2021年5月1日土曜日

ウサギ美味しい蚊の山

 テレビジョン用の受信設備の無い家に住み、Yahoo!様からお薦めされてくるネットニュースぐらいしか”報道”的なものに触れる機会のない”情報つんぼ桟敷”に座ってる”ヤフー家畜人”なワシだけど、最近猫様関係の記事は結構読ませていただいているので、ペット関連、動物愛護関連の記事もお薦めいただいている。

 うすうす感じておられる方もいると思うけど、ワシ動物愛護ファシストどもの気色悪い主張は大嫌いなので、なるべく目にしないようにしてお薦めされても読まないようにしているけど、それでも見出しだけでもだいたい中身が分かるような案件が話題になってたりして、ああまた頓珍漢なこと書いてるアホがいるなと思わされる。

 なんでも、飼ってるヘビやらトカゲやらの爬虫類にウサギだのハムスターだのを食べさせてネット配信したユーチューバーがいて、動物愛護法違反の疑いで書類送検されたんだそうな。記事読んでないけどニュースの見出しには「残虐」とかいう文字が躍ってていかにも極悪非道な行いのように書かれて読者の気を引こうとしている様がみてとれるけど、”餌金”というあんまりな呼び名で魚食魚用の活き餌としてキンギョが売られている観賞魚の世界に長く親しんできた人間からしたら何をいまさらという感じで、これが多くの人には「残虐」とまで感じられるほどに生き物の命を奪う機会、場面から人が遠ざかっていることにこそ危機感を覚える。何度もそう書いてきたけどしつこく書かざるを得ない。

 確かに、可愛いうさちゃんやハムちゃんを食わせるのを見世物にするのは悪趣味だろうし、場合によっては動物愛護法に抵触する行為ではあるだろう。ただ、うさちゃんハムちゃん食べさせなければ肉食のヘビやトカゲに何たべさせてるかっていえば、餌用に生産されて凍結されて売ってるラットやらマウスやらのネズミちゃんを湯煎かレンジでチンして人肌にぬくめて食べさせてるわけで、うさちゃんハムちゃんはダメで、ネズミちゃんは良いなんてことになったら、ラットやマウスの飼い主の人は「不当なネズミ差別だ!」と憤るだろう。ワシもそう思う。思うけど、動物愛護法(動物の愛護及び管理に関する法律)的には純然と差別されていてペットとして飼われていなくても「牛、馬、豚、めん羊、やぎ、犬、猫、いえうさぎ、鶏、いえばと及びあひる」は動物愛護法の対象として虐待などが罪とされていて、さらに書くならペットとして飼われているような「人が占有している動物」で哺乳類、鳥類又は爬虫類に属するもの、は愛護動物として法の対象となるけど、両生類以下は動物保護法の対象外と差別的な扱いを受けている。なんぼワシがカエルちゃんを愛玩していたとしても法的には器物扱いにしかならない。不当な両生類差別であると憤りを感じる。逆に前者の優遇された11種がペットじゃなくて野良だろうと何だろうと”ダメ虐待!”なのは「人間社会に高度に順応した動物」という観点から特別扱いしているそうで、うさちゃんはここに入ってくる。よって件のユーチューバーの行いのうちうさちゃんに対しては動物愛護法違反の構成要件は満たしているように思うが、ハムちゃんに関しては罪を構成し得ないはずである。もっというなら「冷凍ラットがよくて、なぜウサギの活き餌はダメなのか?同じじゃないか」というそもそも論の主張を被疑者であるユーチューバーはするだろうけどその場合には、被疑者は”犯罪を犯したという意識はなく正しい行いをしているという認識で行っている”という本来の刑法的な意味での”確信犯”であるような気もして、その場合動物愛護法は過失でも罪が問われる法律ではないので”犯意無し”として罪に問えないのではないかと思う。法制度上の違いはあっても社会通念上ネズミがOkでウサギがダメって程の違いはないだろって気がして被疑者の主張(勝手な想像上のだけど)があり得ないほど常識外れではないように思えてならない。おそらく書類送検されたとなってるけど、こんなもん検事さんも送られてきたところで裁判闘えるかっていったら微妙で、個人特定できる形で報道されて社会的に制裁が与えられたことをモロモロ酌量して犯罪の事実はあったけど不起訴とする不起訴処分か、比較的少額の罰金ですます略式命令処分で裁判避けてお茶濁すと思うけどこの手の報道で書類送検の結果、最後にどうなったかなんてのは続報無いのがほとんどなのでワシが知ることはないだろうと思ってる。

