小鳥を見るとなぜ人は和むのか?
先週コゲラにずいぶん和まされたので「この感情は何ならむ?」と考えたりした。
もう一つ小鳥について象徴的な話として「坑道のカナリア」がある。
誰が書いていたのか思い出せないが、面白い説を読んだことがある。
「小鳥がいる環境というのは、結局、虫や植物も含めた多様性の保たれた生態系の象徴であり、小鳥は直接人間に危害を加える存在ではないので、小鳥がいることは自分たちが自然から恩恵を受け生きていくことができることを示す証拠であるから、人間の感性は理屈ではなく生まれ持った資質として小鳥を愛すべきものとして認識するように進化してきた。」
なかなかに説得力がある。
コンクリ屋に生物多様性やらの重要さを説明するのに、「理屈じゃないんですよあなたも小鳥が可愛いと感じたことぐらいあるでしょう。それはあなたが本来、意識しなくても生物多様性や自然環境の大切さを認識しているってことなんですよ。」という感じだろうか。
小鳥は世界中でそうだろうが、「幸せの青い鳥」がまさにそうであるように、幸福とか良い暮らしとかの象徴として昔から愛されている。
日本でも、ツバメが「土食って虫食ってシブーイ!」と嘆かなければならなくなった話とか、「舌切り雀」とか、小鳥の出てくる昔話が結構ある。
「舌切り雀」では、優しいジサマと強欲で容赦ないバサマが出てくる。
自然は豊かな恵みを与えてくれると同時に時に悪さをしたり災厄をもたらしたりする。
「舌切り雀」は、スズメという日本人にもっとも身近な小鳥の二面性にも触れつつ、人が自然とどうつきあうべきかを暗示した寓話として読めるように思う。
スズメは農業において、米盗人でもあるが、一方で「害虫」を食べる益鳥でもある。
まさに米から作った糊を食われたバサマが舌を切るのは、米盗人である鳥など駆除してしまえと主張するような側の人間を象徴しているように思う。
逆にスズメを可愛いものとして保護するジサマが、結局お宝を得るというのは「小鳥」に象徴される自然を敬い大事にすることが、富を得るための正解なんだよと教えてくれているのだと思う。
あとダメ押しとして、「大きすぎる富」を求めたバサマが選んだ大きなつづらにはろくなものが入っていなかったというのもあわせて良くできた寓話だと思う。
原発事故なんて、まさに強欲な人間が選んだ大きなつづらから良からぬ魑魅魍魎が、という図式そのまんまである。
「害鳥」であるスズメを国策として駆除した結果、害虫被害が増加して凶作を招いた「大躍進計画」なんてのもお隣の国の話だが他山の石とすべきだろう。
原発事故なんて、まさに強欲な人間が選んだ大きなつづらから良からぬ魑魅魍魎が、という図式そのまんまである。
「害鳥」であるスズメを国策として駆除した結果、害虫被害が増加して凶作を招いた「大躍進計画」なんてのもお隣の国の話だが他山の石とすべきだろう。
「自然を大事にしろ、欲をかきすぎるな。」シンプルでわかりやすい指針である。
もう一つ小鳥について象徴的な話として「坑道のカナリア」がある。
カナリアは美しい声でさえずるが、火山性のガスなど空気の汚染には弱く、人よりも先に死んで鳴かなくなってしまうので、坑道で石炭掘る人はカナリアを連れて行ったとか。
小鳥が鳴かなくなったら、次は人も危ないということである。
残留農薬などの化学物質の危険性を世に問うた世界的ベストセラー「沈黙の春」でレイチェル・カーソンはまさに鳥が鳴かないような春の恐ろしさを訴えていた。と、読んでもないのに開高先生が書いていたのの孫引きで書いてみる。
開高先生の「草原の恋人達は耳元のミツバチの羽音を聞けないでいる」「水と一緒に赤ん坊も流してしまったのか」とかいう独特の開高節の表現も頭に残っている。
小鳥が鳴かなくなったら、次は人も危ないということである。
残留農薬などの化学物質の危険性を世に問うた世界的ベストセラー「沈黙の春」でレイチェル・カーソンはまさに鳥が鳴かないような春の恐ろしさを訴えていた。と、読んでもないのに開高先生が書いていたのの孫引きで書いてみる。
開高先生の「草原の恋人達は耳元のミツバチの羽音を聞けないでいる」「水と一緒に赤ん坊も流してしまったのか」とかいう独特の開高節の表現も頭に残っている。
鳥が鳴かない、蛙が鳴かない、虫も飛ばない、そんな春など来て欲しくないし、来たら人間の生活も脅かされるような状況になっているはずである。
高度経済成長期、1970年代ころまで公害に象徴されるように日本の自然も汚染が進みまくったが、貴い犠牲の上に排水の基準など規制が強化され、コンクリはあいかわらず猛威をふるっているが、水辺の環境に関しては下水道の普及もあって水質自体は良くなっている。
