2024年3月30日土曜日

たまには魚と豆以外のタンパク質を-ナマジのビンボ飯モツ鍋編-

 ワシ、紀伊半島に移住してからこちら、主な蛋白源は釣ってくる魚であり、マアジが安定生産できるようになってからは、基本「アジ釣っときゃおかずにゃ困んねぇ」状態である。マアジの旨さと言ったら”アジの語源は味が良いから”説を支持するぐらいのもんで、生食系でも干しても焼いても煮ても揚げてもなにやっても旨い。さすがに毎日のように食ってると多少飽きてくるけど、それでも旨いので毎日のように食っても苦にならないといえば苦にならない。

 とはいえ、時化続きで底濁りで釣りにならんとか、シーバス日和でアジ釣ってる暇がないとかだと、わが家の主力オカズのアジも在庫が切れる。釣友達にはちょくちょく「でかい冷凍ストッカーでも買って干物とか冷凍保存しておけばいいのに」と言われるが、そんなもん買って冷凍在庫抱えはじめると、常時先に在庫が悪くなる前にそちらを食わねばならない状況が生じ、いつも味の落ちた冷凍物を食べなければならない。まっぴらゴメンである。自転車で5分の近所の漁港でピチピチの活魚が泳いでるのに、何が悲しくて冷凍物を食わねばならん。近所に”生け簀”があるぐらいのつもりで魚食いたいなら食べるだけ釣ってくれば良い。っていうのが理想だけど、そこまでの腕もない故、先ほど書いたとおり生鮮やら干物の在庫が切れる時もある。そういう時はこれまでも書いたように、概ね大豆製品と鶏卵に頼っている。納豆一パックが50gから45gにしれっと小さくなり(おかめ納豆は50gのままでエラい!)、鶏卵の値段が上がったとはいえ、それでもまだまだ価格の優等生達であり、物価高のご時世頼りになる存在である。

 まあ贅沢言わなければそれで済む。済むんだけどたまには贅沢してみたいのよワシも。ということで贅沢な飯と言えば”お肉”な昭和脳なジ様であるワシ、たまには肉でも食うかと考えるんだけど、まあ肉ってお安くはない。都会じゃ魚の方が高いけど、港町だと圧倒的に魚の方が安い。アジなんか一パック200円とかで買える。贅沢して鶏肉買っても良いんだけど、貧乏人なら安い鶏胸肉よりさらに安い内臓肉のほうが贅沢するときの謎の罪悪感にさいなまれずに済む。昔は牛内臓肉とかも安くて、それこそ大阪弁で捨てるモノという意味で”ホルモン”って呼ばれたぐらいだったけど、今じゃ牛や豚のホルモンはB級グルメの主役級の人気でおいそれとは手が出ない価格になっている。関東では関西ほどは人気が無いのか、ハチノス(牛の第二胃)とかガツ(豚の胃)とかなら、たまに行く武蔵小山の中古釣具屋の近くに安く売ってる肉屋があったので、買いだめして煮込んで楽しんでたりしてたけど、港町のこの地じゃ馴染みが薄いのか売ってるのもあまりみかけない。

 しかし、そんな貧乏人の強い味方が以前にも書いたけど鶏内臓肉鳥皮である。100g100円以下とクソ安い上に旨い。今回はこのクソ安い鶏モツのモツ鍋を紹介しつつ。クソ安いということについてまつわるアレコレについて書いてみたい。

 なんのことかというと、ワシの嫌いな”動物愛護団体の人達”が「アニマルウェルフェア(動物の福祉)」とか動物の権利とか小うるせえことを言い始めて、やれ豚を狭いところに閉じ込めて飼うなとか、雌鳥を卵を産む機械のように扱うなとか、うるせぇ黙っとけって感じでワシも黙っちゃいられない。

 先日も「 【ニューヨーク時事(通信)】ストレスの少ない環境で家畜を育てる「アニマルウェルフェア(動物福祉)」を巡り、米西部カリフォルニア州の法規制が畜産業界に波紋を広げている。」とかネットニュースになってて、ただでさえ物価高騰と格差社会で貧乏人がしんどそうな米国で、畜生の幸せのためにさらに食糧の値段上げてどうするって話で、守る順番を間違えるなって説教してやりたくなる老害なワシ。別に金持ちがそう思って、そういう動物福祉に配慮した畜産物を買う分には別にどうでも良い。好きにしろって話である。それを”勝手な正義”を他人に強要して、貧乏人の安い食糧を買う選択肢を奪うなって話である。オマエがそう思うんならそうなんだろうけど、オマエの中だけの話であって他人を巻き込むな。その結果人が飢えて、産業動物である豚が死ぬまでに多少快適に暮らせることを確保することに意味があるのか?著しくバランスと優先順位がおかしいだろ?

