2021年5月29日土曜日

夢にまで見るふるさとは

  NHKオンデマンドを契約したときに、ざっとどんな番組が観られるのかなと眺めて、お気に入りに登録して、それでもなかなか視聴できないでいたNHKスペシャル「被曝の森」シリーズを、「被曝の森2021」が来てたので、精神的に傷を負いかねないような重い内容だろうことを覚悟して「被曝の森(2016版)」「被曝の森2018」とあわせて視聴した。

 チェルノブイリ原発事故の跡地でも、野生動物が元は街だったところにまで進出してきていて、放射性物質の悪影響よりも人間活動が無くなったということの利点の方が野生動物達には大きいという事実に驚かされた記憶があるのだが、福島の帰宅困難地域等でも、人間が居なくなった集落には、イノシシがニホンザルがアライグマがネズミが事故後ほんの5年で我が物顔で棲息するようになっていた。元の住民達は一時帰宅の許可を得るたびに荒らされていく我が家に危機感を覚え、除染が進んでも野生動物をどうにかしないと生活していけないと不安を抱えているという。

 そういう状況の中、ある科学者が「こう言い方をするとわるいけれども、(”フクシマ”は)放射能汚染の壮大な実験ほ場なっている」とあえて不謹慎ともとれる発言をしているけど、放射性物資の挙動や被曝の動植物への影響を科学者達はあきらかにしようとしている。そこから見えてくる事実をNHKも長期にわたって追いかけている。

 科学的にあきらかにされた事実として、多くの生物が放射性物質で汚染されていて、放射線の影響を受けて松が上に伸びずに根元近くから枝分かれしてたり、禿げちょろけのウグイスが多く見つかったり(因果関係は継続調査中)、アライグマで染色体にも被曝の影響の可能性が高い異常が増えたりというのが見つかってて不気味なんだけど、それ以上に驚かされる事実が生き物たちの生命力の強さで、最も放射性物質が溜まりやすい地表の土に生活の場を置くアカネズミが染色体とかには異常は多くなく割と平気なようにみえたり、被曝したニホンザルで骨髄の造血組織がスカスカになってるにもかかわらず、血液自体の異常はみとめられないというなんでやねん?と首をかしげざるを得ない事例が出てきたりして、まあ野生生物の場合は沢山産まれてくるなかで、たとえば放射線によって致命的な染色体的異常を抱えて産まれてきたヤツは淘汰されて死んでしまうので科学者の目にも触れないってこともあるんだろうし、まだ長期的な影響は出るかどうかも含めて分かってないって話もあるんだろうけど、それが10年経って、世代交代の早いアカネズミには精原細胞を増やして精子の受精能力を補って保つようになっているように見える事例が出てきたり、ニホンザルでは染色体の異常が蓄積するのではなく回復する傾向がみられる場合があるとか、放射性物質による汚染、放射線被曝にさえ適応してきているように見える生き物の”強さ”に驚愕する。

 そういう強い野生生物をどうにかしないと、除染が進んで帰宅がゆるされても帰れない。猟友会が定期的に”駆除”してもとうて追いつかないようで、住居などをビリビリッとくる電気柵で囲って、人が檻の中で暮らすような状況に陥っていると除染が進んだ地域で帰宅の準備をする住人はため息をつく。10年経ってもともと居なかったツキノワグマさえ姿を現しているとのこと。

 故郷離れて5年の猟師のジ様が柿干しながら「夢で見るよなふるさとは、夢に見るよりまだ遠い」と哀切のこもった良い声で歌うのを聞いたときには、視界が涙でにじんじまった。


 明らかになった事実の一つとして、水源の川は汚染されていないというのも意外だった。森の土が放射性物質のダムとなって貯め込んでいるってのもあるとのことで、水が汚染されていないこと自体は喜ばしいことだろう。ただし、半減期が30年と長い放射性セシウム137などに汚染された土が残り続けることで、別の場面では悲劇的な状況を生んでいるようだ。

 セシウムは植物に重要な栄養であるカリウムと性質が似ていて、植物がそれを取り込むことにより、植物が放射性物質に汚染され続けているらしい。そして、植物を餌としてあるいは巣として利用したりして動物も汚染されつづけ内部被曝に晒されつづけている。生態系の中で”被曝の循環”が起こっているとのことである。植物は特に動物達の餌になるような花や実に濃くセシウムを取り込んでいくらしい。

 林業家が科学者からその報告を聞いて、”間伐”で線量をさげようとしても土壌のセシウム汚染がある限り難しいと知り、諦めたような力の抜けた声で「オレらの(林業の)時代は過ぎちゃったな」と呟いていて、その悔しさ無念、いかほどのものであったか、それでもオレらの時代は無理でも次の世代には何とかしたいという気持ちも見えて、涙なしには観ていられなかった。田畑なら別の土地から土を持ってくる”客土”もあり得るかもしれない、でも山林規模ではそれは無理というものだろう。無理を承知で東電が政府がやってあげろよと、責任取れよと思ってしまう。でも現実には線量の多い山林は除染の対象である復興拠点からも外されてしまっている。どっかの”賢い人”の”効率的な判断”なんだろうけど、ひたすらひでぇ話である。さらに完全に被曝の森の中だけで放射性物質が循環しているとは限らないようで、夏に大気中のセシウム濃度が高まるようで、原因としてはキノコの胞子が疑われるというのも不気味である。

 ただ植物が放射性物質を汚染された土から取り込むということについても、10年経って「被曝の森2021」では新しく芽生えた木が意外に放射性物質を取り込まないということが明らかになってきたと報告されていて、林業者はいつか豊かな森に再生することを願って、植林地の手入れを再開していた。次の世代に引き継ぐために。


