2016年5月29日日曜日
PCチェアディテクティブ 便所の神さん四十九歳篇
なぜそこにそれがあるのか?きっと理由なり経緯なりがあるのだろうが、その必然性がわからない。
そういった、ふと目にする日常の謎というモノがある。
左の写真の駅のトイレの前にあるちり紙販売機もそういうモノである。
「トイレ前でちり紙売ってて何がおかしい?」と思われるかも知れないが、ちょっと考えて欲しい。今時、トイレの個室にトイレットペーパーが備え付けられていないことはない。
トイレの個室にトイレットペーパーが常備されるようになってもう何十年と経つはずだが、それでもいまだにちり紙が売っている。
これが、JRの駅ならまだ分からなくもない。お役所体質をいまだに引きずっているJRなら、「前年同」「前例踏襲」とかで非効率でも事なかれ主義で「ちり紙自販機廃止」という「改革」をせずに放置していても、「まあJRやしナ」と納得してしまうところだ。
でも、この駅はバリバリの私鉄の駅である。ちり紙自販機、手動式で電力とかを消費するタイプじゃないけど、間違いなく設置費用やちり紙の補充のための人件費とかかかっているはずで、その費用について、このコスト削減が叫ばれる世知辛いご時世、トイレの改修とかの時点で、コストダウンのために必ず撤廃の議論があったはずである。場合によっては株主総会で「あんなモンやめてまえ!」と指摘があったかも知れない。
それでも、いまだに必要性が感じられないちり紙自販機が生き残っている事実からは、便所のネズミもゲロを吐くほどのドス黒い利権と癒着の臭いがするのである。
こんな今時まったく必要性のないものを存続させるためには、かなりのことをしないといけないように感じる。新しいトイレを設計する際にちり紙自販機を設置するように何らかの圧力なり贈賄などが行われているのではないだろうか、というのはゲスの勘ぐりだろうか。そうとは軽々に断じられないように思う。
トイレ改修にあたって真面目な担当者が「ちり紙自販機廃止」を決意し、ちり紙業者にその旨伝える。するとちり紙業者が「そんなことをされては困ります。我が社の社員は皆路頭に迷ってしまいます。」とか何とかいいやがるので担当者は「そうはいっても今時、必要性の認められないものを設置しておく理屈がありません。」と突っぱねるが、業者は「とにかくこの件はあなたが思っているほど簡単に廃止とかできることじゃないんです。あなたの今後の社内での立場にも関わりますよ」とか脅してくるので、担当者は怒りを覚えて議論を打ち切り、「ちり紙自販機廃止」の方針で社内決済をとろうとする。
すると、かなりエラい上役のところで、待ったがかかる。
「キミキミ、この「ちり紙自販機廃止」というのは困るよ、あそこの会社の娘さんは、大株主のところに嫁いでいて、こんなことしたら株主総会大荒れだよ、この件はアンタッチャブルなんだ、従来通りにしておいてくれたまえ。」
とかなんとか言われて、担当者は世の中の汚さというやつを身にしみて実感するのであった。
ぐらいの社会の闇的な背景が無いと、駅前でティッシュ配ってるのに旧態依然としてちり紙自販機が存続している説明がつかないと推理しているのだが、事実はどうなんだろうか?
そんなことどうでも良いっちゃいいんだが、私気になります。
2016年5月21日土曜日
お勧めの冬虫夏草
Amazon様からメールが来て、題名が「冬虫夏草のご案内」となっていたのでおもわず吹いた。
冬虫夏草はご存じのとおり、昆虫に寄生するキノコの類で何に効くのかまではよう知らんが、高価な漢方薬としてつとに有名である。
ノコギリヤシサプリメントとか買っているので、そういう怪しげな天然物がお勧めされてきたのかと思ってメール本文を開いてみると、なんのことはない、梨木香歩先生の同名の作品がお勧めされてきているのであった。
梨木先生の作品には「家守綺譚」以来ぞっこんなので、本作はその続編らしく、そのうち読まねばなるまいと思うが、梨木先生は「西の魔女が死んだ」を読むと、明らかに本をめくって読む読者を想定して書いているようでもあり、電子版は全く出る気配がない。梨木先生の本については紙で買うしかないのかなと思っているところ。
最近は、電子書籍端末の片手操作に慣れてしまい、電車内では紙の本のページをめくる気がしなくなって、紙の本を買ってきてもサッサと「自炊」してしまってから読んでいる。
電子書籍利用は「自炊」まですると飛躍的に快適な読書生活がおくれるようになると感じているので、ちょっと初期投資やらなにやら敷居は高いけど、沢山小説やマンガを読む人には是非やった方がイイよとお勧めしておきたい。
芥川賞を取って話題になっていたお笑い芸人のピース又吉氏が、書店のフェアでお勧めの三冊という企画をやっていて、その中の一冊に「家守綺譚」が入っていて、又吉氏の受賞作とか作品については正直芸人の私小説とか全く興味なかったが、その選択については「渋いところ読んでるやンケ」と本読みとしてなかなかヤリおるという感想を持った。まあでも作品は読まんだろうな。
紙の本はかさばらない文庫版が出てから買うことにしていたが、「自炊」するようになって単行本新刊で買ってもかさばる問題はなくなったのだが、買っても読まずに「積ん読」になっている本が多くて、結局さて読もうかという段階になると文庫版や電子版が出ていたりするのとともに、なんとなく新刊を買うのは贅沢なような恐れ多いような気がして、ためらわれる貧乏くささが身についているのであった。
冬虫夏草はご存じのとおり、昆虫に寄生するキノコの類で何に効くのかまではよう知らんが、高価な漢方薬としてつとに有名である。
ノコギリヤシサプリメントとか買っているので、そういう怪しげな天然物がお勧めされてきたのかと思ってメール本文を開いてみると、なんのことはない、梨木香歩先生の同名の作品がお勧めされてきているのであった。
梨木先生の作品には「家守綺譚」以来ぞっこんなので、本作はその続編らしく、そのうち読まねばなるまいと思うが、梨木先生は「西の魔女が死んだ」を読むと、明らかに本をめくって読む読者を想定して書いているようでもあり、電子版は全く出る気配がない。梨木先生の本については紙で買うしかないのかなと思っているところ。
最近は、電子書籍端末の片手操作に慣れてしまい、電車内では紙の本のページをめくる気がしなくなって、紙の本を買ってきてもサッサと「自炊」してしまってから読んでいる。
電子書籍利用は「自炊」まですると飛躍的に快適な読書生活がおくれるようになると感じているので、ちょっと初期投資やらなにやら敷居は高いけど、沢山小説やマンガを読む人には是非やった方がイイよとお勧めしておきたい。
