2018年7月28日土曜日
ちょっと川の様子を見に行ってくる
と言って出かけたまま川崎市在住の男性(46歳)が行方不明です。とか報道されそうな死亡フラグ臭い行いをしておりますが、私は元気です。近所の川はいつもコイが背中出して泳いでるような水量少ない川だけど、現時点で既にご覧の通りの泥濁り増水中で、関東最接近は今日の夕方あたりらしいのでさらに増水するハズで、この増水が治まるタイミングでしばらく餌食えなかったアユの爆釣があるなと、極めて不謹慎な感じにワクワクしております。台風ってなんでこんなにワクワクするんだろう。自分が被災することもあり得ると分かっていても抑えられないこの興奮。
「大丈夫だろうと思ってた」で避難しなくて被災した人の気持ちは良く分かる。
でも、今後も気候変動に伴って大規模な風雨による災害とか増えるのは、現時点で各種提供されている科学的なデータを読み解くまでもなく肌に感じて理解できる話で、「地球温暖化陰謀論」とかわけ分からんこと言ってる人間は、ここ最近の九州、中国地方の豪雨被害の頻発や夏の異常な高温の恒常化とか何だと思ってるんだろうか不思議でならないぐらいだが、だいたい東から西に向かって上陸してくる台風ってなんなんだ?異常だ。
だからって川の堤防嵩上げだののハード面はコレから日本の経済も劇的回復なんてあり得ない中、人口も減って税収もどうなるか分からないのにハード作って対応するという方向性は維持管理さえできなくなって破綻することが目に見えている。現実に今でも予算つかなくて要望が上がってた改修ができてなくて決壊して洪水招いたとか報道されてるじゃん。なんでそちらに優先的に予算付けてなかったのかとか後出しジャンケンで言うのはいくらでもできるけど、どこが一番最初に問題生じるかなんて起こるまで予想付くわけもなく、そんなもん問題ありそうなことでも全部面倒見切れるほどの財源なんて今でさえあるわけないじゃん。
だからこそ、3.11の大地震の前は国土交通省も含め世論的にも「ハードは限界あるので避難方法とかのソフト面で補完する」という同意が得られていたはずが、またぞろ人命重視の美名の元にコンクリ屋が儲かるだけで未来のないクソな公共事業が盛り返してきてここに至っている。としつこく書いておく。何度でも書く。
今後も、局所的には上下繰り返しつつも海水温が高くなっていく傾向は続くんだろうからデカい低気圧ができて当たり前で、水害は増えると想定しなければならないはずである。堤防は壊れる、ダムは貯水量超過すれば放水する、高潮時には海の水も溢れる、裏の崖やら山やらは崩れる。そう思って、高台の安定した地盤の所に住んでる人以外は自分なりの基準を作って各種情報を総合して判断して逃げるときにとっとと逃げて避難するというのしか結局ないんだろうな、とここしばらく考えていて思ったところである。
逃げて生き残れば、家流されようが畑だの工場だの漁船だの生活基盤根こそぎ持ってかれようが「復興」できるというのは東北みてて感じるところである。あの震災でもどうにもならなかったのは死んだ人は帰ってこないということと、放射能の汚染ぐらいで、他は見る人によって感想は違うかもだけどどうにかなったように思う。被災された方々の悲しみや苦労を知らないでお気楽なこと書くなと叱られそうだけど、私はそう思うのでそうとしか書けない。
出かけることもできそうになく暇なので、ついでに、これからの日本に「想定される」ことを予想して書いておく。予言者になるつもりはないけど、まあそうなるよねと思うことを書くのでそれなりに当たるとは思っている。
まずはさっきも書いたけど、日本の経済は劇的には回復しない。今ぐらいの景気ならよくやってると高く評価できるぐらいである。白物家電とかボロ負けでも自動車産業とか頑張ってて世界でも勝ち残って通用しているように見える。でも、日本の景気の良かった高度経済成長期は、労働力が安くて環境だのなんだの気にせず工業生産重視でばく進できたからこそのある種異常な景気の良さで、いまそういう景気の良さはまさにお隣の中国がそうであるように経済発展する途上の国にしかやってこないもので、夢よもう一度と願うだけではやってくるわけがない。それをこの国の経済界やらのエラいさん連中は「安い労働力」を持ってくればまた景気が良くなると思ってるのかもしれないけど、それで問題が済むなら英国とか欧州の移民政策取ってる国が軒並み好景気になってないとおかしいわけで、移民受け入れによる弊害を我慢しても彼の国々と同程度の景気の良さしか得られないと考えるのが妥当だと思う。でも外国人労働力を受け入れなければ、彼の国程度の経済発展すら得られないというのもそのとおりだとは思う。「同じ場所にとどまるためには、絶えず全力で走っていなければならないのヨ」と赤の女王が笑う。日本も既に「研修生」「留学生」を労働力としてあてにしていて「骨太の方針」とかでも単純労働に門戸を開く方向に舵を切ったようだ。
となると国全体の経済力はそれなりに保てたとしても、単純労働に対する報酬が世界基準の安値に落ちてしまうことは容易にわかる。特殊な技術持ちやうまくそういった単純労働者を使役する側の特権階級になれたものは、効率的に稼いで財をため込むことができるけど、普通の労働技能しか持たない多くの労働者階級は世界基準の安月給で働きながら超小子高齢化社会の重税にあえぎつつ高い物価でモノを買わされる羽目になる(なので最低賃金とか決められていたとしても実質買えるモノが目減りしていくので、最低賃金で守られるとかいうのはまやかしである)。
嫌な未来だ。でもすぐそこまできている。
日本の未来を考える上で興味深いのが英国だと思っていて、例えばリバプールなんてのは造船業で栄えた街だったらしいけど、むしろそっちの方が有名な「リバプールサウンド」なグループが「ジャップが器用に船作りやがるからオレらの街は終わっちまった」的なことを歌ってるってぐらいに新興の工業国に王座を奪われた国で、コレから日本がやろうとしている「移民」政策も既に移民が嫌でというのも大きくてEU離脱まで決めてるぐらい先に行っている。その英国の労働者の状況を如実に表している印象的な話が総合格闘技UFCの超人気選手コナー・マクレガーがUFCに引き抜かれるまでは地元アイルランドで働きながら生活保護も受けていたという事実である。英国全体ではそれ程経済的な危機になっていなくても、労働者階級がそれぐらい稼げなくなっていて、かつ社会保障制度に普通に働ける若い世代が頼らなければならないということである。
