていくとナニが「青」なのか分かってくる。赤い角の下の針のフトコロに掛けて緑のスレッドが巻いてあるんだけど、コレが青ライオンの「青」である。古い言葉では青は今の緑のことだというのはどっかに以前書いたとおり。ついでに「赤」も今より範囲が広い感じで「赤」と名前が付く毛鉤に使われている色が橙色(オレンジ)ということが結構あるので、「赤い鉤が今日はアタッてる」とかいう情報の「赤」が鳩の血のような赤なのか明るいカルフォルニアでもいだオレンジの色なのかは気をつけておかないといけないように思う。
ついでに鮎毛鉤の構成を説明しておくと、針のフトコロの所に巻いてあるのが「先巻き」、尻尾のように突き出している「角」、胴の「主巻き」、金や二の字を入れる「帯」、チモト近くの「元巻き」、ハックルにあたる「蓑毛」、そして「金玉」となり、角は「赤角」が多くたまに「黄角」、それに蓑毛、金玉が鮎毛鉤の標準装備で、その他の、「巻き」と「帯」のあたりの構成で名前が決まってくるようなのである。
青ライオンだと、「先巻き」が緑(青と呼ぶ)、角が赤、主巻きが明るい茶色からオレンジぐらいまで職人さんによって色々で、帯に金を真ん中に入れた黒の二の字がはいって、元巻きが毛足長めで主巻きと同じ色なら基本の「青ライオン」、孔雀なら「青ライオン元孔雀」、黒なら「青ライオン元黒」という名前になる。そんなにド派手な鉤でもなく、茶系に金が入った適度に地味派手な塩梅が良いんだろうか。
青ライオンは基本的な鮎毛鉤の構成要素がみんな入っていて巻く練習には良いんだけど、正直、帯に金入りの二の字とかめんどくさくて仕方ないというか、18番のフライフックに私の技量じゃそもそも巻けない。じゃあ写真のはどうやって巻いたんだ?というと、本来主巻きが終わったら黒い二の字用の毛を新たに巻くんだろうけど、主巻きと二の字は一つながりの毛を使って、二の字のところに来たらマジックで黒く塗ったのである。それだけ手を抜いても結構素人には手に余る。
ということで、もっと巻きやすい毛鉤はないかといろんな種類の毛鉤をみたりしていると、荒巻という技法を使った毛鉤は帯に面倒な色換えが入らないのも多く、それでいて「底」に派手な色を持ってくると良く目立つ感じになって、かつ、いかにも鮎毛鉤っぽい仕上がりになる。
代表的なのはこの「お染」。先巻きオレンジ、赤角、本来は主巻きはハリの地金に紫っぽい茶色を荒巻きして、帯は特になしで元巻きは荒巻きしていた毛をそのまま密巻き。今回黒いフライフックで巻いているので、荒巻きしている下に金のティンセルを巻いたので正しくは「金お染」なのかもしれない。
もいっちょ、荒巻系で「八ッ橋赤底荒巻」も、お染と同程度の単純な構成で巻くのが楽。
先巻きが空色で荒巻と元巻きが黒というのが八ッ橋なのかなという今のところの理解。なので、下の毛鉤は名前を付けるなら「黄角八ッ橋銀底荒巻」となるだろうか。荒巻系は、主巻きの底と荒巻の色の組み合わせ次第でいろんな印象の毛鉤が作れると思う。
例えば、以前作った「幻影底烏荒巻」は八ッ橋の派生「先黒黒角八ッ橋幻影底荒巻」とも言えるのかも?