芥川賞を取って話題になっていたお笑い芸人のピース又吉氏が、書店のフェアでお勧めの三冊という企画をやっていて、その中の一冊に「家守綺譚」が入っていて、又吉氏の受賞作とか作品については正直芸人の私小説とか全く興味なかったが、その選択については「渋いところ読んでるやンケ」と本読みとしてなかなかヤリおるという感想を持った。まあでも作品は読まんだろうな。
紙の本はかさばらない文庫版が出てから買うことにしていたが、「自炊」するようになって単行本新刊で買ってもかさばる問題はなくなったのだが、買っても読まずに「積ん読」になっている本が多くて、結局さて読もうかという段階になると文庫版や電子版が出ていたりするのとともに、なんとなく新刊を買うのは贅沢なような恐れ多いような気がして、ためらわれる貧乏くささが身についているのであった。
2016年5月15日日曜日
妄想だらけのバスフィッシング
妄想タックルボックス第7弾は、バス釣り用ルアーでいってみます。
近所に2、3時間釣りに行くのが精一杯のていたらくでも、バス釣りぐらいは何とかなりそうな気もする。気もするんだけど、良いバス釣り場って思いつかない近頃で、バス釣りなんてもう何年も行ってない。
ラージマウスバスが全国に拡散していく状況下では、一時的にバスが爆発的に増える局面がそれぞれの釣り場で生じて、ウハウハな釣りがあったりしたのだが、最近はそういう状況でもなく、かつ、野池なんかは事故やらゴミ問題やらで軒並み釣り禁止になっていて釣り場そのものも少なくなっている。
ということで、「久しぶりにバス釣りしたいナァ」と思ったところで、行くあてもなく、これまた妄想に終始するしかないのである。
とはいえ、バスルアーの多様性というのは数あるルアー釣りのジャンルでも特別で、妄想し始めたらきりがない。ルアーの釣りを憶えたのもバス釣りだったので妄想の種には事欠かない。
まあ、タックルボックスの選定からもう妄想全開で行ってます。このボックス、我々オッサン世代なら懐かしいのではないだろうか。ダイワのDT-10ケースだが、我が家にも青いの2つとこの黄色の1つが残っているぐらいに、80年代当時のバス釣り少年にとっては標準装備だった。
でっかいボックスにごまんとルアーを入れたところで、持ち運びは面倒だし投げられるルアーの数にも限りがあるので、このボックスに入るだけ厳選して好きなルアーや使ってみたいルアー達を詰め込んでみた。
このボックスは重箱のように2段になっていて、1段目に入れたのは、ペンシルが「バルサ50が投げたいんじゃ」ということで、ビッグラッシュウォーカーとビッグラッシュスケータージュニア、抑えにレッドペッパーベイビーといつもシーバスでお世話になってますザラパピー。
ペラモノが復刻版のヘルレイザーとティムコの瓢箪型カラバシュ。
ポッパーは、ド定番のポップRの他に、故テツ西山氏もご愛用のストームチャグバクの青鱗をネットオークションで思わず競って落としてしまった。バス釣り少年だった当時使っていたのはウシガエル(ブルフロッグ)柄だったけど、いかにもストームな鱗模様のが欲しいなと思っていた少年の日の思いを、金にあかせてオッサンになってから入手。ちょっと汚い大人になった気分。
チャグバグは現行縦浮き系チャグバグと旧ノンラトルチャグバグ、旧ラトリンチャグバクと大まかに3つの時代があって、右下の派手な黄紫のは旧ラトリンチャグバグの小サイズ。
ポッパーの抑えには、BHポッパーと、ダーターかも知れないがポッパーとして使っているタイニーラッキー13。
右上は、ライブリー枠ということで、ヘドンのメドゥマウスとドミニカ製バグリーB2をぶち込んでみた。B2は男巻きしたくなるクランクベイトでもあるが、シャロークランクの仕事は名作ピーナッツⅡに任せて、トップで使ってみたい。
他に、シャローシャッドラップ、ワイヤーモノがゲーリーバズ、バイブラシャフト、スピナーがメップスとアガットという構成。
下段にいくと、ウッドラッキー13はこのサイズのダーターで釣ったことがないので釣ってみたいという選択だが、5/8サイズでよう釣らんかったらということで、ベビーラッキー13も入れている。タイニーではよく釣ってるんだけどベビーですら釣っていないというていたらく。
ピーナツⅡは頼りにしているのでDRも含め下段にも3つ入れている。
クランク系は他にリップレスクランクのスーパーミスティー。
バイブレーションがTDバイブレーションのサスペンドとシンキングそれぞれ1個づつ。バス釣り行くんなら持っとけでしょ。
ミノーは色々悩んだ結果、レーベルジョイントとインビンシブル8と5DRを選択。
TDミノーとかロングAも入れたかったがスペースの都合で割愛。バス釣り用のミノーっていうとなぜかレーベルという気がする。
下段の抑え的ルアーは、小魚逃走アクションはワームより釣れる時があるレッドペッパーjr、シャドラップは説明不要、深場にナブラ打ちに「ちびのジョージ」ことリトルジョージという感じ。
最後にノイジーはビッグバドを入れてます。ノイジーはクレイジークロウラー派かジタバグ派かどちらかといえば断然ジタバグ派だけど、ジタバグはナマズに投げたいという気分。
なかなか楽しいボックスになったと思っている。
実際バス釣り行くときにはワームも持って行くだろうけどね、妄想だからね。
妄想タックルボックスもそろそろネタ切れで一応の終幕としたい。
ただ、次に行く釣りを想定して、あれこれ妄想しながらタックルボックスにルアーを詰め込むという楽しい作業は、割と日常的にあることなので、これからも私の頭に妄想の花が開くとき、ひっそりとかつ不定期で妄想タックルボックスも再開してみたいと思う。ご愛読感謝。
2016年5月14日土曜日
アオサギは飛んでいく
今日移動中、国道の上を悠々と大型の鳥が飛んでいた。
アオサギのように首を曲げて飛んでいるが、羽の模様がくっきりと黒い。
これって、ひょっとしてコウノトリではないのかい?と気になっていたので帰ってから調べてみた。
結果としては、コウノトリは首を伸ばして飛ぶそうで、アオサギの黒化個体が正解のようだ。
でも千葉の空をコウノトリが飛んでいるというのはまんざら無い話でもないようだ。
千葉の野田市で平成27年の夏に繁殖させたコウノトリ3羽を放鳥している。
兵庫の事例はNHKの「ダーウィンが来た!」でもやっていたので知っていたが、千葉でも放鳥やっていたというのは恥ずかしながら初耳だった。茨城飛んでったり内房にやってきたりと広範囲を飛び回っているようなので町中の国道の上を飛んでいることも案外あるのかも知れない。
