2018年6月30日土曜日

地元の川の魚の味はアンタの責任


 近所のアユは正直ちょっとドブ臭い。というか独特の「近所ポイント臭」がする。まあワシ、川魚にちょっと苔臭いような皮が付いていないと寂しく感じるぐらいのバカ舌で、磯魚の磯臭さが苦手とか、魚に限らず羊肉は特有の匂いが云々とかおっしゃる繊細な味覚をお持ちのグルメ様とかみていると「むしろそれがその食材の美味しさの大事なところだろ?」といつも疑問に思っているぐらいだけど、その私のバカ舌でもちょっと臭いなと感じる程度には臭いので、普通の味覚を持つ人が食べたら果たして美味しいのかどうかちょっと不安である。
 でも私からしてみれば大したことなくて、シーバス釣ってるときに嗅ぎ慣れた匂いなのでプルースト効果的に思い出す情景とかもあったりして悪かない気がしている。衣つけて天ぷらならそんなに気にならないし、塩焼きなら焦げ目の香ばしさとアユ本来の「スイカ臭」の方が強調されるのでこれまた美味しくいただけてしまい「この程度ならなにやったって食えるな」と油断して、濃い味で炊いたところ「スイカ臭」が消えて「近所ポイント臭」だけが強調されてしまい、ちょっと完食には意志の力が必要だった。煮魚作った日には翌日冷蔵庫で煮こごらせた煮汁をご飯にかけたりするのが定番だが煮汁捨てた。
 このドブ臭さ、「ゲオスミン臭」とか呼ばれるそうで、雨が降った後の土の匂いの成分からその名が来ているらしく、少しくらいなら苔臭さとか他のエサ由来の匂いとあわせて「川魚の匂い」のはずで好ましいモノなのかもしれないけれど、これがヒドい個体は、腹の脂とかだけじゃなく筋肉にもその匂いががっちり浸透していてどうにも料理のしようがないと思っていた。はじめて強くその匂いというか味を認識したのは、東京で就職して、初めて霞ヶ浦水系でバス釣りしたときのことで、学生時代は手軽で肉量も多い蛋白源として美味しくいただくことも多かったブラックバスが、故郷じゃ皮まで美味しく食べられたのに身まで苔臭いというかカビ臭いというかどうにもならない臭さで、産地が違えば同じ魚種でもこうまで違うのかと驚いたものである。牛乳につけようがカレー粉振ろうが完食には若き日の強靱な精神力を要したと記しておく。要するに昔の東京の水道のカビ臭さの濃い魚肉といえばわかりやすいかも。今首都圏でも水道水はそのまま飲めるぐらい美味しいけど昔はカビ臭かった。

 ゲオスミン臭の原因である「ゲオスミン」や「2-メチルイソボルネオール」は富栄養化したような水域の藍藻類とかが生産するらしく、それらを食べたり食べた生物をまた食べたりで蓄積されていくとのこと。未利用資源を積極的に利用しようと挑戦し続けているとある御仁が、フランス料理の「クネル」という自家製はんぺんのような料理で、都市河川産の「ハズレ」の鯉を美味しく食べているのを読んでちょっと感動した。「クネル」ってたしか開高先生もパイクの料理法として「クネル・ド・ブロシェ(パイクのクネル)」を紹介していたと思うけど、要するに小骨の多い魚とかでも、フードプロセッサー使うなりチタタプするなりしてミンチにして、ふわふわ柔かくてヒンナな練り製品に仕上げてしまうという「おフランス料理」で、下処理で切り分けた段階やあるいはミンチの段階で練り物製造でいうところの「水さらし」でなんならアルコールの力も借りて臭みやら余分な消化酵素やらを洗い流してしまえばドブ臭い魚肉から美味しいタンパク質が取り出せて、小骨も気にならなくなるという、昔の人の工夫に感心しつつ感謝を捧げたくなる料理法なのである。「クネル」を知ってしまえば泥臭い魚などおそれるに足りず。さあ釣り人みんなでクネってしまおうではないか。


