2016年7月30日土曜日

家にいながらゲットだぜ -君の名は-夏の日の追憶篇

 世の中では「ポケモンGO」が人気のようで、ながらスマホの自転車とかフラフラしていて何だかなあという感じだが、あちこちと歩き回って獲物をゲットするという、狩猟採集の楽しさがあるんだろうなと、全く参加していない私でも想像はできる。楽しそうでようござんす。

 私の場合、釣りで200種以上ゲットとかデジタルじゃなくて現物で狩猟採集の楽しさを味わっているので、今更ポケモンGOに参戦する気も無くポケモンからノケモンになっている状態だが、家でネットしていただけで、釣ったことある魚種に1種類追加があった。イシガキハタゲットだぜ。これで釣ったことあるのは207種である。

 夏休みシーズンで、行く予定があるわけではないけど沖縄のリーフで釣りとかいいなあと、沖縄の釣り人のブログとか読んで楽しんでいたところ、カンモンハタとイシガキハタを見分けている人がいて、そういえばこれまであの手のハタは「イシミーバイ」ということで、全部カンモンハタのつもりで釣っていたけど間違いなかったのだろうかと気になって、過去の写真を見たところ、イシガキハタも釣ってました。お粗末。

 見分け方は、ムナビレの斑点が黒くて体側の黒斑でつながっているものがあるのがカンモンハタで、左の個体が典型。ムナビレに黒点があり、体側にいくつかつながった黒斑が認められる。








 でもって、ムナビレの斑点が赤くて、背中に黒色斑が5つ並ぶのがイシガキハタ。
 右の個体でも背中の黒色斑がセビレの下から尾丙部上部にかけて5個認められる。
 ムナビレの斑点は赤褐色。


 けっこう釣ったことのあるなじみの魚をちゃんと同定しきれていなかったのはお恥ずかしい限りだが、写真撮っておくと後からでも確認できる。

 ハタ類は同定難問ぞろいで、イシミーバイとまとめて呼んでるなかなには、他にもヒトミハタとかスミツキハタもいるはずだけど、写真確認したところ私はまだ釣っていないようだ。


 一つ賢くなって、たぶん街でレアポケモンゲットした人たちに劣らぬぐらい喜んでいる。

 今後も釣ったことない魚をゲットする喜びを求めて、水辺をウロウロとしていきたい。

2016年7月23日土曜日

水難防止

 西日本は梅雨明け宣言がでて、関東も梅雨明けまだっぽいが梅雨の晴れ間は猛暑になっている。

 暑い夏がくると痛ましい水難事故のニュースが絶えない。
 水上オートバイが海水浴客を跳ねて死なせたとか聞くと、やっぱり自分の中で水上オートバイ乗りに対する偏見に近い悪感情が湧くのをとどめることができない。
 どれだけ頭が足りなければ、あんな凶器になり得る機械で人の近くを高速航行しようと考えるのだろうか?理解に苦しむ。
 水上オートバイ関係に限らず、酒に酔って、子供を助けようとして、水難事故自体は水辺で遊ぶ限り可能性としては存在して、全くなくすというのは無理なのかもしれないが、ニュースを聞いていてもう少し注意深かったり、ちゃんとした知識があったりすれば避けられたものもあったのではないかと思わずにいられない。

 昔なら地域の共同体の中で、いっちゃいけないような危ない水辺の知識が共有されていたり、親から子へ孫へと水で遊ぶ時の心得が伝授されていたりしていたのが、都会的な個人主義と核家族化の時代になってそういうものが断絶してしまっているように感じる。

 たとえば、私が父親に教えられたことで印象的で憶えている教えは「溺れている人間を泳いで助けに行くな」ということである。なにを非人道的なことを言っているのかと思うかもしれないが、溺れるものは藁をもつかむで、溺れそうな人間は必死でしがみついてくるので、大人と子供の体格差があっても、足の着かない水深で直接抱き止めて救助しようとすると失敗して二重遭難になる可能性が高いからである。正しくはつかまることのできる「浮き」や「ロープ」を投げてつかまらせるのが最善手(クーラーボックスや防水バック、衣類をつないだものなどが使える。みんなで手をつないで引っ張るのもあり)。沈んでおとなしくなったのを引っ張りあげて人工呼吸で蘇生させるというのも次善の策。沈んですぐに引き上げて蘇生しない確率はおそらく、泳いで助けに行って二重遭難にはまる確率より低いはず。
 というようなことを我が父親の世代は身に付いた知識として知っていて子供に教えることができた。

