2015年1月31日土曜日

値段がつかないからといって価値がないわけではない


 ネットでちょっと前に見かけたやりとりで「金より大切なものなんて存在しねーよ!誰か反論してみろよ」という挑発に即座に「だったら金を使えないだろ。論破終わり」という返しを書き込んだやつがいて、「俺は今、本物の論破を見た!」と激賞されていて、ネットの片隅にはなかなかの賢者がいるようだなと感心させられた。

 お金があればある程度何でも買える。お金が大事だというのもある程度そうだろうと同意する。ただ、お金っていうのは、本来価値のある物、例えば食料だとかサービスなんていうものを、全部現物で保管してはおけないしサービスなんてのはそもそも保管という概念と相容れないので、そういう価値のある物と交換可能な便利なモノとして作られた道具であり手段である。道具だから本来使ってこそ意味があって、一番大切で使えなかったらネットの賢人のおっしゃるとおり意味がない。お金は手段であって、本質的にはそれ自体が目的にはならないはずである。どれだけ現金があっても使わないならただの紙切れだし、銀行口座にあればケツ拭く紙にすらならない数字でしかない。お金が沢山欲しいという場合、硬貨マニアとか特殊な物質崇拝的な心理を除けば普通は、お金がたくさんあって食うに困らない、欲しい物が沢山買える、楽しいサービスも沢山利用できる。という金を使って良い目を見たいというのが目的で決して金そのものが目的ではないと理解している。

 なぜ金の話をし始めたかというと、先週carankeさんと東京郊外の湧き水の川で、魚を釣って鳥を見て、いろいろと話したときに「こういう生き物が棲める環境があるっていうことの価値って、費用対効果とか経済的な価値では計りにくいんですよね」という話題になって2人でグチグチとコンクリートでどこでも固めたがる人達の悪口をいいつつ議論したりして、その後もいろいろ考えたからである。お金に換算する方法がないので経済的に評価しづらい、そういったものにも価値のあるものがあると、金で買えないような、かけがえのないものもあると私は信じるという話である。

 東京ぐらい経済優先で突っ走って行き過ぎたのが表立ってくると、さすがに残された貴重な自然や文化遺産は残していこうという機運は高まっていて当然で、くだんの湧き水の川も水辺の公園が良い塩梅に手を入れて人と共存する里川的「自然」に整備されていたり、水源地の一つが昔そのあたりの農村によく見られた竹林とセットで公園となっていて、河岸段丘の断面からポコポコと湧き水が湧いてくるという地理学的な知識を裏打ちする、まさにその現場を目で見て感じることができたりと、割と自治体も気合い入れてちゃんと考えて保全やら教育やら含めて力を入れている様がうかがえた。

 魚も鳥も虫も沢山いるので、釣ってても鳥見ていても、都心から電車一本でこんなに楽しめて良いのだろうかというぐらい良いところなのだが、果たしてこの良さがどれくらいの釣り人に理解されるのかは疑問である。分かる人には分かると思うのだが、ものすごい数の釣り人が東京の周辺にはいて、あやしげな爆釣情報などネットで流れると「人山」がたってえらいことになるくらいなのだが、なぜかネット検索であっさりたどり着けたこのポイントには釣り人は全然ストレスを感じない程度の少数しか来ていない。
 よくフライフィッシングにおいて、「生態系全体からのアプローチ」とか大上段に構えた大仰なキャッチフレーズを目にするが、時にそれが形骸化してなんか小難しく水生昆虫の種類やら生態やらをゴチャゴチャと知っているのがレベルが高いと勘違いしているような気配を感じることがあって、もちろんすざまじいレベルでホントに生態系全体から魚に迫って行っているフライマンもいるのでちょっと失礼かもと思うが、そういう洒落臭い知識じゃなくて生態系っていうなら、もっと虫と魚だけじゃなくて山川見て鳥も見ろよと正直思う。山に雨が降ってそれが染み込んだのが、河川に切り取られた河岸段丘の崖から染みだして湧き水の川になる。地熱で暖められた湧き水は水温安定していて冬でも暖かく、その分水中の植物ももちろん虫も年間通じて豊富で、それらを餌に魚も鳥も多いという知識をもって冬この川をポイントに選ぶというのは、大雑把ではあるけれど「これが生態系からの魚へのアプローチです!」と胸を張って言い切れるものであり、carankeさんという鳥の専門家の案内で鳥の世界も楽しんでみたりしたらもう、楽しいの楽しくないのって、まさに「金には換えられない」楽しみであった。

