それが消えてしまわないうちにたどり着かなければならない。
ナニを書き始めたのか読んでる人ポカーンかも知れないけど、今日は釣り人にとっての楽園とはどこにあるのか?どうすればそこにたどり着けるのか?あたりについてひとくさり書いてみたい。ご用とお急ぎでない方はお付き合いいただけると幸い。
一般的に楽園っていって思い浮かべるモノには大雑把に分けて3種類あると思う。それぞれが混じり合ったり、宗教的哲学的概念だったりは解釈の違いもあったりするだろうけど、あんまり気にしないでナマジ的解釈で分けさせてもらうと、「主に死後の世界にあるとされる条件付きで行ける場所」「概念上の理想郷」「ここではないどこかにある良い所」に分かれるのかなと。
1つめの「主に死後の世界にあるとされる条件付きで行ける場所」である「楽園」は、いろんな文化や宗教にあるんだろうけど、最も端的な例は「天国」で、ほかにも北欧神話の「ヴァルハラ」、イスラム教系のニザリ教団だかの「秘密の園」とかもそうだと勝手に分けて例としたい。良き行いをしたものは死後天国に召される。パワーアップキノコを食べて無敵化(ベニテングダケ食ってラリって戦うヴァイキング達の「狂戦士」ぶりがいわゆるバーサーカーの元祖らしい)したりして勇敢に戦ったモノは戦乙女に導かれヴァルハラにたどりつける、とかぶっちゃけ宗教側、体制側がいうことを聞かせるためにでっち上げたエサであり、良き行いをすることは、生きてる間に良き見返りがあるだろうから悪かないんだろうけど、それにしても死後の世界なんていう有りもしないだろう餌で釣られるのはゴメンだと思うので、天国もヴァルハラも釣り人の目指すべき楽園たり得ないと思う。良き行いをして良く闘うべきだとは思うけどね。
ましてや、大麻(ハシシ)とオネーチャンで釣って、「秘密の園」に戻りたかったら敵を殺してこいという、「アサシン(暗殺者)」の語源にもなったような薬漬け洗脳などまっぴらゴメン勘弁してくれな話だ。
バーサーカーとアサシンで思い出したけど、アーサー王伝説の「アヴァロン」は死後行く楽園としては説教臭くもなく抹香臭くもなく詩的でマシな気がする。アーサー王じゃないから行けないんだけど。
2つめの「概念上の理想郷」は、悟りを開き心身共に苦しみから解放された境地「極楽」とか、現実のちっとも楽園じゃない世界に対比させるためにトーマスさんだかが考えた「ユートピア」とかで、直接的ではないにしろ釣り人も、ちっとも楽園じゃない、環境は悪くなるし魚は減るしゴミは目も当てられないという現実と対比させて、じゃあどういう釣り場が楽園なのかというのは考えてみるべきだと思うし、悟った釣り人とかいうと「魚が釣れなくても一日自然の中で楽しめれば幸せなんだよ」とかヌルいことを言い出しそうではあるけど、そういう野狐禅じゃない、本当に悟った釣り人、魚も含めたこの世のすべてのうつろいを感じ取り、釣るも自在、釣らぬも自在という境地は目指しても良いのかも知れない。
でもまあ、釣り人が目指すべき楽園は、南米のどこかにあるという、幻のように消えては現れる黄金の都エルドラド型の「ここではないどこかにある良い所」ではないだろうか。釣り人に限らず古今東西ホモサピエンスが生まれてから滅びるまで、そこを目指して旅してきたからこその、今の人類の繁栄というか、どこにでもいやがってどこででも奪い尽くしたような末期的なていたらくがあるんだと思う。
どんな民族、文化にも「ここではないどこかにある良い所」としての楽園の伝説やら民話やらはあって、すぐに思いつくだけでもエルドラド、ニライカナイ、須弥山、桃源郷、ティル・ナ・ノーグ、エチオピア、ジパング、シャンゼリゼ、カゲロウの山とかごまんとある。
これらの楽園は通常の手段ではたどり着けないとか、とても困難を伴う道のりの果てにあるとかされていて、実際に尾ひれがついて「楽園」とされた遠い異国が実在したりすると、コンキスタドールに悲惨な目に遭わされたアステカとかインカとかの、エルドラドの元ネタだっただろう人々に降りかかった悲劇が繰り返されてきたんだろうと想像に難くない。コンキスタドーレス側から見たら「ついに楽園にたどりついた、さあお宝は我らのモノだ!」という喜びでしかなかったのだろうことも想像に難くない。ジパングのネタ元である我が国が適度に海で大陸から離れていて、元寇の時に吹いたという神風の事例にみられるように歴史的に酷い略奪やらからは逃れられてきたのは幸運であったように思う。
