マンガ読んでたら、情報の不思議さということについて書かれていて、同じような資料でも「マル秘」とかなっている情報のみが読まれれるという事例が紹介されていて、なるほどなと思った。
例として他にも「誰でもすぐに話せるマル秘英語術」というのと、「英語会話基礎編」というのでは、前者を手に取ってしまうだろうと書いてて、そうなんだろうなと得心する。
まああれだ、このブログの読者が、全世界の日本語読めるネットユーザー対象に公開しているにもかかわらず50人くらいしかいない、という原因はそのあたりにあったのだなと反省するしだいである。
「秘密の爆釣テクニックなんてありません」、地道に釣り場に通って、データ取って試行錯誤していくことでしか、釣りは上達しません。
「秘密の道具もありません」、魔法のような万能ルアーも無ければ、物理法則に反するような高性能なロッドやリールもあり得ません。自分の道具の特性を良く理解して、上手く道具を使えるようにしましょう。
「秘密の釣り場は載せてません」まずネットで公開した時点で「秘密」と矛盾してしまうので、ネット情報でそんなものが出てくるわけがありません。ネットで公開して人が押し寄せて他の釣り人にまで迷惑かけるわけにはいかないので、具体的なポイント名は伏せます。
なんていうクソつまんねえ真実を書いてきたがための、この不人気ぶりかと思うと、これからは心を入れ替えて、ウソくせぇ爆釣テクニックとか書き散らさねばならんのかなと一瞬考えたが、そんなもん書ける才能があったら苦労しないって話で、まあそういうのは道具売らないと商売にならない釣具屋お抱えの釣り師にでもまかせて、お気楽ブロガーは好きに書くさ、と思うのである。
おもえば他にも「釣りにまぐれはあんまりない」とか「食らったボウズの数で魚を釣れ」とか「プロにガイドしてもらうと良く釣れる」とか「ウブな魚が沢山いれば下手でもつれる」とか「最後は魚の気分次第」とか実も蓋もないことを書きまくってきた気がする。
これからも、そういった夢のない地味な話を力一杯書いていきたいと、心あらたに誓うのであった。
でも、逆に「釣りでは基礎的な技術の練習とか地味な努力が報われる」とか「確率的に沢山釣りに行けばいい目にあう確率が確実に上がる」とか、当たり前だけどコツコツやってる釣り人には励みになるような話や「デカくても小さくても釣れれば楽しい」とか「いつでもどこでも釣りは楽しい」とか「釣りに関係する全てが楽しい」とか大事なことくさいことも書いてきたつもりで、そういう話ってあんまりネチネチと書く人いないだろうから、私が書くしかないのだろうなと、これまた心に誓うのであった。
別に、閲覧数を稼がねばならない理由も無ければ、モノの分からん人にまで読んでもらわねばならない理由も無い。
ひっそりと「ごまめの歯軋り」と「ほとばしる無駄な知識」をベースに書き続けていきたい。
みなさま、引き続きごひいきに。
2015年3月29日日曜日
2015年3月21日土曜日
ディストピアに僕がいるとして僕はそのことに気づけるのだろうか
近未来の監視・管理社会に生きる人間のグジャグジャした苦悩やらなんやらを書いた、ジョージ・オーウェルによる歴史的名作SF「1984年」を恥ずかしながらこの歳で初めて読んで本のコーナーに感想を書いた次の日の朝、電車で途中まで読んでいた開高先生のエッセイ「食後の花束」の続きを読み始めたら、いきなり「1984年」の書評というかディストピア文学の系譜について書いてあって、「意味のある偶然の一致」に意味など無いと理解しているつもりだが、ちょっと本当に「ナニかある」んじゃないかと不安になるぐらいだった。よりにもよって、過去書物に書かれた内容を監視者側の都合の良いように書き換えるというような情報操作が書かれている作品の後にこういうことが起こると足元がグラつくような感じを覚える。
「ビックブラザー」が自分を見ていて、私のKindleに意図をもって「1984年」の後に「食後の花束」を読むように紛れ込ませていたのではないのか?いやいや、買った時点が全然リンクしていないしKindleの情報の書き換えだけではそんなことはできないはずヤ!でも、そう思っているオマエの記憶が書き換えられていない正しいモノだという根拠などあるのか?
