2018年8月5日日曜日

UMAの証明

 幽霊やら霊現象なんてモノは存在しないと思っている。あんなもんはインチキが半分、残りが枯れ尾花と幻覚とかの脳の誤認識で間違いないと思っている。
 「宇宙人」はいるんだろうと思っている。宇宙は広いんだろうから人間のようなタンパク質の体をもつ知的生命体はもとより、SFに出てくるような珪素生物とか地球の生物と全く違う仕組みで自己増殖していく「生命」がいてもおかしくないぐらいに夢見がちなことを考えている。
 でも、その宇宙人がUFOに乗って地球にやってきているというのは、ないだろそれは?と思っている。宇宙人がやってくるには宇宙広すぎで距離が遠すぎる。メッセージとか情報が宇宙から届くのならまだ分かるけど、ご本人がおいそれとやってくるわけがない。宇宙人ネタなんてのはインチキが半分、以下略。
 ただ、いることの証明は1個体でもつかまえてくればすむけど、いないことの証明はいわゆる「悪魔の証明」になるので、事実上不可能だとは知っている。でも、まあいないって。

 一方でおなじオカルト系でも、ネッシーとかイエティとかUMA(未確認生物)はいてもおかしくないと思っている。
 幽霊や宇宙人のような1個体も捕まっておらず、過去に一度もその存在が証明されたことがない類のわけのわからんモノとは基本的に性質が違うと思っている。
 「UMAだって過去に1匹も捕まっていないじゃないか?」と思われるかもしれないけれど、そこがそもそもの認識から間違っている。UMAは1個体捕まった時点で標本にされ未確認生物から、過去に知られている生物にあたるのか、新種なのか研究者が報告し、確認された生物種となるのである。
 いま未確認生物とされているものは1匹も捕まっていないとしても、過去に未確認生物だったのが捕まって「確認済み」となった例はいくらでもある。
 例えば、とある島に山で夜目が光るので「ヤマピカリャー」と呼ばれる未確認生物がいるといわれていたが、長くその存在は明らかとならなかった。でも、現地の人は食べたりしていて、噂を聞きつけた作家と科学者が懸賞金掛けて探しだして実在することが証明された。そして既存の生物とは種レベルで違うということで新種として報告されたのが「イリオモテヤマネコ」である。この手の「確認された」生物でもっとも有名なのはゴリラだろうか?
 捕まえてみたら機知の生物だったなんてオチがつくことも過去にたくさんあっただろう。漁師が麻縄とかで釣りをしていた時代、地中海である季節になると、ものずごい力で縄をブッちぎっていく獲物が掛かることがあって、どんな化け物が掛かってるんだろうと漁師たちはいろいろと想像していたけど、釣りあがらないので確認ができない。ところがナイロンが発明されて、けた違いに丈夫な縄が釣りに使われるようになると、その化け物が揚がるようになった。産卵のために回遊してきた巨大なタイセイヨウクロマグロだった。なんてのも有名な話。
 「でも今の時代に、まだ未確認の大型生物なんてあり得ないでしょ」と思うかもしれない。確かにネス湖のような閉鎖的な水域に首長竜はいないかもしれない、でも海ならまだ、シーサーペントが本当に首長竜でした、って報告が飛び込んできても、驚かないわけじゃないけどあり得ると納得できる。だって、メガマウスなんていう大型のサメが始めて確認されたのが1970年代とかの近年っていう前例があるし、最近でもドローンでの観察で魚類第二の巨体を誇るウバザメが多数集まるという行動が始めて報告されたっていうぐらい、コレまでも海の調査なんてずっと行われてきたけれど、それでもまだ神秘が眠っていると確信できるぐらいに海は広くて深いのである。
 首長竜はさすがに卵産みに上陸する必要があるから、いるのなら今まで見つからなかったわけがない、とかしたり顔で言う人間は「遠い海から来たCOO」を読んで「その手があったか」と蒙を啓かれるといい。
 でも21世紀にもなって、さすがに陸上はもう人の手が入ってないところはなくて、先日「ダーウィンが来た!」でやってたオリンギートみたいに既知の種だと思ってたらDNAとか調べてみたら新種だった的なのはあるにしても、昆虫とかならともかく大型の生物でまったくの未知の新種が出てくるとかは正直無いと思っていた。
 ところが、フィリピンのルソン島なんていう人口の多い人の手の入った場所から、2009年に2mにも達するオオトカゲの新種が見つかっている。現地の部族民には狩猟対象として知られていて、狩られた写真を見た研究者が「こんなところにオオトカゲがいるのか?」と驚いて調査したところ、高い樹上で暮らす草食性のオオトカゲを発見しVaranus bitatawaと名付けられた。尻尾が長いにしても2mのオオトカゲが見逃されてたってんなら、大概の陸生UMAがこれまで見逃されてきていても何らおかしくないジャンかと、とっても驚いたことを覚えている。コイツにしろイリオモテヤマネコにしろ昔から食っちゃってた地元民からしたら当たり前のことをいまさらなに学者先生は騒いでるんだと、オラいるって最初から言ってるべさ!という感じだろう。
 現在未確認生物とされているヤツらでも、現物の標本をもとに報告されリンネ先生が基礎を築いた分類体系に整理され名前を付けられたらUMAはその時点でUMAじゃなくなるのである。