ただ、「ここではないどこかにある楽園」のは多くは実在せず、迷い込んだり、何十年に一度だけ開く門とか特別な条件を満たすと行けるような、現実離れしたいかにもなおとぎ話的要素を持った場所とされているように思う。
このタイプの「楽園」こそが釣り人の求める楽園だろう、と書けば察しの良い釣り人なら既にピンときているのではないだろうか。
沖縄のガッチリ潮が良く引くときにだけ上に乗って釣りとか貝拾いとかが出来る「チービシ」という瀬で釣りをしてきた先輩が「沖縄の、海の向こうにあるニライカナイって、潮が引いたときだけ現れて魚やら貝やらの恵みをもたらしてくれる干瀬が発想の元にあるって感じたヨ」といってたけど、たしかに特別な条件の時に海の底から現れる楽園というのはいかにもな感じだ。
水の中の獲物である魚を釣るには、潮の満ち引きを始めいろんな条件が重なって、はじめてその釣り場での釣りが成立する。ただその場所に行けば良いということはほとんどないことは釣り人の皆さんならよくご存じだろう。
逆に、魚ッケも反応もなんにもなかったような場所が、ちょっとした条件が整った瞬間から、どこにいたんだ?というような魚が湧いてきてバコバコと釣れ始めるなんてことも珍しくはない。
東北では、とあるダム下流がダム放水時だけ現れる楽園だった。崖を降りるためのロープを張ったルートが既に工作済みで、釣り人入っていることは間違いないんだろうけど、全然魚ッケなくてというか、流れる水量もチョロチョロで、わざわざロープ伝って降りてくるような価値ないなと思いかけたんだけど、サイレン鳴って放水始まって「これはやばい上がらなきゃ」と思うまに足下も水に浸りだし増水し始めると、なにかそこら中で水面でバシャッとかやっている。ロープまですぐたどり着けるところまでヒヤヒヤモノで撤退完了すると、今度はスケベ根性がわいてきてルアー投げてみたら、尺クラスのイワナがバンバン食ってくる。よく見ると水面死にかけたワカサギが流されていく。ダム放水に巻き込まれた瀕死のワカサギをイワナが襲いまくっているようだ。焦りまくってバラしまくったけど何発かは獲った。夢よもう一度と同じ場所に何度も行ってはみたものの、今と違って河川水量だののネット配信とかなんてない時代だったから、いつ放水してるのか分からず二度とその楽園にたどり着くことはできなかった。
九州では、とあるゴロタの浜、ゴロタの岬が潮が引いて現れる時間帯と夕まずめ朝まずめが重なり、さらに向かい風で波がそのゴロタの岬にあたると、60、70中心の良い型のシーバスが超浅場で背ビレ出してルアーを襲ってくる楽園がそこに出現した。秋の良い時期に時化がくると水産関係の仕事は開店休業のことも多く、休みとって「楽園」が現れるのを待つのももどかしく、引けば現れる「楽園」への道なのに、まだ潮が高いうちから立ち込んでいまかいまかとルアー投げてたのも懐かしい。
最近の事例なら、テナガノッコミポイントなど、テナガの産卵期以外にはエビなんて居ないような場所で全く釣り人もいないけど、テナガが遡上し始めると、数少ない浅場に転がるショボい障害物からはみ出すぐらいの数のテナガ達がひしめきあうテナガの「楽園」となる。東京湾に注ぐ河川の小物釣りとか、高度経済成長期に一旦ダメになった河川なので釣り場としての歴史が一旦途絶えていて、そこが復活しつつあるのであまり気付かれていなくて、正直言って早い者勝ち獲ったモノ勝ちの状況じゃないかと感じている。
という感じで、釣り人のめざす「楽園」はある日突然、多くは理由も分からないまま現れては消えていくのである。
キリバス共和国のクリスマス島は「釣り人天国」といって良い素晴らしい「楽園」だけど、密かに楽園を楽園たらしめている理由の一つに、週に1便しか飛行機飛ばないから「滞在期間が長くなる」というのが大きく効いているように思っている。
クリスマス島でさえ、魚が釣れる日とそうじゃない日は明確にあって、外すと意外なぐらいショボい釣果に終わる。でも5日も釣りの日程があれば、一日ぐらいは魚のご機嫌が良い日が巡ってきてロウニンアジがバッコンバッコンとルアーに出まくる日が巡ってくるのである。「ここは多分ほとんど天国なんだなろうな」と、そういう日には腹の底から実感できる。
そういう「楽園」にはどうしたら釣り人は行くことができるのか?
