最近の情報関連の言葉で「SJW」というものがあると知った。ローマ字3文字の略語というあたりからして気に入らないが、ソーシャル・ジャスティス・ウォーリア-の略だそうな。
直訳すると「社会の正義の戦士」ぐらいだろうか。元々は言葉どおりの肯定的な意味に使われていたのだと思うが、最近では匿名のネットやなんかで、正論を振りかざして粘着的に「自分の正義」に酔ったように相手を断罪する者を揶揄して使うことが多いそうな。
いるいるそういう人、と思い当たるだろうと思う。かくいう私もそういう傾向にあると反省するところであるが、ネットという誰が読むかわからん媒体では、書いたことが残って後から検証できてしまうことや、どんな人が読むかわからないことから、ついつい揚げ足取られないような予防線を張りつつ、人目をつくような極論っぽい「自分にとっての正論」で武装してネチネチと書いてしまいがちである。
最近目につくというか鼻につく「SJW」の例を挙げるなら、「TVでの性的・暴力的表現を規制しろ」という連中やら、ちょっと前にもブログで取り上げた、何でも危険だと言って禁止したがる連中だろうか。この、ネットでありとあらゆるエロやらなにやらにアクセスできる時代にTVに乳首が出ようが出まいが青少年になんの影響があるのかというところ。「危険禁止!」連中については書いたばかりだが、危険を冒さないで何かを得られると思うなよ、と再度書いておきたい。
そういう「SJW」な人々で我々釣り人にも関係が深い連中が、最近勢いづいているのではないかと感じる。
どんな連中かというと「生物多様性原理主義者」である。生物多様性に関しての私の考え方は過去にサイトの方の「雑文」に書いているので詳しくは繰り返さないが、簡単に説明すると私の立場は、程度問題や地域毎の事情もあるだろうから「ケースバイケース」で考えていくしかない、という答えになっているようなないようなものである。
以前にも多摩川にメダカが戻ってきたと思ったら、遺伝子の型を調べたら西日本型で本来棲んでいた東日本型じゃないのでけしからん駆除しろとか言い出したSJWな研究者がいて腹が立った記憶がある。そんなもんまずはメダカが棲めるようにまでなったことを喜んでおけよと。遺伝子の型までガタガタ言い始めたらそんなモン、なんで東日本と西日本とかいう大雑把な分け方がいいのか根拠をあげてみろというところ。本来閉ざされた水域である内水面の生き物なんて水域毎に遺伝子の型やその集団が保持する多様性が違っていて当たり前のはずで、一旦いなくなった多摩川のメダカの遺伝子はもうどこのメダカを持ってきても復元できないんだって。
元々そこにいた種と同じ遺伝子をもった生き物しか存在が許されないのなら、トキなんて佐渡の最後の一羽が死んだ時点で終わったはずである。それでも大陸産のトキを使ってでも日本にトキを復活させようとしているのは、日本のトキの遺伝子が重要だった以上にトキが暮らして行ける環境、生物多様性が大事だからという判断に他ならない。私もその判断を支持する。
グローバルに人が物を動かす限り、好むと好まざるに関係なく、直接的間接的に生物もグローバルに動いてしまう。その影響を危険をどう管理していくかというのは、一筋縄ではいかない問題で、あるときは良しとせざるを得ない状況もあり、ここまでは最低限防がねばならないという喫緊の課題も生じるだろう。
それを、一刀両断に「生物多様性原理主義」で、元々そこにいた種以外は生存を認めないってやられると、おじさん困っちゃうんである。
最近目にしたニュースでいうと、ミシシッピアカミミガメが増えすぎて、ヒシモなどの水生植物が食い荒らされてしまっているので、日光浴に上がってくるのを利用した「島」型の罠を使って駆除に取り組んでいる。というのはまだ分かる。移入種が移入先で一時的に爆発的に増えるというのは良くあるケースで、その時に実害が出ているのなら対策を取らざるを得ないだろう。捕獲した亀は冷凍安楽死させて堆肥として利用しているというのも、関係者が亀を殺すことに対する普通抱くような罪悪感を当たり前に持って、命を粗末にしないように殺すしかないにしても次善の策を検討した様がうかがえる。
読んでモヤモヤとした気分になったのが、アカゲザルと交雑したニホンザルの殺処分だ。北限の猿とよばれて、温泉に入るほのぼのとした光景が外国人観光客にも人気の我が国固有種ニホンザルの遺伝的汚染を防ぐためには致しかたないという理屈はわかる。殺処分した関係者も決して楽しい仕事じゃなかっただろうと心中お察しする。それでも、見た目が人に近く親近感すら湧くサルの仲間が、罪もないのに命を奪われてしまったのである。正直、もうそういう人が持ち込んだという人為的な移動も含めて自然の出来事と考えてしまって、それによって交雑が進んで生き物が変わっていくことは、自然の進化の一つだと割り切ってしまって、今回の場合はニホンザルの純血にこだわらなくても良いんじゃないの?ニホンザルが棲んでいた環境に、ニホンザルとアカゲザルの混血種が置き換わって暮らしても実害なんてないんじゃないの。学者先生は何万年とかけてその環境に適応してきた種がその環境に一番適応的で安定的な生態系の要素になり得るから元からいた種が大事だと言うけど、生物ってビックリするぐらい変わっていくし適応力も高いよ。そもそも今の環境ってもう昔とは違ってるよね。とか思ってしまうのである。
目にして、吐き気するぐらいにムカついたのが、テレビでやってた池を干して外来魚を駆除するという「イベント」。あまりの気持ち悪さにすぐチャンネル変えてしまったのでどこの誰だか知らないが、専門家っぽい人間が、出てくる生物について「ライギョですコレは外来種駆除しなければなりません」、「これはフナ在来種です守らなければなりません」とか一刀両断にしているのを見て、これぐらい単純に物事をわりきれたら悩みなく毎日気持ちよく眠れて飯も旨いんだろうなとうらやましかった。なんにも考えてなさそう。ほぼ宗教である。宗教だから考えずに思考停止して同じことだけ言っていればいい。
