2017年3月25日土曜日
ウキウキしちゃうの!だって春だもン!
春になると頭に虫でも湧くのだろうか。なんとなく気もそぞろ。
都心では桜も咲き始めたとかで、今週ヘラブナデビューしてしまおうかと思っていたけど、リハビリで通勤の練習のため電車乗って出かけるというのをやっていたら、思いの外疲れてしまい機会を逸した。
朝のラッシュは避けたのだが、混んだ電車ってこんなに疲れるもんだっけ?という感じでボチボチとリハビリに励んでおります。
電車に乗って出かけた先は、まあ釣り具屋だったりするのだが、その他にも三鷹市美術ギャラリーで開催されていた「根付-江戸と現代を結ぶ造形-」という企画展を見に行ってきた。
根付けというのは財布とかを紐で帯に留めるために使う3~5センチぐらいの象牙や木製の細工物で、美術蘊蓄マンガ「ギャラリーフェイク」でプロフェッサー藤田が指摘していたように、現代だと携帯ストラップに通じるような日常に根付いた彫刻作品である。
もう、そういう日常品にちょっとした「粋」を求める日本人の感性の象徴みたいなモノで、展示されていたのは当然逸品ぞろいだというのもあって、なかなかの眼福であった。
ヤツデの葉の上に鹿の角が落ちていて、その鹿の角の裏側に蜂がとまっているなんていうのは、どうやって彫ったのかと感心するとともに、表側に蜂を彫らないところは美意識と技量の誇示と共に、帯に留める時に引っかかって壊れないようにヤツデの葉と鹿の角の間に蜂を配したんだろうな、とか想像すると、実用の中の美というのが立ち上がってくるように感じる。
300個ぐらい展示されていたんだけど、その中で一番そそられたのが、現代の職人さんが彫った「綱渡り」という作品で、ナマズの髭をアマガエルが綱渡りしているという滑稽感たっぷりなもの。
3センチぐらいの小さい象牙の作品なのに、ナマズの腹びれのピッと両側に開いた感じとか、アマガエルのアイラインとか特徴がキッチリおさえられていてナマズ、カエル大好きなナマジとしては、一瞬、警備の隙を突いて盗み出すにはどうすれば良いかと考えてしまうほど魅力的だった。
そういった名工達の職人芸に触発されてというほどでもないんだけど、今週は「ヘラ浮子」をサクサクッと作ってみた。作成の様子などはサイトの方の「工夫」に「ゆるふわヘラ道」のコーナーを設けて「「ゆるふわ」に浮子を作ってみる」という題で上げているので、興味があればお暇なときにでもご笑覧いただきたい。
浮子を作るために、ネット、書籍、映像、様々な参考資料にあたってみたけど、何というか「ヘラ浮子」の世界では、物理法則を無視したような「オカルト」な浮子が存在するような説明が散見されて胡散臭さに苦笑を禁じ得ない。まあ、想像通りという感じではある。
私がヘラ釣り始めるというのを知って、最近へらにハマっているという釣友が電話してきてくれた時にも、「物理分かってないような人が浮子作ってたりもするから、浮子は自分で作ってみるといいよ」とお勧めされていたのだが、「物理分かっていない」のレベルがこれほどまでかとは想像していないぐらいに酷かった。
もっとマニアックに、私などなら考慮に入れないぐらいの、浮子のボディー形状の違いによる浮子が沈むときの流体力学的な水の動かしかたの変化だとか、その辺の難しい「物理」で、なにも分かってない私のような初心者を煙に巻いて「オカルト浮子」を売ろうとしてやがるんだろうなと思っていたら、なんと「アルキメデスの原理」の否定という「ちょっと待ってくれ」なご無体をしれっとやってて驚く。
「アルキメデスの原理」は簡単に書けば「液体中の物体は、その物体が押しのけている液体の重さと同じ大きさで上向きの浮力を受ける」となるだろうか。
なので、浮子がオモリと餌を背負ってバランスしている状態からアタリがあって、例えばトップが1目盛り沈んだとしよう。その場合に生じる浮力、言い換えるとアタリで引っ張られた力と同等の浮力はトップ1目盛りが押しのけた水の重さと同じである。
浮子のボディーが軽くて大きかろうと、沈んでいない分のトップがいくら残っていようと、バランスした状態からトップ1目盛り動いたのなら、そのトップ1目盛り分だけ浮力が発生する。
にもかかわらず大手メーカーのサイトで、テスター様がご自身の作ったらしい浮子を説明して「トップのグラスムクも足のカーボンも沈む素材なので、アタリに対して沈む方向に力が生じます」的なことをのたまっている。アタリの時点で素材の比重で沈む方向に力がかかってるんだったら、そのまま水底まで沈むってば。バランスして浮いてる時点で沈む方向の力なんてゼロになってるでしょ。浮子からオモリからハリ餌まで含めた仕掛けが重力に引っ張られる力と生じた浮力とが足し引きゼロになってるんだって。アタリがあったからっていきなり謎のフォースを発生させないで欲しい。
