2018年7月21日土曜日

オレたちはエルフじゃねェ!


 北欧神話やら欧州の伝説から、「指輪物語」のトールキンあたりをへて、日本ではドラクエとかのロールプレイングゲームなんかもへて、エルフ、オーガ、ゴブリン、オークなんていう空想上の亜人種についてはすでにキャラクターとして日本のサブカル界隈でもお馴染みである。まああれだ、人間の女騎士がオークの男どもにつかまって性的暴行を受けそうになって「くっ!殺せ」とかいっちゃうのがお約束で、そういうお色気担当の女騎士を業界では「くっころ要員」と呼んでおります。
 そういうファンタジーなマンガだのアニメだの楽しんでると、当然主人公側の人間達は清く正しく友情努力勝利な感じで描かれていたりするんだけど、ちょっと俯瞰して見てみると、人間って、長命で美しく知識に富み争いを好まないエルフではぜんぜんないことはもとより、主人公側の人間達もずいぶん美化されていて、オークの醜く好色な部分も、オーガの凶暴で残忍な人食い鬼の部分も、意地悪でおふざけが過ぎるゴブリンの部分も「それってむしろ人間の性格じゃないの?」と思わされる。すべての人の心に潜んでいそうなそういう醜い部分を抽出したり、醜い人間を誇張して風刺的に描き出したのが、これらそれぞれの亜人種なんだろうなと思う。

 我々ホモ・サピエンス(以下「ホモサピ」と略)の得意なことといえば「争い」と「策略」と「搾取」ぐらいだろうと思ってて、生物としての進化の歴史の中でも、他種の「ヒト(人類)」をペテンにはめて打ち負かすとともに、持ってた財産から文化から奴隷としての女子供まで奪い取って、唯一生き残った最強というか他種にとって最凶の「ヒト」だったんだろうなと、ややうんざりしつつ思っていた。
 ヨーロッパでホモサピと同時代を生きていたネアンデルタール人なんてのは、体の大きさとか身体能力的にはホモサピ以上で頭も良かったとか聞いてたので、ホモサピの中にネアンデルタール人のDNAの一部を引き継いでいる人が現代にもいる。と聞いても「ネアンデルタール人滅ぼす過程で酷い性的陵辱を与えた結果とかの混血なんだろうな」と嫌な気持ちで聞いていた。何しろホモサピどうしの戦争とかでも、勝ち馬に乗った側による性的虐待とかお約束といって良いぐらい人類史を見れば行われてきたわけで、ホモサピがネアンデルタール人に同じようなことをしていたのは火を見るより明らかなことだと思っていた。
 我々ホモサピのご先祖様がアフリカ大陸から出て世界中に散らばっていく時代には、さっきから出てきているネアンデルタール人の他にも北京原人やジャワ原人に代表されるホモ・エレクトス(直立原人?)とかもいて、ファンタジー世界のように一つの世界に何種類かのヒトが同時に存在していたようである。その中で、我々は当然エルフなんかじゃなくって。残酷で略奪好きの、スケベなオークと残虐なオーガをあわせたような種族である「ホモサピ」だったんだろうなと思っていた。21世紀にもなって、相変わらず争いごととか絶えない種族だし恥ずかしくも思っているけど、そうじゃなきゃ生き残れなかっただろうし仕方ないだろうとも思ってた。

 でも、「NHKスペシャル 人類誕生」の3回シリーズを観終わって、認識を改めるとともに「ホモサピそこまで邪悪な生き物じゃなかった!」と安堵を感じている。
 ネアンデルタール人が滅びたのは、気候が寒冷化した長い時代に対応した、大きな体で沢山の獲物を獲って食べるという生態が、気候が急激に変動する時代に入って森が減り獲物が減るのに適応できなくなり滅びていったというのが真相らしい。
 彼らは高い身体能力を生かして、映像では槍持ってケブカサイに突撃してたけど寒期の地球の森林に多くいた大型哺乳類を対象とした狩人で、比較的小型で多様な獲物を狙っていた我らのご先祖であるホモサピとは餌が違うので争いにはならなかったとみられているようだ。人類どうしの争いの最初のモノはホモサピ対ホモサピだろうと紹介されていた。まったくオレたちゃ争いが好きなんである。