他に巻きやすそうで釣れそうなのが、先巻きの代わりに金玉がついていて、黒い主巻きに帯に二の字という「熊」系統がある。黒に縞模様という単純だけど虫っぽい配色はやっぱり効くのか、赤熊、白熊、茶熊、金熊あたりは定番のようだ。
二の字巻くの結構難しいんだけど、二の字の部分だけ二色束ねて巻くというなんちゃって二の字で結構それらしく巻けるので、練習がてらいくつか巻いてみた。上は「黄角金熊」で下の緑の二の字のは命名法通りなら「青熊」のはずなんだけど、何故か特別に「清水」と呼ばれている。このへんの名前の由来とか調べるとまた面白いかも。ちなみに金玉作る技術を持っていないので金のティンセル先巻きで許して欲しい。
もいっちょ、「三光」系も巻く色自体は単一なので巻きやすそうだなと巻いてみた。頭の金玉と、帯のところ、先巻きのところに金玉か金巻きが入る。写真はどちらも「青三光」で、七面鳥とガチョウの羽の違いをちょっとみてみた。ガチョウの方が毛足が長い。途中に入れる金玉をビーズにしてみたら割と簡単で良い感じ。ビーズいろんな色に変えても良いかもしれない。重さも変えられる。
調子にのって、色目の多い「新魁荒巻」に挑戦。底巻きが金の上に逆巻きの赤糸、その上に黒と緑の毛を荒巻から元巻きへという感じで、簑毛にも薄茶に緑のを追加という手間が多い毛鉤なんだけど、技術的にはそれほど難しくはない。難しいのは短い間で色を、つまりは毛を換えて巻かなければならない二の字とかで、色たくさん使ってても針の長さいっぱい重ねて巻いて良いなら時間はかかっても難しくはないと実感した。
これぐらい、基礎的な技法を憶えたら、フライタイイングの知識と合わせてかなりいろんな毛鉤が巻けると思い楽しくなってくる。
気づけば、100本入りで頼もしく思っていたマルトのフックもそろそろ底が見え始めた。
100本なんて1日5本巻いてるだけで20日で使い切るしたいした本数じゃない。
そう思うと、マルトのフックの安さはとてもありがたいモノだと実感する。
アユ釣ってるぶんには刺さりも強度も何の問題もなく実に実用的なフックで、すでに追加発注かけた。色変えて巻くのには軸が長い方が向いていると思うのでロングシャンクのタイプも試しにと注文した。
今年は年頭に「釣りと猫のことだけ考える」と誓ったが、猫はボチボチとしても、釣りの方は本当にそればっかり考えている感じで、そうすれば自ずと健康面やらも上向いてくるはずと考えていたが、ここまで釣りのことばかり考えていて良いのか?体調よりも釣り優先させ気味だったりもして、釣りのことで身を滅ぼしてしまうような気がしてきてちょっと怖い。
まあ、仕事も家族も友人も、健康も金も信頼も誇りも失って、ただの釣りしか持たない痩せた猫になったとしても、それはそれで本望かなと思わなくもない今日この頃である。
釣りさえちゃんとできていれば、なんだってかまわないサ。オレたちゃそういう人種だろ?
2018年6月18日月曜日
鮎釣り小ネタ
毛鉤巻いたり仕掛け作ったり、アユ関係のお勉強したりで昨日の顛末記もまだ書けてない状態だけど、鮎釣り始めて半月ほどで色々と気付いた点など小ネタを書き記しておきたい。
まずはお詫びと訂正から、どっかで「アユが攻撃するのは水平姿勢で縄張りに侵入してくるもの全部、色も形も関係ない」と書いたけど、水平姿勢が一番重要なのは正解っぽいけど「色と形も関係ありそう」だそうです。正方形のモデルはほとんど攻撃されず、黒より白が攻撃されて、横長の斑紋は攻撃を抑制していそう、ついでに小さいモデルの方が良く攻撃されるという報告(井口1991)。多分同じ報告に基づく解説を読んだのを記憶していたはずなのに、結果の数値の読み方が解説者によって違ったのか、単なる私の記憶違いか?いずれにせよゴメンナサイ。科学とは新しい知見によって日々更新されていくべき性格のモノであり、過ちを正していく姿勢こそ科学的なモノの考え方である、などと自己正当化を図ってみる。
これでルアーでアユ釣るなら白くて模様の無い小さめのミノーが良いと割り切れる。
