不調である。釣りの方は実はそれ程気にしてなくて、今は不釣でも腕を上げつつある過程であると思えていて、ほっときゃそのうち釣れ始めるだろうぐらいにのんびり構えている。とまでは達観できてないけどまあなるようにしかならん。
危機的に調子悪いのは読書の方で、昨年末ぐらいから特に小説が読めなくて、ちょっと読み始めてもすぐに集中力が切れてしまう。マンガとラノベも今一で長時間読めないけど何とか出た新刊ぐらいは読み進めている。読みたくて、ある程度面白いだろうことが予想できる本が端末に落としたまま何冊もたまってしまって積ん読状態。
このまま小説が読めなくなったらどうしよう?積んであるのはもちろんこれからも面白い小説なんていっぱい書かれるはずなのに。
なにか調子を取り戻すいい方法はないだろうか?
一番良いのは、ページをめくるのももどかしく読み進めざるを得ないような一気読み系の読まずにいられない小説を読む。と、考えた。読まずにいられないんだから読めるだろう。
でもそんな小説あるんならとっくに読んでるって話で、簡単に見つかるわけがない。
ンンッ?とっくに読んでるって?だったら読んだことあるやつをもう一回再読すれば良いジャンよ。と思い至った。
小説を読む楽しさを知ったのは、中学生ぐらいころだったように思う。以降、最近はマンガの比率が増えてて読む量減ったけど、よく読んでた頃は年間100冊ぐらいは読んでたと思う。面白いと何周も再読したりするので単純に100冊かけることの読んだ年数ではないにしても千をくだらない小説を読んできたはずで、その中でもっとも面白い小説をとなると選ぶだけでも一苦労である。
今まで読んだ中で最高の小説をと考えると、「人間失格」「夏の闇」「ザ・ロード」「アラスカ物語」「コインロッカーベイビーズ」「新興宗教オモイデ教」「1984年」「老人と海」「水域」「勇魚」あたりがぱっと思いつく。
このあたりからも既に傾向と対策が透けて見えて、なんというか文学でもロシア英国あたりの教養の香り漂う作品じゃなくて、SF系と無頼派というか穀潰し系というか、お行儀の良くない方が好みのようである。あと、やっぱり海が好き。
最近の作品だと「沼地のある森を抜けて」「パンク侍、斬られて候」とかすばらしいと思った。前者はSF臭というか科学の臭いがするし後者はタイトルからして無頼派で格好いいし作者も格好いい。
「自伝的青春小説にハズレなし」は本読み仲間のケン一の格言だけど「青春を山にかけて」「早稲田三畳青春記」とか確かに名作めじろ押しだ。
あと気が狂ったように一つのことに打ち込む人間の業を書いた作品というのも胸に刺さってくる。「鮎師」読むと他人事とは思えないし「世界ケンカ旅」の超絶っぷりは痛快至極。
でもまあ、面白い最高の小説っていったら、私にとっては中島らも先生なんである。
よし、久しぶりにらも先生の小説を読もうと思って、やっぱり「今夜、すべてのバーで」だろうなと、何度目になる再読か分からないぐらい読み返しているけどまた読んでみた。
面白い。最高。
さすがに徹夜一気読みとは行かなかったけど、3日ほどで読了。
人生最高の小説は現時点では「今夜、すべてのバーで」でゆるぎない。
なにが面白いって、まあ読めば分かる人は分かるだろうから読んでくれなんだけど、今回改めて唸らされたのは、言葉遣いの感性のどうにもならない趣味の良さで、作中でも触れられてるけどダダイズムやシュールレアリズムの作家や詩人が好きで愛読していたというあたりがしのばれる、退廃的で醜悪なのに美しく尊さを感じさせる流れるような言葉の連なり。
らも先生のそのへんの言葉選びの秀逸さを端的に例示するなら「永久も半ばを過ぎて」という格好いい小説の題名だけでどんぶり飯おかわりできる。
ネットで一番格好いい小説の題名は何かという話題になったときに「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」とかの海外SF勢が席巻する中でも必ずといって良いぐらいに上がってくる。
大槻ケンヂ先生もエッセイでこの題名について激賞していた。
これで中身がショボければしょうもないんだけど、もちろん中身も面白い。確か若い頃のケン一が読んだあとに「オレも小説とか書けるようになれたらなと思わんこともないけど、こういうの読むと無理やと思うな。上手すぎる。」と言ってたように記憶している。
オーケン先生に至っては、らも先生の文体を盗みたくて、小説一冊丸々書き写したそうである。後にらも先生本人に「大槻君、僕の小説お経とちゃうねんで」とたしなめられたそうである。
まあ、そのぐらい素晴らしく、人間失格系のひねくれた人間には堪えられない妙なる響きの言葉を紡ぎ出しやがるんである。
もともと広告屋のコピーライター出身で、言葉一つ一つの吟味には気合いが入っているように感じる。そのあたりは開高先生とも共通点が多いようにも思う。