英国は日本とも共通点多くてかつ先行ってて、他山の石とすれば良いのにと思うけど、実際やって痛い目にあわないと分からんというのが日本人だけじゃなくて人類共通のバカさ加減なんだと思う。日本なんて人口減っていくんだから、それにあわせて経済規模縮小していって、外国人労働力なんて最低限必要なだけにとどめて、基本日本人の労働力で回るように工夫して欲しいと思うんだけどできないもんなのかネ?日本人の島国根性的な排他性って結構酷くて「移民」との軋轢なんて諸外国より派手に起こると予想できて今からうんざりなんですけど。そもそも「移民」が喜んで来てくれるほど今後も給料払えるのかって疑問はあったりもして、そうなったときに嫌でも少ない人間で回せる社会を考えることになるのか。
日本は科学技術が優れているから、技術革新で効率的な生産技術なりが開発されていき世界に先んじて経済発展を続けていける、なんて絵空事を信じている人がいるとしたら、戦時中の大本営発表やら神国日本が負けるわけがないとかからナニも変わってないと言わざるを得ない。まあ本質変わってないというのは薄々感じているけど。
大学やら研究機関やらの効率化とかで国公立の機関を法人化したり、予算削りまくって研究者の海外流出とか起こしている国で何いってんだかという感じである。
仮に技術革新が進んでいったとしても、それが労働者階級の利益になるかというと、そんなモン関係ないのは、仕事机にPCがなかった時代と今のデスクワークの面倒くささにおいて、今のPCで綺麗な資料作るのが求められる時代の方がやってる本人大変じゃないかという実感とか、工場の工業用ロボットは工員の仕事を奪っただけじゃないのかという疑問とか、結局経営者側に利益があって経済全体としても発展してたとしても、一労働者の得る利益なんてないわけで、経済全体として儲かって、食えない労働者階級に社会保障制度で還元するとかなら、最初っから給料であげとけよという気がする。
なんぼ少子高齢化社会といっても、給料高ければ爺さん婆さん含めて働ける人間はいるだろうって話で、特権階級の方々が「効率的」に儲けて、食えない下々には社会保障でごまかしておけば良いなんて施策をとってると、それこそ「働いたら負け」と思うぐらいに勤労意欲がそがれて生産性が落ちて労働力の質も下がると思う。
でも、もう日本の未来においては「移民」がワラワラやってきて安い労働力となりつつ、日本人の働く場所の喪失や、異文化との衝突やらよからぬ人間もやってくることによる問題やらを起こしつつ、若くて働ける労働者がやる気なくしつつも、爺さん婆さんも蓄える余裕もなかったので働かなければいけなくなって、真面目に働いてる人間がバカをみて社会保障に好んで依存する寄生的な生き方をする人間が増え、一部特権階級だけが富を得るろくでもない社会構造が、今でもそうなりつつある部分を感じるけど、より比率が高くなっていくだろうと予想しておく。
技術革新の話が出てきたので、ついでに予想として日本だけじゃないけど、人工知能が人間の知能を越えて自己で高度化していくような技術的特異点が来ると私にじゃなくて科学者とかに予想されていて、その結果「人工知能が反乱を起こして人が支配される」から「人が働かなくても良くなる理想郷が実現する」まで、色々いわれているけど多分あんまり劇的には変わらないと思っている。
例えばコンピューターが身近になかった時代と今と比べたら劇的に変わってるはずだけど、徐々に変わっていくのを体験していると、その変化はあんまり感じないものである。おそらく人工知能についても今は大したことないのが、だんだん賢くなっていって、コンピューターをインターネットに繋げたときに感じた「便利になったなア」というような個々人における感慨は来るのかもしれないけど、なんというか上手く調整しながら利点も問題も生じさせながら気付けばなじんでいるんだろうと予想している。気付けば支配されてたりしても驚かないけど、ありとあらゆる状況がSF作品では描かれていて、その範囲内であれば想定して対策とるだろうし、その範囲外の突拍子もないことが現実に起こるなら今からビビっててもしかたなくて、問題起きたらその時対応するしかないだろうと思う。開発した技術を使わないで自制できたというのは人類の歴史を見てもあんまりないので行くところまで行くんだと思う。
多分、生命に関する技術も、禁忌を犯してでも人間は手を出すだろうと予想している。その結果、永遠の命に近い技術も100年しないうちに出てくるはずで、今生きている世代でも医療とか進んで寿命はまだ延びると予想している。延びた寿命の分働かなければいけないとも予想していてうんざりもしている。
気候は変動して今後さらに災害が増えることが予想できる。世界経済には嫌でも巻き込まれて競争に勝てないとその国の社会経済が回らなくなるらしい。科学技術は発達するけど使う人間が変わらないから利点も問題も生じながら進んでいくとしか思えない。いやでも長く生きなきゃならなくなるだろう。という、外的要因が変化していく時代において、過去どうだったからとかいう経験則があまり役立たなくなってくるので、コレはやばそうだと思ったら持ってるものを捨ててでも「変わる」必要が出てくるのかなと予想している。
案外、自給自足的に他者に頼る部分を少なくする生き方が、外的な要素に左右されにくくて臨機応変な対応もしやすくて今後数10年をみこしたら良いのかも知れないと思う今日この頃。
未来は予想どおりにはならない、と当たり前だけど想定しておくべきなんだろう。
2018年7月21日土曜日
オレたちはエルフじゃねェ!
