親父みたいなヨォ酒飲みなどにゃ、ならぬつもりがなっていた。と昭和の演歌では歌われていたけど、携帯の待ち受け画面をペットの犬猫にするようなペットバカにはならぬつもりがなっていた。だってウチのコバンちゃんったら可愛いんですもん。
カエルやら魚やらも飼ってて楽しかったけど、ネコのように自分の居室で一緒に過ごして、意思疎通らしきモノもできるとなると、一緒に暮らしていて相棒感がでてくる。ペットは所詮犬畜生であり家族とは思わないように線を引きたいけど、ある意味家族以上に重要な存在になってきている。家族はほっといてもあちらはあちらでちゃんとやってると思うけど、愛猫は近所で悪さをしてワシに拉致監禁され終身刑となった身なので、ワシが責任持って面倒を見ないとならず、元の悪い野良猫に戻ることはできるかもしれないけれど、監禁している限りにおいてはワシが世話しないと飢えたり病気したりで死にかねない。
まあ、犬猫って人間と共に生きてきた歴史が長いのもあって、人と共に生きるのに適した生き物だなとつくづく思う。サーバルとかニシキヘビ系とかたまに脱走されてニュース沙汰になってたりするけど格好いい野生動物をペットにしたいという気持ちは分からんでもないし、動物園でもなんでもない素人が繁殖成功させたりっていう特殊能力持ちもなかにはいるので、法と金と己の信条の許す範囲で飼いたきゃ飼えば良いけど、たんなる思いつきやペットショップで売ってるのを見て気に入った程度で飼うのは止めておけと正直思う。昔、元同居人とペットショップに行って小型のフクロウの仲間が売っていて、それはとても魅力的で可愛らしく元同居人は世話はワシがきちんと見ることを大前提として飼いたがったが、「この鳥籠のフクロウがウチに来ると、森から1羽この鳥籠に連れてこられる」と言って諦めさせた。繰り返すけど法に触れないかぎり金が許せば飼うことが即悪というわけではない。でもワシの信条としてそれはよろしくないと判断した。深夜帰宅の多かった働いてた頃だったので夜遅くに帰宅したら部屋に可愛いフクロウが居てお出迎えしてくれるというのは超魅力的だったがなんとか我慢した。いくら小型とはいえ猛禽を飼育する余力は当時のワシにはなかった。面倒の少ないタフな小型のライギョがそんなワシの癒やしだった。レインボースネークヘッドとコウタイと2代続けて飼育したけど、奴らは愛嬌も野性味も備えた素晴らしいペットだった。
犬はかなり高度に家畜化されているけど、猫は野生化して”ノネコ”の問題が生じるぐらいには野生を残しており、我が家のコバンも
蜘蛛だのGだの窓の外のヤモリだのを襲う野生は健在で、以前にも書いたとおり
家畜と野生の半々のシュレディンガーの猫的?な存在だとワシャ思っている。まあ、犬も犬種にもよるだろうけど野犬化することがある程度には野性的なケモノではある。ワシはコバンと過ごしているときに、その行動やらなにやらから野生のケモノの魅力も十分に感じている。まあ、悪いことはいわないので、動物飼いたいと思うなら、家畜化もされてないような野生種に手を出すのは真性のマニアで自分にその資格があると自認できるレベルでないなら止めておけ、素直に犬猫飼っておけば充分に満足できるだろうし、餌や病気の問題も対処方法とかがしっかりしていて安心である。
ネットの片隅には賢者が居るとワシ常々思うところで、海外の面白動物ニュースとか紹介しているブログで、飼育員さんがどこかに行こうとすると鼻でヒシッと抱きとめるようにして「行かないで!」と訴える愛らしい子象の動画が紹介されていて、それを見たネットの片隅の寂しいオッサンとおぼしき1人が掲示板に、
「なんでもいい、こんな風に愛されたかったな」と書き込んだのに対する返しが秀逸だった。
「まだ遅くない、金を用意しろ
犬を飼え、犬と共に生きろ
猫を飼え、猫の為に生きろ
愛を注げば、愛してもらえる」
