2018年3月9日金曜日

春が来る、暖かい雨の夜に


 先週の日曜夜に釣りから帰宅したら、同居人が今夜はカエルがいっぱい出てきてたと何枚か写真を見せてくれた。写真はそのうちの一枚。

 ガマ合戦の季節だなぁとカエル好きはしみじみと思う。
 ガマ合戦とはヒキガエルが早春の暖かい雨の夜とかに一斉に冬眠場所から這い出てきて池とかに集結、数日間メスを巡って組んずほぐれつゲコゲコと鳴き声も騒がしく産卵行動を行う行動である。
 都内の街中とかでも大きな公園なんかでは噴水池めがけて集結中のガマたちが池に到着する前からメスに群がってカエルのダンゴになって足下に転がってたりして、ロマンチックに夜のデートなどしてけつかる都会的なカップルが恐れおののいていたりする。
 カップルがビビるのも当然で、どこにこんなにカエルおったんじゃ?とビックリするぐらいの数が集結する。
 もともとヒキガエルって超省エネで非競争的な生き物で、餌も腹減らなかったら食べにねぐらから出て行かないってぐらいで、公園内に沢山住んでいても時差出勤していて一度に沢山のカエルが行動していること自体がガマ合戦時除くとほぼない。
 かつ行動範囲が広くって、産卵場所自体は狭い池だったりするけど普段住んでる場所は公園内に限らず公園を出た道路の植え込みだったり人んちの庭だったりいろんな所に散らばっている。
 
 我が家の周りでガマ合戦してるだろうと私が予想している場所は、川向こうの崖を登った学校の池で、我が住宅の敷地内からガマ合戦参加しようと思うと、さすがに川の垂直護岸は越えにくいので、橋を渡って迂回して崖を登って参戦していくのだろうと思っている。夜出かけたけど朝冷え込んで動けなくなったのか橋渡ったあたりの道の真ん中でボテッと落ちているのを出勤途中に拾ったことがある。車にひかれちゃ可哀想なので崖の藪に移動させておいたけどあの年彼か彼女は参加しそびれたのか参加後帰り損なってたのか。
 月曜に雨が降っていたのでガマ合戦は月曜に始まった可能性が高いと思う。うちの住宅敷地内のガマたちが日曜に穴から出てきたのは、ガマの足で1日かかると分かった上での前夜の出立だったのだろう。早く着いたぶんには待てば良いしね。
 ガマの歩みは遅いけど結構登坂能力はあるので着実に歩いて行く。ちゃんと道順覚えていて、到着時間も予想してるとしたら、両生類って言って想像するよりもずいぶん賢い生き物のように感じる。
 そういう賢さの他に、1日前に土の中で明日の夜雨が降ることを知る能力とか、湿度とか気圧の変化なんだろうけど不思議な能力だなと思う。ちょうどその翌日火曜日が冬眠してた蛙や虫が穴から出てくる「啓蟄」にあたってて、昔の人の自然をよく見ていた感覚にも敬服する。ちなみにヒキガエルはガマ合戦の後もう一度穴に潜って寝ます。オタマジャクシ達の成長と餌の関係からこの時期生むのが最適なんだけど、大人はまだ餌も少ないし寝ていたいというのを知ると、なかなかどの生き物でも親の愛って偉大だなと感心する。

 我が家の周りに棲んでいるヒキガエルは多分標準和名でいうところのニホンヒキガエルだと思っている。鼓膜が小さくて目から離れているので見分けるんだけど正直自信がない。関東には本来アズマヒキガエルが分布しているはずで、街中の公園とかにニホンヒキガエルが多いのは昔解剖用とか実験用に出回ってたのが逃げ出して定着したのではといわれている。ということで「国内移入種」だけど鼓膜がちょっと小さいぐらいの違いがどうしたってんだ、近所にガマが住んでて毎年合戦してるっていう楽しい事実の前にはそんなこたぁどうでもいい気が強くする。

 最近、ヒキガエルネタがネットでも飛び交ってて、冬眠中に頭食われたまま生きてた北米のヒキガエルの写真にビビらされたり、ミイデラゴミムシの仲間がカエルに食われても胃袋吐き出させて生還するとか、カラスがオオヒキガエルを食うとかなかなか興味深かった。
 ミイデラゴミムシの話はそんなモン当たり前じゃん何が論文にするほどの発見なのか?といぶかしんだ。ミイデラゴミムシはケツから2液性の毒霧噴射して科学反応で高温の屁をこくヘッピリムシとして名を馳せているし、カエルが蜂とか食べて胃を刺されると胃ごと毒虫を吐き出す行動もカエル好きならご存じのはずだ。
 でも、記事を読むとなかなかに興味深く感心した。ミイデラゴミムシ食われて吐き出されるまでに数十分とかかかっても胃の中で生きてて、他の似たようなゴミムシでは同じ時間で生存していることはほぼ無いので、吐き出されること前提にカエルの胃の中で生き延びるため何らかの進化適応をしているらしいとのこと。数センチのゴミムシが化学兵器で闘い胃酸の中でも生き残る術を持っているとか、なんとも生き物は不思議で面白い。ミイデラゴミムシの仲間は黄色に黒点が目立つ毒虫色で割と珍しくもない虫なので、見つけたらその屁の匂いをかいでみるのも一興かと。高温で焼き付けるので匂いなかなかとれないそうで、かぐときは自己責任でお願いします。