なーんて、まさに正しくSF的な自己同一性の危機に直面するのであった。
開高先生の紹介するところでは、「1984年」は東西冷戦時代のいわゆる東側の国々で党による監視・管理社会において、「なんでこの作家は、我が国の今の状況を、こんなに具体的に予言するように書くことができたのだ」的な驚きをもって、まさに情報統制下で発禁扱いの中でこっそりと熱狂的に読まれたそうである。
私は、作中の管理社会の気持ち悪さから真っ先に今の北朝鮮の状況をイメージした。でもどこでもいつでもそういう気色の悪い、情報を書き換え、人を監視するような、管理社会型のディストピアって出現するもので、大本営発表で戦争してた日本もそうだったろうし、「神の教え」で全ての情報を上書きして強引に人の考えを統一してしまう宗教なんてのは、もちろんそれが人の幸せにつながることもあり悪い面だけではないと知りつつも、やっぱり本質、管理社会の一つの典型ではないのかと思ってしまう。
開高先生も、大規模な社会が管理社会的な側面を常に孕むということは指摘していて、私と同様、管理社会以外の幸せな社会っていうのは、領主でも村長でも優秀で人々のためになる治世ができる者が治める小さな社会ぐらいにしかあり得ないというようなことを書いていて、自分の答が開高先生的にも正解だったんだなと思いつつ、「逆じゃネ?開高先生の書いた本読んで育ったから、その思想にオマエの考え方が書き換えられてるんじゃネ?」とまた、ナニが自分の思想なのか、人からまったく影響を受けていない自分の考えなんてコノ世のどこにも存在していないだろうことは明らかなように思えてきて、じゃあ「1984年」で感じた他者に自分の心の中までいじられてしまうことの気持ち悪さって、今自分がそうされていないといえないのではないかとか、もうそのへんまで考えると何が何だかわけが分からなくなってしまうのである。
今の世の中、まあ世界中のことが分かるわけではないのでとりあえず今の日本はぐらいに限定して、私はなんとなく、ディストピアどころか、昔の人から見ればまぎれもなく真逆のユートピアであるんじゃないかと思っている。
便利な道具に囲まれて、自由と平等の民主主義の下に暮らしている。世界中の山海の珍味も王侯貴族でもないのに食える。
でも、本当にそうなのかと疑りだすと不安になってくる。今の我々の暮らしも、昔と比べたって五十歩百歩で、自由と平等の下なんて言ったって、どっかの牛丼屋が月500時間を超えて従業員働かせてたとか、奴隷労働の昔とナニが変わったんだってんだクソ野郎!だし、化石燃料バカスカ使って贅沢してるのなんて、未来人から見たら「なんて野蛮な時代だったんだ!」とあきれられるかもしれない。そんな未来が来ればよっぽどマシで、今の我々のこさえた負債を未来人が負担するハメになって、未来人に呪詛の言葉を吐かれることになってもおかしくない。
未来人に呪詛の言葉を吐かれる前に、まず、先進国に搾取されている構造の途上国やらに今既に非難の声を浴びせられているというのも、ユートピアである日本に住んでいることの尻の座りを悪くしていると感じる。
などと、小難しいことを考えて深刻ぶっておくことが、お気楽にユートピアで暮らすための免罪符と自分が考えているというのも、ちょっとありそうで、そういう小賢しい偽善に吐き気をもよおす程度に気持ちの悪さを感じる。
あんまり難しく考えるなとも思う。
「配られたカードで勝負するしかないのさ」ってスヌーピーも言ってた。
今、日本に生きて、仕事もあって、飯も食えて住むところ着る物にも困ってない。釣りもできて最高だ、というのを楽しまなくてどうする、という気もする。
でもでも、戦争やら貧困やらで、傷つく人の数を血の量に換算して、それをいろいろと責任の所在たどって理屈付けして、責任元の人が住んでいる所に雨にして血の雨を降らしたら、先進国が軒並み赤い洪水になったとか、まあ極端に強調されたイメージではあるけど、そういう話を読んでそんなイメージが頭にあったりすると、マンガ読んでても、直接手を汚さず洗脳した他人を使って人を殺していた人間に向けられた「お前の着てる服も!食ってるメシも!!血まみれだ!!」という非難の台詞が自分にも向けられているように感じたりする割と繊細なオッサンなのであった。
「ビックブラザー」が自分を見ていて、私のKindleに意図をもって「1984年」の後に「食後の花束」を読むように紛れ込ませていたのではないのか?いやいや、買った時点が全然リンクしていないしKindleの情報の書き換えだけではそんなことはできないはずヤ!でも、そう思っているオマエの記憶が書き換えられていない正しいモノだという根拠などあるのか?