 ひるがえって今時の親をみると、すべてとはいわないがちょっとびっくりするような事例を散見する。
 とある河口で、ヒラメをねらっていたとある夏の日。おもいっきり「遊泳禁止」の看板がかかっているにもかかわらず、河口で子供を泳がせる家族がちらほらといた。もちろん子供が遊んでいる波打ち際は危険にはみえないが、ちょっと沖に出てしまうと、もろに川の流れで沖にもっていかれる。注意してやろうかとも思ったが、わりといわゆるDQNっぽい親たちだったので面倒なことになってもいやなので放置してしまった。きちんとなぜ危険なのか説明しておくべきだったと反省している。
 逆にいつものテナガポイントの浅い川岸で子供にテナガ釣りをさせているときに、しきりに「危なくないか?」と気にしているお父さんがいたりして、底の見えてるよな浅場にはまったところでどうもならん、ということがわからない「都会の親」なんだなとちょっと気になった。こういう親は親でちょっと間違うとすべての水辺を「立ち入り禁止」とかにして子供を水辺から離そうとしたりする気配があって危うく感じる。

 我々釣り人も水辺で遊ぶ限り水難事故とは隣り合わせというか、油断すると死にかねない。
 最近は船に乗るときの救命胴衣着用はすっかり定着していてよいことだと思う。私も洋上では救命胴衣かひもを引っ張ると浮き輪が出てくる救命具を身につけている。もう、ないと不安を感じるぐらいで、海外遠征にも持っていって着用している。写真でみると腰につけたポーチのようなものがそれである。

 そういう安全対策の進んできた釣りの世界で、まだまだ危険だなと思うのがウェーディング関係である。

 割とありがちなのが、シーバスねらいの不必要なまでの深みへの立ち込み。ライフジャケットはつけているので、コケても溺死はないのかもしれないが、寒い時期に濡れネズミになれば凍え死にかねんと思うのだが、漁船が行き交う航路沿いでも腰ぐらいまで深く立ち込んでいたりする。
 膝下くらいで釣ってた当方でも釣れてるんだけど、深く立ち込むともっと釣れるのだろうか?そんなに変わらないような気がするがよくわからん。

 もうひとつ、ウェーディングでは川でも水深のある本流などでは救命胴衣を着用するべきということが、徹底されていないように思う。
 ルアーフライやるような釣り人は、コケても手が底につくような浅い渓流をやるようなウェーダー履いてフィッシングベストというおきまりのスタイルで本流もやっているように見受けられる。
 釣り雑誌の実験記事で読んだが、ウェーダー履いてコケるとウェーダーに入った空気で足が浮いてしまい、スケキヨ状態とまでは行かなくとも、顔が水面に出なくなってしまうそうな。
 その状態で水底に手をついて起きあがれない水深だと、そのまま溺れてしまいかねない。
 それを防ぐためには、水深のあるエリアで釣る場合は救命胴衣の着用が必要と実験記事では締めくくられていた。救命胴衣があれば上半身が浮いて顔を水面に出せる。
 その記事を読んでからは、ちょっと不格好でほかの釣り人がやっていなくても、本流で釣るときは救命胴衣をつけて釣っていた。東北時代の話である。 
 もう20年も前のことになるのかと思うと愕然とするが、いまでも本流のルアーフライマンは危なっかしい格好で釣っている人が多いように思う。

 死んだらつまんないので、是非救命胴衣を着用してほしいと書いておく。
 こういうのは雑誌やテレビで活躍するような釣り人が率先してやってくれると普及すると思うんだけどね。