80年代以降カワセミが都市部でも増えてきたというのは、都市に鳥が順応した面もあったのだろうが、そういった水質の改善に伴い餌の魚も増えてきたことと無関係ではないだろう。
「公害」が起こるときには絶対「カナリアの死」に相当することが起きていたはずで、水俣病では猫がまずやられておかしな歩き方をしていたと聞く。おそらくその時代にカワセミのような小鳥はあちこちで数を減らし姿を消していたはずである。
人だって結局生態系の一員で最も高次の捕食者でもある。環境が汚染されたら最も生物濃縮でその影響にさらされる生物のはずである。「カナリアの鳴き声」や「春の語る言葉」には注目しておかなければならない。
昨夜は、東京湾の春の風物詩であるゴカイの一斉産卵行動「バチ抜け」に遭遇した。
すさまじい量のゴカイの類が、一斉に産卵のため卵か精子を体に詰め込んで泥底から泳ぎだす。
一気に大量に泳ぎ出すのは、多少魚に食われても食いきられないようにして確実に子孫を残すための戦略だろう。
高度経済成長期、1970年代ころまで公害に象徴されるように日本の自然も汚染が進みまくったが、貴い犠牲の上に排水の基準など規制が強化され、コンクリはあいかわらず猛威をふるっているが、水辺の環境に関しては下水道の普及もあって水質自体は良くなっている。
80年代以降カワセミが都市部でも増えてきたというのは、都市に鳥が順応した面もあったのだろうが、そういった水質の改善に伴い餌の魚も増えてきたことと無関係ではないだろう。
「公害」が起こるときには絶対「カナリアの死」に相当することが起きていたはずで、水俣病では猫がまずやられておかしな歩き方をしていたと聞く。おそらくその時代にカワセミのような小鳥はあちこちで数を減らし姿を消していたはずである。
人だって結局生態系の一員で最も高次の捕食者でもある。環境が汚染されたら最も生物濃縮でその影響にさらされる生物のはずである。「カナリアの鳴き声」や「春の語る言葉」には注目しておかなければならない。
昨夜は、東京湾の春の風物詩であるゴカイの一斉産卵行動「バチ抜け」に遭遇した。
すさまじい量のゴカイの類が、一斉に産卵のため卵か精子を体に詰め込んで泥底から泳ぎだす。
一気に大量に泳ぎ出すのは、多少魚に食われても食いきられないようにして確実に子孫を残すための戦略だろう。
しかし、ちょっと昨夜のゴカイちゃん達は「雄弁」すぎた。魚たちは鱈腹食っていたようだが、我々釣り人は「沈黙」するしかなかったのである。
スカ食って悔しくはあるのだが、それでも、予測不能で変化や多様性に富む自然の生きものたちを相手にする「釣り」が、予測不能だからこそ面白いとも感じているところである。
だいたい未来を予想するなんてのは不可能というのが、量子力学の世界のコペンハーゲン解釈からの帰結だろ?とコペンハーゲン解釈の意味がほぼチンプンカンプンなのに、小難しいことを書いて自己のいたらなさを棚に上げ悔しさを紛らわせる釣り人なのであった。
昨夜はお疲れ様でした。
返信削除次こそバチ以外の魚の写真をいっぱい撮りましょう!
おはようございます。
返信削除魚に触りたいですね。まあ季節は良くなっていくのでメゲずに行きましょう。
コンクリートでガチガチに固められた無惨な川を見ると、小林秀雄の「僕らは知るだけでは駄目で感じることも学ばなければならないのです」という言葉を思い出します。
返信削除鳥でも魚でも花でも風景でもなんでもいいんですけど、そういうものを、きれいだな、すごいな、と感じることができるかどうかは生きていくうえで結構大きな違いなんじゃないかなと最近よく思います。
メガネさん こんばんは
返信削除まったくそのとおりだと同意します。
別に経済的、物質的豊かさを否定する気もないですけど、そういう豊かさって金と同じで道具や手段であって、それならむしろ幸せに生きるための道具としては「感じる」ことの方が役に立つと私も「感じる」のです。
なんか経済的、物質的な豊かさって、それを求めるシステム自体がうまく回るために必要なだけで、個々人の幸せとはあんまり直接的な相関関係無いように思うのです。飯食えて凍えない以上の物質的豊かさなんてのは、あればあったで良いけど必需品ではないような気がします。
20年同じコート着て同じ釣り具使ってる貧乏くさい私ですが、毎年変わる流行のおしゃれなファッションに身を包み、最新鋭の釣り具を使いこなしている人と比べても、たぶん負けないぐらいに幸せに生きています。