北欧神話やら欧州の伝説から、「指輪物語」のトールキンあたりをへて、日本ではドラクエとかのロールプレイングゲームなんかもへて、エルフ、オーガ、ゴブリン、オークなんていう空想上の亜人種についてはすでにキャラクターとして日本のサブカル界隈でもお馴染みである。まああれだ、人間の女騎士がオークの男どもにつかまって性的暴行を受けそうになって「くっ!殺せ」とかいっちゃうのがお約束で、そういうお色気担当の女騎士を業界では「くっころ要員」と呼んでおります。
そういうファンタジーなマンガだのアニメだの楽しんでると、当然主人公側の人間達は清く正しく友情努力勝利な感じで描かれていたりするんだけど、ちょっと俯瞰して見てみると、人間って、長命で美しく知識に富み争いを好まないエルフではぜんぜんないことはもとより、主人公側の人間達もずいぶん美化されていて、オークの醜く好色な部分も、オーガの凶暴で残忍な人食い鬼の部分も、意地悪でおふざけが過ぎるゴブリンの部分も「それってむしろ人間の性格じゃないの?」と思わされる。すべての人の心に潜んでいそうなそういう醜い部分を抽出したり、醜い人間を誇張して風刺的に描き出したのが、これらそれぞれの亜人種なんだろうなと思う。
我々ホモ・サピエンス(以下「ホモサピ」と略)の得意なことといえば「争い」と「策略」と「搾取」ぐらいだろうと思ってて、生物としての進化の歴史の中でも、他種の「ヒト(人類)」をペテンにはめて打ち負かすとともに、持ってた財産から文化から奴隷としての女子供まで奪い取って、唯一生き残った最強というか他種にとって最凶の「ヒト」だったんだろうなと、ややうんざりしつつ思っていた。
ヨーロッパでホモサピと同時代を生きていたネアンデルタール人なんてのは、体の大きさとか身体能力的にはホモサピ以上で頭も良かったとか聞いてたので、ホモサピの中にネアンデルタール人のDNAの一部を引き継いでいる人が現代にもいる。と聞いても「ネアンデルタール人滅ぼす過程で酷い性的陵辱を与えた結果とかの混血なんだろうな」と嫌な気持ちで聞いていた。何しろホモサピどうしの戦争とかでも、勝ち馬に乗った側による性的虐待とかお約束といって良いぐらい人類史を見れば行われてきたわけで、ホモサピがネアンデルタール人に同じようなことをしていたのは火を見るより明らかなことだと思っていた。
我々ホモサピのご先祖様がアフリカ大陸から出て世界中に散らばっていく時代には、さっきから出てきているネアンデルタール人の他にも北京原人やジャワ原人に代表されるホモ・エレクトス(直立原人?)とかもいて、ファンタジー世界のように一つの世界に何種類かのヒトが同時に存在していたようである。その中で、我々は当然エルフなんかじゃなくって。残酷で略奪好きの、スケベなオークと残虐なオーガをあわせたような種族である「ホモサピ」だったんだろうなと思っていた。21世紀にもなって、相変わらず争いごととか絶えない種族だし恥ずかしくも思っているけど、そうじゃなきゃ生き残れなかっただろうし仕方ないだろうとも思ってた。
でも、「NHKスペシャル 人類誕生」の3回シリーズを観終わって、認識を改めるとともに「ホモサピそこまで邪悪な生き物じゃなかった!」と安堵を感じている。
ネアンデルタール人が滅びたのは、気候が寒冷化した長い時代に対応した、大きな体で沢山の獲物を獲って食べるという生態が、気候が急激に変動する時代に入って森が減り獲物が減るのに適応できなくなり滅びていったというのが真相らしい。
彼らは高い身体能力を生かして、映像では槍持ってケブカサイに突撃してたけど寒期の地球の森林に多くいた大型哺乳類を対象とした狩人で、比較的小型で多様な獲物を狙っていた我らのご先祖であるホモサピとは餌が違うので争いにはならなかったとみられているようだ。人類どうしの争いの最初のモノはホモサピ対ホモサピだろうと紹介されていた。まったくオレたちゃ争いが好きなんである。
で、我がご先祖のホモサピ達がネアンデルタール人が滅んだ気候変動期をどうしのぎきったのかというと、番組では「同じ宗教とかをもとに多くの人が助け合い乗り切った」という見方を紹介していた。
宗教とか社会的哲学とか、それが争いのタネにはなったり負の面もあるけど、実際に見たモノではない、まさにファンタジーと言って良いようなものを信じることができる「想像力」と、遠く離れた人ともお互いに助け合うことができる情報伝達・共有やコミュニケーション能力いわゆる「コミュ力」による絆が厳しい時代にもホモサピを生き残らせたということらしい。
我らホモサピは争い好きで強欲でという悪い面もあるんだけど、想像力豊かでコミュ力高くて仲間と助け合って生きていけるという良い面もちゃんとあるようなのである。それを知ることができてとても嬉しい気持ちだ。
ホモサピのどんな民族、文化にも神話とか言い伝えとかあって、それは実際に目にしたモノでなくても、人々を導く行動の指針となり得るとともに、そういう神話言い伝えの時代から想像力で補って創りあげた物語を楽しむということがホモサピには共通した資質としてあり、「コミュ力」なんてのは、就職試験でも重視されるようなホモサピには大事な能力とされている。ワシあんまりコミュ力高くないほうだけど、それでもこうやって外の世界に情報を発信する能力ぐらいは持っている。そうであればホモサピはエルフじゃないけど、オーガやオークでもないんじゃないかと思う。やっぱりホモサピはホモサピなんだろう。
でもって、そんなホモサピがどこでネアンデルタール人と交雑したのか、どうもホモサピ人類史における「出アフリカ記」の最初の頃に既に起こった出来事らしい。アフリカで生まれたホモサピが、アフリカから中東あたりに出たすぐにネアンデルタール人と交雑したので、その後ネアンデルタール人とは接触していないはずのアジアに向かったホモサピにも当然ヨーロッパに広がっていったホモサピにもネアンデルタール人由来のDNAが認められるそうなんである。日本人でもほとんどのヒトに残っているそうで、ホモサピはネアンデルタール人から寒冷地用の白い肌とかヨーロッパの病気に抵抗する能力とかの遺伝情報をもらったんだそうな。なんというか自分にも多分ネアンデルタール人から受け継いだ資質が残っているとか、とても遠い昔から繋がれてきて今ここにある自分を意識させられる感動的な事実である。