 オオヒキガエルを食うカラスの仲間の報告は映像付きで、周りで他のカラスがこわごわ様子見しているなか、1匹が悠々と晩餐を楽しんでいる感じだった。英国での話だったけどオオヒキガエルは外来種のはずで、欧州産ヒキガエルの食べ方は知ってても毒性の強いオオヒキガエルを安全に食べるには試行錯誤があったはずである。失敗して犠牲者が出ていてもおかしくない。なにしろ哺乳類の捕食者が少ないせいか毒蛇天国のオーストラリア大陸ではオオヒキガエルのせいで命を落とす毒蛇がいて毒蛇の方の被害が問題になっているぐらいだ。
 でもそこは鳥類どころか現生の生物全体でも上位に来るぐらいの知恵者のカラス様である。ちゃんと心得てお作法を確立して、毒の無い部分をつまんでひっくり返して、腹側から美味しいところをいただいちゃうんだそうだ。
 なぜ危険を冒してまで食べるのかといえば、多分、美食のためと好奇心に加え勇気を示すためじゃなかろうかと思う。ヒキガエルは美食家で有名だった陶芸家の魯山人も皮の処理をきちんとする必要があるけど美味しいと書きとめていて、口の肥えてるカラス様にも美味しいんだろう。仲間と情報共有するぐらいの頭の良さを持つカラス様、仲間内で毒に当たらず新しい獲物を食べる方法を見つけた個体はその勇気と知恵を讃えられててもおかしくない。それぐらいにカラス様頭が良い。

 どれも真っ黒で近所のカラス(ハシブトガラス)の個体識別はできていないけど、どうもカラスの方では近所の人間の個体識別はできているようで、私は無害認定されているのか割と近くによってじっと見つめることができる。向こうも横向いてこちらをじっと見つめている。こちらが観察しているつもりなんだけど、カラスを覗き込むときお前もまたカラスに覗かれている、ってなちょっとニーチェな感じになっている。

 カラス様の頭の良さについては、とりのなんこ先生の「とりぱん」を読むと空恐ろしくなるぐらいの知恵者ぶりに驚かされるが、先日ジョギングしてたら頭上を何十羽というカラスが飛んでて驚いた。写真今一ヒッチコックっぽさが出てなくて残念。
 大規模な渡りをするとかは聞かないのでなんで集まってるのか分からなかったけど、カラス様のことだし、きっと意味のある行動なんだろうなと部屋に戻ってからググってみると、俗に「カラスの葬式」として知られる行動らしい。
 「死者を悼む」なんていうのは、ひどく人間くさい感情のように思うけど、社会性のある動物ではわりと広くみられるようにも聞いている。ゾウが有名か?
 「カラスの葬式」については、死者を悼む感情があるわけじゃなくて、仲間の死についてその死に至った危険について情報共有しているとする説も読んだけど、そもそも「死者を悼む」なんていう感情が人間においてどうして発達してきたのかと考えたら、まさに死に至る危険についての情報共有と仲間内の結束の強化とかがあって進化してきたはずで、カラスの葬式はそういう感情の原点にあるような行動と見受けられ、そこに死を悼む感情の萌芽がないなんて、カラスじゃない人間にどうして言えるのかと問いたい。あるだろ?きっと。

 そうやって、ハシブトカラスという生き物について知っていくと、ゴミ捨て場を荒らすやっかい者で見た目も真っ黒で不吉な鳥という認識が、とても賢く人間臭い魅力に溢れる楽しい隣人という認識に置き換わる。烏の濡れ羽色の光沢ある美しさも、愛嬌のある瞳もネコぐらいはある適度に存在感のある大きさも好ましく思えてくる。
 ゴミを荒らす問題は、ゴミ置き場にネットを掛けることでほぼ解決できたとおもう。こういう現実的で具体的な方策が「駆逐してしまえ」というような現実的でもなく感情論でしかないクソな方向性よりずいぶん上出来なのは明らかだと思う。
 あとは繁殖期に巣の近くを通る人間に飛びかかるのとかの問題もあるけど、たいした実害無いしほっとけばそのうち学習して人間なんて襲わなくなるんじゃないかと思っている。彼ら賢いし巣の撤去とかは「敵認定」を受けてしまって逆効果じゃないかと思うけどどうだろう。

