2014年8月2日土曜日
となりのサイコパス
秋から2期目が始まることもあって、今深夜にアニメ「サイコパス」1期の2話分を1時間に編集しなおしたバージョンが放映されている。設定のややこしいSFものなので2期が始まる前に新規視聴者を獲得するためと、私のような忘れっぽい人間のための「おさらい」的な放送だと思うが、1期は昨年のアニメベスト3に入れてるぐらい面白かった作品なので暇があると見ていたが、例の高校生女子による同級生殺人事件を受けて4話目が放送を取りやめとなった。
ネットでも「放送中止になるんじゃネ」という声が大きかったので、最近のTV局始めメディアの「クレームあったらめんどくせえので自主規制」という傾向からして、少なくとも4話は放送できない、下手すると5話以降も中止となるかなと思っていたが、4話だけ中止のようである。まあ、去年放映時に録画してたヤツはすでに削除しちゃってるけど、地上波中止になっても見たければ有料ネット配信とかあるし、ぶっちゃけサブカル野郎どもは困らない。
しかし、実際の殺人事件とこのタイミングで放送されたアニメの内容の一致には「意味のある偶然の一致」を感じるぐらいでとても驚く。最初に書いておくが、こういうアニメの内容に影響されて殺人が起こるなんてことはあんまり考えても仕方ないと私は思っている。人が人を殺す話なんて今さら規制したところで、これまでもカインとアベルの昔から古今東西いくらでも書かれていてありふれている。面白い作品を削るに値するほどの効果が規制で期待できるとは思えない。
作中では女子高生が自分の芸術作品として同級生を切り刻み、生物標本のように樹脂包埋(作中「プラスティネーション」と中二な感じに英語表現を使っているが理系の人間なら普通は「樹脂包埋」という言葉を使う)したうえで、街なかに飾り付けた。
現実では女子高校生が同級生を「解剖してみたかった」と道具買いそろえて切り刻んだ。
自分を慕っている友人を自分のやりたいことのために手をかけて殺して、殺したことにまったく反省も罪悪感も後悔も感じていない様子が、まさに「サイコパス」という感じで共通している。
報道されたことが正しいとは限らないので現実の方の女子高校生が本当にサイコパスなのかどうかはわからないが、報道どおりなら、人を殺してもまったく罪悪感やら感じない精神構造を持つ冷酷な殺人者というサイコパスの一般的なイメージにぴったりはまる。
報道見てかわいそうだなと感じたのが、まあ被害者が一番かわいそうといったらそうだが、「この十年の「命の教育」は届かなかったのか」と嘆く教育関係者。カッターナイフで同級生を斬り殺すというこれまたショッキングな事件を受けて教育の現場で命の大切さについて教えてきたのにこの事件である。無力感と後悔と自己批判にかられたことだろう。
決して無駄になっていなくて、そういう教育をしていなかったらもっと「痴情のもつれ」的な情動的な普通の人にも理解できるような殺人事件、人を傷つける事件が生じていたかもしれない。きっとそれは防いでいたと思いたい。
でも今回のような、「普通の人」といわれるような大多数の人間から見ればある種異様な精神構造を持つサイコパスが起こす事件を「教育」で防ぐのには限度がある。無理と理解してことに当たらないと「話せば分かるはず」という認識ではまったく防ぎようがない。
「普通の人」の話せば分かるだろう、みんな同じように考えるだろうと無邪気に信じている感覚は、多少人と違う考え方をすることもある私もうんざりさせられることが多い。
いわゆるサイコパスだとされるような人間だって決して珍しくはなく、人殺すほどに特殊な人間はまれだとしても、平気で嘘ついて何の罪悪感も感じない程度の人間ならきっとみんなまわりに思い当たる人がいる程度には存在するだろう。
なんで嘘付いて平気でいられるのか理解に苦しむところだが、そういう人間がいるのである。ゲーム理論なんかでも嘘つきはある程度の数であれば、まわりを食い物にして生き残っていくという説明がされていて、まあ嘘つきばかりの集団じゃ社会的な生物である人間の集団として非効率で他の集団に駆逐されるので、嘘つきばかりが増えることはないけれど、集団が内包を許容できる程度の嘘つきは常にいるということらしい。
人はなぜ人を殺してはいけないのかという問いに、「人の命は尊いものだから」という答えがてんで答えになっていない、と書くと「普通の人」は面食らうだろうか?
