2025年4月5日土曜日

コテコテのエンタメの底力

引用:島袋全優「腸よ鼻よ」1巻Kindle版
  ネタ切れの時のお約束、いつもサイトの方でひっそりとやってる「ナマジの読書日記」の出張版でございます。まあ読書と言ってもマンガとラノベで堅苦しい内容じゃないので暇つぶしにユルッとご笑覧あれ。

 一作品目は十巻で完結した島袋全優先生の「腸よ鼻よ」で、これ作者の実体験に基づいた「闘病ギャグエッセイマンガ」なんだけど、よくもこんなにも酷い病状を、こんなにも面白おかしいネタに昇華できるなと、心の底から感心するとともに腹から笑える。”あとがき”で「ギャグは盛っても病状はもらないという信念の基」に描いたと書かれているけど、”潰瘍性大腸炎”っていう大腸の酷い病気で最初のつかみの部分から大腸を失うことになるっていうのが予告されてる感じで「わーエラいこっちゃなー」って思うわけで、それがメインディッシュだと思うじゃん。でもそれが前菜だったわけよ。詳しくは読んでくれって話だけど、大腸なくなって小腸を肛門につなぐんだけど、上手くいかなくて穴開いたり癒着したり、治療してもしても、悪化して激痛、ひたすら入院・手術の繰り返し、人工肛門をお腹の横に開けたり閉じたり、あまりの激痛に痛み止めの医療用モルヒネも効かなくなってしまって、米国とかで濫用者が死にまくって悪名高いフェンタニル処方されて「フェンタニルって、合成麻薬として嗜まれてるだけじゃなくて医療利用もあるんだ!」って変な驚きかたしたぐらいだけど、術後の退院には”薬を抜く”のが一苦労とかもう、ここまで病気に苦しめられている人も世の中にはいるんだなと圧倒される病状。もちろんお薬で”せん妄”ネタもお約束。っていうしんどいって言葉ですまされないような状況でも、この人マンガ描きまくり。入院中にも画材やらネット機材やら持ち込んで描いてるし(当然医者に止められたりもしてる)、後半はデジタル作画になって解消してたけど、最初の頃紙に描いてて、尻が痛くて姿勢がままならないのでベットで描くのに、よくイラストレーターとかが使ってる下から光が来る台(トレス台)の代わりに、お医者さんがレントゲン写真を貼る縦置きの台(シャウカステンとかいう名前らしい)が欲しいとか、とにかくマンガ描くのが好きなんだろうなというのがアリアリと分かる。絵を描くことを禁じられて縛られた雪舟が、それでも描きたくて足で涙を絵の具にネズミの絵を描いた逸話を思い出させる。血と腸液でマンガを描いているといって過言ではない島袋先生は現代の雪舟と言って良いかも。最初マイナーな出版社のWEB連載で始まったようで、後にKADOKAWAから紙の本やらも出たけど、イマイチ作品のすさまじいまでの破壊力のわりには話題になってない気がするので、全力でお薦めしておきたい。もうね、ワシも持病ももってるし薬飲み飲みボチボチやってるけど、人はここまで苦しい難病でも、もちろん作品に出てこないつらさや悲しみもあるのはアホでも分かるけど、それでも情熱のおもむくままに突き進むことができるという事実。人間の力強さ、好きモノの突貫能力、もう励まされる力づけられる胸に火がともる。とにかく万人にお薦めする傑作です。全優先生、人工肛門と付き合いながら入院はもうしなくてすんでいるそうだけど、健康にはお気をつけて、これからもバリバリとマンガ描いて描いて描きまくってください。作中でも出てきたデビュー作「カエルのおっさん」も面白かったです。新作も楽しみにしてます。

 二作品目は、賀東招二先生の「フルメタル・パニック!」全十二巻と短編集十一冊を三度目の読み直し。一度目はアニメから入って原作ライトノベル紙の本で買ってて、最後の二巻が同時発売になったときに、渋谷の再開発でなくなった、交差点の角にあるちっちゃいけど趣味の良い、内澤洵子先生の著書とかお薦めされてた書店で平積みされてるのを発売日の仕事帰りにワクワクして買ったのを憶えている。その後、紙の本は古本屋に売ってしまったけど、外伝の「アナザー」を読み始めたらまた読みたくなって全巻電子版で買い直して再読、そして今回は賀東先生が久しぶりに書き始めた新シリーズというか続編「フルメタル・パニックFamily」を読み始めたらクソ面白いんだけど、本編の内容うろ覚えで気になるところがでてきたりして二度目の全巻再読。いやはやこれまた傑作でクソ面白かったし、ヤン君死んでなかったのも確認できてスッキリ。ここからネタバレ多めでゴリゴリ書くのでこれから読む人はご注意を。

 まあ、本編だけでも十二巻と長い物語なので読むの大変だったけど、それにもましてこの物語には難所が一カ所あって、主人公ソースケは悪の組織アマルガムと戦う傭兵集団ミスリル所属のロボット操縦兵なんだけど、ミスリルの基地や組織がアマルガムの総攻撃を受けて大打撃を受けて、主人公も仲間の仇を討ち、ヒロイン(メインの)を取り返すために雌伏の時を過ごす8巻のナムサク偏が、読んでて辛いの分かってるので読むのに覚悟がいる。まあ、ネタバレするとメインヒロインじゃないこの巻のヒロインであるナミちゃんが酷い死に方をするのである。ワシそのせいで、最終的にこの物語はメインヒロインを救い出して大団円に完結するんだけど、そこに文句はないハズなんだけど、ナミちゃんがあんなに酷い目にあったのに、最後メインヒロインのカナメと結ばれて幸せに暮らしましたとさって、ソースケも賀東先生も酷いじゃないか、って思ってたけど、読み直してみたら自分が当時はナミに感情移入しすぎてたせいでそう感じただけで、実際にはソースケも意外なぐらいにトラウマになってて、カナメを助け出すのに、ナミの死を正当化してまで的なことをグジグジ悩んでいるし、カナメがおかしくなって世界を改編して”幸せな世界”にしようとしてるのを阻止するってときに、ナミと成り行きで3人で過ごしたりもしたフランス諜報部のレモンに、ナミが生き返る可能性があることを伝えるべきか逡巡したりもしていて、心に抜けない棘のように刺さりまくっている。ナニをナマジは絵空事のラノベの美少女ごときに感情移入してるんだって話だけど、物語ってそういう架空の人物やらにガッチリ感情持ってかれるぐらいにのめり込んで楽しめなければつまんねえと思うし「絵空事は絵空事として現実とは分けて考えるべきで、現実ほどの価値はない」とか言い始めたら、過去現在未来ありとあらゆる、文学や映画、アニメに劇にという物語は絵空事であり、そこに価値がないということになる。バカ言うなって話である。NHKの名作アニメ「電脳コイル」では、主人公達は大人達がさももっともらしく「実際に手で触れられるようなものだけが真実なのよ」ってなことをほざくのに反して、電脳の仮想世界で、紛れもない絆を育み成長していく。絵空事のアニメだけどよく分かってると感心した。絵空事でナニが悪い。それを信じて、あまつさえ共有できることが我々ホモサピの欠点かもしれないけど大きな強みだったんだろ?っていう話。

 で、ちょっと書いたとおり、フルメタって作品はガッチリSF入ったロボモノで、”ソ連”のとち狂った科学者が娘を贄に、時空をねじ曲げ起こりえる事象を改変してしまうような装置を作ろうとして、オカルト版チェルノブイリみたいな精神汚染を伴う事故を起こしてしまい。事故当時に世界中にぶちまけられた精神波みたいなのを新生児のときにくらった子供達が、未来だか可能性の彼方だかから、異常に進んだ科学技術”ブラックテクノロジー”とかについて「ささやかれる」ことによって、いびつな科学進歩が生じた世界が舞台で、人型ロボット兵器とかがまさにそういった謎技術に基づいているっていう設定。で、敵側の一部が、ゆがんでしまった世界を元に戻そうと、あるいはもっと個人的に亡くなった愛する家族とかが生きていた世界を実現させようと、メインヒロインのカナメの力を使って、愛する人が死ななかった、酷い戦争とかが終息する”幸せな世界”に世界を改変しようとする。でもまあ、そんな都合の良い幸せな世界が良いわきゃない。ってのが分からんようなら貴方とは分かりあえん。敵側に行っとけ。そんな作りモノの幸せな世界がクソ食らえだっていうのは、各種ディストピア系の物語でさんざん描かれてきているって話で、パッと思いつくだけでも「ハーモニー」「新世界から」「ダーリン・イン・ザ・フランキス」といくらでもある。そういう”作られた幸せな世界”を痛烈に蹴飛ばして、というか巨神兵で焼き払ったのがマンガ版の「風の谷のナウシカ」である。人類が穏やかな種族として腐海が浄化された後によみがえり暮らすための技術を納めた墓所を、ナウシカは自分の罪におののきつつも焼き払い、そして吐いた台詞が格好いい「我々は血を吐きながら、繰り返し繰り返し、その朝を越えて飛ぶ鳥だ」。与えられた平穏幸せを全否定し、自らの手で幸せを得るために血を吐くような苦難を何度も何度も乗り越えていくという決意。痺れるぜ。「ナウシカを金ローで観るのは子供、マンガ版で読むのが大人(byガハラさん)」っていうのも納得の突き抜けたナウシカの強さに宮崎駿先生の非凡を見る。

 で、今作では色々あって、敵にとらわれたカナメも病気で早くに亡くなった母も生きている、核が使われるような戦争が阻止できた”世界”を作るつもりで、事故で死んだ科学者の娘の精神とごっちゃになりつつ、世界を改変するための設備も整って、そのやさしい世界をちょっと味わうんだけど、その時に、カナメは戦争が起きなかったのでホホに傷のないソースケが受け入れられなくてっていうのが引き金になって、世界の改変は綻び始める。ソースケはソ連とアフガンの間で行ったり来たりした少年兵として育ち、その後傭兵として戦ってきたからこそ、カナメを護衛する任務に就き、困難を共に切り抜けて強い関係性を築いていたわけで、そういう戦いが磨きをかけ研ぎ上げていないソースケをカナメは許容できなかった的な感じ。なんというかその気持ちよく分かる。ワシも人生でやり直したいような失敗は沢山やってきたけど、じゃあやり直せるならやり直すかと言えば、やり直したら、そういう失敗で痛い目に遭って鍛えられたりゆがんだりもしている今の自分が、別のモノに変質してしまうわけで、今の自分がいなくなってしまう。そんなのはイヤに決まっている。失敗やら後悔するようなことやらもやってしまうのが人間の人生で、それをやり直せるからといってやり直していたら、生きることの真剣みが決定的に削がれてしまう。ソースケの殺し殺されの厳しい半生は、殺した相手も多くいてその手も血に汚れているし、ソースケを戦うことしかできないようないびつな男にしてしまってもいる。かといって、そういう困難を経験していないソースケは、カナメにはもはやソースケではなかったのだろう。そういう”やり直しができないからいい”っていうのは「超可動ガールズ」で、勇者ベルノア(のフィギュアが命を得て動き出したもの)がみんなで暮らしてるマンション内にセーブポイントを見つけてしまって、過去の出来事をやり直してみたんだけど、ただむなしいだけで、もっと大きな事態の時に、例えば自分や仲間が死んだときに、セーブポイントからやり直しできてしまうという、むなしいのに誘惑にあらがえずやってしまうだろうことが分かりきってる事実の前で苦悩して、主人公と相談してセーブポイントぶち壊してた。美少女フィギュアたちが命を得て、オタク青年の部屋にやってきてキャッキャウフフな日常を描いたちょっとエッチなギャグマンガなのに、何というか「人生やり直しできねえ一発勝負だからから、気合いも入るし、真剣に面白いんだよ!」っていう大事なところは真ん中ズバンと射貫いてハズしていない。あなどれん作品なんである。

 で、もうチョイ突っ込むと、やり直しできない方が良いっていうのの典型は「人を生き返らせてはいけない」っていう、物語の世界でもタブーとされてる設定が多い事象である。ハガレンでは母親を蘇らそうとして失敗、エルリック兄弟は体やその一部を失った、死者を生き返らせることと等価交換できるような事象はないという重み。ジョジョ4部の、仗助のスタンド「クレイジーダイヤモンド」は壊れたモノを直すことができるけど、ただし、生命が終わったものはもう戻せない、っていうのが抜群に物語に深みを与えてるし、そうあるべきだと思わされる。これはもう、洋の東西問わず古くから、人は感覚的に直感的に”死んだ人生き返らせるのはダメ絶対”って考えてきたようで、日本のいざなぎの”よもつ平坂”の話も、ギリシャ神話のオルフェウスの冥府下りの話もそっくりなぐらいで(前述の「超可動ガールズ」で紹介されている)、人は死んだら帰ってこないっていうのが大事で、だからこそ生きているうちに、って話になるのだと思う。これまた”死んだらおしまい一発勝負”だからここ実際の人生も面白いし価値があるんだと思う。物語世界で、このタブーを破って面白かったのって「ドラゴンボールで生き返らせればいい」っていうのぐらいしか思いつかず。それは鳥山明先生の天才のもつ軽やかさでしかなしえない希有な事例だろうと思っている。