昨晩、片野他編「アユの科学と釣り」という「アユ釣り愛好家の学者・研究者による「アユ学」エッセイ」と帯に踊る本を読みかえしていて判明したんだけど、この本、鮎釣り始める前に読んでも生物ネタ的に面白かったけど、鮎釣り始めてから読むと狂おしいほど面白いので鮎釣りファンでまだ読んでない人は読むように。
まあ、アユ釣り愛好家と言っても友釣りばっかりで、私が闘いを挑むべき体制側の啓蒙本であり本来焚書にすべき書なのかも知れないが、敵の武器を鹵獲して闘うなんてのはゲリラ戦の常道なので使える知識は使わせてもらうゼ。君らが開発した武器が君ら自身を苦しめることになるのだよ。
ここ一月ぐらいは、鮎釣りのことばかり考えているので、その中で書き留めておきたいことなどいくつかご紹介。
まずは、タモ網。普通タモ網とかランディングネットってごぼう抜きにできないような魚を取り込むための道具なんだけど、鮎釣りではちょっと意味合いが違うように思う。鮎釣りにおいては、近年の友釣りでは引き抜きで飛んできたアユをタモでキャッチするのが当たり前になっているのに見られるように、アユは大きな魚じゃないので普通にごぼう抜きできる。じゃあタモいらねえジャン?と思うとそうでもなくて、どちらかというと引っこ抜いた後にバタバタ暴れてポロリというのを防ぐためにこそタモが必要。鮎釣りの鉤は友釣りでも毛鉤でもかかり重視のスレ針でかつアユは取り込み後もこれでもかというぐらい暴れるのでポロリが多い。釣った後これだけ暴れる魚は他にはツムブリぐらいしか思いつかないぐらいジタバタする。ので引っこ抜いてその後ハリ外したり、友釣りならオトリ交換したりするためにタモがいるのである。
なので、長い柄の付いたのは必要ない、必要なのは中で暴れられても絡みにくい、ハリが刺さりにくいような目の細かい網が張ってあるやつで、そうじゃないと面倒くさい。かつ引っこ抜いた魚をキャッチするためにそれなりの枠の広さが欲しい。
アユ用のタモを買えば当然そういうタモになってるけど、でもお高い。網目の細かい高級品なんて正直買えるかよ、という値段である。
なので、なんか良いのないかなと考えて、暫定的に金魚掬うような観賞魚用のネットの25センチ枠のを試してみたら結構塩梅良いんでやがんの。こんなもん千円しないし、我が家にボロいの転がってたので実際にはお金掛かってない。だいぶ穴があいてきて繕って使っているけど使用不能に破れても次もコレで行きたい。
ついでにオイカワの数釣りで魚籠の入り口にやるようにラインを一本張っている。これに釣れた時ハリスを引っかけて横に引っ張ってハリのフトコロにラインがくる状態にもっていくと、アユが暴れてタモに落ちてくれる。割とこれも塩梅良い。
次に毛鉤交換の迅速化。まあインチキとはいえ出自がフライマンなので、魚の反応やら流下する餌の変化やらにあわせて毛鉤を交換しながら釣りたいわけで、鮎毛鉤釣りの場合複数の毛鉤を並べる仕掛けを使うので、最初からいくつもの毛鉤を使えているのでフライフィッシングほど頻繁に交換したくはならないけど、でもやっぱり換えたくなる。
枝スの方を交換すると、交換の手間自体は大したことないんだけど交換した毛鉤はハリス結んだアイをガッチリ瞬間接着剤で金玉と接着してあるので再利用ができない。
ということで、唯一枝スではない幹糸の先に結ばれている最後の1本を交換するんだけど、これも何回もやっていると幹糸も毛鉤のハリスも短くなっていく。
ので、幹糸側の最後にコブを作って、幹糸に8の字作ったハリス側を接続する方式にした。穂先の取り付けと基本一緒で使う時はシモリ浮きを止めている毛糸で押さえ込んで緩んで抜けないようにしている。幹糸側のコブの先にちょっとあまりを出しておくと外すときにズラシやすい。ズラして毛鉤のハリ先で8の字を引っかけて外しているけど「そんな細かい作業できねえヨ」という場合はハリスの8の字の先に短くつまめるようにハリスの切れっ端でも結んでおけば良いと思う。
