2019年1月6日日曜日

便所のネズミのクソにも匹敵するそのくだらないモノ

 見る者をして吐き気をもよおさしめるモノというものがある。一般的には排泄物、ゲロ、タン、腐ってウジの湧いた魚、死体からはみ出た内臓、まんじゅうに熱いお茶とかがそれにあたるだろうか。

 新年2日に帰省先から戻るのに、新幹線の駅まで同居人の両親に車で送ってもらった。
 道中東北時代に住んでた近くの川の河口に高さ5mはあろうかという堤防が築かれつつある光景を見て、年末にも釣りに行ったときにさんざん防潮堤の工事を見ていたし、そういう計画があることも知っていたけど、気分が悪くなって目眩がして吐き気がした。
 シロウオを獲るための伝統的な漁法が続いていたような川の河口にナニしてくれてるんだと。5mの高さの堤防ってそれを支える土台にどれだけ土盛ってピラミッドみたいにしなきゃならんかというのは、知識で知ってても実物見るとその盛大さが想像を軽く超えていることに驚く。川の両岸にズーッと延々と2階建ての家ぐらいの高さのピラミッドが建設されていると想像してもらうと良いかもしれない。ホントいろんな要素を伴って相乗効果で気持ち悪い醜悪さ。
 不幸中の幸いだったのか?一番親しんだお気に入りの川は手前で自動車道に乗ったので河口部を見なくて済んだことだけど、同じような工事がされていると聞いてるので、もうヒラメとか釣ったあの河口はもう自分の思い出の中にしか流れてないんだなと思うと心底悲しい。サケだって上がるしマハゼも釣れるしクサフグもウグイも釣れた懐かしいオレの川。しっかり見て傷ついておくべきだったのかもしれないが正直勘弁して欲しい。ガガンボの脚のように脆弱な私の精神力では耐えられそうにない。上流はまだ工事が入ってないようなのでヤマメは健在かもしれない。でも、内緒だけど河口近くまでヤマメが釣れたんだけど、それはもうダメかも知れない。
 東北の渓流釣り場では放流量多い大河川が注目されがちだけど、実は釣り人少ないリアス式の湾に注ぐ沿岸の小河川が釣り人少なくて狙い目だったのである。イワナはさすがにある程度標高高いところから流れている川にしかいなかったけど、ヤマメなんぞは関東でいえばオイカワに近い生態的地位にいるぐらいの魚で家から5分ですぐ釣れたものである。関東のオイカワの方が難しいくらいで、雑なワシのフライフィッシングでもわけなく釣れた。
 そういう都会の釣り人が聞いたら信じたくないような贅沢な川を”金をばらまくことが主目的”の公共事業で失うことの損失がどれほど大きいか、なぜ分からないのかオレには分からない。
 そう思っているのは私だけじゃない、そういう自然環境に高い価値があるというのは、昨年それらの川が流れ込む志津川湾が”ラムサール条約登録湿地”になったことからも客観的に明らかだと思う。
 本当はどこの水辺も等しく重要なんだろうから、条約様がどうこういうまでもなく他の三陸の湾もそこに注ぐ河川も重要なんだと思う。でも公的機関がお墨付きを与えて「水鳥とかの棲息に重要なので保全していきましょうね」って言ってきている湾で平成も終わる時代にナニをやってるんだって話。

 日本って少なくとも”先進国”じゃないよねってこういうの見ると思う。かといって”途上国”っていうほど発展する余地もない黄昏の国。土建屋国家。

 「住民のために」「人の命を軽視するな」と推進する側はいうのだろう。ヨソモンが口を挟むなというかもしれない。ただ、クソ高い防潮堤については地元の反対もかなり強かったと聞いている。いろんな意見はあったんだろうけど「決まったこと」として押し切られたような話を良く聞いたし、そうだったんだろうなと容易に想像できる。
 要するに「復興」の錦の御旗のもとに予算が付くなかでいかに多くぶんどってきて地元にバラまくかってのが重要で、この儲け時に儲けなくていつもうけるんだということで、なりふり構わず無駄だろうがなんだろうが予算もってる”上”にピラッと綺麗な絵図面みせて説明しやすい話でゴリゴリ押したんだろう。

 「住民のために」だったら、なんで反対している者が多い地域にまで要らない防潮堤を作るのか。そういう工事が進んでいる中でなぜ、半島の先っちょの集落にいくための道路がいまだに地盤沈下で高潮時に浸水するまま捨て置かれているのか。票にも対外的な評価にも結びつかないような地味な工事は放置で「住民」捨て置かれている。何年経ったと思ってるんだ?

