不惑と呼ばれる40歳を迎えたのも最近のように感じるが、時のたつのは早いものである。21日で45歳になった。
オッサンとして着々とキャリアを重ねている気がする。
体の節々が痛く、目がしょぼしょぼと特に近くが見にくくなり、トイレは近く、朝は早いが疲れはとれにくい。
書いてて泣けてくるようだが、歳をとって良くなったのは、そういう負の要素を重ねたとしても、それほど気にしていない図々しさを獲得したことだろうか。
「諦念」とか「悟り」とまでは高尚でなくても、「適当」とか「いい加減」とかには近づきつつあるように思う。
若い頃に心を煩わせた、強い怒りの感情や欲望もそろそろ枯れてきて、穏やかな心境に近づいてきたような気がする。気のせいか?
それでも時にむかついたり、気分が落ち込んだりもするけれど、悪い日もあれば良い日もあると自分に言い聞かせるぐらいのことはできるようになってきた。と思う。
これから気力も体力も向上は期待できず、現状維持が良いところだろうと思うが、楽しいことを探しながら、ボチボチとやっていけたら良いなと思うところ。
まあ、週末釣りに行けるなら、それ以上望むべくもないのかなと思う秋の日であった。
2016年9月25日日曜日
2016年9月18日日曜日
ネットでTV
地上波のテレビはあまりみない方だと思う。
みるのは録画して視聴している深夜のアニメとNHKの「ダーウィンが来た!」とかの動物番組ぐらいで、後はボクシングとかの格闘技の中継。金曜のボクシングは面白かった!
格闘技は一時期ブームで大晦日には「PRIDE」と「K-1」両団体が興行をうってTV放送していたくらいだったが、K-1は身売り、PRIDEは解散という栄枯盛衰を味わった。しかしながら、昨年末久しぶりに大晦日に格闘技番組がやってたのからも分かるようにチョット日本での格闘技人気が戻ってきているようだ。
世界的にはアメリカのUFCという団体が人気で、MMA(ミクスドマーシャルアーツ、いわゆる総合格闘技)のメジャーリーグみたいな大舞台になっている。
日本でも総合格闘技の団体は「修斗」とか「パンクラス」とかいくつか生き残っていて、最近キックボクシング系の「K-1」も「新生K-1」ということで定期的に興行をうっている。
地上波ではやっていないので、どっかで見ることができないかと探してはいたんだけど、WOWWOWとかケーブルテレビとかは契約がめんどくせえので手が出ないでいた。
それが、ネットで無料放送の「abemaTV」というのができて、そこの格闘チャンネルに、日本の格闘技団体の興行はもちろん、UFCもちょこちょこ、UFCの次ぐらいに大きなアメリカの総合格闘技の団体の「ベラトール」については、これから全シリーズ放送予定ということで、なかなかに充実している。チャンネルは他にもアニメチャンネルとかもあって充実していて、しばらく無料で楽しんでいたのだが、これを録画する方法が画面を無料ソフトで連続画像保存するとかなんとか面倒そうなのでどうにかならんのかと思っていたら、月千円弱で過去放送分を好きなように見られるというサービスがあるのに気がついた。たぶん無料放送は餌でこちらに誘導しようとしているのだろう。
まんまと餌に食いついてしまった。手続きもネットでコチョコチョッとすぐ済んだ。
一気に沢山見たらチョット飽きてしまったが、まあ面白い。もともと総合格闘技とかは流血している相手のうえに馬乗りになって殴りまくるとか、絵的に地上波でやるには陰惨な部分があったので、好き者が金を払ってひっそりとみるこういった形がふさわしいのかもしれない。
今日、音楽にしろ本にしろ芸術はネットでも手に入るので、ネットの前のオタクが現代の芸術のパトロンだと感じていたが、戦士の戦いをコロッセオで観戦していた王侯貴族のような楽しみもネットの前のオタクには提供されているのである。
労働力として搾取され、種々監視されている奴隷のような面もある我々だが、王侯貴族の楽しみを享受しているのもまた真実のように思う。
戦士たちよ我を満足させてくれたまえ。
2016年9月11日日曜日
半ダースも買ったいいわけ
ルアーをまとめ買いするときに、6個買っちゃうのは今のように何でもネット通販できる以前の、店頭に無かったら問屋から取り寄せてもらうときの癖のようなモノだろうか。
2個とか3個とか売って欲しくても、店としては問屋に発注する単位が箱単位なので売れ筋商品じゃ無いマイナールアーは「箱単位でしか取り寄せできないんです」と言われたモノであった。