コウノトリが赤ちゃんを運んでくるという言い伝えには、コウノトリが目立つ高い場所に巣をかけることからの連想もあるんだろうけど、まあああいう大きな鳥が住めるぐらい餌の生物がいて水も土も空気も汚染されていない豊かな環境があるということの証明だから、そういう風に語られたんだろうなと想像できる。
そういう意味ではコウノトリほど希少ではないかも知れないが、アオサギも魚を食う大型の鳥で、魚が豊富にいなければ生きていけない鳥であり、釣り人なら愛すべき鳥だと思う。
本来カワウもそういう鳥であって、根性無く流れの緩い淵に固まりやがって食いやすい放流養殖魚で餌付けしたような状態が、彼らをして害鳥呼ばわりさせているが、本来釣り人と豊かな自然の中で魚を分け合って生きていってしかるべきお仲間である。
害鳥呼ばわりとか下品で我慢ならない。たくさん釣れればそれでいいやと、発眼卵放流や幼魚放流のようなより自然な増殖方法では無く、養殖成魚の大量放流なんていうあんまり品のよろしくないことをあちこちでやり過ぎた結果がこの始末なんだと私は感じている。
今日は運転中で写真撮っている暇が無かったので、左は昨年の佐賀のアオサギ、遠すぎてピンぼけだがデカい鳥が飛んでいくのはなかなかに雄大で気持ちの良い光景である。
サイモンアンドガーファンクル版が有名なペルーの民謡「コンドルは飛んでいく」もそんな雄大な感じのする旋律である。
あれを演奏する民族楽器のケーナは人間の大腿骨で作ることもあると聞いて、なんとも中二な楽器だなあと感心した憶えがある(当時はそういうかっこよさを表現する言葉が無かったが、「中二」という言葉でばっちりハマる)。
弦楽器部門のチャランゴという楽器がアルマジロで作ることもあるというのはあんまり中二じゃない。
サイモンアンドガーファンクル版では「If I could(もしなれるなら)」と歌われるが、私は、もしなれるなら釣りが上手くなりたいと今日切実に思っている。
2016年5月8日日曜日
明日死ぬと思って生きられるか?永遠に生きるつもりで学べるか?
「永遠に生きるつもりで学びなさい」というのは「明日死ぬと思って生きなさい」という言葉と対をなすマハトマ・ガンジー翁のお言葉で、以前にも紹介しているがまた使わせてもらう。例えば千年に一度の大震災について、百年の命なら忘れてしまっても実害はないし、明日死ぬのなら学ぶ意味も無いが、永遠に生きるのなら、確率論の話で充分に長い期間においては低い確率の事象も必ず起こるのだから、忘れずに経験に学んでおく必要があるという意味で、日々の経験から注意深く様々なことを学んでおけということだろうと私は解釈している。
近年のiPS細胞はじめ再生医療の進歩、脳の機能の解明、人工知能の進展とそれらに関する技術についての議論、等々の情報に触れるにつれ、意外に永遠の命とか不老不死とかの技術が近づいているように感じている。
あと数十年ぐらいで、再生医療の進歩により、脳以外の体のパーツを新品に交換するような技術が実現可能になって寿命が飛躍的に延びたり(実現したら腰と膝と目を新品に換えたい)、もっと極端に人間の思考や脳内の情報を生身の脳から吸い出して、人工知能に移し替えるような技術の実用化によって「永遠の命」が手に入るというのも、全くの絵空事ではなくなってきているように感じる。
そうなった時に、何百年とか生きたときに、人は精神的に耐えられるのか?
何をいいたいのか、すぐに理解できないかも知れないが、永遠の命を持つ者の悲哀というテーマは人魚の肉を食って不老不死化した八百比丘尼なんてお話の昔から語られていて、古代中国とかの権力者が求めてやまなかった不老不死が、永遠の命が、必ずしも幸せって訳じゃないというのは実に「文学的」なテーマだと思う。
それを初めて意識させられた作品は、私の場合中学生のころに姉の本棚から引っ張りだして読んだ萩尾望都の傑作マンガ「ポーの一族」であり、このたび何十年ぶりかで同作品の続編が描かれるというニュースを聞いて感慨深いものがある。
吸血鬼の一族であるエドガーとアランは、不老であることがバレないように旅を続ける運命のなかで、愛しく思う人間が現れても、それらは彼らの感覚ではあっという間に年老いて死んでいき、結局2人きりの寂しい存在でしかあり得ないという切ない物語なのである。
続編読むの楽しみでしかたないぐらい面白いマンガであり、「不老不死の悲哀」というテーマ自体もとても興味深く、また数々の作品で扱われてきたところである。
「魔女の心臓」なんてマンガが正統な血脈に連なる作品だと思うし、高橋留美子大先生も八百比丘尼を題材に「人魚の森」を描いている。
「鋼の錬金術師」でもダンテが不老不死だし、JOJOではカーズが宇宙空間に吹っ飛ばされて考えるのをやめても死なない不老不死の存在だったし、DI0はジョースターの血統と足かけ四世代にわたって因縁の闘いを繰り広げた。「シドニアの騎士」では指導者階級の不死の船員がでてくる。
実際の生物で老体が幼体に若返るというベニクラゲというのがいて、その方式で永遠の命を持つジャムジャム様という神様がでてくる「おいでませり」、脳以外のサイボーグ化がでてくる「EDEN」、少佐の「ゴースト」を情報としてネットに融合させた「攻殻機動隊」、思考情報そのものが意思を持った不老不死の存在として描かれたハイペリオンシリーズの「雲去」や涼宮ハルヒシリーズの「統合思念体」、不老不死の機械の体を求めて旅するが結局限りある命を選んだ「銀河鉄道999」の鉄郎などなどマンガに限らずいろんな作家がいろんな切り口で描いている。
これらの作品を読むと、感覚的にわかるのが、周りが死んでいくのに自分が老いもしなければ死にもしないというのは魂の監獄とも表現されるぐらいの苦痛でしかないということである。まあそりゃ寂しいわな。
逆に不老でも不死ではなくて、機械の体がぶっ壊れたら死ぬとか、ほかにも長い旅の道連れがいるとか、そういう場合はそれ程きつくなさそうに直感的には感じる。
不老であっても不死じゃない場合、ダモクレスの剣的に明日死ぬかもしれないのは、80歳ぐらいが寿命の場合となにも本質的に違いはなくて、いつ空が落ちてくるかというようなことを心配してみても意味がないだろう。
相棒がいれば退屈しないですむ、寂しさもある程度緩和されるというのもその通りだろう。
ただ、自分が例えば親しい友人と釣りとかしながら長生きすると想像してみて、100年単位ぐらいは暇つぶせる自信があるが、1000年単位から先になると自信がない。さすがに退屈して死ぬかも。人間の精神構造って、もともと数十年しか生きないことを前提に進化してきているから、二桁も寿命が違ってくるとちょっと新たな進化が必要になってくるのではないだろうか?
