2017年4月30日日曜日

正義とか呼ばれるあやふやなもの

 最近の情報関連の言葉で「SJW」というものがあると知った。ローマ字3文字の略語というあたりからして気に入らないが、ソーシャル・ジャスティス・ウォーリア-の略だそうな。
 直訳すると「社会の正義の戦士」ぐらいだろうか。元々は言葉どおりの肯定的な意味に使われていたのだと思うが、最近では匿名のネットやなんかで、正論を振りかざして粘着的に「自分の正義」に酔ったように相手を断罪する者を揶揄して使うことが多いそうな。
 いるいるそういう人、と思い当たるだろうと思う。かくいう私もそういう傾向にあると反省するところであるが、ネットという誰が読むかわからん媒体では、書いたことが残って後から検証できてしまうことや、どんな人が読むかわからないことから、ついつい揚げ足取られないような予防線を張りつつ、人目をつくような極論っぽい「自分にとっての正論」で武装してネチネチと書いてしまいがちである。

 最近目につくというか鼻につく「SJW」の例を挙げるなら、「TVでの性的・暴力的表現を規制しろ」という連中やら、ちょっと前にもブログで取り上げた、何でも危険だと言って禁止したがる連中だろうか。この、ネットでありとあらゆるエロやらなにやらにアクセスできる時代にTVに乳首が出ようが出まいが青少年になんの影響があるのかというところ。「危険禁止!」連中については書いたばかりだが、危険を冒さないで何かを得られると思うなよ、と再度書いておきたい。

 そういう「SJW」な人々で我々釣り人にも関係が深い連中が、最近勢いづいているのではないかと感じる。
 どんな連中かというと「生物多様性原理主義者」である。生物多様性に関しての私の考え方は過去にサイトの方の「雑文」に書いているので詳しくは繰り返さないが、簡単に説明すると私の立場は、程度問題や地域毎の事情もあるだろうから「ケースバイケース」で考えていくしかない、という答えになっているようなないようなものである。
 以前にも多摩川にメダカが戻ってきたと思ったら、遺伝子の型を調べたら西日本型で本来棲んでいた東日本型じゃないのでけしからん駆除しろとか言い出したSJWな研究者がいて腹が立った記憶がある。そんなもんまずはメダカが棲めるようにまでなったことを喜んでおけよと。遺伝子の型までガタガタ言い始めたらそんなモン、なんで東日本と西日本とかいう大雑把な分け方がいいのか根拠をあげてみろというところ。本来閉ざされた水域である内水面の生き物なんて水域毎に遺伝子の型やその集団が保持する多様性が違っていて当たり前のはずで、一旦いなくなった多摩川のメダカの遺伝子はもうどこのメダカを持ってきても復元できないんだって。
 元々そこにいた種と同じ遺伝子をもった生き物しか存在が許されないのなら、トキなんて佐渡の最後の一羽が死んだ時点で終わったはずである。それでも大陸産のトキを使ってでも日本にトキを復活させようとしているのは、日本のトキの遺伝子が重要だった以上にトキが暮らして行ける環境、生物多様性が大事だからという判断に他ならない。私もその判断を支持する。

 グローバルに人が物を動かす限り、好むと好まざるに関係なく、直接的間接的に生物もグローバルに動いてしまう。その影響を危険をどう管理していくかというのは、一筋縄ではいかない問題で、あるときは良しとせざるを得ない状況もあり、ここまでは最低限防がねばならないという喫緊の課題も生じるだろう。
 それを、一刀両断に「生物多様性原理主義」で、元々そこにいた種以外は生存を認めないってやられると、おじさん困っちゃうんである。

 最近目にしたニュースでいうと、ミシシッピアカミミガメが増えすぎて、ヒシモなどの水生植物が食い荒らされてしまっているので、日光浴に上がってくるのを利用した「島」型の罠を使って駆除に取り組んでいる。というのはまだ分かる。移入種が移入先で一時的に爆発的に増えるというのは良くあるケースで、その時に実害が出ているのなら対策を取らざるを得ないだろう。捕獲した亀は冷凍安楽死させて堆肥として利用しているというのも、関係者が亀を殺すことに対する普通抱くような罪悪感を当たり前に持って、命を粗末にしないように殺すしかないにしても次善の策を検討した様がうかがえる。

 読んでモヤモヤとした気分になったのが、アカゲザルと交雑したニホンザルの殺処分だ。北限の猿とよばれて、温泉に入るほのぼのとした光景が外国人観光客にも人気の我が国固有種ニホンザルの遺伝的汚染を防ぐためには致しかたないという理屈はわかる。殺処分した関係者も決して楽しい仕事じゃなかっただろうと心中お察しする。それでも、見た目が人に近く親近感すら湧くサルの仲間が、罪もないのに命を奪われてしまったのである。正直、もうそういう人が持ち込んだという人為的な移動も含めて自然の出来事と考えてしまって、それによって交雑が進んで生き物が変わっていくことは、自然の進化の一つだと割り切ってしまって、今回の場合はニホンザルの純血にこだわらなくても良いんじゃないの?ニホンザルが棲んでいた環境に、ニホンザルとアカゲザルの混血種が置き換わって暮らしても実害なんてないんじゃないの。学者先生は何万年とかけてその環境に適応してきた種がその環境に一番適応的で安定的な生態系の要素になり得るから元からいた種が大事だと言うけど、生物ってビックリするぐらい変わっていくし適応力も高いよ。そもそも今の環境ってもう昔とは違ってるよね。とか思ってしまうのである。