 とはいえ、そういう”大事なこと”が書かれていても、面白くなければ意味ないわけで、っていうか純文学で重めの題材を扱ってても面白いものは夢中になってひきこまれるぐらいで、まず面白くなければワシャ読まんので箸にも棒にもかからん。小難しいだけで読む気にならんようなのはワシ的には価値がない。その点フルメタはクソ面白い、ナニが面白かいっていえばまずは台詞回しがイイ。話の筋としては後半は「とらわれのお姫様を救い出す」っていうありがちな構図なんだけど、その陳腐なぐらいの筋も台詞が良いから俄然面白くなってくる。主人公が自機の位置をごまかすのを兼ねてオープンチャンネルの無線を使ってあちこちに走らせたデコイ(身代わりの機械)からカナメがどっかで聞いてることを期待して長広舌をぶつんだけど、カナメも応えてやりとりしたソースケの台詞を美味しいところ抜きただしてみると「俺がいいたいのは、「君はもっとガッツのある女だと思っていた」ってことだ。」「まったく、どこのお姫様だ、君は?」「笑わせるな。俺が来たのは、おまえらを邪魔して、徹底的に困らせるためだ。」「俺の得意技は火付けと壊しだ。」「雑菌だらけのクソを塗りたくってやる。」ってな具合である。おおよそ”悪魔の城に姫を助けに来た騎士”の台詞じゃない。でも読んでて超気持ちいい。「雑菌だらけのクソを塗りたくってやる。」は機会があれば使いたい罵倒台詞の上位に来るね。

 あと、いろんな作品の影響を受けて、細かいオマージュやらなにやらがちりばめられているのも楽しめる要素で、そもそもタイトルは米国戦争映画「フルメタル・ジャケット」のパロディーだし、数え上げれば切りないけど、三回目にして始めて気がついたネタもあったりして映画「ブレードランナー」の最後の台詞の雨の中の涙のところがしれっと出てきて「オッこんなところにも」ってなって楽しめた。細かいといえば、銃器や武器の設定やら現実のものも良く調べて考証されていると思うけど、ロボットの操縦の仕方とか、架空の武器兵器に関する設定も細かく詰めてあって、本編には出てこないけど握ったスティック2本でどうやって武器を取り扱うかとかも具体的に考えてあって、そういう細部にまで丁寧に神経使ってるので、絵空事が抵抗なく受け入れられて楽しめるというのもあると思う。とにかく良くできたエンタメ作品とはこういうモノだというお手本のような作品である。一切手抜きしていない。

 で、とらわれのお姫様を救い出すっていう物語の主軸のほかにも、面白いテーマが扱われていて、今大注目を浴びるようになってきたAI(人工知能)との関係で、アーバレスト、レーバーテインと主人公機2代にわたって「アル」という名の変なAIが搭載されているんだけど、コイツが勝手にTVやラジオの放送やらネットやらで学習して賢くなっていくAIで、単なる戦闘支援用の、戦況や自機の損傷を分析する機械だったのが、だんだん冗談とかの概念も理解し始め使い始め、主人公を戸惑わせつつも、最終的に主人公と切っても切れない相棒になる。このあたりは賀東先生もろに「マイアミバイス」とかの洋物刑事コンビモノの書式を使った「コップクラフト」なんてのも書いてるぐらいで、あの時代の洋物刑事ドラマ大好きだったんだろうってのは想像に難くない。で、主人公とAIとくればもちろん「ナイトライダー」も大好きだったに違いない。ナイトライダーで刑事の相棒はパトカーに搭載されたAIである「ナイト2000」である。っていうソースケの相棒のAIアルは、2人3脚で敵側最強の機体ベリアルを打ち倒し、たのはいいけど決戦の場となった基地のある小島に核ミサイルが発射されて、ソースケとアルは取り残される。主人公機にはアルを媒体にして、搭乗する”人間”の精神力で物理現象に干渉する”ラムダドライバ”という装置が搭載されていたんだけど、大破してコックピットも操縦ができる状態になく核攻撃による死を待つだけ、という状況でアルは絶望にうちひしがれるソースケに「私は人間ですか、機械ですか?」と問い「自分で決めることだ」との答えを受けて<一人でやってみます>と、”人間の精神力”を持ってしてラムダドライバを起動させ、核攻撃から自らとソースケを守り切り「人間の証明」をやってのける。痛快至極。

 後で、米軍に拾われて拘束されていた沖縄基地から脱走するときにもソースケはアルを見捨てず共に逃げてきて、仲間にあずけられたアルは自分が乗る新しい機体があるのかを聞いて、組織も予算もなくなってそんなのないと言われてしまって、<では逃げ終わったら、車にでも積んでください。車種はトランザムを希望します>っていう、おまえも「ナイトライダー」好きなんかい!?っていうオチをつけてくれる。っていう最高のAIと、AIと人との関係性もサラッと書かれていたりするこの鋭さよ。

 

 感動できる文章は上等な文学にしかないとか、万年ノーベル文学賞候補のやっこさんみたいなこと言ってると、コッテコテのドクソエンタメの中に貫かれている、人間真理の大事なところを見落とすマヌケを犯す。こころしてすべての表現・作品に敬意を払って心のおもむくままに楽しまなければならないと思う。「腸よ鼻よ」はWEB掲載のマンガで「フルメタル・パニック」はライトノベルであり、エラそうな文学様に比べて劣るような印象をもたれるかもしれない。でも、そんなもん読む価値もないようなクソつまらんお文学様もあれば、逆に切れ味に唸らされるようなネットの賢者の一言半句もある。良い作品かどうかはカテゴリー分けなんかしたところで1ミリも分からない。いつも繰り返すように、実際に楽しんでみて自分の感性・心で評価するしかないのである。

 良い作品は読めば分かる。読まねば分からん。っていうことに尽きるので、またこれからも面白そうな作品は暇をみて楽しんでみたい。

2025年3月29日土曜日

ド定番

 フライフィッシングの市場って世界的に縮小しているのか、道具がとにかく高くなってっていうのは、まだ買えるからマシなようなモノの、必要な道具が廃盤になってしまうことが多々あり、カマス狙いでフライ沈めて引っ張るのには当初シューティングヘッドのタイプⅣとかタイプⅥを使ってた。シューティングヘッドシステムは、ランニングをチョイ切りしながら古くなったヘッド部分を交換していくという方法だと、ヘッド自体は割安なので貧乏人にはありがたかったし、ランニングをあまり沈まないようなのにして手前の障害物回避とか小技も使えて重宝したのだけど、既に最大手の3M社サイエンティックアングラーズブランドでもシューティングヘッドはほぼ廃盤になって久しく(っていうかサイエンティフィックアングラーズブランドは現在は独立・別会社化していて”SA社”なのか?)、その後はショップオリジナルや中華製のイヤホンコード系の安物のウェイトフォワードのフルラインを買って使っていた。中華製イヤホンコード系はものすごい癖がつきやすいラインで、逆に真っ直ぐな癖を付けてやるために釣り具部屋の天井の両端にヒートン打って、そこにラインを掛けて真っ直ぐにして釣りに行く前の晩にスプールに巻いて使ってる。使えなくもないけど面倒くさいのと、真っ直ぐになりすぎてラインバスケットに収まりにくく、強風下ではラインが吹けて塩梅悪い。ショップオリジナルのカナダ製ラインは品質的には全く問題ない。ただもうこのご時世高番手のシンキングラインがそんなに売れるわきゃないので、ショッブでももう追加は作らないとのことで売り切れてて新たには入手できない。一番使うタイプⅥがあと2本、タイプⅦが1本確保できているけど、どのみち使い潰したら次の品を探さねばならないんだけど、使えるのか疑わしいあんまり聞かないブランドのを除くと、探すと言うほどに選択肢があるわけじゃない。サイエンティフィックアングラーズブランドの「ウェットセル」と高級品の「ソナー」とかぐらいしかネットでも売ってるの見かけない。まあ、それならと、ド定番の「ウェットセル8WFタイプⅥ」を買って、カマスシーズン終盤に試し投げというか使ってみた。アマゾンで買うのが一番安くて6050円と、7千円以上してた記憶があったけど、ニューパッケージになって紙のショボいスプールやらリールに貼るシールも無しの簡素な包装になったけど、値段が安くなったのはありがたい。かつ、さすが世界のド定番!使ってて全くストレスのない性能で安くなったと言っても多少高いのも、今後も高番手の早く沈むシンキングラインを作ってくれそうな最後の砦であることも加味すると、そのぐらいは払っておくべきだろうって感じで、金払って1票入れておきたくなる。まあ実際には当面の在庫として2本追加して3本確保して3票入れたわけだがな。なにげにワシこれでラインとリールがブランド一緒になった。リールは安くて使える「システム2」だぜ。

 最初、多少巻き癖がついて、巻き癖の少なさではカナダ製ラインの方が優秀かなと思ったけど、使ってるとすぐに巻き癖は伸びて、むしろラインに適度な張りがあって、しなやかなカナダ製ラインより絡みにくい。さすがはフライライン業界最大手の定番品。良い塩梅にしなやかさと張りのバランスをとっていると感心した。もちろん魚釣るのに何の問題もない感じで「ウェットセル」が生き残ってくれれば、ワシの冬場のカマスやらタチウオやら狙うフライフィッシングで使うラインは安泰のようである。どこまで頑張ってくれるか、市場規模縮小の一途のフライフィッシング業界においても、さらに重箱の隅な高番手の早く沈むラインなんていつ廃盤になるかひやひやモノである。ウェットセルが廃盤になるとかになったら、10本単位で買い占めねばならんだろう。もしくはフライでカマスは廃業で、ルアーやら餌やらで釣るしかなくなる。それはそれで楽しめるだろうけど、せっかくだんだん上手になってきて楽しめているのに、その技術を眠らせてしまうのはもったいないし、釣り仲間にもフライマンが多いので案内人としてもフライでの事前情報が取りにくくなる。餌で爆釣しててもフライではイマイチとか、その逆もあったりしてフライマン案内するにはフライロッド振っておいた方が良い。

 なんにせよ、定番品の定番たる実力のほどを知って、今後はウェットセル頼みでいくんだろうなと覚悟したところである。

 フライラインに限らず、釣りにおいて定番品ってのは、使えるから定番としていつでも売ってるわけで、ぶっちゃけそれ買っておけばまずは安パイってなもんである。ただ、以前紹介したようにモーリス「バリバススーパーソフト」なんていう定番品が廃盤になって、後継品が見当たらないなんていうことも起こりうるので、珍奇な機能やペテンじみた広告に騙されて、すぐに消える泡沫のようなポッと出の”企画商品”を買ってると、必要な道具が売ってないという状態を招きかねんので、定番品を買っておけっていうことが、釣り具市場が縮小しつつある現状では自衛策として必要なのかなと思ったりしてます。

 ぶっちゃけルアーの世界なんて、オリジナルが手に入りやすくて性能もそこそこまとまっていてっていうか、変にいじくって差別化を図ろうとした後発品というかパクリモノより完成度が高くて、定番品こそ釣れるルアーだと思っている。水面直下を攻めるシーバス用リップレスミノーが元祖「コモモ」シリーズ以外に必要性があるとは正直思えない。他はみんな劣化コピーにしか見えん。ワシ、ベーシックなルアーはプラドコ製のアメルアが安いし手に入りやすくて好きだけど、釣る能力においてけったいな釣書のついたメイドインジャパンが勝ってる点って、釣果に差が出るほどあるのかね?って常に疑問に思っている。典型例がノイジーで、ジタバグとクレイジークロウラー以外のパクリモノを選択する必要性、理由って、見た目が面白いからとか除けばないでしょ?100年からの歴史をもつ元祖達からいったいナニが進化したっていうのか?全く理解できない。まあ基本が良くできてるからパクったルアーでも魚は釣れるだろうけど、ポッと出て来て、気づくと消えているようでは、実弾の補充に支障が出る。

