2019年5月4日土曜日

自由への闘争あるいは逃走

 マスカラスの弟はドスカラスッ!!っとわけ分からん感じで始まっておりますナマジのブログ、元号変わっても引き続きよしなに。

 ちゅうても世間様10連休とかも、すでに700連休ぐらいのワシにはあんまり関係なく、特に変わったこともなく淡々と釣りとリハビリの日々が苦戦しながら続いておりネタもそれほど変わったものがご用意できるわきゃなくて、身近な小ネタとかでご容赦を。
 淡々と変わりなくとはいえ季節は確実に巡っていて、新緑のまぶしい季節となっております。我が家のプランターも春の花は終了で、秋に植えた豆苗の残りがニョキニョキとやる気を出して花を咲かせて豆がなり始めております。
 豆の種類としてはソラマメなんだと思うけど、葉っぱ食べる品種だろうから豆が食えるのかどうか、豆って中毒するやつもあった気がするので花だけ楽しんでおくべきか?ちなみに春先には伸びるそばからヒヨドリについばまれて成長できず、我が家とヒヨドリとの関係は悪化し緊張の度合いを増しております。
 朝、睡蓮鉢で水浴びしている音で目覚めるのとかは風情があっていいんだけど、種だの新芽だのに手(くちばし)を出すのは勘弁して欲しいんですけど。ヒヨドリって木の実とか花の蜜が好きって印象で種だの新芽だのは食うと思ってなかったけど、ひょっとして真犯人は別にいるのかしら?

 室内では、水槽の水草の水上葉が繁茂しまくっていい感じになっている。ライギョの潜む水辺って感じがしていい塩梅だ。そろそろある程度剪定した方が良いか?
 この水槽の主であるコウタイは熱帯魚というほど暖かい地方出身じゃないので、昔は近畿地方でも帰化していたとかで寒さは室内なら問題なく冬でもヒーター入れていない。とはいえ底面濾過から水上部分の植物に水を供給している水中モーターの熱で真冬でも20度弱ぐらいはあるんだけど、気温の上昇とともに水温も20度を超え熱帯原産の水草たちはモリモリと成長する。
 もう少し暑くなってくると、水温上がりすぎるので熱がこもらないようにするためと気化熱で多少温度下げるため、蓋の半分を金網に換えるので、そうなると水槽内は湿度が減少する’擬似的乾期’をむかえ、湿り気が好きな水草の水上葉は適度にしおれたり枯れたりする。
 先日、我が家の風呂場にカマドウマの一種(マダラカマドウマか?同定は素人じゃちょっと無理)が出現、こりゃコウタイの餌にちょうどいいやと捕獲して水槽内に放ったんだけど、葉っぱの上にいたのを狙った最初の一撃を運良く逃れて、茂みに逃げ込んだので「そのうち食われるだろう」と放置しておいたら、水中モーターの電源引っ張ってきてる隙間あたりから逃走したのか、ベンジョコウロギの別名どおりトイレに出現した。なかなかしたたかな生存能力に敬意を表して放置しておいた。台所にはゴキブリ用の毒餌とかあるけど食わずに生き延びてみせてほしい。世帯主として同居を許可する。
 アシタカがサンに「生きろ!そなたは美しい」って台詞を吐いてるけど、ネット上ではじゃあ「不細工はタヒね!」ってことなのか?と疑義が呈されていたりしてクスッとなる。
 カマドウマちゃん(輸卵管ぽいのが突き出てるので雌っぽい)美しくはないかもだけど、したたかに生きろ!って言ってやりたい。ワシごときに言われずとも彼女ならやってくれるだろう。