なーんて、まさに正しくSF的な自己同一性の危機に直面するのであった。
開高先生の紹介するところでは、「1984年」は東西冷戦時代のいわゆる東側の国々で党による監視・管理社会において、「なんでこの作家は、我が国の今の状況を、こんなに具体的に予言するように書くことができたのだ」的な驚きをもって、まさに情報統制下で発禁扱いの中でこっそりと熱狂的に読まれたそうである。
私は、作中の管理社会の気持ち悪さから真っ先に今の北朝鮮の状況をイメージした。でもどこでもいつでもそういう気色の悪い、情報を書き換え、人を監視するような、管理社会型のディストピアって出現するもので、大本営発表で戦争してた日本もそうだったろうし、「神の教え」で全ての情報を上書きして強引に人の考えを統一してしまう宗教なんてのは、もちろんそれが人の幸せにつながることもあり悪い面だけではないと知りつつも、やっぱり本質、管理社会の一つの典型ではないのかと思ってしまう。
開高先生も、大規模な社会が管理社会的な側面を常に孕むということは指摘していて、私と同様、管理社会以外の幸せな社会っていうのは、領主でも村長でも優秀で人々のためになる治世ができる者が治める小さな社会ぐらいにしかあり得ないというようなことを書いていて、自分の答が開高先生的にも正解だったんだなと思いつつ、「逆じゃネ?開高先生の書いた本読んで育ったから、その思想にオマエの考え方が書き換えられてるんじゃネ?」とまた、ナニが自分の思想なのか、人からまったく影響を受けていない自分の考えなんてコノ世のどこにも存在していないだろうことは明らかなように思えてきて、じゃあ「1984年」で感じた他者に自分の心の中までいじられてしまうことの気持ち悪さって、今自分がそうされていないといえないのではないかとか、もうそのへんまで考えると何が何だかわけが分からなくなってしまうのである。
今の世の中、まあ世界中のことが分かるわけではないのでとりあえず今の日本はぐらいに限定して、私はなんとなく、ディストピアどころか、昔の人から見ればまぎれもなく真逆のユートピアであるんじゃないかと思っている。
便利な道具に囲まれて、自由と平等の民主主義の下に暮らしている。世界中の山海の珍味も王侯貴族でもないのに食える。
でも、本当にそうなのかと疑りだすと不安になってくる。今の我々の暮らしも、昔と比べたって五十歩百歩で、自由と平等の下なんて言ったって、どっかの牛丼屋が月500時間を超えて従業員働かせてたとか、奴隷労働の昔とナニが変わったんだってんだクソ野郎!だし、化石燃料バカスカ使って贅沢してるのなんて、未来人から見たら「なんて野蛮な時代だったんだ!」とあきれられるかもしれない。そんな未来が来ればよっぽどマシで、今の我々のこさえた負債を未来人が負担するハメになって、未来人に呪詛の言葉を吐かれることになってもおかしくない。
未来人に呪詛の言葉を吐かれる前に、まず、先進国に搾取されている構造の途上国やらに今既に非難の声を浴びせられているというのも、ユートピアである日本に住んでいることの尻の座りを悪くしていると感じる。
などと、小難しいことを考えて深刻ぶっておくことが、お気楽にユートピアで暮らすための免罪符と自分が考えているというのも、ちょっとありそうで、そういう小賢しい偽善に吐き気をもよおす程度に気持ちの悪さを感じる。
あんまり難しく考えるなとも思う。
「配られたカードで勝負するしかないのさ」ってスヌーピーも言ってた。
今、日本に生きて、仕事もあって、飯も食えて住むところ着る物にも困ってない。釣りもできて最高だ、というのを楽しまなくてどうする、という気もする。
でもでも、戦争やら貧困やらで、傷つく人の数を血の量に換算して、それをいろいろと責任の所在たどって理屈付けして、責任元の人が住んでいる所に雨にして血の雨を降らしたら、先進国が軒並み赤い洪水になったとか、まあ極端に強調されたイメージではあるけど、そういう話を読んでそんなイメージが頭にあったりすると、マンガ読んでても、直接手を汚さず洗脳した他人を使って人を殺していた人間に向けられた「お前の着てる服も!食ってるメシも!!血まみれだ!!」という非難の台詞が自分にも向けられているように感じたりする割と繊細なオッサンなのであった。