 ただ、この楽しみは、文字通り価値がお金に換えられない類いのもので、費用対効果とか考え始めると、釣り人やバードウォッチャーが多少来たところで、まず公園整備や河川環境保護の経費が賄えるような額にはならない。ただこういった現物を見て生態系やら河川、地域の歴史やらの地理学を学ぶ機会というのは大事だというのは分かる人間には分かるはずである。現物見ないと絶対に身につかない知識とか経験とかがある。だから東京あたりの財政豊かな自治体ではそれなりにお金を付けることができる。
 ぶっちゃけ川で魚を釣ったこと無いような育ちかたした人間が、まともに川の自然を守る方法が分かるわけがない。
 いま、若い親の世代が今一そういった自然と接する機会を持ってきていないように思う。だから川はコンクリで固められまくるし、釣り場に子供が少ないようにも感じている。湧き水の川にも餌釣りで淵のアブラハヤを釣っている近所のジサマと瀬でフライでオイカワ釣ってるオッサンと青年ばかりで、竿持った子供はこれまで1人しか見ていない。
 簡単に釣れそうなデッカイ鯉とか泳ぎまくってるのに、なぜ釣ろうとしないのか、学校が柵を越えて川に降りるなと言っているのかもしれないが、そんなもんは子供は無視して暴れる権利があると私は信じる。そういう元気が今の子供にないわけではないように思えるのだが、親自身が川や池には危ないので近づくなと言われて育っているので、川に近づけたがらないのではないかと疑っている。
 近所の川の柵超えて釣りに行ってヌシみたいなデッカイ鯉釣ったことがある。という子供時代の経験はそれこそお金に換算できないデッカイ価値があると思うのだがどうだろうか。都会の川の堕落した鯉なんて逆にそのぐらいにしか存在価値がないと思うのだが。

 というように失った自然を取り戻そうという流れは都市部を中心に結構あると思う、あると思うんだけど、なんか最近コンクリ好きの勢力が盛り返してきたように思う。
 少なくとも、日本でも「生物多様性」とかいう言葉を目にするようになって、一回そっちに行きかかった流れが、またぞろ景気もちょっと良くなって公共事業も回さねばならんということで、ほっといてくれよというところまでコンクリ化しているように思う。
 直接被害食っている事例では、近所ポイントのシーバスのついていた排水脇のネット蛇篭の岬の部分が、何の不都合あったのか直線のコンクリ護岸に改修されてしまった。現象としてシーバスがまったくつかなくなってしまったが、その背景にはネット蛇篭なら隙間にハゼ系だのエビカニの類いだのがいっぱい棲めたのがいなくなって、けっこうそのあたりの生物群集におっきな影響与えている実態があるのだと推測している。
 ネット蛇篭というのは正式な名称ではなく勝手にそう呼んでいるのだが、でっかい1トン袋ぐらいの大きさの樹脂製のネットで作った篭に石を詰め込んだものを、積み上げたりして川の浸食を防いだりする護岸に使われるもので、見た目は石積み護岸のような自然な感じにはならず写真のように土嚢を積み上げたようなパッとしない見た目になるし、ルアーはネットに根掛かりまくるのだが、石積み護岸以上に生き物が隙間に棲む機能に優れているようで、割と高く評価していた。テナガエビ釣りでも良くそのまわりを狙う。積み上げるのにクレーンでどかんと積めば良いだけで、一個一個人力で石を組んでいく石積み護岸に比べればコストは小さそうだし、ルアーが根がかるのはトップでも投げとけという話でどうということでもない。見た目を気する公園整備とかには向かないだろうけど都会の川の護岸整備には結構良いんじゃないかと思っていたが、これの良さがわからんかねコンクリ屋や財政担当者は?という仕打ちとなっている。オレは見た目パッとしないが実力者のネット蛇篭を応援したい。

