2022年3月13日日曜日

これがワシの”フルライフ”?

  ”フルライフ”という言葉を知ったのは、カヌーイストの野田知佑先生の著書でだったと記憶している。

 日本でサラリーマンをしていると、組織のために仕事をして、自分の担当しているその仕事は全体にたいしてどういう意義があるのか、分業が進みすぎて見えづらく実感がなく、家事は外食などで他人任せの割合が大きく、自分が何かを成し遂げているというような感覚が希薄である、対してアラスカの原野を切り開いて暮らすような人々は、家も自ら建てるし、食料も釣りや猟で得るか、その獲物で現金収入を得て買う。衣類すら狩で得た獣から作る場合もある。最寄りに公的機関などなく、問題が生じれば全て自分たちで解決せねばならず、過酷な自然を相手に自ずと人は”全力で生きる”ことを余儀なくされる。それはとても大変で技量や経験、判断力や責任を問われる生き方だけど、まさに己が力を振り絞って己が実力で自分のために生きているという強烈な満足感の伴う生き方でもあるように思う。というような趣旨のことを書かれていたように解釈している。でもって、野田先生はつかの間の”フルライフ”を感じるために、カヤックに荷物と愛犬を積んでユーコン川とかを下ったのである。

 まあ、ワシみたいな野外で遊ぶの好きな人間で、都会の生活で社会の歯車的な役割を果たすのが、それも大事で意義のあることだと知ってても、嫌いで苦手で実際上手にできなかったような輩は、そういう野田先生の書く”フルライフ”に憧れたものである。

 一方、最近のワシの状況は、実はフルライフなのではないかという気がしばらく前からしている。温暖な紀伊半島に引っ込んで、釣り三昧のお気楽な日々のどこが”フルライフ”か?とお叱りを受けるかもしれない。でも、今のワシの生活を俯瞰してみると、とにかく魚を釣るのが揺るぎなく基盤としてある。魚を釣ると、毎日のように学びがあり改善点や新たな挑戦すべき目標が見えてくる。そうなると釣り場から帰ってからは、魚を捌いてすぐ食う分、保存食にする分、お使いに出す分とそれぞれ調理して、腹一杯食う。愛猫にも食べていただく。そして、次の釣りの準備として仕掛け作ったり、リールを整備したり(次の釣りに関係ない場合も多いが)、毛鉤巻いたり、ハリ研いだり、細々とした小物をあつらえたり、やることはいっぱいある。仕事辞めて釣りの日々に突入したら時間などいくらでもあるだろうと思ったけど、けっこういっぱいいっぱいに時間が過ぎていく。忙しくしていたサラリーマン時代より本が読めていない。本読むしか仕方がない電車痛勤も無縁だからな。そういう生活基盤である魚釣りをやりながら、洗濯や掃除も健康で文化的な最低限の生活を送るために、コンビニバイトのようなチェックシートつくってきちんと自分でこなさなければならない。加えて当然猫様にお仕えするお務めは怠ることはできない。

 さらにいうなら、若いときのように寝る間も惜しんで没頭できる体力がないので、同じ1日でも使える時間が少なくなっていて、今の体力落ちて、膝やら腰やら痛くて、頭もいい加減耄碌した自分だと、魚釣って調理して、準備して、家事をこなして猫様に尽くしてっていうのだけで、体力いっぱいいっぱいで、自分の限界近くで自分と愛猫のために、目に見える形で、やらないかんこと、やるべき事をやっつけていて”これが今の精一杯”ってかんじであり、これはこれで全力でワシの人生を生きている感がちゃんとあるんである。自分の限界値が歳食って下がってきて、フルライフのハードルも下がってきたってことか。今の生活は充実していると言っても良いかと。

 ストレスの多い都会で働いてたときは、よく悪夢を見て眠りの質が悪かった。試験勉強が間に合わなくて単位が取れないという具体的でなにをか暗示しているような夢から、内容一切憶えてないのに、起きてその日ズッと嫌な気持ちを引きずるような後味の悪い夢もよく見ていた。最近夢は見てるんだろうけど憶えていない。朝方愛猫にたたき起こされるにしてもそれも含め快眠である。飯ももちろん旨い。

