2018年2月24日土曜日

2月のスナドリネコ

 釣りのことばかり考えている。

 今年の妄想抱負として「釣りとネコのことだけ考えて生きる」と書いたけど、ネコのこともたまに考えているけど、主に釣りのことを考えている。
 働いてたときにも、仕事中でさえ気がつくと週末の釣りの作戦を練っていて、いかんいかん真面目に働かなきゃ、と我に返るような釣りバカぶりだったが、今年はリハビリもクソもとりあえず後回しで、タガを外して釣り優先で突っ走っているが、自分でもどうにもならないぐらいに釣りのことばかり考えてしまって。釣りのことから逃げられない。
 毎日釣りに行ける体力があれば、毎日釣りに行って多少はスッキリするのかも知れないけど、週2日なら余裕あるぐらいだけど3日になると腰だの体調だのが限界っぽいので、多くの日を次の釣りのための準備で悶々とした日々を過ごす。
 釣りに行かない日にジョギング行ったりしているが、ジョギングはそれなりにしんどいけど、釣りに行った後の、体のあちこちが固まってガチガチで精神的にも上がって下がってクッタクタの状態と比べたら、ジョギングの方が単純な体への負荷は大きいのかも知れないが釣りの方が心身共に疲弊してしまうように思う。

 シーバスならヤフーの天気予報と「海快晴」の風予報とタイドグラフを睨みながら、3日行くならどの日が一番釣れて、かつ今までの情報を補える情報が得られるか?雨の釣りはどうか、風はどのくらい吹けばいいのか風向きはどうか、釣り場移動のパターンはいつもの場所スタートで始まりのタイミングが終わったら上下見に行くか、それとも最初から別の場所で始めるか、人山状態だったらかわせる押さえポイントはどこになるか、釣れるのだろうか、釣れなかったらどうしよう。そもそも良い場所取られては入れなかったらどうしよう。下手に考える時間があるので不安が膨らんで釣りに行くまでにすでに冷静さを失うときもある。
 そんな状態で目の前で自分が釣れてないのに、人様に良いのを釣られてしまったりすると、嫉妬、憤怒、情けなさ、信じてもいない神の無慈悲への非難、これまでやってきたことへの不審、今からやらなければならないことについての迷い、これまで生きてきた自分の心の狭さを残念に思い、何があってもやるべき事をヤルだけと迷いなく進めるだけの精神的な強さがないことへの落胆、その時の結果だけをみてもしかたないのに、今目の前にある釣果についてしか見えなくなる近視眼的なものの見方の反省。
 なぜ、たかがシーバス釣りごときでこんなにも心が千々に乱れるのか、シーバス釣れなかったからといってオレが何を失うというのか?
 客観的には何も失わないのかも知れない、でも「釣りのことしか考えない」とまで宣言してタガを外して今の全力でいった情熱の結果が無に帰するというのは、主観的には耐えがたい苦痛である。

 ヘラ釣りでもほとんど一緒。まだ、ヘラ釣りは自分は初心者に毛が生えたレベルといういいわけが自分に対してできるので、デコっても気が楽な部分はある。あるんだけどデコって悔しくないような輩はヘラ釣りなどやめてしまえと心の底から思う。どんな釣りでもそうだと思うけど、自分の持っている知識や技術、道具や情報、総動員して自分なりの勝利を設定して、いかにして昨日釣れなかった魚を今日釣るか、今日釣れなかった魚を今度釣るかに血道をあげずして、何が釣りの楽しさ面白さよといいたい。
 ヘラ釣りではまだ、基本的なところで浮子と仕掛けの自分なりの最適化みたいな作業を季節毎、釣り場毎に合わせてやっている段階なので、釣り場に行けなくても前回反省点を生かして、もっと繊細な細仕掛けで食い込ませる。逆に仕掛けに張りを持たせて感度良好アタリを明確にとる。といろんな方法を想定して浮子も作ってお風呂でオモリの背負い具合をチェックしてというような作業がけっこうある。手を動かして対策を講じていくのは、頭だけで悶々と悩んでいるより、手に触れられる成果が準備段階でもすいぶん生じるので楽しくもある。
 次回「公園池」、最初は普通の段底で入って、アタリが今一取れてないようならフロロの道糸でパリッと張って浮子大きくオモリも大きくで感度良好系の仕掛けを試してみる。
 宙の釣りも、ハリの重さだけで浮子が立つような極端な小浮子の釣りを試してみたい。
 そういった工夫の5~10に一つでもモノになれば御の字である。
 たかが「釣り」、そのための労力、工夫、手間暇を惜しむつもりはない。