ライギョなんて今時爆発的に増えた移入当初の時代はとうに過ぎて、今じゃよっぽど環境の良い場所か逆にライギョぐらいしか棲めない低酸素になるような場所にニッチに棲んでいるにすぎない。専門家様よどうか御慈悲をという感じだ。護岸された池で岸辺の産卵に適した水生植物も無いようなところで、外来種駆除したところで棲めるようになる在来種は産卵を水生植物に頼らない基質産卵性のモツゴぐらいで(ソース出すなら「外来魚駆除が溜め池の動物群集に及ぼす影響」飯田ほか2011年)、それじゃ寂しいからコイかフナでも放そうかということになるとコイは流通しているのは大陸系の外来種だし、フナも流通しているのは生産されたヘラブナなら琵琶湖産ゲンゴウロウブナ由来の国内移入種で、結局、バスとかギルがいた元の状態と違うのはやってくるのがバスマンかヘラ師かの違いくらいでしかない。原始の自然や里山的環境が貴重になっている昨今。そういう環境から外来種を駆除しようという取り組みは理解できるし必要なことだろう。でも外来種ぐらいしか棲めなくなった水域ぐらい、それで釣り人が遊ぶのを許してくれよと思う。結局声のデカい専門家は好みの魚種を趣味で守ろうとしているだけのような気がする。まあ、TVに写っていた池にはライギョもいたので専門家様が見て守るべき価値のある生態系が残っていたのかも知れない。だとしても生物多様性という正義を振りかざし「外来魚=悪」という単純なものの見方を植え付けるような思想誘導はやめてほしいものだ。
国立環境研究所の研究者五箇氏が外来種問題の難しさを解説している記事を読んだ。スズメやネコジャラシさえ稲作伝来とともにやってきた古い外来種であることや、最近、在来種だと思われていたクサガメが外来種の可能性が出てきたという研究者の間でも外来種として排除すべきか否か議論が分かれている事例などを紹介しつつ、「外来種」対策における線引きの難しさを解説されている。現在「外来生物法」では外国からの物流が飛躍的に増えた明治以来の外来種を管理するという整理をしているとのことだけど、線引きを科学的・生態学的に説明することは難しいとしたうえで、「結局、何が起こるかわからないという予測不能性こそが大きなリスクと捉えて、我々の生物多様性に対する理解が少しでも進むまでは、現状維持を図ることが最善策と考えれば、やはり、これ以上、外来種が増えることは可能なかぎり抑制するべきだと結論されるのではないでしょうか。」と締めくくっている。
生物多様性に関わる研究者すべてが狂信的な「生物多様性原理主義者」ではないと知りホッとした。まあ、宗教でもそうだけど場末の辺鄙なところほどカルト化して狂信的になってるけど、総本山とかはだいたい真っ当で穏当なものなのかもしれない。知らざるを知らずとなしたうえで、これからも理解を進めていく努力をし続けようというのは、どんな事柄にもあてはまる真っ当な姿勢で。勝手な「正義」を盲信し振り回して他人を攻撃するSJWな輩どもに爪のアカを煎じて飲ませたいところだ。
まあ戦争における「正義」なんていうのが、勝った方の論理だという酷い現実をみるにつけ、「正義」なんて実は立場次第でどうにでも転ぶあやふやなものだと思わざるを得ない。「テロ」と「革命」の違いって結果論を除いて線が引けるのか?
今のグローバルスタンダード様とイスラム社会との確執においても、そりゃ9.11で愛する人を家族を仲間を殺された人の悲しみや怒りは当たり前だと思う。でもそれで「テロとの戦争」とかいっちゃって、空爆とかでイスラムの人たち殺したら、そりゃ殺された側にも同じような悲しみや怒りがあるだろうし彼らにもそうなれば復讐する「正義」があるのだろうってのはわかりきっていると思う。アメリカが「正義」じゃないというのはみんな薄々知ってはいるだろうけど、頭にきているアメリカの人達がそのことを理解できているとは、巻き込まれた当事者が客観的にものを見ることができているとは思えない。
私だって北朝鮮との関係を考えると「正義」は我が国にあって、あの国の人民には同情を禁じ得ないけど、正直「やっちまえ!」ぐらいの気持ちになる。
でもやっぱりその時に振りかざす「正義」ってのは、自分の立場からはそう見えなくても決して完全に正しいものではないということに用心しておかないと、手ひどい間違いを犯しそうな気がする。ちょっと戦争前夜的な朝鮮半島版キューバ危機っぽい状況の中、「正義は我らにあり」というような雰囲気が醸し出されつつあるので、「それって危ないかもよ」と警句を発しておきたい。
人が「正義」の名のもとに行ってきた悪行なんて枚挙にいとまないでしょ。
繰り返すけど絶対的な「正義」なんてものはない。だから、思考停止せずに常に理解を深め考え続ける努力が何事においても大事なんだと思う、とまた説教臭くなって我ながらSJWくせえなと思うが、自戒を込めて書いておきたい。
2017年4月30日日曜日
2017年4月23日日曜日
あなたの知らない安竿の世界
薄々感づいておられる方もいるかと思うところだが、ナマジは安竿が好きだ。って何回も書いてるからご存じか。
なぜ好きなのか?「好きだから」と書いてしまうと終わってしまうのでつらつらあげていくとすると、まずは比較して高い竿が嫌いだというのがあるのだろう。
高い竿のドロドロとした欲望まみれの金儲けの腐臭が漂ってくるところが嫌いだし、薄くて軽くて折れやすいのが嫌いだし、感度だとか飛距離だとか魚をかけたことがない人間でも評価できる要素ばかりに力を入れているのも嫌いだし、ピカピカの高級ロッドが放つ俗臭さが嫌いだし、なにより高くて買いにくいのが嫌いだ。
その点安竿は良い。まあ安くてだめな竿もたくさんあるけど、素人が乱暴に扱っても大丈夫なように丈夫に作ってあるところが好きだ、田舎臭く分厚い巻きの重量感が好きだ、ダルくて感度が悪くて人も魚もかかったことに気づかなくて早あわせしなくてすむのが好きだ、デカい魚がかかったときに折れてもいいやとギリギリ曲げられる気安さが好きだ、その時に意外に折れずに魚が上がってくる頼もしさが好きだ、自慢臭くならないさりげなさが好きだ、なにより財布に優しいところが好きだ。
たぶん古今東西の安竿のうちベストオブ安竿を選ぶなら、シェイクスピアのアグリースティックでまず間違いのないところだろう。特にアメ人とかオージーとかの労働者階級の釣り人なら分かってくれるはず。特権階級はセージでも使ってろ!俺たち労働者階級はアグリースティックの透明なグラスソリッドティップを愛するッ!