ロッドケース片手に世界を放浪すべきだろうか、腕の良い案内人を高額な料金積んででも頼むべきだろうか。
もちろんそれも一つの方法だと思う。
ただ、遠くに行くにはそれなりに手間暇もかかれば、情熱も高い技術も必要で、ただ遠くに行けば良いって単純なものではない。
その点、良い案内人を頼むのは誰にでもお薦めできる。お金があれば良い選択だと思う。ロッドやリールのグレードを落としてでも良いガイドや良い船頭に払うお金を用意しておいた方が良い。でも、釣り人としては自分で「楽園」の現れる条件を解き明かして、その地にたどり着きたいと思うだろうから、そのあたりはやや物足りなく感じるかも知れない。ボコスカの爆釣を楽しみつつも「ゆうてもコレ船頭さんの手柄よネ」と冷めた自分がいるときもある。とはいえ、遠征先の釣りとかでは案内人なしでは普通の腕の釣り人は釣りにならないので必須だろうし、良い案内人を見つけるのも腕のうちであるとも考えられる。
じゃあ自分で「楽園」の現れる条件を解き明かすにはどうすれば良いのか?
私は現時点では、「足を使って情報を集めまくる」「早い者勝ち」「難しい条件を読む」が大事な要素だと思っていて、特に最後の「難しい条件を読む」が最近よく思うことなので書いてみたい。
「足を使って情報を集めまくる」は、もうどうしようもない基本の基本で、この情報化社会でネット上でもありとあらゆる爆釣情報とかが検索可能なんだけど、だからこそますます「足」で現場に行くことが大事になってきているとつくづく感じる。今自分が持ってる「楽園」とまではいかないにしても美味しい釣り場は、自分達の足で見つけてきた場所ばかりになっている。
ネット情報はハッキリ言ってガセネタも多くて、実際に現場に通ってそれがガセかどうか、どのくらい信じられるかが分かってないと、沢山の情報が溢れているが故に逆に全く使い物にならない。
そして次の「早い者勝ち」に関連していくんだけど、「楽園」にも定員があったり先着何名様とかの制限があることが多い。
近所ポイントのバチ抜けシーズンとか、だんだん釣り人増えてきて去年までは一番下流側に入っておけば広々と釣りできたけど、今年など盛期は満員御礼に近く定員は一杯になりつつある。今から参入しても、いろんな意味でいい席は空いてないよという状態。
とある釣り仲間が「「何とかイング」とかいって釣道具屋が専用の道具売り始める頃には、その釣りはほぼ終わってますよね」といってたけど、確かにそんな感じだ。
「楽園」の旬は意外に短いことが多い、カザフスタンまでヨーロッパオオナマズを釣りに行ったけど、今冷静に考えるとあのタイミングでも少し出遅れてたんだと思う。旧ソ連の体制が崩れてカザフスタンが独立してしばらくして、ヨーロッパからの釣り客を受け入れ始めて、ものすごい大型が釣れまくって、日本人でも「先着○名」に間に合った釣り人は良い思いをしたけど、ゴールドラッシュと同じで、そういうのは「儲かるらしいぜ」とか聞いてから腰を上げても既にみんなさらった後で遅いぐらいなのである。
まだどこにも出てない情報をくれる情報提供者やら、自分で探すのが結局頼りになって、ネットで拾えるような情報は既にイキが悪くて「楽園」にはたどり着けないと思っておいた方が良い気がする。
最後の「難しい条件を読む」が、自分の中では今重要な要素になっている。シーバスで言えばバチパターンも、条件が合えば「楽園」が出現するんだけど、割と法則性がキッチリしてて比較的読みやすくて、今時バチ抜けのポイントには軒並み人山が立つようになってきている。
それでも、安定してバチが抜けるポイントより抜けたり抜けなかったりが読みにくいポイントの方が、ハメると競合する釣り人もいない中一人勝ちできるので攻略しがいがあると思っている。ダイキリさんと行くC川の上流側のポイントはそういうポイントで、前回私がセイゴ1匹という渋い結果に終わった数日後にダイキリさんはリベンジマッチに臨んで数釣って、ポイント見つけてきた本人だけあってさすがという感じだった。次回は私も読み勝ちたいところ。