例えば対義語を並記する文体とか似ているといえば似ている。
ただ開高先生の言葉使いは、「静謐にして豪壮」とか、文豪らしく重く堅く「豪奢」な感じがする。なんというかほのかに漢詩の匂いも漂ってくる。
対してらも先生の言葉遣いは詩を感じさせる。
今回読んでてうまいなと唸らされた表現に「天使の翼と悪魔の羊蹄を持った女」というのがあったけど、女性の内包する矛盾した二面性を表現するのに天使と悪魔を持ってくるのは、さらに天使について翼を持ってくるのはどこの馬の骨でもできる。
でも「悪魔の羊蹄」は書けん。
間抜けなら「悪魔の牙」とか陳腐なことを書くだろうし、頑張って「悪魔の顎(アギト)」でも中二臭いだけだし、なんからも先生を上回るような格好いい言い回しがなかろうかと考えても「悪魔の尻尾」とおちゃらけて滑稽みを出すのが精一杯な感じである。
悪魔といって、三つ叉槍を片手に尻尾ぶらぶらさせている今時な悪魔じゃなくて、悪魔崇拝のサバトで呼び出すような、頭と下半身が山羊の本場欧州産の本格的な悪魔を連想させるのに「ひずめ」はこれしかないという言葉だと感服する。悪魔崇拝のはびこるような時代の欧州の退廃的な文化の香りと半獣の悪魔の不気味さを表すのに、逆間接の山羊の脚を持ってくるのは、傑作SF「ハイペリオン」の中で巡礼者の一人である詩人が脚を山羊の脚に改造しているというのと相通じるものがあり、その山羊の脚でも象徴的に一言で切って落とすなら「ひづめ」となるだろう。
と読んでて思って、今回ネタにして書こうと思って「ひずめ」と打って変換すると「蹄」は出てくるけど「羊蹄」は変換候補に出てこない。
「羊蹄」は北海道の羊蹄山の「ようてい」か植物名の「ギシギシ」としか普通は読まないようだ。
でも言葉の流れからいって「ひづめ」と読むのが自然で、よしんば「ようてい」と読んだとしても意味としては「ひづめ」で間違ってないと思う。でも、なんで「蹄」じゃなくて「羊蹄」としたのかというのをつらつら考えてみたら、たぶんらも先生が愛読していた詩に「悪魔の羊蹄」っていう言葉があったんだろうなと、改めてらも先生の教養に憧れを覚えるとともに、翻訳者が「蹄」じゃなくて「羊蹄」としたのは、悪魔の脚が山羊の脚なんだというのも想起しやすかろうと選んだのか、あるいはギシギシの漢名である「羊蹄」の元々の語原に羊の蹄的な意味があるのを知ってて使ったか、いずれにせよこれまたその教養というか言葉選びの巧みさに感心するのである。
言葉ってことほど左様に面白くて味わい深くて、その言葉で積み上げた小説っていうのも、やっぱりどうしようもなく面白いと、最高に面白い小説を読んで再認識したところである。
これからも面白い小説を読みたい。と思うと同時に、私にも「天使の翼と悪魔の羊蹄を持った女」ぐらいの格好いい一言半句が書けたならどんなに素晴らしいだろうと身悶えする。お気楽ブロガーの身には高望みに過ぎるとしても、なんとかならんもんやろかと思う。
たくさん読んでたくさん書くしかないんだろうなと思うので、10年書いてきたし、ちょっと面白いことを書き続けて、良い言葉が降ってきたら逃さず書いちまえるようにしたい。
私もちょうど今、読み始めてもすぐに集中力が切れてしまう症状に悩まされています。歴史マニアの間で面白いと話題の新書を何冊か買ってきて、確かに面白いのに途中で投げていたり、図書館で前から読みたかった本を借りたらそれで満足したかのごとく読み切れずに返すことになったりとか。
返信削除まあちょっとずつでも読んでいくうちにそのうち調子も戻ってくるとは思うのですが・・・。
ここ10年くらいの間に読んだ小説のうち、私が最も引きずり込まれたのはやはり霧島山(加久藤カルデラ)の超巨大噴火を題材にした石黒耀「死都日本」ですね。
今だに定期的に読んではそのたびに時間を忘れてしまっていますし、遠征釣行の度に舞台となった地や火山を訪ねたり、文中で触れられていることを確かめたくて「古事記」「日本書紀」を相次いで読むことになっただけでなく、金曜日の気象庁週間火山概況を確認しなければ週が終わらないようになってます。
読んだ影響だけでここまで楽しめるなんて思いもしなかったなあ。
再読を始めれば調子なんかすぐ戻りそうですけど、この忙しい時期にまた時間を忘れるのは厳しいしなあ・・・^^
おはようございます。
削除「死都日本」読んでみたくなりました。
日本に住んでいる限り(どこでもそうか?)火山活動の影響からは逃れられないっていうのは頭に入れてたつもりでしたが、吉村昭「三陸海岸大津波」で読んでた以上のことが現実に起きて、事実は小説よりってやつを痛感させれました。
過去に起こった程度のことは当然これからも長期的に見れば起こるはずと思っておくべきなんでしょうね。