 とまあドブ臭さなにするモノぞというところなのだが、川魚を指して「あんなドブ臭いモノが食えるか」とバカにする釣り人は多い。かくいう私もウグイとか、すくったタモに付く生臭さからして半端なくて、長野じゃ梁作ったり人工の産卵場作って呼び込んで捕獲する漁法があったりするけど、海なし県の長野じゃ仕方ないけど、他に食う魚あれば食わんよな、と思っていたことを、先日の小遠征でアユと一緒に釣ったウグイを食べて深く反省させられて、長野県民の皆様の味覚の確かなことと地元の川を美しく保っておられることに敬意を表したところである。
 ドブ臭いという印象の強いウグイでさえ、綺麗な川で釣ったら臭みなんて全然気にならない上等の獲物なのである。
 「川魚はドブ臭くて」とかしたり顔でエラそうなことほざいている人間は私と同様反省すべきである。それは「自分の地元の川は川魚が美味しく食べられないぐらいに汚れてるんです」という恥ずかしい事実の告白でしかない。エラそうにいうこっちゃない。
 「この川も汚れてしまってドブ臭い魚しか釣れなくなった、昔は綺麗だった」って他人事のような口の利き方を釣り人ならするべきではない。オマエは指をくわえてその汚されていく様を見てただけじゃないだろうな!
 我が近所ポイントの川は高度経済成長期には全国でも指折りの汚さの「死の川」となっていたらしい。
 でも、いまはアユが遡上してくる。コイやマルタ、スズキはまだ食べる気にはならない程度にはドブ臭い川だけど、どこで釣ってもドブ臭くならない奇跡の天ダネであるマハゼはたくさん釣れて楽しいし、テナガエビもそろそろ産卵期で上がってきているだろう。
 一年通じて遊べる良い川になってきていると思う。それは「死の川」になって、他の地域でも公害とか人死にが出るようになってはじめて「コレはやばい」とみんなが気がついて汚染物質やら排水の基準値を定め守らせ、下水道を普及させという永い年月をかけてやっと取り戻してきたところなんである。
 私の現在の地元である近所の川で自慢できることは、どこに行っても「昔は綺麗だった」というボヤきしか聞こえてこないのに、いまだドブだとしても「昔よりだいぶ綺麗になってきたんですよ、アユも釣れるんです」と胸を張って言えることである。
 釣り人増えるのは短期的には自分の分け前が減るだけで何の利益もない。でも長期的に見ていけば、川を見ている人が増えれば、川を好きな人が増えれば川を守っていく力になるんじゃないかと思うので、釣果情報とかも隠しとけば良いようなものだけど公開している。川で魚釣らない人間にとっては、川がコンクリで3面護岸になろうが汚染されて魚が住めなくなろうが興味のない話である。

 釣り人は川に悪さをする輩を許してはいけない、川を土木屋がいじくろうとしているなら、納得いく説明が得られるまで問いただして無駄な事業など止めようとするべきだし、川を綺麗にする環境政策を推し進めるよう声を上げるべきだと思う。

 それは、個々人得意な方法で、できる限り力一杯やるべきで、やらない言い訳は私が認めない。

 私は、多数決が嫌いで選挙に行かないので、良い代表を選んで施策に反映させていくとかそういうのは他の人に任せて、水辺で見てきたことを情報発信し、みんなが水辺の環境を守ろうとする力の一助になろうと思う。とともに個人でできることはもちろんやっていきたい。

 コレまでも近所ポイントで、工事で岬削りやがってクソ野郎とか、土手の草木切ってなにが流量確保じゃ大タワケとか書いてきたわけだけど、最近はやっぱり真っ直ぐな流れじゃ生物の多様性とか考えるとよろしくないのかもと土建屋さんも考えてくれているのか、私が「ネット蛇篭」と呼んでいる、丈夫な化繊の大きなネットに石を積み込んで護岸のそばに積み上げたのとか、見た目パッとしないけど、シーバスとかついてることも多くて、カニとかエビとかも棲んでるだろうしなかなかに良い塩梅だと感じるので、天然石積護岸なんてのが一番良いんだろうけど、見た目除けば結構良いので、石詰めてクレーンで積んでけば良いだけで簡単に河川内に流れの変化や生物が潜める隙間ができるので、予算が余ったらどんどん積んでいって欲しい。と改めて書いておく。どうせ金使って税金をバラまくといって語弊があるなら再配分するのが目的に成り下がってる公共事業なら、もう21世紀なんだし生態系だの生物多様性だのを守るための事業に金使ってもバチ当たらんし誰も困らないだろう。金さえ土建屋に回りゃ良いんだろ?そこにまで文句言うほどオレも潔癖じゃネエし見逃してやるからやってくれよ。
 「ネット蛇篭」は根掛かりしやすいからヤダって?だから下手クソが釣りにならん一見さんお断り的釣り場になっていいんじゃないのよ。オレ、普段からほとんど水面と水面直下の釣りしかしないから何の問題もなく狙えるもんネ。