 頭のいい人はたかが「釣り」なんて暇つぶしの趣味でしかないことに、人生のリソースを割いても意味ないじゃないか。もっと有意義なことにリソースは重点配分すべき、とサジェスチョンしてくれるかも知れないけど、「リソース」ってなんね?なオレにはピクリとも引っかからない言葉だ。
 じゃあ人が行う有意義なことって何なのよ?仕事して社会に貢献することか?まあ、そういう能力のある人が社会の役に立つ仕事に邁進するのを止める気もないし確かに有意義かも知れない。でも、オレみたいな味噌っかすな社会人がする仕事がそんな有意義なモノかよ。少なくとも自分にとってはオレがやらなくても誰かがやってくれる程度の仕事だと思っている。ってのは自己卑下しすぎだろうか。
 有意義なことが金儲けなんてのだとしたら、正直言って、心の底からどうでもいいよ。

 でも、釣りしない人から見たら釣りなんて「たかが釣り」であり、いい大人が朝から晩まで場合によっては夢の中でまで考えて考えて情熱を傾ける程のモノだとは思えないだろうことも想像できる。
 でも、そんなこといい始めたら今やってる冬季オリンピックの競技なんて、スケートでクルクル回ったりスキー履いてかけっこしたり、飛んだり、ソリで滑ったり。たかが冬の遊びの延長でしかない。
 でもそのたかが冬の遊びの延長に、おのれのすべてを掛けて情熱を持って打ち込むときに、競技者が見せる物語や一瞬に出し切った技量の素晴らしさに、人は心を射貫かれるし、応援していた選手の勝利に歓喜し、負ければ悔し涙さえ流すだろう。
 そのことは、「有意義な金儲け」なんていうどうでも良いことに比べて、とても人間的で人の精神の有り様として高い状態にあるものだと私は思う。
 残念ながら冬季五輪には格闘技がみあたらないのでネットニュースの見だしだけ見て「良かったな~」とか思ってるだけだ。あんまり肩入れしてみてしまうと負けたとき悲しくなってしまうので、そういう心の上下動のための余力は釣りのために温存しておきたいので良い結果だけ見てよろこんでいる。冬の競技でもアイスホッケーが格闘技だという噂も聞くがアイスホッケーマンガ「南国アイスホッケー部」「スピナマラダ!」で勉強したところ、どうも格闘技というよりは球技に近いように思う。けど、南国アイスとかほとんど競技やってないので今一ルール分からんかったので今回も見ていない。

 芸術、スポーツ、芸事、趣味いずれも別にそれがなければ飯が食えなくなるわけじゃない。でも音楽好きなら「ノーミュージックノーライフ」と感じるように、そういう「たかが」楽しみのために人間が行うことにこそ、人間の真に人間らしい部分が垣間見え、人間の高みを目指す精神の素晴らしさが際だって現れるってものだろう。

 有意義とか効率的とか、そういう生臭いものの対岸に「たかが」といわれちゃうような、いうたらお遊びの延長線上のものがあって、遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、な人間の本質がそこにこそ顕現すると私は思う。
 花なんて食用菊でもなければ腹がふくれるわけでなし、そういう意味では「有意義」じゃないけど、まず間違いなく人間が農耕始めた頃には花も育てただろうし、それ以前の狩猟採取時代から花を愛でてたはずだと調べもせずに断言できるぐらいに、たかが美しいだけのものが人には重要だったりするんである。

 今世間は将棋ブームらしくて、今季アニメでも将棋アニメ2本放送されている。将棋なんてまさに将棋強かったからって実生活で何か役に立つかって話で、あえて「たかが将棋」であると言わせてもらう。でも将棋のルールが飛車と角どっちをどっちに置くのかすら分からん門外漢である私でも、たかが将棋の勝負に掛けられるモノすべてを掛けていく登場人物達の熱さに圧倒されっぱなしである。2本とも趣向は違えどどちらも面白い。
 1本はガチガチの名作「3月のライオン」でいつもシーバス釣りに行く川辺の下町あたりが舞台になっていてその風景描写も美しいなか、天才将棋少年としての孤独やらいじめ問題やら硬派なネタにも真っ向勝負でマンガ・アニメとしても勝負してて敬服するんだけど、登場人物で主人公のライバル二階堂君ってのがいて、ウザいぐらい明るくて前向きな子なんだけど、実は体が弱くて長丁場の対局の途中で倒れて入院してしまう。入院開け復帰戦、しばらく離れてて勝負勘が鈍ってるんじゃないだろうか、休んで順位とか厳しくなって落ち込んでないだろうかという主人公達の心配をよそに、入院中ずっと考えていたという将棋で復帰戦を勝って鼻高々に復活する。たとえ病の床にあってでも戦略を考え練りに練り次の機会を虎視眈々と狙う。同じ病弱仲間としてめちゃくちゃ励まされた。そうでしかありえないよな、だって好きなんだもン。という感じだ。
 もう1本の「りゅうおうのおしごと」は、16歳で竜王になった主人公の所に小学生の女の子が押しかけ弟子でやってきて巻き起こる騒動って感じの、いかにも今時なラノベ原作のロリコンなオタク様狙いも透けて見える作品なんだけど、意外と言っては失礼かも知れないけど深夜アニメらしい笑いの中になかなかに熱い闘いが描かれてたりしてこれまた面白いんである。
 「たかが将棋」と作中でも何度か言及されているけど、棋士って人種は将棋の長い歴史の中でアホみたいな情熱を将棋に注いできて今に至るのである。ってのは将棋指さなくても「月下の棋士」とか「ハチワンダイバー」とか「ひらけ駒」とか読んでればある程度察しがつく。
 主人公の姉弟子が「「将棋星人」は、私たちと違う将棋のための特別な感覚器官を持っている。普通の人が将棋星人のいるところに行けば死んでしまうかもしれない。でも私は将棋星人のいるところにまで行きたいと思ってる。」的なことを言ってて、そう思うに至るぐらいに才能ある棋士にたたきのめされてきたはずなのに、あきらめずに高いところを見る目線が問答無用に格好いいじゃん。