その出会いは、映像では親たちとはぐれたネアンデルタール人の少女を保護したホモサピの群れの男の子が大きくなった少女と恋に落ちて子供を授かるというボーイミーツガールな美しい物語になっていた。実際にどうだったかは見てきたわけじゃなくて分からないにしても、食糧として狙う獲物が違うので争いのタネはあまりなく遭遇衝突の結果とかよりは、言葉通じない中でもビビッときた的なロマンスの方があり得たように信じたい。まあこの時には、ホモサピの性的な嗜好の多様性が役立ったとは想像に難くない。出アフリカ時肌の色も黒くネアンデルタール人に比べて細く華奢だったホモサピだけど、手足短くがっしりとしつつ、色が白くてブロンドだったりしたはずのネアンデルタール人の異性にしっかり欲情できたというスケベさは欠点ってわけじゃあないように思ったりする。そういうちょっと自分と違う異性に引かれるなんてのは我々ホモサピがご先祖様から引き継いできたモノであり、ホモサピが生き残ってきた要因の一つだったりするのかも。グッヘッッヘすけべぇでナニが悪いんじゃ。
でもって、NHKスペシャルの3回目では、アジアに広がったホモサピが、海を渡って世界に広がった方法とかについて検証してたんだけど、日本列島に渡ってくるのに北の極寒地を緻密に縫い合わせた毛皮の衣類で克服してやってきたのと、台湾と与那国の間を船で渡ってきたルートが同時進行的に一番最初だったようで、でもこの台湾ー与那国間が難関で、海の中の大河である「黒潮」を横切らなければいけないので、草舟とか竹舟では越せそうにないのである。
当時のご先祖様達も諦めなかったから今の我々日本人がいるんだろうけど、失敗しても失敗しても検証チームの科学者達も諦めない。最新の知見で石斧が使われていたと知って、石斧使って大木切り倒して丸木舟作って、今年再挑戦だそうである。海の向こうのここではないどこかに素晴らしい世界が広がっていて、そこににたどり着きたい。そういう妄想を抱ける想像力がホモサピの根源的な力の元だと確信する。
その妄想を具現化する力は念能力とかじゃなくて、みんなで情報共有しながら、良い道具ができたら、みんなで使いつつさらに良いのを作ろうと工夫するという力で、そうやって工夫されてできた縫い針が寒さのつけいる隙のない衣類を実現し、石斧が船を穿ち、釣り鉤が獲物をとらえる。道具をいじくる楽しさは、ご先祖様から引き継いできた根源的な喜びでありつつ、ホモサピの最も得意とすることの一つである道具の改良という技能に直結している。
ホモサピが他の類人猿やらカラスやらタコやらと一線を画すのは、脳の外部に情報を集積して他者と共有できるということかなと思っていて、それは文字の発明とか書籍とかが典型なのかなと思っていたけど、こうやって道具の改良の始まりと共用の歴史とを見ていくと、必ずしも文字は必須ではなく、現物持っていって「こんなの作ると便利やねん」ってやっても良いし、口頭で伝える「口伝」形式でも、文字の発明の前段階で既に、ホモサピは他の動物とは別次元の情報共有をやってのけてたように感じる。文字を持たなかったけどアイヌの文化も素晴らしいなんてのは、今時「ゴールデンカムイ」読んだら分かるでしょ?
てな感じで、NHKにはやっぱり喜んで受信料払っておく価値があると納得していたんだけど、有料配信もなかなか鋭くて、某中古釣具屋で釣りビジョンが流してあったんだけど、なんか人類学系の学者さんが太平洋の島々への人類と釣り文化の伝播とをハワイイのビショップ博物館の収蔵物とか紹介しながら説明していて、そのスタート地点も奇しくも台湾で、そこから東南アジアの島々に渡って、ニューギニア、フィジーへ展開し、マルケサス諸島を経て最終的にはイースター島、ハワイイ諸島、ニュージーランドへと伝播していったそうだ。おもわず画面の前に仁王立ちで小一時間魅入ってしまった。
特に釣り鉤の伝播と改良について、年代や島毎の違いなんかを解説していたあたりが出色の面白さだったんだけど、私もハワイイの水族館で見たんだけど、二つの部品をフトコロの下の方で縛って釣り鉤にしている形のがあって、てっきり加工技術が拙かったので、よく知られている鹿の角を水分で柔らかくしつつ削りだして継ぎ目のない釣り鉤にするなんてのより古い作り方なんだと思ってたら、そうじゃなくて、ハワイイには他の島で多産したような白蝶貝とかみたいな大きな貝が素材として手に入りにくく、大型の哺乳類もブタぐらいで、大きな釣り鉤を削り出せる大きさの素材が手に入らないので、2つの骨から削り出した部品を組み合わせてなるべく大きな釣り鉤にしているのである。納得した。
ちなみに、一番大きな骨は人間から手に入り、そういった貴重でいかにも霊験あらたかな素材で作った釣鉤には「マナ」と呼ばれる力が宿ると考えられていたそうで、自分が死んだら一緒に埋葬してくれと願った漁師もいたそうである。そういう特別な力の宿る道具でロウニンアジやオニカマス、カマスサワラなんていう大物を仕留めて、場合によっては神に捧げたりしていたことが明らかになってきているそうである。
カタログスペックだけご大層な高級釣具様を次から次へと買い換えて、飽きたら中古釣り具屋へ売っぱらうなんて輩には爪の垢を煎じて飲ませたい。墓場まで持ってくぐらいに大事にして信頼して共に闘うから、その道具に特別な力が宿るという昔のハワイイの漁師の感覚に21世紀の釣り人である私も大いに共感する。ヒトと道具の関係はそのぐらい濃いものだと、ホモサピの歴史を学んで改めて深く得心するのである。
人はどこから来てどこに行くのか?
それは、アフリカから来ておよそすべての遠いところまで行くんだろう。実際に行けるかどうかは分からんにしても、ホモサピの「想像力」は既に宇宙の深層まで手を伸ばしつつあり、その真相に手を掛けかけてるんじゃなかろうか。
人がどこから来てどこに行くにしても、頭には「想像力」を手には「道具」を心に「コミュ力」を携えて行くのだろう。
2018年7月13日金曜日
秘技!変化抜竿霞捕り!!