 ふるさとに帰ることができる日を、願いながらもなかなか思うようにいかない福島の避難区域の人々。避難指示が解除されればすぐ元の生活に戻れるってわけでもなく時間がかかる、野生動物や除染、汚染土の処理の問題にどう対応していくのか、時に避難している住民達は”妥協し”お国の方針に翻弄され、諦めたり、それでも諦めきれなかったり。避難解除になって前向きに復興に向けて動き始められた人はまだ救いがある。でもまだ避難解除にならない地域もあり、人はいつまでも待つことはできないし老いるし病にも倒れることもある。そんな中で病気などを苦にして一時帰宅したふるさとの我が家で自殺した人がいたとのことで、哀しいことだなぁと感じたけど、その自殺方法を聞いて心に強く衝撃を受けた。”割腹自殺”だったそうである。彼が何を思って腹かっさばいたのか、分かった気になるのも失礼だけど、それでもある程度は誰にでも分かるコトだと思いたいけど、分かってしかるべき、今回の事故において責任を取らねばならぬはずの人々、世が世ならテメエらが責任とって腹切る話だろ!って思う、東京電力の当時の偉いさん、原子力政策進めてきた政府の官僚や政治家達には”分からない”んじゃないだろうか?って不安でならないので、あえて不粋にも彼の心情を推し量ってみるなら、当時のワシも含んだ都会の人間とかがジャブジャブ電気使って便利に暮らすためや、自分たちが直接働いてるわけじゃない企業が工場動かしたりするために、電力会社が国や自治体と一緒になって安全神話を信仰のよりどころのようにして、時に地域に補助だの地域経済の発展だのなんだの甘い餌をちらつかせて騙くらかして原発おっ立てて、地震の巣の上に住んでるような日本で”想定外”とかクソ間抜けな言い訳しか出てこない悲惨な人災が起きて、その結果、父祖より引き継いだ田畑山林が場所によっては100年からを越えて使えないほど汚染され、健康被害は”直ちにはない”と言われてもそれって長期的には分かってないってことだよねって不安でならないだろうし、地域の社会は避難でちりぢりになり分断され、自分は避難先の慣れない生活で心労も重ね、病に苦しんでいる。誰が責任を取ってくれるんだ、誰がこの責任を取れるというのか、取れるはずもないけど取ろうともしていないようにしかみえない。裁判所(東京地裁)さえ、旧東電幹部の責任を全面的には認めず無罪判決をだす始末。福島第一原子力発電所の事故で踏みにじられた人間の”やってられるかよ”というような強い憤り怨嗟、抗議、怒り、悲しみ、喪失感、無力感、後悔、絶望、あれやこれやが、割腹自殺と聞いていやがおうにも”そりゃあったんだろうな”と心に突きつけられた気がした。それらについて、電気ジャブジャブ使って便利に暮らしている自分たち含め、今一度思い、考え、理解しようと努力して、何を自分たちが求めるべきなのか心に問うべきだと強く思わされた。今の時代に”割腹自殺”ってよっぽどのことだと、それ程の思いを原発のせいで酷い目にあわされた人が胸にしているというのは思い至っておらず、自分の浅はかな無関心さや電気ジャブジャブ使ってきた罪を深く反省させられた。心から申し訳なく思い、ご冥福をお祈りするしだいである。


 何度も書くけどワシャ”原発反対”である、何度も書くけど、電車の発着時間が世界最高程度に正確だってくらいに細かい性格の我れらが日本人が管理してさえ、我が国で過去に2回も臨界事故を起こしている。チョロっと”お漏らし”程度の人的ミスは数え上げるとキリがないだろう。人間は失敗するウッカリする上手にやり損なう。上手に管理するので大丈夫です、っていうならなんで2回も事故ってるんだって話で、核分裂自体が管理がそもそも難しい現象で、原発っていうのは発電方法として管理がしきれないものだ、というのが分からんのだろうか?爺さんボケ始めて交通事故2回起こしたら、だれでも免許返納するべきって思うだろってのと一緒っちゃうの?どう考えてもあぶねぇって分からんのかね?

 じゃあどうするのか、一つには日本も世界の工場の座は中国始め新興工業国に取って代わられてしまって、もう電力需要自体が景気よくモノ作ってた時代ほど大きくないから化石燃料使う火力発電でも二酸化炭素排出量自体はある程度削減できちゃうんじゃないかという気はする、その上で、今はあんまり上手くいってない持続利用可能エネルギーを使った発電方法に切り替えていくっていうのだろうって思う。現実的には風力発電は鳥の衝突やら振動による周辺生物への影響とかの問題を抱えていて、太陽光発電は二酸化炭素排出削減しましょうって趣旨で推進してるはずなのに山の木を切って”メガソーラー”とか本末転倒な事例がでてきて自治体も対策で条件つける条令作り始めたりと黎明期の混乱的な状況にあるけど、技術的、制度的に改良しながらそういった発電方法を推進していくってのが取り得る手段だとやっぱり思う。”フクシマ”で米作るのを諦めた田んぼでメガソーラーっていうのは事ここにいたってはそれはそれでありかもなと、ちょっと感心した。田んぼの持ち主からしたらずっと稲育ててたかったんだろうけどね。メガソーラーのパネルから妖怪”泥田坊”が「田~をかえせ~」って湧いて出てきそうではあるけど次善の策ではあるのかなって思う。

 NHKはよく”偏向報道”とか言って叩かれてるけど、報道番組はみてないのでそっちはよく知らんけど、ドキュメンタリーでこういう現行政権が推し進める政策に真っ向から疑義を呈するような番組の視点って、報道機関として当然あるべきものでそれが務めだろって思う。完全な中立なんてあり得ないわけで、観る人の立ち位置によっては左に寄ってたり右に傾いてたりするんだろうけど、報道機関が政権与党の大本営に沿ったような報道し始めたら世も末である。第二次世界大戦中の日本やらSF小説「1984年」の世界である。ワシャ左利きの右翼を自称する人間だけど、NHKの硬派なドキュメンタリー番組には金払ってオンデマンド視聴しているパトロンの一人として満足している。報道する側の言いたいことってあるんだろう、それを読み取った上でどう判断するのかは、視聴者の責任だと思う。アホみたいに垂れ流された情報を鵜呑みにすることを前提にした批判はアホのすることだと正直思っている。情報の取捨選択や裏付けの確認とかは、この情報化社会を生きる人間の必須技術だろうと思っている。完全に正しい情報なんてのは視点が違えば解釈も違うので有り得なくて、そんなものの入手はまず無理にしても、「NHKは現政権には批判的だな~」ぐらいの予備知識を持って、それ差し引いて物事を考えるなんてのは、よっぽどの馬鹿以外は普通にやってるでしょ?ッテ話。