 件のユーチューバー氏の行いを支持するかって聞かれると、まああんまり悪趣味な見世物で銭稼ごうとするなよ、個人で楽しんどけって話だとも思うし、多くの人に不快感を与えるのを考えてからやれよなとは思うけど、魚食魚に活き餌やる残酷ゆえの迫力ある楽しさって馴染みのあるもので知らないわけじゃないし、ライギョマンが激怒するだろうことを承知でカムルチーの調理場面の写真とかサイトで公開しておいてどの口でオマエが批判できるって気もする。なので、思いっきり”命の差別”的な、動物愛護法を含めた今の一般社会の生命倫理感の矛盾をついて略式命令なんぞは蹴っ飛ばして裁判で闘ってその結果をユーチューバーとして報告してくれたらそれはそれで面白いし意義あることかなと思わなくもない。

 ハッキリ言って、今の生命倫理観とそれに基づく法とかの規則はいつもワシが主張するように今の一般的な人々というか多数派の”好み”でしかない。それはそれでこれっていう確固たる答のない問題では仕方ない話で、時代や社会毎に変化もするだろうし、規則なんかはその時々の社会集団の”空気”読んで決めるしかないんだろうけど、ウサギを虐めて遊ぶのがダメだっていうのはワシでも同意するけど、じゃあ自分の飼ってる爬虫類の生きる糧とするのがダメかって聞かれれば、ウサギ食用にもしてる人間共がなにテメエだけ手を汚してないような顔してヘビがウサギ食うのを残酷だと批判するって正直思う。ヘビがウサギ食うように人間だってウサギ食う。「私はウサギ肉なんて悪趣味なもの食べたことがない」だって?そういう無知こそ情報化社会と喧伝される現代では”罪”なのではないかとおもう。西尾維新先生が作中登場人物に吐かせた名台詞「無知は罪、馬鹿は罰」は後生に伝えて良い金言だと思う。ウサギ肉、食感がよくなるだかなんだかでハム・ソーセージとかには結構使われてて、多分みんな知らずに意識せずに食べてます。意識もせずに他人が手を汚して命を奪って調理してくれたものをぞんざいに食らっておいて、単に目に見える形で衝撃的なものを表面的な感情のみで”残虐”とまで罵る理不尽さ。これはいったい無知なのか馬鹿なのか?そもそもウサギ食うのは悪趣味で豚は牛はニワトリは良いのかって言い始めると、ヴィーガン(「菜食主義の持続的社会論者」ぐらいの意味)とかがエラそうにしゃしゃり出てきて動物食うなとか言い出しそうだけど、植物だって、動物のように神経系が発達してるわけじゃないので、人間の感覚では理解・共感しにくいってだけで、害虫に攻撃されたら防衛的に毒生産したり、果ては周りの”仲間”に化学物質使って警告を発して情報伝達さえしている。動物のような仕組みの感覚や意識は持っていなくても、全く別の仕組みをもっていて”生き延びよう”と懸命に生きているのは明白で、そこは等しく尊い命であるはず。その植物の命は奪って良くて、動物はダメっていうのもやっぱり結局アンタの好みでしかねぇんだぜッテ話。