 基本犬畜生は犬畜生であって、線引きとしては”人間の方が大事”っていうところでキッチリ引いておかないとマズいって。ワシも愛猫家だから猫の幸せを願ってやまないけど、そこの線引きはしておくべきだと思う。核戦争が起こって「シェルターに猫を入れる余裕はありません」って言われたら、それはそうだろうなと納得する。納得した上でワシはコバンとシェルターの外で生き残る方法を考える。ネコの命より人間の命の方が大事っていうのはその通りだと思う。そのこととワシの感情が「コバンを見殺しにするぐらいなら共に死ぬ」ってぐらいに溺愛してしまっているっていうことは併存している。そういうワシの精神の自由は、個人の責任の範囲の中での自由だからほっておいてほしい。ワシは他の愛猫家の方に同じように考えることを強いたりしない。猫にとって何が幸せかっていうのは、自分の幸せが何か、50年からかかってやっとこさ分かってきたワシには難問ではあるにしてもだ。

 犬畜生であり産業動物である家畜家禽の健康や快適な生活は、もちろん配慮はされるべきである。あるけどそれは健康や快適さが肉の歩留まりや質を確保するためとかに必要であるからというのを第一にして配慮すべきで、採算性や効率化を達成するために削れるモノなら削るのが畜産家の企業努力の1つの方向性であり、安い畜産物を享受する貧乏人としては、多少家畜家禽に狭苦しい思いをさせたとしても、365日休みなく糞尿やら羽毛やらにまみれて働き、安く食糧を提供してくれる畜産農家を支持する。いつも書くけど鶏卵が風邪引いた時に精を付けるときぐらいしか食べられなくなったら嫌じゃん。日常的に気軽に安くて美味しい卵かけご飯とかが食べられる幸せって、雌鳥をケージに押し込めて不幸にしてもワシ譲りたくない。見ず知らずのニワトリの幸せなんて知っちゃこっちゃないぜワシが幸せになりたい。ぶっちゃけ死ぬほど酷い環境で飼育されたら死んでしまうので売り物にならず、家畜家禽はどうやったってある程度は大切にされるのでほっときゃいい話だと思っている。むしろ人間の方が今の社会では、ぶっ壊れたら新しい人を雇えば良い程度の家畜以下の”部品”扱いされていて”社畜”とか揶揄されるよりまだ酷い実態もあるように感じる。部品扱いされる人間の幸せをさらに削ってまで、家畜扱い程度は確保されている家畜たちの福祉を求めることのなんと歪なことか。

 ほんと、動物の福祉とか言い出す輩の気持ち悪さは鼻につく。「上げ馬神事」が動物虐待だとかで中止に追いこまれている。しらんがな。ヤツらは競馬とかももちろん槍玉にあげていて、競馬で鞭を入れる回数とかにまで口出ししてきてるらしいと聞いてウンザリする。競馬がなくなったらそもそもサラブレッドの存在価値がなくなってサラブレッド生きていけなくなっちゃうじゃん。動物を娯楽の対象として消費するのはどうかというのは、放流した魚釣ってる釣り人としても複雑な感情はあるっちゃある。サラブレッドっていう品種が無くなっても馬としてはいなくなりはしないだろうし、人間が無理くりねじ曲げたような歪な品種を維持する意味はと問われると、正直答えに窮する。ぶっちゃけダックスフントとかもうウサギの穴にもぐらなくても良いンだから脚伸ばしてやれよと思わなくもない。そういう品種の血統を保つために、おそらく品種の基準から外れたような子供は間引かれてるんだろうとか、近親交配で病弱になってるのは避けられないだろうとか思うと、奇形みたいな品種をありがたがるなよ、ってワシの股ぐらでまどろむ雑種の愛猫を撫でながら思う。でも、その品種の形作られた背景、例えば牧羊犬のボーダーコリーの賢さや、水鳥を回収(リトリーブ)する狩猟犬であるレトリバー系とかの水遊びではしゃぐ姿とかを見ると、いろんな特徴をもつ品種があって保たれていることの価値もまた認めざるを得ない。このへんはもう、個人個人の趣味やセンスの問題で、どこまで許容するかなんて変わってくるんだろう。ワシも線引きは単なる好みでしかない。イエネコの巨大品種メインクーンとか飼ってみたい憧れがあるし、犬でも狩猟犬系は格好いいと思わずにいられないけど、正直奇形みたいなミニチュアダックスフントやスコティッシュフォールドとか見ていてやや不快ですらある。でも、そんなこと言い始めたら金魚の世界なんてデメキンとかランチュウとか”THE奇形”でっせ、って話でペットの場合はそれもありって思う人があながち間違ってるとも思えない。まあそういうこと含めて個人のセンスの問題で特に酷いとかの場合を除いて、他人の趣味にはとやかく言わないのが正しいのかなと思う。おもっきりとやかく書いてしまってるけどな。気を悪くした人がいたらゴメン。