 NHKには引き続き、”フクシマ”の事実(とNHKが考えるもので良いンです)を追いかけて報告してもらいたいと期待している。ワシもせめてそれを観てこの悲劇について考え続けていきたい。

2021年5月20日木曜日

未完の大作「ベルセルク」

  マンガ家、三浦建太郎先生の訃報が。画業お疲れ様でした。謹んでお悔やみ申しあげます。

 物語が壮大すぎて、作者の在命中に完結しないだろうと思ってたマンガに三浦先生の「ベルセルク」と諸星大二郎先生の「西遊妖猿伝」があって、「ベルセルク」が現実に未完となってしまって残念ではある。残念ではあるけど今まで描かれた物語部分で既に凡百のマンガを凌駕する面白さを楽しませてもらっているのでオタクとしては、「今までありがとう」って感謝の気持ちしかない。

 ベルセルクは、”魔”が跋扈するダークファンタジーで、主人公のガッツは”魔”となった友でありライバルでもある”グリフィス”に生け贄の烙印を押され、オノレの運命に抗い闘うっていう大筋なんだけど、まあその”魔”たちがおどろおどろしくも緻密にものすごい書き込み量で描き出されていて、不気味で迫力のある世界観を醸し出している。

 そんな中で主人公ガッツは、絶望的な闘いを繰り返すんだけど、だんだん仲間も増えてしぶとく生き残って物語世界を突き進んでいた。

 ガッツの台詞格好いいのが多くて、良く引用させてもらったりしている。「戦場(船上)には手に馴染んだものを持っていきてぇからな。」とか「祈るな!手がふさがる!」とか全くその通りだと思う。他人任せで神に祈ってる暇があればテメエのその手を動かしておけってのはナルホドナという感じ。

 ただ、ルカ姉さんの「後で自分に言い訳だけは ほざかない様にしないとね」って台詞には、後でせめて言い訳ぐらいほざけるように、アリバイづくりのような「ヤるだけヤッタ」感を醸し出すことに腐心していたりする自分を鑑みて、頭ポリポリ搔きつつ反省させられた。

 ものすごい書き込み量で魂削って描ききってきたので、三浦先生は自分に言い訳はしなくて良いンだろうなというような画風だっった。遅筆で有名だったけどアレは早く描けといっても無理ってもんだろう。

 三浦先生、本当にお疲れ様でした。胸躍るマンガをありがとうございました。マンガ描いてるときはろくに休めなかったでしょうから安らかにお休みください。

 しかし54歳って、なんとも早すぎるゼ、先生・・・哀しいね。合掌。

2021年5月15日土曜日

めんつゆかけときゃなんとかなる!ーナマジのビンボ飯実践編ー

 

 我が”生け簀”こと近所の漁港に”釣り自粛”の看板が立ってはや半月がとこ過ぎた。この間、キス釣りはゴカイ掘るのがしんどくてジジイにはキツく、梅雨入ったんとちがうか?と思うぐらい雨が多いなか、シーバス狙って夜な夜なくり出すもコバンのご飯にセイゴ確保するのがやっとの有様で、久しぶりにオカズのほとんどをスーパーにて買うことになっている。

 まあ、港町で魚が安いので、2匹で178円のムツとか煮付けて食っておけば何の問題もないっちゃないんだけど、それはこの地が魚が安いからできる献立であって、金はかかってないけどナマジの考える”ビンボ飯”とはちょっと違う。

 というわけで、安い魚があればまあ買わんわけにはいかないけれど、魚以外も積極的に買って、これぞビンボ飯という料理を実践して皆様にご紹介できたらなと、ここ最近せっせとお料理に励んでいた。

 で、自分でも意外に思ったのだが、ワシの料理は”めんつゆ”でだいたい片がつく割合が異様なぐらい高い。昔はめんつゆなんて醤油酒味醂に砂糖適当に出汁ぶち込みゃいいだけで、作っても簡単なものを、なんでわざわざ買わなければならないのかと思っていたけど、これが買ってみると分かるんだけど、とにかく和風の味付けはほぼコレで決まる。砂糖足したりとかはあるけど、だいたい和食って出汁とって醤油酒味醂に砂糖少々でそれっぽい味付けになるので当たり前っちゃ当たり前で、いつも同じ味付けなら最初っから混ぜてあって、かつ濃縮してあって薄めれば濃いも薄いも自由自在な、三倍濃縮とかの”めんつゆ”を使うと、簡単で時間短縮になるうえに味が安定して決まってくれるようになる。封を開けなければ日持ちもするので特売日に2本とか買いだめしてるけど結構な消費量である。ちなみにビンボ飯じゃない”お魚食い放題”の食生活においても、煮魚に、タタキのタレにと重宝する。

 で、まずはこれぞビンボ飯初級編というヤツから紹介していきたい。

 まあ、あれだ要するに卵なり大豆製品なりを買ってきて、薬味ぐらい追加しつつ、めんつゆ掛けて食うという料理とも言えないぐらいの料理だけど、これだけでも充分美味しい食事になるうえに安くてお腹が膨れるっていうことを、”自炊はハードルが高い”と思っている人に教えてあげたい。とにかく米を炊いて、そのまま手を加えなくても食える安いオカズにめんつゆ掛けて食っておけと、とりあえずコレを”ケ”の日の食事として節約して、”ハレ”の日にに外食やら総菜買ってくるやらを織り交ぜてお金をあまりかけずに飢えずに暮らすというのは、現実的ではないかと思う。薬味とかの工夫でカップ麺よりは栄養的にも充実したモノにできるはず。

 具体例として右に写真で並べたのの上から、まずは「卵かけご飯」である。最近はめんつゆにチョイとゴマ油を足すのが気に入っている。卵かけご飯用の醤油とかも売ってるそうだけど、ケッて感じである。醤油でもめんつゆでもあるもんかけてかっ込んでおけと。

 真ん中の写真2つはどちらも「冷や奴」なんだけど、上が生姜すってめんつゆかけただけの単純版で、これはこれで手早く食べられるし美味しいんだけど、下はちょっと贅沢して新タマネギ薄切りにして水にさらしたものを乗っけた版。作り置きの味噌汁もよそって栄養バランスもなかなかに向上している。

 一番下のが、写真では厚揚げに大根おろしとめんつゆかけたものとしか見えないけど、これは実は温度が重要で、袋に入った厚揚げの袋の端を切って、レンジで暖めてから大根おろしとめんつゆかけているのである。味を想像していただきたい。そう、これはちょっと衣が薄めの”揚げ出し豆腐”なんである。違うっていう人は違うと思っててください。我が家ではこれが揚げ出し豆腐です。レンチンと大根おろすだけで、居酒屋人気メニューの揚げ出し豆腐的な何かが爆誕!