2015年3月15日日曜日
我が家の産業革命
金曜ロードショウでみた「かぐや姫の物語」、最近ファミリー向けっぽくて今一楽しめないことも多かったジブリ作品としては久しぶりにオレ的ヒットだったのだが、ネット上ではわりとさんざんな評価。評価が分かれるという感じか。
鶏泥棒シーンの捕まえて倒してボコる身体のさばき方のケンカ慣れしてる感じとか、細かいところにまで気を配ってある良い作品だと思ったのだが、他人様の評価と自分の評価は違うものである。
かぐや姫が幼いころをすごした、竹取の翁の住む里は、漆器などを作る木地師の集落で、その作業の様子とか道具とか、山を枯らさないように定期的に移動しながら暮らす知恵とか、なるほどなと楽しんだんだけど、特にろくろの回転運動を、縄を軸になる木に絡めて人力で得てるシーンが興味深かった。手で錐揉みする動作だと手のひらの20センチぐらい分しか同じ方向の回転は得られないんだけど、縄を使った場合、左右の腕の往復運動で軸の棒を回転させてやることになり、腕の長さ分の回転運動が得られるさまが見て取れた。
焼き物のろくろでもよく分かるが、円をベースとした形状を持つお椀やら作るためには、回転運動で成形するのが手っ取り早く、木を削るためには木を回転させながら刃物やヤスリをあてていくという作業が理にかなっている。
なんていうことに、ちょうどハンドドリルでロッドのコルクグリップを回転させて成形していたりとゴールデンウィーク用の竿を仕立てているところだったので目がいってしまったところ。
最近ではインパクトドライバーと呼ぶらしい日曜大工用のハンドドリルだが、これがラインの巻き替えとかにも使えて非常に便利だということは、ルアー作るのとかも上手い名古屋のSさんにずいぶん前に教えてもらっていたのだけれど、ライン巻き替え用の手動の道具は持っていたので、それほど電動化には魅力を感じていなかったのだが、使ってみると「産業革命」が大げさではないぐらいに作業が捗る。
回転運動を刃物やヤスリに与えて、グリップのコルクに穴を開けたりブランクスの切断面を研磨したりという、ドリル本来の使い方でも、それまで手動でヤスリの棒を使って夜なべ仕事で1日数個づつとか何日もかけてコルクを加工していたのが、小一時間もあれば終わってしまう圧倒的な能力。加えて、回転運動をうまくアタッチメント的なモノを介して削ったりする方の素材自体を回してやるとこれまた便利で、コルクの成形、インロー継ぎの芯用のカーボンブランクスの研磨、ブランクスにスレッドを素早く巻く、なんてのにも使えて、我が家の完全人力家内制手工業が家内制電動ドリル工業に移行した感じがする。
年明けに始めて、GWまで時間をかけてボチボチと楽しもうと思っていたライギョロッドの「魔改造」作業がほぼ終了してしまった。詳しくはサイトの方の「工夫」にUPしているのでドリルの活躍ぶりをご覧いただきたい。
回転を得るために縄とか使うのは、竹取物語の時代である千年前よりも昔、おそらく人が道具を使い始めた初期からあったはずで、神事に使う火を得るために今でも使われている、縄で「弾み車」のような重りのついた堅い心棒を柔らかい木の上で左右に高速回転させて、摩擦熱で火を付ける道具とかは縄文時代には既にあったと聞く。
その後、どこかの天才が、川の流れを利用して軸を回してやると、人が回さなくても勝手に回るうえに「水車」の大きさしだいで、人間ではとても出せない大きな力が得られることに気付いた。
水の落下エネルギーの利用であり、ダムの水力発電のご先祖といえるだろう「水車」の登場である。その回転でデッカイ石臼を回してソバなど穀物を製粉したり、回転運動を杵の上下運動に変換して脱穀したりと人力でも畜力でもない力を人が得ることで、農作業などかなり捗ったことが想像に難くない。穀物の製粉なんていうのはヨーロッパだかの農奴の骨を解析したら前屈みで石臼使い続けたせいで著しく腰の脊椎骨がすり減っていたっていうぐらいのキツい労働である。