 生き物嫌いな都会派の人間からすれば、街なんてコンクリートで囲って清潔にチリ一つ無く管理して、余計な生き物なんていなくなれば良いと思うのかも知れない。
 でもそんなことは現実的でもなければ、生き物好きからしたら面白くもなんともない。人間だって食い物食って水飲んで排泄するなら、その時点でゴキブリだのネズミだのは寄ってくる。
 生き物嫌いでなければ、公園で緑に触れたいと思ったり庭に花を育てたいと思ったりもする。そうすると虫や鳥もやってくる。それらが沢山いればそれを狙って捕食者もやってくる。
 中には悪さをするヤツも居るだろうし、何かしらの被害も生じるかも知れない。それでも完全な駆逐なんてできやしないはずなので、その都度個々の場面で対応を考えるなりして共存を図っていくしかないと思うし、共存できると楽しい世界が開けてくると信じている。
 先日、我が家の近所にはタヌキもいると知って嬉しくなった。マンションの工事で軒下に潜り込んだ作業員の人が「こっち来ちゃダメだって出てけ!」と追い出しているので、ネコでも棲んでたのかなと思って見てたら、可哀想に首のあたり疥癬にやられて毛が抜けたタヌキがしょぼくれて出てきた。
 我が家の近所にはこれで哺乳類の捕食者が、ネコ、ハクビシンについで3種め確認である。
 ネコについてはまた改めてクドクドと書く予定だけど、タヌキやハクビシンが居たからって何がいいのか、生き物嫌いの人には全く分からないだろうけど、夜、敷地内をテッテッテッテと歩いて行く獣がいてネコかなと思って口笛吹いて挨拶したら、一瞬チラッとこちらを向いて遠ざかっていくシッポが長くて、こちらを向いた顔に白い線が入ってたときの心のときめきはどこから来るのか、自分でも理由が良く分からない。良く分からないけど多分、野生生物がご近所さんで嬉しいんだと思う。

 ハクビシンも謎の多い生物で外来種なのか在来種なのかすら確定できてないようだ。でも、屋根裏に巣を作られて糞が臭いとか、農家で果物食べられて困るとかの被害がなければ外来種だろうと放っておいて良いんじゃないかと思う。
 「移入種・外来種だから」っていう理由を錦の御旗にする社会正義の戦士どもには心底辟易しているので、なおさら天邪鬼にハクビシンともご近所づきあいしたくなる。

 何度も書くけど、外来種だからダメってんなら米食うな。特定外来生物法の考え方並びで「明治期以降に新たに移入された種」で線引きとする、っていう線引きする側の都合で勝手に引いた線で良いのなら、オレも断然勝手に線引きさせてもらう。関東の公園のニホンヒキガエルも都会のハシブトカラスも近所のネコ、ハクビシン、タヌキも等しくご近所づきあいすべき存在で、駆除だの虐めたりだのはまかりならん。根拠はオレ様の好みに合うからだ。
 オマエらが主張している「外来種だから駆除すべき」ってのは、その程度の主張と同レベルの好みの問題でしかないことを思い知れといいたい。

 「外来種=悪」という図式が、よく指摘されているように環境破壊とかの他の要因を隠す隠れ蓑にされていたり、外来種なら殺しても許されるというような命を作為的に選別するようないびつな生命倫理観に繋がったりしていて、極めて気持ちが悪い。欧米の動物保護論者における「賢いから守る」という選別と似たような気持ち悪さを感じる。それはオマエの好みだろってやっぱり思う。オマエが思う分には好きにしろだが押しつけるな。

 外来種・移入種が生態系におよぼす問題とか、個別具体的にいちいち状況が違うぐらいで、本当に難しいことが多い。
 「外来種=悪」ですべて駆除するべきですまされない端的な事例としては、外来種も含んである程度安定してしまっている生態系なり生物群集から外来種を取り除くと、当たり前だけど生物群集なりに混乱が生じる。ソースだのエビデンスだのうるせー世の中になってるけどその程度ググれカスってぐらいで論文も出てたはず。ソースってなんねコロッケにかけるヤツか、いやコロッケじゃなくてエビでんす、ってやかましわ。
 沖縄本島でマングース駆除するとか言い始めたときも「オマエ、それ生物の教科書に載ってたウサギ保護するためにキツネ駆除したらウサギ増えすぎて病気やら餌不足やらで激減したとかの二の舞になるんやないか?」と心配になった。
 実際には、マングースの減り具合と保護すべきヤンバルクイナとかの個体数を監視しながら慎重にやってるみたいで、今のところマングースがいなかったころに戻していくという目標に近づいているようでホッとしているけど、そのぐらい慎重にやらないとまずいんだってのは間違いないと思う。