 平成最後の日には、体力もちょっとはついてきたしということで、久しぶりに水族館に行ってきた。ゴールデンウィークの人混みでかなり疲れたけどやっぱり水族館はいい。
 モンツキシビレエイというのを初めて見たけど、目玉模様がドンとど真ん中にあってモゾモゾと水底を歩く姿といい最高に愛らしい魚だ。触れずともシビれた。大水槽のターポンはオレの掛けたのはもっとデカかったと死んだ子の歳を数えるようなことを思ってしまったし、ロウニンアジについてはワシの釣ったのの方がずいぶんデカかったなと優越感に浸れた。
 イルカショーも楽しかった。イルカ(バンドウイルカ)も愛嬌があって賢そうだし可愛らしい。欧米の動物保護団体が漁するなとか水族館に閉じこめるなとか煩いこという気持ちも分からんでもない。
 分からんでもないけど牛だって賢いし可愛いからなにが違うんやって話で、そういうと菜食主義者とかが小賢しいこといいやがるけど、植物に痛覚や感情がないなんて、なんでオマエごときに分かるんや?っていつも思う。植物も虫にかじられたりしたら防御反応として毒物質生成したり、周りの他の個体にも情報伝達物質飛ばしたりもするとか知ったら、動物のような神経系やそれが発展した脳が感じる感情がないとしても、’痛み’も感じているといえる気がするし”会話”さえしているように思う。’生き残りたい’という方向性は生物なら基本一緒で、その次元において根本的に我々生き物はすべて等しく、儚く脆くも尊くて罪深いんじゃないのっ?てワシャ思うんじゃ。
 ベジタリストやらヴィーガンやらが自分らだけ手が汚れてないようなしたり顔していられるのを見るたびに、頭が悪いと罪の意識さえ感じずにすんで幸せでイイネ、とうらやましく思う。ワシも頭あんまり良くなくて苦労してきたけど、生きていくことの罪深さぐらいは分かる。
 健康のためとか自分のためにやってるなら止めやしないけど、’痛みを感じる他の命を傷つけたくない’とか脳味噌虫沸いたような御託を並べ始めて他者を非難し始めるのとか目にすると、思いっきりののしって論破してやりたくなる。痛みを感じる感じないで線を引くっていうのが、さっき書いたように痛みを感じるということの定義から難しいってことを棚に上げておいたとしても、どっかに勝手に線を引いてその差別的な線引きに他者を従わせようとする傲慢さ。
 痛みを感じなければ殺して良いとするなら、無痛覚症の人や脳死の人は殺していいのか?現代医学では脳死の方は死者扱いでイイんじゃネ?ってなりつつあるけど、そんな簡単に割り切れるもんじゃないことぐらい分かるでしょ?あんたのカーチャンが脳死で病院のベットに横たわってる、そのときにもう痛みも感じないから管抜いちゃいましょって逡巡もなく即断できんのかアンタは?できるんならすごいけど、心の底から軽蔑する。母親と特別な密接さを持つ哺乳類として、脳死が現代医学の整理で人の死だと定義されるとしても、それを理解し感情を整理するには相当な時間と覚悟というかあきらめが必要とされるんじゃないのか?
 どっかで線を引かなければ、なにも食えなくなる。だからいろんな文化や地域で、歴史的な背景やらをふまえて暗黙の了解やら宗教的禁忌やらなにやらで線が引かれているし、個人でも線を引くし、場合によっては国家とかの体制が制度で線を引くこともある。でも結局は流動的で暫定的なものでしかあり得ないんだと思う。 
 なんてことと同時に、自由自在にクルクルと泳ぎ回るイルカたちを見ていると、最近の分類じゃ’クジラ偶蹄目’って偶蹄目とまとめられたぐらいで、もとは陸にいたカバ的な四つ足の生き物だったはずなのに海洋生活によくもここまで適応進化したもんだなと感じつつ、そういう大海原をいく生き物をプールに閉じこめておくことの是非についても、やっぱり考えてしまう。
 善い悪いは、まずは脇に放置して、イルカの幸せについて、イルカでもないホモサピの自分が、なるだけイルカになったつもりで考えてみる。
 プールに閉じこめられるのはやっぱりヤだろうと思う。大海原を自由自在に泳ぎ回った方が気持ち良さそうに思う。でも、大海原に泳ぎ出せば自由ではあるけど、天敵である人間やら病原性生物から逃げなきゃならんし餌探せなければ餓死する。自由には責任がつきまとう、っていつも書いてるやつである。
 水族館のイルカは病気になれば治療してもらえるし、餌ももらえる。
 ショーを一日何回かしなければならないけど、これは暇つぶしにもなるし仲間と遊ぶのが好きな社会性の強い生物であるイルカにはいうほど負担じゃなくて、むしろ楽しみなんじゃないかと思う。
 南の島で釣り場移動中とかにイルカが船によって来て、船のつくる引波に乗って遊んだり、クルクルとジャンプを披露してくれたりしたのを見ているので、もともとそういう遊び好きな性質を利用してショーを仕込んでいるんだとは思う。
 まあ本当のところはよく分からんにしても、イルカにとって必ずしも不幸せなことばかりではないようには思う。飼育されて得られたイルカの知見がイルカの保護に役立つとかもあるだろう。
 でも、イルカの自由を奪って拘束しているのは事実なので、本当はイルカにとっては、腹が減ったり病気になったら人間を頼って、気が向いたら芸も見せて遊んで、飽きたら海を好きなところまで泳いでいくっていうのが、ワシがイルカなら一番幸せだろうと考える。とらわれの身は正直勘弁願いたいし、水族館のイルカにはやっぱり不幸の臭いがそこはかとなく漂う。
 自由にイルカに選ばせるのが本当は理想かもしれない。イルカが、浅瀬に逃げ込む魚を網でとうせんぼしてくれる漁民と協力する事例は過去現在いくつも知られているし、気が向くとダイバーと遊ぶためにやって来るイルカがいるダイビングスポットなんてのも割とあるようで、そういうのが理想といえば理想なのかもしれない。
 だとしても、イルカをプールに閉じこめておくことが悪かというと、そうとも限らないんじゃないかと思う。一旦脇に置いておいた善悪の判断につっこんでみよう。
 今日、映像撮影技術はものすごく発達していて、先日もNetflixオリジナルの「OUR PLANET-私たちの地球-」というドキュメンタリーシリーズ観たんだけど、めちゃくちゃ痺れる映像満載だった。イルカを例に出すと、イルカが浅場のボラの類をしっぽで泥を巻き上げて泥の壁でグルッと囲んでしまい、パニクったボラは濁った泥の中に逃げ込めば音響カメラ搭載の捕食者であるイルカにやられるのが本能的に分かっているのか、泥の壁を飛び越えて逃げるんだけど、そこを着水地点に仲間のイルカたちが口を開けて待っているなんていう驚きの漁の場面をドローンで空撮していて、初めてザトウクジラの’バブルネットフィーディング’の映像を目にしたときの衝撃を思い出した。ドローンは海外では遊魚船でも利用が始まってるようで、むかし米国の巻き網船が、ヘリでキハダマグロの群を探して巻いていたのの小型発展版で釣りもだいぶ未来にきたもんだと感慨深い。ちなみにその巻き網がキハダと一緒にいるイルカを巻きまくってて批判を浴びて、イルカを巻かない技術で穫ってきたキハダで作った缶詰には「ドルフィンセーフ」とか認定マークがついてたとかなんとか。ホント欧米の動物保護団体ってめんどくせぇ。あんまりうるさいこというと食うモンなくなるぞ。って話で食料生産の現場でのイルカ食等利用はその地での文化的にとか許容されるんならワシャなんの問題もないって思ってるので今回書く気はない。反対意見を言うのも自由だけど食うのも自由って話である。
 今回食う話じゃなくて、研究目的もあるとしても主に見せ物としてイルカを飼うことの善悪についいて考えている。
 ドローンの話書いたように、映像技術が発達してきた現在、必ずしも生きたイルカを飼って見せ物にしなくても、映像で見れば良いし、本物が見たければイルカのいる海に行くべきだという意見もあるだろうとは思う。思うけど、現時点の映像では生きて動く本物の迫力にはまだ遠く及ばない。生きた本物を見せる価値はイルカの自由を奪ってでもあると思う。
 「OUR PLANET」で、ほかにもいろんな素晴らしい映像が楽しめたけど、虎の中でももっとも北方に棲みもっとも大型といわれる亜種アムールトラが、雪の積もる稜線を、形は爪を引っ込めた猫の足そのものなんだけど、馬鹿デカい前足で雪を踏みしめタシッタシッっとやってくる映像の美しさ迫力にはほとほとまいった。
 「OUR PLANET」はまさに欧米の動物保護団体であるWWFが協賛なので時に説教臭かったり、ペルー沖のアンチョビの減少なんていう、水産の教科書にも出てくるぐらいの典型的なエルニーニョとラニャーニャとか気象海象が関係してくる変動なのに乱獲が原因とか嘘こいてたりだけど、アムールトラの美しさには嘘やまやかしはなく、確かにこの美しい捕食者を地球上から失ってはならないと思わされる説得力のある映像だった。
 だとしても、小学生の頃に動物園で強化ガラス越しに相対したトラ(シベリアトラと紹介されてた)の実物の持つ大きさ迫力、ガラスがビリビリと震えるほどの低い咆哮。40年近く昔のことだけどあの感動は映像では代替することができない。多分ほとんどの人がトラといって頭に思い浮かべるその大きさはせいぜいヒョウの大きさでトラは軽くその倍はデカい。間近で見るととにかく顔がバカデカくてビビる。
 アムールトラを撮影するために、撮影班は無人カメラをあちこちに設置するとともに、2冬に及ぶ小屋での張り込みを敢行し執念の撮影で映像をものにしたとのことで、トラの本物なんておいそれと現地に行ったって見られないんである。
 本来何キロ四方にも及ぶ広大な縄張りを持つトラを動物園の檻の中に閉じこめることは、ストレス感じるだろうしトラにとっては不幸なのかもしれない。でもそれでも多くの人に檻の中トラでもいいので見てもらいたいと思うのは傲慢だろうか?トラの尊厳を踏みにじりすぎているだろうか?
 答えは人によってそれぞれあったりなかったりするんだろうけど、野生生物や自然を遠ざける方向性は間違っていると直感的に感じる。そういう直感が働かなくなることの危うさは今の時代常々感じるところである。そんなことも分からんのか?って驚くようなことが増えてきた気がする。
 イルカの幸せがどうのこうの言う資格もないような、遊びで魚を釣って、楽しみのために魚を飼育している人間が書くことにどれだけの説得力があるか分からんけど、そういう他者をさいなむような犠牲のうえにしか得られない感覚もあるんだということは確信している。