でもって、実際に今後出てくるであろう「不老不死」の技術については、大きく分けて「パーツ交換」と「魂のコピー」の2つあるだろうと思う。
「パーツ交換」については、再生医療で新品の器官を造って移植するとか、機械のパーツを体の1部に組み込むとかだが、ほとんど抵抗感無く受け入れられることだろう。というか、すでに眼鏡だの差し歯だのはなじみ深い。どこまで行ってもその延長線の技術でしかないように感じる。自分の本体がいて、その個々の部品を交換する。自分そのものが変わってしまうようなことではないと考える。
しかしながら「魂のコピー」の方は、かなり倫理的にも議論があるだろうし、技術を受ける本人の認識としても種々感じ方があるのではないだろうか。
人の「魂」がモノを考えるとか記憶とかいう脳の働きにあるのだとして、それをデータとして吸い出して、コンピューターや他の脳など他の入れ物にコピーする技術が出来た場合を想定して考えている。
この場合、技術の高度さや完全性によっても大きく事情は変わるだろう。
吸い出した「魂」をコンピューターに移植したところで、そのコンピューターの人工知能が元の人間と同様に思考し記憶しといった活動を行えない限り、コピーは完全では無く、別のモノとなってしまっていて自分がコンピューターの中で生き続けるとは感じないだろう。
思考は身体感覚とまったく切り離すことはできないだろうから、目や腕や足も必要なように感じる。ただ、そこは五体不満足な人でも人であり続けられるように、それほどこだわらなくても案外人間としては平気な部分ではないかと考える。カメラアイにマニュピレータの腕、車輪の足でも「人間」として成立すると思う。
でも脳の機能、思考や記憶をどこまで人工知能で再現すれば、魂や人間の再現となるかは、実際には境界があやふやで、意外にいい加減なところでも成立するのかも知れないし、かなり精密にやらないと上手くいかないのかも知れない。
極端な話、自分の思いのたけをぶちまけた書籍が残れば自分の魂の一部コピーが残ったと感じる場合もあるはずで、コピーとしては完全性はそれ程必要ではないのではないかという気がしている。ボケて記憶が飛んでも自分は自分であることに変わりないと感じるだろう。
人工知能の議論で脳科学者が人間の脳の機能はあまりに複雑で人工知能での再現は不可能であると断言していて、いくら複雑でも程度の問題でそのうち技術が追いつくだろうことは想像できるだろうに「アホやなこいつ」と思ったが、案外てきとうな再現時点で機能してしまうかも知れない。
ちなみに脳機能が人工知能で再現できないとする見解は、画素数が少なかった時代のデジカメ画像がフィルム写真の画像を再現できないと主張していた間抜けと同様の誤りだと思う。そんなの画素数がフィルムの色素の粒子数を超えれば良いだけで、すぐに追い抜くのは明白だったと、後出しじゃんけんで言っているのではなく、荒い低解像度のデジカメ写真を見ていてもそのぐらいは想像できた。
件の脳科学者は自身の研究対象を神聖視しご大層なことと考えすぎているように思う。
人工知能は人の「魂」をそのうち完全にコピーできるようになるだろうし、そこまで行かなくてもけっこういい加減なところでも「魂」が宿るのではないだろうかと思う。人工知能が自我を持ち「人間の証明」をやってのける日も近いように思う。
その場合に、本人が病気や老化で死にかけているときにコピーを取ってコピーが生き残り、それが「永遠の命」と感じることができるかと、色々なった気で考えてみると、どうもそんなモンは「永遠の命」でも何でもないと感じるんじゃないかという結論になる。
コピーが残っても、コピー元の自分が死ねば、その人格にとっては歴然たる死で、「別人格の他人であるコピー」が生きていても自分の命とは何ら関係ない気がするだろうと思う。
自分が死んで、コピーが生きていると想像してみて欲しい。そんなの人生の連続性を感じないでしょ?コピー先の人工知能の自我の有無は自己同一性とはまた別の議論が必要なように感じる。
不思議なことに寝るたびに途切れているはずの意識の連続性が、人間の命の連続性の認識において精神的には大きく関係してくるようなのである。意識がつながったうえで体のパーツ交換とかなら自分が長生きしているという感覚を持つことは容易である。
ということで、不老不死の技術ができたとしても、コピーが残る方式ならまったくどうでもいいことだと現時点で私は思ってしまうのである。
そう考えると、作中自分のバックアップをコピーできる体制が整っている、エヴァの綾波レイの有名な台詞「私が死んでも代わりはいるもの」は、また味わい深いモノがある。
自分をコピーしたものは「代わり」であって、自分が死ぬことに変わりはないと人が認識するということが、この台詞からも示唆される。
不老不死の技術が開発されたとき、それを利用するかどうかは、社会としての倫理の有り様の他に、個人としてそれが必要と思えるかどうかというのも色々と関係してきそうである。
「コピーとか生きてても関係ねエ!」と私のように思うかも知れないし、偉大なる指導者としてとか、周りから求められてコピーを残さざるを得ない人もいるかも知れない。不老不死になってまで人の面倒見なければならんというのは私などは勘弁して欲しい面倒ごとだが、それを幸せと感じる人もいるだろう。
現時点の私の不老不死についての立ち位置は、コピー方式ならいらなくて、パーツ交換方式なら是非欲しいという感じである。
まあ、人間は数十年で死ぬことに対応して心も体も進化してきているから、そのあたりで死んでおくのが無難というものかなと、現時点では思っている。
近年のiPS細胞はじめ再生医療の進歩、脳の機能の解明、人工知能の進展とそれらに関する技術についての議論、等々の情報に触れるにつれ、意外に永遠の命とか不老不死とかの技術が近づいているように感じている。
あと数十年ぐらいで、再生医療の進歩により、脳以外の体のパーツを新品に交換するような技術が実現可能になって寿命が飛躍的に延びたり(実現したら腰と膝と目を新品に換えたい)、もっと極端に人間の思考や脳内の情報を生身の脳から吸い出して、人工知能に移し替えるような技術の実用化によって「永遠の命」が手に入るというのも、全くの絵空事ではなくなってきているように感じる。
そうなった時に、何百年とか生きたときに、人は精神的に耐えられるのか?
