2016年5月8日日曜日

明日死ぬと思って生きられるか?永遠に生きるつもりで学べるか?

 「永遠に生きるつもりで学びなさい」というのは「明日死ぬと思って生きなさい」という言葉と対をなすマハトマ・ガンジー翁のお言葉で、以前にも紹介しているがまた使わせてもらう。例えば千年に一度の大震災について、百年の命なら忘れてしまっても実害はないし、明日死ぬのなら学ぶ意味も無いが、永遠に生きるのなら、確率論の話で充分に長い期間においては低い確率の事象も必ず起こるのだから、忘れずに経験に学んでおく必要があるという意味で、日々の経験から注意深く様々なことを学んでおけということだろうと私は解釈している。

 近年のiPS細胞はじめ再生医療の進歩、脳の機能の解明、人工知能の進展とそれらに関する技術についての議論、等々の情報に触れるにつれ、意外に永遠の命とか不老不死とかの技術が近づいているように感じている。

 あと数十年ぐらいで、再生医療の進歩により、脳以外の体のパーツを新品に交換するような技術が実現可能になって寿命が飛躍的に延びたり(実現したら腰と膝と目を新品に換えたい)、もっと極端に人間の思考や脳内の情報を生身の脳から吸い出して、人工知能に移し替えるような技術の実用化によって「永遠の命」が手に入るというのも、全くの絵空事ではなくなってきているように感じる。

 そうなった時に、何百年とか生きたときに、人は精神的に耐えられるのか?

 何をいいたいのか、すぐに理解できないかも知れないが、永遠の命を持つ者の悲哀というテーマは人魚の肉を食って不老不死化した八百比丘尼なんてお話の昔から語られていて、古代中国とかの権力者が求めてやまなかった不老不死が、永遠の命が、必ずしも幸せって訳じゃないというのは実に「文学的」なテーマだと思う。

 それを初めて意識させられた作品は、私の場合中学生のころに姉の本棚から引っ張りだして読んだ萩尾望都の傑作マンガ「ポーの一族」であり、このたび何十年ぶりかで同作品の続編が描かれるというニュースを聞いて感慨深いものがある。
 吸血鬼の一族であるエドガーとアランは、不老であることがバレないように旅を続ける運命のなかで、愛しく思う人間が現れても、それらは彼らの感覚ではあっという間に年老いて死んでいき、結局2人きりの寂しい存在でしかあり得ないという切ない物語なのである。

 続編読むの楽しみでしかたないぐらい面白いマンガであり、「不老不死の悲哀」というテーマ自体もとても興味深く、また数々の作品で扱われてきたところである。
 「魔女の心臓」なんてマンガが正統な血脈に連なる作品だと思うし、高橋留美子大先生も八百比丘尼を題材に「人魚の森」を描いている。
 「鋼の錬金術師」でもダンテが不老不死だし、JOJOではカーズが宇宙空間に吹っ飛ばされて考えるのをやめても死なない不老不死の存在だったし、DI0はジョースターの血統と足かけ四世代にわたって因縁の闘いを繰り広げた。「シドニアの騎士」では指導者階級の不死の船員がでてくる。
 実際の生物で老体が幼体に若返るというベニクラゲというのがいて、その方式で永遠の命を持つジャムジャム様という神様がでてくる「おいでませり」、脳以外のサイボーグ化がでてくる「EDEN」、少佐の「ゴースト」を情報としてネットに融合させた「攻殻機動隊」、思考情報そのものが意思を持った不老不死の存在として描かれたハイペリオンシリーズの「雲去」や涼宮ハルヒシリーズの「統合思念体」、不老不死の機械の体を求めて旅するが結局限りある命を選んだ「銀河鉄道999」の鉄郎などなどマンガに限らずいろんな作家がいろんな切り口で描いている。