そのオカルト浮子にアタリが大きく出る理由は、物理の基本通りグラスムクが細いので同じ長さを沈めるのに力が少なくてすむのでアタリが大きく出るというのが主なモノで、派生して魚が引っ張ったときに感じる違和感が小さいのでそのまま引っ張る距離が伸びるという視点もあるだろう。
わざわざ浮子自体の浮力の小さいものを使った効果としては、ひょっとして、その分使うオモリが軽くなって魚が横に引っ張ったりするときの抵抗が小さくなったとかもあり得るかも知れない。
「物理が分かっていない人が浮子を作っている」の意味がよく分かった。
逆に、メーカー側の方が丁寧に説明しているブログに粘着質にオカルト理論をひっさげてクダを巻いているのも見かけた。
アタリの時の感度について「トップが押しのけた水の重さが生じる浮力であり感度である」「同じ太さならムク素材だろうとパイプだろうと感度は一緒」というような説明に、最初「水中ではバランスしているが、その上の空中部分は別に考えなければならない」などと意味不明な供述をしており、浮いている船の水上部分と水中部分を分けて考えるようなことはしなくていいですよ的な説明になおも「ラインが金属で変形しないならそうだけど流れもあるからラインはたるむこともあって云々」と浮子の水上部分と水中部分を分けるべきという最初の主張を勝手に引っ込めてなおもクダを巻く往生際の悪さ。
まあ、浮子とオモリ、餌の間にラインがあることによる浮子の感度への影響はなくもない気がする。極端な例を出すと、魚が食い上げてオモリを引っ張り上げてラインがたるんだ、てな時に浮子自体が比重の軽いモノならすぐに浮き上がってアタリの出る「感度の良さ」があるのかも知れない。逆にムクトップを使った比重の重い浮子なら、オモリが同じ重さだったなら、より大きな浮子になっているはずでユックリと「感度の悪い」鈍感な反応をするはすだ。
でも現実的にラインたるむまで食い上げたりするんだろうか?食わなくてもラインにあたる「さわり」を感じ取れるかどうかという話もあるので、まったく考慮が必要ないわけでもないけどとりあえずは無視して良いのだろうか?底釣りの浮子では足に竹まで使って全体の浮力を出しているような浮子が多いけど、実は餌の重さ分軽くなる食い上げアタリを取るためにそうなってたりするとかあったりするんだろうか?まあ細かいところはおいおい考えていくとしよう。
ただ、細かいところはさておくとしても「感度ってなに?」ということを真面目に考え始めると、先のブログの方の説明はちょっとバッサリ切りすぎな気がする。
「浮子のトップの動く長さ」がすなわち「感度」なのかというと、それは言い過ぎのように思う。
「同じ太さならムク素材だろうとパイプだろうと感度は一緒」という説明について、実験で同じ太さのパイプとムクのトップの浮子を作って、バランスさせた状態から同じオモリを追加でぶら下げてみて、さあ同じ目盛りだけ動きました。やっぱり「感度」は太さだけが関係するでしょ?というのを良く目にした。
どれだけ力をかけたときにどれだけトップが動くか、つまりトップの最終的な「動きの大きさ」だけが「感度」そのものならその通りだが、私は違うように思う。まだデビューもしていない新米ヘラ師志願兵の私が違和感を覚えるぐらいだから、実釣経験の豊富なベテランから異論が出るのもむべなるかな。
この実験に私なら、追加で別の実験を見せて印象を反転させることができるように思う。
同じ太さの同じ素材のトップを2本用意して、ボディーの大きさを極端に変えた浮子を作る。そしてバランスさせた上で同じ重さのオモリを追加する。
当然バランスさせる時点でオモリの重さが全然違う。でも、追加したオモリで沈むトップの長さは太さが一緒なら全く一緒。
じゃあこの実験に使った2つの浮子というか、オモリも含めた仕掛けの「感度」が一緒か?と聞けば、誰でも直感的に「違うでしょ」と理解するだろう。
仕掛け全体の重さ大きさが違えば慣性力だの水の摩擦抵抗だのかかってくる「ややこしい物理的な力」が違うはずで、動き出させるのに使う力や落ち着くまでにかかる時間が違うはずである。
一緒だというのなら大が小を兼ねてしまう。浮子などクソでかいの1本しか使わなくていい。
「感度」って何に対してなのか?という視点によっても全く答えが違ってくると思う。
乱暴に言ってしまえば、小さなアタリを大きな動きで拾えるのが「感度」だとすれば細いトップの方が大きく動くので「感度」が良いとなるし、瞬間的な素早いアタリを拾えるのが「感度」が良いとすれば太いトップの方が戻りが早いはずで「感度」が良いとなる。