 東北でも復興の名の下にまたぞろコンクリ屋が勢いづいているようで、海岸やら河川やらを醜悪なコンクリの壁で覆う気満々のようである。
 一旦壊してしまえば、山でも川でも元の状態に回復するとなったら膨大なコストがかかる。そういうのはヨーロッパやら東京やらでも前例はいっぱいあるはずだけど、地方ではその価値に気づかずにコンクリで固めてしまうとcarankeさんも嘆いていた。
 「そんなのどこにでもあるでしょ?」と気にもせずに、どうってことない水辺をコンクリで固めてしまった結果が、メダカですら絶滅を心配しなければならない昨今の状況である。ボチボチ危機感を持ってもらわないと警鐘は既に鳴りまくっているという話である。
 東北沿岸部の被災地でも、地盤沈下した土地が汽水湖のようになっていると報告していたが、そういう場所に水鳥がきているのを、わざわざ金をかけて使うアテもないのにポンプアップして排水し始めているようである。
 人が使わないのなら水鳥やらに使わせてやってくれと思うし、本来そういった汽水域の低湿地は田んぼの魚というイメージの強いメダカのもう一つの本命的生息地であったはずで、上手く使えばメダカ復活の場所にもなり得るだろうに、とコンクリに固められていない水辺の価値の分かる人間なら思うはずである。メダカ一種類が復活すれば良いという話では無く、そういう環境が残されていること自体に価値があるという話が分からんかなということである。

 ことここに至って、日本ではコンクリで固められていない水辺の価値は非常に高くなっているのは間違いない。
 それは、原始の姿のままの深い森の渓流やら、最近一般的にも認知を得てきた、人との共存で作られてきた里山里海的なものやらが価値があるというのと同様に、ありとあらゆるレベルでとにかくできるだけコンクリが少ない方が良いと言い切れるぐらいにすべての水辺で言えることだと思う。
 都会の川でもコンクリで天井も覆った暗渠で光も差さない釣りもできない場所よりは、コンクリの運河でも天井のコンクリが無ければ日の光でコケでも生えればハゼやイナッコがやってきてシーバスが入ってきて釣りもできるという流れができる。両岸コンクリでもその中に土手の部分があって植物が生えているか否かでまったく棲んでいる生物の多様性は変わってくる。とにかく今より悪くするな、チャンスがあったら良くしてくれ、コンクリ引っぺがせ土を盛れ、ネット蛇篭を積め、最低限放置しろと言いたい。必要性もない工事ならせんほうがマシなのは金銭面からも明白なのに、年度末予算が余ったからといって護岸工事すんなやボケと思うのである。
 安全面を考えれば、原始のままの暴れ川が良しとはできないだろうし、農業など産業との関連で効率的な整備が必要な水系もあるとは思うが、それら安全性や効率性などと同様かそれ以上に考慮しなければならず、取り得る範囲でベターな方法で保全していかなければならないのが、生態系やら生物多様性といったものだというのが、今時の良識だと断言できるのだが、じゃあそれがお金に換算するとどのくらい価値があるのよ?と聞かれると「お金じゃ計れないんです」としか説明しようがないので、金が一番大切だと思っているような本質的な間抜けを納得させるのが難しく、どうしたものかと悩むのである。
 全体的にどのくらいコンクリを引っぺがせばいいのか、その基準というか目標が分からないところも問題ではあるが、一応環境省が全国エコロジカル・ネットワーク構想なんてのも出しているので、そのへん参考にしろだし、とにかく危機的にコンクリが多すぎるのでどこでも迷わず引っぺがせな状況だと思う。