ほぼ我流でアユ釣りを学んでいるので、技術から道具からいちいち実践で試して失敗して改良してという課程を経ねばならず、面倒くさくも楽しい日々である。
ということで、小遠征を直前にいくつか道具をこしらえたりしたので、その辺の小ネタでいってみたい。
まずはタモ入れ問題。解禁当時の10センチあるかないかのアユでは問題なかった金魚網だけど、アユが15センチを超え始めると、ちょっと暴れたときに飛び出しそうでこわいなと思いつつも、まあ何とかなるだろうとたかをくくっていたら、25センチぐらいのウグイ(かマルタ)を釣った時に、掬うのは問題なかったけど写真撮ろうとしてたら暴れてやっぱり飛び出してしまった。そのうち20センチオーバーのアユはやっつけねばならんのでこのままというわけにはいくまいて。
私が考える良いタモ網の条件を再度書くと「枠が充分に大きく、網が充分に深い」なんだけど、金魚網はその単純明快な条件に合わなくなってきた。さらには、餌釣りの時には一本針で単純な仕掛けなのであまり絡まないこともありバラし防止にカエシ有りの袖針を使ったところ、目の細かい網でも貫通してしまうと外しにくくて面倒くさいという問題も発覚した。
というわけで、タモの深さと枠の大きさを上げつつ刺さりにくいのをと考えてみた。もちろんハリが刺さりにくいぐらい細かい目に編んだ高級アユタモなら条件に合致するのかもだけど金かけねえのが課題の一つなので却下。タモ網ごときに大1枚も使えるかよケッてなもんである。
ハリが刺さりにくく絡みにくいという一点なら、ラバーネットが一番だと思っているけど、ヘラ用に使ってるのは目が大きくてアユが抜けて使いようがない。でも1センチぐらいのアユが抜けない目合いで35センチ枠ぐらいのがマス用にあるので網はコレで行く。千円ぐらいで必要経費と割り切れる値段。
枠をどうしようか?アユ毛鉤釣りでは腰のベルトに差しておいて抜くか、差したままタモの中にアユをぶち込むかというのが主な使い方で、タモの柄は短くて良い。でも腰に差したままで網が上を向くようにとか、リュックサックに入れて持ち運びできるようにとか考えると、柄の角度を変えられて取り外し等も可能とか意外と面倒くさい。コレまで使ってた金魚網なら枠の針金なんて曲げ放題だからどうとでもなったのにな、と思ったら「針金で良いじゃないか!」と気がついた。
早速、東急ハンズで直径4ミリのアルミの針金400円ぐらいで買ってきて作成。バッチリですがな。オールアルミモノコック?フレームとかなんか軽くて良さそうな言葉の響きも良い。道具の問題はこれで大丈夫だろうと思う。写真は折りたたみ収納時の状態。
でも、タモ入れ関係では技術的な課題も見えてきている。よっぽど良い型じゃなければアユは引っこ抜いてタモにぶち込むんだけど結構ポロリが多い。あんまり釣れていない時間帯なら抜かずに丁寧にタモ入れしておけば良いけど、時合いって結構短くてとにかく急ぎたくなるので抜く。
で、その時に抜いた瞬間ポロリと落ちるのは掛かりどころが悪かったと諦められる。でも手元まで来てポロリは精神的にガックリくる。とくに流し毛鉤仕掛けの上の方の鉤に掛かっている魚を腰のタモにすぐに降ろせずにモタついてて落っことすと「ナニやってんだオマエはッ!」と自分をなじりたくもなるというモノである。
直近2回ほどオイカワがバコバコ釣れるという楽しい状況の時に、どうやるのが一番理にかなっているか試してみた。まずタモを左手で抜いて魚を迎えに行くのは振り子のように揺れる魚が網の中にとらえにくい上に網に入っても落ち着かずに飛び出しやすく却下。結局、タモは腰に差したままで、掛かっているのが上の方の鉤だと分かったら魚を水中で泳がせておきつつ右手で持ってる竿を一瞬左手で支えて右手を竿の上の方にズラして短く竿を持ちなおしてから引き抜くというのが、魚が水中にいる間はバレにくいし、引き抜いた魚が網の中に落ち着きやすく、空いた左手で魚の上のあたりの道糸を掴んでタモに魚を誘導できるので一番失敗が少ないように思う。
さらに、抜くときに放物線を描いた魚がそのままタモに入るぐらいの抜き方を心がけて竿で調整しつつ左手でたぐるのも併用してタモに収めるようにしていると、飛んできた魚の重さが再度かかるときやその後タモの上でバタバタしているときに落ちた魚がタモに入ってくれることが結構多い。ハリ外しの手間も必要ない最速の取り込みである。この技を「変化抜竿霞捕り(ヘンゲバッカンカスミトリ)」と名付けていついかなる時でも決められるように修行してみたい。
次に玉浮子問題である。
「川釣りの極意」でお薦めの中通し玉浮子を使った単純明快仕掛けは絡まないし玉浮子の安定した浮力は流れにもまれても見やすいしで実に良い塩梅なんだけど、中通しの玉ウキの良いのがあんまり売ってない。シモリ玉の5号か6号あたりでも良いっていえば良いんだけど、木製のちょっと重さのあるヤツは風にも強くて見た目も可愛らしくてコレまで玉ウキは樹脂製足つきのいわゆるセル玉ウキこそ至高と思ってたけど、木製中通し玉浮子を使ってみるとコレこそが探し求めていた玉浮子だと思えるぐらいに味わい深さもある浮子なのである。
買ったのは九州の浮子屋さんがつくってる「ギンナンうき」というブランドのだったけど、渋谷のでっかいJ屋にも直径20ミリぐらいの大きめのしか置いてないし、通販で探しても見当たらない。
まあ、なきゃ作るか?といういつもの流れで作ることにした。とはいえ木の丸棒買ってきて真ん中に穴開けて削って球にするのは正直めんどくせえ。たしか穴の空いた玉が東急ハンズとかで売ってたし探せば欲しいサイズもあるだろう?と通販で探してみると、あるどころか既に着色までしてあるのが各種売っている。
民族衣装っぽい服装と合わせる首飾りとかの素材として「ウッドビーズ」という商品名のようだ。個数が50個入りとか多いのばかりで小数売りを探すのにちょっと手間取ったけど、まあパソコンの前でカチカチやってるだけなのでたいした手間でもなく、木目をいかした黄色16ミリ、オレンジ14ミリを購入。穴はそのままだと3ミリほどあって道糸止めるのが難しいので、3ミリの浮子ゴムパイプを買ってきて突っ込んでウレタン接着剤で固定。するとこの浮子ゴムの穴にちょうどヘラ浮子製作に使ってた竹串があつらえたようにはまってくれて、ゴム使ってるので道糸にも優しく実に使いやすく仕上がった。ウレタンどぶ漬け1回して頭のほうに蛍光オレンジを塗って完成。プカプカとゆるふわに流れていく玉浮子の様はまるで木の実のようで趣があってよろしい。