次に浮子。鮎毛鉤流し仕掛けについている浮子は横長の棒状で、多分この形なのはアタった時に立ち上がるとか適度に揺れて毛鉤を動かすのかなと思っていたけど、アタリは以外に直接的で、流しているときはバシッと食ったのが目で見えることが多いし、流しきって下流で待ってるときのアタリは浮きに出る云々より手元にくる。
でも、やっぱり浮子は流しきって待ってるときや逆引き中はちょっとジッターバグみたいに揺れていて足下で毛鉤動いているか見るぶんにはそれ程動いていないように見えるけど、糸電話を思い出せば分かるように、張った糸って振動を良く伝えるので間違いなく浮子が振動していることには意味があるように思う。
ということで、高活性時に派手に魚の気を引くために振動を増幅するにはどうすればよいか考えて、それまで中通し式にしていたのを、グラスの心棒入れて心棒を長めにして揺れ幅を大きくしてみようという浮子を作ってみた。
結果、仕掛けの重さで浮子の動きが制限されてか、あまり大きく浮子が揺れなくなってしまった。というオチ。ただ、揺れは小さいけど直接的にラインに振動が伝わっているので見た目の揺れが小さいからといってダメとは限らないのでしばらく試してみたい。良くないような感触なら心棒短く切ってしまえば多分揺れは大きくなるはず。単純に揺れが大きければ良いのならジッターバグでも浮子として使えばいいけど、そうなると騒がしくて警戒されることにもなるだろうから良い塩梅を探りたい。探った結果が市販のに付いている浮子だとしても、アタイ自分でも気になったら試しておきたいのヨ。
小ネタ最後は友釣り仕掛け。友釣りの仕掛けというと、天井糸が仕掛けの長さ調整可能なように編み込み利用してあって、水中糸は極細金属糸で接続にはやっぱり編み込んで瞬間接着剤で固めてと、とにかく面倒くさい印象だった。
でも、この面倒くささは全部「極細金属糸が悪い」のであって、極細金属糸を使わないナイロン糸仕掛けなら割と単純であると今のところ理解した。
仕掛けの長さ調整もナイロン仕掛けなら結ぶのが難しい金属糸と違って現場で切って繋げば良いだけで面倒くせえ仕掛け必要ない。ナイロンどうしなら水中糸と鼻管周りの仕掛けの接続も普通に結べば良い。そもそも普通に結べてそれなりの耐摩耗性とかがあるナイロン糸を水中糸に使えば天井糸なんか必要なくて水中糸を穂先に接続したら良いはず。
逆に言うと、それだけしち面倒くさいことをヤルだけの価値が極細金属糸にはあるということである。荒瀬の中でオトリを泳がそうと思ったら、ラインが受ける水の抵抗は相当なハズで「ライン細いは七難隠す」で、水の抵抗を受ける水中糸以外は全部ナイロンとかにしなければならないぐらい釣りの仕掛けには向かないはずなのに使いたくなる利点なんだろう。
でも、いうほど荒瀬で大鮎狙うような場面って多いのか?まあ人様の釣りはさておき、自分の釣り場は膝下水深とかのチャラ瀬と深くて1mもないような淵ぐらいで流れもきつくないので、当面ナイロン仕掛けで問題ない。なんなら鼻管周りの仕掛けに使うナイロン0.8号通しでも良いかなと思ったぐらいである。まあそんな手間でもないので0.5号を水中糸というか道糸にした。
そうすると意外なほど単純な仕掛けで、ライン以外のパーツといったら写真の鼻管、逆さ針、逆さ針のおしりに付いた自動ハリス止めに繋ぐ掛け針ぐらいで、あとは目印3カ所も付けときゃいいかってぐらいで、鼻管がそれ用のプルージック結びのための細いPEがクソ高いのでナイロンハリスで古式ゆかしく編み付け利用した接続にしたのがちょっと面倒くさかったぐらいで、全体的にはたいして手間でもなかった。
うちの近所の鮎たちが縄張り作ってくれて友釣りの対象となるのかまだ未知数だけど、とりあえず出番があればコレで行きたい。