 目にして、吐き気するぐらいにムカついたのが、テレビでやってた池を干して外来魚を駆除するという「イベント」。あまりの気持ち悪さにすぐチャンネル変えてしまったのでどこの誰だか知らないが、専門家っぽい人間が、出てくる生物について「ライギョですコレは外来種駆除しなければなりません」、「これはフナ在来種です守らなければなりません」とか一刀両断にしているのを見て、これぐらい単純に物事をわりきれたら悩みなく毎日気持ちよく眠れて飯も旨いんだろうなとうらやましかった。なんにも考えてなさそう。ほぼ宗教である。宗教だから考えずに思考停止して同じことだけ言っていればいい。
 ライギョなんて今時爆発的に増えた移入当初の時代はとうに過ぎて、今じゃよっぽど環境の良い場所か逆にライギョぐらいしか棲めない低酸素になるような場所にニッチに棲んでいるにすぎない。専門家様よどうか御慈悲をという感じだ。護岸された池で岸辺の産卵に適した水生植物も無いようなところで、外来種駆除したところで棲めるようになる在来種は産卵を水生植物に頼らない基質産卵性のモツゴぐらいで(ソース出すなら「外来魚駆除が溜め池の動物群集に及ぼす影響」飯田ほか2011年)、それじゃ寂しいからコイかフナでも放そうかということになるとコイは流通しているのは大陸系の外来種だし、フナも流通しているのは生産されたヘラブナなら琵琶湖産ゲンゴウロウブナ由来の国内移入種で、結局、バスとかギルがいた元の状態と違うのはやってくるのがバスマンかヘラ師かの違いくらいでしかない。原始の自然や里山的環境が貴重になっている昨今。そういう環境から外来種を駆除しようという取り組みは理解できるし必要なことだろう。でも外来種ぐらいしか棲めなくなった水域ぐらい、それで釣り人が遊ぶのを許してくれよと思う。結局声のデカい専門家は好みの魚種を趣味で守ろうとしているだけのような気がする。まあ、TVに写っていた池にはライギョもいたので専門家様が見て守るべき価値のある生態系が残っていたのかも知れない。だとしても生物多様性という正義を振りかざし「外来魚=悪」という単純なものの見方を植え付けるような思想誘導はやめてほしいものだ。

 国立環境研究所の研究者五箇氏が外来種問題の難しさを解説している記事を読んだ。スズメやネコジャラシさえ稲作伝来とともにやってきた古い外来種であることや、最近、在来種だと思われていたクサガメが外来種の可能性が出てきたという研究者の間でも外来種として排除すべきか否か議論が分かれている事例などを紹介しつつ、「外来種」対策における線引きの難しさを解説されている。現在「外来生物法」では外国からの物流が飛躍的に増えた明治以来の外来種を管理するという整理をしているとのことだけど、線引きを科学的・生態学的に説明することは難しいとしたうえで、「結局、何が起こるかわからないという予測不能性こそが大きなリスクと捉えて、我々の生物多様性に対する理解が少しでも進むまでは、現状維持を図ることが最善策と考えれば、やはり、これ以上、外来種が増えることは可能なかぎり抑制するべきだと結論されるのではないでしょうか。」と締めくくっている。
 生物多様性に関わる研究者すべてが狂信的な「生物多様性原理主義者」ではないと知りホッとした。まあ、宗教でもそうだけど場末の辺鄙なところほどカルト化して狂信的になってるけど、総本山とかはだいたい真っ当で穏当なものなのかもしれない。知らざるを知らずとなしたうえで、これからも理解を進めていく努力をし続けようというのは、どんな事柄にもあてはまる真っ当な姿勢で。勝手な「正義」を盲信し振り回して他人を攻撃するSJWな輩どもに爪のアカを煎じて飲ませたいところだ。

 まあ戦争における「正義」なんていうのが、勝った方の論理だという酷い現実をみるにつけ、「正義」なんて実は立場次第でどうにでも転ぶあやふやなものだと思わざるを得ない。「テロ」と「革命」の違いって結果論を除いて線が引けるのか?
 今のグローバルスタンダード様とイスラム社会との確執においても、そりゃ9.11で愛する人を家族を仲間を殺された人の悲しみや怒りは当たり前だと思う。でもそれで「テロとの戦争」とかいっちゃって、空爆とかでイスラムの人たち殺したら、そりゃ殺された側にも同じような悲しみや怒りがあるだろうし彼らにもそうなれば復讐する「正義」があるのだろうってのはわかりきっていると思う。アメリカが「正義」じゃないというのはみんな薄々知ってはいるだろうけど、頭にきているアメリカの人達がそのことを理解できているとは、巻き込まれた当事者が客観的にものを見ることができているとは思えない。
 私だって北朝鮮との関係を考えると「正義」は我が国にあって、あの国の人民には同情を禁じ得ないけど、正直「やっちまえ!」ぐらいの気持ちになる。
 でもやっぱりその時に振りかざす「正義」ってのは、自分の立場からはそう見えなくても決して完全に正しいものではないということに用心しておかないと、手ひどい間違いを犯しそうな気がする。ちょっと戦争前夜的な朝鮮半島版キューバ危機っぽい状況の中、「正義は我らにあり」というような雰囲気が醸し出されつつあるので、「それって危ないかもよ」と警句を発しておきたい。
 人が「正義」の名のもとに行ってきた悪行なんて枚挙にいとまないでしょ。

 繰り返すけど絶対的な「正義」なんてものはない。だから、思考停止せずに常に理解を深め考え続ける努力が何事においても大事なんだと思う、とまた説教臭くなって我ながらSJWくせえなと思うが、自戒を込めて書いておきたい。

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