 少なくともこのブログを読んでくれている人はコンクリで固められていない水辺の価値の分かる人だと信じている。そういう人から是非、自分の釣り場の見てきた話を踏まえて、「コンクリで固めない方が良いんですよ」というのを機会ある毎にいろんな人に言ってあげて欲しい。できれば釣り仲間に引っ張り込んだりして我らの「反コンクリレジスタンス」に参加してもらえると、きっと楽しいことになると夢想するのである。
 ジョン・レノンは「国境など無いと想像してごらん」と歌ったが、私は「コンクリ護岸など無いと想像してごらん」と歌いたい。

 ”イマジン ゼア~ズ ノ~ コンクリ~”ってね!

2015年1月24日土曜日

ドリルの回転


 釣りにも行かねばならんし、春以降の釣りの準備もせねばならんしで、休みの日は忙しい。

 今日は、街に出て買い物と部屋で釣り具の改造やらなにやらしている。

 ゴールデンウィークのライギョ遠征のために、左手サミング仕様にライギョロッドを魔改造中で、あわせるリールにアンバサダー7001をゲットしてラインを巻いたり、ロッドのインロー継ぎ加工のためにブランクスを削ったりするのに、ハンドドリルを重宝している。

 ライン巻き替えにハンドドリルを使うと楽ちんというのは聞いていたが、ラインを巻き取るスプールにマッチしたアタッチメントを自作しないといけないので手巻き式のライン交換機を愛用していたが、写真の荒削り用の円錐型のアタッチメントが使えるんじゃないかと買ってきて試してみたら、これがピッタリ。スプールの穴の直径が多少違っていてもこれ一個でOKっぽい。
 アンバサダー7000番台は、スピンフィッシャーでいうと7500SSと同程度の糸巻き量で、PE80LBのGT用の予備をそのまま7001に流用した。

 やっすいハンドドリルなのだが、トリガーをどのくらい引くかで回転速度の調節もできるし、もちろん逆回転もできるのでいろいろとつかいでがある。
 ロッドブランクスを削るのにも、ブランクスを回転させてサンドペーパーかけてやれば手で擦るより楽に均一に削れる。
 
 なんちゅうか、そういう便利さに加え、サンダーバードのジェットモグラやらゲッターロボの第2形態やらドリルってなんか男心をくすぐる魅力があるように思う。たいして使う機会がある訳じゃないけど、男なら道具箱にドリルの一つぐらい持ってても良いんじゃないだろうか。

 ライギョロッドの改造は、左手サミング用にリールシート位置を変更すると共に、思いつきでバット部分でインロー継ぎにして仕舞い寸法を短くする予定。
 ライギョロッドのパワーを活かしながら仕舞い寸法小さくと考えると、インロー継ぎの部分の強度確保が結構悩ましい。芯に金属でも入れないと継ぎ部分が折れそう。

 しばらく、楽しめそうである。


 閑話休題

 さすがに今年はテニスも錦織圭選手の出る大きな大会は地上波中継するようで、先ほど全豪の3回戦観戦したけど、最初のセット取られただけであとは余裕っぽかった。グランドスラムまずは今年の1発目、好調っぽいので楽しみにTV観戦したい。 

2015年1月18日日曜日

狂気



 開高先生がよく「釣りに大事なのは運・勘・根」と言っていて、なるほどなと思わせられたが、その開高先生が釣りの旅でガイドに「釣りに大事なのは何?」と聞いて得た回答のうち、アメリカのバスプロ2人のものだったと思うけど「コンフィデンス(確信)」と「ペイシェンス(忍耐)」というのもなかなかに味わい深い良い答だと思った記憶がある。