主にカヤックのシーバス用で愛用。突然の青物にも余裕で対応の頼もしい竿たちだ。
ゆうても、普段シーバス釣りに使っている竿は、それほど安物ばかりではない。
今年一発目に大物スズキを釣る幸運に恵まれたときに、ケン一から「どうせまた安モンのパックロッドとか使ってたんやろ?」とおちょくられたが、ジャクソンの「ブリストールBP805L」を安竿というのは失礼だろう。まあ、手間のかかる5本継ぎで発売当時の定価で2万円くらいだから良心的な価格だとは思うが。
ケン一のいう安モンのパックロッドとは、仕事帰りの釣りとかで活躍してくれる「NEW WAVE minipack210」のことだと思うが、これは正真正銘の安竿で中古屋で300円で買ったのである。
しかし、そんな安竿でいいのなら竿なんて何でもいいんだろうと勘違いされては困るのである。ぜんぜん狙って設計していないんだろうけど、たまたま私のシーバス釣りに丁度いい調子に仕上がってしまった奇跡の安竿なのである。
それまで、鞄に放り込んで仕事帰りや出張のお供としていた竿は、リョービの「ジョイスピン606ML」というパックロッドで、これまた中古で2千円ぐらいの安竿だったけど、竿先は堅いカーボンソリッドでアタリをはじき、突っ込まれると耐えきれずに身切れでバラし、リングのリールシートは滑ってリールがよく落ちるという、なんとかならんのか?という竿だった。しかし、安いルアー用のパックロッドって当時それぐらいしかなくて、出張先で先輩も同じ竿使ってたというような竿であった。
もっといいパックロッドがあったら買い換えたいと思って、中古屋とかで餌釣り用も含めてパックロッドがあったら伸ばして調子を見てみたりしていたけど、なかなか良いのには出会えなかった。耐久性とか心配な針金ガイドの竿とかは安くても実用性が無いし、ちょっと良い竿だとやっぱりティップが堅かったり全体的なバランスがいまいちだったりする。
そんな中で、地味な見た目でワゴンで安売りしてそうな「NEW WAVE」は、まず安竿のくせにガイドがハードガイドが付いている。伸ばして調子をみてみると「これはいける!」と確信が走った。ソリッドグラスのティップが柔らかく全体としての調子もダルめのシーバスのアタリをはじかないような調子。しかも値段は300円。ためらうことなくレジへ。実釣での性能も文句なしで超お気に入りの1本となった。石積み護岸でこけて穂先を折った後も、穂先交換して使い続けている。
中古釣り具屋にいくと、もう一本ないかとパックロッドのコーナーを今でも探してしまう。
安竿すべてが良い竿ということではなく、安竿にも良い竿があるということだと思う。
運河でよく使っているフェンウィックも「ランカーギアX」は売ってた当時で実売2万円ぐらいの中級モデルといって良い竿だけど、姉妹竿の「イーグル」は実売1万円ぐらいの立派な安竿である。
こういう、大手メーカーがいろんなグレード出している中の安い方のシリーズの竿って「当り竿」があってお買い得。単に安出来でダメなのもあるけど、例えば先のフェンウィックなら、ランカーギアXもイーグルもブランクス一緒なのである。ガイドがSICかハードガイドかなんて普通実用上差がでるほどの違いじゃない。上位機種譲りの性能でお値段控えめはお得感大。
ダイワも初心者用から競技用の高級機種まで、いろんな竿をだしているけど、グラスのオレンジ色の「アタッカー」の時代からダイワの安竿にはお世話になっている(※2018.10.18グラスのは「ジェットスピン」でした)。
「パシフィックファントム」の振り出しシーバスロッドも丈夫で良い竿だったし、カレイの船釣りで使っていた「早船」も良かったので、もう一セット新しく買ったときにもまた「早船」買ったった。インドネシア製で換え穂も付いて1万円台とお手頃な安竿だった。実用性問題なし。
というわけで、へら釣り始めるにあたって、まず1本にダイワの「陽舟10尺」を選んだ。中古屋でシマノ「抜作」というイカした名前のと迷ったが、抜作先生の方は中古で1万円ぐらいと、ちょっと高級ロッドぽい感じだったので安竿感満載の「陽舟」に決めた。3千円ぐらいでお財布にも優しいし、初心者にはこのぐらいのがお似合いというものだろう。ダイワのウェブサイトで確認すると全17シリーズにもわたるダイワのヘラ竿のうち一番下のグレードの定価もなくオープン価格のシリーズである。竿の善し悪しが分かるぐらいに上手くなれば良い竿買えばいいようにも思うけど、たぶんそうなっても安竿を愛用しつづけそうな気はしている。
ヘラ竿としては、もいっちょ13尺の天竜「天昇峰」というのを、これも3千円くらいで買って、やや広い池の管理釣り場はこの2本で始めてみようということになったのだが、管理釣り場で惨敗。「箱」での修行にF師匠から「短竿の提灯ウドンセット釣りを練習するように」との指令があったので、関東の釣り堀では竿は8尺からの規定が多いらしいので8尺を買おうと思って、ハタと気が付いた。8尺って、2.4mだとすると我が家に結構あるんじゃねえの?
ハゼ釣りやらテナガ釣りに使う小物竿には確かに「NEW白滝240」とかがあるが、小物竿でヘラ釣ると弱すぎてあげるのに時間がかかって案配悪そう。
でも、「NEW白滝240」が塗装も剥げちょろげになって買い換えたときに、後継の「白滝Ⅳ240」を買ったは良いけど、小物竿にあるまじきごっついグラスの太竿だったのでお蔵入りして、結局「風雅」というカーボンの小物竿を買ったのを思い出した。
お蔵入りしていた第4世代「白滝」の出番が来た。
写真見て「小継渓流」となっているのに、なぜ小物用として買ったのか、ナマジはアホなのかと思われるかもしれないが、アホなのは否定しないけど、「NEW白滝」は渓流とか書いてあっても、実にいい案配に柔らかいグラスの小物竿だったので油断した。通販の怖いところである。
「白滝Ⅳ」は前述のようにバットが太いグラスロッドなので竿受けに乗るかちょっと心配だったけど、ギリギリ乗りそうなので、ヘラ竿として活躍してもらうこととした。
へら竿っていったって、長尺の竿なら軽い方がいいとかあるんだろうけど、短尺の竿ならそこそこの丈夫ささえあれば何だって良いんだろうと正直思っている。
特に提灯釣りならあまり振り込みも必要なく竿の性能は掛けてからの楽しさを重視したっていいんじゃなかろうか?竹竿とかはそういう性格もあるんだと思う。
グラス竿のグネグネとした釣り味は竹にも通じる面白さがあるとかないとか聞くけど、個人的にはとても好きである。
実際、この竿でヘラを釣ってみて、実にいい案配に竿が魚をいなしてくれるし、グニャっと曲がりつつも太いバットはしっかり魚を寄せてくれて実にいい。8尺は白滝Ⅳで行く。「白滝Ⅳ」で食わせ餌「シラタキ」で釣るというくだらない釣りを真面目にやるつもりだ。
そもそも、この「白滝」シリーズは、九州の釣り具販売チェーン店の自社ブランドっぽい「タカミヤ」のグラスののべ竿シリーズで。お店の入り口近くのワゴンのあるあたりにぶら下がっている安竿である。九州時代に小物釣りしようと思い立って「とりあえず800円で安いしこれでいいや」と買って、そのまま気に入って「NEW白滝」を使い続けていたのである。ちなみに今タカミヤのウェブサイトをみると「白滝V」となっていて笑えた。第5世代に突入したという、由緒正しい安竿である。