写真の右真ん中へんの3個が完成品なんだけど「ナマジさん、はみ出してるゴムぐらいきちんと切って仕上げたらどうなの?」と思うかもだけど、そういう仕様なんです。ライン止め用の竹串の長さをはみ出してるゴムぐらいまで来るようにして頭の方は引っかからないように使用時押し込んでおく。そして外す必要があるときにはゴムのところを押して竹串の頭を露出させて摘まんで引っ張って抜くのである。
シモリ玉とか固定するのに、爪楊枝方式だと抜けたりしやすくかつラインを傷つけそうで、ゴムとか毛糸とかを引っ張り込む方式は仕掛け作るときに面倒くさいので良い方法がないかとは思っていたけど、たまたま買ったウッドビーズの穴が大穴だったので詰め物的に噛ませた浮子ゴムが問題をさらりと解決してくれた。特許でも取って売り出そうかしら。まあいいや真似してもらって結構です。でもこの方式の中通し玉浮きは今後「ゆるふわ玉浮子」と呼んでいただけると考案者冥利に尽きます。すでに玉浮子以外の浮子で同じ方式の既製品ありそうだけどね。
てな具合で今日の夕方出発を控えて盛り上がってます。
現地いまいち増水の引きが悪くて、昨日またちょっと降ったこともあっていつものポイント釣りになるかどうかと心配される状況のようですが、そんなもん増水時には増水時の釣り方ってあるはずで、アユ釣りにおいてそれがどういうものか知らないっちゃ知らないんだけど、イワナ・ヤマメやオイカワの釣りで学んだことを応用していけば自ずと答えにたどり着くはずである。増水したら、「渕尻」「流れの裏」「支流・小河川」ぐらいがアユでも効きそうな要素だろうか?季節も良いし良い釣りになるに決まっている。
遠征前はだいたいそうだけど、今回も絶対釣れるという根拠のない自信が満ちあふれている。そんな甘く考えていて良いのだろうかとか思わなくもないけど、これでいいのだ!(©赤塚先生)
ということで、小遠征を直前にいくつか道具をこしらえたりしたので、その辺の小ネタでいってみたい。
まずはタモ入れ問題。解禁当時の10センチあるかないかのアユでは問題なかった金魚網だけど、アユが15センチを超え始めると、ちょっと暴れたときに飛び出しそうでこわいなと思いつつも、まあ何とかなるだろうとたかをくくっていたら、25センチぐらいのウグイ(かマルタ)を釣った時に、掬うのは問題なかったけど写真撮ろうとしてたら暴れてやっぱり飛び出してしまった。そのうち20センチオーバーのアユはやっつけねばならんのでこのままというわけにはいくまいて。
私が考える良いタモ網の条件を再度書くと「枠が充分に大きく、網が充分に深い」なんだけど、金魚網はその単純明快な条件に合わなくなってきた。さらには、餌釣りの時には一本針で単純な仕掛けなのであまり絡まないこともありバラし防止にカエシ有りの袖針を使ったところ、目の細かい網でも貫通してしまうと外しにくくて面倒くさいという問題も発覚した。
というわけで、タモの深さと枠の大きさを上げつつ刺さりにくいのをと考えてみた。もちろんハリが刺さりにくいぐらい細かい目に編んだ高級アユタモなら条件に合致するのかもだけど金かけねえのが課題の一つなので却下。タモ網ごときに大1枚も使えるかよケッてなもんである。
ハリが刺さりにくく絡みにくいという一点なら、ラバーネットが一番だと思っているけど、ヘラ用に使ってるのは目が大きくてアユが抜けて使いようがない。でも1センチぐらいのアユが抜けない目合いで35センチ枠ぐらいのがマス用にあるので網はコレで行く。千円ぐらいで必要経費と割り切れる値段。
枠をどうしようか?アユ毛鉤釣りでは腰のベルトに差しておいて抜くか、差したままタモの中にアユをぶち込むかというのが主な使い方で、タモの柄は短くて良い。でも腰に差したままで網が上を向くようにとか、リュックサックに入れて持ち運びできるようにとか考えると、柄の角度を変えられて取り外し等も可能とか意外と面倒くさい。コレまで使ってた金魚網なら枠の針金なんて曲げ放題だからどうとでもなったのにな、と思ったら「針金で良いじゃないか!」と気がついた。
早速、東急ハンズで直径4ミリのアルミの針金400円ぐらいで買ってきて作成。バッチリですがな。オールアルミモノコック?フレームとかなんか軽くて良さそうな言葉の響きも良い。道具の問題はこれで大丈夫だろうと思う。写真は折りたたみ収納時の状態。
でも、タモ入れ関係では技術的な課題も見えてきている。よっぽど良い型じゃなければアユは引っこ抜いてタモにぶち込むんだけど結構ポロリが多い。あんまり釣れていない時間帯なら抜かずに丁寧にタモ入れしておけば良いけど、時合いって結構短くてとにかく急ぎたくなるので抜く。
で、その時に抜いた瞬間ポロリと落ちるのは掛かりどころが悪かったと諦められる。でも手元まで来てポロリは精神的にガックリくる。とくに流し毛鉤仕掛けの上の方の鉤に掛かっている魚を腰のタモにすぐに降ろせずにモタついてて落っことすと「ナニやってんだオマエはッ!」と自分をなじりたくもなるというモノである。
直近2回ほどオイカワがバコバコ釣れるという楽しい状況の時に、どうやるのが一番理にかなっているか試してみた。まずタモを左手で抜いて魚を迎えに行くのは振り子のように揺れる魚が網の中にとらえにくい上に網に入っても落ち着かずに飛び出しやすく却下。結局、タモは腰に差したままで、掛かっているのが上の方の鉤だと分かったら魚を水中で泳がせておきつつ右手で持ってる竿を一瞬左手で支えて右手を竿の上の方にズラして短く竿を持ちなおしてから引き抜くというのが、魚が水中にいる間はバレにくいし、引き抜いた魚が網の中に落ち着きやすく、空いた左手で魚の上のあたりの道糸を掴んでタモに魚を誘導できるので一番失敗が少ないように思う。
さらに、抜くときに放物線を描いた魚がそのままタモに入るぐらいの抜き方を心がけて竿で調整しつつ左手でたぐるのも併用してタモに収めるようにしていると、飛んできた魚の重さが再度かかるときやその後タモの上でバタバタしているときに落ちた魚がタモに入ってくれることが結構多い。ハリ外しの手間も必要ない最速の取り込みである。この技を「変化抜竿霞捕り(ヘンゲバッカンカスミトリ)」と名付けていついかなる時でも決められるように修行してみたい。
