2015年2月22日日曜日

スメルズ・ライク・アラフォー・スピリット


 小雨降るなか、釣り具部屋で久しぶりに出番のあった落としダモが、シーバス臭い臭気を放っている。
 過去にも何度か書いたが、この魚臭さがイイんですワ!

 先週のワカサギの時の帰り道に嗅いだ指先の青臭いワカサギ臭もなかなかのモノがあったが、シーバス臭いタモのほうが、香り高さといい、もろ魚を感じさせるワイルドなフレーバーテイストといい極上である。

 アホなことを書いております。

 シーバス釣りって、どうにも独特の緊張感があって、時間帯とか外したらまったくあたりもかすりもないこともあれば、パターンははめてるのに、食わせ切れんとか、バラしまくるとか、隣ばっか釣れるとかあって、釣れるまでドキドキするし、釣れるとその分ひとしおの喜びである。

 昨夜の釣果だって、湾奥レギュラーサイズ×2、セイゴ1のたいしたことない成績だけど、いろいろ作戦練って、情報も集めて、なんとかチャンスをモノにできた嬉しさで、サイズとか数とかまあ良ければそれに越したこと無いけれど、そんなことはあんまり関係無くて、とにかく釣れてくれて嬉しかったのである。

 今日は、部屋でライギョロッドの魔改造を進めたり、昼寝したりとまったりしているのだが、なんか天気予報が雨だったので今宵は出撃しない予定だったのに、あまり降っていないので、ちょっと準備だけしておこうかなという感じになってきている。

 さて、どうなることやら。

 

2015年2月15日日曜日

お金じゃ買えない私の持ち物


 2週にわたって、お金で買えない価値あるモノについて書いたわけだが、「自然環境」なんていう公共の財産じゃなくて、私個人が持っている物でお金では買えない価値あるモノとしてはどんなモノがあるだろうかと考えてみた。

 私の持っている最大のお宝は、我が心と体である。他者から見れば「月給いくらで働く労働力の1人」とか、「情報を引き出せるアドバイザーの1人」とか、私でなくても代替可能な人間で、お金払って雇うという事はできるのかもしれないが、私にとっては金で買うわけにはいかない代替不能な私自身である。
 「オレの替わりに釣りに行って楽しんできて!」とか言葉としてはあるかもしれないけれど、それは俺自身がやらねば意味ないことで結局金で自分自身を買うことはできない。
 父母からいただいて、もっというなら先祖から連綿と引き継がれてきて、いろんな人や経験、文化に育てられたこの身体と心、売るわけにはいかないしスペアもないので買い直すこともできない。
 最悪、生きてこの心と体がありさえすれば、何とかなりそうに思う。

 本当は「愛」なんてのが2番目ぐらいに来るべきなのかもしれないが、なんかそちら方面は得意でないので、2つめは「男の友情」かな。
 友達は少ないけど、友がピンチになったらナニもかも捨てて助けに行っても良いと思えるような友がいるということが、私にとって価値のあることだし誇らしく思う。
 竹内久美子先生が著作で紹介していた説だったと思うが、男の友情、男同志の連携は、人類の歴史において、石器時代の狩りだろうが、近代の戦争だろうが、一族の存亡を決めかねない重要な要素であり、男の友情に熱いヤツらが生き残ってきたんだとかなんとか。
 男というのは友を救うためには自らが犠牲となることも厭わないという感情がわりと普通にあるはずだと思うけど、どうでしょう?
 さすがに友はお金では売っていない。でもお金持ちで奢りまくる人とか友達作りやすいかもしれない。だからといって貧乏人に友達ができないわけでもないので、やはり金で買えるものというカテゴリーには相応しくないように思う。でも、友達作るのが苦手な内向的な人間が、同好の趣味のサークルに入ってお金ちょっと使って得た友情なんてのを考えると、買えれば買っても良いし、それが恥ずかしいモノでもなんでもないモノだという気もする。その場合でも友情のきっかけは買えるけど、友情そのものは自分たちで作るモノだという気がする。 