 次からはもうちょっと”料理”要素が増えます。ちゅうても簡単。まずは、「貧乏人の肉野菜炒め」、はいもうお馴染みですね”貧乏人の肉”こと油揚げが、実に良い仕事をしてくれる一品です。肉野菜炒めだけど本物の”肉”は無し。

 今回のは直売所でほうれん草が安かったので、ほうれん草3わとあげ一袋の半分で、かかった金額100円以下。

 作り方も超簡単で刻んだアゲを鍋に入れて、その上に手で握り切るようにブチブチと食べやすい大きさに切ったほうれん草をパラパラと乗っけて、ちょっとめんつゆかけて蓋締めて中火に掛ける。ジュウジュウいい始めたら適当に混ぜて再度蓋をして火が通ったら味見して、適宜めんつゆ追加で完成。油揚げの油っ気で鍋に油を引く必要もなく簡単に調理できるうえに、めんつゆとほうれん草汁を適度に吸った油揚げが実に良いお味。これは野菜をキャベツにしたり小松菜にしたり、タマネギ加えたりとその時々の手に入る野菜で適当に作ってしまえば美味しくできると思います。

 なんか、豆とか卵とかばっかりで肉が足りんとお嘆きの肉食系の皆様お待たせしました。
 肉も貧乏でも食って良いンです。安い肉の代表といえば、外国産の鶏胸肉で100g100円を切る安さですが、日本の養鶏業者さん頑張ってくれてるから、ワシ国産のを買ってあげたい。となると閉店間際の半値札狙いというのも手としてはあるけど、そんなことしなくてもいつでも安い鶏肉がある。何かというとハツ、レバー、砂肝、鶏皮である。砂肝とか普通に串に刺して塩味で魚焼きグリルで焼けば、お家で焼き鳥屋さん気分である。100グラム100円切る値段でこの美味しさ。そして右の写真、ちょっとくせがあって砂肝ほど万人受けはしないかもだけど、ハツとレバーがくっついてコレも100g100円を切る値段で、レバーの血を連想させる独特のコクとか大好物なので安いのは超ありがたい。軽く湯がいて辛子醤油で食べるのが意外に生臭さも感じずお薦めだけど、今回は”めんつゆ”料理なので、「鶏レバハツすき焼き風丼」で行ってみました。料理はこれも簡単。タマネギ薄切りに砂糖少々とめんつゆ適量加えて鍋でグツグツいわせます。適当なところで切って水洗いしておいたハツとレバーを加えて加熱。適当なところで混ぜて均一に火が通ったら、ご飯にぶっかけて食います。冒頭の写真が完成品。タマネギの汁でめんつゆが薄くなるのでちょうど良いめんつゆの量があるけど、適当でだいたい何とかなります。タマネギ抜きでも、タマネギの代わりにネギとかでも問題なく美味しくできます。ちょっと牛丼っぽいジャンクな味わいで腹がふくれること請け合い。

 ついでに、鶏皮が出てきたのでお家で焼き鳥屋さんの様子を紹介。鶏皮とにかく脂が多いので汁ものに少量入れるだけで、肉が入ってる感が醸し出されるのだけど、沢山食おうとすると脂きつくて爺さんお腹壊しそうになる。ということで焼き鳥にするときには、最初に下ゆでとかして脂をある程度抜いてやらないととてもじゃないけど食べられない。鶏皮自体はワシゃアジ釣りの餌にも使ってるぐらいで非常に安く100g50円ぐらいしかしない。でも焼き鳥屋さんで食べるとそれなりの値段がするのは、美味しく食べるには結構下処理とかに手間がかかってるのでその手間賃だろうと思う。

 作業工程は一口大に切って茹でて(ゆで汁を”チー油”と鶏皮出汁に分けて料理に使っても良い)ザルでこして、串に刺して塩振って焼く。以上。

 って感じだけど、茹でても脂っ気が多い。年寄りには脂っこすぎるなコリャって思いつつも、美味しく食べた。

 ちなみに、味噌汁の出汁をこれまで釣ったアジのアラの焼き干しとかでとってたんだけど、アジの生産が止まってしまってるので、こういうときも実はめんつゆ活躍する。出汁が入ってるのでめんつゆ薄めに溶かした上で味噌溶いてやると、カツオと昆布の合わせ出汁の豪華な味噌汁になる。

 てな感じで、めんつゆがあれば味付けなんてほとんど悩まず決まってくれて、時間短縮できるし簡単で美味しいものが食べられるので、ビンボ飯の実践のさいには是非濃縮タイプの”めんつゆ”をお忘れなく。安くて旨い食事を楽しんでください。

2021年5月8日土曜日

待てばジャンクの出番ありⅡ-30年物の安ゴミ竿の再利用-

  前々回、病気の症状が竿に来て、深棚のアジ釣りに使ってる「枯山水540」の元2番がヒビいってメシメシ言い始めたので、代替の竿としてダイワ「CW早霧 硬調54」を中古屋のネット販売で入手したとご報告しているところだが、モノが届いてみて問題が判明した。いつも使ってるハヤ竿の「早霧45」のシリーズの5.4mの”渓流竿”だと思って購入したんだけど、どう見てもハヤ竿である。なんというか古い竿なのでメーカーの提供情報とかも当時のカタログ参照しないと分からんので、中古品ネット購入ではありがちだけど全然土地勘無い状態でエイヤと購入してる。これ、ひょっとして「早霧」と名前の付くのはハヤ竿なのかもしれない。渓流竿は「朝霧」とかっぽい。下の写真の一番上が「早霧45硬硬調」、真ん中が今回入手の「早霧54硬調」、下が「枯山水540」で、上2本は細くて並べれば見た目でもハヤ竿と分かると思う。