次に玉浮子問題である。
「川釣りの極意」でお薦めの中通し玉浮子を使った単純明快仕掛けは絡まないし玉浮子の安定した浮力は流れにもまれても見やすいしで実に良い塩梅なんだけど、中通しの玉ウキの良いのがあんまり売ってない。シモリ玉の5号か6号あたりでも良いっていえば良いんだけど、木製のちょっと重さのあるヤツは風にも強くて見た目も可愛らしくてコレまで玉ウキは樹脂製足つきのいわゆるセル玉ウキこそ至高と思ってたけど、木製中通し玉浮子を使ってみるとコレこそが探し求めていた玉浮子だと思えるぐらいに味わい深さもある浮子なのである。
買ったのは九州の浮子屋さんがつくってる「ギンナンうき」というブランドのだったけど、渋谷のでっかいJ屋にも直径20ミリぐらいの大きめのしか置いてないし、通販で探しても見当たらない。
まあ、なきゃ作るか?といういつもの流れで作ることにした。とはいえ木の丸棒買ってきて真ん中に穴開けて削って球にするのは正直めんどくせえ。たしか穴の空いた玉が東急ハンズとかで売ってたし探せば欲しいサイズもあるだろう?と通販で探してみると、あるどころか既に着色までしてあるのが各種売っている。
民族衣装っぽい服装と合わせる首飾りとかの素材として「ウッドビーズ」という商品名のようだ。個数が50個入りとか多いのばかりで小数売りを探すのにちょっと手間取ったけど、まあパソコンの前でカチカチやってるだけなのでたいした手間でもなく、木目をいかした黄色16ミリ、オレンジ14ミリを購入。穴はそのままだと3ミリほどあって道糸止めるのが難しいので、3ミリの浮子ゴムパイプを買ってきて突っ込んでウレタン接着剤で固定。するとこの浮子ゴムの穴にちょうどヘラ浮子製作に使ってた竹串があつらえたようにはまってくれて、ゴム使ってるので道糸にも優しく実に使いやすく仕上がった。ウレタンどぶ漬け1回して頭のほうに蛍光オレンジを塗って完成。プカプカとゆるふわに流れていく玉浮子の様はまるで木の実のようで趣があってよろしい。
写真の右真ん中へんの3個が完成品なんだけど「ナマジさん、はみ出してるゴムぐらいきちんと切って仕上げたらどうなの?」と思うかもだけど、そういう仕様なんです。ライン止め用の竹串の長さをはみ出してるゴムぐらいまで来るようにして頭の方は引っかからないように使用時押し込んでおく。そして外す必要があるときにはゴムのところを押して竹串の頭を露出させて摘まんで引っ張って抜くのである。
シモリ玉とか固定するのに、爪楊枝方式だと抜けたりしやすくかつラインを傷つけそうで、ゴムとか毛糸とかを引っ張り込む方式は仕掛け作るときに面倒くさいので良い方法がないかとは思っていたけど、たまたま買ったウッドビーズの穴が大穴だったので詰め物的に噛ませた浮子ゴムが問題をさらりと解決してくれた。特許でも取って売り出そうかしら。まあいいや真似してもらって結構です。でもこの方式の中通し玉浮きは今後「ゆるふわ玉浮子」と呼んでいただけると考案者冥利に尽きます。すでに玉浮子以外の浮子で同じ方式の既製品ありそうだけどね。
てな具合で今日の夕方出発を控えて盛り上がってます。
現地いまいち増水の引きが悪くて、昨日またちょっと降ったこともあっていつものポイント釣りになるかどうかと心配される状況のようですが、そんなもん増水時には増水時の釣り方ってあるはずで、アユ釣りにおいてそれがどういうものか知らないっちゃ知らないんだけど、イワナ・ヤマメやオイカワの釣りで学んだことを応用していけば自ずと答えにたどり着くはずである。増水したら、「渕尻」「流れの裏」「支流・小河川」ぐらいがアユでも効きそうな要素だろうか?季節も良いし良い釣りになるに決まっている。
遠征前はだいたいそうだけど、今回も絶対釣れるという根拠のない自信が満ちあふれている。そんな甘く考えていて良いのだろうかとか思わなくもないけど、これでいいのだ!(©赤塚先生)
2018年7月7日土曜日
川デ川鵜ガ魚ヲ食ラウ、ナニゴトノ不思議ナケレド
アユ釣りやヘラ釣りにおいて、放流した魚をカワウが食ってしまうので問題である、「駆除してしまえ」という乱暴な意見を目にするにつけ、色々思うところではあったけど、基本シーバス野郎で江戸前小物釣り師の私にとっては人様の釣り場の話であり、人んちの事情にエラそうにしゃしゃり出てあれこれ言うのもはばかられたので、あんまりネチネチとは書かないでいた。「鳥もいないと寂しいじゃないですか?」ぐらいのポヤンとした書きぶりでお茶を濁してきた。
でも、ヘラ釣りもアユ釣りも始めてしまって、人様の釣り場の話ではなく、自分の釣り場の話として当事者意識を持って、正々堂々と腹に据えかねていたことを書かせてもらう。
「カワウが魚食うのは昔っからそういう商売の鳥だから仕方ねえだろ!」
もっと構造的な釣り人が犯した罪をあからさまに書くなら。
「どこでも、いつでもホイホイ釣れる釣り場が欲しくて、適正量とか関係なしに成魚放流ジャブジャブして、トロくて逃げもしないような養殖魚で餌付けしてカワウが産めよ殖やせよするの手助けしたのは漁協も含めた釣り人側だろうが!テメエの撒いた種じゃねえかよ!」
ということである。いやなら成魚放流止めりゃ良いジャンよ、カワウ可哀想だけど餌足りなくて数減るに決まってるでしょ。
近年のカワウの増加はバカみたいな成魚放流の量と相関関係があるような報告があったはずである。元ネタ興味あったら検索でもして欲しい。
そりゃ、釣るときにも釣りやすいんだろうけど、障害物少ない開けた水域に、警戒心も薄れた池育ちの魚大量にぶち込めば、天然育ちのすばしっこい魚がいる障害物の多いややこしい場所じゃなくて、そっちで餌食うわナ。オレがカワウでもそうする。実際カワウそうしている。それをカワウが多くて釣りにならないって言わなきゃならないぐらいになっても、まだなお天然自然の鳥も虫も植物も動物もいる川にアホみたいな量の成魚放流の方がおかしいとは気付かないのか?川で何を見て魚釣ってるんだ?お高い高級ロッド様の曲がり具合の美しさぐらいしか目に入ってないんじゃねえのか?