 自分も「魚釣り星人」ではなさそうだということは薄々気付いている。
 謙遜していると誤解されると良くないので書いておくと、自分のことを釣りが下手だとはあまり思っていない。釣りの玄人だといってはばからない程度には技術も実績も持っていると自負している。
 でも玄人の中でも「魚釣り星人」達と比べてしまえば、何十年もやってきてなんでこんなに技術的に下手なんだとか、徹底的にセンスがないとか、忍耐力とかに代表される精神的な屈強さがまるでないとか、いくらでもボヤけるし絶望的な気持ちになる。

 他人と比較して自分の価値を貶めるなんて、全くもって幸せに遠いモノの考え方だろうと思う。
 魚釣りは本質的には人と競うモノじゃなく魚と競う遊びのはずである。魚と自分の関係性こそがすべてで他人が何を釣ろうが本来どうでも良いはずである。自分が釣れる魚が最高の獲物のはずである。
 でも、隣の芝生は青い。隣の客はよく柿食う客だ。
 隣が気にならなくなるには、隣なんて比較する必要もないぐらいに優位に立って見下すぐらいの高いところに行かねばならない気がする。少なくともそう思いあがることができる根拠を得るぐらいにはならねばなるまいて。
 掛けられるモノを「たかが釣り」に全部掛けたとして、はたして死ぬまでにそこまで行けるのか、これまで掛けてきた情熱やら時間やらと今の自分の立ち位置がたかだかこのあたりということからかんがみて、はなはだ心もとないけれど、それでももう逃れようもないぐらいにハリはガッチリ掛かってしまっているので、あきらめてもがき苦しむ覚悟を決めるしかないだろうと思っている。

 正直自分は全部掛けてその結果が「敗北」でも良いんじゃないかと思っているのかも知れない。敗者の美学ってのが「あしたのジョー」を読んで育ったオッサンとしては心の底にあるように思っていて、「3月のライオン」でも島田八段が一番ダントツで格好いいと思っている。対局前には胃痛に襲われ飯も食えないような繊細さを持ち二階堂君にも兄者と慕われる面倒見の良い優しい人なんだけど、応援してくれる故郷の後援会の人たちのためになにより自分の誇りのために胃薬飲みながらフラフラになりながら挑むタイトル戦。まあ実在の羽生将棋星人をモデルにしただけあって作中最強の宗谷名人相手に連敗して後がないところまで追い込まれる。ここで島田八段苦労人過去話とか挿入されて物語は盛り上がって観てる方もせめて一矢報いて欲しいと思うのだけど全敗で終わる。終わるんだけどなぜかメチャクチャに島田八段が格好いいんである。努力やら情熱やらひたすらに全力でいっても負けるときは負ける。届かないことがこの世にはある。そのことの持つ尊さ美しさが重くズシンと胸に来るのである。
 オレは「敗北を知りたい」のだろうか?充分知ってるだろ?よく分からん。よく分からんけどどんなに頑張っても届かないことがあるからなお勝利というのは価値があるんだと思うし、それに向かってあがく行為にも価値が生じ得るんじゃないかと思っている。
 敗北を良しとするヌルさは心から排除しなければならないけど、敗北の覚悟も持たなければならない高いところを目指さなければならないとも矛盾するようだけど思う。書いててなんかよく分からんようになってきたけど、やることは単純で、死にものぐるいで力一杯いくだけだろう。

 アホはあんまり考えちゃいかん。

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