 3つめは「想い出」かな。40過ぎて人生も折り返してターンすると、昔のことだのが懐かしく思い出されるようになって、自分が確実に老いつつあることを認識する。寂しくもあるのだが、つらい目や悲しい目に沢山あってきたはずだけど、想い出すのは楽しい幸せなことばかりで、胸が切なくなるような気持ちになる。あのとき楽しかったなァという想い出が沢山ある。自分の持っている財産のうちでもとても価値あることだと思う。
 楽しかった釣りの記憶、若い日の学生生活の日々のあれこれ、しんどかった仕事でさえも後で想い出すと面白かったように感じる。

 4つめは、「自分に身についた知識と技術」だろうか、今時情報化社会と呼ばれてネットでサクサクと何でもググったりウィキったりして知識も得られるご時世だが、例えばワカサギの沢山ハリが付いた仕掛けのあしらい方一つとっても、自分で仕掛けを絡めて反省して絡まないように竿スタンドへのたてかけ方とか工夫していて、そういう細かい所って結局自分にあわせて技術をカスタマイズしないといけないので、そういう自分の身についた知識と技術は結局金でも買えないので、価値が高いと思うのである。
 ワカサギから揚げにするときの油の温度管理とかだって、実際にやってみないと身につかない。

 5つめは「慣れ親しんだ道具」で、自分が耐破壊強度まで把握しているロッドとかラインとか、メンテの仕方も頭に入っているリールとか、自分の手の延長になるような道具って、結局その道具を長く使い込んで慣れ親しんでいくしか手に入らないと私は思っているので、そういう道具はいくら金をかけたからといってホイッと手に入るわけではないので、金では買えないと思っているのである。
 カタログスペックがいくら高くたって、その性能を自分が使う状況では使わないのでは宝の持ち腐れである。
 逆に私にとって価値の高いそういった慣れ親しんだ道具が、他人にとってはただの古くさい中古品であることも事実である。でも私はいくら金を積まれても売る気がないぐらい価値を認めている。

 お金で買えるものは「湖そのもの」とか極端に高額なもの以外はだいたい買ったつもりである。車も持ってるしカヤックだけど船もある。正直言って欲しいモノはだいたいもう手に入れている。あとはあればより良いという程度のモノで、それは「痛まない腰」とか「釣りに行ける永い休暇」とか、お金で買えそうにないモノばかりである。

 金で買えるものは便利だしお金かけた分の価値はあるけど、それ以上でも以下でもなくて。お金が全てを解決してくれるなんて全く考えられないと思うのである。

2015年2月8日日曜日

雄弁な春


 小鳥を見るとなぜ人は和むのか?

 先週コゲラにずいぶん和まされたので「この感情は何ならむ?」と考えたりした。

 誰が書いていたのか思い出せないが、面白い説を読んだことがある。
 「小鳥がいる環境というのは、結局、虫や植物も含めた多様性の保たれた生態系の象徴であり、小鳥は直接人間に危害を加える存在ではないので、小鳥がいることは自分たちが自然から恩恵を受け生きていくことができることを示す証拠であるから、人間の感性は理屈ではなく生まれ持った資質として小鳥を愛すべきものとして認識するように進化してきた。」

 なかなかに説得力がある。
 コンクリ屋に生物多様性やらの重要さを説明するのに、「理屈じゃないんですよあなたも小鳥が可愛いと感じたことぐらいあるでしょう。それはあなたが本来、意識しなくても生物多様性や自然環境の大切さを認識しているってことなんですよ。」という感じだろうか。

 小鳥は世界中でそうだろうが、「幸せの青い鳥」がまさにそうであるように、幸福とか良い暮らしとかの象徴として昔から愛されている。

 日本でも、ツバメが「土食って虫食ってシブーイ!」と嘆かなければならなくなった話とか、「舌切り雀」とか、小鳥の出てくる昔話が結構ある。

 「舌切り雀」では、優しいジサマと強欲で容赦ないバサマが出てくる。
 自然は豊かな恵みを与えてくれると同時に時に悪さをしたり災厄をもたらしたりする。
 「舌切り雀」は、スズメという日本人にもっとも身近な小鳥の二面性にも触れつつ、人が自然とどうつきあうべきかを暗示した寓話として読めるように思う。
 スズメは農業において、米盗人でもあるが、一方で「害虫」を食べる益鳥でもある。
 まさに米から作った糊を食われたバサマが舌を切るのは、米盗人である鳥など駆除してしまえと主張するような側の人間を象徴しているように思う。
 逆にスズメを可愛いものとして保護するジサマが、結局お宝を得るというのは「小鳥」に象徴される自然を敬い大事にすることが、富を得るための正解なんだよと教えてくれているのだと思う。
 あとダメ押しとして、「大きすぎる富」を求めたバサマが選んだ大きなつづらにはろくなものが入っていなかったというのもあわせて良くできた寓話だと思う。