 冒頭写真はある日の昼飯なんだけど、カマスが釣れる時期にはカマスの干物をとにかく作って保存アンド”お使い”にまわして、釣った日には焼き霜造りとか生食もするけど、ドカッと酢締めにしておくと3,4日は余裕で日持ちするうえに生食に近い干物とはまた違った旨さで、食う前にサクサク切るだけで豪華なオカズになる。干物を”お使い”に出すと代わりにこれまた季節のモノが返ってきたりして、味噌汁には今年の初物のアオサ(ヒトエグサ)が入ってて春らしい磯の風味を楽しめた。デザートにはデコポンでこの時期の紀伊半島ではハッサクと2トップを張る柑橘で、ハッサクが酸味の効いたお汁タップリなバランスの良い味わいなのに対し、デコポンは袋が柔らかめで袋ごとバリバリとちょっと数の子みたいな食感も楽しみつつ味わうと、口いっぱいに甘みと香りが広がる甘み強めの品種。甲乙付けがたいけど甘いの好きなのでデコポンガやや好みか。写真は左デコポン、右ハッサク。

 ってな感じで、魚は自分で釣ってきて、野菜や果物は直売所で地元産のを買って、素人料理ながら工夫して美味しく食べるってのも、食べ物がどこから来てるのか目に見えていて、かつ季節にそってそれらが、旬の物だったりハシリのものだったり、旬を過ぎて値段の下がったのにもまた上手に食べる方法があったり、そういう何を今食うべきかっていうのを自分で選び取るのもフルライフっぽくて楽しめている。ここには自分勝手に料理をお薦めしてくる気まぐれなシェフはいない。

 人は何のために生きるのか、生物学的には遺伝子を次世代に繋ぐためという考え方もあり、人間は遺伝子の乗り物でしかないという極論でそのあたりを解説した学者さんもいた。ワシはまあ子供いないので遺伝子は甥っ子たちが確率1/8ずつワシの遺伝子引き継いでくれているだろうし、親戚縁者、ワシの持ってる遺伝子どっかに持ってる人がいて、上手く引き継いでくれてることも期待できるので良しとしておこう(わりと”ハミルトン則”知らない無知蒙昧な輩は多い)。社会文化的には、習慣や文化といった、生物学の世界では遺伝情報であるジーンに対する概念として”ミーム”と呼ばれるものを引き継いでいくという役目も持っている。まあ、これは次代にマニアックなリールネタとかの情報を引き渡すのがワシの役目と思うことにしよう(本当は釣りの楽しさ、楽しみ方を引き継ぎたいと願っている)。

 で、国とか社会組織とかとの関係では、労働・納税の義務を果たし社会の一員として責任ある行動をとらねばならんとか、空気読んで皆と共に生きるとかあるんだろう。あるんだろうけど、もうワシ働くのしんどいし、若いときそれなりに働いたから勘弁して欲しい。空気読んでって言うのは、ワシの役目は逆に天邪鬼なことを言ってみんなが同じことを言ってるような危ない状況をなくそうと努めるってのだと思うので、空気は読みつつ”読んでない言動”をあえてとるのが役目かなと思っている。

 というような感じで、たまさか遺伝情報を持って自己増殖を始めて脈々とつながってきた命である生き物として、長いホモサピの文化歴史の担い手として、また人間社会を構成する要員として、我々は好むと好まざるをえず生きているし生きていくべきなんだろう。

 ただそういったなかでも、そういった大きな流れや組織のなかでも、たまたま今産まれてきて生きていて、なんかしらんけど日々生活している我々1個人としては、そんな役割だの関係無しに、個人として力一杯生きて、生きることを目一杯楽しまなければ損だと感じている。日常的に恒常的に押しつられている価値観やら義務やらはあるけど、我々がここに”精神”とか”心”をもって生きている限り、社会やら文化やら、もっといえば生命がそれらの都合の良いように押しつけてくるものを、鵜呑みにして楽に家畜のように生きるのよりは、テメエで考えて、なんなら従うという判断も含め判断して、力一杯”生”を楽しむほうが健全だと思っている。我々個々人の魂的なモノは縛られることを強要されてはいないはずだ。

 わけのわからん大がかりな”グローバルスタンダード”な世界経済にイヤでも巻き込まれてはいるけど、それでもできる限りのレジスタンス活動をしていくのもワシのフルライフの一要素なのかなとおもっちょります。

 おっきな組織の一員として働いてたりすると、その中の歯車として自分一人ではなしえないような働きの一端を担ってたりして、そのことに充実感を感じたりもしたけれど、両隣の歯車の回転に否応なしに回されていると、歯車の歯は噛み合ってちゃんと回っているように見えても、ワシそんなに優秀な歯車じゃなかったから軸の方が持たなくて削れていってたのかなというような印象を振り返ると抱くところである。今はあちこちガタついて軸と言わず歯車と言わずあちこち削れてきたけど、それでも自分の速度で懸命に回れているように感じていて、わりと好ましく思ってます。

0 件のコメント:

コメントを投稿