オリオン座の近くで燃える戦艦。タンホイザーゲートの近くで暗闇に輝いていたCビーム、そんな思い出も時とともにやがて消える。雨の中の涙のように。
ってのは、映画ブレードランナーの名台詞だけど、それなりに馬齢を重ねてきた私にも「信じられない」と目を疑うようなものを見てきたりもしたのでちくっと振り返りつつ書いてみたい。っていうのは、ちょっと前にBBCの生物番組について書いたけど、あのときチラッとふれたマンタの映像に触発されて、そういえばパラオでマンタ見たよなぁとか思い出して、確かに今時の映像って美しくて感動させられるけど、まだ自分が実際に見たものには勝てないなぁとちょっと安心と優越感を覚えたところである。
写真のマンタ(オニイトマキエイ)はパラオにロウニンアジ釣りに行ったときにボートの上から見たものである。場所移動中、珊瑚礁の水道になってるところを突っ切っているときに、ガイドがボートを減速させて、とても大きいマンタが居るよとニヤニヤ笑っているのだが、私も同行者もどこにいるんだか分からない。底は白い珊瑚の砂に所々隆起した珊瑚が転がってて透明度も高く、そんな大物が居れば見えないはずがないのだが、砂と珊瑚しか見えない。
突然同行者が「アッ!おった」と声を上げる。どこにいるんですか?といぶかしむ私に同行者は「もう見えてるはず」とガイドとそろってニヤニヤしている。
じっと水中を見るけど黒っぽく珊瑚の影がとがっているのが見えるだけだ。しばらく2人の楽しそうな態度にイラッとしつつ見ていて、ムムッ??なんでこの珊瑚の影はボートが進んでも同じ位置にあるんだ?と思ってよく見るとなんかその三角っぽい影の先端がゆらりとひるがえるような動きをしている。
ひょっとしてこれエイのヒレの先端か!?と思って全体像を追っていくと、ボートに隠れて後の方とかよく見えないけど、頭の方あの特徴的な耳のような突起が2本突き出ていて間違いなくマンタだと分かる。デデデデデデカイッ!!デカすぎて真上から至近距離で見ると魚だとすぐには認識できないぐらいにデカい。4m越えるぐらいか?ボートの長さぐらいは幅がある。デカすぎて大きさの見当がつけにくい。ガイドがビック(大きい)じゃなくてヒュージ(巨大)と言っていたのも納得の巨大さであった。
泳ぎ去っていく姿を写した写真じゃ、全くその大きさが伝わらないと思うけど、真下にいるときに撮った写真は防水コンパクトカメラの普通のレンズでは白い背景に黒っぽい三角が写ってるだけの意味不明な写真で、でもそっちの方がまだ巨大さ自体は伝わるかもと探してみたけど残念ながら見つからず。あのヒュージ感は現実に真上から見たんじゃないと、いくらきれいな映像で大きさが分かるような対象物と画面に入ってても、自分の目が見てその時の空と海の青さや熱い日差しと空気なんかとともに味わった実体を伴ったデカさは表現しきれるものではなく、その感動は、自分と同行者の胸の中にしかないんだろうなと思うのである。
都会の人混みを目を伏せて、本に逃げ込んで、見ないように生きてきたので、街や人の美しさやらは見逃してきた人生かもしれないけど、釣り人として水辺に多く居た人生なので、水辺の美しさや不思議な出来事は多く見てきたと思う。
テナガエビ乗っ込みポイントで、捕食者に追われたエビたちが水面上に跳ね上がる「エビボイル」は始めて見たときは目を疑った。ハサミ脚の長いオスなどハサミを重そうにぶら下げるようにして水面から飛び出す。
シーバス釣りに行ってた砂浜で、カタクチを追い回すボイルが発生していて、ボイルの主を釣るべくルアーでモグラ叩きしていたら、楕円形の物体が水中から飛び出した。フグかなんかかな?と思っていたが、釣りのうまい同居人が釣り上げて正体が判明。ヒラメでした。ヒラメ水面から飛び出すって驚きであった。
玄界灘、砂浜がサラシのように泡をはらんで白濁しているような荒れた初冬の海。波が高くなるとその波の中にシーバスが泳いでるのが見える。秋のオホーツク海のカラフトマスを思い出した。
底まで見える透明度の冬の東北の港、ワームを踊らせていると石化けしていたカジカが一瞬でワームを消す手品を披露してくれた。
もちろん、釣った魚の衝撃的な食いつく場面なんてのも、いくつも思い出せる。永く釣ってるから書き出したらきりがないくらいある。
どれも極個人的にとても価値のある脳内映像である。死ぬときの走馬燈でどれを流すべきか選択に迷うぐらいある。
でも自分の「目で見た」と思ったことでも、本当にそれがあったのかどうか疑わしいモノも「見て」きた。
どうも私は、寝不足だと白昼夢をみる傾向があるようで、まったくの現実に、頭の中の妄想だかなんだか混じって見えてしまうのである。霊現象だの超常現象だのを「私は見た」程度を根拠に実在したように信じている人々を見ると、ほとんどが私の白昼夢とかに類似した脳の視覚情報処理の齟齬が原因だと、つまらないみかたかもしれないけど思っている。
寝不足で自転車こいで朝早くから行ったダム湖でのバス釣り、いい加減釣れない時間帯が続いて眠さがおそってきた頃に、見たことも聞いたこともないような白黒シマシマの魚が湖底を泳いでいった。なんてことが代表例だけど、白昼夢連発させたのが、釣り場の行き帰りのJOSさんの運転する車の助手席。まあ眠いんだけど師匠に車運転させておいて助手席で寝まくるのも心苦しく、それでも寝ちゃうんだけど、寝ないように気合いで目を見張っていると、車窓から見えるはずのないモノが見えてしまうのである。