 開高先生、映像で釣れない釣りの続くシーンで「ペイシェンス!ペイシェンス!ペイシェンスッ!!」とかブチギレて叫んでるの見て腹抱えて笑った記憶がある。「イラチ(関西弁で気の短い者の意)」を自認する先生らしいお茶めっぷり。

 一方で「コンフィデンス」については、これこそがルアーや自分の技術に魂を宿らせるのではないかと思っている。「このルアーなら絶対!」とか「オレの腕なら間違いなくやれるはず」という自信が、集中力やここ一番での粘り強さを生み、迷いのない選択は、あれこれ迷っていてはその隙に逃してしまうチャンスをモノにさせてくれることがあるはずだ。

 「釣りに大事なのは何?」の回答で我が人生最高のものは、若い頃のケン一の以下の回答。
 一、まずはなにはさておき体力
 二、センスとか才能とかよばれているモノ
 三、気が狂っていること
 聞いて爆笑した後に、「オレ、一と三は結構自信あるよ」と言ったような気がする。
 確かに、常人では理解できない「気が狂っている」としか思えないような突拍子もないアイデアやら釣りへの執着をみせる凄腕釣り師っていて、まあ普通の常識人には普通の釣果しか得られないから、釣りするには他人から見て気が狂っているぐらいじゃないとイカンのだろうなと、とても納得いった。
 「キチガイ」という言葉は我々の業界ではむしろ褒め言葉です。「釣りキチ三平」とかね。

 その若かった当時、年間150日とかあきらかに頭がおかしいレベルで釣りに行ってた。それでも自分が普通で常識的で凡庸な存在ではないだろうかという不安は抱いていて、その不安はある意味正しく、普通に仕事にも行きながら釣りに行っていたわけで分別が無かったわけではない。正気と狂気の境目なんて線が引けるわけもなく、どこまで行っちゃってたところで自分の狂気がそれで足りるのかなんてのは分からないわけで、若い私は自分の中に明確な「狂気」が無ければ自分の求める釣りにはたどり着けないと、やっぱり今思うと頭おかしいことを考えており、自分の中に狂気があることを自分に示すために、雑文のどっかで書いたけど、自分で自分の乳首にピアスを入れるというアホなことをやったのである。たぶん私の中に狂気は間違いなくあった。その後、当時釣りたかったイワナの40は無事ゲットした。

 イワナの尺モノぐらいは、当時住んでいた東北であれば狂気などなくても普通に釣っていれば釣れた。でも40,50となると普通に数が釣れる場所では釣れなくて、そういう良く釣れるウハウハな釣りをあえて捨てて、なかなかチャンスの少ない本流の鮎食ってるヤツとかダムのワカサギ食ってるヤツとかを狙う必要があって、そういう釣りはぶっちゃけ釣れないしデータ取るのも難しいので、赴任期間の2年かそこらで釣るにはそれなりに覚悟を決める必要があったのである。覚悟決めて雪崩で死んでもかまわないつもりでスノーシューズ履いて解禁直後のダム湖に突撃したり、流されて死んでもかまわないつもりで放水するであろうタイミングを狙ってダム直下に入渓したりとダムに絞って狙った結果、雨後のダム直下、38.5を釣って、また40に届かんかったか、と思った直後に念願の40を釣っている。
 そういう危険も伴う行動について、褒められたモノではないというか厳に慎むべきと思うのだが、そこまでやってでも釣りたいと思ってしまったのだからしょうがなかったとも思う。