風車もオランダの干拓地で水をくみ上げているイメージが強いが、英語では「ウインドミル」でミルはコーヒーミルのミルで「粉ひき」であり、最初は水車の風力版として生まれたのだと想像する。粉引いたり水引いたりして、これまた自然の力を利用して農作業を捗らせていたのだろうと思う。
水車、風車の生まれた時代には、まだ木や石がそれらを作る主な材料だったはずだけど、それでも石臼やら杵やら、水くみやらにそれ用のアタッチメントに交換することで様々な用途に対応する様は今私が手にするハンドドリルと同様の便利さを感じるし、回転する主軸に少しづつ滑らせながらそれらアタッチメントを接続させる方法など、車のクラッチとまったく同じ原理で、初めて水車の内部の機構について知ったのは農業機械学の講義だったかなんだったか忘れたが、連綿と続いていく人の技術に感動を覚えた記憶がある。
ただ、水の流れも、風力もどこでも使えるわけではない。本家の産業革命も今ググったら最初は水力で紡績機械とか動かしていたので川沿いしか工場が作れなかったとか出てきて逆に「水力で紡績工場うごかしてたのかよ!」と驚いたところだが、どこかの天才ではなく、仕事率(今では消費電力量の意味で使われることが多い)の単位に名を残すワットさんが1785年に蒸気のエネルギーを回転運動に換える「蒸気機関」を発明して、燃料と水を運び込めばどこでも工場が作れるようになっていく。ついでに燃料の輸送手段も蒸気機関車で解決。ワットさん後世に名を残すに相応しい業績である。
現在の発電のメインである火力発電も忌まわしい原子力発電も蒸気やガスでタービン回しているので蒸気機関の末裔と考えることもできる。
電気の利用っていうのが、これまた人間に与えたインパクトを考えてみるとすざまじいモノで、電気自体は雷や静電気のような自然現象や生物なら神経パルスからデンキウナギまでありふれたモノだけど、これが電池や蓄電も便利だけど、「送電」によりエネルギーを遠隔地まで電線程度のインフラで送れてしまうというのは、今の生活がコンセント無しには成り行かないのをみれば多くを語る必要もないだろう。エネルギーを電力で流通させてしまえば後は熱だろうと光だろうと回転だろうと欲しい形で引き出せるというのが、経済における「お金」にも似た便利さ。
もいっちょ、回転の動力関係で忘れてはならないのがいわゆる「エンジン」である内燃機関で、最近はバッテリーの改良が進んで電気自動車も出始めているが、それでも送電線による電力の供給を受けるわけにはいかない移動手段である車、船、飛行機などには、通常、燃料の爆発を利用する「エンジン」が積まれていて、ジェットエンジン、ロケットエンジンを除くと、爆発の力で生じる往復運動をクランク介して回転運動に換えて(ロータリーエンジンなんてのもある)車輪やプロペラ回したりしている。
この燃料焚いて動く動力源であるエンジンと磁石の間でコイルを回転させると電気ができる発電機(逆に電気を流すと回転するモーターになる)を合体させた発動発電機、いわゆる「ハツハツ」というのがあるのだが、夜店の屋台の後ろでブンブン回ってたり、送電線が来ていないアウトドアのイベントで使われるイメージがあると思うが、何というか、エンジンとモーターどっちも持ってて、ちっちゃな発電所みたいで可愛らしく感じるのは、道具フェチに過ぎるだろうか。使う予定もないけどたまにネットでカタログ眺めてしまったりする。
発電機無しの発動機という車などに搭載されていない単純なエンジンだけに近い構造の機械もあって、これが途上国の援助に持っていくと、とても役立つと聞いたことがある。
だいぶ昔に聞いた話なので今はそうでもないのかもしれないが、電力とかの基盤整備がしっかりしていないところに、いきなり高度な機械を持っていって取り付けてやっても、メンテで特殊なパーツが必要とかになるとすぐに使えなくなり、解体して金屑屋に売られるのが関の山だとか何とか。