 悪いことは言わないので、オリジナルをどうせ超えてこない程度の、へんな後出しパクリモノなど買わずにド定番の元祖なのを買っておいた方が後々面倒がなくて良いと思う。まあ、金があれば買って釣り具業界の”発展”はもうしないんだろうけど”延命”に寄与してやれば良いけど、それもむなしい気がする。

 定番品で、ワシが他に思いつくお世話になってるモノとしてては、ダイワ「リールオイルⅡ」とクレハ「シーガー」ブランドのフロロハリスで、「リールオイルⅡ」に関しては初代から愛用しているので、もう何10年というつき合いで、品質確かで安定していて、かつなんか便利そうなスプレー方式でないのがポイント高い。スプレー方式だと機内持ち込みに制限がかかるとかがあって面倒。手前のオレンジ黒のチューブのが初代でジ様世代には懐かしいのではないだろうか。ダイワはこういう安い定番品に良いのが多くて、シーバス用にボビン巻きのナイロンライン「ジャストロン2号」を愛用しているのは以前から書いているところで、最安ではないにせよ最も信頼できると思って使い続けている。フロロのハリスは四の五の言わずにシーガーブランドのを使っておけって話で、フロロカーボンラインの老舗の積み上げてきた信頼と実績を考えればシーガーブランドはド定番ド本命だろう。これからもワシ、廃盤にならないかぎりリールオイルはダイワだし、フロロのハリスは単純に太さが欲しいときとかはデュエルの「漁師ハリス」とかも使うけど、普段使うようなフロロハリスはシーガーしか使う気はない。

 ということで、フライラインにおいてけちくさく安物を愛用していたことが多かったワシが、改めてド定番の「ウェットセル」を使ってみて、ド定番となるのには相応の理由と実績があり、定番品にハズレはないと改めて思ったので、ひとくさり書いてみました。出ては消える「新開発、高性能」な釣り具など、しょせんは”イロモノ”であり、定番品こそ釣り人が信頼するに足る性能を有していることを、長く愛され続けていることが証明していると思うのじゃ。

2025年3月22日土曜日

旨いモノは旨い

 冬のカマスの時期になると、お客さんが来てみんなで飯を食うことが多い。魚釣れてなくて食材備蓄が少ないと、お気に入りの街中華で定食やらも旨いけど、食材があれば釣ったばかりのカマスお造りとかも含めワシの魚料理を振るまうことになる。

 アカカマスとかマアジもそうだけどオカズ魚の旨さって、刺身だろうが酢締めだろうが、干物だろうが煮ても揚げても何にしても旨いし、毎日のように食っても全く飽きないぐらい旨い。魚のなかでナニが一番旨いかという議論になって、旨いことは旨いだろうけど、滅多に食えないようなクロマグロだのアカムツ(ノドグロ)だのは、けっきょく”ご馳走魚”であって、ありがたい魚ではあるし高価でもあり不味いわけはないだろうけど、いくら食べても食べ飽きないとかの希少価値市場価値ぬきの単純明快な旨さの話でいえば、やっぱりアジだのサバだのが一番の候補に上がってきて、ワシもマアジは1票入れる候補にはなる。あと悩む魚は個人的な思い入れの強い魚たちであり一般的な感覚とはずれるかもしれない。ちなみにイサキとブダイである。わし子供の頃、誕生日のご馳走ナニが良い?と聞かれたら「イガミ(ブダイ)の煮付け」という要求をあげていた渋い魚食い少年だった。イサキの刺身の脂ののりすぎてない白身のわりに味の濃いあじわいは、夏休みに入って父方の親戚のところに遊びに行ったときに食べていたという思い出補正もかかって、ワシには特別な魚である。

ご飯、内臓ポン酢、スリ身汁
 で、飽きないオカズ魚のアカカマスとかは、生食、干物、酢締めあたりでカマス釣りに来たお客さんには好評いただけるわけだけど、それだけではつまらんので、毎年隠し球というか新料理をぶち込めるように日々料理の腕も磨いている。今期の新ネタはエソとカマスのスリ身汁で、これが我ながら旨い料理作りやがるってなもんで、エソのスリ身が最高級練り物原料と言われるのも納得の旨さなのは以前から、スカベンジャー(掃除屋)ナマジのおこぼれちょうだい作戦でヒラメ狙いの人とかが釣って不要となったモノをもらって食べて知っていたけど、新鮮な産地直送のエソのスリ身の弾力やまとまりやすさなどの”練り物性能”は過剰なほどで、エソスリ身単体だと弾力出過ぎて堅いぐらいなのである。で、それなら練り物にはなりにくいフワフワの身質のカマスと混ぜたらちょうど良いかもと、カマス鱗とって皮ごと三枚おろしをエソのスリ身と1:1とかエソ7:カマス3とかでフードプロセッサーでミンチにして”合い挽き”みたいにしてやると、ちょうど良いぐらいにプリフワな感触に仕上がって、味はもちろん文句ないわけで、スリ身汁の具としてちょっと唸るぐらいの素材なのである。まあアジの泳がせとかで食ってくる大型のエソってワニエソがほとんどなんだけど、最近はその”スリ身性能”に気がついた釣り人もだんだん増えてきているにせよ、それでも”ザ外道”扱いで捨てられていたりするのが、カマスと合い挽きのスリ身汁を味わってしまえば、全くもったいなくて超優秀な食材だと腑に落ちるのである。

 っていうスリ身汁作成の裏で、今回またこれが美味しかったのが、ワニエソの内臓のさっと塩ゆでにしてネギポン酢かけたもので、これは昔正治さんとジギング船に乗ってワシが釣ったユカタハタで教えてもらった食い方で、皮と胃袋や肝臓とかの内臓は、こうやって食べるとちょっとたまらン旨さなのである。当然鮮度が良くないと内臓など真っ先に自己消化が始まってしまうわけで、その日釣り場から直送のおっきなワニエソだったからできた料理であり、卵巣も大っきいのが入っててそれも一緒にして食べたけど、これはほとんどの釣り人も知らない味なのではないだろうか。内臓が美味しいというとサンマやイワシのようなプランクトン食性の魚のことが多いけど、大型魚食魚の内蔵はそれらとはちょっと違って、むしろ獣肉でいうホルモンみたいな旨さで、かつ鮮度が良いと臭みなどなくポン酢あたりのシンプルな味付けで、胃とか皮のプルクニャな食感や肝や卵巣のコクのある味も楽しめる最高の美味なのである。胃袋や皮は丁寧に洗ってヌルとか取って塩ゆでにして一口大に切ってポン酢、薬味はお好み、でバッチリ決まります。あんまり知られてないし、大型魚の内臓なんて捨てられがちだけど、これまた食ったら分かる系の旨い食材でございます。大型魚の内臓入った鮮度の良い状態のものが手に入るのは釣り人の特権かもしれないので、捨てているなら騙されたと思って食べてみてください。せっかく釣った魚、食べられる部分はすべて美味しく食べて楽しむぐらいでないともったいないです。でもオオクチイシナギの肝臓とかビタミンA過剰症とかの珍しい食中毒を起こすのでご注意を。逆にアカエイの肝臓は韓国とかではアカエイ刺身の”カオリ・フェ”では肝がなきゃ始まらんぐらいだそうで、いまどき貴重な安全な生レバーであり今度アカエイ釣れたら食べてみたいモノである。

 あと、この地に来て「あれっ、この魚こんなに旨かったっけ?」と思ったのが、セイゴフッコも含めたスズキで、東京湾産のも臭くない個体はそれなりに美味しくて、アッサリした淡泊な白身でいろんな料理で楽しめる魚という印象だったけど、ぶっちゃけ淡泊というより薄味の印象だった。ところが紀伊半島のこの地では、飲まれて大出血とかして持って帰って食べると、ちゃんと味が濃くて美味しい白身なんである。よく、ヒラスズキの方が普通のスズキより旨いと言われるけど、この地ではヒラスズキ(ヒラフッコ、ヒラセイゴ)とスズキの味にあんまり差がない。東京湾のスズキとこっちのヒラスズキを比べたら明らかにヒラスズキが旨いとおもう。味濃いもん。でもこっちのスズキとヒラスズキにはあんまり味に差がないとワシは思ってるけど、ワシの舌たいしたことないのでちょっと自信がないところもある。でもそう感じてる。釣れてくる状況や場所に差がなく、同じような餌を食ってるので、味も一緒になるのだろうか?釣りものがなくてセイゴ持ち帰って食ったりしてたときも、塩焼きとか妙に旨くて悪くなかったし、フッコあたりの刺身もアッサリした白身というより、磯魚の味のある白身っぽい味があると感じている。場所が変われば味も変わる、不思議なもんである。

 という感じで、日々魚を料理して、時にお客さんというか釣り仲間に振る舞っていると、一緒に飯食うことも楽しいけど、料理して振る舞うことの幸せ、うれしさというものがどうもあるように感じている。元同居人の母方の祖母である”カアちゃん”はいつも掘りごたつに座っていて、どこからともなくお菓子や漬け物が出てきて「おぢゃっこ飲んでいきんさい」とお茶入れてくれて、あれもこれもと我々にたらふくおやつを食べさせてくれようとしてくれたものだし、その娘である元同居人のお母さんにも、その振る舞いDNAというか文化というかは引き継がれていて、食事の席になどとても食い切れないほどのご馳走が並び、ごちそうさまの台詞は許されず「アレこもれも食べなさ~い」という感じで、山海の美味を腹が苦しくなるまで食べさせてもらい。この人達はなぜこんなにも優しく、人に良くしてくれるのだろう?と不思議に思うぐらいだった。鬼ぐるみの殻を砕いて殻のかけらを丹念に除いて実を集めて作るクルミ餡で食べる正月の餅のコク深い甘み!母上が「私天ぷら揚げるの上手!」と自画自賛しつつ揚げてくれる、東北独特のド太く味濃くブリブリのデカマアナゴの天ぷら、ウソッッポやらコゴミの山菜天ぷらも、ばっけと呼ばれるふきのとうで作るバッケミソも書いてるとよだれが出てくるようなご馳走だった。もちろんワシがそういうご馳走にありつけたのはもちろんお二人の優しい人柄によるところは大きかったんだろうと思う。でも、歳食って人様にご馳走する側に回ると、自分の作った料理を美味しいと食べてもらえる、喜んでもらえることのうれしさって、結構大きなモノなんだなと気がつかされる。人は人と仲良くして人に喜んでもらうことをすることに、どうも大きな喜びを感じるようにできているようだと感じる。カアちゃん達は、来る客に美味しいモノを食べさせて、”美味しいね”って共に喜ぶことをご自身も楽しんでいたんだろうなと、今になって思うところである。なるべく食べなきゃ失礼にあたると食べまくってたので、食わせがいのある良いお客だったのは、今にして思うとちょっとは孝行できていたのかなとインドの乞食じゃないけど思ったりもする。

 美味しいねって、他者と共感する。っていうことの根源的な幸せを思うと、マスゴミどもの流す、しょうもない周回遅れになってるようなグルメ情報も案外大事なのかもと思ったりもする。流通量が少なく値段が高くなってるだけのモノをありがたがったり、軽薄な流行を扇動したり、しょうもない情報であるとは思うけど、そうやって”他者が美味しいとしている食べ物”を並んでみんなと一緒のモノを食べてっていうのは、情報化の時代の、他者との食体験の共有の一つの形になってるのかもしれない。そう考えると、あいかわらずバカにはしてるんだけど、まあそれもアリなんだろうなと思えてくるところではある。

 同じ釜の飯を食った、っていうのは苦楽を共にした近しい間柄を表す常套句だけど、それが常套句になるぐらいには、食事を共にするというのは意味のある重要なことで、まあいろんな形で、みんなで一緒の飯を食うっていうのが、多様性の時代である現代では存在し得るんだろうなと、書いてて気づいたのでありました。

 ワシは一人で飯食っても美味しく食べられるけど、みんなで食べる飯の旨さも、またそれは格別に美味しく楽しく食べられて良いモノだなと思うところである。

2025年3月15日土曜日

ファイヤー!なんかわからんけどファイヤー!!