 これらの作品を読むと、感覚的にわかるのが、周りが死んでいくのに自分が老いもしなければ死にもしないというのは魂の監獄とも表現されるぐらいの苦痛でしかないということである。まあそりゃ寂しいわな。
 逆に不老でも不死ではなくて、機械の体がぶっ壊れたら死ぬとか、ほかにも長い旅の道連れがいるとか、そういう場合はそれ程きつくなさそうに直感的には感じる。
 不老であっても不死じゃない場合、ダモクレスの剣的に明日死ぬかもしれないのは、80歳ぐらいが寿命の場合となにも本質的に違いはなくて、いつ空が落ちてくるかというようなことを心配してみても意味がないだろう。
 相棒がいれば退屈しないですむ、寂しさもある程度緩和されるというのもその通りだろう。
 ただ、自分が例えば親しい友人と釣りとかしながら長生きすると想像してみて、100年単位ぐらいは暇つぶせる自信があるが、1000年単位から先になると自信がない。さすがに退屈して死ぬかも。人間の精神構造って、もともと数十年しか生きないことを前提に進化してきているから、二桁も寿命が違ってくるとちょっと新たな進化が必要になってくるのではないだろうか?

 でもって、実際に今後出てくるであろう「不老不死」の技術については、大きく分けて「パーツ交換」と「魂のコピー」の2つあるだろうと思う。

 「パーツ交換」については、再生医療で新品の器官を造って移植するとか、機械のパーツを体の1部に組み込むとかだが、ほとんど抵抗感無く受け入れられることだろう。というか、すでに眼鏡だの差し歯だのはなじみ深い。どこまで行ってもその延長線の技術でしかないように感じる。自分の本体がいて、その個々の部品を交換する。自分そのものが変わってしまうようなことではないと考える。

 しかしながら「魂のコピー」の方は、かなり倫理的にも議論があるだろうし、技術を受ける本人の認識としても種々感じ方があるのではないだろうか。
 人の「魂」がモノを考えるとか記憶とかいう脳の働きにあるのだとして、それをデータとして吸い出して、コンピューターや他の脳など他の入れ物にコピーする技術が出来た場合を想定して考えている。
 この場合、技術の高度さや完全性によっても大きく事情は変わるだろう。
 吸い出した「魂」をコンピューターに移植したところで、そのコンピューターの人工知能が元の人間と同様に思考し記憶しといった活動を行えない限り、コピーは完全では無く、別のモノとなってしまっていて自分がコンピューターの中で生き続けるとは感じないだろう。
 思考は身体感覚とまったく切り離すことはできないだろうから、目や腕や足も必要なように感じる。ただ、そこは五体不満足な人でも人であり続けられるように、それほどこだわらなくても案外人間としては平気な部分ではないかと考える。カメラアイにマニュピレータの腕、車輪の足でも「人間」として成立すると思う。
 でも脳の機能、思考や記憶をどこまで人工知能で再現すれば、魂や人間の再現となるかは、実際には境界があやふやで、意外にいい加減なところでも成立するのかも知れないし、かなり精密にやらないと上手くいかないのかも知れない。
 極端な話、自分の思いのたけをぶちまけた書籍が残れば自分の魂の一部コピーが残ったと感じる場合もあるはずで、コピーとしては完全性はそれ程必要ではないのではないかという気がしている。ボケて記憶が飛んでも自分は自分であることに変わりないと感じるだろう。

 人工知能の議論で脳科学者が人間の脳の機能はあまりに複雑で人工知能での再現は不可能であると断言していて、いくら複雑でも程度の問題でそのうち技術が追いつくだろうことは想像できるだろうに「アホやなこいつ」と思ったが、案外てきとうな再現時点で機能してしまうかも知れない。
 ちなみに脳機能が人工知能で再現できないとする見解は、画素数が少なかった時代のデジカメ画像がフィルム写真の画像を再現できないと主張していた間抜けと同様の誤りだと思う。そんなの画素数がフィルムの色素の粒子数を超えれば良いだけで、すぐに追い抜くのは明白だったと、後出しじゃんけんで言っているのではなく、荒い低解像度のデジカメ写真を見ていてもそのぐらいは想像できた。
 件の脳科学者は自身の研究対象を神聖視しご大層なことと考えすぎているように思う。
 人工知能は人の「魂」をそのうち完全にコピーできるようになるだろうし、そこまで行かなくてもけっこういい加減なところでも「魂」が宿るのではないだろうかと思う。人工知能が自我を持ち「人間の証明」をやってのける日も近いように思う。

