2016年7月9日土曜日

多数決以外の方法

 多数決の嫌いな少数派には苦々しい選挙がやってくる。

 以前もどこかで書いたが、私は多数決が嫌いだ。合唱コンクールで歌う曲を決める学級会から、原発反対まで、多数決でさんざん不愉快な思いをしてきた気がする。

 選挙という制度も、今のような社会が複雑で仕組みが大きくなってしまえば他にやりようはないのだろうとも思うが、選挙の否定が民主主義の否定のように声高な多数派が主張しているのを見たりすると、少数派としてはムカつくモノがある。

 民俗学者の書いた本を読んでると、昔の日本には、問題について集落の中で意見の一致を見るまで何回でも話し合う。という完全合議制とでもいうような気の長いやりかたをしていた地域があったそうな。
 合意にどうしても達しない場合、村長なりが判断を下すのかと思っていたら、むしろ合意に達しないと話自体をうやむやにしてしまってなかったことにするのだそうである。

 集落内での意思疎通が充分にはかられていて、話せば分かる古き良き時代の話なのかもしれないが、そういう民主主義もあるということである。

 くっだらねえ、公共事業で原発動かしたり水辺をコンクリで固めたりとかなんて止まってうやむやになってしまえと思うぐらいで、選挙とか議会での多数決とかやめて完全合議制でもかえって清々するンじゃなかろうかと思ったりする。
 まあ、完全合議制を今の社会でといったら、まず代表者の選択から選挙じゃ無くなるので頓挫して代表者が決まらない。ってぐらいになにも決まらないとは思う。

 もう一つ、多数決の不条理を解決する方法として、ぜんぜん民主主義じゃないけど、首長なり専門家なりに判断を任せてしまうというのがあって、大統領とか都道府県知事とか裁量の大きい首長を置く制度はある程度そうなっているように思う。
 だからこそ都知事にはアホを選ばないようにしないと大変な目にあう。

 イギリスのEU離脱の国民投票はかなり混乱を招いているが、あれが多数決の怖い面だなと思う。多数派が正しいなんて保証も理屈もぜんぜん無い制度が「多数決」なのである。

 むしろ民主主義としては、決をとるにいたる前の議会での議論や国民も巻き込んだ議論にこそ大事な部分があるのではないだろうかと思っている。
 議論の中にはもちろん、政見放送や国会質問なんて堅いのも含まれるが、一国民として声を上げるのも議論のうちに含まれるんだろうと思っている。
 だからお気楽ブロガーとしても、「原発反対」とか「水辺をコンクリで固めるな」とか書いているわけである。
 お気楽ブロガーの一言なんて、選挙の1票以上に全体から見れば小さなモノかも知れない。
 それでも、今時の「社会の声」としてニュースでもネット上で多くつぶやかれた言葉をひもといて関心事項を洗い出しているように、あきらかにそういう「声」が発せられるネット上のSNSだとかも民意を形作る道具となりつつあるように思う。

 選挙の、多数決の結果がどうあれ、少数派としてムカつくことがあればこれからも書き殴っておきたいと思うところである。
 魚や釣り具のことを楽しく書いていたいこのブログだが、ムカつかずにおれないこのご時世、お気楽ブロガーのお務めだと思うことにする。

2 件のコメント:

  1. 就職一年目、なぜ投票しないかと責める上司に「多数決で世の中良くなるとは思えないから」と答えて絶句されました。当時一緒の課にいて震災時現役職員だった人で生き残ったのはМちゃんだけなんだよな。たった20年だけど、世の中の変わりように愕然とします。「誰に入れても変わりゃしねえ」なんて嘯いていられたのは今から考えるとシアワセな時代だったんかなあ。

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  2. そういえばcarankeさんの「チャランケ」もとことん話し合う系の文化ですよね。

    類友なのか、他の方からもメールで「多数決はオレも腹立たしいことの方が多いな」と来てました。

    自分を省みても、人間って愚かで小ずるいと思う性悪説な私からみると、多数の意見をとったところで、愚かで小ずるい結果しか出ないと思うのですが、多数派の人は性善説だということでしょうか?よくわかんないですね。

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