あまりに鋭く、感心したので有名な警句かなにかなのか?とネット検索して調べてみたけど、どうも即興のオリジナルのようである。たった4行でこれほど完璧な返しを書き込んでみせるその賢者ぶりに圧倒される。きれい事じゃなくて費用も発生するという根本のところからぶちかまして、飼う責任ということを端的に表しつつ、犬と猫の違いでしれっとユーモアも加えたのちに、愛されたいと願うなら、まずおまえが愛することから始めろと諭す。完璧な4行であるとしかいいようがない。犬と猫という2種の選択も結局はその2つしかないよなと納得である。ワシも猫の為に生きている部分もあるので大いに納得する。愛というモノがどういうものか唐変木のワシにはよく分からないけれど、コバンを思うときに胸にわき上がる暖かいモノがそれではないかとおぼろげながら思っているし、帰宅して猫部屋に入ると足下に一生懸命匂いを付けようとしてるのか顔をこすりつけてきたりするのや、あぐらでPCいじくってると膝の上ですやすや寝てくれたりするのは、ワシひょっとして愛されているのでは?と疑うに足りる日常の場面。
ぶっちゃけ、ワシ孤独には強い方というか逆に一人の時間がないとイヤなぐらいで、独居老人でも寂しいと感じるような感性があるとは思えないぐらいである。某ボッチがロックするアニメで主人公が、ボッチと”一人が好きな人”は違うと言ってて秀逸だったけど、まあワシ一人が好きな方である。でも猫飼って思ったのは、意外にオレもぬくもりを求める心って持ってたんだなってことで、想像していた以上に癒やされる。よく独身OLが猫飼い始めたら婚期逃すと言われているけど、クソみたいな男に引っかかるぐらいなら猫の方が断然魅力的だというのはよく分かる。で、愛されたことがないような孤独なオッサンが大量生産されることとなる。少子化対策本気で考えるなら独身者には猫を飼わせるな。
っていうのはこじつけでしかないけど、現実に猫を飼わせてもらえない雰囲気になってる人たちが居て、どういう人たちかというと独居老人で、保護団体の主催するような犬猫の譲渡会に行くと、いつ死ぬか分からん独居老人に犬猫の命はあずけられません、って断られるらしい。いやいやいや独居老人にこそ必要でしょ?生きがいとして相棒としての存在が。そら飼い主死んで気づかれずに殉死してても可愛そうだし、死ぬ前に発見できても引き取り手のある子犬子猫じゃないと次の飼い主が見つからないってことだろうと思うけど、繰り返すけど犬猫って文字通り犬畜生でっせ、人の幸せのために多少犠牲にしても仕方ないことにしとこうよそれは。あるいは年寄りには老犬老猫を任せるとか上手に運用してよってワシャ思う。この問題も先の4行なら解決する。金を用意すればいいのじゃ!オゼゼさえ払えばペットショップは喜んで可愛い子犬子猫を売ってくれるだろう。っていうのが動物の福祉に反するとかいって欧米”先進国”ではペットショップで生体を売るのを禁止してたりするけど、正直アホかと思うね。す
べての動物が幸せに暮らせるようにするまえに、すべての人間を幸せに暮らせるようにしてやれよって毎回毎回書かせるなって話。
じーちゃんばーちゃんに先立たれて、予算も人手も限られるような保護施設で残りの一生を送るような犬猫がかわいそう、ってそうかもしれんけど、じゃあじーちゃんばーちゃんに愛されて暮らした時間は意味なかったのか?違うだろ幸せだっただろってワシャ思いたい。その幸せな時間があれば生まれてきた甲斐があったかどうか?とかまでなんて、当事者である犬猫にしか分からんだろ?当事者でもそんなのわからんか?とにかく、おまえには決めつけられたくないってワシなら思う。なんかこのへん、健康で大過なく長生きするのが至上目的になってるバカどもと同じ悪臭がただよってきて鼻が曲がるのよね。そりゃ生きてりゃ良いことも悪いこともあるだろ?テメーの価値観で他者の幸せを決めようとするな。もっと言うなら犬猫の寿命は10年から長くて20年、今時のじーさんばーさん死にそうなヨボヨボでもそのぐらい生きてもおかしくないって。逆に若けりゃ死なないってわけじゃなし、人はみなダモクレスの剣の下。
今後我が国が超少子高齢化社会に突入するっていうことは、独居老人いっぱい出てくるわけで、そういう人たちが幸せに暮らすために、犬猫は超優秀な存在だと思う。まあワシ犬は飼ったことないけど猫ならナニが良いかお薦めポイントを列記できるので愛猫自慢がてら書かせてもらいたい。
まず猫のナニが良いかといえば、足が可愛い。もちろん犬猫の可愛さの記号として肉球マークがよく使われるぐらいで肉球も良い。良いけど猫の前足(お手々)そのものが可愛いということに、愛猫家の皆様なら大いに賛同していただけるだろう。