 で、我がご先祖のホモサピ達がネアンデルタール人が滅んだ気候変動期をどうしのぎきったのかというと、番組では「同じ宗教とかをもとに多くの人が助け合い乗り切った」という見方を紹介していた。
 宗教とか社会的哲学とか、それが争いのタネにはなったり負の面もあるけど、実際に見たモノではない、まさにファンタジーと言って良いようなものを信じることができる「想像力」と、遠く離れた人ともお互いに助け合うことができる情報伝達・共有やコミュニケーション能力いわゆる「コミュ力」による絆が厳しい時代にもホモサピを生き残らせたということらしい。
 我らホモサピは争い好きで強欲でという悪い面もあるんだけど、想像力豊かでコミュ力高くて仲間と助け合って生きていけるという良い面もちゃんとあるようなのである。それを知ることができてとても嬉しい気持ちだ。
 ホモサピのどんな民族、文化にも神話とか言い伝えとかあって、それは実際に目にしたモノでなくても、人々を導く行動の指針となり得るとともに、そういう神話言い伝えの時代から想像力で補って創りあげた物語を楽しむということがホモサピには共通した資質としてあり、「コミュ力」なんてのは、就職試験でも重視されるようなホモサピには大事な能力とされている。ワシあんまりコミュ力高くないほうだけど、それでもこうやって外の世界に情報を発信する能力ぐらいは持っている。そうであればホモサピはエルフじゃないけど、オーガやオークでもないんじゃないかと思う。やっぱりホモサピはホモサピなんだろう。

 でもって、そんなホモサピがどこでネアンデルタール人と交雑したのか、どうもホモサピ人類史における「出アフリカ記」の最初の頃に既に起こった出来事らしい。アフリカで生まれたホモサピが、アフリカから中東あたりに出たすぐにネアンデルタール人と交雑したので、その後ネアンデルタール人とは接触していないはずのアジアに向かったホモサピにも当然ヨーロッパに広がっていったホモサピにもネアンデルタール人由来のDNAが認められるそうなんである。日本人でもほとんどのヒトに残っているそうで、ホモサピはネアンデルタール人から寒冷地用の白い肌とかヨーロッパの病気に抵抗する能力とかの遺伝情報をもらったんだそうな。なんというか自分にも多分ネアンデルタール人から受け継いだ資質が残っているとか、とても遠い昔から繋がれてきて今ここにある自分を意識させられる感動的な事実である。
 その出会いは、映像では親たちとはぐれたネアンデルタール人の少女を保護したホモサピの群れの男の子が大きくなった少女と恋に落ちて子供を授かるというボーイミーツガールな美しい物語になっていた。実際にどうだったかは見てきたわけじゃなくて分からないにしても、食糧として狙う獲物が違うので争いのタネはあまりなく遭遇衝突の結果とかよりは、言葉通じない中でもビビッときた的なロマンスの方があり得たように信じたい。まあこの時には、ホモサピの性的な嗜好の多様性が役立ったとは想像に難くない。出アフリカ時肌の色も黒くネアンデルタール人に比べて細く華奢だったホモサピだけど、手足短くがっしりとしつつ、色が白くてブロンドだったりしたはずのネアンデルタール人の異性にしっかり欲情できたというスケベさは欠点ってわけじゃあないように思ったりする。そういうちょっと自分と違う異性に引かれるなんてのは我々ホモサピがご先祖様から引き継いできたモノであり、ホモサピが生き残ってきた要因の一つだったりするのかも。グッヘッッヘすけべぇでナニが悪いんじゃ。