 今、歳をとって体力の方ははなはだ自信がない状況だが、狂気の方はこれがなかなか健在だと、昨日の釣りでも感じたところである。
 少なくとも10m以上だかの風が吹く1月の寒い夜、ダム湖でナイターでワカサギ狙ってる釣り人は私以外に一人もいなかった。
 ビュービュー風が吹きつける釣り場に人っ子一人いないのを見て「これは魚が釣れないんだろうな」と思うより先に「ムフフ、釣り場独り占めジャンよ!」と喜ぶ頭のおかしさが頼もしい。
 自分が釣り人として凡庸なレベルにあることは残念ながら事実のようだが、それでも自分がどうも普通っていうこともないらしいことに安心を覚える。

 私の狂気は歳をとっていない。

2015年1月12日月曜日

記憶が改変されているのではないかと疑ったりするがそんなSF的展開はそうそうあるものではなく単なる物忘れだったりする年頃


 人様におすすめされて読んだ「竜の学校は山の上」を面白いなぁちょっと初めて読むタイプのマンガだなぁ、と思って読んでいたら、最後の方のタイトルになっている話を読んで、過去にすでに読んでいることに気づいた。なにが「ちょっと初めて読むタイプ」じゃボケ!

 ここ最近憶えているだけでも、阿部共実のマンガ、石田衣良の小説、川原礫のラノベを2度買っている。ラノベはシリーズもので本屋で「そういや新刊出たのまだ読んでないな」と1冊買って枕元に積んだしばらく後に、また本屋で見かけて「そういや新刊出たのまだ読んでないな」と1冊買って枕元に積んで、1冊読んで次を読もうとして手に取ったのが帯は違うけど同じ本で、ことここにいたって、初めて2冊買ったことに気がついたというお粗末。確かに2度目に見たときも「読んで」はいなかったが気付よ!という感じである。

 Kindleだと同じ本を2回買おうとすると、あなたはこの本を過去に注文しています的なアドバイスが出るはずなのだが、それでもバージョン違いとかがあるのか阿部共実のマンガは2度買いしてしまったし、紙の本で読んだことあるけどKindle版は初めて買う場合には当然読むまでわからないケースが出てくる。粗筋読んだらわかりそうなものだが、石田衣良の小説は読み始めるまで気づけなかった。

 ただもっと恐ろしいのは、2回読んでいることに気づきもしないケースがあったとしても、気づかないので知りようが無いということで、そういうことは無いと証明するのは「悪魔の証明」で難しいということ云々よりも、今のおよそ頼りにならない記憶力を鑑みるとありそうな気がしてならない。開高先生の「渚からくるもの」ははたして本当に初見だったのだろうか?と問うたところで、オレが知らないのに誰が知っているというのか?

 内容忘れてしまって2度とも新鮮な感覚で楽しめたら、別に誰が困るという話でもないので、開き直って結構なことではないかと思うようにしているが、どうなのよそれ?
 まあ、「同じ本を2度買った」という失敗はおそらく「本読み」あるあるネタだと思う。そう思わないとやってられないんだけど、どうなんだろね。

 何しろ歳食ってくると記憶力はいいかげんなものに成り下がりやがる。年寄りが何度も同じ話をクドクドと繰り返すのって、いい加減にしてくれよと感じていたものだが、いざ自分が年寄りサイドに足をつっこみかけてくると、言ったか言わなかったかなんてのは憶えてるわけもなく、初めてのつもりでクドクドと言うことに自分もなるんだろうなと薄々わかってきた。
 「子供叱るないつか来た道、年寄り怒るないつか行く道」とかわかったようなことを言いやがる戒めをこざかしく感じていたが、少し納得せざるを得ない。

 それにしてもヨシコさん、ご飯はまだなの?

 ヨシコさんって誰?ご飯ってなに?今っていつ?私は誰?誰って何?ナニってWhat?