 「池の水全部抜く」で外来種を取り除いたら環境が改善されて、ほらカワセミが、とかやってるのを見て心底アホくさくなった。ため池の水定期的に抜くのはため池の管理として昔は農作業の一環としてやられてたはずで、それが放置されてヘドロ状の堆積物がたまってたのを掃除するってのはライギョとか貧酸素得意な生き物以外には良いんだろうけど、そもそも護岸された都会の池で水抜いてラージマウスバスだのブルーギルだの駆除したぐらいで環境改善されるかよ、水草とかなくても繁殖できる基質産卵性でかつ外来魚駆除屋に虐められないモツゴが単一種で優先して、魚のサイズが平均して小さくなったのでデカイ魚を狙うアオサギとかが利用しなくなって、カワセミがやってきて写真映えするから喜ばれてるだけだろと思っている。

 カワセミ綺麗だし可愛いし好きだけど、じゃあ割食ってどっか新しいえさ場探しに行かなきゃならなくなっただろうアオサギとかの立場はどうすんのって話で、全体よく見て考えてからやれよと言いたい。分かったうえで、アオサギよりカワセミのほうが客呼べるからここはカワセミ一択で、という大人な判断ならそれもあるんだろうけど、分からず善行だとやってしまうのは、少なくともバスやギルにとってはとんでもない悪さをしれっと意識もせずにヤルってのは、私の好みで言わせてもらえば手ひどく間違ってる。

 「共存」って移民の問題に象徴されるように世界規模で人も物も動く二十一世紀における重要な課題だと思う。
 「共存」っていう言葉の美しさには皆抵抗感少なく、理念としてはそうなんだろうなと思うのかも知れない。お互い良い部分を持ち寄って、違いを認め合って話し合いで衝突を回避して共に利益を享受しながら、とかなんとか理想的な関係を思い描いてしまうのかも知れない。
 現実は甘くねえぜと、自然との共存、異文化との共存、ご近所さんとの共存、実際には望んでもいないのにいきなり同時に壺にぶち込まれた毒蟲たちのように、放置しておけば食いあいして強いやつしか生き残らないか全滅するような状況が否応なく発生するのに近い。
 自然との共存?そら完全に制御できるんならしてしまいたい。台風も害虫も無くてすむなら無くしてしまいたいと思うだろう。でもなくなんないし、台風で雨が来ないと飲み水不足したり種々困る。害虫も程度問題で生物群集内での役割もあるし狭い室内はともかく自然界から駆逐することはできないしするべきでもない。
 異文化との相互理解?ワシゃ同じ日本人でも原発推進するような人間とは理解し合えンのに、北朝鮮のエラい人やら無差別テロ行ってるような過激なイスラム教徒と理解し合えるわきゃない。
 ご近所さんとの共存?実は家庭菜園に撒いた種をほじくるキジバト・ヒヨドリと我が家には敵対関係が生じている。我が家の中で「テッポで撃って食っちまえ」などという恐ろしい言葉すら囁かれている。スギの木に関して、すべて伐採でもかまわないとこの時期は思ってしまう。

 「共存」により互いにより良い未来を迎えるなんて都合の良い幻想よりは、お互い相容れない者どうしが、それでも現実的な落としどころたり得る対策を考えて考えて、共倒れになることをかろうじて避けられるというのが「共存」の現実に近いンじゃなかろうか。
 なんで、悪さするカラスのためにワシらが面倒くせえし金もかかるのにゴミ捨て場にネットかけなきゃならんのや?というぐらいに、こちらが思いっきり面倒くせえ手間を掛けてやっと平穏が得られるという割に合わなさこそが「共存」の正体だと覚悟して、それでも嫌でも「共存」を考えなければならない人も生き物も物も概念でもなんでもやってくるというのが今の世界なんだと腹をくくって、自分ちの種をほじられたら怒りを込めて追い払い、カラスネットや抗アレルギー剤のような負担を強いられてでも平穏に済ませられる手法があるなら喜んで受け入れて、個々の状況を良く見極めて、自分が酷いことをしてしまっていないか、酷いことをしても仕方ないという覚悟があるか、常に問いながらよりマシな方法を模索していくべきだと思う。

 そういう諦念の先に、ガマのゆっくりとした歩みやカラスの羽の美しさを愛でる暁光みたいなご褒美もあったりなかったりするはずだ。

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