 でもって、NHKスペシャルの3回目では、アジアに広がったホモサピが、海を渡って世界に広がった方法とかについて検証してたんだけど、日本列島に渡ってくるのに北の極寒地を緻密に縫い合わせた毛皮の衣類で克服してやってきたのと、台湾と与那国の間を船で渡ってきたルートが同時進行的に一番最初だったようで、でもこの台湾ー与那国間が難関で、海の中の大河である「黒潮」を横切らなければいけないので、草舟とか竹舟では越せそうにないのである。
 当時のご先祖様達も諦めなかったから今の我々日本人がいるんだろうけど、失敗しても失敗しても検証チームの科学者達も諦めない。最新の知見で石斧が使われていたと知って、石斧使って大木切り倒して丸木舟作って、今年再挑戦だそうである。海の向こうのここではないどこかに素晴らしい世界が広がっていて、そこににたどり着きたい。そういう妄想を抱ける想像力がホモサピの根源的な力の元だと確信する。
 その妄想を具現化する力は念能力とかじゃなくて、みんなで情報共有しながら、良い道具ができたら、みんなで使いつつさらに良いのを作ろうと工夫するという力で、そうやって工夫されてできた縫い針が寒さのつけいる隙のない衣類を実現し、石斧が船を穿ち、釣り鉤が獲物をとらえる。道具をいじくる楽しさは、ご先祖様から引き継いできた根源的な喜びでありつつ、ホモサピの最も得意とすることの一つである道具の改良という技能に直結している。
 ホモサピが他の類人猿やらカラスやらタコやらと一線を画すのは、脳の外部に情報を集積して他者と共有できるということかなと思っていて、それは文字の発明とか書籍とかが典型なのかなと思っていたけど、こうやって道具の改良の始まりと共用の歴史とを見ていくと、必ずしも文字は必須ではなく、現物持っていって「こんなの作ると便利やねん」ってやっても良いし、口頭で伝える「口伝」形式でも、文字の発明の前段階で既に、ホモサピは他の動物とは別次元の情報共有をやってのけてたように感じる。文字を持たなかったけどアイヌの文化も素晴らしいなんてのは、今時「ゴールデンカムイ」読んだら分かるでしょ?

 てな感じで、NHKにはやっぱり喜んで受信料払っておく価値があると納得していたんだけど、有料配信もなかなか鋭くて、某中古釣具屋で釣りビジョンが流してあったんだけど、なんか人類学系の学者さんが太平洋の島々への人類と釣り文化の伝播とをハワイイのビショップ博物館の収蔵物とか紹介しながら説明していて、そのスタート地点も奇しくも台湾で、そこから東南アジアの島々に渡って、ニューギニア、フィジーへ展開し、マルケサス諸島を経て最終的にはイースター島、ハワイイ諸島、ニュージーランドへと伝播していったそうだ。おもわず画面の前に仁王立ちで小一時間魅入ってしまった。

 特に釣り鉤の伝播と改良について、年代や島毎の違いなんかを解説していたあたりが出色の面白さだったんだけど、私もハワイイの水族館で見たんだけど、二つの部品をフトコロの下の方で縛って釣り鉤にしている形のがあって、てっきり加工技術が拙かったので、よく知られている鹿の角を水分で柔らかくしつつ削りだして継ぎ目のない釣り鉤にするなんてのより古い作り方なんだと思ってたら、そうじゃなくて、ハワイイには他の島で多産したような白蝶貝とかみたいな大きな貝が素材として手に入りにくく、大型の哺乳類もブタぐらいで、大きな釣り鉤を削り出せる大きさの素材が手に入らないので、2つの骨から削り出した部品を組み合わせてなるべく大きな釣り鉤にしているのである。納得した。
 ちなみに、一番大きな骨は人間から手に入り、そういった貴重でいかにも霊験あらたかな素材で作った釣鉤には「マナ」と呼ばれる力が宿ると考えられていたそうで、自分が死んだら一緒に埋葬してくれと願った漁師もいたそうである。そういう特別な力の宿る道具でロウニンアジやオニカマス、カマスサワラなんていう大物を仕留めて、場合によっては神に捧げたりしていたことが明らかになってきているそうである。
 カタログスペックだけご大層な高級釣具様を次から次へと買い換えて、飽きたら中古釣り具屋へ売っぱらうなんて輩には爪の垢を煎じて飲ませたい。墓場まで持ってくぐらいに大事にして信頼して共に闘うから、その道具に特別な力が宿るという昔のハワイイの漁師の感覚に21世紀の釣り人である私も大いに共感する。ヒトと道具の関係はそのぐらい濃いものだと、ホモサピの歴史を学んで改めて深く得心するのである。
 
 人はどこから来てどこに行くのか?
 それは、アフリカから来ておよそすべての遠いところまで行くんだろう。実際に行けるかどうかは分からんにしても、ホモサピの「想像力」は既に宇宙の深層まで手を伸ばしつつあり、その真相に手を掛けかけてるんじゃなかろうか。
 人がどこから来てどこに行くにしても、頭には「想像力」を手には「道具」を心に「コミュ力」を携えて行くのだろう。

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