2017年3月18日土曜日

「敷居が高い」の敷居の高さ

 「敷居が高い」って言葉、自分「ヘラ釣りは敷居が高い」とか使ってるけど、これってひょっとして「誤用」じゃなかったっけ?と気になってサクッとネットで調べてみたら、やっぱり「誤用」の例に出てくる筆頭の言葉の一つで、本来の意味は「不義理をしてしまい行きづらい」というもので、私が何の気なしに使っている「難易度が高い」あるいは「格式が高い」といったような意味での使用は「誤用」であるとしている説明がネット上の記事ではほとんどである。

 なので、過去の文章で「難易度が高い」的な意味で使っていた「敷居が高い」は「ハードルが高い」あたりに修正してしまおうかとも思ったんだけど、いまいち釈然としない引っかかりがあったのでもうちょっと突っ込んで調べてみた。暇だしナ。

 調べてみると、釈然としない部分の理由がある程度見えてきた。要するに「誤用」とされる使い方が、広く一般的になってきていて「人口に膾炙」してしまっているので、むしろ本来の意味がピンとこなくさえなっているから、「誤用」と断じるのに引っかかるのだと思えてくる。

 データを出してみると、2013年10月15日に小学館の「大辞泉」編集部が発表したらしい(ニュース記事には残っているが大辞泉ホームページの発表記事にみあたらないところが意味ありげ)、「間違った意味で使われる言葉ランキング」では、「敷居が高い」を「高級すぎたり、上品すぎたりして入りにくい」とする「本来と異なる意味」で使うとした調査回答が61.7%と「本来の意味」である「相手に不義理などがあって、その人の家に行きにくい」の27.8%と逆転しており、堂々第7位にランキングされている。
 ちなみにランキングは順に「ハッカー」「確信犯」「他力本願」「破天荒」「姑息」「失笑」「敷居が高い」「(話の)さわり」「なし崩し」「悪びれる」で、正直「本来と異なる意味」が明らかに変だと思ったのは「失笑」と「悪びれる」だけ、「本来の意味」も知っていたのが「確信犯」と「さわり」と「敷居が高い」ぐらい。お恥ずかしいかぎりだが、これらすべての言葉で調査回答の逆転現象が起きているので皆さん御同様のようでもありちょっとホッとしている。
 「確信犯」なんて本来の意味知ってるのは刑法学とか囓ったことある人間かミステリ小説好きぐらいのはずで、私も本来の意味は知っているけど、本来の意味で使うことはなく、もし本来の意味で使う機会があるとすれば「刑法学上の元々の意味的な「正しいことだと思い込んでする犯罪」の意味での確信犯」と長々と説明せざるを得ないと思っている。なにせ調査回答77.4%対12.7%である。本来の意味を説明もなく使ったら反対の意味に伝わって意思疎通ができない。

 言葉というのは「生き物」であって、時代と共に変化していくもので、その時代に多くの人間が使っている用法を「本来の意味と違う」という理由だけで「誤用」と断じるのはいかがなものかと思うのである。
 言葉が時代と共に変化していく端的な例を出すなら、古語では今の緑色は「青」だった、あたりだろうか。青葉とか青蛙、アオバトあたりはいずれも「ミドリやんけ」という色をしているが古語の名残なんである。

 という、時代と共に変化する言葉をとらえて、「敷居が高い」について、三省堂国語辞典では第六版で「気軽に体験できないの意味」を<あやまって>いると表示していたものを、2014年に出た第七版では、本来の意味に加えて用例として「2 近寄りにくい」「3 気軽に体験できない」を掲載しているようだ。
 依然として「本来の意味」しか載せていない辞書が多数派だろうし、識者の間でも「誤用」説のほうが強いのかもだけど、以前にも書いたようにネットの匿名の誰が書いたか分からん無責任な記事とちがって、辞書だの図鑑だのに書いた情報が間違っていたら、書いた人間の恥になるので書いてる人間の覚悟が違うから信頼性が違うと思っており、私の「誤用」をチャラにしてくれそうな説に則って新たな用例を載せてくれた先生はどこの誰じゃろかい?と調べてみたら、三省堂国語辞典編集委員の飯間浩明氏らしく、ご本人のツイートに、
 「「敷居が高い」が「気軽に体験できない」の意味で使われだしたのは1980年代以前ですが、広く知られたのは2000年以降です。当時『三省堂国語辞典』は誤用と認定。この用法への批判を助長した疑いがあります。現在の版では誤用表示はやめました。」
 「「哲学書はむずかしくて敷居が高い」のような用法は、「ハードルが高い」とも言い換えられず、他に適当な言い方もないため、一般に広まったのは当然とも言えます。意味の自然な拡張であり、これをいったん辞書で「誤用」と認定したのは早まったと反省しています。「誤用」の認定はむずかしいものです。」
 とある。潔い!なんという正直で誠実な人であろうか。自分の過ちをチャラにしてくれそうな説がないかとネットをうろつくような輩と比べるべくもない高潔さ。
 最近、ネットで簡単なことなら調べられるので辞書を引くことがなくなったけど、ネットの情報なんて繰り返しになるけど、どこの誰ともわからんヤツが書いた無責任なネタであり、良い電子辞書は買わねばならんのかなと思うところだが、三省堂国語辞典第七版は候補だなこりゃ。