人の命を無条件に「尊いもの」としてそれが殺人が罪である根拠とするならば、戦時の殺人が英雄視されることや、海の向こうで餓死する人を知っていながら美食に飽く行為なんかはその根拠と矛盾しており、許し難い大罪であり、実際そう感じる人も多いだろうし、私自身そう感じることもある。
でも、戦争の時は人を殺しても良い、海の向こうで餓死する人がいても食べ物を粗末にしても罰せられない、ということなどから考えて、極めて現実的に人が人を殺すことが罪になる理由を突き詰めると「それがルールだから」でしかないと、いろんなところで書かれているし私もそう思う。
人は人を殺して良いというルールだとすると、自分が他人を殺すことができると同時に、他人も自分を殺すことができる。そうなると自分という個人も困るし、自分が属する社会集団も機能しなくなる。だから、少なくとも同じ社会集団の中では「人を殺してはダメですよ」というルールが作られ、皆がそれに従っている、それは社会の「常識」としてもそうだとされているし制度的にもそれを裏打ちしている。従わないものには社会として「死刑」なんていう人が人を殺してはいけないというルールに例外を設けてまで従うように仕向けている。
社会集団が生き延びるためのその集団内のルールだから、極論すると戦時に他の社会集団の人を殺すことは罪にならないという整理が成り立つし、海の向こうの社会集団の人が餓死していても関係無いという整理が成り立つ。
なんてことを書くと「普通の人」から私もサイコパスだと思われてしまうのだろうか。しかしもうちょっと極論を書いていくと、日本の警察は優秀だし罰則は厳しいしでヒトゴロシなんて割に合わないとは考えているが、私は人を殺すこと自体を特別視する感情があまりないと自己分析している。魚をしめるのや焼き肉食うのと他者の命を奪うことに本質的な違いがあると思えない。自分が殺されそうだとかそういう自分を納得させるだけの理由があり、かつ正当防衛とかで罰から逃れられるなら、人殺しても、後悔しないだろうし罪の意識に苛まれないんじゃないだろうかと思う。むしろ何の罪もない魚をしめて食うことの方が罪悪感がある。弱肉強食は生態系のならいだとはいえそう感じる。
という私のような人間が、普通に、なのかどうか不明だが社会生活をおくっていることから分かると思うけど、たぶんいろんな考え方、精神構造の人間がいて、それでも廻っているのが、社会というものの現実だと思う。
多くの素直な人間には「命は尊い」という教育が十分に功を奏するだろうし、そう思わない私のようなひねくれ者にも、たぶんサイコパスにも、ルールをきちんと作って運用して、人を殺せば高確率で捕まって、重い罰を受け、社会的にも実名顔写真さらされて抹殺され、家族も親戚一同も街を職場を追われるような制裁をうけるということを、きちんと理解させれば、相当な抑止力が期待できるだろう。
それでも、今回の件がそうかどうかは別として、「自分の欲求」が上回ってしまい、人を殺してしまうようなサイコパスが出てくるのを完全に防ぐ手立てというのが、正直あんまり無いような気がしている。
「そういうサイコパスはあらかじめ診断して社会から隔離しろ!」というヒステリックな意見がでてくるのは目に見えているが、それをやった近未来の社会の気持ち悪さを描いたのがアニメ「サイコパス」である。予防的に「潜在犯」という犯罪おかしそうな精神状態の人間を管理下に置くシステムを構築した世界。
まだ罪を犯していないのに、例えば犯罪被害にあって恐怖や憎しみで精神状態が不安定になっただけで「潜在犯」認定を受けてしまう理不尽。サイコパスを取締まる診断方法に引っかからない二重のサイコパスの存在が巻き起こす犯罪の理不尽。
犯罪をまだ犯していないものを隔離なり監視なりするシステムって、自分がその対象になったらと考えたら、納得できないでしょ?あなたが「普通の人」だっていう保証がどこにあるんだ?といいたい。それは現実にはあり得ない。刃物持って暴れまわってるような放せばすぐにでも他人や自分を傷つけるのが明白なぐらいの状態であれば現在でも「措置入院」という制度はあるけど、それ以上の予防的な措置は難しい。やれるとしたらヤバそうなヤツには関わりあいにならないという自衛策程度で、強制力を持ったルールとした場合にはあまりにもいびつだ。今回の事件でも医師から父親に対策とるよう助言があったように報道されているが、父親が監視したところで目を盗んででもやってたかもしれないし、逆に医師が警告するような人間でもナニも起こさないことも多いだろう。結果論で後からご高説を垂れるのは簡単だが、正確に未来を「診断」するのは不可能である。
じゃあどうすれば防げるんだ?と問われると、根本的な対策が思いつかない。
でも、まあそんなにレアなケースを全部防ごうなんて考えなくて良いんじゃないかという気がする。今までどおり、教育もすれば犯罪起こせばつかまえてしかるべき罰を与える。
それで防ぎようのないものをどうこうできるとか、するべきと考えるのが思い上がりで、しょせん他人というのは何考えてるか分からないということを頭に置いて社会的にも個人としても気をつけて生きていくぐらいしかないと思うのだが。
「尊い命」がそれによって失われるのを防がなければ、というのであれば、まずは交通事故死とかもっと沢山人が死ぬことの対策を先にやった方が効果が上がるんじゃないのと、人の命が特別には尊いとか思っていない私など思うのである。
交通事故死者は何万人か知らないけど、自殺も年間3万人とかで、大人が起こす殺人事件も普通にある中で、センセーショナルだけど未成年の殺人だけが特別問題だと考えるべきじゃないように思う。
人の命はそこそこ尊いけど、それなりに脆く儚く死ぬときはあっさり死ぬ。気をつけていても災害や交通事故に巻き込まれたら死ぬ、病気で死ぬ、隣のサイコパスに切り刻まれても死ぬ。寿命で死ぬ。だからこそ今生きているということには価値があるし、その分ぐらいは命は尊いと思う。
「罪と罰」について、私はドストエフスキーにではなく虚淵玄に考えさせられる。
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