 楽しい水辺の遊びで事故なんて起こすとつまんないので、安全第一で楽しみましょう。

2016年7月17日日曜日

わさび

 ケン一からの釣果報告のメールの中にわさびを刺身の上に乗っけて食うように強要してくるようなグルメについて「漁師でお上品に刺身の一切れ一切れにワサビ載せて食うヤツは断言するけど、いない。100%全員がワサビは醤油に溶いて刺身ドバっと漬けて食う。」と激しく非難しているところがあって、「やっぱりそうだよね」と百の援軍を得た気がした。
 漁師って、その日食う分の魚はわざと活き締めとかせずにタンパク質分解早めに調整して、とかやるぐらいに魚の味の分かってる人種である。

 不肖わたくしめも、父方が漁師町の出身で、うまい刺身はしこたま食ってきたという自負があるが、わさびを使うときは、わさびといいつつ実はセイヨウワサビともいわれる「ホースラディッシュ」が主原料として使われている「練りわさび」を醤油に溶いて刺身を食ってきた。

 本物のわさびを、カスザメの皮製の「おろし」ですりおろして刺身のツマにしたものなんてのは、大人になってちょっと良い値段の飲み屋に行ったときに初めて経験したぐらいで、はっきり言って食べつけていない。一応カッコつけて刺身に乗っけて食ったりしていたが「本わさびってこんな味なんだ」と思うぐらいで、それはそれでおいしいとも感じるが、正直物足りない味だと思っちゃったと恥かしながら書いておこう。

 何度も書いてきたが、味覚なんてのは習慣と偏見の産物であって、粉っぽい練りわさびを醤油の色がドロッと変わるまで溶かして刺身を食ってきた男には、そういう味こそが美味であり、刺身のわさびといえばそういうものなのである。
 本わさびなんて食べつけてないものは、たまのごちそうとしてありがたくいただくべきものかもしれないが、うまい刺身があったら、それに練りさびを醤油に溶いて添えてあったなら「どんぶり飯を盛ってこい!」という感じになるのである。

 にもかかわらず、最近スーパーでチューブの練りわさびを買うと「本わさび」とか表示されていて、原材料にホースラディッシュだけでなく、生意気にも「わさび」も使われていて、わりと粗挽きの粒子状になっている。
 このタイプのわさびが、私がもっとも嫌いなタイプであるにも関わらずそんなんしかチューブタイプは売っていない。
 すりたてでも何でもないので、生わさびの風味なんてぜんぜん感じない上に、醤油への溶けが悪い。何であんなモンが主流になってるのか理解に苦しむ。

 昔のホースラディシュの練りわさびがないものかと探すと、SBの缶入り「粉わさび」が売っている。水で練って使うタイプだが醤油に粉のまま溶かして大丈夫。なのだが、量が多すぎて最後まで使いきる前に辛みが飛んでしまう。

 そのほかには、スーパーで刺身を柵で買うと、ちっちゃなパックでついてくる「わさび」がうれしいことに安っぽいぐらいに粉っぽい昔ながらの練りわさびなのである。
 最近はもっぱら、刺身食うときは練りわさび付きのをねらって食っている。

 というぐらいに、我々ぐらいの世代なら、わさびは粉っぽいホースラディシュ原料のを醤油に溶いて使ってきたはずで、それが「お袋の味」的な味覚の記憶の正直なところであるはずだ。
 老い先短くなってきた我が人生、わさびぐらい好きに食ってもええやろと思う。
 今後も己に正直に、わさびは練りわさびを醤油におもいっきり溶いて刺身を食ってやろうと思うのである。

2016年7月9日土曜日

多数決以外の方法

 多数決の嫌いな少数派には苦々しい選挙がやってくる。

 以前もどこかで書いたが、私は多数決が嫌いだ。合唱コンクールで歌う曲を決める学級会から、原発反対まで、多数決でさんざん不愉快な思いをしてきた気がする。

 選挙という制度も、今のような社会が複雑で仕組みが大きくなってしまえば他にやりようはないのだろうとも思うが、選挙の否定が民主主義の否定のように声高な多数派が主張しているのを見たりすると、少数派としてはムカつくモノがある。

 民俗学者の書いた本を読んでると、昔の日本には、問題について集落の中で意見の一致を見るまで何回でも話し合う。という完全合議制とでもいうような気の長いやりかたをしていた地域があったそうな。
 合意にどうしても達しない場合、村長なりが判断を下すのかと思っていたら、むしろ合意に達しないと話自体をうやむやにしてしまってなかったことにするのだそうである。