ちょっと、作ってて気になったのがガマカツのハリの「ナノスムースコート」とかいうやつで、多分ダイワのサクサスとかと同じフッ素コート系の表面処理なんだと思うけど、ワカサギ釣りの時に虫餌の付けやすさは確実に利点だと思ったけど、鮎釣りの掛け針やらフライフックやらにも採用されてるのを見ると、そんなモンの滑り良くしてどうするの?という気がしまくっている。フライフックとか売ってるの見た時点で「フライ巻くとき滑って巻きにくいンとちゃうか?」と思って帰って検索掛けたらやっぱり巻きにくいらしい。鮎釣りの掛け針も根糸で巻いて瞬間接着剤で固めてハリスに固定するんだけど、始めてやったこともあってだとはしても固定できず抜けまくりで、最終的には8の字でコブ作って止めた。
それだけの欠点が有りながらかつ値段が高くても、利点が補ってあまりあるなら使う価値はあるんだろうけど、スレ針で滑りが良いって、スレ針の利点である刺さりやすさが行き過ぎて逆に「抜けやすい」欠点のほうが出過ぎるんじゃないかと現時点では思う。刺さりやすいのは利点だろうけど刺さりやすけりゃ抜けやすいってのは当たり前で、刺さりやすくて抜けにくくするためにカエシが付いてたはずで、そこを刺さりやすさ重視でカエシを取っ払って、その状態で良い塩梅の保持力を持たせるように表面の加工やら形状やらを設計してあったはずで、同じような形でより刺さりやすくしてしまったら抜けまっせそりゃ。逆に欠点が出てこないぐらいなら対して利点もない表面加工であるという証明で金返せという話である。良くわからんので最初は良いやつ買っとこうと、あまり考えずにガマカツさん信頼して高めの買ったけど失敗だったかも。
とまあ、鮎釣りに没頭している。近所のアユは釣りになる場所も今のところ限られていて、他の釣り人や鳥に目を付けられたらその時点で終わりで、今年は沢山遡上してきているけどいつまで釣り場にとどまるか、釣りが成立するぐらいの個体数が保たれるかも未知数である。ということで、他の釣りはしばし放置で今はアユに全力投球で、釣れるときに釣れるだけ釣っておきたいと思っている。楽しい。
2018年6月11日月曜日
YOUはシャック!
愛で空は墜ちてこないけど、梅雨で雨粒が落ちてくる。
さすがに川はかなり増水するぐらい激しく降ってるので、昨日今日と釣りには行けずに大人しくせざるを得ない。
ただアユを求める熱い心を鎖で繋ぐのは今は無駄であり、この機会に毛鉤のストックを増やしたり、新しい毛鉤の試作をしたりと意外に忙しく、没頭していたら昨夜はブログ書いてる暇もなかった。
先日、小雨の中の鮎毛鉤釣り。雨降ったら水生昆虫の羽化はないだろうしライズもないかなと思っていたけど、意外にライズしていて、釣れた鮎をナニ食ってるんだろうと腑分けして胃内容物確認してみたら、これが5ミリ以上ある大きめのユスリカの蛹の抜け殻で「シャックかよ!」と驚いたともに、おそらく晴れてた朝の時間に静かな魚の少ない上流の水域で羽化したユスリカの抜け殻が長時間にわたって流れてくるので、その日に限らず羽化が収まるマズメ時以外でもずっとライズしているんだなと合点がいった。
フライフィッシングの世界では、抜け殻食いのマスの存在は話題になることがあって、どっかでマスが浮上して水面の餌を咥えるのに要するエネルギーと、抜け殻から得られるエネルギーを比較して、抜け殻のタンパク質とかから得られるエネルギーの方が大きいので、個々の重量は微々たるもので腹ふくれなさそうだけど、沢山食べると充分食料として価値があるとか報告されてたと思う。
抜け殻をフライマンは「シャック」と呼び習わし、その透明感やカシャカシャッとしているだろう食感などを再現すべく、種々フライパターンが開発されている。
シャックは羽化した成虫のように飛んで逃げないし、蛹や幼虫のように泳いで逃げたりもしないので、大量にシャックが流れてきて偏食していると、あんまり毛鉤を活発には追ってくれないように思うので、そこそこデキの良い毛鉤が必要とされる。
ということで、いくつか作って実戦投入しているところだけど、とりあえず簡単なのはカシャカシャッとしてて透明な繊維「ズィーロン」を束ねて捻って縒って体節っぽくして尻尾の部分である「角」とした「借苦角ズィーロン」。カモの毛の縞々を生かして角にした「借苦角鴨」、スーパーでもらえるビニール袋を加工した角を付けた「借苦角ビニール袋」は一番カシャカシャして抜け殻っぽいかなという感じ。