 ただ米国の事例を始め、うかうかしてると食うもんなくなりそうな主張をしている愛護の輩どもの意見が力を持つ程度に、人が他の生き物の命を奪っている、その”命の軽さ”から遠ざかってしまっている現代なので、ジジイは心配で書かずにおれんのである。ドイツの現政権は支持母体の一つが動物愛護団体らしく、オオカミが保護の成果もあって増えつつあるのは良いことなんだろうけど、そうなると当然放牧している家畜が被害に会うなんていう問題が生じる。でもドイツじゃ今オオカミの捕獲とかの許可は出ないらしい。オオカミは生態系の秩序を左右する高位捕食者だからその保護は意義が大きく重要なんだろう。だろうけど、増えて被害が生じるなら数の調整やらなんらかの対策も必要だろうけど、それを許さない盲信。さすがナチスを産んだお国柄、振り子がどっちかに振れるときはおもいっきり振れて猪突盲信、というとドイツだけを侮辱しているようで申し訳ないので、我が国も今だ”大本営発表”で情報操作されて”隣組”で相互監視して異分子をつるし上げていやな”空気”を醸成していた国民性からまったく変わってないということを恥ずかしながら指摘しておこう。マスゴミの情報誘導に引っ張られて流行に流され、しょうもない個人の失敗をSNSでつるし上げる。第二次世界大戦時の国民性と何が違ってる。っていうワシも昨年のクマ騒動のおり、適当に数減らすしかないじゃんって思ったけど、carankeさんに「マスコミの煽りを受けてクマ駆除の方向に行きすぎないか心配」と言われて、ワシも”空気”に流されつつあったことを認識し恥じたしだいである。野生動物とは適切な距離感が重要であって、化け物扱い敵認定して闇雲に恐れて排除しようとするべきではないだろう。冷静に論理的にと思っていても、情報やら空気感やらに影響されないなんてなかなかあり得ないということを含みおいて、物事は考えなければならないと肝に銘じた。自分なりの真理、絶対的な正義、そんなもんはない。そうあなたやワシが思うモノは自分に都合の良い誰かの意見なり多数者の意識、それらの借り物に毛が生えた程度と思っておくべきだろう。そういう、人の意見に流されがちなのが枢軸国だけじゃないのは連合国側の米国でも同じなのを見れば明らかなので、西も東もグローバルスタンダードもイスラム社会も”共感性”を武器の一つとして生き残ってきたというホモサピならそこから逃れられないのだろう。”みんな違ってみんなダメ”。だからこそ天邪鬼は必要であると、ワシのようなひねくれ者の意見も必要なんだとワシャ思うんじゃ。空気感に流されかかってるところで、冷や水浴びて冷静になって一旦立ち止まって考える。その冷や水になれるよう天邪鬼としての務めを果たしていきたい。

 っていう永い枕を一区切りつけて、本題のビンボ飯的モツ鍋の紹介に移っていきたい。いうても簡単である。材料は鶏モツ(今回はレバーとハツ)、鳥皮、ニラ、キャベツ、めんつゆ、ラー油というところ。モツ鍋の旨さの要素として牛モツの脂の甘さがあるので、脂っこさのある鳥皮は安いけどその代役を果たしてくれる。内臓料理といえば、ミソとか濃いめの味付けで癖を殺して臭みを誤魔化しというのが一般的で”ドテ煮”とかまさにそういう料理だけど、モツ鍋では味付けはアッサリとした醤油出汁っていうのに、博多の食い道楽どもの非凡なセンスを感じる。匂い消しにニラはぶち込むにしても、今時の処理のしっかりした鮮度良く流通する内臓肉であれば、そこまで癖も臭みもないので、内臓肉本来の野趣溢れる風味として楽しめる味付けになっている。

 2年と少し暮らしたけど、博多はメシが旨い。食の名物も博多ラーメンから鶏の水炊き、アラ(クエ)鍋、明太子といったメジャーどころから、ややマイナーな柔らかい博多うどんにはゴボ天乗せるのがワシ好きだったし、意外に目の前で揚げてくれる安い天麩羅屋というのも博多流でお気に入りだった、寿司屋も回ってるのも回ってないのも魚自体が美味しい土地柄なのでレベルが高かった。魚と言えば刺身食べるときに醤油が甘くて最初慣れなかったけど、慣れてくると名物料理のマサバの刺身に胡麻がかかってる”胡麻サバ”には甘い九州の醤油じゃないと物足りなくなってくる。飲んべえの多い九州を代表する繁華街でもあるので名物の屋台も楽しいし、焼き鳥やら居酒屋やら街中華やらも総じてレベルが高い。ああ「ハルピン」の中華飯が懐かしい。

 調理は材料切って、お好みの濃さに水で薄めためんつゆを沸騰させたらぶち込んで、モツに良く火が通ったらラー油を垂らして完成。とアホぐらい簡単である。料理というほどのものでもないけど、鶏モツはあらかじめハツの中の血の固まりとかは洗い流しておくのが良いかな。ニラだけだとクドすぎるところをキャベツがバランスを取り、キャベツ自体も出汁を吸って美味しく、鶏モツは血の臭いを感じさる良い感じの肉肉しさで、鳥皮の脂のコクも箸を進める。ワシ飯のオカズにしてバクバク食ってるけど、飲みながら食べても悪くないだろうと思う。安っすい材料だけど腹一杯に肉料理を楽しめる。

 こんなに安くて美味しいのは、養鶏屋さんの企業努力と鶏の犠牲があるからにほかならない。ワシはワシの幸せのために安い畜産物を支持する。豚も鶏も皆ゴメン。

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