「NEW白滝」の引退に伴う買い換えで、第4世代白滝はゴツすぎて一端お蔵入りになり「風雅」を買って実戦投入しているが、実はその後「NEW白滝」長さ違いで何本も中古屋で見つけて買ってしまった。「風雅」がくたばったらまた「NEW白滝」を使いたい。ついでに初代「白滝」も中古で見つけてしまいゲットした。
「白滝シリーズ」第3世代が見つかれば現行第5世代は入手は可能なので全世代コンプリートである。まあ、誰もうらやましがらないコレクションだけど、第3世代の「白滝」を見つけた方はタレコミよろしくお願いします。たぶん名前は「白滝Ⅲ」と予想。
とまあ、安竿への愛を書き綴ってみたところだけど、私が安竿を使うのは「愛故に」というのが一番の理由だけど、「道具なんて安モンでいいから興味があるなら釣りは始めたらいいよ」と声を大にして言いたいからというのもある。
釣り具屋側は高い道具を買って欲しがるけど、そんなのとりあえずは無視していいよと、釣り具屋に騙されるのも釣り人の努めだろうな、とは薄々感じつつも、天の邪鬼の役目として安竿への愛を謳うのである。
なぜ好きなのか?「好きだから」と書いてしまうと終わってしまうのでつらつらあげていくとすると、まずは比較して高い竿が嫌いだというのがあるのだろう。
高い竿のドロドロとした欲望まみれの金儲けの腐臭が漂ってくるところが嫌いだし、薄くて軽くて折れやすいのが嫌いだし、感度だとか飛距離だとか魚をかけたことがない人間でも評価できる要素ばかりに力を入れているのも嫌いだし、ピカピカの高級ロッドが放つ俗臭さが嫌いだし、なにより高くて買いにくいのが嫌いだ。
その点安竿は良い。まあ安くてだめな竿もたくさんあるけど、素人が乱暴に扱っても大丈夫なように丈夫に作ってあるところが好きだ、田舎臭く分厚い巻きの重量感が好きだ、ダルくて感度が悪くて人も魚もかかったことに気づかなくて早あわせしなくてすむのが好きだ、デカい魚がかかったときに折れてもいいやとギリギリ曲げられる気安さが好きだ、その時に意外に折れずに魚が上がってくる頼もしさが好きだ、自慢臭くならないさりげなさが好きだ、なにより財布に優しいところが好きだ。
たぶん古今東西の安竿のうちベストオブ安竿を選ぶなら、シェイクスピアのアグリースティックでまず間違いのないところだろう。特にアメ人とかオージーとかの労働者階級の釣り人なら分かってくれるはず。特権階級はセージでも使ってろ!俺たち労働者階級はアグリースティックの透明なグラスソリッドティップを愛するッ!
主にカヤックのシーバス用で愛用。突然の青物にも余裕で対応の頼もしい竿たちだ。
ゆうても、普段シーバス釣りに使っている竿は、それほど安物ばかりではない。
今年一発目に大物スズキを釣る幸運に恵まれたときに、ケン一から「どうせまた安モンのパックロッドとか使ってたんやろ?」とおちょくられたが、ジャクソンの「ブリストールBP805L」を安竿というのは失礼だろう。まあ、手間のかかる5本継ぎで発売当時の定価で2万円くらいだから良心的な価格だとは思うが。
ケン一のいう安モンのパックロッドとは、仕事帰りの釣りとかで活躍してくれる「NEW WAVE minipack210」のことだと思うが、これは正真正銘の安竿で中古屋で300円で買ったのである。
しかし、そんな安竿でいいのなら竿なんて何でもいいんだろうと勘違いされては困るのである。ぜんぜん狙って設計していないんだろうけど、たまたま私のシーバス釣りに丁度いい調子に仕上がってしまった奇跡の安竿なのである。
それまで、鞄に放り込んで仕事帰りや出張のお供としていた竿は、リョービの「ジョイスピン606ML」というパックロッドで、これまた中古で2千円ぐらいの安竿だったけど、竿先は堅いカーボンソリッドでアタリをはじき、突っ込まれると耐えきれずに身切れでバラし、リングのリールシートは滑ってリールがよく落ちるという、なんとかならんのか?という竿だった。しかし、安いルアー用のパックロッドって当時それぐらいしかなくて、出張先で先輩も同じ竿使ってたというような竿であった。
もっといいパックロッドがあったら買い換えたいと思って、中古屋とかで餌釣り用も含めてパックロッドがあったら伸ばして調子を見てみたりしていたけど、なかなか良いのには出会えなかった。耐久性とか心配な針金ガイドの竿とかは安くても実用性が無いし、ちょっと良い竿だとやっぱりティップが堅かったり全体的なバランスがいまいちだったりする。
そんな中で、地味な見た目でワゴンで安売りしてそうな「NEW WAVE」は、まず安竿のくせにガイドがハードガイドが付いている。伸ばして調子をみてみると「これはいける!」と確信が走った。ソリッドグラスのティップが柔らかく全体としての調子もダルめのシーバスのアタリをはじかないような調子。しかも値段は300円。ためらうことなくレジへ。実釣での性能も文句なしで超お気に入りの1本となった。石積み護岸でこけて穂先を折った後も、穂先交換して使い続けている。
中古釣り具屋にいくと、もう一本ないかとパックロッドのコーナーを今でも探してしまう。
安竿すべてが良い竿ということではなく、安竿にも良い竿があるということだと思う。
運河でよく使っているフェンウィックも「ランカーギアX」は売ってた当時で実売2万円ぐらいの中級モデルといって良い竿だけど、姉妹竿の「イーグル」は実売1万円ぐらいの立派な安竿である。
こういう、大手メーカーがいろんなグレード出している中の安い方のシリーズの竿って「当り竿」があってお買い得。単に安出来でダメなのもあるけど、例えば先のフェンウィックなら、ランカーギアXもイーグルもブランクス一緒なのである。ガイドがSICかハードガイドかなんて普通実用上差がでるほどの違いじゃない。上位機種譲りの性能でお値段控えめはお得感大。
ダイワも初心者用から競技用の高級機種まで、いろんな竿をだしているけど、グラスのオレンジ色の「アタッカー」の時代からダイワの安竿にはお世話になっている(※2018.10.18グラスのは「ジェットスピン」でした)。
「パシフィックファントム」の振り出しシーバスロッドも丈夫で良い竿だったし、カレイの船釣りで使っていた「早船」も良かったので、もう一セット新しく買ったときにもまた「早船」買ったった。インドネシア製で換え穂も付いて1万円台とお手頃な安竿だった。実用性問題なし。
というわけで、へら釣り始めるにあたって、まず1本にダイワの「陽舟10尺」を選んだ。中古屋でシマノ「抜作」というイカした名前のと迷ったが、抜作先生の方は中古で1万円ぐらいと、ちょっと高級ロッドぽい感じだったので安竿感満載の「陽舟」に決めた。3千円ぐらいでお財布にも優しいし、初心者にはこのぐらいのがお似合いというものだろう。ダイワのウェブサイトで確認すると全17シリーズにもわたるダイワのヘラ竿のうち一番下のグレードの定価もなくオープン価格のシリーズである。竿の善し悪しが分かるぐらいに上手くなれば良い竿買えばいいようにも思うけど、たぶんそうなっても安竿を愛用しつづけそうな気はしている。
ヘラ竿としては、もいっちょ13尺の天竜「天昇峰」というのを、これも3千円くらいで買って、やや広い池の管理釣り場はこの2本で始めてみようということになったのだが、管理釣り場で惨敗。「箱」での修行にF師匠から「短竿の提灯ウドンセット釣りを練習するように」との指令があったので、関東の釣り堀では竿は8尺からの規定が多いらしいので8尺を買おうと思って、ハタと気が付いた。8尺って、2.4mだとすると我が家に結構あるんじゃねえの?