その点、発動機はまさに教科書に載ってるようなエンジンの基本の構造で、燃料もパーツも手に入りやすい。車や船のエンジンのパーツと共通する部分も多いはずである。なにせ日本ではホンダとかヤマハとかからもでている。そういうメンテがしやすい機械は、修理して長く使えるという面に加え、現地の人が機械について学んで技術が身につくので、一過性の援助ではなく地に足着いた援助になるんだとか。回転する動力が手に入るだけで、もちろん水車、風車がやってたような農業に関する作業は捗るだろうし、井戸のポンプだって動かせる、船に積んだら網揚げに使えるだろうし、船を陸揚げするウインチにも使えるだろう、アイデアしだいでいろいろできる。飢えた人に魚をあげるより、魚の獲り方を教えろということか。
途上国の道具フェチな兄ちゃんが、ハンドドリルを手にした私以上に「回転、メッチャ便利やん!なんでも仕事が捗るデこりゃ!!」と驚喜する様が目に浮かぶようである。
これまで、ヤスリでシャコシャコとコルクを削るという、黒曜石で鹿の角削って釣り針作ってた縄文人並みだった男が、いきなり電気で回転するという、蒸気機関も内燃機関もすっ飛ばした文明の利器を手に入れた感動を伝えたくて、回転する動力の歴史を紐解いてみたところである。
「いつもより多く回しております」と海老一染之介・染太郎のまわす傘の映像が、なぜか脳内スクリーンに映し出されている。
2015年3月7日土曜日
メンテナンス期間中
先週は整形外科、今週は眼科である。
3月はサラリーマンの皆様ならわかっていただけると思うが、決算期で報告書やら来年度の予算要求の話やら、年度末進行で慌ただしい。加えて春も近づき花粉も飛び始める。
花粉飛び始めると目がかゆいし鼻ムズムズで頭もしゃきっとせず不快この上ないが、花粉飛び始めるのと腰痛も意外に関係あって、くしゃみすると結構腰の筋肉使うらしく、この時期腰の状態は悪化しがちだし、過去「くしゃみでぎっくり腰」も経験している。
腰の方は、先週指導があったこともあり、太もも裏のストレッチをがんばっているところ。
今日は、眼科に花粉症の薬を出してもらいがてら、持病の緑内障の視野検査とか眼圧とか定期検査。しばらく目薬だけもらって検査受けていなかったので「今すぐどうこうなる話では無いですが、10年、20年後を考えてちゃんと検査受けてくださいね」と叱られた。
あと20年ぐらいは目が見えてもらわないと困るので反省。
緑内障というのは目の網膜の神経がダメージを受けてだんだん視野が欠けていく病気なので、視野検査では、機械に顔を乗せて目線を固定して、あちこちにランダムに出現する光点を、見えるか見えないかスイッチ押して視界が欠けていないか調べていくのだけど、これが、どこから出てくるかわからないモノを見つけるという状況になると、釣り人の性なのだとおもうが、なぜか勝手に「獲物探索モード」になってしまってあちこち視野がさまよってしまい、強く意識して視線を真ん中に固定していないと「キョロキョロしないでください」と技師の人にこれまた叱られてしまうのであった。
釣り場では意識しなくても、ライズとか探してるときはそういう眼球の動きをしているんだろうなと思う。
検査の結果、特に進行もしておらず問題なしでホッとしたところ。
明日は休日仕事が舞い込んで、今日は小雨降る寒い1日で今週末は釣りに行けるかどうかわからんところだが、まあこれから春本番だし急ぐこともあるまい。
身体のメンテはしっかりやっておきたい。ポンコツだけど新品に買い換えるわけにも行かないのでだましだましやっていくんだろうなと思っている。
2015年3月1日日曜日
野蛮人のように
現代社会において、人は便利な機械に囲まれて、空調の効いた快適な住居で、餓えの不安や外敵の襲来におびえることなく、穏やかに心安らかに暮らすことができる。