 結局は、そういう主張ってどこまでいっても”好み”の域を出ないから、自分が思う主張を各自すれば良いし、嫌な仕組みだけど多数決的にその時々の空気を反映させた規則で縛って規範を示して最低限の合意を形成しておくってぐらいが現実的かつ関の山なんだろうなと思う。ただ放ってておくとヴィーガンみたいな極論をさも正論のように振りかざす輩の意見がまかり通る、”こうるせぇ少数者(「ノイジーマイノリティー」って意訳するとこんな感じだと思う)”の声が通りがちな昨今なので、ネットの隅でチマチマとゲリラ活動的にワシの意見も書いているのである。


 最近、動物愛護ファシストどもに攻撃されている事例で考えさせられる案件が別途あって、生命倫理に関係するネタ繋がりでもいっちょ書いておきたい。

 狩猟の問題である。我が国では鳥獣害が増えて生態系のバランスを保つために狩猟に一定の役目が期待されているところであるけど、一方、欧米のお金持ちの世界ではいわゆる”トロフィーハント”と呼ばれるような、大物を仕留めて剥製にして胸像を暖炉のある部屋に飾るような趣味がある。むろん日本の狩猟の人達も大っきいの獲ったら嬉しいだろうし鹿の角とかイノシシの毛皮とか記念に飾るかもしれないので、明確に線引きがあるわけではないと思うけど、そのトロフィーハントの極端な例として、昨今では野生では保護下にある動物種を飼育し繁殖させて、牧場なり広い敷地内なりに放してトロフィーハンターに狩らせて対価を得るっていう形態の事業が行われているようで、許可を得た業者がたとえばライオンを繁殖させて、それをハンターに提供するというような形で、野生動物の原産地である途上国で貴重な外貨獲得の手段として観光業としてなされている他に、ハンターのいる欧米において、これまたルールに基づいて生息地から連れてきて繁殖させた野生動物を広い土地に放してハンターに提供するという、銃で撃って良いサファリパークみたいな商売もあるんだそうである。

 当然そうやって”合法”に仕留めた狩りの成果をハンターは誇らしく記念写真撮ってツイッタ-とかフェイスブックとかのSNSに上げる。結果、多くの人から批判を浴びて炎上するのである。

 たしかに、ライオンだキリンだという”ザ・野生の王国住民”って感じの素晴らしい動物たちが、無残に血を流しながら撃ち倒されているのは、さすがに残酷に感じるし、それが狩猟の楽しみのためだけに繁殖させられた動物であるって知ると、なんともいいようのない野生生物に対する尊厳の欠如を感じたりもする。

 するんだけど、もうすでに目端の利く釣り人の方々は気がついてると思うけど、これ我々釣り人の多く、とくに日本で内水面の釣りを楽しむ人間には全く批判する権利が無いんじゃなかろうかということに思い至る。ヤマメでもアユでもヘラブナでも、釣りの楽しみのためだけにどれだけの魚が繁殖させられ放流されているかって話で、自分で書いてて思いっきりブーメランが戻ってきてザックリ刺さって致命的な感触がある。

 以前も書いたけど、他の命を楽しみのためだけに奪って良いのか?って問い詰められたら、食べ物は結局他の生き物の命を奪って得たものだから、楽しみのために他の生き物の命を奪ってはいけないというのなら、楽しいことをするときには飢餓状態でエネルギー使わずやらなきゃならないって理屈で「ワシ楽しみのために魚の命奪ってるけど、楽しんで何が悪いねン、楽しみのために他者の命を奪ってはいけないってのなら楽しいことは何もしてはいけなくなる。そんなのまっぴらゴメン、ワシャ楽しく釣らせてもらいまっさ」って強弁してきたけど、百獣の王が銃で撃たれるために育てられている、という事実を知ったときに、胸にわき起こる”申し訳ない”感じは、解禁日に間に合わせるように放流されてるヤマメやらアユやらについても感じなければいけないのではないか。釣り人はそれが当たり前だと思ってしまっていて、その行為の罪深さをわざと考えないようにしているけど、ちゃんと心に刻んで覚悟して釣らなければならんのではないかと思い知らされる気がする。