ハゼ釣りやらテナガ釣りに使う小物竿には確かに「NEW白滝240」とかがあるが、小物竿でヘラ釣ると弱すぎてあげるのに時間がかかって案配悪そう。
でも、「NEW白滝240」が塗装も剥げちょろげになって買い換えたときに、後継の「白滝Ⅳ240」を買ったは良いけど、小物竿にあるまじきごっついグラスの太竿だったのでお蔵入りして、結局「風雅」というカーボンの小物竿を買ったのを思い出した。
お蔵入りしていた第4世代「白滝」の出番が来た。
写真見て「小継渓流」となっているのに、なぜ小物用として買ったのか、ナマジはアホなのかと思われるかもしれないが、アホなのは否定しないけど、「NEW白滝」は渓流とか書いてあっても、実にいい案配に柔らかいグラスの小物竿だったので油断した。通販の怖いところである。
「白滝Ⅳ」は前述のようにバットが太いグラスロッドなので竿受けに乗るかちょっと心配だったけど、ギリギリ乗りそうなので、ヘラ竿として活躍してもらうこととした。
へら竿っていったって、長尺の竿なら軽い方がいいとかあるんだろうけど、短尺の竿ならそこそこの丈夫ささえあれば何だって良いんだろうと正直思っている。
特に提灯釣りならあまり振り込みも必要なく竿の性能は掛けてからの楽しさを重視したっていいんじゃなかろうか?竹竿とかはそういう性格もあるんだと思う。
グラス竿のグネグネとした釣り味は竹にも通じる面白さがあるとかないとか聞くけど、個人的にはとても好きである。
実際、この竿でヘラを釣ってみて、実にいい案配に竿が魚をいなしてくれるし、グニャっと曲がりつつも太いバットはしっかり魚を寄せてくれて実にいい。8尺は白滝Ⅳで行く。「白滝Ⅳ」で食わせ餌「シラタキ」で釣るというくだらない釣りを真面目にやるつもりだ。
そもそも、この「白滝」シリーズは、九州の釣り具販売チェーン店の自社ブランドっぽい「タカミヤ」のグラスののべ竿シリーズで。お店の入り口近くのワゴンのあるあたりにぶら下がっている安竿である。九州時代に小物釣りしようと思い立って「とりあえず800円で安いしこれでいいや」と買って、そのまま気に入って「NEW白滝」を使い続けていたのである。ちなみに今タカミヤのウェブサイトをみると「白滝V」となっていて笑えた。第5世代に突入したという、由緒正しい安竿である。
「NEW白滝」の引退に伴う買い換えで、第4世代白滝はゴツすぎて一端お蔵入りになり「風雅」を買って実戦投入しているが、実はその後「NEW白滝」長さ違いで何本も中古屋で見つけて買ってしまった。「風雅」がくたばったらまた「NEW白滝」を使いたい。ついでに初代「白滝」も中古で見つけてしまいゲットした。
「白滝シリーズ」第3世代が見つかれば現行第5世代は入手は可能なので全世代コンプリートである。まあ、誰もうらやましがらないコレクションだけど、第3世代の「白滝」を見つけた方はタレコミよろしくお願いします。たぶん名前は「白滝Ⅲ」と予想。
とまあ、安竿への愛を書き綴ってみたところだけど、私が安竿を使うのは「愛故に」というのが一番の理由だけど、「道具なんて安モンでいいから興味があるなら釣りは始めたらいいよ」と声を大にして言いたいからというのもある。
釣り具屋側は高い道具を買って欲しがるけど、そんなのとりあえずは無視していいよと、釣り具屋に騙されるのも釣り人の努めだろうな、とは薄々感じつつも、天の邪鬼の役目として安竿への愛を謳うのである。
2017年4月15日土曜日
今ここにあるディストピア
東京湾奥のシーバス釣り場がいよいよ狭まってきた。
職場から近いC川の川沿いのテラスは多くの場所で「投げ釣り禁止」だそうな、「桜護岸」のある運河も「ルアー釣り禁止」の立て看板が立ったとか。
テロ対策やらでそれまで「黙認」されていたような企業の駐車場とかから釣り人が追い出される動きはずっと感じていたものだけど、ここに来て「釣り人」を締め出すというより、もっと具体的に「ルアーマン」が締め出される動きが出てきた。
「投げ釣り」「ルアー釣り」が禁止された場所でも延べ竿でハゼ釣りはできるし、落とし込みのチヌ釣りとかもルール上は問題なさそう。
要するに、「人が歩くテラスやら公園やらでハリのついたルアーを振り回すな危険。」ということだろう。
危険じゃないか?と聞かれれば、それは多少は気をつけていても事故が起こる可能性はあるわけで危険じゃないとまではいえない。実際に橋の上にルアーを飛ばしてしまい通行人を釣ったんだか釣りかけたんだかという事故があったらしい。
それでも、めったに起きない事故だと思うし、今までみんな楽しく釣ってたのに今更かよという気がしてならない。
なんというか、事故があると面倒だからボール使用禁止、ペット禁止、飲食禁止、芝生立ち入り禁止とか禁止だらけで何もできなくなった公園に感じる不条理を感じざるを得ない。
ガキども仕方なくゲームしたりしてて「子供は元気に外で遊べ」とか言われても禁止されてばかりでどこで遊べというのか気の毒になってくる。ゲームがダメとは思わんけど怪我する機会も与えられないってどうなのよ?