 「人の命を軽視するな」って、いうんなら東北の津波で得た教訓は”堤防じゃ津波は防ぎきれないから、とにかく地震が来たら高いところに逃げる”だったはずである。そうじゃないというなら指摘して欲しい。
 津波で壊れた防潮堤を教訓に更に丈夫な防潮堤を作るとか言うんだろうけど、防潮堤って作ったら永久に機能し続けるわけじゃなくて、コンクリの耐用年数って今はもうちょっと良いのかもだけど30年とか40年とか言われてたはずで、あんな巨大な構造物を定期的に修繕し続けなければならない経済的な負担など、今でもできないだろうし今後はもっとできなくなる経済状況になるだろう。
 人命優先で予算をつけるべきだなんて理想論で飯が食えたら苦労しないって話で、ため池が崩壊しただの崖が崩れたの堤防が決壊しただのって、なんで改修しておかなかったのかって”評論家様”は言うけどさ、いっつも書くけどそんな後出しジャンケンだれでもできるけど、予算限られる中でどれが次に危ないかなんて的確にあてられるわけなくて、特に津波なんてのは断層がエネルギーを貯め込んでから放出する大地震で来るんだから、忘れて防潮堤がボロくなった頃に来て崩壊するのは目に見えている。アホかと。
 なんで長期的には必ずおこりうる災害を、自然災害である”津波”では完全に押さえ込もうとして人災である”原発事故”は容認しようとしているのか、本来全く逆のハズでこの国の政治家もそれを支持する国民も頭も悪いし程度も低いと正直思ってる。原発事故なんて原発運用しなければ少なくとも国内では完全に防げる。自然災害は防ぎようがないことを前提に避難の方法やらなにやらで被害を最小限にとどめることを目標にすべきである。なんてことはとっくの昔にみんな分かってるはずで、一部狂信的なバカ以外は知ってることである。知ってて不合理なことに荷担している。

 じゃあ何でこんなことになってるのか?日本が経済優先の土建屋国家だから中央じゃ金バラまいて、地方じゃそれを引っ張ってこれる政治家が選挙で選ばれるからである。
 なにせ我が国で長く政権与党の座にある政党の本部が”砂防会館”なる砂防ダム作ってる業者側の持ちビルに入ってるってぐらいにあからさまな我が国である。恥ずかしくないのかねと常々思うけど恥ずかしくないような人達がこの国の政治を牛耳ってるんだもん。そりゃ国土全面コンクリで覆うまでは工事はなくならないってことだろうね。全部覆ったら次はその上に積むんだろうけどね。
 だから、必要ない施設を作るなとか不要な工事を止めろとかいっても聞きゃしないってのはわかる。だってこれだけ公共事業がやられてる限りそれで飯食ってけている人って多くて、多数決とって選挙したらその人達の利益になることしかやんないって。それにしても公共の不利益になることをするぐらいなら、いっそ札びら直接撒いておけと思うけどね。
 選挙とか多数決とかクソだよねってずっと思ってる。と同時に飯食えなくなる人がいるのに理想論でいいのかって矛盾も常々感じている。

 でも書く。無駄でもしつこくても何度でも書く。なぜなら昔っからそういう土建国家と闘ってくれた先輩達がいたから、ずいぶんマシな世の中にまだとどまっているんだと思いたいからである。椎名先生、野田先生、ニコル先生、獏先生、最近じゃTAKE先生とかがペンを剣にして闘ってきてくれてるから、まだオレは魚釣りができるんだと恩義を感じているので微力ながらも助太刀いたしたく候。
 私のブログのこの手の記事も誰かの目にとまって何かを感じてもらえたらと書いているし書いていく。