 まあ黄色いお店の店員さんが、分類で「渓流竿」としてたわけだけど、ハヤ竿(清流竿)って黄色い店の整理だと渓流竿に入れるのかその他竿に入れるのか微妙なところで、ワシがあんまし分類方法を理解してなかった落ち度もあるし、黄色いお店の店員さんの知識の無さには幾度も美味しい思いもさせてもらっているので、交渉して送り直してとか面倒臭くなって、とりあえず使ってみることにした。ハヤ竿手にして気がついたんだけど、渓流竿より柔いハヤ竿であれば、伝家の宝刀である全力のビックリアワセも柔々と衝撃を吸収してくれて合わせ切れ減るんじゃないだろうか?というのも期待できるしで、上手くいくと怪我の功名となりえる。20センチこえるマアジを5m以深の深場からハヤ竿で引っ張り上げて来るっていうのは間違いなく引き味最高で面白そうだけど、制御不能で走られて回転数的には効率落ちそう。あと、早いアワセの伝達が柔い分ゆっくり伝わってアワセの遅れとかも生じるかもしれない。そのあたり早く実戦導入して試したいところだけど、コロナ禍で近所漁港”禁漁”状態なので、解禁して次釣るときには浅棚の豆アジ釣りのはずなので、実戦導入は来春ということになるのかな。

 というわけで、5.4mの渓流竿自体は先の方折れたのを補修して使ってるボロい抜無双54と、元2番がメシメシ言ってる枯山水540の2本という状況変わらず、早霧54は別方向からの取り組みという感じなので、枯山水540の後継竿は引き続き探したいんだけど、当然その分のオゼゼがかかってくる。その上我が家の竿の上限基準値120本の達成も遠のく。一応、送料抜きで3千円台ぐらいで安く手に入らんかなと何度かネットオークション参加したけど、微妙に競り負ける。アタイ悔しい!

 面白そうだとはいえ当初予定にないハヤ竿を買ってしまい、ガッチリ予算掛けることははばかられる状況下で、なんとか元2番が折れそうになってる枯山水540を修復する方法はないかと知恵を絞ってみた。

 一番良いのは、同じ竿で先の方が折れているジャンク竿を見つけてきて双方の良いところを使って”ニコイチ”で元通りっていうのだとおもうけど、そんな都合の良い代物がおいそれと見つかるわけがない。

 似たような竿の元と元2番を持ってきて交換っていうのができないか?と試しに抜無双のと交換しようとしたけど、抜無双の方が細くて入らない。ただそれで気がついたけど、交換用に引っ張ってくる元と元2番あたりが枯山水540より太くて、枯山水540の元2番より上の部分が通る太さがあれば、スカスカな部分はセキ糸巻いて瞬間接着剤で固めてサンドペーパーで削って等”コミ調整”してやれば何とかなる気がしてきた。あまり曲がる部分じゃない手元のほうなので曲がり方とか性格が違う竿から持ってきても問題は少ないはず。あるいは、コミ調整するかわりに、伸ばすときにちょうど収まる太さのところで太い方の”材料竿”をぶった切るという乱暴な方法の方が繋がりの自然さでは良いかもしれない。

 となれば、探さなければならないのは、とにかく枯山水540の元3番からが突っ込める太さのあるのべ竿の手元の方。でありこれなら太さとあとは仕舞い寸法ぐらいを確認してジャンク竿を入手すれば良いはずである。

 って考えたところで、そういえば我が家の蔵に1本手元が太目のジャンク竿があるぞと思い出す。学生の頃バッタモン屋で千円チョイナで買って当初渓流で使ったけど、すぐに渓流ではフライロッド振るようになってお蔵入りの後、東北の港でチカ釣りするのに先の3mぐらいだけ使って、そっちは津波に流されて元だけ残ってるグラスの太い竿。コイツに30年近くの時を経て新たな役割を与えよう。

 枯山水540の元3番をあちこちに突っ込んでみると、ジャンクグラス竿の元2番ではスカスカ。ここで枯山水540の元3番の根元にセキ糸巻いて適度に太らせるという手もあるけど、先ほど書いたようにその上のジャンクグラス竿の元3番を適切な位置でぶった切って、良い塩梅に枯山水の上の方につながるようにしたい。抜いたり刺したりしつつ位置を決め、最初はちょっと余裕みて長めに切ったつもりだったけど、はめてみたら1発合格、ある程度重なって良い位置で止まってくれる。切った上のところはセキ糸巻いて瞬間接着剤で固めて補強を入れておく。

 割と上手くいったと思う。見た目はボロいとしても機能的には問題なく復活したはず。
 ただ、長さが微妙に長くなってしまって15センチぐらい伸びた。「555枯山水硬調改」と銘を打った、っていうかペイントマーカーで書いただけだけどな。

 竿折れた場合は、メーカーに修理依頼して折れた部分の交換ぐらいしか方法はなさそうに思うけど、多少太さがドンピシャじゃなくても、切ったり貼ったりして調整してやれば、繋げるぐらいの補修は可能で、太さが似たような他のジャンク竿を持ってくれば実用可能な程度には復活させることはできそうだなというのが、今回作業しての感想。

 もちろん、竿の製造元の設計者が意図した曲がりだとかにはならんかもしれんし、見た目いかにも”ニコイチ”でカッチョ悪いけど、こういうモノを直して使うっていうことの楽しさを含めれば、その見た目もまた”わびさび”のうちってことで許せるような気もする。

 近所の港でおかずのアジ釣るの程度に、最新型ピッカピカの竿なんぞむしろ似合わねえって話で、適当にボロくなっても愛着持って使ってる竿っていうのは、そういう気安い普段の釣りには似合うんじゃないだろうかと思っている。

 しかし、絶対もう使い道無いだろうと思ってたけど、それでもタモの柄とか作るのに使うかもって残してあったジャンク竿が役に立つときもあるとなると、我が家にゃもう使えないようなボロ竿ゴミスピ、産廃ベイトが転がってるけど、ますます捨てるのが難しくなってしまうのであった。

 ゴミ屋敷作りだす人の気持ちは割と良く分かる。何かに使うかもしれないと思ってしまうとモノは集めてくることはあっても捨てることはできなくなるのである。それもまたそういう病気なんである。

 やっぱりアタイ病気が憎いっ!