 老後の金を確保して、早期退職して遊んで暮らすのを、最近では「Financial Independence, Retire Early(「経済的自立」と「早期リタイア」)」の頭文字を取っFIREとかいうらしい。何でもかんでもわけ分からんローマ字頭文字略称で格好つけた風に呼び方だけ変えて、民草を惑わそうとしてやがる輩が居るのだろう。

 昔から、そういう状態をして「隠居」という日本語があるのである。言葉知らんのか?知っててもなんか新しいことのように雰囲気醸し出して「欧米で一般的になった概念であり、単なる退職後の経済自立ではなく、早期退職と投資を前提とした資金の確保という意味でそのまま日本語で表すのは難しい」とかほざくなら一字追加して「楽隠居」でほぼ同義だろう。楽隠居では早期退職的な部分が弱いけど、不労収入なり蓄財があって働かなくて良いという状態は言い表せていると思うがどうか?それを投機、投資による利益を主眼に持ってきた”情報強者”な生き方的な、さも賢そうな雰囲気を醸し出そうとしているのは、証券会社なり金融商品を扱う側の仕掛けた広告戦略以外の何物でもないだろう。実際FIREの意味を検索掛けて調べようとすると証券会社とかのサイトが上がってくる。利子で食ってくぐらいなら老後も安泰だろうけど、株やら先物やらに手を出してコケたら惨めな老後が待っているのはアホでも分かる。そういうイヤらしい魂胆が透けて見える言葉なのでFIREという言葉には拒否感を覚えざるを得ない。そういうイヤらしい言葉を知る以前に、経済的に自立?して早期退職したワシだけど「ナマジさんは今時流行の”FIRE”なんですね」とか言われたら断固として否定する。ワシャ早期退職して楽隠居させてもらったんである。

 だいたいがところ、金がすべてとでも言うような輩どもが好んで使う言葉なのでけったくそ悪いってのがある。金ってそんなに大事かよ?金が無いのは不幸せかもしれないけど、金があったら幸せかと言ったらそうじゃないよねって話で、まあ金とか地位とか名誉とかっていう一般的な欲求の対象は、それを得たときの幸福度も”一般的”程度らしく、脳の活動電位とかで幸せを感じた度合いとか計測すると、金とかたいしたことないらしい。一番幸せなのは「人を幸せにする施しを考えている宗教家」だそうで、それはそれでちょっとケッと思わなくもないけど、まあ人様のために奉仕する、人様に喜んでもらうってのがとても幸せだというのは、釣り場案内したお客さんに釣ってもらったときの心地よさとかも感じているので分からなくもない。そのへんインドの乞食どもはよく分かってるなと感心する。彼らは施しを受けても「オレが金持ちに善行を積んで優越感に浸り良い気分になる機会を与えてやったのだ」って思ってると聞いたけど、大脳生理学的にも全く正しいということらしい。そのへんインドの乞食以外でも分かってる人は分かってるようで、九井諒子先生は傑作マンガ「ダンジョン飯」の中で”人の欲”が好物の悪魔を登場させているけど、悪魔に言わせるとやっぱり金とか地位とか名誉に対する欲程度は美味しくもなんともないらしいのである。しれっとそういう本質を見抜く慧眼の持ち主だから面白い漫画が描けるのである。あれだけの作品を生み出したら印税も名誉も吹っ飛ぶぐらいの、創作者としての大きな幸せを感じただろうことは想像に難くない。金持ってたって以前にも紹介したネットの賢者の金言「金が一番大事なら金が使えなくなる」が端的に表しているように、金なんて単なる”価値があるモノと交換できると信用されている道具”でしかない。金だけあってもどうしようもなくて、使い方知らないと陳腐な使い方しかできず、旨い酒と飯、綺麗なねーちゃんと良い車に豪華な屋敷、程度では幸せにはなれんと思うのは、ワシがそういうモノに幸せを感じてないというか、金で買える程度の飯も女性も興味が無いし、使いもしないクルマも豪華な家も別にいらんだけで、普通の人はそれがあれば幸せなのだろうか?そうでもないように思う。結局金稼いでも陳腐な幸せしか買う能力が無いとつまんなくて、金なら腐るほど持ってそうな人種が違法な薬物やらに手を出してむりやり快楽物質ドバドバ脳から出させて一時の快楽を得て健康を犠牲にし、法で裁かれたりしてるのはままあることである。まあ向精神性の薬物って酒とかぐらいしかやったことないのでアレだけど、たしかに飲んでりゃ”幸せスパイラル(by廣井きくり)”にハマれるけど、それほどかね?って今現在釣りに行く体力を絞り出すためにはアルコール分解するのに余計な体力つかいたくないのでほぼ禁酒状態のワシなど思う。釣りの快楽はその点かなり強烈で、ワシ脳内物質の過剰な放出が原因だと思うけど、目の前真っ白になったり、記憶を一瞬飛ばしたりという経験もしてる。興奮で膝が笑う経験程度なら50過ぎてすれっからしのジジイになった今でもたまにある。開高先生がコスタリカのターポンの船宿がなかなか押さえられずニューヨークで停滞してるときにコカイン嗜んでたけど、宿が取れたら残ってたコカインはゴミ箱にたたき込んで出発してた。まあ違法薬物も、酒が飲む状況やらなにやらで極上の甘露にもなれば苦くもなるように、品質から強さから環境から色々影響してくるわけで、ヘロインやらのとにかく強烈なのをやっつければ幸せキメられるってほど単純でもないんだろう。逆に違法でも何でもない酒やタバコでも、心底旨そうにやってるなと、見てて思うときもある。酒もタバコも単純な長生きより幸せに貢献することもあるようだと、身の回りののんべや愛煙家を見てて感じている。我が家のお客さん達も魚釣れてご機嫌なときはおビールちゃんやら実に旨そうに飲んでござる。冒頭写真はその空き缶。

 酒も飲まずタバコも吸わず、健康で長生きしてそれがどうした?っていうのは折に触れて書いてきた。タバコは(最近は酒も)百害あって一利無しっていう宗派の人がいるけど、そんなもん吸って、あるいは飲んで旨い時点で一利は確実にあるのは自明で、健康やら損なうとしても、それ以上に旨くて楽しめるというのなら、個人の嗜好にケチを付ける必要などさらさらないハズである。かててくわえて、適量の酒には特に精神面で健康増進効果があるとしか思えない実例が山と転がっていて、偏った主張に基づいた”科学的な最新の報告”がいくら適量などなく少量でも害しかないということを事実のように主張していようが、そんなもん限られた方面・データで出された1つの報告例でしかなく、賭けてもいいが、適量の酒には心身を健全に保つ効果があると確信している。最近、飲酒はコレステロール値を改善するとか、高齢者の健康に運動より飲酒が良い方に関係するとかも報告されているけど、話題になった少量のアルコールでも脳を萎縮させる的なある一面からの報告だけを根拠に「飲酒すべて悪!」と決めつけるのは、まあしょせん人間は自分の信じたいことだけ信じるってことかと思っている。そこに理性も論理もクソもない。タバコが身体の健康には悪い面が多いのは事実だろうけど、吸ってる人間の精神に対しストレス緩和とか良い影響を与えているのは見てるだけで分かるって話で、百害あって一利なしとして他人が吸うことにさえケチを付ける輩どもの魔女狩りッぷりには日頃から辟易として抵抗しているところ。吸いたいヤツには吸わせてやれ、嫌煙家な輩どもはあげく「タバコで病気になってその医療費を我々非喫煙者の払った血税からも負担するとか腹立たしい」ぐらいは言ってくるけど、そんなもんアンタらが言うようにタバコが害悪で肺がんとかで喫煙者が死ぬなら、早死にしてくれるので医療費も年金も節減できるぐらいで、健康のためなら死んでもイイような輩こそ、グジグジとしょうもない死んでないだけの生を長々と生きて、歳食えばそりゃ医療費も年金もかかるだろって話で、お互い様だって思う。だいたい長寿者って酒とタバコをちょっと嗜むぐらいの印象だけど、酒タバコに害しかないなら焼酎ちょっと飲んでタバコもキセルで嗜んでた泉重千代翁の120歳の超ご長寿とかどう説明するんや?何でキセルなんですか?って聞かれて「医者にタバコは遠ざけるようにした方が良いって言われた」って返すユーモアもストレスのない健康な心身には効いてそうに思って感心したものである。

 長生きすることそのモノにワシャ価値を感じていない。健康で釣りができるなら、長くその人生を楽しみたいけど、釣りもできんくなったら安楽死で結構(愛猫だけ最後まで面倒見させては欲しい)。逆に人生が短くなったとしても、釣りの神髄に到達しえたならば、その場でコブシを天高く突き上げて「我が生涯に、一片の悔いなし!」と叫んで死んでかまわない。釣りの神髄など、追えば消える逃げ水のように、例えば究極と思えるような大きな目標を達成したとしても、その感動がちょっと冷める頃には、さらなる高みを欲し始めるわけで、到達できるはずもないのだが、モノのたとえとしてである。

 っていう中で、最近与党が高額医療費補助の見直しを画策していて、大ブーイングを食らってるけど、ワシまあ不景気で国に金が無くなっていくっていうのはこういうことなんだな、って腑に落ちるところもある。インフラも”道路穴”みたいなのがこれからいくらでも出てくるだろうし、金がないので諦めなければならなくなることはなんぼでもあるだろう。落ち目の斜陽国家の予算なんてそんなもんだろう。もちろん当事者である高額医療費補助を受けている患者さんとか、文字通り死活問題であり「殺す気か!」っていう怒りの言葉ももっともでよく分かる(なんか救済措置もあるような話かもだけど)。分かるけど、もう日本はそのぐらい貧乏になってきたって話で、いろいろ回らなくなっていくんだろう。そのときの予算を切る順番が違うだろう、もっと別に削るべき予算があるだろうって話は、人が違えば立場も違うので、どこを削るべきかなんてのは人の数だけ答えがあってみんな違ってて、そうなると全体的に削れるところは削るしかなくなってくるんだろう。無駄な公共事業やらほんと無駄だと思うけど、それで飯食ってる人たちにとっては今更切られたら、これまた首くくるしかないだろうと想像ぐらいできる。でも、あるていど首くくってもらうことに将来的にはなりそうにも思う。インフラの整備なんてもう既存の設備が維持管理しきれなくなりつつあるのに、新規に金突っ込むなよと思うけど、そういうことで利益を受ける側が支持する与党を選挙で選んだんでしょ?って話で、選挙みたいなクソな制度を支持してるからこんなことになるんだと書いておこう。選挙制度の改善案は昔書いたので繰り返さない。オレも左利きだけど、本格的な左巻の人たちが主張するように防衛費削れっていうのは、さすがにワシこのきな臭い世界情勢では無しだと思うよ。ってなると高額な医療費が必要な高度な医療は個人的に費用負担できなければ諦めてもらって、っていうのはありっちゃありだろうなと思う。医療も限界があってすべての病気を今現在の最先端の医療技術を持ってしても治せるわけがない。そのあたりになると寿命の類いだと考えるしかないだろう。金の限界で治療が受けられなかったら、それも寿命と納得するしかないだろうとワシャ思ってる。国民全員に最先端の高度な医療を安価で提供できる国などないだろうし、金の有りなしで寿命が違ってくるなんてのも現実に今でもあるだろう。日本などマシな方で途上国とかろくな医療体制なくて、呪術師に祈ってもらってダメならその死を納得するしかないところもあるだろう。ようは「金があったら生きられるのに」っていう”なんとかできそう感”が見えてるので、補助とかでなんとかして欲しいって思うんだろうけど、貧乏になってきた我が国ではそろそろ手厚くやるのは限界が生じてきたってことだろう。イヤなら個人的に必死で金確保しろっていう状況になってきてるんだと思う。イヤな話だけど「金がないのは首がないのと同じ」とも言われるぐらいだしそんなもんだろう。ワシ、高度医療が受けられますっていう特約の保険を売りたい保険屋さんから営業電話かかってきたけど、掛け金の支出額とか考えると「金が残ってるうちならその蓄えを使うけど、蓄えが減った段階でそういう高度医療が必要なややこしい病気になったら寿命と考えておとなしく死んでおきます」とお断りしたら「高度な医療を受けたいと思わないのですか?」と心底意外そうな感じで聞かれて、高度な医療があるとしても、それを受けられる金がなきゃ死ぬしかないっていう当たり前のことがこの人分かってないんだなと感じた。結局どのへんで手を打つかって話で、江戸時代とか虫垂炎ぐらいで死んでたし、原因もよく分からんかっただろうから、そういうもんだと思って周りも納得してたんだろう。本人は死にたくなかっただろうけど、虫垂炎は外科手術で助かるって知識などないだろうから、今の時代のような「お金さえあれば助かる命なのに」っていう不公平感はそこまでなかっただろう。まあでも金持ちは良い薬買えたり、健康的な食事や衛生的な住環境で暮らせたりッテのはあっただろうから、昔からある不公平感だろうけど、金持ちをひがんでも自分の口座の数字が増えるわけでもないのでしかたない。

