2023年10月21日土曜日

悶絶と殺気と試行と思考

 ブッコミ泳がせの釣りモノとして、そこそこ近所漁港に数が居るらしい「ハモ」を狙ってるところなんだけど、コイツが狙ってみるとなかなかにくせ者で、小アジの活き餌でもブツ切りでも、囓ってドラグ鳴るぐらい引っ張っていくんだけど、それでもちゃんと食い込んではいないようで、アワせると歯形でザクザクになったアジが帰ってきて「イーッ」となってしまい、アタイ悔しいの。

 悔しいから色々考えて、一つにはその場で飲み込まずに居られないように、餌を引っ張って持ち逃げできないように、重いオモリで海底に固定するなりドラグ締めて竿を真っ直ぐに仕掛けに向けてしまうなりして「なんやお持ち帰りできひんのか?ならここで食ってくか!」とハモに思っていただく、っていうのは、底延縄なんかを使って漁師さんが漁獲するときにも、重いオモリで幹縄を固定してそこから枝縄伸ばしてるんだろうから、王道のような気もする。気もするけど食い込みが悪い渋い状況でオモリの抵抗を大きくすることに関しては、ワシの心理的にも抵抗が大きい。竿柔らかくハリス伸ばして抵抗をゆるめたらアカエイキビレが釣れた実績もあるので  なおさらである。

 もう一つ考えたのが、たまたまイカが邪魔しやがるので成敗してやろうと繰り出した、活アジの後ろにイカバリを引っ張らせるイカ仕掛けを使ってたら、ハモが掛かったというのがあって、タモ入れ失敗でイカバリ折られて逃げられたけど、その方向性がまずはあるのかなと。ただ、掛かりが悪いからハリ数増やして顔でも体でもどこでも掛けられるところに掛けてしまう、というのは魚釣りの正道からは明らかに外れていて、口の中に掛けるのが基本というのがヘラ釣りとかもやってた人間からすると思うところで、そんな邪道な方法に頼っていると自分の釣りが荒れる気がしてやや忸怩たるモノがある。石橋宗吉氏というスパンカーを考案したりして日本の漁業に大いに貢献した漁師さんが書いた「一本釣り渡世」を読むと、ハリ掛かり悪いカジキにどうハリを掛けるかの工夫の試行錯誤が記されていて、その時にやはりハリを沢山散らして顔に掛けてしまうという方法についても思いついたけど、矜持がゆるさんからとかでやめたと書かれていて、ワシのような釣れても釣れなくてもぶっちゃけ困らん釣り人と違う、釣れなきゃオマンマの食いあげである本職の漁師さんでも、自分の中に釣りの美学的なものがあり、それを外れてしまうと何でもありで釣りが荒れてしまうというのが、やはり感覚的に分かっていて避けていたのかなと思う。とはいえ忸怩たる思いがあろうとも、とりあえずは1匹釣らないと話にならないので、もともと”邪道上等”な釣り人であるワシ、まずその方向性で試行錯誤してみたい。そこから再度また不要な部分を切り落としていく作業をしたり、他の方法も試したりして、意外といつも単純なことが多い”正解”へとにじり寄っていきたいと考えている。美学だなんだと格好つけていられるほど上手い釣り人じゃないからね。

 というわけで、寄ってきたのを掛けるのなら、参考になるのはアユ釣りだろうなということで、冒頭写真の様にザイロンハリスに孫バリ付ける方向でトリプルフックをぶら下げたのと、”散らしバリ”を後ろに並べたのを用意して、前夜散々ドラグ鳴るまで引っ張ってくのに掛からなかったリベンジマッチに、今宵こそ目にモノ見せてやると鼻息も荒く、釣れる気満々準備万端おさおさ怠りなく出撃したところ、約6時間アタリもカスリもせずという丸ボウズをくらってしまった。

 1日違ったら状況全く違うなんてのは釣りでは良くあることではあるけど、なんなのこの仕打ち。まあ準備万端気合い充分で行くと空回りっていうことは良くある。っていうかそういう殺気だった状態で釣りに行くと、水中に殺気が伝わって魚が逃げるとさえ感じるところである。携帯電話の着信時になぜか異様に魚が食ってくるとか、長いこと釣りしてる人なら憶えがあるだろうし、まだそれほど経験がないワシのブッコミ泳がせに限ってさえ、アカエイ諦めて柔らかい竿に細くて長いハリスにしたらアカエイ食って来たし、じゃあアカエイ掛かっても良いようにとギャフを釣り座に用意するようになったら食ってこない。ハモ諦めてとりあえず邪魔なイカをやっつけようとしたらハモが掛かってきた。どないせぇっちゅうねん?

 ルアーの釣りでさっきも書いた携帯着信時に食ってくるっていうのは、その瞬間巻くスピードが変わったり、実際に電話に出て巻くのを止めたりしたのが食う”間”を作っているのかもという気もする。でも投げっぱなしのブッコミですら明らかに油断してると食う気がしてならない。殺気の正体がなんなのか、音なのか視覚的情報なのか匂いなのか、それら一般の五感意外の電気的なもの、あるいは磁場の変化等とかなのか、それらの複合要素なのか、正体はわからんけど、人間には感じられないようななんらかの”気”を人間以外の生き物は感じているとしか思えない。熊打ちの猟師さんの著書で、若いときには殺気が溢れ出ていて犬にも怖がられたというようなことが書かれていて、歳食ってやっと殺気が薄れたとも書かれていたけど、ワシも若い頃、元同居人の母方の実家の犬にションベンちびるほど怖がられていて、犬ってそれほど視力良くないそうで、ワシの方が早く見える距離に入るハズなんだけど、車の中から犬小屋が見えるぐらいの距離に近づくと、すでにシッポを股に挟んで犬小屋の中に入っていくのが見える。ワシの車じゃないし運転さえしていない。匂いが伝わるにはまだ時間も距離も遠すぎるだろうし、音はワシの運転してない車のエンジン音でワシと分かる要素が考えられない。もちろん犬をイジめたりはしていない。当時のワシは、もしワシの中に狂気があるのなら、それも利用して釣ってしまいたいとか考えてる頭の悪さで、雪崩が起こりやすい解禁直後、ダム上流の流れ込みにスノーシューズ履いて単独特攻したり、雨降って放水中のダム直下で落下の衝撃で死にかけてるワカサギに狂ってるイワナを狙ったりと、削った安全の重さで魚の目方を稼ぐような殺気と狂気に満ちた釣行を繰り返していた。犬もションベンちびってびびろうというものである。