2021年5月1日土曜日

ウサギ美味しい蚊の山

 テレビジョン用の受信設備の無い家に住み、Yahoo!様からお薦めされてくるネットニュースぐらいしか”報道”的なものに触れる機会のない”情報つんぼ桟敷”に座ってる”ヤフー家畜人”なワシだけど、最近猫様関係の記事は結構読ませていただいているので、ペット関連、動物愛護関連の記事もお薦めいただいている。

 うすうす感じておられる方もいると思うけど、ワシ動物愛護ファシストどもの気色悪い主張は大嫌いなので、なるべく目にしないようにしてお薦めされても読まないようにしているけど、それでも見出しだけでもだいたい中身が分かるような案件が話題になってたりして、ああまた頓珍漢なこと書いてるアホがいるなと思わされる。

 なんでも、飼ってるヘビやらトカゲやらの爬虫類にウサギだのハムスターだのを食べさせてネット配信したユーチューバーがいて、動物愛護法違反の疑いで書類送検されたんだそうな。記事読んでないけどニュースの見出しには「残虐」とかいう文字が躍ってていかにも極悪非道な行いのように書かれて読者の気を引こうとしている様がみてとれるけど、”餌金”というあんまりな呼び名で魚食魚用の活き餌としてキンギョが売られている観賞魚の世界に長く親しんできた人間からしたら何をいまさらという感じで、これが多くの人には「残虐」とまで感じられるほどに生き物の命を奪う機会、場面から人が遠ざかっていることにこそ危機感を覚える。何度もそう書いてきたけどしつこく書かざるを得ない。

 確かに、可愛いうさちゃんやハムちゃんを食わせるのを見世物にするのは悪趣味だろうし、場合によっては動物愛護法に抵触する行為ではあるだろう。ただ、うさちゃんハムちゃん食べさせなければ肉食のヘビやトカゲに何たべさせてるかっていえば、餌用に生産されて凍結されて売ってるラットやらマウスやらのネズミちゃんを湯煎かレンジでチンして人肌にぬくめて食べさせてるわけで、うさちゃんハムちゃんはダメで、ネズミちゃんは良いなんてことになったら、ラットやマウスの飼い主の人は「不当なネズミ差別だ!」と憤るだろう。ワシもそう思う。思うけど、動物愛護法(動物の愛護及び管理に関する法律)的には純然と差別されていてペットとして飼われていなくても「牛、馬、豚、めん羊、やぎ、犬、猫、いえうさぎ、鶏、いえばと及びあひる」は動物愛護法の対象として虐待などが罪とされていて、さらに書くならペットとして飼われているような「人が占有している動物」で哺乳類、鳥類又は爬虫類に属するもの、は愛護動物として法の対象となるけど、両生類以下は動物愛護法の対象外と差別的な扱いを受けている。なんぼワシがカエルちゃんを愛玩していたとしても法的には器物扱いにしかならない。不当な両生類差別であると憤りを感じる。逆に前者の優遇された11種がペットじゃなくて野良だろうと何だろうと”ダメ虐待!”なのは「人間社会に高度に順応した動物」という観点から特別扱いしているそうで、うさちゃんはここに入ってくる。よって件のユーチューバーの行いのうちうさちゃんに対しては動物愛護法違反の構成要件は満たしているように思うが、ハムちゃんに関しては罪を構成し得ないはずである。もっというなら「冷凍ラットがよくて、なぜウサギの活き餌はダメなのか?同じじゃないか」というそもそも論の主張を被疑者であるユーチューバーはするだろうけどその場合には、被疑者は”犯罪を犯したという意識はなく正しい行いをしているという認識で行っている”という本来の刑法的な意味での”確信犯”であるような気もして、その場合動物愛護法は過失でも罪が問われる法律ではないので”犯意無し”として罪に問えないのではないかと思う。法制度上の違いはあっても社会通念上ネズミがOkでウサギがダメって程の違いはないだろって気がして被疑者の主張(勝手な想像上のだけど)があり得ないほど常識外れではないように思えてならない。おそらく書類送検されたとなってるけど、こんなもん検事さんも送られてきたところで裁判闘えるかっていったら微妙で、個人特定できる形で報道されて社会的に制裁が与えられたことをモロモロ酌量して犯罪の事実はあったけど不起訴とする不起訴処分か、比較的少額の罰金ですます略式命令処分で裁判避けてお茶濁すと思うけどこの手の報道で書類送検の結果、最後にどうなったかなんてのは続報無いのがほとんどなのでワシが知ることはないだろうと思ってる。

 件のユーチューバー氏の行いを支持するかって聞かれると、まああんまり悪趣味な見世物で銭稼ごうとするなよ、個人で楽しんどけって話だとも思うし、多くの人に不快感を与えるのを考えてからやれよなとは思うけど、魚食魚に活き餌やる残酷ゆえの迫力ある楽しさって馴染みのあるもので知らないわけじゃないし、ライギョマンが激怒するだろうことを承知でカムルチーの調理場面の写真とかサイトで公開しておいてどの口でオマエが批判できるって気もする。なので、思いっきり”命の差別”的な、動物愛護法を含めた今の一般社会の生命倫理感の矛盾をついて略式命令なんぞは蹴っ飛ばして裁判で闘ってその結果をユーチューバーとして報告してくれたらそれはそれで面白いし意義あることかなと思わなくもない。