一方で、極端な話をすれば生きるか死ぬかの緊張や、窮地を打破するようなスリリングな体験はなかなか味わえないうえに、人は皆、社会に高度に組み込まれ、ネットや携帯電話なんかは便利な反面「監視」されているという側面が否めない。
高度に洗練されつつある社会で、逆に現代人はその洗練された社会からのストレスにさらされていて、そのはけ口となる刺激が乏しい。
こういったストレスを感じるのは、現代人の生活に「野蛮な行為」が足りないからだ。と書いている人がいて、その人は「デカイ声で叫ぶ!」「モノをぶち壊す!」といった、直接的で野蛮な行為が現代人にはたまには必要なのではないかと提言していた。
その記事を読んでから、割と意識してデカイ声で叫ぶようにはしているが、なかなか街中でやると近所迷惑で今時警察呼ばれかねなくもあるので、釣りに行く車のなかで叫ぶようにしている。
でも、チョット考えると我々が楽しんでいる「釣り」という遊びは、実にイイ感じに野蛮である。
なにしろ、「食べてね~オイシイよ~」と魚の前にハリを仕込んだ餌を落としてだまくらかしたうえに、ハリをグッサリ魚の口に引っかけて、死にものぐるいでいやがっているのをグイグイと引っ張って呼吸もできない水の上に上げてしまい、そのままブッ殺して持ち帰って、粉振って熱い油で揚げたりして頭からバリバリと食ってしまうのである。最高に野蛮で素敵な遊びである。
昨日もワカサギ好釣でだいぶ野蛮な欲求が満たされたところである。
もうね、何匹も連なってワカサギ上がってきたときの心の底からの原始的な歓喜といったらたまらんモンがあります。
ワカサギは骨が柔らかく頭から食えて、ビニール袋に入れて揉んで軽く鱗を落とすだけの簡単な下処理ですむ便利な素材で、これまで様々な料理を試してみたところ。オリーブオイル塩炒めはオリーブの青臭さとワカサギのこれまた青臭さがそこはかとなくマッチして意外な美味しさ。ごま油でネギ塩味炒めも良し。塩振って干物もいけるし、普通に煮ても、煮て卵とじにしてワカサギ丼もオツ。テンプラもいいけど、やっぱりド定番の唐揚げを、揚げる端から食って行くのが一番かもしれない。
書いててヨダレ出てきたけど今晩食えるのでしばしの我慢である。
夜帰ってきて、油とか揚げ物の準備するのがめんどくさい疲れ具合だと、釜揚げワカサギというのもいい手で写真は昨夜の夜食である。
という感じに休みの日はイイ感じに野蛮なことをしてストレス解消しているのだが、それでも現代ストレス社会から逃れきれるわけもなく、平日仕事では長時間のデスクワークとかでチクチクとストレスを蓄積していて、とりあえずこれが腰にくるわけで、昨年秋ぐらいから良くなったり悪くなったりを繰り返しているので、近くにアスリートのフィジカルケアとかもやってるらしい整形外科があったので、午前中に行ってきた。
レントゲンとか触診問診から、椎間板ヘルニアにはなっていないけど、身体が硬い、具体的には太もも裏のハムストリングスという筋肉関係がかたくて、前屈とかが正直マイナス15センチとかのていたらくなので、太もも裏が堅い分を腰の脊椎が曲がって補っているので、曲がるところの下の方の背骨の間の軟骨である椎間板が炎症起こすのだとのことであった。
毎晩風呂の後ストレッチしてるんだけど、昔は前屈して指先ぐらいは地面に付いたのに、ここ1年ぐらいストレッチしてるのに全然改善されないので、ちょっとそこを時間があったら伸ばしてもらいに行くのと、家でも良い方法を調べて重点的に取り組みたい。
あとは、サイクリングでもジョギングでも良いので運動不足を解消して持久力を付けるようにとの指導。自転車こいでセッセと近所ポイントチェックせよということだと理解したのだが、セッセと平日釣りに行けるぐらいならストレス感じないのよね、悲しいけど。
でもまあ、今年のテーマは「野蛮人のように」に決まった。
自転車漕ぐ、歩く、釣る、叫ぶ、食らう、心のままに行きたい。
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