何をいいたいのか、すぐに理解できないかも知れないが、永遠の命を持つ者の悲哀というテーマは人魚の肉を食って不老不死化した八百比丘尼なんてお話の昔から語られていて、古代中国とかの権力者が求めてやまなかった不老不死が、永遠の命が、必ずしも幸せって訳じゃないというのは実に「文学的」なテーマだと思う。
それを初めて意識させられた作品は、私の場合中学生のころに姉の本棚から引っ張りだして読んだ萩尾望都の傑作マンガ「ポーの一族」であり、このたび何十年ぶりかで同作品の続編が描かれるというニュースを聞いて感慨深いものがある。
吸血鬼の一族であるエドガーとアランは、不老であることがバレないように旅を続ける運命のなかで、愛しく思う人間が現れても、それらは彼らの感覚ではあっという間に年老いて死んでいき、結局2人きりの寂しい存在でしかあり得ないという切ない物語なのである。
続編読むの楽しみでしかたないぐらい面白いマンガであり、「不老不死の悲哀」というテーマ自体もとても興味深く、また数々の作品で扱われてきたところである。
「魔女の心臓」なんてマンガが正統な血脈に連なる作品だと思うし、高橋留美子大先生も八百比丘尼を題材に「人魚の森」を描いている。
「鋼の錬金術師」でもダンテが不老不死だし、JOJOではカーズが宇宙空間に吹っ飛ばされて考えるのをやめても死なない不老不死の存在だったし、DI0はジョースターの血統と足かけ四世代にわたって因縁の闘いを繰り広げた。「シドニアの騎士」では指導者階級の不死の船員がでてくる。
実際の生物で老体が幼体に若返るというベニクラゲというのがいて、その方式で永遠の命を持つジャムジャム様という神様がでてくる「おいでませり」、脳以外のサイボーグ化がでてくる「EDEN」、少佐の「ゴースト」を情報としてネットに融合させた「攻殻機動隊」、思考情報そのものが意思を持った不老不死の存在として描かれたハイペリオンシリーズの「雲去」や涼宮ハルヒシリーズの「統合思念体」、不老不死の機械の体を求めて旅するが結局限りある命を選んだ「銀河鉄道999」の鉄郎などなどマンガに限らずいろんな作家がいろんな切り口で描いている。
これらの作品を読むと、感覚的にわかるのが、周りが死んでいくのに自分が老いもしなければ死にもしないというのは魂の監獄とも表現されるぐらいの苦痛でしかないということである。まあそりゃ寂しいわな。
逆に不老でも不死ではなくて、機械の体がぶっ壊れたら死ぬとか、ほかにも長い旅の道連れがいるとか、そういう場合はそれ程きつくなさそうに直感的には感じる。
不老であっても不死じゃない場合、ダモクレスの剣的に明日死ぬかもしれないのは、80歳ぐらいが寿命の場合となにも本質的に違いはなくて、いつ空が落ちてくるかというようなことを心配してみても意味がないだろう。
相棒がいれば退屈しないですむ、寂しさもある程度緩和されるというのもその通りだろう。
ただ、自分が例えば親しい友人と釣りとかしながら長生きすると想像してみて、100年単位ぐらいは暇つぶせる自信があるが、1000年単位から先になると自信がない。さすがに退屈して死ぬかも。人間の精神構造って、もともと数十年しか生きないことを前提に進化してきているから、二桁も寿命が違ってくるとちょっと新たな進化が必要になってくるのではないだろうか?
でもって、実際に今後出てくるであろう「不老不死」の技術については、大きく分けて「パーツ交換」と「魂のコピー」の2つあるだろうと思う。
「パーツ交換」については、再生医療で新品の器官を造って移植するとか、機械のパーツを体の1部に組み込むとかだが、ほとんど抵抗感無く受け入れられることだろう。というか、すでに眼鏡だの差し歯だのはなじみ深い。どこまで行ってもその延長線の技術でしかないように感じる。自分の本体がいて、その個々の部品を交換する。自分そのものが変わってしまうようなことではないと考える。
しかしながら「魂のコピー」の方は、かなり倫理的にも議論があるだろうし、技術を受ける本人の認識としても種々感じ方があるのではないだろうか。
人の「魂」がモノを考えるとか記憶とかいう脳の働きにあるのだとして、それをデータとして吸い出して、コンピューターや他の脳など他の入れ物にコピーする技術が出来た場合を想定して考えている。
この場合、技術の高度さや完全性によっても大きく事情は変わるだろう。
吸い出した「魂」をコンピューターに移植したところで、そのコンピューターの人工知能が元の人間と同様に思考し記憶しといった活動を行えない限り、コピーは完全では無く、別のモノとなってしまっていて自分がコンピューターの中で生き続けるとは感じないだろう。
思考は身体感覚とまったく切り離すことはできないだろうから、目や腕や足も必要なように感じる。ただ、そこは五体不満足な人でも人であり続けられるように、それほどこだわらなくても案外人間としては平気な部分ではないかと考える。カメラアイにマニュピレータの腕、車輪の足でも「人間」として成立すると思う。
でも脳の機能、思考や記憶をどこまで人工知能で再現すれば、魂や人間の再現となるかは、実際には境界があやふやで、意外にいい加減なところでも成立するのかも知れないし、かなり精密にやらないと上手くいかないのかも知れない。
極端な話、自分の思いのたけをぶちまけた書籍が残れば自分の魂の一部コピーが残ったと感じる場合もあるはずで、コピーとしては完全性はそれ程必要ではないのではないかという気がしている。ボケて記憶が飛んでも自分は自分であることに変わりないと感じるだろう。
人工知能の議論で脳科学者が人間の脳の機能はあまりに複雑で人工知能での再現は不可能であると断言していて、いくら複雑でも程度の問題でそのうち技術が追いつくだろうことは想像できるだろうに「アホやなこいつ」と思ったが、案外てきとうな再現時点で機能してしまうかも知れない。
ちなみに脳機能が人工知能で再現できないとする見解は、画素数が少なかった時代のデジカメ画像がフィルム写真の画像を再現できないと主張していた間抜けと同様の誤りだと思う。そんなの画素数がフィルムの色素の粒子数を超えれば良いだけで、すぐに追い抜くのは明白だったと、後出しじゃんけんで言っているのではなく、荒い低解像度のデジカメ写真を見ていてもそのぐらいは想像できた。
件の脳科学者は自身の研究対象を神聖視しご大層なことと考えすぎているように思う。
人工知能は人の「魂」をそのうち完全にコピーできるようになるだろうし、そこまで行かなくてもけっこういい加減なところでも「魂」が宿るのではないだろうかと思う。人工知能が自我を持ち「人間の証明」をやってのける日も近いように思う。