 実際に”先進国”の動物愛護ファシストには当然ながら「釣りなどやめてしまえ」って主張してる人々は珍しくもないようで、あんまり先進的って程でもない我が日本ではそんな話対岸の火事だろうって思ってると、思わぬ形で変ないちゃもんつけられてそれがまかり通って制度化してしまうような、人の楽しみを平気で規制する、伊藤計劃先生の傑作SF小説「ハーモニー」に描かれたような”小うるさい母親型のいやなディストピア”が顕在化しているようにも、表現の規制やら嫌煙ファシズムとかをみてると思うので、気をつけておかねばならんと思うし、変なことがあったらせめてこのブログの読者様だけにでもご注進しておかねばと思うのである。

 変ないちゃもんが制度化した事例としては、いろんなところで条例化されているブラックバスのリリース禁止とかがすでに我が国ではあり、ある生き物を手にしたら殺せと制度的に強制されているのって、伝染病の病原生物をのぞいてまずないのではないだろうか?例えば駆除対象の害虫であっても「見つけたら殺せ、殺さなければルール違反」なんていう何もしないことがとがめられる事例はあんまりしらないんだけど、そんな異常な仕組みもなんかわけの分からん”空気”でできてしまっている。

 ドイツ人はユーモアに乏しく融通がきかないっていう、まるで日本と同じような国民性だそうだけど、魚を楽しみのためだけに傷つけて良いのか?って議論になった末に最終的には「食べるために釣るのは良いけど、楽しみのためだけに釣るのはダメ」ってなって、体長制限以下のを除いて”リリース禁止”になったそうである。釣ったら感謝して食えと。そういう考え方があっても良いと思うけど強要されるのはまっぴらゴメン。オレの仕留めた獲物をオレがどう扱おうとクチバシ突っ込むなって思うよね。

 結局、他の動物に対する人間の行いが許されるか否かなんてのは、資源管理や種の保存的な意味合いの判断の場合を除いて、残酷かどうかとかのあやふやな感情論をもとに判断するようになると、どうしたって誰もが納得するようなところには落ちなくて、ボヤボヤしていると声の大きい”小うるせぇ少数者”の意見が通ってしまったりするってのは、どこの国でも一緒のようである。

 ワシ、源流の岩魚とか、大きく育つのに時間が掛かっている大型ロウニンアジとか絶対殺したくないし、殺して欲しくもない。ただ、それはワシ個人の願いであって、殺したって規則に反するような罪じゃないことは理解しているので、リリースするときに他の釣り人とかに殺されないように願って放流しているけど、殺すヤツは殺すと知ってるしそれを規則で止めさせようなんて考えない。まあ興味ない人にとってはただの魚だからな。でも、桟橋に並べられたロウニンアジの写真とか、新聞紙にズラッと並べられた岩魚の写真とか、撃ち殺されたライオンの写真より気分が悪くなる。それはワシの”好み”なんだと理解している。

 なるべく客観的に見る努力をして考えるならば、岩魚だろうがロウニンアジだろうがライオンだろうが、種の存続を脅かすような殺し方はまずいとしても、そうではなく、制度上問題ない手段で殺された生き物を、楽しみのためだからとかなんだとかで区別しなきゃならんほど気にしなきゃならん問題なのかって思う。そうやって特定の生物を殺されたくない人間が”好み”でそう思って、殺さないでと声を上げ、何とかしようとするのは自由だと思うけど、しょせん犬畜生とかそれ以下の生き物の命なんて、割と強者である人間が好きなように奪って当たり前ってのを前提に、”命の軽さ”を認識しておかないと、全ての生き物により良く生きる権利を、とかわけの分からんこと言いだしたってどうにもならねえって話で、家畜とか食うために囲って育てて殺しまくってる。そういう、感謝していようが丁寧に扱っていようが、本質的、根源的には命を軽く扱ってることとのバランスで、あんまり個人の”お好み”の生き物を依怙贔屓して大事にしようとしても、他の生き物の命を奪って生きているっていう人間の生活の根源のところと矛盾した話になってくるので、命は重く尊いってのも分からんではないけど、それでもそれを軽く扱わずに生きていけないという、”命の軽さが大切”っていうのも逆にまたあるんだよって、後者の方はあんまり語られることもないように思うので、にもかかわらず大事な視点だと思うので、天邪鬼の務めとして命の吹けば飛ぶような軽さにつては、機会を見つけ折に触れ、ジジイの繰り言そのものとして何度でも書いておきたいと思う。