 なんで、野生生物や自然環境を守らなければならんのか?そんなもんそうしないとやがてホモサピにも都合が悪いことが起こるからってだけである。その延長線上にイルカ可愛いとかトラかっこいいとか人それぞれの好みがあって、本当はそういう野生生物の幸せを考えてる暇があったら、ホモサピのっていうか自分の幸せを考えろってのがとどのつまりなのかもしれない。
 でもイルカの自由を考えたときに、自分の自由に思いを馳せずにはいられなかった。
 イルカの幸せを考えたときに一つの理想として強制されずに自分で好きな方を選べるのが幸せなんじゃないかと書いた。そう考えると今の自分は自由にものもいえるし、職業選択の自由も保障されているし、ご飯のお代わりも自由だし幸せなような気がする。
 でも、もうちょっと突っ込んで考えていくと、ワシってホントに自由か?っていうのは疑問に思う。例えば素っ裸になって奇声をあげて通りを疾走したいと思ったとして、ワシは自由にそうすることができるだろうか。多分できないだろう。なんか常識とか世間体とか、警察にしょっぴかれるとかがあって二の足を踏むだろう。そういう目に見えない文化とか制度とか自分の感じ方とかが、ある種ワシをつなぐ鎖となって自由じゃすでにいられてないんじゃないか?とか、自由に生きるっていったって一人じゃ生きられないから社会で生きるならその定めた規則やらには従わねばならんし、金も稼がにゃ飯も食えんし、自由にやればやるほど責任は重くなって種々メンドクサいしって、とか考えるとある程度自分以外のものに頼らざるを得ず、そうなると餌もらうなら芸の一つもやって見せにゃならず、プールの中に囲われたイルカと本質的にワシ変わらんやんけ?と自由っていうことがどういうことなのかという、難しい課題について今日も答えは分かったような分からんようなところでお茶を濁すしかないようなのである。難しいさね。