でもって、最近Kさんと探ってる近所ポイント含めたシーバスの稚魚系のパターンが、ボイル見つけてもなかなか食わせられなかったりして、難しいンだけど、難しくてあまり釣れていないので、それ程釣り場に人山状態で釣り人が並んだりせず、良い感じに攻略が進められている。
昨秋にも1,2匹づつちょぼちょぼ釣りながら思ってたんだけど、大きな群れが居着いてバコバコ釣れてしまったりすると、悪くはないんだけど、結局人山たっちゃって釣りにくくなって自分の取り分が減るので、短期間で来て居なくなるのを通い続けて捉えるか、むしろ数少なくて難しめの状況を読んで、他人が釣れないのに自分はギリギリ釣れる魚を釣っていくっていうのが、結局安定して良い釣りできるんじゃないかと感じているところである。
さいわい近所であれば誰よりも通って、いろんな細かい情報を把握しながら、たまにしか来ない釣り人を出し抜くようなことは可能だと信じている。
ただ、上には上がいるモノで、さすがにここは誰も狙ってないだろうと思っていた、葦ッパラにけもの道作って干上がったゴロタの上に降りる釣り場に、対岸上流から川渡ってやってきてる強者が居たのには驚かされた。
「楽園」への扉を開こうと思ったら、そのぐらい大胆に人がやらないようなことも時にやってみることも必要だと思う。加えてその場所に居残りのシーバスが居るはずと信じるに足る根拠を地道に集められてなければ、そんな釣りはできないはずで、そのあたりもなかなかにヤル釣り人であった。信じてなければカゲロウ山には登れない。
それだけ生き馬の目を抜くような厳しい首都圏の釣り場事情の下でも、内房の運河の釣りのように、場所の他にもややこしい条件とかがあって、かつ普通じゃ思いつかないような意外な釣り方だったり微妙なコツがあったりすると、ほとんど他の釣り人を見かけずに独占できるようなことも経験しているので、とにかく釣り場で魚はもちろん、餌になる生物から鳥や地形や、街なら無視できない人的要素やらすべてのことを、釣りにどう影響があるのかないのかとか考えに考えて、時に釣り仲間とあーでもないこーでもないと議論を深めながら、そして釣ってみてその結果を踏まえてまた考えて、というのが自分だけの「楽園」の扉を開く鍵になるんだと思っている。
誰でも簡単にたどり着けるところに「楽園」があったとしたら、すでにお宝は持ち去られているに違いなく、どんなに苦労してたどり着いた「楽園」でも、自分がたどり着けるなら他人も遅かれ早かれたどり着くし、一定の条件しか現れない「楽園」ならそもそも次にまた同じようにたどり着けるかはあやしいモノである。
逆にいくら距離的に近くにあったとしても、多くの人が見落としていたり、技術的に絶妙を求められるような難しさがあったりすると、意外なほどの足下に「楽園」が気付けばぽっかりと入り口を開けていたりするのである。
だから釣り人はまだ見ぬ「楽園」を追い求め続けなければならないし、「楽園」にたどり着けたならば、取れるときに取れるだけのお宝をぶんどっておかなければならない。次の機会などあると思うなというところだ。いつでも準備は怠るな!
という感じなんだけど、本当は我々釣り人が「楽園」を作っていくのが理想なんだろうなと思う。
クリスマス島は遠くて飛行機の便が少ない(=釣り人が少ない)という条件にも守られているけど、外国人には珊瑚礁内で釣った魚の持ち帰りが禁止されているなど、魚を守るためのルールもあって何十年と「楽園」であり続けている。
我々釣り人が自分たちの釣り場を「楽園」たらしめんと、高く志を掲げて、あんまり欲をかきすぎず、魚たちを守って、環境に悪いこととかには蹴りを入れて、いろんなことを学び実践して「楽園」を育てることができたなら、魚の大きさとか数とかどうでも良くなるぐらいに、気持ちの良い面白い釣りができると夢想するのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