その場合に、本人が病気や老化で死にかけているときにコピーを取ってコピーが生き残り、それが「永遠の命」と感じることができるかと、色々なった気で考えてみると、どうもそんなモンは「永遠の命」でも何でもないと感じるんじゃないかという結論になる。
コピーが残っても、コピー元の自分が死ねば、その人格にとっては歴然たる死で、「別人格の他人であるコピー」が生きていても自分の命とは何ら関係ない気がするだろうと思う。
自分が死んで、コピーが生きていると想像してみて欲しい。そんなの人生の連続性を感じないでしょ?コピー先の人工知能の自我の有無は自己同一性とはまた別の議論が必要なように感じる。
不思議なことに寝るたびに途切れているはずの意識の連続性が、人間の命の連続性の認識において精神的には大きく関係してくるようなのである。意識がつながったうえで体のパーツ交換とかなら自分が長生きしているという感覚を持つことは容易である。
ということで、不老不死の技術ができたとしても、コピーが残る方式ならまったくどうでもいいことだと現時点で私は思ってしまうのである。
そう考えると、作中自分のバックアップをコピーできる体制が整っている、エヴァの綾波レイの有名な台詞「私が死んでも代わりはいるもの」は、また味わい深いモノがある。
自分をコピーしたものは「代わり」であって、自分が死ぬことに変わりはないと人が認識するということが、この台詞からも示唆される。
不老不死の技術が開発されたとき、それを利用するかどうかは、社会としての倫理の有り様の他に、個人としてそれが必要と思えるかどうかというのも色々と関係してきそうである。
「コピーとか生きてても関係ねエ!」と私のように思うかも知れないし、偉大なる指導者としてとか、周りから求められてコピーを残さざるを得ない人もいるかも知れない。不老不死になってまで人の面倒見なければならんというのは私などは勘弁して欲しい面倒ごとだが、それを幸せと感じる人もいるだろう。
現時点の私の不老不死についての立ち位置は、コピー方式ならいらなくて、パーツ交換方式なら是非欲しいという感じである。
まあ、人間は数十年で死ぬことに対応して心も体も進化してきているから、そのあたりで死んでおくのが無難というものかなと、現時点では思っている。
2016年5月7日土曜日
カヌーで釣った男
妄想タックルボックス第6弾は、南の島のオカッパリとカヤックによる小物釣り用ルアーでいってみます。
近所に2、3時間釣りに行くのが精一杯のていたらくでも、カヤックはともかく、南の島のオカッパリでメッキやらフエダイ系やらコトヒキやらを釣るぐらいはまあ何とかなるでしょう。そういうのんびりとした釣りもまた楽しからん。
基本的にはレンタカー借りて、河川の河口域、港湾、干潮時のリーフなんかをランアンドガンしていく釣りである。なにが釣れるかワクワクしならも手がえしよくチャッチャと釣っていきたい。
ということで、魚の反応を手早く確認していくために、水面系が第1選択になる。
左半分ぐらいはプラスチックのムク素材でできた重めのポッパーでバスディのクリスタルポッパーほか。こいつでまずは水面早引き。ちなみに重いので早引きしないと沈んじゃう。一番右のザラポーチはあんまり出番なくて、残りの3本は超実績のダイワBHポッパー。こいつは浮くので早引きにストップとか食わせの間を取ることができる。いかに釣れるかはブルー系の背中の歯形をみて想像していただきたい。メッキもミナミクロダイもまっしぐら。
続いて、河川はもちろんリーフでも抜群の仕事をしてくれるのが小型のスプーンたち。イシミーバイことカンモンハタとかの小型ハタ系やらフエダイ系がよく釣れる。
ほぼ、5g前後のバイトばっかり投げてる。ほかのスプーンでも釣れると思うけど、ナマジ的には「バイト投げときゃOK」。
ミノー系は、足場の高い護岸や土手の上から投げるのが結構多いので、リップの大きなディープダイビングタイプの5センチ前後を中心に用意している。意外と小さなミノーはバランス崩しやすく、ツィッチとかしても飛び出さずに安定して引いてこられるのを選ぶ必要がある。バランスとるためにラインアイの左右微調整も場合によっては必要。
左から3つマイティーペッパー、つぎ3つがベビーシャッド、つぎ2つはレックスディープ、その次はメガバスのちっちゃいやつ、右側2本は遠投用にちょっと大きめ8センチのシュガーミノーと、アスリートピンテールチューンの5センチ。
最後がナブラ用のシンキングペンシル、ジグミノー、メタルジグと、イカ・タコ見つけたとき用のエギ、そして「ひみつ」となっているのは、いるけど食ってこないなど食い渋り用のセイゴスペシャルを3つほど。
セイゴスペシャルは音なし動きなしの自作ルアーで渋い状況と灯りの下で強い。
次に、カヤックを持ち込むなりレンタルするなりして、ハタ系やらフエダイ系をメインに、ナブラがあったらヒラアジ系も狙っちゃえなカヤック中小物用タックルボックス。
南の島のカヤックでの中小物釣りはリーフの潮位が高くない時を狙う。潮位が低いと水面からそれほど沈ませずにルアーを引いてくる「横の釣り」だけで、珊瑚の間とかから魚が飛び出してきて食ってくれる。潮位が高くても沈めてやれば釣れると安易に考えていると、予想以上にヒット率が低くて苦労する。
投げるルアーはミノーでも釣るけど、ナマジ的にはナブラでもない限りスプーン一択。
上の列がバイトの13gから8g、下の列がチヌーク17gから10g、同じぐらいのサイズでもチヌークの方が肉厚で重量があるのでやや深いところ用という使い分け。
アクションとかテクニックとかクソ喰らえの投げて巻くだけで釣っております。
あとは主にナブラ用、トップでとりあえず攻めて、重いミノーと鉄板系も試して、だめならサイズダウンもというプラグ系とジグとクルクル系の金物に、最後はフッコスペシャルも導入という感じで用意。
餌に狂っているナブラは意外にシビアな時があって、サイズダウンとか試し始めるような羽目になると、だいたい待っているのはスカだったりするけど、それでも何とかしたいと思うのが釣り人の性というものか。
今回妄想度がわりと低く、2009年の夏休み沖縄遠征を踏まえてのルアー選択だったりする。
遠征で一発大物ねらいのヒリヒリとした緊張感のある釣りも痺れる面白さがあるけど、こういうお気楽な小物釣りの旅もそれはそれで楽しいものである。
今は妄想かもしれないが、また現実に行きたい釣りである。
近所に2、3時間釣りに行くのが精一杯のていたらくでも、カヤックはともかく、南の島のオカッパリでメッキやらフエダイ系やらコトヒキやらを釣るぐらいはまあ何とかなるでしょう。そういうのんびりとした釣りもまた楽しからん。