と同じような不条理を東京湾のシーバスマンも味あわされつつある気がする。
シーバスマンなんていう全体から見れば少数派の人間のちょっとした楽しみなんて安全様のためなら踏みにじってもかまわないと思われているならムカつく。
抜け道的に「投げ釣り禁止」なら延べ竿でルアー使ったろかとか、「ルアー釣り禁止」ならフライ振ったろかとかも考えたけど、姑息なうえに正しくもなさそうな気がする。レジスタンス的にやってみる価値はあるのかも知れないが、正直気は進まない。
加えてルアーマンがいじめられることになる根っこにある問題として日本の社会全体が「不寛容」になってきていることがあるのではないかと愚考している。「不寛容」というか有り体にいって小うるさくなってきた。
たぶん昔の日本の村社会なら暗黙の了解だったようなことが、核家族化や都市への人の流れとかが進むにつれて機能しなくなって「ルールがなければ何をしても自由」という、権利と責任の考え方を間違ったような輩が増えるにつれ、いちいち小うるさくルールにしていかないと問題が生じるようになってきたというのもあるのではないだろうか。
公園でよそもんが危ない遊びをしていたら、昔ならそこをシマにしているガキ大将が〆ておしまいだったのが、今時そんなことをやったら「何の権限があってそんなことを言っている」だの「そんなルールがどこにある」だのこうるせぇことをいうやつが出てくるだろう。
権利とか自由には責任がついてまわるということを分かってないこういうバカには、昔なら「うるせえバカ、黙ってろ!」で済んだはずなのに、欧米的な個人の権利の考え方が悪い方にすっ転んだような「言ったモン勝ち」の今の日本ではそうはならないというのがクソみたいな現実か。
例を出すなら、川で遊んでいて溺れた時に「川を管理する自治体に責任がある」とか言い始めるバカが典型か。川で遊ぶ自由は川での安全やら何やらの責任とセットであるはずで、それをバカが他人に責任を持っていこうとするから、責任をなすりつけられた管理者としては「川で遊ぶの禁止」にするという、クソしょうもない話になるのである。
なぜ、この程度の問題が「黙ってろ!」の一言で済まずに訴訟まで行くのか、理解できない私が間違っているのだろうか?
とはいえ、自分の子供が死んだとかで、その親とかならまあ分かる。行き場のない思いをどっかにぶつけずにいられないということもあるだろう。ただそういう親がいたとしても、全体としては「川で遊ぶときは気をつけて遊びましょうね」という方向に落ちるべきだと思うのだが、どうも今の社会は全体として「危険だから遊ばないようにしましょう」という方向に向いてしまっている気がする。
先日の雪崩で亡くなった高校生の件でも、高校生の雪山登山は禁止の方向だそうだ。
本来、危険を冒すのも含めて、イメージ悪くなった言葉ではあるけど「自己責任」のはずで、それに他人がとやかく口を出すのは大きなお節介だし、冒険的なリスクを取る行動を制限していく方向性は人間という世界の隅々まで冒険探検して発展してきた生き物の根幹に関わる過ちだと思う。
もちろん、安全対策のため情報共有やらときには警告も必要だろう。だとしても「危険を冒してでもやる行動」にくだらない制限をかけるなといいたい。
危険な水辺の看板には小説のタイトルじゃないけど「泳ぐのに安全でも適切でもありません」ぐらいであとは個人の判断と責任で良いじゃないかと思うのである。
なんというか、個人が命を削ったりする行為に対して、お節介に過保護な世の中になってきているのではないかという気がしてならない。
タバコは吸うなとかも、タバコ吸わない人間から見ても異様なぐらいにタバコを吸っている人間の楽しみにいらん世話を焼いている気がする。そんなもん吸いたくない人間が吸わなくてすむように分煙さえできれば個人の嗜好にとやかくいうなと思うのだが、今日日喫煙者は人格否定されかねない勢いで非難されている気がする。現代の魔女狩りといっていいのではないだろうか。
ほかにも、太るなだのジャンクフード食うなだの「お前はオレのかーちゃんか?」というような小言を社会全体から浴びている気がする。
なんというか、健康で長生きするのが一番という価値観にオレを巻き込まないで欲しい。
そういうお節介な優しさに溢れた社会を痛烈に皮肉った「ハーモニー」というディストピア小説をちょっと前に読んだけど、酒やタバコはもってのほか、カフェインさえ健康のために取るべきではないと優しい人々にやり込められる科学者に痛く同情したものである。
家畜のように管理されて健康で長生きしてなんになる?出荷でもされる気か?
東京湾からシーバス釣り場が減るのは単純に悲しく腹立たしいが、それ以上に、我々の社会がどうも危険を冒すことを制限するディストピアに足をどっぷり突っ込んでしまっているような気持ちの悪さを感じるので、ひとくさり書いてみたところ。
「あしたのジョー」を読んで育った昭和の男としては、健康で長生きするよりも一瞬でいいから真っ白な灰になるぐらいに燃え尽きて死にたい。
新しいことに挑戦し続けて失敗し続け、勝ち目の少ない勝負を挑み続けて負け続け、ストレス満載な危機に身をさらし続け、暴飲暴食、疲労困憊で健康を害し早死にしたとしても、穏やかに健やかに面白いこともなく長生きするようなつまらん人生よりは満足して死ねるだろう。
職場から近いC川の川沿いのテラスは多くの場所で「投げ釣り禁止」だそうな、「桜護岸」のある運河も「ルアー釣り禁止」の立て看板が立ったとか。
テロ対策やらでそれまで「黙認」されていたような企業の駐車場とかから釣り人が追い出される動きはずっと感じていたものだけど、ここに来て「釣り人」を締め出すというより、もっと具体的に「ルアーマン」が締め出される動きが出てきた。
「投げ釣り」「ルアー釣り」が禁止された場所でも延べ竿でハゼ釣りはできるし、落とし込みのチヌ釣りとかもルール上は問題なさそう。
要するに、「人が歩くテラスやら公園やらでハリのついたルアーを振り回すな危険。」ということだろう。
危険じゃないか?と聞かれれば、それは多少は気をつけていても事故が起こる可能性はあるわけで危険じゃないとまではいえない。実際に橋の上にルアーを飛ばしてしまい通行人を釣ったんだか釣りかけたんだかという事故があったらしい。
それでも、めったに起きない事故だと思うし、今までみんな楽しく釣ってたのに今更かよという気がしてならない。
なんというか、事故があると面倒だからボール使用禁止、ペット禁止、飲食禁止、芝生立ち入り禁止とか禁止だらけで何もできなくなった公園に感じる不条理を感じざるを得ない。
ガキども仕方なくゲームしたりしてて「子供は元気に外で遊べ」とか言われても禁止されてばかりでどこで遊べというのか気の毒になってくる。ゲームがダメとは思わんけど怪我する機会も与えられないってどうなのよ?