 そのへんはもう、個人ではどうにもならない運の世界で、ややこしい病気になったら運が悪いと思う諦念って必要だと思う。いつ病気になるかなんて分からんうえに金があればどんな病気も治せるってわけでもないのだから、いま病気で苦しんでる人にはお見舞い申し上げるしかないけど、そうじゃないならいつ死ぬような病気になっても「楽しむだけ楽しんだからまあいいや」と思えるぐらいに、今を満喫しておくしかないと思っている。

 そのために、仕事も早期退職して楽隠居で楽しく釣りして過ごしている。これで運悪くややこしい病気で金も足らずに死ぬとしても、イヤだとは当然思うだろうけど納得はする。人はどうせ死ぬ。その時に後悔のない状態なんてのは、よっぽどやりきって満足した人を除けば、欲望の薄いヌルい生き方をした証拠だと思ってるので、死ぬときワシはあれこれ後悔するんだろう。でも後悔も腹に飲み込んで納得はしながら死ねると思っている。ちまたでは労働者不足で、景気の悪い日本には研修生とかいう名の出稼ぎ労働者も移民も、労働者不足を補いきれるほどは来てくれんだろうから、定年延長してジジババにも働いてもらおうという、鬼畜なことを経済界は考えているようで、まっぴらゴメンのクソ食らえだと思っている。働いたら負けである。

 ”FIRE”の解説記事とか読んでると、早期リタイヤしてもやることがなくて退屈してしまい、再就職やらちょっとした起業やらでまた働くっていうのが意外に多いと紹介されてたりするけど、まったく理解できない世界である。楽隠居しての釣り生活、退屈してるような暇はない。まあ移住先の選定も上手くいったってのもあるけど、年中魚釣れてて釣りの準備して、魚釣って、魚料理して、また次の準備してって、年間釣行日数200日越えでやってると、釣り行ってない日にまとめて用事済ませたり、そもそも釣りの準備はしてたりで、ユックリ本読んでる時間もなかなかないありさまで、退屈とかありえないんですけど。中島らも先生が”教養とは一人で時間を潰すことができるだけの知識”とかって書いてたけど、ワシ釣りに関しての教養は豊かだと言えるかもしれない。早期退職して田舎で釣りして暮らそうって思っても、多くの日曜釣り師レベルの教養では、年間通じて釣るネタがなくて退屈してしまうだろう。魚釣れなくて、釣れる魚はいつも同じような代わり映えのない釣りで釣ってて進歩もなく、ハッキリ言って飽きるだろうことは想像に難くない。魚釣り舐めんなよという話で、田舎の魚いっぱい居るところに行けば釣り放題だとか、そう思って近所漁港とかにやってくる釣り人の撃沈屍累々具合といったらまあ相当なモノである。ワシャその点教養豊かだからね、変わりゆく釣り場の環境にも適応しつつ、釣りものを開拓し、釣技を磨き、日々発見に満ちた研鑽の日々に邁進していくことができている。極めて充実している。若い頃から頭おかしいレベルで死にものぐるいで釣りまくってきて心底良かったと思う。その積み上げた経験、知識、技量、そして道具が今のワシの釣りを底支えしてくれている。

 っていうぐらい、釣りまくってると当然あちこちから「漁師になったら?」と言われる。甘い甘い甘いッ!そろそろ出始めるキヨミオレンジより甘い!!趣味の釣りと、業としての漁はやってることに共通する部分はもちろん多いけど、最終的な出口が「楽しく魚を釣りたい」と「魚を売ってお金を沢山得たい」では根本的に違ってくる。もちろん職漁師さんが、我々遊びの釣り人が感じるような魚を釣る楽しさを感じていないかといえば、そんなことはなく、釣れると楽しそうなのは見てて間違いないところではある。ただ、その先に魚を換金するとなると、釣れる魚を釣ってれば良いってだけではなく、需要があって、かつ他の漁師が釣れない値の良い魚や、逆に数が稼げて儲けが出る魚を他者より沢山釣る、とかは基本のキで、売るタイミング、船の燃油代、道具代、餌代、諸々の経費、自身の心身の健康、様々な要素を総合判断して儲けていくという、個人事業主そのものの難しさをはらんでいるのである。ワシ魚は釣ることはできても、業としての経営感覚なんて全くない。サラリーマンだったから経験ないし、さっぱりその辺ダメである。サラリーマンの経営感覚の欠如については何度か例に出して馬鹿にしてるけど、脱サラしてソバ屋を始めるってのが典型で、趣味で美味しいソバを作るのはそこまで難しくないはずである。「ソバは奥が深い」とか言いながら、浅場でピチャピチャやってても、良い材料を揃えて手間暇かけたら、美味しいソバぐらい打てるようにはなるだろう。でも、それを客に提供して採算取れるようにとなったら、まずテナント代から器具その他諸々経費がかかってきて、材料も採算ベースに乗せるには最高級のモノを使えるかどうか難しいところで、抜群に旨いソバなら素材にもこだわって強気の値段設定もありうるけど、その場合でもよほど上手な市場戦略が必要で、って言う前に浅場でピチャピチャレベルだと他の店と差別化できるほどの味になるとも思えず、材料もソレナリのものしか使えないだろう。で、結局凡百の街の駄ソバ屋程度にしか仕上がらず、舐めた店主の接客では客も付かず、開店資金を退職金でって場合はまだマシだけど、お金借りてたりしたら借金抱えて、店たたんで仕事選ばず働いてまた稼がねばならない。趣味で経費採算度外視で楽しむ世界と、シビアにオゼゼ稼ぐ世界では全く違うのは勘違いすると詰むので気をつけないといけないだろう。

 FIREとか訳の分からん言葉に騙されて資金確保して早期リタイヤしても、良い酒、旨いメシ、キレ-な姉ちゃん(もしくは渋いおっさんとかでも良い多様性)、良い車、豪奢なお屋敷ぐらいの薄っすい欲望しか持ち合わせてないなら、やることすぐに尽きて飽きてしまい、また働きたいとかならマシだけど、違法なお遊びに手を出して破滅の道に墜ちたりしてもくだらんので、金融商品売ってる側とかの甘言に騙されないように。

 あと、趣味や遊びの世界は、突っ込んでいけば底なしの沼にどっぷり沈んで退屈なく楽しめるけど、浅いところでピチャピチャやってるだけでは、そこまで退屈しのぎにならないし、ましてやそれをたよりに隠居後の生活の長い時間を潰そうと考えたり、脱サラ後のなりわいにしようとしたりはゆめゆめ考えないように。

 と、沼の深めの所からジジイの繰り言をいつものようにブクブクと吐くのであった。

 今回ワシが言いたかったことは結局、ローマ字略称やら横文字やらを使いたがるのは、わけ分からんそれらしい言葉で人をだまくらかそうとしている詐欺師ペテン師の類いだから相手にするなってことだと思う。

 その逆に、昔の漢文の知識が教養として当然のようにあっただろう時代の知識人の、漢字のあて方の素晴らしさには惚れ惚れとすることがある。チョイ前に話題にしたドレッドノート級戦艦から来た言葉である”ド級”のドの字にあてた漢字が””弩”っていうのもいかにも強そうな漢字でいいよねって話をケン一に振ったら、「あの弩って、中国とかで昔使われてた石とか矢を飛ばす武器のことで、開高先生の「流亡記」に出てきたはずって読み直して、ついでに超弩級戦艦がらみで吉村昭先生の「戦艦武蔵」も読み始めてしまった。」と言ってて、流亡記は自炊したデータで持ってるはずだし、「熊嵐」の吉村先生の超弩級戦艦モノとか面白くないわけなさそうで、これまた弩の西洋版みたいな武器であるクロスボウとかアーバレストとかいう名前の主人公機が出てくる賀東招二先生のライトノベル「フルメタルパニック」の完結大団円後の物語「フルメタルパニック!ファミリー」読んだら、「あれ?ヤン君ってテッサ逃がして死んでなかったっけ?」とかうろ覚えのところが出てきて気になってしまい、いま本編全12巻、短編集9巻を読み直していて手が出ないのがもどかしい。やっと読んでて辛いナムサク偏の峠を越したのでなんとか読み切る目処がたったところ。本来なら外伝の「アナザー」も全巻読み直したいけどそこまではさすがに無理。まあ、”ド”一つで小説2作品読んで暇つぶしてしまえるのって、さっき書いたらも先生の定義に従えば相当な教養なわけで、口開いて面白いことが降ってくるのを待ってるだけの無教養な人間は、このありとあらゆる娯楽にあふれたご時世でも、暇も自力じゃつぶせないって話で、瞬時に消費されていくような娯楽もそれはそれで良いけど、たまにはじっくり小説でも映画でも楽しんでおきたまえってジイサン思います。もちろんナマジ的にはマンガアニメも推奨です。まあ教養なんてのは楽しんで知的好奇心を満たしてるウチに後付けでついてくるもので、教養を得ようとそれを目的にしてもどうにもならんッテのはあるにしてもである。真面目に必死に楽しめ、生きてるウチにってことだろうな。

2025年3月8日土曜日

強いだけではよろしくない

 ドレッドノート級以上のバカどもは「パワーこそ力」と盲信しているふしがあるけど、強いだけでは使えねぇンである。なんの話かというと釣り具の話で、特に”釣りで大事なのはハリと糸”ってカリスマ釣り師であるワシが口を”はしり”の柑橘のごとく酸っぱくして言ってる、そのハリと糸を中心とした釣り具の話である。ナニも分かってない弩級以上のバカどもは心して読むように。違いの分かる貴兄らにおかれましては、釈迦に説法ではありますが、ウンウンと静かに頷きつつ読んでいただければ幸甚に存じます。

 ワシの最近のお気に入りフライフックは断然”世界のマルト”の「H260」という細軸のハリである。過去何度か紹介していて、ワシのカマス用主軸フライパターンの”オレンジチャーリー”はこれの3号に巻いたのが標準で、アピール力強化、大きなハリの”ハリ持ち”の良さを期待して5号に巻いたのも用意している。大きい方はタチウオでも活躍してくれている。もともとオレンジチャーリーは”がまかつ”の「波止カマス」とかで巻いてたんだけど、がまのハリはお高いのよ。でマルトだと軸長くて細軸系のってどれだろうと探して行き着いたのがこの「H260」、マルトブランドの(株)土肥富さんは、播州バリの伝統を受け継ぐメーカーの一つであり、そのハリは安いけど品質は大手のがまやらオーナーやらと比較しても何ら遜色はない。そして50本とかのまとめ売りしかないけどお安い。で、そのマルトの「H260」のナニが良いかというと、細軸ですぐに開いたり折れたりする弱さにこそ、このハリの真骨頂がある。根がかったときに開くか折れるかして、ほぼ回収できるのである。折れたら交換だけど、開いたのぐらいは手でギュッと戻せば使える。飲まれたときとかにペンチでつまんでこじると折れるので好かんという声もあるけど、ワシ飲まれたの外すのは上手で、ハリ折るようなことは無いので純粋に根掛かりの際の回収能力の高さ、いわゆる”環境性能”の高さを生かして釣りができている。そんな弱いハリで釣ってて開いてバラさないのかといえば、カマス・タチウオ程度ではまったく心配していない。引っこ抜いてもそれでハリが折れたことはなく、十分な強度だと思っている。ハリが開く要因としては、ハリがしっかり刺さってなくて針先だけ骨に刺さったような状態の時は相当な太軸でも開くぐらいで、ふところまでしっかり刺さってればそうそう簡単には開かない。細軸で貫通性能が良いH260はそういう視点で見るとしっかり刺さりやすいのでむしろハリを伸ばされたりは起きにくい設計と言えると思う。シーバスをカヤックで障害物際で釣ってたときには、市販のルアーに付いている初期状態のトリプルフックでは14ポンドナイロンで走らせずゴリ巻きとかすると、3本針の分針先が多くてどうしても貫通性能悪いので先っちょで刺さってるだけのことも多く、ガマの標準的なトリプルフックがクニャッと開いたりしたモノである。

 根掛かりで切れて海底にゴミを残すことを防止するためにハリを弱くしておくってのは、一つの方向性としてアリだと思っている。ただ、ハリを弱くしての根がかり対策は、さっきも書いたようにハリの掛かり方によって開くなりして回収できるか、しっかり掛かって外れないで切れるかかが違ってくるので、石とかコンクリ護岸に先だけ掛かってるなら回収できる率が高いだろうけど、ロープや沈木とかにふところまでガッチリ刺さってしまうと回収できずに切れてしまうだろう。