基本的にはレンタカー借りて、河川の河口域、港湾、干潮時のリーフなんかをランアンドガンしていく釣りである。なにが釣れるかワクワクしならも手がえしよくチャッチャと釣っていきたい。
ということで、魚の反応を手早く確認していくために、水面系が第1選択になる。
左半分ぐらいはプラスチックのムク素材でできた重めのポッパーでバスディのクリスタルポッパーほか。こいつでまずは水面早引き。ちなみに重いので早引きしないと沈んじゃう。一番右のザラポーチはあんまり出番なくて、残りの3本は超実績のダイワBHポッパー。こいつは浮くので早引きにストップとか食わせの間を取ることができる。いかに釣れるかはブルー系の背中の歯形をみて想像していただきたい。メッキもミナミクロダイもまっしぐら。
続いて、河川はもちろんリーフでも抜群の仕事をしてくれるのが小型のスプーンたち。イシミーバイことカンモンハタとかの小型ハタ系やらフエダイ系がよく釣れる。
ほぼ、5g前後のバイトばっかり投げてる。ほかのスプーンでも釣れると思うけど、ナマジ的には「バイト投げときゃOK」。
ミノー系は、足場の高い護岸や土手の上から投げるのが結構多いので、リップの大きなディープダイビングタイプの5センチ前後を中心に用意している。意外と小さなミノーはバランス崩しやすく、ツィッチとかしても飛び出さずに安定して引いてこられるのを選ぶ必要がある。バランスとるためにラインアイの左右微調整も場合によっては必要。
左から3つマイティーペッパー、つぎ3つがベビーシャッド、つぎ2つはレックスディープ、その次はメガバスのちっちゃいやつ、右側2本は遠投用にちょっと大きめ8センチのシュガーミノーと、アスリートピンテールチューンの5センチ。
最後がナブラ用のシンキングペンシル、ジグミノー、メタルジグと、イカ・タコ見つけたとき用のエギ、そして「ひみつ」となっているのは、いるけど食ってこないなど食い渋り用のセイゴスペシャルを3つほど。
セイゴスペシャルは音なし動きなしの自作ルアーで渋い状況と灯りの下で強い。
次に、カヤックを持ち込むなりレンタルするなりして、ハタ系やらフエダイ系をメインに、ナブラがあったらヒラアジ系も狙っちゃえなカヤック中小物用タックルボックス。
南の島のカヤックでの中小物釣りはリーフの潮位が高くない時を狙う。潮位が低いと水面からそれほど沈ませずにルアーを引いてくる「横の釣り」だけで、珊瑚の間とかから魚が飛び出してきて食ってくれる。潮位が高くても沈めてやれば釣れると安易に考えていると、予想以上にヒット率が低くて苦労する。
投げるルアーはミノーでも釣るけど、ナマジ的にはナブラでもない限りスプーン一択。
上の列がバイトの13gから8g、下の列がチヌーク17gから10g、同じぐらいのサイズでもチヌークの方が肉厚で重量があるのでやや深いところ用という使い分け。
アクションとかテクニックとかクソ喰らえの投げて巻くだけで釣っております。
あとは主にナブラ用、トップでとりあえず攻めて、重いミノーと鉄板系も試して、だめならサイズダウンもというプラグ系とジグとクルクル系の金物に、最後はフッコスペシャルも導入という感じで用意。
餌に狂っているナブラは意外にシビアな時があって、サイズダウンとか試し始めるような羽目になると、だいたい待っているのはスカだったりするけど、それでも何とかしたいと思うのが釣り人の性というものか。
今回妄想度がわりと低く、2009年の夏休み沖縄遠征を踏まえてのルアー選択だったりする。
遠征で一発大物ねらいのヒリヒリとした緊張感のある釣りも痺れる面白さがあるけど、こういうお気楽な小物釣りの旅もそれはそれで楽しいものである。
今は妄想かもしれないが、また現実に行きたい釣りである。
2016年5月1日日曜日
Sea Loves you(©マルハ)
妄想タックルボックス第5弾はシイラルアーでいってみよう。
シイラ釣りって、夏のカンカン照りの日差しの下、おもいっきりポッパーとか投げまくって、みんなででっかいシイラをバンバン釣りまくってウヒャウヒャと楽しむ、麦茶とスポーツドリンクが美味い、まさに「スポーツフィッシング」という感じの夏の楽しみである。
近所に2、3時間釣りに行くのが精一杯のていたらくで、なにが夏のシイラ釣りじゃ、日陰で寝とけ、という気もするけど妄想だからいいんである。
そもそも体力云々のまえに、ここ数年は「朝早くに起きられない」という釣り人としてあるまじき理由でシイラ釣りいけてないという現実もさておき妄想、妄想。
シイラ釣りに行くときは仲間内で船を仕立てて三浦半島あたりの船宿からでることが多いのだけど、フライマンとの混成部隊になる。このときにルアーマンに求められる役割としては、とにかくルアーを投げまくって反応する魚を探しまくるということである。
ということで、ポッパー投げてよね~という感じで、最初の選択はポッパー、それも速引き系ので広範囲を探りたい、となると写真真ん中の2個フィッシャーマンクレイジースイマー小を泡引きながらファーストリトリーブなんてのがルアーマンのお仕事である。
下2個の旧マリアのポップクイーンなんてのも定番シイラポッパーなので押さえておきたい。三浦半島ご当地ルアー。
でもって、サーフェスブル150とサシミブル150はGTルアーとして超実績のあったサーフェスブル200をサイズダウンしたバージョンで、売り出された直後に「こんなんバッコンバッコンとポッピングしたらシイラまっしぐらやん」と購入したものの未だシイラに向かって投げていないルアーたちである。やればできる子のはずなのだが。
でもって、シイラの群が見つかると三浦半島のシイラカツオの遊漁船は撒水設備をもっていて、撒水しつつカタクチイワシとかもチョボチョボと撒き餌してくれるので、シイラが船の周りにウヨウヨし始める。そうなってくれればペンシルで誘って食わせてというお楽しみの時間が待っている。
1番上の旧マリアのミスカルナはド定番。でも昔からレッドペッパーがお気に入りで、写真の2から4番目のソルティー版がでる前から、穴あけてガン玉つっこむチューニングしたりして愛用していた。
竿先でチョンチョンとダイブさせたりして小魚逃走アクションで誘うのも効くし、ダラッと水面引いてくるだけというのも意外に効く。
その下ヤマリアのローデッド140F、180Fは南の島で使っていて、ダイブジャークと呼ばれる泡引きながらドブンと頭つっこむ動きを連続させやすく、値段も小工房で作ってる木製に比べて安価でとても気に入っているので、シイラサイズもいい仕事してくれるに違いないと妄想している。
下から2番目は香港でアフリカンクララ釣りに使ったシュガペン11センチ。もうこれはよくできた縦浮きペンシルで釣れるのは間違いなさそう。