浮子のトップが大きく動くにはそれだけ魚が長い距離を引っ張っているわけで、浮子のトップ以外サイズと比重が同じだとしてもその分時間がかかるので、ユックリともたもたと「大きく動く浮子」は動く。その間に、「小さく動く浮子」は短いアタリを複数回とらえ得る、なんてことが言えるように思う。
机上の理論で素人が馬鹿臭いことを書いていると思われるかも知れないが、どんなヘラの教科書にもヘラ浮子は、アタリ以外にも魚がオモリやラインに触れた「サワリ」や餌の状況なども含め水中を知るための指標である的なことが書いてある。
「サワリ」の感度なんていうのが、ジワーッとアタリが出る細くて「大きく動く」トップの浮子では良くなさそうだというぐらいは想像できる。たぶん、間違ってないだろう。
じゃあヘラ釣り師が浮子に求める「感度」ってなんなのよ?と考えると、それは状況によりけりでその時々で違う、というありきたりなしょうもない答えになってしまうのだろう。だからこそ、あまたの種類のあまたのサイズのヘラ浮子が作られているのに違いない。
浅棚で「サワリ」を出しながら、魚の寄り具合を探りつつ「食いアタリ」を取っていくのなら、太めのパイプトップの軽めの浮子が良さそうだとか、冬場の動かない魚が食った微妙なアタリを大きく拾って、かつ魚に違和感を感じさせないようにするなら、ほっそいムクトップの付いた比重もあんまり大きくない引っ張られたらそのままズルズルと水没してしまうぐらいのダルい浮子が良いんだろうなとかぐらいは分かるとともに、どんな状況でも「ハリがかりするするようなアタリ」だけを拾えるような魔法の「オカルト浮子」は、やっぱりこの宇宙の物理法則に従うかぎり存在しないんだなと理解するところである。
「感度」が良い。というのを「トップが大きく動く」という意味だけで考えていると、「グラスムクの細いトップの付いた浮子が一番感度が良いらしいから、それが一番良い浮子だろう」と勘違いしてしまいそうである。それでいいのならもっと極端に、徐々に沈んでいく浮子とか作れば良くなってくる。
またナマジが何もわかっとらんくせにあほなことを書いていると思うかも知れないが、徐々に沈んでいく浮子はグレ釣りとかタナゴ釣りでは当たり前に存在する。
なんで、わざわざ沈めるんだろうと薄ぼんやりとした疑問が頭にずっとあったが、ここ数日ヘラ浮子を作って、浮子のことを考えて頭を整理していたらとても納得がいった。沈みつつある浮子は浮いてる浮子より抵抗なく引き込めるという単純明快な利点。
今時のヘラ浮子ではポリカーボネイトのムクトップの優位性が謳われている。そのなかで、餌がユックリなじみ込む時のアタリが拾えるから的な記述をいくつか目にしたが、まさにその状態は餌の重みで「沈みつつある浮子」なんだなあと合点がいった。最初なんでそんな短いタイミングのアタリをことさら重視するのか良くわからんかったが、正直、理屈じゃなくて経験則でそれを導き出しているであろう先人達に敬意を覚えるところだ。
にしても、浮子なんてオモリとハリと餌背負って浮いてるだけだし単純な話のはずで、あれこれいろんな種類の浮子があるのも、どうせ作ってる方が売りたいだけやろ、と勘ぐっていた。その勘ぐりはある程度正しくもアリ間違いでもあった。
ずぶの素人が、ここまで整理するまでたどり着くのに、いかに多くの記述にあたらなければならなかったか、いかに「オカルト」な謎理論が横行しているか、「誰か正しくわかりやすく整理してくれよ!」という感じである。まあその役割の一端をゆるふわに担うしかないのかなと思うが。
ルアーの釣りというのは、そもそもがたまたま湖に落としたスプーンにマスが食いついたのが発端という説があるぐらいで、釣れるとかいう「現象」があって、後から餌の魚のようにキラめくからとかいう「理屈」がついてくるような「それホントにあってるの?」という疑問がつきまとう「経験則」な釣りなので、勢い「オカルト謎理論」が猛威を振るっているのだけど、餌釣りって外から見ているともっと技術的に体系立てて理論が整理されているモノだと思っていたのだが、そこは同じ穴の釣り人であり、どうしようもなく「釣り人」らしいと思わされる有様だと痛感した。
比較的単純だと高をくくっていた「浮子」ですら釣る前からこれほど悩まされるのである。これからヘラ釣りで一番面倒くさそうな「餌」について、事前のお勉強をしなければなるいまいと思うと、気が重いとともに同じぐらい楽しみでもある。つくづく面倒くせェ釣りに手を出してしまったモノだ。
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