 というあからさまにキチガイだった若い頃ほどではなくても、今も殺気には不自由してないので釣る気満々で新しいハモ仕掛けも準備して出かけるに際して、”殺気対策”も考えて出撃した。まあ、あれだブッコミの場合、竿先をジッと見てアジが竿先ビクビク動かすの見てても楽しめるんだけど、そうするとアジが暴れて竿先がガクガクしたり、囓られてちょっと絞られたりすると、ヨッシャ来たとばかりに竿手にとって、結果的に我慢しきれず早合わせになりがちである。なので、ドラグがジーッと鳴るまで放置しておいた方が得策であり、よそ見して油断してた方が良いのである。たぶん。

 竿先見ずに後片付けし始めるとアタるのも良くある事例。なので、竿先見ずに暇がつぶせるようにkindleFireタブレットに小説ぶち込んで持ち込んでいた。

 またこの時読んでた小説が”意味のある偶然の一致”としか言いようのないもので、ハードSFな作風の上田早夕里先生の「妖怪探偵・百目」だったんだけど、この小説、「天才バカボン」方式で、主人公というか狂言回しはタイトルどおりではなくて、探偵である妖怪”百目”じゃなくて、助手の人間であると同時に、主人降格の登場人物があと二人居てそのうちの一人が全ての妖怪を一度祓って土に返そうとしている”拝み屋”播磨なんだけど、物語のラスボスである、人の恨みつらみや憎悪、絶望といった負の感情が好物で、強大に育つと全てを飲み込んでしまう災厄級の妖怪”濁(ダク)”と、その播磨が因縁浅からぬ関係で、八重山の離島で台風の避難所で発生した疫病に乗じて、両親を友人を、初恋の人?を、心通わせた愛嬌ある妖怪をまだ成長初期段階の濁に殺されていて、恨み骨髄なんだけど、濁自体がそういう負の感情を食べて育つ妖怪なので恨めば恨むほど仇討ちどころではなくなる。そう気がついて絶望して死のうと彷徨った森の中で古木の神に、濁に食われるような心の動きを封じてもらう。それは何かを憎んだりすることもなくなる代償に人を愛することもできなくなる縛りなんだけど、播磨はそれを喜んで受け入れる。読んでてそういう冷静さは是非とも欲しいと思ったけど、そうすると釣りに行く際の欲望、砂漠で遭難した人間の乾きに近いような濃い感情が消えてしまい、結局釣りが楽しめなくなるのではないかという矛盾に思い至り、いつも思うことだけど釣り場で冷静にありたいとは思うけど、冷静で居られなくなるぐらいに狂おしく求めるからこそ面白いんであって、冷めてしまっては楽しめないから、結局ワシは紀伊半島の山を彷徨って古木の神を探すことはしないでおくのである。

 っていうぐらいで、気がはやって早合わせに走ってしまうとかの、理屈のあるていどつけられる”殺気”は防ぐ方法を講じたつもりではあった。しかしながら結果としてはまるっきりアタリ無しという、人間には感知不能の殺気にビビって魚が消えたぐらいに思わすにいられないほどの惨敗で、新しい仕掛けの真価はまったく評価することはできなかった。それでも釣れないながらも両方試したところ、散らしバリは絡む、孫バリに3本バリは3本バリを尾鰭近くに刺したら泳ぎ邪魔されるのがいかんのか、すぐ死んで”泳がせ”的にはイマイチ。孫バリの方をブラブラさせてるとそうでもなかった。とかの基本的なことは理解できて、アジが活きの良い状態でアタリ待つときのハリの掛け方とアタって魚居るの分かってからの”ハモ掛けモード”で使い分けるのが現実的かなとか。絡むのにはザイロンにウレタン接着剤塗って張りを持たせたら改善するかなとか、いくつか整理・検証すべき着眼点は拾えて、それだけでもまあ良しとしたい。

 とまあ、こうやって新しい釣りモノに挑戦して、ちょっとずつ知識と経験を蓄えながら、釣り場で試行錯誤して苦労して獲物に迫っていくのは、それこそ”釣りの王道”だと思っているので、独自路線で邪道で天邪鬼なワシではあるけど、引き続き地道にボチボチと精進していきたい。

 殺気も適度に枯れて”釣るも自在釣らぬも自在”っていう境地に至れば、釣りに苦労なんてしないのかもしれんけど、なんちゅうか殺気放つようなギラギラした心をなくしたらダメなような気が直感的にするのである。”気”も日常生活に支障が出ない程度にほどほどに狂ってた方が良さげ。みんなでニコニコ楽しく釣っても良いンだけど、たまには目を血走らせて怖い顔で釣っておきたい、ってのも正直な気持ちなのよね。

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