写真の箱の並びを見てもらったら一目瞭然だと思うが、3個2列で6個というのは梱包しやすく、ルアーの「箱買い」では6個というのが一般的であった。
6個というのは1ダース12個の半分の「半ダース」で、12進法っていうのも実際の商品取引なんかでは案外便利なのかなという気がしたりして、両手の指の数が基準になっている10進法が主流になっている現代でも、12進法とか、その系列の時間の60進法、角度の360進法っていうのが残っているのは何でだろうなとふと考えてみた。
時計の文字盤の数字を見ながら想像すれば分かるが、これが12進法じゃなくて10進法だと、4分の1のところが12進法なら3の倍数だけど、10進法だと2.5と整数でなくて収まりが悪い。だけど、それなら16進法にしちゃえば更に8分の1も整数できりが良い。12進法で8分の1は2.5だけど16進法では2である。
どうにも使いやすさだけが12進法とかが使われてきた理由じゃなさそうだなという感じがしたので、ググったりウィキったりしてみた。
その結果やっぱり、12が約数の多い割り切れて便利な数字だからというのは理由の一つにあるようで、10進法の10がの約数が2と5の2つしかないのに、12は2、3、4、6で割り切れる。
16進法の16も2、4、8、の3つで割り切れるけど、12の4つには負けて12の方が使いやすそうな印象ではある。
そしてたぶん、12進法、60進法、360進法が使われてきた理由のもう一つはこれだろうなというのが、天体の動きに由来するというもの。
1年に月の満ち欠けがおよそ12周期、1年が大ざっぱに360日で1日に1度ぐらいズレるあたりが基準になって、これらの12進法系列の数え方は良いあんばいに使いやすかったこともあって今でも残っているのかなというのが、私の理解。
ルアーを1度に6個も買ってしまうのにもそれなりに数に関する必然性があったのである、ということにしておこう。
そろそろ秋っぽくなってきて、ハゼシーズンもあと1回行くかどうかぐらいでシーバスをそろそろという感じになってきた。
2016年9月3日土曜日
都会のコイ
都会のコイが好きになれない。
魚に貴賤はないと思うのだが、正直どうにも駄目だ。
宿舎の前の三面護岸の川にも沢山泳いでいるのだが、見ていてあまりに野生を失いすぎているように感じる。堕落してやがる。
まずは、天敵への警戒心が薄い。
近所の三面護岸の川は水深が50センチあるかないかぐらいで、浅いと20センチぐらいしかないのに、そこをコイたちは背びれを出して泳いでいる。カワウソはもう日本にいないにしてもミンクのような魚食いの獣やミサゴのような猛禽に狙われたら、たやすく捕らわれてしまうような浅くて逃げ込む深場も障害物もない水域を平気で泳いでいる。
ミサゴは多摩川あたりにはいるそうなので、そのうち簡単に餌が手に入る狩り場としてこちらにも出張してくるかもしれない。そうなったら狩り放題でミサゴウハウハである。都会のコイは野生生物としての臆病さと慎重さを欠いていると思う。
そして、人間がくれる餌を喜んで食べる。
「釣りキチ三平」で「鯉釣りは1日1寸」といっていて、毎日撒き餌をして尺物を釣ろうと思えば10日も撒き餌して警戒心を解く必要があるということだったと思うが、都会のコイは、撒き餌する前から近所の人に餌もらって学習しているのか、橋の上からのぞき込んだりするとパクパク口を開けて寄ってきたりする。あまつさえ毛針で狙うときなどフライラインが水面をたたくと、餌が投げ込まれた音と勘違いしてかワラワラと寄ってくる。釣る前に水面をたたいて魚を寄せるなんてのは、私の知る限りアマゾンのピラニア釣りと欧州のヨーロッパオオナマズ釣りと、瀬戸内海の鯛釣りの漁法と・・・意外とある。意外とあるけど鯉釣りは違うんである。断じてそうじゃなくて鯉釣りは静謐の釣りのはずである。そして玄人好みのする難しい釣りだったはずである。あんまり簡単に人の投げた餌を食うなよと。たとえそれにハリがついていようがいまいがである。
まあ食う方も食う方だが、餌を与える方も与える方である。クマはじめ野生生物に餌を与えるのはよろしくないというのが、今時の常識というモノではないだろうか。
例外的に慣習的に野生生物に餌やりが行われているのは鳥相手ぐらいというのが私の感覚なのだが、どんなもんだろう。最近は「餌やり禁止」的な方向なのか?