 集落内での意思疎通が充分にはかられていて、話せば分かる古き良き時代の話なのかもしれないが、そういう民主主義もあるということである。

 くっだらねえ、公共事業で原発動かしたり水辺をコンクリで固めたりとかなんて止まってうやむやになってしまえと思うぐらいで、選挙とか議会での多数決とかやめて完全合議制でもかえって清々するンじゃなかろうかと思ったりする。
 まあ、完全合議制を今の社会でといったら、まず代表者の選択から選挙じゃ無くなるので頓挫して代表者が決まらない。ってぐらいになにも決まらないとは思う。

 もう一つ、多数決の不条理を解決する方法として、ぜんぜん民主主義じゃないけど、首長なり専門家なりに判断を任せてしまうというのがあって、大統領とか都道府県知事とか裁量の大きい首長を置く制度はある程度そうなっているように思う。
 だからこそ都知事にはアホを選ばないようにしないと大変な目にあう。

 イギリスのEU離脱の国民投票はかなり混乱を招いているが、あれが多数決の怖い面だなと思う。多数派が正しいなんて保証も理屈もぜんぜん無い制度が「多数決」なのである。

 むしろ民主主義としては、決をとるにいたる前の議会での議論や国民も巻き込んだ議論にこそ大事な部分があるのではないだろうかと思っている。
 議論の中にはもちろん、政見放送や国会質問なんて堅いのも含まれるが、一国民として声を上げるのも議論のうちに含まれるんだろうと思っている。
 だからお気楽ブロガーとしても、「原発反対」とか「水辺をコンクリで固めるな」とか書いているわけである。
 お気楽ブロガーの一言なんて、選挙の1票以上に全体から見れば小さなモノかも知れない。
 それでも、今時の「社会の声」としてニュースでもネット上で多くつぶやかれた言葉をひもといて関心事項を洗い出しているように、あきらかにそういう「声」が発せられるネット上のSNSだとかも民意を形作る道具となりつつあるように思う。

 選挙の、多数決の結果がどうあれ、少数派としてムカつくことがあればこれからも書き殴っておきたいと思うところである。
 魚や釣り具のことを楽しく書いていたいこのブログだが、ムカつかずにおれないこのご時世、お気楽ブロガーのお務めだと思うことにする。

2016年7月3日日曜日

カルト化するメイドインジャパンの釣り具

 良い宗教の簡単で乱暴な見分け方は「求められる1人あたりの手間やお金が大きくない」なんだそうな。
 葬式仏教なら、お布施はちょっとかかるけど、あとはナンマイダブとでも唱えておけば何とかなるお手軽さ。
 キリスト教徒なら普通もうちょっと真面目で、日曜には教会で祈ったりする。
 イスラム教徒は、毎日決まった時間にお祈りやら、断食やらでめんどくさそうだが、実際にはそれ程厳しくない宗派も多くて、そのあたりの普通のイスラム教徒達の生活とかは高野秀行先生の「イスラム飲酒紀行」を読むと雰囲気がつかめる。
 ダッカでコーラン暗唱できなかったからという理由で、国の発展の助けにと国際協力できていた人間を狩りやがったような過激な思想に傾いた輩どもがイスラム教徒の主流ではないというのは意識していないと大きな間違いをしかねない。

 一人一人のお布施や直接参加する行動が小さくても、沢山の信者がいたり、教団側が阿漕な儲けに走っていなかったりすれば、宗教としては成り立っていき、その中で、教義や教祖のカリスマやらからくる御利益の有る無しで違いは出るんだろうけど、まあ「良い宗教」といって良いらしい。

 逆をいえば、悪い宗教とは「金と手間がかかる」ものである。
 それも末期的なカルト教団とかになると、傾向が極端になり、極限られた信者しかついて来られないような教義の内容になって、特別なご利益を得るためには特別な信心が必要とされているような場合が多い。「他宗派をぶっ殺せ!」もなかなかついて行けない教義だし、「全私財をお布施として差し出せ」なんてのも良く聞く話である。多くの信者からこつこつ集めることがデキないから少ない信者にはものすごい負担を強いる構造に陥っていて、それがさらにそういったカルト化に拍車をかける。