 たぶん経済優先の社会である限り、今のような無駄な公共事業は多少マシな方向に食い止めることぐらいが精一杯で全く止まるということはないだろう。
 でも2つぐらい、今後に希望がもてる状況が生じているように思う。
 1つは、日本の経済的発展が限界にきていることである。経済界は移民を受け入れてでも今の産業構造を維持しようと躍起になってるけど、諸外国の工業力が増していく中で、移民が来てくれるほどの経済的な状況を今後も維持できるとは思えない。いつもの持論だけど英国で起きたようなことが日本でも今後起こる。移民政策失敗した上に経済もコケる。そうなったらバラまこうにも金がないので経済優先もクソもなくなる。そうなれば混乱はあるだろうし悲劇もあるだろうけど、日本はまだ主食の米を生産できる能力が残ってるし、蛋白源も今や缶詰工場のあるインドネシアとかにサバやマイワシを輸出している漁業生産でけっこう行ける。足らない部分は生き残った工業力で稼いで買うぐらいの第一次産業主体の地産地消的な小さな経済にいやでもズルズルとなっていくと思う。経済的に今の構造が崩壊するというと心配かもだけど、飯さえ食えりゃあ贅沢はできんかもしれんけど幸せにはなれるので心配いらない。
 もう1つは、そのあたりに若い人がどうも気づきはじめているように思うことである。
 宣伝うっても車も家も売れないし、ろくでもない労働条件しかなかったら働こうともしない。欲望が薄くて羨ましいとともに心配だけど、搾取する体制側、資本家側の吹く笛に踊らされない賢さを持ち、さすがにクソジジイどもが負担を全部次世代に押しつけるようなメタメタなデタラメしかやらないので、そんなのに付き合う必要はないと気付いたんだろう。良いこっちゃ。経済メタクソになって移民からもそっぽ向かれたときに、好条件で泣いて頼まれたら働いてやってくれ。
 
 とまあ、罵詈雑言をまた新年から書いてしまったけど、なるべくならそういう書いてて胸くそ悪くなるようなことは書かずにいたいんだけど、現実にクソ高い壁のような防潮堤を目のあたりにしてしまうと、ひとくさり書かずにいられないのである。
 湾の奥の陸地を高い壁が覆うその様は、刑務所の中にいるかのごとき閉塞感で、見たら理屈じゃなくてその気持ち悪さを感じずにいられない。
 

 写真はどちらも気仙沼湾のとある防潮堤だけどその気持ち悪さが伝わるだろうか?こんなモンがなかったときには美しい三陸の海が見えたのである。
 控えめに言ってFUCK!である。
 なるべく早く腐食して崩壊するようにションベンかけておいた。さすがにチュドーンとはいかないのでせめてものゲリラ活動である。

4 件のコメント:

  1. 八幡川の河口右岸側に、旧志津川街区の住民有志が県・町と二年以上に渡って粘り強く交渉して勝ち取った防潮堤のセットバック箇所があります。旧松原公園外縁の旧防潮堤と、津波の引き波がそれをなぎ倒してできた磯環境、さらに引き波が集中して地盤を抉り取った入り江が残りました。いずれも貴重な震災遺構であると同時に、いろいろな生き物の棲息地になっていることが志津川高校生物部の調査で明らかになってきています。いまはまだ周辺工事が続いていて自由に出入りできませんが、事前に話しとけば入れるので、いつかご案内したいです。
    それにしても、ほんの1haちょっとの面積、しかも住民側の「残したい」という意思統一が図れているにも関わらず、県・町との交渉は難航に難航を重ね、他の地区に水平展開する余力もなにもありませんでした。まあ、町職員を含め住民の大多数が疑問に思っていても、町が自由に使える復興予算が一銭もないこと、他の復興事業に支障や不利益が生じるのではとの懸念、さらには「一刻も早く防潮堤を!」と声高に叫ぶ人が住民側にひとりでもいれば県はそれを根拠にゴリ押しできるので、住民の総意として防潮堤不要!とまでは云わないけどせめてセットバック希望‥をまとめるのが実はもっとも難しいんだなと痛感させられました。大谷海岸のように住民間で丁寧に丁寧に話し合いを重ねて砂浜海岸を残すことで合意し、さらに県・市との粘り強い交渉で民意を通した地区もありますが、極めて稀有な事例だと思います。松原海岸もそうだけど。
    平時からの備えというか、自分はそういう交渉事とかオーガナイズする能力とかぜんぜんダメなのでアレだけど、そういう能力に長けた人で地域社会のキーパーソンとなり得るような人を仲間に引き込んでおくとか、政治的なパイプを確保し太くしておくとか、震災前には唾棄すべきことのように思わんでもなかったことだけど、本気で現状を変えたいと願うのならそういうのって必要だし重要だなと今更ながらに思うのでした。