「今、向かい側の車線に蒸気機関車の恰好した車走ってましたよね」、ましたよねって念押されてもそんなもんナマジのオツムの中にしか走ってないって。ヤレヤレだぜ、またこいつ寝てやがったなという感じであしらわれてしまうのだった。
でも、そういう怪しいモノが見えてしまったらすべて見間違いならそれはそれですっきりするのだけど、見えてしまったモノが実在してしまう場合もあって、目で見たモノのうちなにが本当で何が妄想かなんてのは最後のところは分からなくなったりもする。
釣り人なら多かれ少なかれ発症しているだろう「何でも魚に見える病」ぐらいなら可愛いものである。オオイワナだと思ってヒレの端の白いところまで見えた気がしたのに、近づいてみたら引っかかって流れに揺れてる黒ビニールだったとか、ライギョだと思ったら沈んだ木だったとか、正体見たり枯れ尾花ってぐらいで実在してもどうってことはない。でも、何かが見えてて正体が予想もしなかったモノっていうことも実際にあったりするのである。
その日、関東近郊の渓流でイワナを釣っていた。放流量が多い川でもありなかなかの釣果を楽しみながら釣り上がっていると、とある淵で上流側から妙なモノが泳いできた。真っ黒なナマズのような50センチぐらいの生き物で目が大きくて印象的。寝不足でバイクとばしてきたので例によって白昼夢を見ているのだろうかと目を疑うが、やけに意識もはっきりしている中、謎の生き物も着実に泳ぎよってくる。正直ちょっと怖かった。謎の生き物はかなり近寄ってきて、そろそろ叫んで逃げ出そうかという手前で、顔を水面からひょこっと出して岸辺の岩にぴょんぴょんと登ったと思ったら毛繕いを始めた。
「カワウソ?」とパッと見た目には見える。泳ぐのが得意でイタチの仲間の獣であることは間違いない。妖怪変化のたぐいでなくてホッとしてしげしげと観察すると、真っ黒な毛並みにキョロキョロとした目がなかなか可愛い。カワウソにしてはサイズが小さい。でもイタチやテンにしては色が黒いし、泳ぎが達者すぎるように思う。
しばらく観察して写真撮ろうとしたら林に逃げていったけど、脳内検索で黒い個体がいてイタチの仲間の泳ぎの得意な獣で「ミンク」がヒットしてきた。毛皮用に養殖されていたのが逃げ出したりして北海道とかで野生化していると聞いたことある。本州でもいるのか帰ってから調べると、福島あたりでは確認されているようで、どうも正解のようである。
ミンクとか知らなかったら「カワウソは生き残っている。私はこの目で見た。」とか言い出していておかしくない。
これまた目で見たことなんてあてになんないという事例である。
とはいえ、未だ仮想現実とかもまだまだな始まったばかりの技術で、しばらくは自分の目で見て体験したことの価値や優位性は揺るがないだろうと思う。でも、仮想現実が完全に現実を再現し、さらに現実を越えて刺激的になるような技術が開発されるその日も来るんじゃなかろうかと思う。
我々が現実を感じている脳よりも、量子コンピューターとかが情報を処理する能力が上回ればそれは可能だと思うので、案外早く実現するんじゃないだろうか。現実そのものを仮想世界で再現しなくても脳が感じているレベルの「現実」を再現すれば足りるはずで、簡単じゃないだろうけどできそうに感じる。
今の仮想現実の技術はまだゴーグル付けて立体の映像が見えるとか視覚情報だけだけど、脳に入出力する技術が進めば、5感すべてを再現することができるようになるような話も聞く。
たぶんその辺の技術の開発・普及の原動力になるのは「エロ」だと思う。情報機器の発展にはある意味戦争以上にスケベ心が貢献してきたといえるのではないだろうか。ビデオしかりインターネットしかりである。
オカーちゃんが息子の部屋のドアをガラッと開けると、息子がゴーグルつけたまま腰を激しく振っているような未来がもうすぐ来るのである。間抜けな未来である。
間抜けな未来を回避する技術として、脳が命令を出しても筋肉とかにその命令が伝わらないようにスイッチを切るような仕組みが、どうも脳に元々あるらしく、それを応用したら「ナーヴギア」のようなフルダイブ型の仮想現実機器が実現できるんじゃないかという話を読んで感心した。まさに「夢」では脳が指令を出しているのにスイッチ切れているので体が動かない、その仕組みがおかしくなると夢遊病になるらしい。なかなか脳って興味深い。
近い将来、仮想現実が現実以上になったとしても、じゃあ山頂に登った人間が見る景色の感動が、同じ景色を見てもヘリで山頂に降ろしてもらったのならそこまで感動しないだろうってのと同じで、やっぱり自分の体と頭を使って現実で経験することの価値って残るんじゃないかと思いたい。
このあたり考え始めると、山に登る苦労も含めて仮想現実で再現すれば同じだとか、現実ではあり得ない高さの山さえ設定可能。とか収拾つかなくなる。どこまで行っても個人の嗜好として「やっぱり本物がいい」というのは消えてなくならないようにも思うので、実際どうなるのか寿命が許す限り体験できるところまで体験してその都度感じるしかないんだろう。
中央アジアの空の青さも、南の島の壮絶な夕焼けも、これまで実際に足を運んで体験した思い出は、脳の中で補正かけまくりでいつまでもすばらしいものであり続けるはずだということは確信している。
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