2015年3月21日土曜日

ディストピアに僕がいるとして僕はそのことに気づけるのだろうか

 近未来の監視・管理社会に生きる人間のグジャグジャした苦悩やらなんやらを書いた、ジョージ・オーウェルによる歴史的名作SF「1984年」を恥ずかしながらこの歳で初めて読んで本のコーナーに感想を書いた次の日の朝、電車で途中まで読んでいた開高先生のエッセイ「食後の花束」の続きを読み始めたら、いきなり「1984年」の書評というかディストピア文学の系譜について書いてあって、「意味のある偶然の一致」に意味など無いと理解しているつもりだが、ちょっと本当に「ナニかある」んじゃないかと不安になるぐらいだった。よりにもよって、過去書物に書かれた内容を監視者側の都合の良いように書き換えるというような情報操作が書かれている作品の後にこういうことが起こると足元がグラつくような感じを覚える。

 「ビックブラザー」が自分を見ていて、私のKindleに意図をもって「1984年」の後に「食後の花束」を読むように紛れ込ませていたのではないのか?いやいや、買った時点が全然リンクしていないしKindleの情報の書き換えだけではそんなことはできないはずヤ!でも、そう思っているオマエの記憶が書き換えられていない正しいモノだという根拠などあるのか?
 なーんて、まさに正しくSF的な自己同一性の危機に直面するのであった。

 開高先生の紹介するところでは、「1984年」は東西冷戦時代のいわゆる東側の国々で党による監視・管理社会において、「なんでこの作家は、我が国の今の状況を、こんなに具体的に予言するように書くことができたのだ」的な驚きをもって、まさに情報統制下で発禁扱いの中でこっそりと熱狂的に読まれたそうである。
 私は、作中の管理社会の気持ち悪さから真っ先に今の北朝鮮の状況をイメージした。でもどこでもいつでもそういう気色の悪い、情報を書き換え、人を監視するような、管理社会型のディストピアって出現するもので、大本営発表で戦争してた日本もそうだったろうし、「神の教え」で全ての情報を上書きして強引に人の考えを統一してしまう宗教なんてのは、もちろんそれが人の幸せにつながることもあり悪い面だけではないと知りつつも、やっぱり本質、管理社会の一つの典型ではないのかと思ってしまう。

 開高先生も、大規模な社会が管理社会的な側面を常に孕むということは指摘していて、私と同様、管理社会以外の幸せな社会っていうのは、領主でも村長でも優秀で人々のためになる治世ができる者が治める小さな社会ぐらいにしかあり得ないというようなことを書いていて、自分の答が開高先生的にも正解だったんだなと思いつつ、「逆じゃネ?開高先生の書いた本読んで育ったから、その思想にオマエの考え方が書き換えられてるんじゃネ?」とまた、ナニが自分の思想なのか、人からまったく影響を受けていない自分の考えなんてコノ世のどこにも存在していないだろうことは明らかなように思えてきて、じゃあ「1984年」で感じた他者に自分の心の中までいじられてしまうことの気持ち悪さって、今自分がそうされていないといえないのではないかとか、もうそのへんまで考えると何が何だかわけが分からなくなってしまうのである。

 今の世の中、まあ世界中のことが分かるわけではないのでとりあえず今の日本はぐらいに限定して、私はなんとなく、ディストピアどころか、昔の人から見ればまぎれもなく真逆のユートピアであるんじゃないかと思っている。
 便利な道具に囲まれて、自由と平等の民主主義の下に暮らしている。世界中の山海の珍味も王侯貴族でもないのに食える。
 でも、本当にそうなのかと疑りだすと不安になってくる。今の我々の暮らしも、昔と比べたって五十歩百歩で、自由と平等の下なんて言ったって、どっかの牛丼屋が月500時間を超えて従業員働かせてたとか、奴隷労働の昔とナニが変わったんだってんだクソ野郎!だし、化石燃料バカスカ使って贅沢してるのなんて、未来人から見たら「なんて野蛮な時代だったんだ!」とあきれられるかもしれない。そんな未来が来ればよっぽどマシで、今の我々のこさえた負債を未来人が負担するハメになって、未来人に呪詛の言葉を吐かれることになってもおかしくない。
 未来人に呪詛の言葉を吐かれる前に、まず、先進国に搾取されている構造の途上国やらに今既に非難の声を浴びせられているというのも、ユートピアである日本に住んでいることの尻の座りを悪くしていると感じる。