 で、だんだん良くなってきている近所ポイントの川だけど、アユも上がってくるようになったし、そろそろもう一段階上を目指しても良いんじゃないかという気がしてきている。
 いま私が近所ポイントで釣っている主な魚種は、スズキ(フッコ、セイゴ)、マルタ、コイ、マハゼ、アユ、オイカワ、ボラほかぐらいである。この中で淡水で一生を過ごすのはコイとオイカワで、コイについては繁殖行動は見かけるけど稚魚を見ていないので繁殖上手くいってないように思う。おそらく一昔前に放流されたコイが長命なのでずっといるんじゃないだろうか?オイカワはホソボソとだけど繁殖している様子。マルタはお隣のテナガ釣りに行く川には産卵群が釣りの人気対象になってるぐらい見受けられるけど近所の川には産卵群が目に付かないしめざとい首都圏の釣り師も人山になっていない。小型のも釣れてくるので産卵してないこともなさそうだけど普段は汽水域や海にいるようなので謎である。あとの魚種は全部海から上がってくる。
 死の川になって、誰も川の魚なんかに興味持たなくなって護岸してしまっていて、産卵に適した場所が少ないからというのと、産卵しても沢山居るコイが食っちゃうからというので、現状では水質的には魚がすめる状態に戻っても、川の中で産卵して増えているのは少なくて、遡上勢が空いている生態的地位を使って沢山いるという構造になっているのかなと感じている。

 という状況から考えて、淡水で産卵する魚の比率を上げてもっといろんな魚がいて釣って楽しめるようにというのを、そろそろ考えた方が良いんじゃなかろうかと考えている。都市部の川だし限界もあるからアユ上がってきてるぐらいならもう良いんじゃないの?という意見もあるかもだけど、私の好みとしてはやっぱりもう少し都会のドブ臭い川であっても川の中で一生を終える魚が多い方が健全で好ましいと思うというか、そうなるとタダの「水を流す溝」に水質が魚が棲める程度に保たれるようになったので、どっかから魚がやってきて一時的に棲んでいるという状態から、魚が産卵し増殖することができる「自然環境」という明らかに段階の違うものに川がなっていくと思うからである。

 そのために、ナニが必要かと考えると、さっき書いたこと含めて三点あって、一つには産卵できる場所の確保がまず大事で、次に多すぎるコイの扱いを考えることと、もう一つはさらなる水質の改善だろうかなと思っている。

 産卵できる場所の確保っていったって、街中流れる川の両岸をずっと水生植物繁るような環境にってのは難しいと思うけど、所々ネット蛇篭つんでそれに植物が生えるだけでも違うだろうし、オイカワやらマルタやらは川底さらって綺麗な砂礫底にしてやれば喜んで産卵するらしいので、なんか地域の中学校の生物部とかそのあたりと連携して、楽しんで増殖してやることはできるんじゃないだろうか?ボランティアで自然観察会を主催しているグループとかもあるようなので具体的な方法が思いつけば話持ってってみようかしら?いずれにせよ川全部が「故郷の川」のようにならなくても、例えば支流の一部や遊水池を利用して繁殖用の場所にしてしまうとか、やりようによっては魚が棲む場所は川の全流域だけど繁殖はいくつかの場所で行っているっていうのでも、それなりにというか普通天然自然でもそんなもんでしょという気がするのでやってできないことはないと思う。漁業権あるなら漁協に「そういうのやってよ!」と要望して地元の川ならなんなら組合員になってやりゃ良いけど、漁協もないような川ではどうやって行政や地域と連携していくかというのが難しいところだろうか?まあオイカワの産卵床ぐらいは流路変更もないから許可も要らんだろうしシャベル一本で何とかなる規模なので釣りに行ったついでに試してみても良い。オイカワポイントで産卵時期のうちに試してみるか。