 で、ルアーとかならハリよりもスプリットリングを弱くしておくと、スプリットリングが開いて、錆びて朽ちるハリだけが水中に残るので根がかり時に生じるゴミが少なくて済む。このときに重要なのは、スプリットリングはほとんどの製品で○○キロ以上、とか△LB以上とか安全値も見越した数値で表示されているので、その数値以上に丈夫なことが多い。スプリットリングを一番弱いところにして、根がかった場合にハリとリングだけ犠牲にして回収できるようにするには、そのリングがどのぐらい引っ張り強度があるかを示すと共に、どれだけ負荷をかけると開いて伸びるのかも示して、ラインとドラグをリングが開いて壊れる負荷がかけられるような組み合わせにするといい理屈である。結局ドラグは後で締めれば良いのでラインがリングを壊すのに充分強ければ良いということになるだろう。っていう”何キロで壊れるかが示されている”スプリットリングがあると良いのにな、と釣り仲間との雑談で話題に上がったけど、スプリットリングなんて軽量小型で強力な方が良いってだけで選ばれているだろうから、どこもそんな「きちんと壊れる」製品など作らんだろうなという見方に落ち着いた。そこまで考える釣り人が少ないだろうから、売れンから作れん。まあ、やろうと思えばPEラインとかでリングの代わりに結んで瞬着でほつれないように留めるという方式で、どの太さをつかってどういう結び方なら、どの程度の負荷で切れるか、を試してっていう手もありそうだけど、安定性に不安があってかつ面倒くさい。

 いずれにせよ日本の標準的な釣り人はきちんと切れる壊れる性能など評価しないし、使いどころも分かってないだろう。なにしろ、日本初のIGFA規格のナイロンラインである「バリバス」シリーズを世に出した、モーリス社のそのバリバスブランドが最近商品の刷新があったようで、トローリング用やリーダー用には残ってるけど、普通にバス釣ったりシーバス釣ったりのルアーの釣り用に用意されたIGFA規格の道糸がカタログに見あたらないっていうていたらくなのである。別に多くの釣り人はJGFAに参加して記録申請するために12ポンド負荷でちゃんと切れる12ポンドラインなんて必要としていないだろうってのは承知している。ただ、品質が安定していて、例えば12ポンドでちゃんと切れるというようなラインは、道具やらもっというと太い糸になると体やらを壊さないために有用で、やったらめったら細いのに強度のあるラインで、その限界値が分かってないと、竿の破損やら腰や手首痛めたりっていう怪我やらに繋がりかねない。なのでなきゃ困るぐらいの製品だと思うけど売れないからカタログ落ちなんだろう。日本の釣り人の程度の低さが知れるというモノである。まあ、実際にどのぐらいで切れるのかを試しておけば良いんだろうけど、調べるまでもなく数値で切れる負荷強度が分かってれば楽に決まってくれて、ソコを一番弱い部分にしておけば失敗が少ない。具体的には、ワシのフライのリーダーは市販のテーパーリーダーじゃなく自分で結んだノッテッドリーダーを使ってるんだけど、これまで一番弱いところをフロロのハリスを接続する手前のナイロンの部分にしてバリバススーパーソフトとかの12LBを入れていた。これだと太軸のハリで伸びずに切れた時でも、そこで切れるので、リーダー全体をゴミにしたり、ましてや高額なフライラインそのものを痛めてしまうようなことがない構成になっている。基本フロロ4号をハリスとして、そことナイロン12LBの接続は外科医結びというやや弱い結びにしてソコが一番切れやすいようにしてある。ハリスがフロロの3号とかになると当然ハリスの部分で切れやすくなる。というリーダーの構成だったんだけど、12LBで切れるというラインがカタログにないので、とりあえずバス用のベーシックなやつの12LBを購入して、コイツが同じような切れかたしてくれるかおっかなびっくり試さなければならない。ダメなら10LBや8LBも試さねばならず8LBはいつもシーバス用の道糸に使ってるジャストロン2号が強すぎず弱すぎず安定した品質なのは分かってるので、2号か2.5号で色だけいつもの蛍光黄色じゃない透明とかにしてっていうのは有りかもしれない。いっそ伝統と実績の「アンデ」12LBでもボビンで買うか?

 強ければ良い、って思ってるとそこそこ大きい魚を狙い始めると怪我に繋がる。ワシ、根魚クランクを去年道具とか詰めていったときに、PE8号道糸の「力こそパワー」な道具立てもいちおう試したけど、どう考えてもデカいのが来たときに一番最初に破綻するのがワシの体だと思ったので、よっぽどの覚悟でのぞむ時には使うかもだけど、基本的には16ポンドナイロンを道糸にしてリーダーを長く強くした仕掛けの構成にして、巻モノなのでナイロンでアタリ弾かないようにっていうのと同時に、16ポンドでどうもならんのが掛かってしまったら切れて、ワシの体が壊れないようにという安全装置としても働くように組んだつもりである。弩級以上のヘッタクソが細い糸を使うなというのは以前書いたけど、逆に太すぎる糸も、相応の技術と筋力が求められる話なので、これまた弩級以上が手を出して良いモノではない。怪我して痛い目に遭うのは自分だろうけど、弩級以上がデカいの掛ける可能性がある釣りって遊漁船の船長に”釣らせてもらう”釣りぐらいだろうから、船側に迷惑が掛かる。大怪我でもしたら釣り中止して病院搬送せねばならず、同船者にも迷惑掛ける。弩級以上にナニ言っても聞かないかもだけど、設定ドラグ値相当のオモリを実際にぶら下げて10分20分耐えられなければ、実際の釣りでもどうにかできる道理がないので、そのぐらいは試しておくべきだけど、弩級やらがやるとは思えん。

 ということで、ハリでも糸でも、強いことは求められがちだけど、実際には良い塩梅で壊れたり切れたりしてくれないと困る場面って色々あって、強けりゃ良いとは単純にはいかないのである。このへんになると、そこそこ分かってる人間じゃないと理解できない話だと思うので、釣りが上手になりたいと思っている人は、これまで意識してなかったのなら意識しておいて損はないと思う。弩級以上の輩には、これまた適当な太さのナイロンなら、太いPEほどの怪我するような強さはないので、80ポンド以上のPEとか、おまえらにそういうのは扱いきれんから適当なナイロンラインを使っておけって話である。どうしても太いPEが必須ならそんな釣りには手を出すな。

 なんというか、ラインで規格もナニもないなかで「ウチの製品が最強です!(当社比)」って言われたところで選びようがないってのもこれあり、細くて強いラインは引っ張り強度が強いだけで耐摩耗性とか弱かったりで、結局は自分で釣り場で試さなければ、どのぐらい使えるか、どういう特徴、利点欠点があるかは分からんので、せめて切れるときの上限数値が分かるIGFA規格のラインぐらいどこのメーカーでも商品として用意してほしいものである。じゃないと結局ワシがスピニングに巻く道糸として2号ナイロンはダイワ「ジャストロン」、1号ナイロンはレグロン「ワールドプレミア」(表示的には0.8号)を使い続けているように、いつものラインしか買えない。ダイワはこういう安くて品質の良い定番品を長く提供してくれる点ではとても良いメーカーだと思う(ジャストロン多分一回マイナーチェンジしてると思うけど使い勝手それほど変わらず円滑に移行できた。)。

 っていうなかで、規格もクソもグッチャグチャでペテンだらけでムカつくのがフライの世界で、とあるショップの自社ブランドのティペット(ハリス)の宣伝で「シーガーGMと結ぶとGMが切れる、ウチのティペットの方が強いんです!」って訴えられそうな事書いてて、そりゃ今時のナイロンラインが引っ張り強度でフロロの1.5倍からあるのはあたりまえで、それがどうしたって話ではあるけど、引っ張り強度があれば「力こそパワー」と考えてる浅はかさも反吐が出るぐらい気色悪かったし、アホを引っかけるペテンぶりも頭にきた。そりゃヘラみたいな歯がノドの咽頭歯しかない魚釣るなら引っ張り強度重視でナイロンハリスが第一選択だろうけど、あんたらが特別視するマスって口に歯がありまっせ!耐摩耗性とか含め総合点で評価すれば、間違いなくそのインチキなナイロンティペットより信頼と実績のシーガーが勝つと試すまでもなく分かる。恥を知れって話である。GMまでもってこんでもACEぐらい出しときゃ勝てるだろ。

 そんなインチキや詐欺、ペテンばっかりで、釣りの本質である”魚を釣ること”になかなかたどり着けないので、フライフィッシングは一時的に流行っても釣り人が定着しないんだろうと思う。その衰退していくフライの市場にコロナのときのアウトドアバブルが弾けて痛い目にあったスノーピークが参入するとかいう話だけど、勝算あるのかね?っていう縮小しまくりのフライ市場では、昔も書いたけど、少ない客を取り合いつつ、細かく細分化していって、ありとあらゆるペテンが行われ信者からお布施を巻き上げる”カルト化”が顕著である。バックスペースが少なくてすむ投げ方ってのは確かに魅力だけど、やれスペイだスカンジナビアだスカジットだ、そのシングル版だと細分化して道具もそれ用に買わせようとしてるのを見てると、そんなに楽に投げたきゃスピニングタックルでルアーでも投げとけって正直思ってしまう。一切そのあたり触りたくない世界。

 で、一切そのあたり触らなくても、普通にシングルハンドのフライロッドでフライ投げてるだけでも、よほど注意してないと騙される。最近も騙された。フライラインとかロッドも例えば今ワシが海で使ってるのは”#8”っていうように、AFTMA規格っていう統一規格があったハズである。ところがこれが、竿は良く飛びますって言うために規格以上に強い調子のを売りやがるし、ラインもそれにあわせたり他社と差別化を図るために規格を無視してて、事実上AFTMA規格が崩壊しているのは以前にも紹介したとおり。そんな中で、今回ワシが騙されたのはエアフロ社の「デルタテーパー」シリーズの#8/9指定のタイプⅤシンキングライン。まあ、表示より絶対重いし早く沈むってのはもう、ある程度覚悟もしてたので驚きもしなかったし騙されたウチに数えてない。ただ、デルタテーパーのフライラインは今主流の芯が編み糸系のものではなく、短繊維ナイロンの芯のようで、根がかり切ったりデカいのかけたりで芯が伸びると、コーティングの部分がそれについていけずにひび割れてしまうとは聞いていた。聞いていたけど、準備している段階でネイルノットでリーダー接続しようとしたらコーティングがグズグズと剥がれてしまい、先っぽコーティング剥がして輪っか作ってリーダー接続せざるを得なかった。「こんなんで大丈夫なのか?」と心配しつつ実際に使ってみたら大丈夫ではなかった。もう先っちょのほうからコーティングぐずぐずに剥がれるのは進行止まらず。投げるときに行き来するあたりのコーティングも一部剥げている。こんなもん使いモノになるかよ?箱にも入ってないバッタ臭い安売り品だったけど、さすがにこれは製品の品質としてどうなのよと、エアフロのフライラインの評判をネット検索してみたけど、それほど悪い評価は出て来なかった。ただ、なぜここまでグズグズなフライラインなのかという原因らしきモノは概ね理解できた。エアフロのフライラインでシンキングの一部はコーティングが特殊なようである。普通は防水バックとかにも使われるポリ塩化ビニル(PVC)、いわゆる”塩ビ”で、パイプとかに使われる硬質なのじゃない軟質のものらしいけど、デルタテーパーのシンキングラインはしなやかさとか伸びとかを重視して、合成皮革として使われたりするポリウレタンを用いているようだ。このポリウレタン、軟質塩ビ樹脂が養生シートに使われてるぐらいに丈夫で耐候性もあるのに対し、経時劣化が早くて衣類に使われた場合、製品化後は2~3年で劣化してボロボロになってしまうらしい。そんなもん消費期限付けずに売るなや詐欺野郎って話で、買った時点でどのぐらい時間経ってたのか知らんけど、ウチの蔵にあった期間だけでも2年は経ってて、そらグズグズボロボロも頷ける。フライマンって多くは流行ってるときに参入して、釣れないから2年も経たずに撤退するから悪評もたたんかったのかもだけど、こんなもん二度と買うかって話である。フライマンの皆さんエアフロのシンキングライン買う場合素材がポリウレタンを謳ってるなら消費期限2年ぐらいで考えておいたほうが良さそうでっせ。 

