2年ほど前から認知症が進行して特別養護老人ホームのお世話になっており、昨年の11月に見舞いに行ったときには、ちょっと目を開けて反応したけど、すぐに寝てしまうような状態で、素人目にもだいぶ症状は進行しており、パスカルの人の定義「考える葦」からすると、だんだんと人から葦へと、生命から物へと移り変わりつつあるんだなと、覚悟を飲まされるような、自分の体(遺伝情報等)の半分、心の少なくない部分が、それを受け継いでいる”原本”的な存在が消えていくさみしさ、悲しさをさけられないような、そんな気持ちになりました。
ありがたかったのは、そうやってユックリと事前に心の準備ができたことと、認知に齟齬が生じ始めた頃は本人も戸惑ったり不安だったりはあったと思うけど、痛かったり苦しかったりというような病気ではなかったということで、長生きしてくれたしそこまで自分的にはしんどい感じではなかった。まあ、施設に入る直前、まだ自宅に居た時に顔を見せに行ったら「どこの子や?」と言われてしまい母が「アンタと私の子供やんか!」とツッコミ入れていて、さすがにその時はショックを受けたけど、それも人が老いていくのは仕方のないことで、そうやってみんな多少違う道筋通るかもしれないにしても、順番に老いて死んでいくということなんだろうと思った。
幸い補助制度も使えばもらってた年金の範囲内で、しっかりとしたプロによる介護を受けてもらうことができた。介護士さん達の優しく丁寧な対応ぶりには「父がお世話になりありがとう」と心から感謝する。いざとなったら無職だし、母だけで老々介護などとても体力的、精神的にできるものではないので、手伝いに行かねばならぬかと思いもしたけど、おかげさまでお気楽に釣りばかりの生活を続けさせてもらえた。
客観的にみて、自分はお気楽な親不孝者である。次男坊で自由に生きて良い立ち位置なのを良いことに、働いていたころも、ろくに実家に寄りつきもしなかった。言い訳でしかないけど、沢山のことを器用にこなせるような人間ではないので、優先順位付けていくと、まず生きていかねばならず、そのためには仕事してオゼゼを稼がにゃならんのだけど、金を稼ぐというのは皆さんご存じのとおり大変なことで、それだけでかなりいっぱいいっぱいになってしまう。次にまあ本来最重要項目に置きたい”釣り”がきて、それをめいっぱいやってしまうと、もう後はほとんど余力がなく、マンガ・小説読んだりぐらいはできるけど、正直異性とお付き合いしたりとかも、やってる暇がないんじゃないかと思ってたぐらいで、たまたま釣りが好きな異性という都合の良い相手が見つかったので良かったものの、かなり危なかったし周りにも心配されていた。って言う状況で、親孝行まで手が回るかよって感じで、盆正月は釣りに行くか、休日出勤当番を買って出て代休を良い塩梅の時期に入れるか、実家に帰るとしても相方の実家に帰って魚釣ってた。何年も実家に帰らないことが普通だったし、姉、兄の息子たちである甥っ子にも、ほんの数回しか会っておらず、確実に”親族に一人ぐらいは居る変な叔父さん”のポジションである。
まあそういう変人のたぐいだったので、昭和一桁の真面目で頑固な父親とは正直あんまり折り合いはよろしくなかった。もちろん育ててくれた恩やらなにやらは重々承知してるけど、昭和一桁の価値観を押しつけられても邪魔くさいわけで、まあ父親と息子の関係なんて、そういう反発がない方が珍しいだろうって話でそんなもんだと思う。昭和一桁の価値観が間違ってるとも思わないし、母と2人、プラス祖母の力も借りて、子供達3人をちゃんと大学まで行かせて社会に出して、自分はきちんと郵便局員の仕事を勤め上げて、趣味の野球関係でママさんソフトの監督さんやら審判やらも引き受けて、楽しみも持っていたその人生に素直に尊敬の念を覚えるところである。戦争も経験しているし、紀伊半島を襲った大きな津波も経験している。良いこともしんどいこともあった90年と11ヶ月ちょいだったのだと思う。その最後は眠りについたまま穏やかに旅立ったとのこと。
で、最後何日間かは眠ったままになり食事もとらなくなったので、施設の方から「覚悟しておいてください」と母に連絡があり、母から姉兄私にも連絡があった。そして自分は最後の親不孝をやっちまうわけである。最後に顔を見たいと姉も兄も駆けつけたとのことだけど、自分は母から「あんたは会っとかんでいいんか?」と確認の電話が来たけど、11月に会ってるからそれでいいと返答。そして親不孝を貫き通すぐらいの覚悟でというつもりなんだけど、さすがに心ここにあらずの状態で釣りに行って忘れ物したりして「オレも多少は人の心があるんだな」と思ったりした。その日の夕方母より亡くなったとの電話。あれだ、獏先生の「鮎師」の黒淵が鮎釣りに行ってて嫁さんの死に目に会えないっていうか死なせてしまうのに近いキチガイ具合に自分を持って行きたい、ぐらいに思ってたけど、そこまで狂いきれない中途半端さに失望と安堵。
あたふたと礼服入らなかったらどうしようとか準備して、礼服も黒のネクタイもあったけど、数珠が無い。っていうか52歳にもなって、この男何度も葬儀の場に数珠なしで行って、持ってる体で焼香させてもらって「次までに買っておかんといかんな」と思うも、すぐに忘れていまだ買ったことがないのであるわけがない。実家に向かう途中のどこかで買わなきゃなと思ったけど、実家に確実に使わない数珠が1つあるはずなのに気がついて、買わずに行った。当然父の数珠は父が自分の葬儀で棺桶から出て来て焼香するわけないので使われない。形見にもなるし解決。
葬儀の段取りすんなりいかなければ何泊もすることになるだろうし、墓地で寒い目に遭いたくないのでヒートテック2枚重ねとかできるように防寒関連もガッチリ持って行ったんだけど、父の人徳なのか28日友引なのでそれまでに26日27日で通夜、焼き場、葬儀、納骨まで済ませてしまう速攻勝負の段取りもつき、本人の生前のというか認知症前の意向で家族葬で我が家と従兄弟の家とでこじんまりと、天気も良く寒波が来てたのが嘘みたいに気温も上がって、良い感じに見送れたと思う。さんざん親不孝してきたのに最後だけさも孝行息子みたいに泣いたりするなよ、と自分に言い聞かせてたけど、従兄弟の優しさにちょっとウルッと来て危なかったと白状しておこう。
父さん、ありがとう。そしてありがとう。
父には孝行らしいことろくにできなかったけど、母はまだ山歩きするぐらいに健在なので充分親孝行する時間はある。まずはデコポン送るあたりからボチボチ始めてみよう。たまには実家に顔も出そう。
※ 香典等は辞退させてもらってます。あと、多少は凹んでますが、前述のようにそれほどでもないので、打たれ弱い性格ですがご心配なく。
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