今のところ、角ズィーロン版はそれなりに良い感じで釣れている。
角鴨はまだ釣れていないけど、角ビニール袋はいきなりコイに持ってかれて、そういう時に限って1つしか作ってなくて、昨日増産かけていた。多分コイもよく水面で餌拾ってるのは目にしてるので食ったんだと思う。だとすれば魚の目から見て捕食行動起こす程度の毛鉤になっていて、ならばアユにも効くんじゃないかと期待している。
スーパーにロールで置いてあって無料でもらえるビニール袋の間に腰をもたせるためズィーロン挟んで、熱した鉗子で摘まんで溶着させて角の部分を作る。縞々の凸凹ができるのでマジックで適度に汚して拭くと、体節っぽい縞々模様ができる。
人間の目から見ると、透明感といい一番抜け殻っぽいんだけどはたしてどうだろうか。意外に見た目「リアル」なこの毛鉤より単純なズィーロン角版が優秀だったりというオチはありがちだとは思っている。
他にも、高活性時に市販の鮎毛鉤に負けないような派手な毛鉤が欲しいなと、いくつか巻いてみた。
いろんな色や素材を組み合わせて技巧を凝らした職人さんの作る鮎毛鉤と同じ方向性では勝負になるわけがないと痛感しているけど、ワシゃルアーマンじゃけん、派手で魚の反応が良くて単純な配色とかなんぼか脳裏に染み着いてるのがあるけんネ。
というわけで左から2番目のシルバーヒルトンを元ネタにしたもの以外は、ルアーのカラーを参考に巻いてみた。どれがどんなカラーから鮎毛鉤に落とし込んでいるか分かるだろうか?
左から「白黄」は目立つカラーといえば蛍光黄色ということで、蛍光は無理だったけど、角と蓑毛を白に、胴を白と黄色に染めたガチョウの羽の筋で巻いてみた。雨後の濁りとかにどうだろうか?
2番目の元ネタであるシルバーヒルトンは、多分私が初めて巻いたフライだと思う。安いフライセット買って、さあフライも巻くぞとなってバイスもホームセンターで買ってきた小型万力という状態で、ハックルだの鳥の毛もなかなか買えない貧乏学生は、大学で飼育されていた白黒鹿の子斑の鶏に目を付けて、担当の先生にお願いして首の毛抜かしてもらって巻いたと思う。尻尾もウイングもハックルも鹿の子斑の鶏の毛でボディーが黒に銀を巻いてあるというシックな1本である。銀を黒の上から巻くんじゃなくて、今回は銀を底に巻いておいて烏の毛の筋を荒巻して底の銀がチラチラ見える感じにした。金玉は樹脂製の真珠色。黒銀はルアーでは地味な配色だけど、黒はくっきりして結構目立つし銀の反射もあって毛鉤全体として目立つ配色だと思う。すでに活躍している「幻影底烏荒巻」が割と使える感じなので、烏の濃い焦げ茶っぽい黒の鉤を他にも試してみたかったのもあって巻いてみた。
3番目はルアーの世界では夕まずめや夜に大人気の「赤金」。角赤、胴は底に金のフラッシャブーを巻いておいて、オレンジに染めたガチョウの羽の筋を荒巻して、蓑毛はオレンジに染めたウズラ。コレはなんか理屈抜きにルアーマンの本能が釣れそうだと直感する。「底」に光り物の素材を巻いておいて上に羽毛の筋をユルく巻いて底の光り物がチラチラ見えるという「荒巻」はいかにも鮎毛鉤っぽく仕上がって釣れそうで、巻くのも難しくなく良い塩梅だ。
最後の「火虎」が、オレンジに黄色と緑に黒ということでファィヤータイガーカラーを鮎毛鉤の色に落とし込んだつもりである。
ただ、胴はオレンジのスレッドを底に巻いた上に黄色と緑のガチョウの羽の筋を交互に綾巻きしたという、この程度の色使いですら、今回鉤18番と大きめにもかかわらず難しく、最初のオレンジのスレッドが次の黄色を巻いていると抜けてしまうということが2回あって、またイィーッ!とさせられた。
何しろ、バイスも学生時代に買った安物で、小さい鉤にはやや使いにくい。
最後に糸をとめる用のウィップフィニッシャーとして使っているボールペンの芯や割り箸に縫い針を挟んで固定して自作したニードルとかも学生時代から使っていて、四半世紀来の愛用品である。
