2017年1月7日土曜日

空をいく鳥の自由


 寝たきりの期間に衰えた足腰あたりからそろそろリハビリだなということで、近所の川辺や電車でちょっと行った公園で、小型の双眼鏡片手に鳥を眺めて散歩している。

 ピチュピチュと鳴き交わし木々の間を飛び回る小鳥たちを眺めるのは心安まるひとときである。

 よく空を行く鳥を眺めていると「鳥のように自由になれたらな」という思いが胸に去来したりするが、鳥をしばらく眺めていると、ああ見えて鳥もそんなに自由じゃなさそうだなと思い知る。

 木立の上で高くさえずっているのは自分の縄張りを主張しているんだろうから、弱い個体はそこに容易には入っていけなかったりもするんだろうし、縄張り争いなんてのもあるだろう。
 群れで動いている鳥たちなら、自分勝手に行き先を決めることもできないだろう。
 もっと言うなら、本能とかがささやく「北へ」とかにも逆らえなかったりするんだろうし、自由にノンビリ生きてたらヘビに食われたり、寒いこの時期なら餌が足りなくなってしまったりの不都合があって必死で生きて行かざるを得ない毎日なんだと思う。鳥には鳥の苦労があるのだろう。

 鳥と自由という話で、もういっちょ思い出した寓話があるので、書き留めておく。
 誰よりも早く飛びたいと願う鳥がいて、限界まで努力してみてもどうしても空気抵抗とかもあって、一定以上より早く飛べない。そこでその鳥は神様にお願いして空気を無くしてもらった。
 当然のことながら空気抵抗のない真空中で羽ばたいても揚力は発生せず飛べなかった(というかたぶん窒息死するよね)とさ。

 自由って結局そういう、羽で押さえつける空気のような、本来自由を阻害してくるモノがあってこそ、それを踏み台にしてはじめて認識できるモノかも知れないな、などと思う。

 ケン一が、海外遠征にいくときに、出国手続きを抜けたとき、日常のあれこれから解放された実感が襲ってきて心の中で映画ブレイブハートのメルギブソンのように「フリーダム!!」と叫んでしまうと言っていたが、よく分かる心境だ。めんどくさい日常があるからこその、そこからの「自由」である。

 そういった日常的に自由を阻害するモノとして、日々の糧を得るための仕事、生活を送るための雑事、人と交わるためのつきあいの類、などに加えいま私には行動を制限する病状なんてのも加わっている。
 でも、病状はさておき、仕事や生活、つきあいを放棄して、さすらいの旅人にでもなった場合、自由度は増えるのかも知れないが、それでもそのさすらいが日常になれば、また新たな自由の阻害要因が出てきそうにも思う。金が無いとか、食料を得るのに時間がかかるとか。
 やはりたまの遠征で羽を伸ばすのぐらいが適度な「自由」なのかもしれない。

 それでも、仕事も捨て、モノも必要最小限以外捨て、世俗を離れてさすらってしまうというのは、私の中で依然として魅力的な誘惑である。

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