 などと、小難しいことを考えて深刻ぶっておくことが、お気楽にユートピアで暮らすための免罪符と自分が考えているというのも、ちょっとありそうで、そういう小賢しい偽善に吐き気をもよおす程度に気持ちの悪さを感じる。

 あんまり難しく考えるなとも思う。
 「配られたカードで勝負するしかないのさ」ってスヌーピーも言ってた。
 今、日本に生きて、仕事もあって、飯も食えて住むところ着る物にも困ってない。釣りもできて最高だ、というのを楽しまなくてどうする、という気もする。

 でもでも、戦争やら貧困やらで、傷つく人の数を血の量に換算して、それをいろいろと責任の所在たどって理屈付けして、責任元の人が住んでいる所に雨にして血の雨を降らしたら、先進国が軒並み赤い洪水になったとか、まあ極端に強調されたイメージではあるけど、そういう話を読んでそんなイメージが頭にあったりすると、マンガ読んでても、直接手を汚さず洗脳した他人を使って人を殺していた人間に向けられた「お前の着てる服も!食ってるメシも!!血まみれだ!!」という非難の台詞が自分にも向けられているように感じたりする割と繊細なオッサンなのであった。

4 件のコメント:

  1. 冬に植えた球根の芽が出て花も咲き、うれしくしているKazuです。
    誰かがすべての情報を集めて集約しているなら、これから家の庭に咲くチューリップ
    の色もわかるのだろうか? 近所のホームセンターでメンバーズカードを使って購入
    した球根は・・・。「お徳用 チューリップ大 赤 1個40円×12」  こりゃ可能かもで
    すね。笑 こわっ

    春の川釣りが一時とまっています。何にも釣れてません。次回はふつうに渓流で、
    イワナ釣りに行ってこようと思います。

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  2.  赤い花が咲くでしょう。となりそうですが、チョットだけ違う可能性があったりします。
    チューリップの斑入りはウイルス感染だそうで、どういう経路で感染するか詳しく知りませんが赤が咲くはずが、赤に白の斑入りになることはあり得るのかなと思います。

     花は花のあるように咲き、我々は我々の意志のもとに生きていると思いたいですね。

     我々が釣りに行きたいのは、そうしむけられたわけではなく、我々がそう感じるからだと、それは確信していいようにおもうのですが。

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  3. ナマジさん、うまく切るなぁ。わたしも仮想の監視者に「じゃ花の勝手を管理してみろよー。」って思いがわいてきて書いたけど、うまく説明できんかったとこです。

    ジュラシックパークにそんなエピソードあった気がする。雄の恐竜しかいないはずだけど・・・
    「けど」です。 どうにかして卵産んで生き物は生きる道を見つけるというのが、なんか記憶に残ってます。          Kazusaurus

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  4.  100%と0%は無いというのは生物の世界でもやっぱりそうなんだと思います。

     生物において例外が無いのは鳥が卵生であるということぐらいだと、誰かが書いていたように思います。それでも実は過去に絶滅した種にありましたとか、未来に進化して卵胎生の鳥が生まれましたってのはあるかもしれないし、どこか密林の奥に今もいるかもしれません。
     昔は鳥に有毒種はいないというのも例外無いと思われていたようですが、ニューギニアからモリモズの仲間が人死ぬぐらいの毒があると報告されて覆されました。

     生きものの不確定さゆえのしぶとさというのは、自分の魂の自由さを信じるうえでよりどころの一つになるかもしれません。
     どれほど監視・管理されたところで、自分のうつろいやすい心はどう振れるか予測できず、それ故に自由だと思っても良いのかなと、今日この時は思います。
     明日はどう思うかわかりません。

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