今回、ニンフフライの脚の本数とか数えて巻いていそうな几帳面なフライマンがみたら卒倒しそうな私の毛鉤巻き作業場の写真を公開したのは、高価なバイスとかがなければ「釣れる毛鉤」が巻けないってわけじゃないんだよ、高度なテクニックで美麗な毛鉤を巻かなければ魚が釣れないってわけじゃないんだよ、というのを伝えたくって、あえて恥ずかしい実状をさらしてみた。もうちょっと整理整頓しろよと自分でも思う。
ネット上でも自作のフライとか公開している人のフライはどれも綺麗に作られている。バイスも高級品である。それをみて私のような不器用な人間はフライや毛鉤を巻くのに不安を感じる。「完璧」な毛鉤じゃないと魚が釣れないのではないか?と。
ご安心ください。安物バイスで巻いた、この程度のいい加減な毛鉤でも魚充分釣れてます。
フライの世界ではマッチザハッチは魚を効果的に誘う手段であると同時にそれ自体が大きな楽しみであり、水生昆虫を観察して、その見た目から質感から動きまでを再現していくというのは、それ自体が目的化していることもあり、その面白さを否定するものではないけれど、虫に近づけば近づくほど釣れるかというと、実際にはそうでもなくて、魚が虫を選ぶときの肝になっているであろう要素を押さえたり強調したりして、余分な部分を排除した単純明快な毛鉤の方が、見た目スゴいことになっている「リアルパターン」より釣れるのが世の常であると思っている。その辺りのさじ加減をどうするかあたりもフライマンは楽しんでいて、絶対の正解もないけど案外いい加減なフライや毛鉤で良く釣れるものなんである。綺麗に巻かれているのに釣れない毛鉤もあれば不細工でもなんでか釣れるフライもあるのである。
魚が脚の本数そろってない毛鉤を食わないとかがあるのなら、それはおそらく左右非対称になったことによるバランスの崩れとかの問題で、昔のエサ釣り師は川虫の脚はもげていると魚が食わないと真剣に主張していたものだけど、そういうことだったのかもしれない。脚欠けたぐらいで魚が食わなくなるのなら昆虫は喜んで脚ぐらい自切するだろう。
水生昆虫に直接似せていない、時に派手な目立つ色に巻かれている鮎毛鉤の世界でも、あんなに複雑な手法で巻かれた毛鉤が欠くべからざるモノかというとそうは思っていない。
良く派手なカラーのルアーをみて素人が「あんな派手な魚は自然にはいないので不自然だ、釣れそうにない」とか言っちゃいがちだけど、不自然だからこそ目立つからこそ喰われるのは、アルビノや金魚が自然界では生き残りにくいことを考えれば当然である。
そういう不自然で派手に目立ちかつ嫌われにくいような配色を膨大な時間の試行錯誤の中から導き出してきているであろう、それでいて時に縞々の配色に妙な本物の虫っぽさを感じたり、水生昆虫が羽化時とかにまとう気泡の煌めきなんかを再現する反射系の素材使いなんかにフライとの収斂を感じたりもする鮎毛鉤について、本当に良くできていて綺麗だと感心すると共に、様々な思いを込めて巻かれてきて親しまれてきたその歴史に敬意を感じざるを得ない。得ないんだけど、ぶっちゃけ「魚釣るだけならもっと単純でいいやね」と思ってしまう不敬な私もいるのである。
本物らしさや派手さを演出する精緻な技巧も、あって邪魔になるモノではないだろうけど、自分が持ってないなら仕方ない。あるもので作れるものでも充分楽しみながら魚が釣れる。
そういういい加減さも含めて、やっぱり釣りは自由だと思うのである。
2018年6月1日金曜日
備えあれど憂いあり
遠征前の準備なんてのは、あれこれ想定してやり始めるときりがなく、その上実際に現地に行ってみると、想定外のことばかり起こったりして、結局現地で何とかかんとかするしかなくなったりもするんだけど、それでも準備には時間と労力をかける。
先週末、一応準備をおえて先に現地に送るべき荷物は段ボールに詰めて封して、その他の持って行く釣り具とかも一度リュックに入れてみて、今回はデカい防水パックに突っ込んでコロコロ付き背負子を使うんじゃなくて普段使っている30リットルのリュックで間に合うな、とか確認済みである。
もう、ほかに準備しなくてもいいようなものである。