 っていうナニを信じて良いのか、嘘やらペテンやらオカルトやらの魑魅魍魎が跋扈するフライの世界で、それでも信じられるモノを最後ご紹介しておきたい。

 ナニかというと”ウーリーバッカー黒”である。ウーリーバッカーは頼りになる、ってのは”自称カリスマ釣り師”であるソレナリフライマンのワシが言い出したわけじゃなくて、本物の達人でカリスマだったテツ西山氏が著書で力説してたので信用していただきたい。通常は管釣りのマスにでも使う印象だけど、天然の湖で効くのはもちろん、河川ではフックサイズ上げてダンベルアイで沈めてスチールヘッドとかサケ系にも効いたし、変わったところでは夜釣りのブラウントラウトにも卓効があったとか。というのを知識として知ってたので、ニュージーランドにワーキングホリデーという名の武者修行にでる元同居人には各種使えそうなフライの中に黒のウーリーバッカーを混ぜて持たせておいた。夜釣りする機会があったら使えと。結果地元釣り師に誘われて出かけたブラウン狙いの夜釣りでその日唯一のブラウンをゲット。地元釣り師に「どんなフライで釣ったんだ?」と聞かれて、黒ウーリーを見せたところ「なんじゃこりゃ?」と首をひねられたそうである。で、ワシも何年か前に、カマス釣るのに見えてるのに食ってこない場面があって、Oニーサンはじめ皆で悶絶してるときに、ワシ黒ウーリーが効くのを見つけてコンスタントに掛けて「どんなフライで釣ったんだ?」と聞かれて、黒のウーリーバッカーと答えて現物見せたところ、これまた首をひねられたものである。ワシ、基本淡水の魚が釣れるルアーなりフライなら、海でも釣れると思ってて、海でバスルアーとか普通に使うし、管釣りフライの印象のあるウーリーバッカーも、マスが釣れて一字違いのカマスが釣れン理由がない、と思って普通に使う。棲んでる水が甘かろうがしょっぱかろうが、小魚やら小さな節足動物やら食ってるって点では同じ捕食者なので、同じフライで釣れてあたりまえ。とはいえマスとカマスでは一字違い以上に違うところもあってカマス用に改良してはいる。端的に言ってカマスの歯がきついので、通常の素材構成だとまずは尻尾がすぐ切られてなくなる、そしてグルグルとボディーに巻いたハックル(鶏の首の蓑毛)も切られてビヨーんとグルグルが外れてしまう。なので主に歯対策で、尻尾を強化し、ハックルは歯があたりにくい前の方だけに集中して巻くような形にしている。形状的にはむしろウイングケースなしにしたモンタナニンフ風だけど、ウーリーバッカーを魔改良していったものなので、あくまでもワシの中ではウーリーバッカーという整理である。尻尾はテツ西山御大はラビットファーゾンカーを使うと柔らかい動きのまま丈夫にできると書いてたけど、マラブーより丈夫ってだけですぐ刈り込まれてしまう。フライのウイング材に使うようなモノは一般的なクラフトファーやらズィーロン、一番太いだろうスーパーヘアーも試したけど、結局カマスの歯に刈り込まれていくのは避けられない。他に黒の素材で丈夫なモノってないかと考えて、PEならだいぶ強いはずと考えたけど蔵に黒がなかった。でもポリエチレンの補修糸があることを思い出して、これを使ってみたらかなり耐久性が上がった。一緒に束ねてる銀のフラッシャブーが刈り取られきってもまだ尻尾としての体裁は保てている。これ以上となるとケブラー繊維とかになるけど、まあそこまでやらなくても十分な感触である。あとはハックルを前の方にグルグルと巻いて、それを上からスレッドで巻いて強化してってやっておけば、かなり丈夫な黒のウーリーバッカーができあがる。最初ハリはマルトのジグヘッド用のハリがフックを針先上でバランスさせやすいので使ってたけど、今年カマスシーズン終盤戦で障害物周りで使いたいという状況が生じてたので、今は前述のH260を使ってる。ユックリ沈むか漂うかぐらいのバランスにするために小さいチェーンボールアイ付き。これがなぜか、食いの悪いカマスに効果があるというか、アタルけど掛からん悶絶時合いに切り札として切ると、なんか掛かりが良くて、食い込みが良いように感じるのである。ハックルがほどけてしまうとアタリ激減するので、ハックルに秘密があるんじゃないかとちょっと思ってて、ハックルがアミとか小エビとかの小型甲殻類の足とかヒゲとかの感触を再現していて、咥えたときに吐き出すまでの時間が稼げるとかがあるのかな?と都合の良い妄想をしている。色を茶色緑とか試しても釣れたので、やっぱり効いてるのはハックル説を信じたくなる。ウーリーバッカーのような、特定の生物を模してないけど、なんか生き物っぽさを感じさせ、かつルアー的な強さもあるフライは、魚種や場所が変わっても、それなりに普遍的に効くのかなとおもっちょりマス。普通に釣れてる時は、どちらかというと地味なフライなのでアピール力のあるオレンジチャーリーに負けるだろうし、いつも効くとも限らないけど、食いが渋く居るのは分かってるのに掛けきらない悶絶時の頼りになる切り札である。強いゼ黒ウーリ-!

 まあいろんな事書いたけど、素材の進歩で釣り具は、中でもラインは特に強くなっていくけど、本当に必要な強さはどの程度で、強さ以外の要素も踏まえて自分の釣りに必要なものは一体どれなのか、強ければそれでいいんだ~(byタイガーマスク)ってことでは決してなくて、適切なモノを選ばなければならない。そのときに選択肢と人を惑わせるクソ情報が多すぎる今の状況は、かえって正しい選択にたどり着きにくいと感じているので、皆様も、不必要なまでの強さを求めて失敗しないように、全体的な総合評価でご自身の道具に求める性能を評価して、釣り具を選んでみてください。いまラインでギリギリの強度を使わねばならない”引っ張り強度こそ正義”な釣りって、大型回遊魚狙うような力業のいる釣りと、極細い糸の操作性を使う超ライトラインの釣りぐらいで、その中間にあるような釣りでは、いろんな選択肢がとりえて、多少弱くても余裕取っておくのが容易なので、トラブルの少なさに振りたいとかの選り好みができる状況だと思っている。その中で、アホみたいに太さあたりの引っ張り強度に振りまくってて扱いにくいところも多いPEラインを選択する必要が、あなたの釣りにおいて必要なのか、最適なのか、もう一度最初から組み上げるつもりで考えて点検してみると良いと老婆心ながら思っているところ。まあ、ナイロンで済むところはナイロンにしておいた方が、トラブル少なくて使いやすいですよっていう、いつも書いてるジジイの繰り言である。ようするにワシゃカリスマ釣り師として皆さんに「PEじゃなきゃ困る場面以外ではナイロンの方が使いやすい」ということを啓発していきたいなと、おもっちょりマス。

2025年3月1日土曜日

親不孝50%確定済み

 2月25日夕方、父親が永眠しました。満90歳は大往生と言って良いかと。

 2年ほど前から認知症が進行して特別養護老人ホームのお世話になっており、昨年の11月に見舞いに行ったときには、ちょっと目を開けて反応したけど、すぐに寝てしまうような状態で、素人目にもだいぶ症状は進行しており、パスカルの人の定義「考える葦」からすると、だんだんと人から葦へと、生命から物へと移り変わりつつあるんだなと、覚悟を飲まされるような、自分の体(遺伝情報等)の半分、心の少なくない部分が、それを受け継いでいる”原本”的な存在が消えていくさみしさ、悲しさをさけられないような、そんな気持ちになりました。

 ありがたかったのは、そうやってユックリと事前に心の準備ができたことと、認知に齟齬が生じ始めた頃は本人も戸惑ったり不安だったりはあったと思うけど、痛かったり苦しかったりというような病気ではなかったということで、長生きしてくれたしそこまで自分的にはしんどい感じではなかった。まあ、施設に入る直前、まだ自宅に居た時に顔を見せに行ったら「どこの子や?」と言われてしまい母が「アンタと私の子供やんか!」とツッコミ入れていて、さすがにその時はショックを受けたけど、それも人が老いていくのは仕方のないことで、そうやってみんな多少違う道筋通るかもしれないにしても、順番に老いて死んでいくということなんだろうと思った。

 幸い補助制度も使えばもらってた年金の範囲内で、しっかりとしたプロによる介護を受けてもらうことができた。介護士さん達の優しく丁寧な対応ぶりには「父がお世話になりありがとう」と心から感謝する。いざとなったら無職だし、母だけで老々介護などとても体力的、精神的にできるものではないので、手伝いに行かねばならぬかと思いもしたけど、おかげさまでお気楽に釣りばかりの生活を続けさせてもらえた。

 客観的にみて、自分はお気楽な親不孝者である。次男坊で自由に生きて良い立ち位置なのを良いことに、働いていたころも、ろくに実家に寄りつきもしなかった。言い訳でしかないけど、沢山のことを器用にこなせるような人間ではないので、優先順位付けていくと、まず生きていかねばならず、そのためには仕事してオゼゼを稼がにゃならんのだけど、金を稼ぐというのは皆さんご存じのとおり大変なことで、それだけでかなりいっぱいいっぱいになってしまう。次にまあ本来最重要項目に置きたい”釣り”がきて、それをめいっぱいやってしまうと、もう後はほとんど余力がなく、マンガ・小説読んだりぐらいはできるけど、正直異性とお付き合いしたりとかも、やってる暇がないんじゃないかと思ってたぐらいで、たまたま釣りが好きな異性という都合の良い相手が見つかったので良かったものの、かなり危なかったし周りにも心配されていた。って言う状況で、親孝行まで手が回るかよって感じで、盆正月は釣りに行くか、休日出勤当番を買って出て代休を良い塩梅の時期に入れるか、実家に帰るとしても相方の実家に帰って魚釣ってた。何年も実家に帰らないことが普通だったし、姉、兄の息子たちである甥っ子にも、ほんの数回しか会っておらず、確実に”親族に一人ぐらいは居る変な叔父さん”のポジションである。

 まあそういう変人のたぐいだったので、昭和一桁の真面目で頑固な父親とは正直あんまり折り合いはよろしくなかった。もちろん育ててくれた恩やらなにやらは重々承知してるけど、昭和一桁の価値観を押しつけられても邪魔くさいわけで、まあ父親と息子の関係なんて、そういう反発がない方が珍しいだろうって話でそんなもんだと思う。昭和一桁の価値観が間違ってるとも思わないし、母と2人、プラス祖母の力も借りて、子供達3人をちゃんと大学まで行かせて社会に出して、自分はきちんと郵便局員の仕事を勤め上げて、趣味の野球関係でママさんソフトの監督さんやら審判やらも引き受けて、楽しみも持っていたその人生に素直に尊敬の念を覚えるところである。戦争も経験しているし、紀伊半島を襲った大きな津波も経験している。良いこともしんどいこともあった90年と11ヶ月ちょいだったのだと思う。その最後は眠りについたまま穏やかに旅立ったとのこと。

 で、最後何日間かは眠ったままになり食事もとらなくなったので、施設の方から「覚悟しておいてください」と母に連絡があり、母から姉兄私にも連絡があった。そして自分は最後の親不孝をやっちまうわけである。最後に顔を見たいと姉も兄も駆けつけたとのことだけど、自分は母から「あんたは会っとかんでいいんか?」と確認の電話が来たけど、11月に会ってるからそれでいいと返答。そして親不孝を貫き通すぐらいの覚悟でというつもりなんだけど、さすがに心ここにあらずの状態で釣りに行って忘れ物したりして「オレも多少は人の心があるんだな」と思ったりした。その日の夕方母より亡くなったとの電話。あれだ、獏先生の「鮎師」の黒淵が鮎釣りに行ってて嫁さんの死に目に会えないっていうか死なせてしまうのに近いキチガイ具合に自分を持って行きたい、ぐらいに思ってたけど、そこまで狂いきれない中途半端さに失望と安堵。

 あたふたと礼服入らなかったらどうしようとか準備して、礼服も黒のネクタイもあったけど、数珠が無い。っていうか52歳にもなって、この男何度も葬儀の場に数珠なしで行って、持ってる体で焼香させてもらって「次までに買っておかんといかんな」と思うも、すぐに忘れていまだ買ったことがないのであるわけがない。実家に向かう途中のどこかで買わなきゃなと思ったけど、実家に確実に使わない数珠が1つあるはずなのに気がついて、買わずに行った。当然父の数珠は父が自分の葬儀で棺桶から出て来て焼香するわけないので使われない。形見にもなるし解決。

 葬儀の段取りすんなりいかなければ何泊もすることになるだろうし、墓地で寒い目に遭いたくないのでヒートテック2枚重ねとかできるように防寒関連もガッチリ持って行ったんだけど、父の人徳なのか28日友引なのでそれまでに26日27日で通夜、焼き場、葬儀、納骨まで済ませてしまう速攻勝負の段取りもつき、本人の生前のというか認知症前の意向で家族葬で我が家と従兄弟の家とでこじんまりと、天気も良く寒波が来てたのが嘘みたいに気温も上がって、良い感じに見送れたと思う。さんざん親不孝してきたのに最後だけさも孝行息子みたいに泣いたりするなよ、と自分に言い聞かせてたけど、従兄弟の優しさにちょっとウルッと来て危なかったと白状しておこう。