 原発事故なんて、まさに強欲な人間が選んだ大きなつづらから良からぬ魑魅魍魎が、という図式そのまんまである。
 「害鳥」であるスズメを国策として駆除した結果、害虫被害が増加して凶作を招いた「大躍進計画」なんてのもお隣の国の話だが他山の石とすべきだろう。

 「自然を大事にしろ、欲をかきすぎるな。」シンプルでわかりやすい指針である。


 もう一つ小鳥について象徴的な話として「坑道のカナリア」がある。

 カナリアは美しい声でさえずるが、火山性のガスなど空気の汚染には弱く、人よりも先に死んで鳴かなくなってしまうので、坑道で石炭掘る人はカナリアを連れて行ったとか。

 小鳥が鳴かなくなったら、次は人も危ないということである。

 残留農薬などの化学物質の危険性を世に問うた世界的ベストセラー「沈黙の春」でレイチェル・カーソンはまさに鳥が鳴かないような春の恐ろしさを訴えていた。と、読んでもないのに開高先生が書いていたのの孫引きで書いてみる。
 開高先生の「草原の恋人達は耳元のミツバチの羽音を聞けないでいる」「水と一緒に赤ん坊も流してしまったのか」とかいう独特の開高節の表現も頭に残っている。

 鳥が鳴かない、蛙が鳴かない、虫も飛ばない、そんな春など来て欲しくないし、来たら人間の生活も脅かされるような状況になっているはずである。
 高度経済成長期、1970年代ころまで公害に象徴されるように日本の自然も汚染が進みまくったが、貴い犠牲の上に排水の基準など規制が強化され、コンクリはあいかわらず猛威をふるっているが、水辺の環境に関しては下水道の普及もあって水質自体は良くなっている。
 80年代以降カワセミが都市部でも増えてきたというのは、都市に鳥が順応した面もあったのだろうが、そういった水質の改善に伴い餌の魚も増えてきたことと無関係ではないだろう。
 「公害」が起こるときには絶対「カナリアの死」に相当することが起きていたはずで、水俣病では猫がまずやられておかしな歩き方をしていたと聞く。おそらくその時代にカワセミのような小鳥はあちこちで数を減らし姿を消していたはずである。
 人だって結局生態系の一員で最も高次の捕食者でもある。環境が汚染されたら最も生物濃縮でその影響にさらされる生物のはずである。「カナリアの鳴き声」や「春の語る言葉」には注目しておかなければならない。

 昨夜は、東京湾の春の風物詩であるゴカイの一斉産卵行動「バチ抜け」に遭遇した。
 すさまじい量のゴカイの類が、一斉に産卵のため卵か精子を体に詰め込んで泥底から泳ぎだす。
 一気に大量に泳ぎ出すのは、多少魚に食われても食いきられないようにして確実に子孫を残すための戦略だろう。

 しかし、ちょっと昨夜のゴカイちゃん達は「雄弁」すぎた。魚たちは鱈腹食っていたようだが、我々釣り人は「沈黙」するしかなかったのである。

 スカ食って悔しくはあるのだが、それでも、予測不能で変化や多様性に富む自然の生きものたちを相手にする「釣り」が、予測不能だからこそ面白いとも感じているところである。

 だいたい未来を予想するなんてのは不可能というのが、量子力学の世界のコペンハーゲン解釈からの帰結だろ?とコペンハーゲン解釈の意味がほぼチンプンカンプンなのに、小難しいことを書いて自己のいたらなさを棚に上げ悔しさを紛らわせる釣り人なのであった。