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    1. carankeさん おはようございます

       松原海岸の件、恥ずかしいことに不勉強でというかボランティアに行ったときに嫌な計画が進んでるのを見せられて見たくないモノとして目を背けてしまってました。
       無責任なヨソモンが目を背けても、地元の人達があきらめずに勝ち取った松原海岸。1haのほんの小さな面積とおっしゃってますが、よく釣りで「0匹と1匹の間の差は限りなく大きい」と言うんですが、まさに1カ所でも残せたことが、今後に繋がる大きな布石になったんじゃないかと思います。公共事業の融通のきかなさをイヤというぐらい知っている身としては手放しで賞賛に値する成果だと思います。自分がなにもしなかったことを深く恥じます。
       私の愛する”八幡川”を護ってくれて皆さんありがとうという気持ちです。歳をとると涙もろくっていかん。死んだと思ってた子が生きて帰ってきたぐらいの嬉しさを感じています。
       私の中のルールで釣り場の固有名詞はネット上に出さないというのがあり、書き込みいただいた場合も削除したりもしていますが、今回は検索したりしてやってきた人にも知ってもらうためにもあえて出します(carankeさんもその辺意識されて実名出されてるのかなと思いました)。
       
       希望をまとめるのに苦労したとのことですが、それがまた価値が高いと思います。何度も書いてますが政治判断だの多数決なんてのは時間が限られる中で結論をつけなければならない場合の必要悪で、そんなもんで議論を途中でぶった切ったら必ず禍根が残ります。
       長い時間掛けて議論を続けて意見をとりまとめていけば禍根が残らないかといえば、そうじゃないかも知れないけど、少なくとも議論に参加した人間に問題点や利点、なぜそれを残した方が良いのかということの理解が深まって、誰かが勝手に決めた良くわからン結果じゃなくて自分たちで苦労して得た”答え”になると思います。
       こんなご託を”caranke”さんの前に並べるのは釈迦に説法だとは分かってたりしますが、たまたま読んだ人に分かりやすいように説明しているという意味もあるのでご容赦下さい。このブログの性格上、多数の人に読んでもらって啓蒙をはかるなんてのは無理なんですが、検索してたまたま読んだ人が感化されるという”ネット上の罠”としては機能しているらしく「週末顛末記」のせいでPENNリール買ってしまったという人間を何人か知ってます。釣り関係以外でも誰かが罠にはまってくれればと思って書いています。

       そういう罠として、もいっちょ釈迦に説法で書かせてもらうと、浅い水辺にゃ値千金の価値があるって話で、仙台湾のイシガレイの来歴を、魚の履歴書である耳石のストロンチウム:カルシウム比を使って調べたら、全育成場面積の6%程度に過ぎない干潟育成場で約半数が育っていたという報告があります。海と波打ち際の間を羊の角で耕すことは不可能でも、その辺りの水辺は魚だけに限らず生き物のよりどころとなること大なりで、実にお汁タップリの部分を1haも勝ち取ったのです。
       1カ所も残せなかったら比較もできませんが、数十年後には長良川河口堰や八ツ場ダムのように無駄な公共事業の代名詞入りするだろう三陸の高い防潮堤を莫大な予算掛けて修繕して使うか、いっそ今欧米でやってるように、要らなくなったコンクリモノはぶっ壊して自然環境に配慮した形にしていくかというときに「そのまま残してた所、震災の記憶をとどめる他にも生き物にすっごく良くってあんな感じの場所増やしたほうが良いよ」ってなる未来に繋がっていく希望が持てます。特に高校生がそういう現場を見てくれているのって良いじゃないですか。
       コンクリ屋に「多自然型」とかいっても分かりゃしないのは明白ではなからアテにしてないけど、地域の水辺に親しんだ人が皮膚感覚でそういうことが分かる場所として、高い壁に覆われていない水辺が残されたことに尊敬の念を禁じ得ません。

       そう遠くないいつの日か松原海岸でまた会いましょう。

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  2. このごろホント涙腺もろくなってしまって、ナマジ氏のコメント読み返しては泣けてきます。この町には思いを同じくする仲間わりといます。それも震災を経なければ知り得なかったことだったかと思います。松原海岸で会いましょう!

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    1. お互いいつの間にか歳をとりましたね。素直に涙を流せるようになったのは歳をとって良かったことの一つだと思っています。

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