2015年1月18日日曜日

狂気



 開高先生がよく「釣りに大事なのは運・勘・根」と言っていて、なるほどなと思わせられたが、その開高先生が釣りの旅でガイドに「釣りに大事なのは何?」と聞いて得た回答のうち、アメリカのバスプロ2人のものだったと思うけど「コンフィデンス(確信)」と「ペイシェンス(忍耐)」というのもなかなかに味わい深い良い答だと思った記憶がある。

 開高先生、映像で釣れない釣りの続くシーンで「ペイシェンス!ペイシェンス!ペイシェンスッ!!」とかブチギレて叫んでるの見て腹抱えて笑った記憶がある。「イラチ(関西弁で気の短い者の意)」を自認する先生らしいお茶めっぷり。

 一方で「コンフィデンス」については、これこそがルアーや自分の技術に魂を宿らせるのではないかと思っている。「このルアーなら絶対!」とか「オレの腕なら間違いなくやれるはず」という自信が、集中力やここ一番での粘り強さを生み、迷いのない選択は、あれこれ迷っていてはその隙に逃してしまうチャンスをモノにさせてくれることがあるはずだ。

 「釣りに大事なのは何?」の回答で我が人生最高のものは、若い頃のケン一の以下の回答。
 一、まずはなにはさておき体力
 二、センスとか才能とかよばれているモノ
 三、気が狂っていること
 聞いて爆笑した後に、「オレ、一と三は結構自信あるよ」と言ったような気がする。
 確かに、常人では理解できない「気が狂っている」としか思えないような突拍子もないアイデアやら釣りへの執着をみせる凄腕釣り師っていて、まあ普通の常識人には普通の釣果しか得られないから、釣りするには他人から見て気が狂っているぐらいじゃないとイカンのだろうなと、とても納得いった。
 「キチガイ」という言葉は我々の業界ではむしろ褒め言葉です。「釣りキチ三平」とかね。

 その若かった当時、年間150日とかあきらかに頭がおかしいレベルで釣りに行ってた。それでも自分が普通で常識的で凡庸な存在ではないだろうかという不安は抱いていて、その不安はある意味正しく、普通に仕事にも行きながら釣りに行っていたわけで分別が無かったわけではない。正気と狂気の境目なんて線が引けるわけもなく、どこまで行っちゃってたところで自分の狂気がそれで足りるのかなんてのは分からないわけで、若い私は自分の中に明確な「狂気」が無ければ自分の求める釣りにはたどり着けないと、やっぱり今思うと頭おかしいことを考えており、自分の中に狂気があることを自分に示すために、雑文のどっかで書いたけど、自分で自分の乳首にピアスを入れるというアホなことをやったのである。たぶん私の中に狂気は間違いなくあった。その後、当時釣りたかったイワナの40は無事ゲットした。

 イワナの尺モノぐらいは、当時住んでいた東北であれば狂気などなくても普通に釣っていれば釣れた。でも40,50となると普通に数が釣れる場所では釣れなくて、そういう良く釣れるウハウハな釣りをあえて捨てて、なかなかチャンスの少ない本流の鮎食ってるヤツとかダムのワカサギ食ってるヤツとかを狙う必要があって、そういう釣りはぶっちゃけ釣れないしデータ取るのも難しいので、赴任期間の2年かそこらで釣るにはそれなりに覚悟を決める必要があったのである。覚悟決めて雪崩で死んでもかまわないつもりでスノーシューズ履いて解禁直後のダム湖に突撃したり、流されて死んでもかまわないつもりで放水するであろうタイミングを狙ってダム直下に入渓したりとダムに絞って狙った結果、雨後のダム直下、38.5を釣って、また40に届かんかったか、と思った直後に念願の40を釣っている。
 そういう危険も伴う行動について、褒められたモノではないというか厳に慎むべきと思うのだが、そこまでやってでも釣りたいと思ってしまったのだからしょうがなかったとも思う。

 今、歳をとって体力の方ははなはだ自信がない状況だが、狂気の方はこれがなかなか健在だと、昨日の釣りでも感じたところである。
 少なくとも10m以上だかの風が吹く1月の寒い夜、ダム湖でナイターでワカサギ狙ってる釣り人は私以外に一人もいなかった。
 ビュービュー風が吹きつける釣り場に人っ子一人いないのを見て「これは魚が釣れないんだろうな」と思うより先に「ムフフ、釣り場独り占めジャンよ!」と喜ぶ頭のおかしさが頼もしい。
 自分が釣り人として凡庸なレベルにあることは残念ながら事実のようだが、それでも自分がどうも普通っていうこともないらしいことに安心を覚える。

 私の狂気は歳をとっていない。

2 件のコメント:

  1. 当時、体力だけは自信あったんやけどな。 雪の中バイクでシラメ釣りに行ったり、初冬の大河川の河口で夜中にフローターで浮いたりといった単なる若気の至りを狂気と勘違いしてたってのもあるけど、そういうバカな釣りのことはよく覚えている。 
    オノレが心に描いていたようなセンスも狂気もないというのが判ってしまった現在、最後に頼っているのは「運」だけ。
    体力に期待できんこの年齢になってみると、「何でも面白がれる」っていうのが何につけ才能のひとつなんじゃないか?などと思い始めております。

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  2. ケン一 おはようさん

     オレは釣りに運ってあんまり無くて、長期的に見れば必然やと思っている。釣れる確率が発生するだけの準備をして、充分に多い回数釣りに行けば遅かれ早かれ魚は釣れるというのが確率論的な帰結。
     あるときコイ師が並べていた竿を1本残して片付けているシーンを見て「沢山並べてたほうが確率増えるんじゃないですか?と聞いたら「回遊するコースは分かったし、1本入れておけばどのみちコイは見つけて食う。多少遅いか早いかの違いだけです。」と言うのを聞いて、蒙を啓かれる想いがした。
     あとは「充分な回数」という曖昧な回数が死ぬまでに来るように確率あげて待てと言うことだと思う。それでも死ぬまで来ない結果もありえるけど、それは運が悪かったというより、努力量が足りなかったんだとオレは思う。短期的にはその都度「運」の良し悪しって絶対あるけど、長期的にはそれはプラマイゼロに近いものにしかならないと思う。だからオレは釣行回数を稼ぐのにはこだわる。という考え方。正しいかどうかは別やけど。

     「何でも面白がれる」とか「好きでい続けられる」とかいうのが、英語でギフトと言われたりする「才能」の一つで間違いないとはオレも思います。それさえあれば、あとは何も無くても楽しく釣りを続けることはできるでしょう。

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