2015年1月4日日曜日

たった一つの冴えたやりかたでもなんでもないやりかた


 一年の計は元旦にありということで年始に目標をたてた、その目標の一部を抜粋しますと、

 「年初に当たって今年の目標などつらるら考えてみると、まずは「健康」ですね。オッサンなのでボチボチと、というペース感もここ最近身についいてきたようなので、引き続き無理せずテキトーにいきます。」

 だそうである。結構なことですな。

 年あけて4日しか経っていない現時点で、おもいっきりなんのために目標など書きおったのか?といぶかるに十分なていたらくである。 

 新年あけて4日間で4日釣りに行っているというペースのどこがボチボチなのかと、自分で自分を問いつめてやりたい気になります。明日から仕事なのにこの疲れっぷりどうするのよと責めてやりたい気にもなります。

 反省してますゴメンナサイ。

 でも、なんちゅうかさ、釣れなくて悔しくて熱くならないぐらいなら釣りなんぞ30年以上も続けてるわけなくて、とっくにやめてるって話で仕方ないジャンよ。とも思うわけです正直。

 賢明な撤退など犬にでも食わせろ!だし、心に「釣りたい」という気持ちがあれば、それがお前の釣りに行く理由だ!とも常々思うところである。

 まあ、健康あってこそ、なんだってできるわけだから、おろそかにしちゃいけないってのは分かっているんだけど、それでもなお、釣りに行きたい気持ちが抑えられないのなら、行くしかやりようがないんだと思うのである。

 昨年ロウニンアジ釣って割と満足して、なんというか自分が「枯れた」感じがしていて、それはいい意味でもあるんだけど、ちょっと物足りなくも感じていた。だけど、たいして大きくもなかったであろうアイナメにここまで心乱されて、釣欲が抑えきれない有り様をみて、ちょっとだけ「これでいいんじゃ」と思っていたりもするのである。

2015年1月1日木曜日

21世紀に入ってもう15年、時のたつのはあっちゅう間ですね2015あけましておめでとうございます



 今年もよろしくお願いします。
 
 日本海側中心に荒れ模様の年末年始となっており、ここ気仙沼も、新年早々がっつり雪が積もりました。今、雪は止んでいて、初釣り行きたいけど道路がどうだかちょっと様子をみてという感じ。

 釣り納めは、魚の付き場が震災前とは変わった感じで苦戦しつつも、とある漁港でチカとマイワシの混成群を発見。いい感じだった昨年を締めくくるのにふさわしい爆釣で納竿といたしました。顛末はまとめてまた週末に。

 干物作って今朝食いましたが、自分で釣った魚はうまいです。例によってメバチとメカジキの紅白の刺身から、ナメタガレイの煮つけ、釣りたてチカの唐揚げ、ナマコ酢、活ホタテ、イカそうめん、スルメイカ一夜干し、スジコ、干し柿、胡桃餅などなど飽食と惰眠をむさぼっております。

 年初に当たって今年の目標などつらるら考えてみると、まずは「健康」ですね。オッサンなのでボチボチと、というペース感もここ最近身についいてきたようなので、引き続き無理せずテキトーにいきます。毎週末釣りに行ければ、まずは文句のつけようはないよねっ、てことで。

 その上で釣りはいよいよステンドアップファイトでのサメに着手しようかなと考えています。最初は沖縄方面で挑戦させてくれそうな船を探すところから始めて、うまく行かないようならフィジーのカンダブ島のサメのタグアンドリリースプログラムに参加してやり方教えてもらってくるあたりだろうか?まあまた10年単位で楽しもうと思っています。筋トレも続けましょう。

 あとは、早期のバチパターンを今年は結果出したいところ。皆さん準備はOKですか?私はいつ釣れても心の準備はOKです。

 GWには恒例になりつつある香港の、特にタイリクスズキが気になっているところではあるのですが、虎ファンさんが九州に行る間にライギョ釣りに行きたいということで、GWは現在そちらで準備中。左手サミング仕様に魔改造すべくライギョロッド確保しました。作業も進めねば。

 というわけで、今年も楽しい釣りがたくさん待っているのだと確信しています。

 みなさまの竿にもしびれる良い魚がかかりますように、お祈りいたします。