アユ釣り始めるにあたって行けそうな距離の川の情報調べてたら、「漁業権を持つ内水面漁協としては「増殖義務」があり、放流は義務である」とかホームページに書いていたりしてガッカリしたけど、今の時代になにいってんだとしか思えない。河川の魚たちのもともと持っている増殖力を使って川の魚を増やすのが本筋で「ダムできちゃたので放流しないとアユいません」とか「都市近郊なので秋までに魚が釣りきられて自然繁殖無理です」とかいうときの、次善の策というか「ごまかし」で放流して増殖するという手法がとられるというのが本来で、どこもかしこもアホみたいに放流してカワウなんていう高次捕食者の生態やら生息数やらに影響あるぐらいに全国的に成魚放流だらけってのは度を越しているのは明白。
べつに「増殖の義務」を果たすために、産卵場の造成やってみたり、魚釣りきられて困るんなら禁漁期や禁漁区増やして見回りやらの強化に金使っても(ホントにやるとかなり金かかりそうではあるけど)、今時それが「増殖の義務を果たしていない」なんて表だって言えるバカはさすがにいないと思うけどな。それで魚が少なくても天然モノしかいない釣り場っていうので魅力を感じる釣り人もいれば、ぶっちゃけ放流に金使わなくて良い分入漁料は安く設定できるだろうから、そういう面でも魅力となり得るんじゃないだろうか。バカみたいに金かけて成魚放流しているから「アユの入漁料は高い」というのが常識ならそれが因習でなくて何だと言いたい。
成魚放流で追いの良い琵琶湖産鮎をガンガン入れて解禁直後から爆釣で釣り人に大人気ってのをやる川が中にはあってもまあ良いと思う。そういうのが好きな人はいるだろうし、そもそもダムで天然遡上がなくなったとか、放流でもしないとアユいなくて寂しいというのは「だったらダムつくらせてんじゃねエ」ってまでいうのはちょっと厳しい言い方かなとも思う。でも、そうやってどこでもダム作らせてどこでもアホみたいに放流して、天然遡上をメインに放流は補助的に行っているなんてのが逆に珍しいというのが、漁業権のある川の実態である。そろそろ無理が生じてまっセ、色々とね。
高度経済成長期からのレジャーの需要増に応じて「魚が沢山釣りたい」という釣り人の切なる願いも聞いて、漁協としては沢山成魚放流してきたんだと思う。全否定するつもりもないし多くの釣り人を楽しませてくれてきたと評価もできる。でも景気もボチボチな時代に入って、鮎の友釣りとか道具がこんなにクソ高くなって技術もマニアックになった時点で口閉じられなくなって滅んだ剣歯虎のように滅びの道を歩んでいるようにしか見えない。今やってる鮎師がアユタイツ履いて川に立てなくなるぐらい足腰ヨボついて撤退したら新規参入者なんて多くないので廃れる。
そうなったときに入漁料が減って金が無いから増殖義務果たせません。では、義務が果たせねえんなら権利なんか引っぺがされる。そうなったときに、金は使ってませんが、魚の量を把握して産卵数や稚魚数が適正に増えるように産卵場造成や、産卵期の禁漁期間延長とかで対応しています。っていえるようにしておいた方が良いよと、老婆心ながら書いておく。
そういう外に出して恥ずかしくない、河川の管理者として漁協が機能していくなら、多分モノの分かった釣り人は来て普通に釣って楽しんでいくだろうし、川が酷い目に遭いそうなら声を上げてくれるんじゃないかと期待できる。
いまの、成魚放流ジャブジャブの釣れれば良いだけの釣り場を疑問も持たずに支持している釣り人層は、べつに河川が真っ直ぐになって鳥も居なくても、なんか木でも生えてて自然っぽい背景が後ろにあって、魚が釣れればそれで良いじゃないかとか思いそうでおそろしい。そうであれば川が真っ直ぐにされても声もナニも上げないだろう。
まあ普通は、ちょっとヘンだとは思ってるけど、釣り人の多さとか考えると必要悪だよね。ぐらいは思っていて欲しいんだけど鮎師の方どうだろうか?
今後10年単位で考えると釣り人の多さは解消していくだろう。だって人口減るんだから。その時に天然遡上の釣り場が残ってないと放流できなくなってくるからアユ釣りできなくなるよ、と心配しているところ。ていうか釣り人が文句も言わないようになった川はコンクリで固められる。
近所の川には漁業権もなく漁協もない、でもアユは天然遡上がある。もちろんこのアユは都道府県の内水面漁業調整規則に定められた禁漁期間とかは守る必要があるけど、誰でも自由に釣って良い。そして、鳥も動物も魚も食べて良い、なんて人間がおこがましく言うまでもなく、勝手に食っている。それをダメだとする理由は「オレの釣るはずの魚を食われては困る」という釣り人の妄言にしかない。
そういうタワゴトを言ってる釣り人は、自然の中の魚を釣るのには当然の条件として、魚は泳いでいるうちは誰のモノでもなく、鳥が食うのも含めて「自然」なことで、それを見越して、鳥とかに食われないうちに釣るか、鳥が食い落としたのを釣るか、いずれにせよ鳥が魚を食わないようにするというのは、酷く反自然的であることを認識すべきである。
ヘラ釣り始めて、自転車で行く「管理池」でカワウの食害がよくボヤかれている。でももともと砂利取った穴に水がたまった池だとしても、そこに鳥が来て虫が飛んでヘビまでいるからの楽しさってのがあって、カワウに食われて数が減る分大型に育つというのなんて、この釣り場の大きな魅力で、少なくて難しいのを何とかする面白さも含めて楽しめば良いと思っている。人工の池でも数釣れなくても面白いと思う部分はあって、カワウも絡んで複雑化した要素の中で自分がどう戦略を練っていくかってところが面白いのにと思う。カワウ目の前でヘラブナ咥えてるのを見るとムカつく気持ちは分かるけどさ、でもそういう難しくする要素も適当にあった方が面白くて、それが嫌なら魚一杯の「箱」や「公園池」に行けば良いんだし、カワウが一所懸命操業してるのぐらい見逃してやってくれよと思う。
近所の一番近い釣り場のアユも、先日カワウに見つかってしまった。それ以前からサギとは競争して釣っていて、魚は育っていきつつ数は減っていく。そんなの当たり前だと思ってるから、カワウやサギを駆除したいなんて全く思わない。「君らにはできない人間様の技術で負けずに操業するから、一緒に今年はアユの遡上量が多いのを堪能しようぜ。」ぐらいに思って、「強敵」と書いて「とも」と読んで良いぐらいの親しさを彼ら彼女らには感じて釣っている。
カワウが食う分ぐらいは「自然」なことで目くじら立てるべきでない。「自然」じゃないぐらいカワウが増えているとしても、それは釣り人自体が招いたことであり、責任をカワウになすりつけて、命を安易に奪うな。というのが今回私の書きたかったことである。
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