 というのが、今回「枕」で、夏だし読書感想文の季節ということで「ナマジの読書日記」出張版でお送りします。

 課題図書は角幡祐介「雪男は向こうからやって来た」である。

 角幡祐介先生は、高野秀行先生と並び、新刊出たら全部読まねばならない、と私が思っている現代日本を代表する冒険作家である。
 高野先生が、楽しくアヘン中毒になりながらアヘン村からの潜入報告を爆笑必至の筆致で書いてくるよな”天然系”なのに対して、角幡先生は、なんというかこじらせているというかとことん不器用で真面目で、「冒険とはなんぞや」なんて哲学を常に自分自身に問いかけているような芸風で、にもかかわらずどこか悲哀を伴ったような可笑しさが付随してくる味わい深い文章を書く作家なのである。控えめにいってとってもお好みである。
 この冬から春にかけて、活字の本が読めなくなるナマジ的読書生活危機をむかえて、読まずにいられなくなる面白い本を読みまくろう、っていうそんな本があれば苦労しないってな方針を立てた。そのときに、自分の読書の傾向と対策を分析して、冒険探検関係と釣り海関係はどうも手堅そうだということで、その手の本で積んであるのから読み始めてみて、何とか目論見通り危機を脱しつつある。角幡先生の作品では「漂流」を先に読んでいて、これまたクッソ面白かったので、今作は角幡先生の実質的処女作らしく、作家の処女作って荒削りながらも作者の初期衝動のほとばしる「魂の力作」であることが多くて、実は読める本がなくなった時に読む用として「確保」に整理していた本だったけど、今読まずしていつ読むということで読んでみた。

 期待以上の面白さ。内容は角幡先生が新聞記者を辞めてツァンポー渓谷探検に行く前にひょんなことから日本の「イエティ・プロジェクト・ジャパン 2008雪男捜索隊」に参加したときのルポなんだけど、ぶっちゃけUMAファンなら「ヒマラヤのイエティってクマ説で決着付いたんでしょ?」ぐらいに思ってて、イエティはUMA界では超有名どころの大物だけど、今更それ程には興味をそそられない対象だと思う。
 でも違った、なんちゅうかネットに飛び交う公式発表的な短くまとめられた情報だけを拾っていると、確かに地元民がイエティの毛皮として持っていた毛皮がDNA鑑定の結果ヒグマだったとか、2017年のアメリカの研究チームの「クマの可能性大」とする報告とかしか見えてこずクマ説で決着しているように思える。
 ファストフードのように簡単に素早く消費されていく情報では、おつゆタップリの本当に美味しいところが抜け落ちてしまっているということをまざまざと感じさせられた。
 角幡先生は、とにかく自分の求めるモノに対して、それが未知の渓谷だろうと既知の探検家の足跡だろうと、徹底的に文献にあたり可能であれば関係者に話を聞き、もうそれは執拗と言って良いぐらいに丹念に丹念に情報を集め調べた上で、実際に自分の目と足を使って近づくという方法をとる。
 今回のイエティについても1887年のヒマラヤ研究家ワッデルの報告から始まって、あの世界の田部井淳子さんの「私は見た」という証言も本人から聞き取ってきていたりする。田部井さんも見てるんだ!
 でもって、数々の文献、証言を総合して角幡先生はイエティには2種類いて大きな動物であるズーティと地元で呼ばれるモノは、生息地やらなにやらから考えてやっぱりヒグマと考えるべきだろうと結論づけている。でも地元でミィティと呼ばれる14歳ぐらいの少年程度の小ささで全身赤みがかった毛で覆われている動物がどうも別にいるようで、「雪男(≒イエティ)と呼ばれる未知の動物が本当にヒマラヤにいるのなら、その正体はこの小さいミィティの方である可能性が高そうなのだ。」と書いている。
 このことは実は角幡先生が参加した雪男捜索隊でも共通認識で、普通雪男イエティと聞いて想像するような白い毛に覆われたゴリラのような猿人は”真面目”に雪男を捜索している人達からは既に鼻で笑われるような胡散臭い雪男像のようなのである。
 ヒグマだろうと推定されているズーティにくらべても、その正体が今でもぜんぜん明らかではないミィティについて、何かがいるんだろうことは本書を読めば分かる。それが、既知のサルの一種なのかあるいは斜面を登っているので二足歩行しているように見えたカモシカの類とかなのか、本当に未知のサルの一種が棲息しているのかぶっちゃけ分からない。でも何かいる、あるいは見えるのである。じゃないとおかしいと思うぐらいに足跡やら目撃証言やらが出てくるのである。
 情報社会に流れる表面的な「イエティはクマ」というツマンネエ情報の陰にひっそりと隠れてミィティは今もヒマラヤの山中を歩いているのかも知れないのである。
 なんと素敵な心躍る話ではないだろうか。
 
 こういう面白い話が読めるから活字の本を読むことはやめられないし、本というものが例え電子情報になったとしても、短くまとめたネットに転がってるような情報じゃなくて、それはそれで便利だし面白いことも認めるけど、一人の著者が魂込めてガリガリと書いた長いモノガタリを読む楽しみは人間が滅びるまでは不滅だろうと思うのである。

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