 ただ、身近にいて一番自由な生き物だと思うのは、疑いようもなく自由に家を出入りできる飼われたイエネコである。やつら腹減ったら餌くれとか当然のように要求しやがるけど、気が向かないと触らせてもくれない。外で遊ぼうが恋しようが喧嘩しようが自由。あれが一番ワシの求める自由に近い存在だと思う。生態系における特権的貴族階級といっていいかもしれない。

 水槽のコウタイの牙を逃れ抜けだし、便所にも風呂場にも玄関にも神出鬼没な自由な存在としてのカマドウマの生き方に憧れを覚えるけど、ああいう危険も飢えも自らの力だけを頼りに切り抜ける野生の力を持ち得ないワシとしては、なんか上手に芸をして生きていくしかないのかなといまのところ思うのであった。
 ワシも若い頃は結構な美少年やったけど(嘘じゃないって、コラッそこ鼻で笑うんじゃない!)歳食って既に美しくもなくなっちゃったけど、まだしばらくはグダグダと生きていきたい。

2 件のコメント:

  1. カマドウマ「頼まれなくったって生きてやる」

    記事を読んでいたら、某アニメのキャッチコピーを思い出しました。

    自由とはナニかは自分にもさっぱり分かりませんが、「自由」とか「幸福」の形を他人にどうこう定義される人生だけは嫌だとつくずく思います。
    連休11日全部使って単独車中泊高知遠征釣行してほぼ爆死した話を職場でしたら、同僚一同にドン引きされた今日、そんなことを思いました(笑)

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  2. ナニが君の幸せ、何をして喜ぶ、分からないまま終わるとしても、他人にそれを押しつけられるよりはよっぽどマシですよね。
    今日は(昨日か)魚釣れて幸せです。コレは絶対です。

    それにしても11日単独車中泊釣行はかなり自由じゃないかしら(当社比)。素敵すぎる!!

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