 で、産卵できる場所ができても、卵食いとして悪名高いコイがいると多分けっこう食われてしまう。コイ自体、生むところが少ないので岸に引っかかったゴミに産卵行動しているけど、果たしてそれが孵化しているのか全部食われているのか。実態は分からないけど、稚魚はともかく見かけない。食い切られているんじゃないかと思う。産卵できる場所が限られているので食い切られるわけで、産卵場所が多くなれば生き残る可能性が多くなるはずというのはあるけど、それにしてもどこに行ってもこの川にはコイが多く、背中が出るような3面護岸の場所にさえ平気でかなりの数が泳いでいる。次の水質のところで具体的事例を書くけど、コイを放したのにはそれなりの必要性があったはずで、それは魚も泳いでないような川では寂しいという気持ち的な面から、富栄養化した河川において、有機物やそれを食って育った水生昆虫などを食べてその発生量を抑制し、河川の過剰な有機物を一時的に貯めておく「有機物のダム」として機能させるために放流されていたという面もあったのだろう。そろそろお役御免だとしても、じゃあ都合悪くなったので「駆除」しましょう。というのはあんまりだと思う。正直多すぎると思っているし小物釣りしてるときは仕掛け切られて邪魔だと思っているけど、シーバス釣れないときにその重量感ある引きを楽しんでずいぶん気が晴れたこともあるし、なんにも釣るものなくてもコイは釣れるという保険としてもありがたい存在だし、ましてやコイ本命で同じ釣り場に情熱を持って狙いにきている釣り人もいるのに、その獲物を「駆除」とか自分勝手なことを言うべきではないと思う。そんなの鯉釣り師からしたらコイが多いなんて良い川じゃないかというだけの話である。
 でもそんな鯉釣り師さん達でも、橋の下でパンもらおうと待ってるコイがいっぱいいるというのは何か違うよネと思うはずである。「駆除」まではしないけど、今後は一回放流したら平均で20歳ぐらいまで生きるとかいう長寿を誇る魚を沢山放流するのは止めにしましょう、ぐらいの程度なら何とか鯉釣り師にも納得してもらえるだろうか?そのかわり、コイも含めて水際の植物に産卵する魚の産卵場所をつくるので、コイも繁殖するし他の魚も繁殖してコイはパン撒きゃ寄ってくるような養殖ゴイじゃなくて、この川生まれで生き残って野生化したのが将来的には釣れますよ。と言えば賛同してくれるのではないだろうか。
 釣った魚を食べるのでもないのに「駆除」とか、野生生物とか自然環境とかがどうなっても良いエアコン効いた部屋で快適に生きてる都会派がお気楽に言うならともかく、常に自分の釣った獲物の命をどう扱うか考えていなければ嘘なはずの釣り人が、都合が悪いから「駆除」とかやって良いとは思えない。「積極的に食べて数を減らしましょう」とかなら分かる。でも、命あるものをゴミとして捨てるってオレには受け入れがたいんだけど。
 なので、コイについては10年前に放流されたモノだとしても、平均でまだ10年は川にいるわけで、すぐには解決しないンだと思う。ただ、産卵場を増やしたり水質を改善したりというのも10年かかるような話だと思うので、10年経って今沢山いるコイが寿命で徐々に抜けていくのと入れ替わりで、この川で生まれ育った、コイも含めた淡水魚が増えていけばちょうど良いのではないだろうか。川が綺麗になっていけば、釣ったコイをクネルにする技術がなくても食べられるようになって、コイ問題は新たに放流しなければ、川を良くしていく課程で自然に時間が解決してくれそうに思う。遺伝的に日本産由来じゃないとかは一回死んだ川でいまさらどうでも良いことだと思っている。コイぐらいしか生きていられなかった汚れた時代にお役目はたしてくれていたんである。綺麗になってきても生存の権利ぐらい与えてやれよと思う。