一番下は一応シンキングペンシルもということでガンズシンキング。
トップへの反応がいまいちというときはミノーもね、ということで左はジャクソンのピンズミノーほかカッ飛び系の重いミノー、右の上2本はシイラ釣りでは絶大な信頼を置いているダイワのショアラインシャイナーS鰯カラー。
その下はジグミノーとジャークベイトも一応という感じ。
群が沈んでいたり、カツオやキメジが来たりという場合用にメタルジグも少々。メタリックサーディン、ブランカあたり。
右側は意外に遠投効くしヒラヒラと水面直下でアピール度高いしでシイラには効きますなスプーンたち。
上から、トビー40g、バイト27g、バイト18g、チヌーク17g。
全体として、ルアーが大きめということもあるがいつもの小型ボックスには入りきらないので、大型のタッパーに入れている。まあ、船での釣りにはタックルボックスの携行性は求めなくて良いのでこんなもんかと。
シイラ釣りに行くために、朝早く起きて車を運転してというのは、今現在健康であってもとても難しくハードルが高い。朝早いととにかく起きられない、寝不足だと船にも酔うというていたらく。どうなのよそれと思うが事実なのでしかたない。
まだ、現地で宿を取って船着き場まですぐな遠征のロウニンアジ釣りとかのほうが体力的に楽だと思う。
というわけで、シイラ釣るには昔やったように、沖縄のパヤオとかにキハダねらいでいくついでにやっつけるとかしかないのかもしれない。
シイラ釣りは年一回ぐらいは行くものだという認識で、ルアーも不足無いようにそろえてあるが、意外に冷静に考えてみると行かない釣りかもしれないと妄想から醒めてみると思うところである。
まあ、三浦半島の船宿でも前泊しちゃえばいいのかもしれない。オオッそれは贅沢でチョットいいかもしれん。と妄想してみる。
シイラ釣りって、夏のカンカン照りの日差しの下、おもいっきりポッパーとか投げまくって、みんなででっかいシイラをバンバン釣りまくってウヒャウヒャと楽しむ、麦茶とスポーツドリンクが美味い、まさに「スポーツフィッシング」という感じの夏の楽しみである。
近所に2、3時間釣りに行くのが精一杯のていたらくで、なにが夏のシイラ釣りじゃ、日陰で寝とけ、という気もするけど妄想だからいいんである。
そもそも体力云々のまえに、ここ数年は「朝早くに起きられない」という釣り人としてあるまじき理由でシイラ釣りいけてないという現実もさておき妄想、妄想。
シイラ釣りに行くときは仲間内で船を仕立てて三浦半島あたりの船宿からでることが多いのだけど、フライマンとの混成部隊になる。このときにルアーマンに求められる役割としては、とにかくルアーを投げまくって反応する魚を探しまくるということである。
ということで、ポッパー投げてよね~という感じで、最初の選択はポッパー、それも速引き系ので広範囲を探りたい、となると写真真ん中の2個フィッシャーマンクレイジースイマー小を泡引きながらファーストリトリーブなんてのがルアーマンのお仕事である。
下2個の旧マリアのポップクイーンなんてのも定番シイラポッパーなので押さえておきたい。三浦半島ご当地ルアー。
でもって、サーフェスブル150とサシミブル150はGTルアーとして超実績のあったサーフェスブル200をサイズダウンしたバージョンで、売り出された直後に「こんなんバッコンバッコンとポッピングしたらシイラまっしぐらやん」と購入したものの未だシイラに向かって投げていないルアーたちである。やればできる子のはずなのだが。
でもって、シイラの群が見つかると三浦半島のシイラカツオの遊漁船は撒水設備をもっていて、撒水しつつカタクチイワシとかもチョボチョボと撒き餌してくれるので、シイラが船の周りにウヨウヨし始める。そうなってくれればペンシルで誘って食わせてというお楽しみの時間が待っている。
1番上の旧マリアのミスカルナはド定番。でも昔からレッドペッパーがお気に入りで、写真の2から4番目のソルティー版がでる前から、穴あけてガン玉つっこむチューニングしたりして愛用していた。
竿先でチョンチョンとダイブさせたりして小魚逃走アクションで誘うのも効くし、ダラッと水面引いてくるだけというのも意外に効く。
その下ヤマリアのローデッド140F、180Fは南の島で使っていて、ダイブジャークと呼ばれる泡引きながらドブンと頭つっこむ動きを連続させやすく、値段も小工房で作ってる木製に比べて安価でとても気に入っているので、シイラサイズもいい仕事してくれるに違いないと妄想している。
下から2番目は香港でアフリカンクララ釣りに使ったシュガペン11センチ。もうこれはよくできた縦浮きペンシルで釣れるのは間違いなさそう。
一番下は一応シンキングペンシルもということでガンズシンキング。
トップへの反応がいまいちというときはミノーもね、ということで左はジャクソンのピンズミノーほかカッ飛び系の重いミノー、右の上2本はシイラ釣りでは絶大な信頼を置いているダイワのショアラインシャイナーS鰯カラー。
その下はジグミノーとジャークベイトも一応という感じ。
群が沈んでいたり、カツオやキメジが来たりという場合用にメタルジグも少々。メタリックサーディン、ブランカあたり。
右側は意外に遠投効くしヒラヒラと水面直下でアピール度高いしでシイラには効きますなスプーンたち。
上から、トビー40g、バイト27g、バイト18g、チヌーク17g。
全体として、ルアーが大きめということもあるがいつもの小型ボックスには入りきらないので、大型のタッパーに入れている。まあ、船での釣りにはタックルボックスの携行性は求めなくて良いのでこんなもんかと。
シイラ釣りに行くために、朝早く起きて車を運転してというのは、今現在健康であってもとても難しくハードルが高い。朝早いととにかく起きられない、寝不足だと船にも酔うというていたらく。どうなのよそれと思うが事実なのでしかたない。
まだ、現地で宿を取って船着き場まですぐな遠征のロウニンアジ釣りとかのほうが体力的に楽だと思う。
というわけで、シイラ釣るには昔やったように、沖縄のパヤオとかにキハダねらいでいくついでにやっつけるとかしかないのかもしれない。
シイラ釣りは年一回ぐらいは行くものだという認識で、ルアーも不足無いようにそろえてあるが、意外に冷静に考えてみると行かない釣りかもしれないと妄想から醒めてみると思うところである。
まあ、三浦半島の船宿でも前泊しちゃえばいいのかもしれない。オオッそれは贅沢でチョットいいかもしれん。と妄想してみる。
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