と同じような不条理を東京湾のシーバスマンも味あわされつつある気がする。
シーバスマンなんていう全体から見れば少数派の人間のちょっとした楽しみなんて安全様のためなら踏みにじってもかまわないと思われているならムカつく。
抜け道的に「投げ釣り禁止」なら延べ竿でルアー使ったろかとか、「ルアー釣り禁止」ならフライ振ったろかとかも考えたけど、姑息なうえに正しくもなさそうな気がする。レジスタンス的にやってみる価値はあるのかも知れないが、正直気は進まない。
加えてルアーマンがいじめられることになる根っこにある問題として日本の社会全体が「不寛容」になってきていることがあるのではないかと愚考している。「不寛容」というか有り体にいって小うるさくなってきた。
たぶん昔の日本の村社会なら暗黙の了解だったようなことが、核家族化や都市への人の流れとかが進むにつれて機能しなくなって「ルールがなければ何をしても自由」という、権利と責任の考え方を間違ったような輩が増えるにつれ、いちいち小うるさくルールにしていかないと問題が生じるようになってきたというのもあるのではないだろうか。
公園でよそもんが危ない遊びをしていたら、昔ならそこをシマにしているガキ大将が〆ておしまいだったのが、今時そんなことをやったら「何の権限があってそんなことを言っている」だの「そんなルールがどこにある」だのこうるせぇことをいうやつが出てくるだろう。
権利とか自由には責任がついてまわるということを分かってないこういうバカには、昔なら「うるせえバカ、黙ってろ!」で済んだはずなのに、欧米的な個人の権利の考え方が悪い方にすっ転んだような「言ったモン勝ち」の今の日本ではそうはならないというのがクソみたいな現実か。
例を出すなら、川で遊んでいて溺れた時に「川を管理する自治体に責任がある」とか言い始めるバカが典型か。川で遊ぶ自由は川での安全やら何やらの責任とセットであるはずで、それをバカが他人に責任を持っていこうとするから、責任をなすりつけられた管理者としては「川で遊ぶの禁止」にするという、クソしょうもない話になるのである。
なぜ、この程度の問題が「黙ってろ!」の一言で済まずに訴訟まで行くのか、理解できない私が間違っているのだろうか?
とはいえ、自分の子供が死んだとかで、その親とかならまあ分かる。行き場のない思いをどっかにぶつけずにいられないということもあるだろう。ただそういう親がいたとしても、全体としては「川で遊ぶときは気をつけて遊びましょうね」という方向に落ちるべきだと思うのだが、どうも今の社会は全体として「危険だから遊ばないようにしましょう」という方向に向いてしまっている気がする。
先日の雪崩で亡くなった高校生の件でも、高校生の雪山登山は禁止の方向だそうだ。
本来、危険を冒すのも含めて、イメージ悪くなった言葉ではあるけど「自己責任」のはずで、それに他人がとやかく口を出すのは大きなお節介だし、冒険的なリスクを取る行動を制限していく方向性は人間という世界の隅々まで冒険探検して発展してきた生き物の根幹に関わる過ちだと思う。
もちろん、安全対策のため情報共有やらときには警告も必要だろう。だとしても「危険を冒してでもやる行動」にくだらない制限をかけるなといいたい。
危険な水辺の看板には小説のタイトルじゃないけど「泳ぐのに安全でも適切でもありません」ぐらいであとは個人の判断と責任で良いじゃないかと思うのである。
なんというか、個人が命を削ったりする行為に対して、お節介に過保護な世の中になってきているのではないかという気がしてならない。
タバコは吸うなとかも、タバコ吸わない人間から見ても異様なぐらいにタバコを吸っている人間の楽しみにいらん世話を焼いている気がする。そんなもん吸いたくない人間が吸わなくてすむように分煙さえできれば個人の嗜好にとやかくいうなと思うのだが、今日日喫煙者は人格否定されかねない勢いで非難されている気がする。現代の魔女狩りといっていいのではないだろうか。
ほかにも、太るなだのジャンクフード食うなだの「お前はオレのかーちゃんか?」というような小言を社会全体から浴びている気がする。
なんというか、健康で長生きするのが一番という価値観にオレを巻き込まないで欲しい。
そういうお節介な優しさに溢れた社会を痛烈に皮肉った「ハーモニー」というディストピア小説をちょっと前に読んだけど、酒やタバコはもってのほか、カフェインさえ健康のために取るべきではないと優しい人々にやり込められる科学者に痛く同情したものである。
家畜のように管理されて健康で長生きしてなんになる?出荷でもされる気か?
東京湾からシーバス釣り場が減るのは単純に悲しく腹立たしいが、それ以上に、我々の社会がどうも危険を冒すことを制限するディストピアに足をどっぷり突っ込んでしまっているような気持ちの悪さを感じるので、ひとくさり書いてみたところ。
「あしたのジョー」を読んで育った昭和の男としては、健康で長生きするよりも一瞬でいいから真っ白な灰になるぐらいに燃え尽きて死にたい。
新しいことに挑戦し続けて失敗し続け、勝ち目の少ない勝負を挑み続けて負け続け、ストレス満載な危機に身をさらし続け、暴飲暴食、疲労困憊で健康を害し早死にしたとしても、穏やかに健やかに面白いこともなく長生きするようなつまらん人生よりは満足して死ねるだろう。
2017年4月8日土曜日
悩める釣り人への銘
大きな魚を釣り上げるために 強さを与えて欲しいと求めたのに
筋トレを学ぶように 弱さを授かった
偉大な釣り師となれるようにと 健康を求めたのに
より釣りを望むようにと 病気を賜った
幸せになろうとして 釣果を求めたのに
賢明であるようにと 貧果を授かった
世の釣り人の賞賛を得ようとして 腕前と成功を求めたのに
得意にならないようにと 失敗を授かった
人生を楽しむために 釣りを求めたのに
釣りを楽しむためだけの人生を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが、それがどうした
我ら釣り人は最も豊かに祝福されているのだ
(元ネタ「悩める人々への銘」ある無名兵士の詩)
筋トレを学ぶように 弱さを授かった
偉大な釣り師となれるようにと 健康を求めたのに
より釣りを望むようにと 病気を賜った
幸せになろうとして 釣果を求めたのに
賢明であるようにと 貧果を授かった
世の釣り人の賞賛を得ようとして 腕前と成功を求めたのに
得意にならないようにと 失敗を授かった
人生を楽しむために 釣りを求めたのに
釣りを楽しむためだけの人生を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが、それがどうした
我ら釣り人は最も豊かに祝福されているのだ
(元ネタ「悩める人々への銘」ある無名兵士の詩)
2017年4月1日土曜日
ヘラ釣りの秘技を会得した!!