 で、一番難しそうなのが水質の改善。今現在、首都圏でも下水道普及率は100%に近いはずで、よく目にする主張が「下水道があるので洗濯に合成洗剤使おうが天然素材由来の石けん使おうが自然環境に排出される時は基準値以下になっているので関係ない」というものだが、2つの点でバーカバーカ!おまえの言ってるのは机上の空論!!となじっておきたい。
 一つは基準値以下でも当然低けりゃ低い方が良いので、流入する下水に含まれる「処理」しなければならない物質など少なければ少ない方が良いに決まっているという単純な話。試しにググって東京都の「水再生センター放流水の平均水質(H25実績)」というのを見てみると、有機物の量の指標として代表的なBOD(生物学的酸素要求量)が流入水152、放流水7、放流水基準25となっていて有機物に関してみればずいぶんと基準より小さくしてから放流している。にもかかわらずそれでも首都圏という大規模な人間活動の行われている地域を抱える東京湾では赤潮、青潮なんていう富栄養化が原因になっているような事例が散見され、近所の川のアユはまだちょっとドブ臭い。
 当たり前だけど個人個人が下水に流す有機物量や化学物質の量などを減らせれば、出口である下水処理場から放流される水質に影響しうるのである。
 基準やルールは何のために作ったのか?川を海を汚さないように最低限ここまで処理してから放流しようという基準だったはずで、その基準が絶対ではない。本来の水を汚さないようにという目的から考えれば、基準よりもより低くしたほうがさらに良いということなど、パソコンの前にいたとしても、ちょっとググって考えれば分かる程度の簡単なことである。逆に今の基準でもまだ川や海が汚れていると感じるなら基準を見直しても良いかもしれない。
 釣り仲間の先輩が、「シャツの襟がちょっとぐらい汚れてるのと、川と海が汚れてるのとどっちが嫌かっていったら、考えるまでもなく川と海が汚れていることだよね。だから我が家では洗濯には合成洗剤じゃなくて洗濯石けん使ってるよ」というのを聞いてから、20年以上合成洗剤は使っていない。ワシが小汚いオッサンである分、家の近所の川は綺麗になっていくのである。今時の合成洗剤はだいぶ環境にも優しくなってるのかも知れないけど、基本的に大手企業が短期の実験で出した自前データなど信じられないので洗濯石けんで汚れ落ちに不満があるでなし考えるまでもなくそうしている。
 21世紀は下手すると水を奪い合う世紀になりかねないような話も目にする。水をなるべく汚さないなんていうのは生きていくための基礎的な大事なことだと思う。