 ひるがえって考えると、日本の釣り具業界は「カルト化」しかかってるんじゃないか?と不安に思えてくる。

 釣り人人口は減った。バスブームが牽引していた一時のブームを考えると、バス釣り自体が肩身の狭い思いをしているような今日の現状で、他の釣りをいくらはやらそうと、アジングだのエギングだのやってたって、そこらの近所の池にホイホイと釣りに行けたバス釣りとは自ずと収容できる人数に違いがあって、「釣りガール」含め笛吹けど踊ってないってわけでもなさそうだけど、釣り人人口減少分をおぎなうほどになっていない。

 その少なくなった釣り人人口で、かつ、安い釣り具は中国韓国東南アジアから入ってくる中で、日本の釣り具業界は、「高級品志向」に舵を切っているように見受けられる。
 まさに、その姿は信者の少ないカルト教団が高いお布施を払わせようとしている様に重なって見える。
 釣り人が少ないので一人あたりの単価を上げようとして、結果、釣りの敷居を上げてしまってさらに釣り人の減少に拍車をかけているというカルト教団なら破滅への道を転がるパターンに陥っているのではないかと心配になってくる。

 ありていに言って、そこらでシーバス釣るのに使うごときに、5万もする竿やリール買えるかよ?というところである。

 メーカーお抱えの「プロ釣り師」は「道具の値段は基本的に性能に比例するので、予算の許す範囲で高いの買ってください。」と薦めてくる。
 そりゃメーカーの立場に立ったらそう言うんだろう。そういう信仰だといってもいいかも。
 でも、道具に必要な性能は、釣り人の使いこなす技術で制限されるし、釣り方によっても制限される。
 極端な話をしたら、ドラグの使い方知らない人間が良いドラグ付いたリール使っても意味ないし、そこらでふつーにシーバス釣るぐらいなら、特殊なリールの性能など無くてもかまわない。
 私なら「道具なんてのは、とりあえず投げて巻けりゃなんとかなるので、とりあえず中古でも安モンでも良いので、買って釣りに行けばいいよ」と薦めておきたい。
 今時、多少安いからといって、20年以上前の設計のPENNとかよりは単体で使いにくいなんてことはないはずである。PENNで釣れるのにそれよりマシな道具で釣れないわけがない。

 もちろん競技の釣りやら、道具の限界まで使うような釣りやらがあって、そういう釣りをするためのハイエンドモデルがあっても良いんだけど、そうじゃない釣りには「この辺の安いモデルで十分ですよ」という売り方をしないと、最初にそろえる道具が10万円とかだと新規参入する人がいなくなるよという話である。
 シーバス始めるのに「竿とリールで10万円かかります。」というのと「最初は中古で竿1万ぐらいリール5千円ぐらいで充分行けるよ。」というのでは敷居の低さが違ってくると思うのだがどうなんだろう。

 正直、釣り具業界がミスリードして自分の首を絞めているように思う。
 今釣り具業界が根性入れて売らなければならないのは、新品で1万円台ぐらいの実用機や、それ以下の初心者モデルで、それを日本のメーカーは安い外国産に、ハイエンドモデルから引き継いだ使い良さとかで競り勝つ必要があるのではなかろうか。
 難しくても「やっぱり日本製は安くても良いゼ」と言わせないとダメだろうと思う。

 やれ船釣りだ、磯釣りだと、道具やらそろえなければならない釣りほど、釣り具業界は力を入れるけど、そういう敷居が高い釣りじゃない、のべ竿一本でデキるハゼ釣りみたいな釣りにも、当面のもうけがなくても力を入れて、釣り人を育てる必要があるのではないかと思う。
 最近チョコチョコとそういう小物釣りも人気になりつつあるように感じているけど、そいいう誰でもやれる気軽な釣りが、専門的でカルトな感じの釣りより「釣り全体」を見て大事な意味を持ってきているのではないかと思う。

 ここ数年、江戸前小物釣り師修行と称して小物釣りを楽しんできた現場から今そう感じる。