でも、前回ブログで書いた「ハリとイト」の違いとか気になって仕方ない。仕方ないので「ホンテロン」も0.5号を入手した。
「ホンテロン」想像よりもかなり堅い。今時のパリッとしたナイロンリスや逆にしなやかに進化してきたフロロカーボン系やらより明らかに堅くてハリがある。ナイロン0.4号で作った枝スで鮎毛鉤をぶら下げると悪くはなさそうだけど幹糸に絡むことはありそうな振れ方をする。ホンテロンで作ると枝スの先の毛鉤は針金で吊されているかのようで、たしかにこれは絡まなそうである。ただ、こんなに堅いと毛鉤の動きを制限してしまうんじゃないかと、お風呂で引っ張り試験してみると、やはり動きが制限されてハリスの曲がり具合によっては斜めって泳いでいる。ナイロン0.4号ハリスの先の毛鉤が生き物のようにユラユラと揺らぎながらハリスに引っ張られて「泳ぐ」のに比べるとぎこちない。
はたして動きを制限した絡みにくさや感度の良さのエステルハリスのホンテロンがいいのか、柔らかく自然な動きと食い込みの良さが期待できるナイロンハリスがいいのか、自作の鮎流し毛鉤仕掛け2組目の後ろ3つをホンテロンハリスにしてみたでので確かめてみたい。
ハリも結局、今のところメインの予定のがまかつB11-Bのほかに、ストレートアイのティムコ101も買ってみたし、マルトのd04も買ってみた。
切れる札は全部切るというか、思いついたことは出し惜しみせず、やれることは全部やっておく。
ティムコ101は今時の細い軸じゃなくて昔ながらの真鍮色のフックでバーブつぶすのも簡単だし、特に問題はないように思う。ボラ狙うときは迷わずこのフックか。
もう一方のマルトの方だけど、伸びるという噂通り、折れるまでに結構曲がる。この手の曲がるフックは多分海外での需要なんだろうと思う。華奢ですぐ折れるフックより曲がってでも粘るフックが海外では一般的なんだろう。パッケージの仕様がもろに海外向けだ。
日本人の「尖った」性能をありがたがる傾向のせいか曲がらず限界で折れるハリが日本製フライフックでは主流だけど、適度に曲がってタフなハリというのが役に立つ場面ってのはあるだろうし割と好みでもある。
もちろん折れも曲がりもしないハリが理想だろうけど、どちらにせよ結局は強度が欲しければ太くするのが根本的な解決策のはずで、そういう太さの、強度の必要な場面であまり細くて堅いハリを求めても意味ないのかなと思う。
ということで、100本も入ってるので早速使ってみる。ただ、曲がるといっても限界はあって、バイスで挟んで2回ぐらいに分けて伸ばしていっても、がまかつのB11-Bぐらいのアイの角度までしか安定して伸ばせない。それ以上伸ばすと多くは折れるし、1回でギュッと伸ばそうとしても折れる。
1,2割折ったとしても、送料入れて100本900円と安いハリなので、いろんな鮎毛鉤を巻いて試したいときとかは、このハリを中心に使おうと思う。鮎釣る分には強度的にもなにも心配していない。
でもって、鮎毛鉤釣り前哨戦の解禁アユフライフィッシングの方は、見えている鮎が5~7センチぐらいと小さいので、苦労しながらもティムコ101の22番、がまかつB11-Bの24番という小さいハリにそれっぽくソフトハックルで巻いてみた。
今朝、待ちに待った解禁で喜び勇んで部屋から5分の釣り場で釣ってみたら、案ずるより産むが易し、ってぐらいでサクサクと釣って、実にさい先良く鮎シーズンの開幕を迎えることができた。これから禁漁まで鮎を追い続けることができるのか、初めての経験なので未知なことばかりだけど、それ故に沢山の楽しみが待っていると期待している。
明日からの小遠征、準備はできるだけのことをしたつもり。後は結果を出すだけだ。そんなに難しいことをするつもりじゃないし、それでも難しいんだろうとも思っているけど、経験、知識、想像力、体力、技術、道具、人様からの助言も含め自分の力を総動員して楽しんできたい。
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