 ハッキリ言って、今の生命倫理観とそれに基づく法とかの規則はいつもワシが主張するように今の一般的な人々というか多数派の”好み”でしかない。それはそれでこれっていう確固たる答のない問題では仕方ない話で、時代や社会毎に変化もするだろうし、規則なんかはその時々の社会集団の”空気”読んで決めるしかないんだろうけど、ウサギを虐めて遊ぶのがダメだっていうのはワシでも同意するけど、じゃあ自分の飼ってる爬虫類の生きる糧とするのがダメかって聞かれれば、ウサギ食用にもしてる人間共がなにテメエだけ手を汚してないような顔してヘビがウサギ食うのを残酷だと批判するって正直思う。ヘビがウサギ食うように人間だってウサギ食う。「私はウサギ肉なんて悪趣味なもの食べたことがない」だって?そういう無知こそ情報化社会と喧伝される現代では”罪”なのではないかとおもう。西尾維新先生が作中登場人物に吐かせた名台詞「無知は罪、馬鹿は罰」は後生に伝えて良い金言だと思う。ウサギ肉、食感がよくなるだかなんだかでハム・ソーセージとかには結構使われてて、多分みんな知らずに意識せずに食べてます。意識もせずに他人が手を汚して命を奪って調理してくれたものをぞんざいに食らっておいて、単に目に見える形で衝撃的なものを表面的な感情のみで”残虐”とまで罵る理不尽さ。これはいったい無知なのか馬鹿なのか?そもそもウサギ食うのは悪趣味で豚は牛はニワトリは良いのかって言い始めると、ヴィーガン(「菜食主義の持続的社会論者」ぐらいの意味)とかがエラそうにしゃしゃり出てきて動物食うなとか言い出しそうだけど、植物だって、動物のように神経系が発達してるわけじゃないので、人間の感覚では理解・共感しにくいってだけで、害虫に攻撃されたら防衛的に毒生産したり、果ては周りの”仲間”に化学物質使って警告を発して情報伝達さえしている。動物のような仕組みの感覚や意識は持っていなくても、全く別の仕組みをもっていて”生き延びよう”と懸命に生きているのは明白で、そこは等しく尊い命であるはず。その植物の命は奪って良くて、動物はダメっていうのもやっぱり結局アンタの好みでしかねぇんだぜッテ話。

 結局は、そういう主張ってどこまでいっても”好み”の域を出ないから、自分が思う主張を各自すれば良いし、嫌な仕組みだけど多数決的にその時々の空気を反映させた規則で縛って規範を示して最低限の合意を形成しておくってぐらいが現実的かつ関の山なんだろうなと思う。ただ放ってておくとヴィーガンみたいな極論をさも正論のように振りかざす輩の意見がまかり通る、”こうるせぇ少数者(「ノイジーマイノリティー」って意訳するとこんな感じだと思う)”の声が通りがちな昨今なので、ネットの隅でチマチマとゲリラ活動的にワシの意見も書いているのである。


 最近、動物愛護ファシストどもに攻撃されている事例で考えさせられる案件が別途あって、生命倫理に関係するネタ繋がりでもいっちょ書いておきたい。

 狩猟の問題である。我が国では鳥獣害が増えて生態系のバランスを保つために狩猟に一定の役目が期待されているところであるけど、一方、欧米のお金持ちの世界ではいわゆる”トロフィーハント”と呼ばれるような、大物を仕留めて剥製にして胸像を暖炉のある部屋に飾るような趣味がある。むろん日本の狩猟の人達も大っきいの獲ったら嬉しいだろうし鹿の角とかイノシシの毛皮とか記念に飾るかもしれないので、明確に線引きがあるわけではないと思うけど、そのトロフィーハントの極端な例として、昨今では野生では保護下にある動物種を飼育し繁殖させて、牧場なり広い敷地内なりに放してトロフィーハンターに狩らせて対価を得るっていう形態の事業が行われているようで、許可を得た業者がたとえばライオンを繁殖させて、それをハンターに提供するというような形で、野生動物の原産地である途上国で貴重な外貨獲得の手段として観光業としてなされている他に、ハンターのいる欧米において、これまたルールに基づいて生息地から連れてきて繁殖させた野生動物を広い土地に放してハンターに提供するという、銃で撃って良いサファリパークみたいな商売もあるんだそうである。

 当然そうやって”合法”に仕留めた狩りの成果をハンターは誇らしく記念写真撮ってツイッタ-とかフェイスブックとかのSNSに上げる。結果、多くの人から批判を浴びて炎上するのである。

 たしかに、ライオンだキリンだという”ザ・野生の王国住民”って感じの素晴らしい動物たちが、無残に血を流しながら撃ち倒されているのは、さすがに残酷に感じるし、それが狩猟の楽しみのためだけに繁殖させられた動物であるって知ると、なんともいいようのない野生生物に対する尊厳の欠如を感じたりもする。

 するんだけど、もうすでに目端の利く釣り人の方々は気がついてると思うけど、これ我々釣り人の多く、とくに日本で内水面の釣りを楽しむ人間には全く批判する権利が無いんじゃなかろうかということに思い至る。ヤマメでもアユでもヘラブナでも、釣りの楽しみのためだけにどれだけの魚が繁殖させられ放流されているかって話で、自分で書いてて思いっきりブーメランが戻ってきてザックリ刺さって致命的な感触がある。

 以前も書いたけど、他の命を楽しみのためだけに奪って良いのか?って問い詰められたら、食べ物は結局他の生き物の命を奪って得たものだから、楽しみのために他の生き物の命を奪ってはいけないというのなら、楽しいことをするときには飢餓状態でエネルギー使わずやらなきゃならないって理屈で「ワシ楽しみのために魚の命奪ってるけど、楽しんで何が悪いねン、楽しみのために他者の命を奪ってはいけないってのなら楽しいことは何もしてはいけなくなる。そんなのまっぴらゴメン、ワシャ楽しく釣らせてもらいまっさ」って強弁してきたけど、百獣の王が銃で撃たれるために育てられている、という事実を知ったときに、胸にわき起こる”申し訳ない”感じは、解禁日に間に合わせるように放流されてるヤマメやらアユやらについても感じなければいけないのではないか。釣り人はそれが当たり前だと思ってしまっていて、その行為の罪深さをわざと考えないようにしているけど、ちゃんと心に刻んで覚悟して釣らなければならんのではないかと思い知らされる気がする。

 実際に”先進国”の動物愛護ファシストには当然ながら「釣りなどやめてしまえ」って主張してる人々は珍しくもないようで、あんまり先進的って程でもない我が日本ではそんな話対岸の火事だろうって思ってると、思わぬ形で変ないちゃもんつけられてそれがまかり通って制度化してしまうような、人の楽しみを平気で規制する、伊藤計劃先生の傑作SF小説「ハーモニー」に描かれたような”小うるさい母親型のいやなディストピア”が顕在化しているようにも、表現の規制やら嫌煙ファシズムとかをみてると思うので、気をつけておかねばならんと思うし、変なことがあったらせめてこのブログの読者様だけにでもご注進しておかねばと思うのである。