 ツイートに「「気楽に体験できない」の意味で使われ出したのは1980年代以前」とあるけど、どんな事例があるのかなと、さらに突っ込んでみたら、哲学者の西田幾太郎が1942年のエッセイで不義理をしているわけでもない文脈で使っているとかも出てきて、もし、鬼の首でも取ったように「不義理以外の意味で「敷居が高い」を使うのは誤用である」とか指摘されても、絶対矛盾的自己同一的に正しいんですと煙に巻けば良さそうである。
 途切れもなく変化しつつある状態の言葉というものについて、正しい答えが一つあってそれ以外を「誤り」と断じてしまう危うさ自体も、「釈然としない引っかかり」を覚えた原因の一つかも知れない。

 最近だと、「接客業の使う敬語がおかしい」という論調を良く目にする。確かにちょっと変だなと思うような言葉使いもあるけど、注文を繰り返して「・・・でよろしかったでしょうか?」というのは「・・・でよろしいでしょうか?」とするべきだとかあたりになると、アンタのさっき言った注文は・・・だったのかという過去形の問いとしても成り立つわけで全然エェやないか、と思ってしまう。
 書いてて気付いたけど「全然+肯定」という言葉遣いは、自分の生きてきた時代の中で一般的になった言葉遣いだと思う。初めてそういう言葉遣いを目にしたときに、全然のあとには否定的な言葉がくるはずなのに、なんて「ナウい」言葉遣いなんだと衝撃を受けた記憶がある。「ナウい」という言葉が人口に膾炙したころにはその言葉は「ダサい」と思うようなマセガキだったので、全然+肯定表現初体験は70年代の話だったと思う。と思って全然+肯定表現もちょっと調べてみたら、昭和の初期ぐらいまでは普通に使われていて、その後、全然は否定表現に限られるようになっていったという歴史があって、また肯定表現にも使われだしているらしい。っていうぐらい言葉も変わるんである。

 行き過ぎた「言葉狩り」が害悪であるのは、方言と標準語の関係を見ても明らかなように思う。方言が誤りだなんて差別的な思想を今時主張する人間はいないだろう。多少違っていても、みんな違ってみんな良いんである。

 じゃあ、標準語やら正しい言葉を考える偉い学者先生とかは害悪なのかというと、そうじゃなくて、言葉が他者に情報を伝えるための道具であるからして、みんなに伝わるような標準的な言葉を選んだり、正しいと思われる言葉の使い方を考えたりするというのは当然必要で、NHKのアナウンサーが全国放送で一地方でしか通じないような方言を使ったり、誤りを助長し言葉の意味を不自然に拡散させてしまうような言葉遣いをしては問題なのは当たり前なので、偉い学者先生はやっぱり偉いのである。

 そういう偉い先生方はじめとした識者やそうじゃない人も含めて、いろんな説を戦わせたり、自然に変わっていく言葉に追従したりもしながら、「標準的な言葉」っていうのは落ち着くところに落ち着くもので、正解があるようなないような曖昧模糊とした線引きのできないことも多いものであり「公式見解がこうですから明日から従ってください」とかいう性格のものではないのだと思う。
 昔どっかの教育委員会だかが女性器の新しい呼称として「オパンポン」という言葉を提唱したとかいう話があって、まあ「落ち」としてはそんな「お上」が作ったお仕着せの言葉は全く定着しなかったということなんだが、そういうものなのである。世界の中心でオパンポンと叫んでも恥ずかしくないぐらいに人口に膾炙しなかった言葉である。
 
 とか書いてて、公式見解あったりしたらどうしようと、言葉という文化を扱う公的機関といえば文部科学省だろうと、またサクサクと調べてみた。
 文部科学省の下の文化庁の「国語に関する世論調査」というのが出てきて、平成20年度には「敷居が高い」についても調査されており、「本来の意味ではない方が多く選択されるという結果になった」と結果報告だけされていて、「本来の意味ではない使い方」については良いとも悪いとも正しいとも誤りとも書いていない、実にお役所的な歯に衣着せた奥歯に物の挟まったような調査報告である。でも、やっぱり「書けない」のが正しいんだろうなというのはこれまで書いてきたとおり。

 というわけで、答えがないような「どの言葉をどの意味で使うべきか」については、まず言葉の使用者として伝わりやすい表現を使いたい、というのが第一に考慮すべき点で、本来の意味と違う使われ方が一般的な言葉は、本来の意味と違っていても、他に無用な混乱を避けられるような言い換えが無いようなら分かりつつ使おうと思う。逆に本来の意味で使わなければならないのなら、「確信犯」で例示したように注釈をつけて使わざるを得ないだろう。
 もう一つ考慮するなら、「正しさなんてクソ食らえ」で勢いと感性で書くのもありだというところか。
 ローリングストーンズの「サティスファクション」の歌詞「I can't get no satisfaction」が、直訳すると「私は不満足を得ることができない」と二重否定になって結局「満足だ」という意味に文法的にはとれるんだけど、実際には「勢い」で強く「満足を得ることができない」というニュアンスが伝わるいい歌詞なんだよ、と解説されているのを目にして、面白い言葉の使い方だなと感心すると共に「I can get no satisfaction」だと思って普通にそれまで聞いていた自分の英語聞き取り能力のお粗末さを恥じたものである。
 

 まあいずれにせよ、「敷居が高い」という言葉に対して、本来の意味を知りつつも「本来の意味と異なる使い方」を許容するという「不義理」をしながら、変わりゆく言葉の実態と言葉はどうあるべきかという「難易度が高い」問題の明確な答えを見いだすに至らない私にとって、「敷居が高い」という言葉は敷居が高いと書くのは正しいのだろう。

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