 世界には幸せに生きていない人々が居る。途上国にはいっぱい居るだろうし、先進国にも珍しくないぐらいいる。人間以外の動物よりは、まずはそういう人々から幸せになっていくべきだと思う。っていうか個人的にワシが幸せに暮らしていきたい。そのためには他の動物だのはある程度犠牲にしないと間にあわないはずである。余力のある範囲でやるならともかく、それを”アニマルライツ(動物の権利)”とか言い出して、他人様の商売にケチをつけて、結果食糧生産はじめ経済活動が妨げられて幸せに生きていけない人々が増えてしまうなんてことはクソだと思う。ニワトリを産卵する機械のように扱って狭いところに押し込んで効率性を追求しているおかげで安い鶏卵が食べられるのである。放し飼いの地鶏の卵しかダメってなったら鶏卵なんて風邪引いた時に精をつけるためにぐらいしか食べられなくなるような昭和の初期程度にまで食事情が後退する。鶏卵業者さんありがとう、鶏さんゴメンナサイコケコッコーって思うだけでは赦されない罪だとしてもワシャ安い鶏卵を支持する、ってなことに始まって、自然を切り開いて田畑作る農業なんてのも野生動物の生息地をもろに奪った上での行為だけど、じゃあそれなしでみんな生きていけるか?って話。程度問題はあるにしてもそういうことだと思う。

 ヘビがウサギを食べる。当たり前だけど残酷なことで、食べられるウサギの命はヘビによって究極的に軽んぜられる。それは飼育下では特殊だとしても、もしかするととても自然なことですらあるのかもしれない。ワシらも直接ではなくても手を汚さずに生きていけないけどそれは自然なことで、ある程度命を軽く扱わないとやっていけないのは確かなことだと思っている。その、他者に簡単に奪われてしまう軽い命を我々も一つだけ持っている。病気でも事故でも災害でもあっさり死ぬ。だから死ぬまでの生きている間に、死にものぐるいで他者の命を軽んじて食いモノにしてでも楽しんでおきたいとワシャ思うのである。

 いろんな意見があって良いと思う。でも表面的に感情的に受け入れやすくなんだか正しそうな、その実何の意味も論理も哲学もない見解に付和雷同して空気感を醸成して、あげく規則とかにまでしてしまって、それを権威あるものとして、「みんなが言ってる」「規則でそう決まってる」って、さも正しいことのように振りかざして他の意見を認めず攻撃する行為はまさに”ファシズム”という気がするのである。感情論に終始して論理的な反論を受け付けてくれない問答無用型のカーチャンみたいなファシストどもの多い嫌な未来になったものである。ウルセェっての!!


※5月8日追加、南アフリカ共和国ではライオンを使った”観光産業”等商業利用が禁止されるとの報あり。

1 件のコメント:

  1.  ドイツで今度は、卵産ませるのに使えない雄ヒヨコの大量処分の禁止が決定したんだと。
     人間をガス室に送り込むのとヒヨコの命を大切にするのとは一見真逆に見えるけど、ちょっと考えたら分かりそうな根本的な間違いに向かってみんなで突き進む雰囲気になるって根っこの部分が全く一緒におもう。
     ドイツ人はそういうファシストの気があるんじゃないかと疑わずにいられない。まあ日本も含めどこも同じようなものかもだけどね。

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