 変ないちゃもんが制度化した事例としては、いろんなところで条例化されているブラックバスのリリース禁止とかがすでに我が国ではあり、ある生き物を手にしたら殺せと制度的に強制されているのって、伝染病の病原生物をのぞいてまずないのではないだろうか?例えば駆除対象の害虫であっても「見つけたら殺せ、殺さなければルール違反」なんていう何もしないことがとがめられる事例はあんまりしらないんだけど、そんな異常な仕組みもなんかわけの分からん”空気”でできてしまっている。

 ドイツ人はユーモアに乏しく融通がきかないっていう、まるで日本と同じような国民性だそうだけど、魚を楽しみのためだけに傷つけて良いのか?って議論になった末に最終的には「食べるために釣るのは良いけど、楽しみのためだけに釣るのはダメ」ってなって、体長制限以下のを除いて”リリース禁止”になったそうである。釣ったら感謝して食えと。そういう考え方があっても良いと思うけど強要されるのはまっぴらゴメン。オレの仕留めた獲物をオレがどう扱おうとクチバシ突っ込むなって思うよね。

 結局、他の動物に対する人間の行いが許されるか否かなんてのは、資源管理や種の保存的な意味合いの判断の場合を除いて、残酷かどうかとかのあやふやな感情論をもとに判断するようになると、どうしたって誰もが納得するようなところには落ちなくて、ボヤボヤしていると声の大きい”小うるせぇ少数者”の意見が通ってしまったりするってのは、どこの国でも一緒のようである。

 ワシ、源流の岩魚とか、大きく育つのに時間が掛かっている大型ロウニンアジとか絶対殺したくないし、殺して欲しくもない。ただ、それはワシ個人の願いであって、殺したって規則に反するような罪じゃないことは理解しているので、リリースするときに他の釣り人とかに殺されないように願って放流しているけど、殺すヤツは殺すと知ってるしそれを規則で止めさせようなんて考えない。まあ興味ない人にとってはただの魚だからな。でも、桟橋に並べられたロウニンアジの写真とか、新聞紙にズラッと並べられた岩魚の写真とか、撃ち殺されたライオンの写真より気分が悪くなる。それはワシの”好み”なんだと理解している。

 なるべく客観的に見る努力をして考えるならば、岩魚だろうがロウニンアジだろうがライオンだろうが、種の存続を脅かすような殺し方はまずいとしても、そうではなく、制度上問題ない手段で殺された生き物を、楽しみのためだからとかなんだとかで区別しなきゃならんほど気にしなきゃならん問題なのかって思う。そうやって特定の生物を殺されたくない人間が”好み”でそう思って、殺さないでと声を上げ、何とかしようとするのは自由だと思うけど、しょせん犬畜生とかそれ以下の生き物の命なんて、割と強者である人間が好きなように奪って当たり前ってのを前提に、”命の軽さ”を認識しておかないと、全ての生き物により良く生きる権利を、とかわけの分からんこと言いだしたってどうにもならねえって話で、家畜とか食うために囲って育てて殺しまくってる。そういう、感謝していようが丁寧に扱っていようが、本質的、根源的には命を軽く扱ってることとのバランスで、あんまり個人の”お好み”の生き物を依怙贔屓して大事にしようとしても、他の生き物の命を奪って生きているっていう人間の生活の根源のところと矛盾した話になってくるので、命は重く尊いってのも分からんではないけど、それでもそれを軽く扱わずに生きていけないという、”命の軽さが大切”っていうのも逆にまたあるんだよって、後者の方はあんまり語られることもないように思うので、にもかかわらず大事な視点だと思うので、天邪鬼の務めとして命の吹けば飛ぶような軽さにつては、機会を見つけ折に触れ、ジジイの繰り言そのものとして何度でも書いておきたいと思う。

 世界には幸せに生きていない人々が居る。途上国にはいっぱい居るだろうし、先進国にも珍しくないぐらいいる。人間以外の動物よりは、まずはそういう人々から幸せになっていくべきだと思う。っていうか個人的にワシが幸せに暮らしていきたい。そのためには他の動物だのはある程度犠牲にしないと間にあわないはずである。余力のある範囲でやるならともかく、それを”アニマルライツ(動物の権利)”とか言い出して、他人様の商売にケチをつけて、結果食糧生産はじめ経済活動が妨げられて幸せに生きていけない人々が増えてしまうなんてことはクソだと思う。ニワトリを産卵する機械のように扱って狭いところに押し込んで効率性を追求しているおかげで安い鶏卵が食べられるのである。放し飼いの地鶏の卵しかダメってなったら鶏卵なんて風邪引いた時に精をつけるためにぐらいしか食べられなくなるような昭和の初期程度にまで食事情が後退する。鶏卵業者さんありがとう、鶏さんゴメンナサイコケコッコーって思うだけでは赦されない罪だとしてもワシャ安い鶏卵を支持する、ってなことに始まって、自然を切り開いて田畑作る農業なんてのも野生動物の生息地をもろに奪った上での行為だけど、じゃあそれなしでみんな生きていけるか?って話。程度問題はあるにしてもそういうことだと思う。

 ヘビがウサギを食べる。当たり前だけど残酷なことで、食べられるウサギの命はヘビによって究極的に軽んぜられる。それは飼育下では特殊だとしても、もしかするととても自然なことですらあるのかもしれない。ワシらも直接ではなくても手を汚さずに生きていけないけどそれは自然なことで、ある程度命を軽く扱わないとやっていけないのは確かなことだと思っている。その、他者に簡単に奪われてしまう軽い命を我々も一つだけ持っている。病気でも事故でも災害でもあっさり死ぬ。だから死ぬまでの生きている間に、死にものぐるいで他者の命を軽んじて食いモノにしてでも楽しんでおきたいとワシャ思うのである。

 いろんな意見があって良いと思う。でも表面的に感情的に受け入れやすくなんだか正しそうな、その実何の意味も論理も哲学もない見解に付和雷同して空気感を醸成して、あげく規則とかにまでしてしまって、それを権威あるものとして、「みんなが言ってる」「規則でそう決まってる」って、さも正しいことのように振りかざして他の意見を認めず攻撃する行為はまさに”ファシズム”という気がするのである。感情論に終始して論理的な反論を受け付けてくれない問答無用型のカーチャンみたいなファシストどもの多い嫌な未来になったものである。ウルセェっての!!


※5月8日追加、南アフリカ共和国ではライオンを使った”観光産業”等商業利用が禁止されるとの報あり。