 もいっちょ、下水道があってもダメな理由は、首都圏始め日本の多くの下水道は雨水の排水と生活排水とが一緒になっている方式で、実は大雨とかで処理しきれなくなると「垂れ流し」をやっている、という構造的な不備があるのである。
 正直言って、このネタを書くかどうかは迷ってたところで、これまではあえて書かないでいた。これからちょっと衝撃的な事実を書くけど、その事実だけ書くと「役所の欺瞞」「構造的な欠陥を許した愚かさ」「隠蔽体質」とかを糾弾するような内容と取りかねられず、実際にはさっき出した数値に現れているように、なるべく下水を綺麗にして川に放流したいと努力しているであろう下水道事業関係者の方々に忖度していたのである。
 でもまあ、事実を知ってもらうというのは大事だと思うし、そのことだけをあげつらうのではなく、背景を説明した上で今後どうしていくべきか考える材料として上手に提供するのならありかなと思って丁寧に書いてみる。
 まず私が実際に目にした単純な事実としては、「近所の川に処理水を放流している下水処理場は、大雨が降ると「夜」に泥濁りの「処理済み」とは到底思えない水を放出する。」
 ということである。
 「基準値を超える水を排水するなんて違反じゃないか?それを隠蔽するなんてけしからん!」と最初見たとき思った。でも、ちょっと調べれば分かるけど雨水と下水が一本で集められて処理されているので、増水時には処理が間に合わず溢れさせているというのは周知の事実のようで、そういえば、そういうのが由来の油脂ボールが雨後の東京湾には浮かぶとか聞いたような気がする。じゃあ、そもそもなんで別々にしなかったんだといえば、ぶっちゃけ金が掛かるし、とにかく垂れ流しで川に洗剤の泡が浮いているような事態を早急に解決する必要があるとすれば、既存の雨水を流す溝を利用して下水道整備を進めるのが金も時間もかからなかったんだろうというのは想像に難くない。それを今になって別々にしておけば良かったとか評論家みたいなことをいっても仕方がない。今も流れている川なんだしコレからどうするかという話なんである。「今、下水道があるからもうコレで良い」という状況じゃないし「誰かが酷い不正を働いてるから改めなければならない」というのでもない。
 だいぶ良くなってとりあえず「死の川」からは脱出したけど、問題はまだまだあるし、もっと良くできる要素はあるんだよというのが、今の近所の川の状況だと思っている。その状況を知った上で次どうしていきましょうか?と相談して進んでいきたいと思っているのである。
 私はまずは、雨で増水したときに昼日中から濁流を放流するところから始めりゃ良いと思うのである。見たらちょっとビックリすると思う。何しろ茶濁りした濁流には「コレはシーバス寄るんと違うか?」とスケベ根性で投げたラインに、おそらく便所紙の繊維だと思われる繊維がダマになって結び目に付いてきて、しばらくするとどこにこんなに居たんだと、コイの多い川だという認識はあったけど、それにしても驚くほどのコイが集まってきて、水面に浮いているゴミ的な有機物をパクパクと頬ばっていく。この川においてコイの役割なんてもう終わったと思ってたけど「有機物のダム」として目の前で確かに機能していて、替わりの魚たちが増えるまでは居てもらわねば困るな、と認識を新たにしたぐらいである。
 雨の日とはいえ、白昼堂々そんなことをしたら、まず「川に汚れを垂れ流してけしからん!」と憤ってお気楽に電話掛けてくる善意の社会正義の味方様がいるだろう。評論家は楽で良いよね口だけで、という感じである。それでも苦情が来たら対応間違えると大事になったりして嫌な監視社会だよネ。別に悪事働いてるわけじゃないけど夜にコソッとやりたくもなるというモノである。
 でも、下水道事業者は懇切丁寧に、基準値より低く処理するために日頃から努力しているけど、増水時には処理できる量を超えるので危険回避のために未処理のまま放流せざるを得ずそれは慣例的にも認められ、実態上洪水等を避けるためそれ以外に方法がないという正直なお話を説明するべきだと思う。
 そういう実態が広く知らしめられたうえで、じゃあこのままで良いのか、何らかの対策を講じるべきか相談して考えていくのだと思う。
 判断としては首都圏のような人口密集地では限界があって、現状で妥協すべきではというのも意見としてはあると思う。でも、未処理の濁流垂れ流しとかインパクトのある絵面を目にしたら「もうちょっとなんとかならんのか?」と考えて普通だと思う。そういう状況が闇夜にコソッと隠れて生じているのである。街じゃ雨水はすぐに下水道に流れ込むので、シーバス釣りに行くぐらいのそんなたいした増水じゃない雨でも溢るみたいです。

 まともに考えれば、いまさら膨大な費用と時間を掛けて雨水別ルートとかは難しいだろうと思う。それとも公共事業になるだろうから「お上」が作ると言ってしまえば作れるんだろうか。
 現実的には、処理能力向上させて危険回避で垂れ流す分も含めて、年間トータルで排出する有機物やらの量の基準を再設定するとかして、必要なら人口の都市部集中などにも対応して下水処理場を増やしたり、効率的な処理技術の開発やらしていくというのがまともな方法のように思う。
 そういう基準を考えるときに、例えば河川の魚が一気に放出された未処理水の有機物を一時的に蓄える能力の評価とか、河口域の干潟が生態系全体としてどのくらい処理能力があるのかとかを評価して、処理場の増強に加えて川や海に生き物が居ることが「処理場」に換算するならどのくらいの価値があり代替できるのかとか、今でもその手の報告はあるんだけど、単なる研究報告じゃなくて、実際の街を環境を考えていく上で評価していけたら、多くの人に川が流れてそこに魚とかが居ることの価値を知らしめることができるのではないだろうか。ついでにみんなが水を汚さないように気をつけてくれればなお嬉しい。

 家の近所で釣ったアユはちょっとドブ臭い。でもそれは誰のせいでもない自分が便利な生活を享受しこの社会で生きているからこそであり、責任を持って持ち帰った分は美味しく食べる。もっと旨いアユが食いたいなら綺麗な川に行けば簡単なんだろうけど、もし近所の川が今よりもっと綺麗になってアユがもっと旨くなったら、その方が味覚で感じる以上の「旨い」アユになるだろう。
 釣り人は自分の川を愛さなければいけない。それは過去に流れていてはいけない。今と未来に流れる川を愛さずに「昔は良かった」なんて爺臭いことばかり言ってんじゃねえゾということである。

0 件のコメント:

コメントを投稿