ウチのコバンさんは茶白の毛色で、お手々が手袋みたいに白い。まだ野良猫時代に、窓を開けると塀と一階の屋根をポンポンと跳んで、窓のサッシにその白くて大きなお手々をかけて、部屋に遊びに来る。その白い、子猫にしては大きなお手々に、今思うと”ズキュウウウン”と胸を貫かれていたのだと思う。あまりに可愛らしいので写真にも残した。今よりずいぶん小さな子猫だったけど前足の大きさを見ると、その後最大時7キロを軽く超える”デカ猫コバン”に育つその片鱗が見て取れる。
コバンさん、猫にしては珍しい方かもだけどどこ触っても大丈夫な”お触りオッケー”な猫であり。可愛いお手々をワシの老いて節くれた手で包んでネッチョリとなで回したりして堪能させてもらっている。
そして声が可愛い。監禁当初、出かけたりなんだりで1Fの猫部屋に放流して戸を閉めると、悲しげな甘えた声でワシを呼ぶように鳴くのには「ああっ釣りなど行かずにおまえをズッとなでくりまわしていたいっ!」と思わされたモノだが、釣りに行かねばワシもコバンも魚が食えないので、後ろ髪引かれる思いで釣り場に向かったモノである。まあ、案外平気みたいで、帰ってきてお迎えしてくれる日もあれば、寝床の段ボールやらソファーのうえで「なんや、帰ってきたんか?」と眠りを妨げられて不機嫌そうにあくびしているときもある。キーッあたいのことなんてどうでも良いのね、悔しい!でも可愛いの。
そして、居室で一緒に居て、下の猫部屋で遊びたくなったときには、ニャーと鳴いて催促してくる。確認のために「下に行きたいんか?」と問うとさらに一所懸命なかんじで「ンニャ~」と鳴く、そのときの意思を伝えようとする必死な感じの表情も愛おしい。「そうかそうか下で遊ぶんやな」と戸を開けると、トトトッと階段を降りていくときもあれば、隣の部屋に走って行って追いかけっこに誘ってくれる時もある。ジイさん、膝も悪いのに階段駆け下りたり、猫部屋で洗濯機の裏やダンボ-ル箱の中に逃げ込むコバンさんを追いかけて大ハッスル。実にイイ。充実の猫生活。
そして、いつまでも書いてるわけにいかないので最後にお薦めするポイントが、「お尻」である。よく、犬だとコーギーやシバのお尻のかわいらしさが絶賛されているが、猫の尻も良いものです。尻尾ピンと立てて元気に歩く後ろ姿のお尻の穴まで丸見えの可愛らしさは犬にも負けんですよ。しかも、ウチのコバンさんはダイエットして絞って6.5キロのデカ猫であり、尻というか太ももの肉付きもよく、丸くなって寝てる姿とか、ダイナマイトセクシーボディーに悩殺されてしまうぐらいである。そして、そのダイナマイトボディーに育ったことに自分では気がついてなくて、小さい頃からのお気に入りの段ボール箱にムチムチボディーを納めようとして”ムチ壊し”てしまっているのもいとおかし。
まあ、寝姿みてるだけで猫好きなら白飯おかわりできるってもんだけど、これがまた同衾するとまたよろしくて、寒い時期だと布団に入ってきたら、股ぐらに落ち着くか、脇に頭を突っ込んだり腕枕させていただいたりという形になるんだけど、脇に来たときにはムチムチの太ももから腰お尻にかけて、モミモミなでなでしていると気持ちよくて、グッドスリープな感じに良い眠りにつけるのである。
今のところ同じ布団で寝ても”過ち”は犯していないけど、冒頭写真がまさにその現場なんだけど、コタツとかであぐらの上でくつろぐときに、コバンさんワシの股間を一所懸命揉んでくれるのである。ワシ、コバンを愛してはいるし世の中多様性が重視される時代になったけど、種を超え、めくるめく同性愛の世界に踏み込む勇気は今のところない昭和の男なのであった。元々はオカーチャンのお乳を揉んで乳の出を良くする行為から来てて、甘えたりリラックスするときに、柔らかいモノを揉む習性が猫にはあるそうである。ワシの股間が柔らかいというのは忸怩たるモノがあるが、コバンが甘えるのに適した柔らかさであるというならフニャ○○のそしりも甘んじて受けておこう。可愛いからゆるす。
という感じで、港町に一人こもって釣りの世界の深淵を覗くような深いところまで潜っていこうというキチガイじみたきつめの妄執は、猫一匹でなんか良い塩梅にゆるくて楽しい釣り生活にその質を変え、お気楽で楽しい暮らしになっている気がする。
コバンよ、いつも安定して可愛くてありがとう。おまえの可愛さがあれば、少々ボウズ食らったってへっちゃらさ。
これからも共に生きていこうね。
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