 その場合に、本人が病気や老化で死にかけているときにコピーを取ってコピーが生き残り、それが「永遠の命」と感じることができるかと、色々なった気で考えてみると、どうもそんなモンは「永遠の命」でも何でもないと感じるんじゃないかという結論になる。
 コピーが残っても、コピー元の自分が死ねば、その人格にとっては歴然たる死で、「別人格の他人であるコピー」が生きていても自分の命とは何ら関係ない気がするだろうと思う。
 自分が死んで、コピーが生きていると想像してみて欲しい。そんなの人生の連続性を感じないでしょ?コピー先の人工知能の自我の有無は自己同一性とはまた別の議論が必要なように感じる。
 不思議なことに寝るたびに途切れているはずの意識の連続性が、人間の命の連続性の認識において精神的には大きく関係してくるようなのである。意識がつながったうえで体のパーツ交換とかなら自分が長生きしているという感覚を持つことは容易である。
 ということで、不老不死の技術ができたとしても、コピーが残る方式ならまったくどうでもいいことだと現時点で私は思ってしまうのである。

 そう考えると、作中自分のバックアップをコピーできる体制が整っている、エヴァの綾波レイの有名な台詞「私が死んでも代わりはいるもの」は、また味わい深いモノがある。
 自分をコピーしたものは「代わり」であって、自分が死ぬことに変わりはないと人が認識するということが、この台詞からも示唆される。

 不老不死の技術が開発されたとき、それを利用するかどうかは、社会としての倫理の有り様の他に、個人としてそれが必要と思えるかどうかというのも色々と関係してきそうである。
 「コピーとか生きてても関係ねエ!」と私のように思うかも知れないし、偉大なる指導者としてとか、周りから求められてコピーを残さざるを得ない人もいるかも知れない。不老不死になってまで人の面倒見なければならんというのは私などは勘弁して欲しい面倒ごとだが、それを幸せと感じる人もいるだろう。
 現時点の私の不老不死についての立ち位置は、コピー方式ならいらなくて、パーツ交換方式なら是非欲しいという感じである。

 まあ、人間は数十年で死ぬことに対応して心も体も進化してきているから、そのあたりで死んでおくのが無難というものかなと、現時点では思っている。

4 件のコメント:

  1. こんばんは。寡読ながら、不老不死を扱った作品として、伊藤黒助の「イヴ愛してる」がとってもお薦めです。2巻まで出てます。続刊が刊行されることはおそらくなさそうですが‥

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  2. 以前お勧めされて読みましたよ。面白かったです。ナマジからもお勧めです。

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  3. ああ、前にも言いましたっけか‥失礼しました。
    どんだけ気に入ってんだって話ですね‥

    コミックス版のナウシカも、皇弟や皇兄、庭番のヒドラとか。
    最終巻、墓所の主との対決で「いのちは闇のなかのまたたく光だ!」と叫んだナウシカのセリフに「宮崎駿、描き切ったな~」と思った記憶があります。
    で、その後の作品は基本的に出涸らしに思える。
    千と千尋は面白かったけど。

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  4.  マンガ版ナウシカはほんと描ききってますよね。
     墓所の主とのやりとりではナウシカの「私たちは血を吐きつつ、繰り返し繰り返しその朝を越えて飛ぶ鳥だ!」に感動しました。
     生命は管理された清浄の中の不変なモノなどではあり得ず、混沌と闇の中で変化し続けるモノだという哲学が、分子生物学とか進化の議論が進展した今こそ腑に落ちる気がします。

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