鳥の場合、もともと田んぼで落ち穂を拾っていた鳥に越冬用の餌を与えている公園だとか、個人の庭で飛んでくる野鳥に餌台を設けて餌を与えるというのがあると思うけど、鳥の生活は元々鳥自体が空を飛んで人間の生活圏に入ってこれる生き物なので、人間の活動と切り離せない縁の深い性質があるように思っている。餌台を庭に設けるのと庭に実のなる木を植えるのと、あまり変わりがないように感じるし、それは自然な気がする。
それに引き替え、自然の川の魚に庭の池の魚にするように餌を与えるのは、とてもいびつに感じる。川を泳ぐ魚は自分の力で生きるべきだと強く感じる。
とはいえ、日本の川では、アユとヤマメを中心に、自力で生き延びるよりも多く釣られてしまうので、人間の手で「増殖」しているという現実もある。自然の河川の釣り堀化のようなことが現実としてある。そんな中で餌をやることだけを非難することは意味がないのかもしれない。
先日も、祭りの余興で川に金魚を放流するというのが生態系への影響から問題であるとされて魚類学者が非難のコメントを出していたが、既に30年来続けてきた行事らしくもあり、また河川の状況が前述のように「釣堀化」している中でいまさら感が強かった。
にもかかわらず、今ここにこうして、都会のコイを問題視するようなことを書いているのは、こと都会の川に限っては「釣堀化」と逆の自然が戻ってくるという状況にあり、その状況下で、いい加減川がコイだらけという現実がおかしいと感じているからである。
一度入れてしまうとコイは数十年生きる長寿の魚なので、なかなかコイ中心の状況を覆せない。でもそろそろコイはやめて、自然に増えるための産卵場所の造成などを中心に、海から上がってくるマルタやアユ、河川で増えるオイカワやフナを中心にした都会の川を目指すんです!という意識の芽生えやそのための実践が重要になってきていると思うので書いたのである。
そういう中で自然に増えた分のコイについては文句をいうつもりは全くない。それが、今の大陸産由来のコイの子孫であっても、自らの力で増殖し、生態的地位を得たならば、小うるさい学者のように、もともといた魚と遺伝的な差異があるとか何とかいうつもりもない。
一度壊れた自然が戻ってきて、それにふさわしい生物群集が自然の競争の中で形づくられたならば、元々がどうとか遺伝的にどうとか、それ以上を求める必要などあるのか、いつも小うるさい学者の説を目にするたびに強い違和感を覚える。
きっと、そういう自然な競争の中で育ったなら、都会のコイも相応に野性的に育って、釣るのも困難を伴い、それ故に楽しくなるはずである。
そうなるまでは、都会のコイに簡単に餌に食いつくと痛い目に会うということを教育するために、たまに釣っていじめてやろうと思うのであった。
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