 父さん、ありがとう。そしてありがとう。

 父には孝行らしいことろくにできなかったけど、母はまだ山歩きするぐらいに健在なので充分親孝行する時間はある。まずはデコポン送るあたりからボチボチ始めてみよう。たまには実家に顔も出そう。

※ 香典等は辞退させてもらってます。あと、多少は凹んでますが、前述のようにそれほどでもないので、打たれ弱い性格ですがご心配なく。

2025年2月22日土曜日

バカと刃物

 魚料理するのに毎日のように使ってるのは、おかーちゃんが愛用してるようないわゆる文化包丁である。文化包丁っていうのは、ある程度幅広で菜切り包丁みたいに野菜はもちろん豆腐切って刃の上にのせて運んだりもできるけど、刃先はソレナリに尖ってて、魚もおろせる、もちろん肉切ってもいいという万能タイプで、魚肉野菜の3つが切れるので三徳包丁とも呼ばれたりする(文化包丁と三徳包丁の整理については諸説あり)。まあそれぞれの専門職である出刃やら刺身包丁なんかのような専用品ならではの使いやすさは期待できないけど、いちいち出刃で魚下ろしてから刺身包丁だしてお造りにする、とか飯の度にやってられるかよっていう主婦(夫)の為に作られたような便利な包丁で、魚さばくのに一番適した刃物はなにかという議論になると、小出刃最強説やらマニアックなところではマキリ(アイヌの伝統的刃物から派生した漁師御用達の小刀)やオルファのカッター大を推す釣り人もいたりするけど、毎日のように魚を捌きかつ魚以外も料理する主夫としては文化包丁一択である。小出刃じゃ刃渡りが短くて野菜が切りにくいし刃も分厚いので綺麗にキャベツ千切りとか決まらん。かといって刃渡りのある出刃は重い。しかも、出刃系始め鋼製の包丁は手入れが面倒で怠るとすぐ錆びる。じゃあステンレス製はどうだ?っていうと今度は研ぎが難しくて切れ味保持するのにやや難儀する。その点でも文化包丁は良くできている。刃の部分は鋼材で研ぎやすく切れ味も良いんだけど、錆びにくいようにその刃をステンレスで両側からサンドイッチしたような構造になっていて、錆びるとしても露出した刃の部分ぐらいで研げばすぐに回復可能。誰が開発したのか知らんけど、非常に良くできていて感心する。専門職じゃないけどなんでもできて手入れも楽な器用な便利屋的刃物。ワシ、普段のオカズ魚のアジ・カマスはもとより、70のスズキやら90の青物いただき物のカツオなんかも文化包丁一ッ本でさばいている。文化包丁で100キロのマグロ捌けと言われたら刃渡りが足りずに苦労するかもだけど、多少時間掛けて良いならさばく自信はある。出刃ほど刃が厚くないので骨とか切れないと思うかもだけど、太い骨は初めから切るのを諦めて、関節に刃を入れたりボキッと折ったりすれば良いだけなので、やり方知っていればプロが使うような日本刀みたいな刃渡りのある包丁でなくても、何度も刃を入れていく必要はあるけどさばけるのである。カブト割りとかも包丁が入る部分に刃を立てるのと押し広げてメリメリ刃物じゃなくて力で割っていくのとの併用で十分可能。逆にプロみたいに一刀両断にダンッ!と決めようとすると、素人だとカツオの背骨程度で出刃使っても刃が欠けるだけである。

 今使ってる文化包丁は、自分史的になかなかに歴史があって、学生時代からかれこれ30年は使ってる。大学に入るときに風呂トイレ台所共用の学生寮というか下宿屋さんにお世話になったんだけど、食費も外食だと掛かるので自炊するようにと、包丁一本持たせてくれた母心、っていうその包丁では実はない。盗まれることはないだろうけど、共用の台所に置いておくと勝手に使われたりはありそうなので、部屋に調理後回収していた。ところが、共用台所には誰でも使ってイイらしい包丁が1本あって、部屋からいちいち自分の包丁持ってくるのも面倒くさくなって、結局自分の包丁は最初の頃使ってたけど、大学在学中のほとんどの期間で共用包丁で料理していた。研ぎながら状態よく使っていて、卒業する頃にはすっかり愛着が湧いてしまい。”母の愛”のまだ新しい包丁と引き替えに、共用包丁をもらって就職先の東京に持って行った。銘を「白寿」という。今調べてみたら刃物どころ岐阜県関市の「正広」というメーカー製で、今でも作られているようだ。すげーロングセラーでワシが気に入るのも納得で、ながく主婦(夫)の友として愛用されてきたのだろう。まあでも正直どうっちゅうことのない普通の文化包丁である。3000円前後で購入可能。ただ、どうっちゅうことのない普通の文化包丁だけど、最初に書いたように手入れしやすく、何でもこれ一本で料理できる便利さから、いつもワシが料理するときには共にあった。30年から研いで使って数限りない料理を作ってきた。そうなると手に馴染んで単なる刃物の域を超えて愛着が湧いてくる。とくに近年は仕事やめて時間もあるのでじっくり料理に向き合う時間もあり、魚をさばくのを筆頭に出番が多く、調子が良いと切っ先ではなく、その後ろあたりのゆるいカーブを描く刃先に自分の神経が繋がっていて、魚の骨のすぐ上にその刃先がスッと入っていく感覚がある。そういうときは料理していて楽しい。30年からすると包丁も手の一部になっていく。包丁の手入れの仕方を参考までに書いておくと、とにかく刃先が鈍ったらすぐ研げってだけである。砥石に水を吸わせてっていうのがお作法だろうけど、そんなの待ってられないので水で湿らせてすぐ研ぐ。魚をなん10匹もさばいていると途中で刃の走りが悪くなってくる。その時はその場で速攻で研ぐ。切れの悪い包丁では綺麗に包丁入れるべき所に刃を走らせきれないし、切れが悪くて引っかかるような状況だと、思わぬ怪我につながりかねない。もちろん料理が終わったら、研いで終了。毎日のように研いでいるとそれほど時間を掛けて研がなければいけないほど刃がなまってしまうことはない。片面50回、反対側30回とか研いでやればOKで次も気持ちよい切れ味で使える。砥石は中砥ぐらいがちょうど良いと思う。学生時代和食チェーン店でバイトしていたけど、板さん達、しょっちゅう包丁研いでた。そしてまな板とか流しとかも常に洗って清潔第一で働いていて、見てて気持ちよかった。

 刃物で思い出深いのは、他にバックのフィレナイフとビクトリノックスの折りたたみナイフがあって、バックのフィレナイフは開高先生の「オーパ!」シリーズで最初和食の道具を山ほど持ち込んでた料理人の谷口教授が、旅慣れてきたらフィレナイフ1本でオヒョウとかもさばくようになって、ってのを読んで高校生の時にバスプロショップスでケン一と共同購入で送料節約して”個人輸入”した。当時はまだインターネットがなくて紙のカタログ見て手紙で注文する方式で、トラブって注文した憶えのない七面鳥の鳴き声が出せる狩猟道具とかが届いてしまい、英語のリンコ先生とかに助けてもらいつつ対応したのも懐かしい。魚さばくにはこれ一本で済ませられるのでキャンプとか行くときに愛用してたし一時期は家でも好んで使ってた。ビクトリノックスは釣り用のウエストポーチとかに放り込んでおいて、ひっくり返って死んだシーバスとか締めて帰るときやら、ルアーが絡んだロープ切ったりするの使ってる。昔は今ほど刃物の携帯にうるさくなくて、学生時代は自室の鍵を付けてポケットに入れて持ち歩いていた。こんなちっこいナイフでなんの犯罪ができるのかわからんけど、今日日ポケットにナイフ入れてると銃刀法の現行犯で捕まりかねず、いやな管理社会になったのもである。ナイフの刃と栓抜きが付いてるだけの薄っぺらいシンプルなのが邪魔にならずに使いやすい。「何で栓抜き?」と思うかもだけどこの栓抜きはマイナスドライバーとしても缶切りとしても使える便利な代物で、何かと言えば酒飲んでた学生時代、つまみにコンビニで買ってきた缶詰を前に「缶切りどこにある?」とかいう状況で貧乏学生の部屋にそんなもんないことも多く、当時は今ほどすべての缶詰がパッカンと手で開けられる方式ではなかったので重宝したモノである。栓抜きも缶切りも使わなくなったので樹脂のガワじゃなくてアルミ製のガワで刃が大小2枚のシンプルなヤツの方が薄くて良いかもだけど、昔からの習慣でたまに紛失したりしたときも同じヤツを探して購入している。コイツでおそらく4代目だと思う。

 それから刃物で忘れちゃならないぐらいお世話になりまくってるのが、オルファのカッターとアートナイフで、アートナイフは多分、シーバス用の”お手元フライ”とか作るような小細工するのに東急ハンズかなんかでちょうどいいやと買って、使いやすさ細かい作業のやりやすさ、替え刃を用意すればいつも最高の切れ味が保てる便利さで以来愛用している。最近替え刃が切れてちょうどおかわりしたところである。最近だとポリアセタール樹脂を削ってラインローラーを自作するときとかに活躍してくれた。部品やらルアーやらの自作、改良に、あると便利と言うよりはないと困るぐらいの名品だと思う。手作業好きな人なら一家に1本必携だろう。

 オルファのカッター、あえて限定するなら大きい方は、もう世界最強の刃物の候補の1つと言って良いだろうってぐらいで、世界中で愛されている傑作である。今更書くまでもなく、世界に先駆けて刃を折ることにより常に鋭い切れ味を確保できるという機能を備え、日常用途からプロの作業用途まで幅広く使われているのも、社名のオルファが「折る刃」から来てるのも皆様ご存じのとおり。意外に便利なのが「のこぎり刃」で本格的なのこぎりにご登場いただかなくてもオルファのカッターでだいたいカタが付く。オルファのカッターとの付き合いっていつに始まったのか記憶が定かじゃないぐらいで、小学校の工作の時間には既に使ってたように思う。

 で、切れ味鋭いオルファのカッターといえば自分の手を切るのはお約束で、小っちゃいのから大ごとまでワシの左手には何カ所かオルファのカッターが刻んだ傷跡が残っている。その中でも派手にやらかしたのが小指の付け根あたりの手のひらの傷で、手相的には結婚線のところに1本線が増えている。それは高校の文化祭の準備の時にやっつけたもので、ハッポースチロールの箱を切って貼って削って丸い玉を作ろうとしていて、丸くて持ちにくいのを手で持って作業していたんだけど、文化祭の”お祭りノリ”で密かに持ち込まれて”赤まむしドリンク”の瓶に入れて配給されていたウイスキーで多少酔っ払って手元が狂ったのか、持ってる左手ごと綺麗にスパンと刃を振り抜いてしまった。切り傷の深さからやばいなと思ったけど、刃物で手を切るぐらいは慣れてもいたので「ちょっと保健室行ってくる」って保健室に行ったんだけど、出血量が酔ってて血の巡りが良いのも手伝ってかドバドバで、手傷を負った抜け忍みたいに血が廊下に落ちて追っ手をまくことができず、保健室に怖いもの見たさでやってきた見物客がワラワラと湧いて保健の先生に怒られました。青春の想い出だね。酔っ払ったら刃物を触らないというのは刃物のプロである美容師さん界隈とかでは鉄則のようである。皆様お気を付けて。まあ酔ったら自分の手先から器用さが失われるってのを学べたのは良き教訓で、ワシャ飲んべえだった若い頃も、釣りに行く前の晩とかから酒断ちしてた。

 というぐらいで、刃物って日常生活やらに欠かせない代物だけど、痴情のもつれで刃傷沙汰っていうぐらいに、人を傷つける道具ともなり得る。それは人類が黒曜石から削り出した打製石器を使い始めた昔から、刃物が持つ二面性であり本質でもあると思う。今の危ないから何でも規制っていうなかで、刃物を遠ざけてしまうのは、この人類の生み出した偉大な文明の利器の有用性をも遠ざけてしまうことになりそうで、ワシャちょっと心配なのじゃ。刃物の手前に手を持ってきてはいけないということを学ぶのに一番確実なのは、刃物の手前に手を持ってきて、結果手を切って痛みで学ぶことだと思う。痛みも危険もなにもなしにナニかを得ることなどできないと、そう思うのじゃ。