部屋の中に何かいるような気配を感じて朝目が覚める。
枕元に、ふくよかな羽織袴の爺様が立ってこちらを見下ろしている。
片手には釣り竿を、もう一方の手で大きなヘラブナを抱えている。
物盗りの類いではなさそうではあるが、格好から想像される人物だとするとあまりにも現実離れしていてバカバカしい。
しかし「あんた誰?」という問いに対するその爺様の答えは、その現実離れした想像を裏打ちするようなものであった。
「ワシはヘラブナ釣り師のための恵比寿神じゃ」
頭の中にタッタランタラララン~とヱビスビールのCMが流れる。
春になって頭の具合が悪い気はしていたが、とうとう幻覚を見るところまできてしまったかという落胆にうちひしがれる私をよそに、恵比寿神様(自称)は突然の来訪をわびるわけでもなく、単刀直入に用件を話し始めた。
年寄りの話はくどくて長くて、すべてを書いていると日が暮れそうなのだが、要約すると「お前は熱心にヘラブナ釣りの勉強をしていて感心である。皆がなじみやすいようなヘラブナ釣りを追求しようという志も立派。ついては褒美にヘラブナ釣りの秘技を伝授してやる。」とのこと。
秘伝を使って良い釣果を得てヘラブナ釣りを皆にひろめよ。それがこの神の思し召しらしい。
人様に正解だけ教えてもらっても面白くもなんともないので、丁重にお断りしようとしているのだが、恵比寿様(自称)は、「そのような慎み深い態度もますますもって褒美に値する」とこちらのいうことを聞かない老人状態。
そうこうするうちに、「では早速」とかいいながら恵比寿様(自称)は後頭部あたりからなにか触手のようなものを引っ張り出してきた。なんでもこれがUSBコードのようなモノで、脳から脳に直接情報を伝達することができる都合の良いSFのような有機的情報伝達機器らしい。
どうみてもファンタジーもののマンガとかでヒロインを絡め取りそうな不気味な触手でしかないので、それをこちらの耳から脳に突っ込むとかを神を自称するジジイに迫られて、心の底から逃げ出したいと思い、その旨伝えたのだが、「大丈夫、先っちょだけ入れるだけだから、痛いのは最初だけ」とか、「絶対だまされる!」としか思えない台詞とともに不思議な力で抵抗する力を奪われ、不気味なジジイにそっと身をまかせるしかないのであった。
ヌルヌルとした触手が耳の穴を押し広げるように入ってきたかと思うと、チクッと痛みが走った。
はじめての経験にわななく暇も無く、次の瞬間膨大な量の情報が、論理立てた言語として、同時にイメージを伴う映像的に、重ねて経験したかのよう五感に響くように雪崩れ込んできて、一瞬にしてそれらありとあらゆるヘラブナ釣りに関する技術的、戦略的な情報を自分が理解したことに気付かされた。
浮子はどうあるべきか、餌の状況毎の調整の方法、ヘラブナ釣りの歴史と展望、人はどこから来てどこでヘラブナを釣るのか、戦争とヘラブナ、愛することと知ることとヘラブナ釣り、技術論にとどまらず哲学や信仰に近い部分までを網羅した情報は「ヘラ釣りの秘技」と表現してまず間違いのないものであろう。
来週、月曜か火曜にはヘラ釣りデビューだが、今の私ならヘラブナの5匹や10匹釣ることは造作もないことである。
例会や大会に出ても、タイトル総なめにできるだろう。そうやって、正しいヘラブナ釣りを普及させていくのが「ヘラブナ釣りの恵比寿様」が私に望むことだと理解した。
私は、神と共に行く。私の歩みを止めるものはいない。
まあ、嘘です。4月1日ですからね、ちょっと楽しいネタをと書いてみました。
餌は、どうすりゃいいんだろ?と悩むばかりで、一応作戦を練って事前の実験などもしてみたけど、グチャグチャ考えとらんといっぺん釣ってこいっちゅう話で、まあ釣りながら考えるのかなというところ。一応苦戦具合はサイトの「工夫」に「餌色々の研究」として上げてますので、これまたお暇なときにでも。
仕掛けも作ったんだけど、ハリ結ぶのも外掛け結びでよければ楽勝だろうと思っていたところ、年食って手先が思うように動かない感じで、刺し餌用の2号のハリとか結んでると上手く結べなくてイィーっとなるので、商品名「スピードハリ結び」というハリをつまんで固定して、磁石の間をグルグルくぐらせてホイな感じの道具を買いました。便利。
オモリが鉛を使わないという縛りでいこうとすると、一番小さいスズのガン玉でも微妙な浮子のトップの目盛りの上下調整には大きすぎて、かといって削るにしてもスズのガン玉結構堅くて上手くいかない。なんとかならんかと考えて、スズ製の板オモリはなくても、スズの針金ぐらいホームセンターとかで売ってないだろうか?と調べたところ鉛不使用のスズ主体のハンダというモノがあることが分かり、これとスズのガン玉の組み合わせで調整しようと今のところ考えている。スズハンダはパイプに巻き付けてみたが、これで絡まったりしないか実戦で様子を見てみたい。
もいっちょ、たも網であるが、むかし外国の研究者がネットの素材毎にリリース後の生存率を調べたデータを見た記憶があり、その時一番良かったのがラバーネット、次に良かったのが意外なことに目あいの大きなネットで、その他は細かい目のネット含めあんまり成績良くなかったように記憶している。
リリースが徹底されているヘラブナでも友アユのダメージが釣果に関わってくるアユ釣りでも、もっというなら観賞魚の世界でも目の小さな網が「ダメージ少ない」という理由で使われていると思うし、特に観賞魚の世界とか商品傷つけないことには神経つかってるはずだけど、このデータとの乖離はなんぞや?と疑問は晴れない。
まあ、でもラバーネットはよさげに思うので使ってみて、ヘラ釣りには目の細かいネットが良いという人がいたら、その根拠を教えてもらうこととしよう。
準備はちゃくちゃくと進んでます。秘技はおろか基本的な技術の習得から始めなければならない初心者だけど、そのあたりもおおいに楽しんで進んでいきたい。
桜も咲けば、魚も釣れるだろう。
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